越後の龍は女性だったという説
上杉謙信は、戦国時代を代表する大名の一人である。越後の春日山城を拠点とし、武田信玄と川中島で争い、関東や北陸へ軍を進めた。出家して毘沙門天を信仰し、生涯正室を持たず、実子も確認されていない。
その謙信は、実は女性だったのではないかという説がある。
根拠として挙げられるのは、生涯結婚しなかったこと、毎月決まったころに腹痛があったという話、女性を思わせる服装や肖像、スペイン人の報告書に「叔母」と読める語があるという説、死因が婦人病だったという噂などである。
どれも単独では決定打にならない。しかも、出典をたどると後世の創作や誤訳が混ざっている。女性説を面白い仮説として検討するには、謙信が残した約1400点の文書、同時代の呼称、相続、軍事指揮、後世の物語を分けて見なければならない。
誰が女性説を広めたのか
上杉謙信女性説は、戦国時代から一貫して伝わった秘密の系譜ではない。広く知られる形になったのは、20世紀後半の出版物や歴史読み物、創作の影響が大きい。
1970年代には『上杉謙信は女だった』という題名の書籍も刊行され、国立国会図書館に所蔵されている。そこでは、従来の男性武将像へ疑問を投げ、複数の逸話を女性説の証拠として組み直した。
後の小説、漫画、ゲーム、テレビ番組はこの説を繰り返し取り上げた。謙信を女性として描く作品もあれば、正体を隠して男性大名を演じたという設定もある。創作では、女性だったため結婚できなかった、月経を隠すため軍を退いた、家臣団が秘密を守ったという筋が一つの物語になる。
問題は、作品の設定が史料に書かれた事実として再紹介されることだ。「古文書に女性と明記されている」「死因は子宮の病気と判明した」といった断定が、出典を示さないまま広がる。
女性説の歴史を調べるなら、謙信の生涯だけでなく、いつからその説が出版物に現れ、どの作品がどの根拠を広めたかも追う必要がある。
同時代文書ではどう呼ばれているか
上越市が刊行した『上越市史別編1 上杉氏文書集一』には、長尾景虎、後の上杉謙信が登場する1544年から、1578年の死までの文書約1400点が収録されている。
謙信本人の書状、家臣や他大名とのやり取り、領国支配に関する文書が大量に残る。そこでは、謙信は戦国大名、長尾家・上杉家の当主として扱われ、同時代の社会が男性として認識していたことを示す表現が積み重なる。
もちろん、秘密を守るため全員が男性として記録したという仮定はできる。しかし、越後の家臣だけでなく、武田、北条、織田、幕府、寺社、関東諸将など、多くの相手が何十年も同じ認識を共有することになる。
秘密を知る人物が一人も書き残さず、敵対者も暴露せず、相続争いでも利用されなかったとすれば、非常に大規模で長期間の沈黙を想定しなければならない。
文書に「男性である」と毎回書かれていないことを、性別不明の証拠にすることはできない。当時の呼称、官途、家督、養子関係がどのように扱われたかを総合して判断する。
生涯独身だったことは証拠になるか
謙信が正室を迎えず、実子を残さなかったことは、女性説で最も分かりやすい根拠とされる。
戦国大名の婚姻は同盟と家の継承に関わるため、当主が生涯独身なのは確かに目立つ。男性だったならなぜ結婚しなかったのか、という疑問は残る。
しかし、結婚しなかった男性が女性になるわけではない。謙信は若いころ寺で修行し、出家後も強い宗教意識を持った。毘沙門天への信仰や、自らを義のために戦う存在として示す姿勢が、婚姻を避ける選択に影響した可能性がある。
性的指向、身体的な事情、政治判断など、史料に残らない理由も考えられる。どの説明も確定できないが、複数の可能性がある以上、独身だけで生物学的性別を決められない。
また、女性が男性として家督を継ぐ場合でも、後継者問題は解決しない。謙信は姉の子である上杉景勝、北条氏から迎えた上杉景虎などを養子にした。実子がいないため養子を選んだ事実は、男性当主の家でも珍しくない。
独身という空白は、女性説を想像する入口にはなる。だが、入口と証明は別である。
毎月の腹痛は月経だったのか
女性説では、謙信が毎月10日前後に腹痛を起こし、軍事行動を中断したという話が挙げられる。周期的な体調不良を月経と解釈するものだ。
まず確かめるべきなのは、腹痛の日付が連続した同時代記録に残っているかである。一つの軍記や後世の伝記が「虫気」や腹痛を記していても、毎月同じ周期だったとまでは言えない。
戦国期の出陣日程は、天候、兵糧、河川、農繁期、敵軍の動き、家臣の集合に左右される。ある月の10日前後に軍を退いた例を複数選んでも、その他の月の行動を含めなければ周期性は確認できない。
腹痛は性別を問わず起こる。胃腸疾患、感染症、酒、食事、胆石、尿路の病気など原因は多い。月経痛に似た周期があるというだけで、子宮の存在を証明できない。
もし本当に月ごとの体調記録があるなら、すべての日付を一覧にし、当時の暦を現在の暦へ直す方法もそろえ、軍事日程と比較する必要がある。印象的な数例だけを抜き出すと、後から望む周期を見つけてしまう。
赤い衣装と肖像の読み方
謙信は赤や鮮やかな衣装を好み、女性的な装いだったという話もある。肖像画の顔立ちが柔らかい、髭が薄い、頭巾で髪を隠していることも女性説へ結びつけられる。
戦国武将の装束を、現代の男女の服装感覚だけで判断することはできない。赤は武具や陣羽織で使われ、男性武将が鮮やかな色を身につけることもある。宗教者としての頭巾や法衣にも意味がある。
肖像画は写真ではない。本人の死後に制作されたもの、模写を重ねたもの、理想化された像がある。顔立ちは絵師の様式や依頼者の意図に左右される。髭を描かなかったから生物学的に女性だったとは言えない。
逆に、男性的な甲冑姿の肖像があるから女性説を完全に否定できるというものでもない。重要なのは、その肖像がいつ、誰のために作られ、どの像を写したかである。
美術資料は当時や後世が謙信をどう表現したかを示す。身体の性別を直接鑑定する資料としては限界がある。
スペイン語文書の「叔母」説
ネットで特に強い証拠として扱われるのが、16世紀のスペイン人や宣教師が残した報告に、謙信を「叔母」とする語があるという説である。
よく語られる筋では、海外の報告者が日本の権力者を記録する際、謙信を男性の叔父ではなく女性の叔母に当たる言葉で記したとされる。外国人だけが正体を知っていた、という魅力的な設定だ。
しかし、文書名、原文の語、所在、前後の文章を示さず、「スペインの報告書に書いてある」とだけ紹介する記事が多い。翻訳で「tía」とされたのか、地名や称号を誤読したのか、別人との親族関係を指したのかを確認できない。
海外文書は、日本人名の表記揺れが大きい。聞き取った名前をローマ字にし、さらに写本を作る過程で誤りも起こる。代名詞や敬称の文法上の性が、本人の身体的性別をそのまま示さない言語もある。
決定的証拠とするには、所蔵機関、文書番号、原文画像、正確な転写、専門家の翻訳が必要である。現時点で一般に流布する「叔母と書かれた」という要約だけでは検証できない。
出典へ戻れない情報は、存在が確認された史料ではなく、出典未確認の説として扱う。
死因は婦人病だったのか
謙信は1578年3月、春日山城で急死した。一般には、倒れた後に意識が戻らず亡くなったとされ、脳血管障害などが推測されることが多い。酒を好んだという逸話も、健康状態の説明へ使われる。
女性説では、死因は脳卒中ではなく、子宮に関わる病気や大量出血だったとされる。「大虫」という病名が婦人病を意味したという説明も見かける。
近世以前の病名を現代の診断名へ一対一で置き換えるのは危険である。同じ言葉が腹痛、寄生虫、神経症状など広い状態を指すことがあり、後世の記録が使う語も一定しない。
死の直前の症状、出血、発熱、麻痺、意識状態を詳しく記す同時代の診療記録がなければ、脳卒中も婦人病も確定診断にはならない。脳卒中という通説も、現代医学からの推定である。
「通説の死因が確定していない」ことは、「女性特有の病気だった」証拠ではない。不明な部分へ別の診断名を置くだけでは検証にならない。
遺骨の科学調査が行われれば性別の推定に近づく可能性はあるが、墓所の伝来、遺骨の同定、宗教的・倫理的な問題がある。歴史上の好奇心だけで発掘できるものではない。
戦国時代に女性が城主になること
女性が戦国期に政治や城の防衛を担うこと自体は、あり得ない話ではない。夫や父の死後に領地を守り、家臣団をまとめた女性の記録もある。
だから、「女性に軍事指揮は不可能なので謙信は男性」という反論だけでは弱い。女性が権力を持ちうることと、謙信が女性だったことは別々に考えるべきだ。
もし謙信が女性として生まれ、男性当主として育てられたなら、家督相続、元服、官途、寺での修行、婚姻交渉、敵方の諜報を通じて秘密を維持する必要がある。越後国内だけでなく、関東管領職を譲った上杉憲政、将軍足利義輝、北条氏、武田氏との接触もある。
女性が大名になれないという先入観で否定するのではなく、この具体的な秘密保持が史料上可能かを問う。現状では、それを示す同時代の告白、身体に関する記録、秘密を共有した家臣の文書は確認されていない。
女性武将の存在を示す一般論は、謙信女性説の証拠にはならない。可能性の扉を開けるだけである。
御館の乱で秘密が使われなかった不自然
謙信は実子を残さず、死後、養子の上杉景勝と上杉景虎が家督を争った。これが御館の乱である。
家督争いでは、血統、養子縁組、遺言、当主としての正統性が重要になる。もし謙信の性別が家中の大きな秘密であり、それを知る重臣がいたなら、相手の正統性を崩す材料に使われる可能性がある。
ところが、御館の乱に関する文書で、謙信が女性だったことを理由にする主張は確認されていない。景勝側も景虎側も、そんな暴露を政治的武器にしていない。
女性説を守るため、両陣営が秘密を共有し、敵対しながら沈黙したと仮定することはできる。だが、仮定を増やすほど証明責任も重くなる。
謙信の急死と明確な遺言の不足が、後継者争いを激化させたと考えられている。性別の秘密を加えなくても、養子二人の権力基盤と家臣団の分裂で経過を説明できる。
女性説を事実と伝承に分ける
確認できる事実として、謙信は正室を持たず、実子が確認されず、養子を後継候補にした。宗教に深く関わり、後世の肖像には独特の装いがある。死因の現代医学的診断は確定していない。
一方、毎月の月経、スペイン文書の「叔母」、婦人病による死亡、家臣団全体の秘密保持は、確かな一次史料で裏づけられていない。
この区別をすると、女性説の面白さが消えるわけではない。むしろ、なぜ独身だったのか、後継者をどう考えたのか、宗教者と大名の顔をどう使い分けたのかという、本来の歴史的な問いが見えてくる。
創作の中で女性の謙信を描くことも、歴史の可能性を想像する表現として成立する。ただし、作品の設定を「隠された史実」として紹介するなら、出典の確認が必要になる。
上越市に残る約1400点の上杉氏文書は、謙信が同時代の政治と軍事の中でどう行動したかをたどる基盤である。女性説を検討する場合も、派手な一文だけでなく、この大量の記録全体との整合を見なければならない。
現在の史料からは、上杉謙信が女性だったと認める根拠はない。残るのは、史料の空白を使い、固定された戦国武将像を反転させた近現代の異説である。
その説が長く人気を保つのは、謙信という人物が独身、信仰、義、急死という多くの謎を残し、見る時代ごとに別の姿を映してきたからだろう。
現地の史跡や展示を見るときも、女性説の答えだけを探すより、春日山城の構造、直江津の交易、寺社勢力、家臣への書状に目を向けたい。謙信は一人で越後を動かした孤高の英雄ではなく、港の収入、国衆との交渉、寺社との関係を使って領国を支配した大名だった。
性別の謎へ関心を持つことを入口にしてもよい。そこから同時代文書へ進み、確認できる人物像と後世に作られた像を見比べれば、単なる肯定か否定より豊かな読み方になる。
