孫市は「雑賀衆の王」ではない
戦国時代の紀伊に、鉄砲を自在に操る軍団がいた。その頭領は雑賀孫市。織田信長の大軍を撃退し、金で雇われれば全国どこへでも向かう傭兵王――創作では、このような姿がよく描かれる。
史料に現れる雑賀衆は、もっと複雑な集団だった。現在の和歌山市と海南市の一部に広がる複数地域の地侍、農民、漁民、商人らが、地縁と利害に応じて結んだ連合である。常設の一軍ではなく、全員が浄土真宗門徒でもなく、一人の命令で動く組織でもない。
「孫市」も、英雄一人の固有名として扱うと分からなくなる。戦国期の文書には鈴木孫一、雑賀孫一、平井孫一などの呼び方が見え、和歌山市は有力指導者を「鈴木孫一重秀」と伝える。一方、鈴木氏の後代には孫一・孫市に似た通称を用いた人物がおり、重朝らの事績が混ざることもある。
確かにいた有力者と、後代の同族、地域全体の戦歴、講談や小説の主人公が重なって「雑賀孫市」ができた。正体を探るには、最初に孫市を孤高の王から降ろし、雑賀という社会の中へ戻さなければならない。
雑賀は一つの村ではなかった
広い意味での雑賀は、雑賀荘、十ヶ郷、中郷、宮郷、南郷の五つの地域から構成されたとされる。「五組」「五搦」とも表現され、その範囲は紀ノ川河口から和歌山平野、海南方面へ及んだ。
海や河口に近い雑賀荘と十ヶ郷では、漁業、海運、交易、製塩などに関わる人が多かった。内陸の中郷、宮郷、南郷では農業生産が中心となる。信仰も一様ではなく、浄土真宗の門徒が強い地域がある一方、別の寺社勢力とのつながりを持つ地域もあった。
戦国大名が上から家臣団を編成した領国とは違い、村や地侍の代表が起請文を交わし、用水、境界、紛争、軍事行動について合議した。和歌山市立博物館の解説は、古文書に「惣国」と記された地侍の一揆集団が、地域内の紛争仲裁や農業用水の管理主体になったと説明する。
「共和国」と呼ばれることもあるが、近代の議会制民主国家と同じではない。身分や財力の差があり、女性やすべての住民が平等に政治参加したわけでもない。それでも、強い大名の城下でない地域が、複数の共同体の合議で軍事と自治を担った点は重要である。
鉄砲だけで暮らす傭兵ではなかった
雑賀衆は鉄砲集団として有名だ。紀伊では鉄砲伝来後の早い時期に火器が広まり、近隣の根来寺にも津田監物算長を祖とする砲術伝承がある。海上交易の経路、鍛冶、火薬原料を得る商業力が、鉄砲運用を支えたと考えられる。
だが、鉄砲を持つことと、専業の傭兵であることは同じではない。平時は田畑を耕し、船を動かし、商売を行う人々が、地域や同盟相手の求めに応じて武装した。大名の常備兵ではないため、他国の合戦へ参陣する姿が傭兵に見えるが、金銭だけでなく、信仰、交易路、防衛、近隣勢力との同盟が動機になった。
和歌山市立博物館は、鉄砲を携えた雑賀の一向衆門徒が、大坂本願寺だけでなく淡路や播磨にも参陣した史料を、傭兵イメージができた背景として挙げる。つまり、創作の全てが根拠なしではない。ただし、一部の遠征を雑賀の住民全体の職業へ広げるのは行き過ぎる。
鉄砲戦にも、射手だけでなく装填、弾薬運搬、火縄の管理、地形を利用した防御が要る。孫市一人の天才的射撃で大軍を止めたのではなく、地域の生産力、海運、集団戦術が組み合わさった。
「孫一」と「孫市」
和歌山市の公式解説は、有力指導者を鈴木孫一とし、本名は鈴木孫一重秀と伝えられる、と慎重に記す。雑賀孫一は地域名を冠した呼び方、平井孫一は居城があったとされる土地による呼び方で、文書には孫市と書かれることもある。
ここで「孫一重秀」が現代の戸籍上の姓名と同じ形だったと考えない方がよい。戦国武将は姓、通称、実名、官途名を使い分ける。「孫一」は通称として繰り返し用いられ得る名であり、「重秀」は実名とされる。
国立国会図書館の典拠データも、鈴木重秀を戦国時代の紀伊国雑賀衆の有力者として登録している。研究や図書館では重秀と孫一を同一人物として整理するのが一般的だが、生没年や家族関係まで確定しているわけではない。
後世の鈴木重朝は、関ヶ原前後に活動し、伏見城攻めなど別の時代の史料に現れる。重秀の子、親族、別系統など諸説があり、孫市の名でまとめて紹介される場合がある。石山合戦を戦った人物の晩年に、重朝の徳川家臣としての経歴をそのまま接続することはできない。
本願寺と雑賀一向衆
1570年、織田信長と大坂の石山本願寺の戦いが本格化した。顕如を中心とする本願寺は、各地の門徒と同盟勢力へ支援を求めた。雑賀の一向衆は、海路と陸路で大坂へ入り、鉄砲隊として戦った。
和歌山市立博物館の展覧会資料には、顕如が雑賀側へ「鉄砲千丁」を携えて大坂へ参陣するよう求めた書状が紹介されている。千丁が実際に一度にそろったか、命令どおりの人数が動いたかは別に検討が必要だが、本願寺が雑賀の火器戦力を大きく期待していたことは分かる。
雑賀衆すべてが同じ信仰と方針で本願寺側についたわけではない。五組の利害は異なり、情勢に応じて信長方へ近づく地域もあった。「雑賀衆イコール一向一揆」とすると、地縁組織である雑賀惣国と、宗教的結合である雑賀一向衆の範囲を混同する。
孫一は本願寺側で活動した雑賀荘・十ヶ郷系の指導者として姿を現す。顕如との関係は、単なる雇用主と傭兵隊長ではない。信仰、地域防衛、政治的同盟が重なった関係だった。
1576年、木津川口で何が起きたか
石山本願寺は大坂湾と河川交通を通じ、毛利氏側から兵糧や物資を受け取っていた。1576年、織田方の水軍がその補給路を封じようとし、木津川口で戦いになった。
毛利方の水軍と本願寺側は織田方の船団を破り、補給を成功させた。和歌山市の解説は、この戦いで孫一率いる雑賀衆が毛利水軍とともに戦ったとする。鉄砲や火矢、海戦の経験が生かされたと考えられる。
後の1578年には、鉄甲船と呼ばれる大型船を整えた織田方が第二次木津川口の戦いで優位に立つ。1576年の勝利だけを取り出して「雑賀鉄砲隊は無敵だった」と語ると、戦術と装備が変われば結果も変わることが抜け落ちる。
本願寺を十年にわたり支えたのは、射撃の腕だけではない。海上輸送を維持し、畿内で長期に活動できる人と物のネットワークがあった。雑賀の海民や商人の存在は、戦場の鉄砲隊と同じほど重要だった。
1577年の雑賀攻め
1577年、信長は大軍を率いて紀伊の雑賀へ侵攻した。兵力を十万とする伝承もあるが、軍記の人数は誇張を含みやすく、確定値として扱えない。織田軍が大規模だったこと、複数方向から雑賀へ進んだことは確かである。
雑賀側は河川、湿地、堤、集落を利用し、鉄砲で抵抗した。正面から一度に決戦するのではなく、接近路を限り、射撃と防御を組み合わせる。攻める側は多数でも、平坦な和歌山平野の水路と土地勘で不利になった。
戦いは雑賀側の完全勝利、信長軍の壊滅という単純な結果ではない。雑賀側の代表者は信長へ誓詞を出し、形式上は降伏した。信長は軍を引いたが、雑賀の主要勢力はその後も本願寺を支えた。織田方は地域を恒久占領できず、雑賀側も信長へ全面的な服従を実行しなかった。
和歌山市は、孫一らの戦術と鉄砲を前に信長軍が事実上撤退したと説明する。この「事実上」という言葉が大切である。軍事、外交、形式的降伏が併存し、どちらか一方の明快な勝利に収まらない。
孫市が信長を狙撃したという話
孫市には、天王寺砦の戦いなどで信長本人を狙撃した、銃弾を甲冑へ当てたという逸話がある。ゲームや小説では印象的な場面だが、同時代史料で射手を孫市一人に特定できる話は限られる。
鉄砲隊の指揮者が自ら毎回狙撃を行ったとも限らない。指揮、配置、弾薬、退路の判断は、射撃とは別の役割である。英雄を一人の名手として描くほど、集団戦術を組み立てた指導者の実像から離れることもある。
「信長を最も恐れさせた男」「日本一のスナイパー」といった現代的な呼び名は、史料上の官職や異名ではない。後世の評価として楽しむことはできるが、当時の人がそう呼んだと説明してはいけない。
孫市の強さを語るなら、発射速度や射程を誇張するより、地域の射手を組織し、水路と防塁を生かし、本願寺の補給戦へ参加した能力を見る方がよい。
本願寺退去後に割れた雑賀
1580年、顕如は信長との講和を受け入れ、石山本願寺を退去した。長く続いた戦いの大きな目的が失われると、雑賀内部の対立が表面化する。
雑賀はもともと複数地域の連合で、親信長と反信長、宗教的立場、土地や水利をめぐる利害が一致していなかった。外から大軍が迫る間は協力しても、情勢が変われば指導者どうしの争いが起きる。
孫一は信長側へ接近し、反対勢力の土橋氏と争ったとされる。1582年には土橋若大夫が殺害され、雑賀内部の均衡が崩れた。ただし、事件の命令関係や孫一個人の責任は史料を慎重に読む必要がある。
同年6月、本能寺の変で信長が死ぬ。信長と結んだ孫一の立場は一転して不利になり、雑賀を離れたと伝わる。その後の足取りには異説が多い。豊臣秀吉に仕えた、各地を流浪した、別名で生きたなどの話があるが、同名・同族の人物との混同を避けなければならない。
1585年、秀吉の紀州攻め
豊臣秀吉は1585年、紀州へ大軍を進めた。根来寺の勢力を破り、雑賀・太田方面を攻める。和歌山平野の地域自治は、天下統一を進める政権にとって、独自に武装し、年貢と軍事を自主管理する存在だった。
太田城では水攻めが行われた。堤を築き、紀ノ川水系の水を引いて城の周辺を浸水させる作戦で、多くの住民が籠城に巻き込まれた。降伏後、指導者らが処刑され、惣国の軍事的自立は終わっていく。
雑賀衆が一日の合戦で全滅したわけではない。降伏した人々は地域へ残り、他大名へ仕官し、鉄砲技術や海運の経験を生かした。自治組織が解体・再編されても、住民と技術が消えるわけではない。
秀吉は和歌山城の築城を始め、紀伊北部を城下町と領国支配の仕組みへ組み込んだ。和歌山大学は太田城水攻めを、地域の惣国一揆から天下人の統一支配へ移る歴史の節目として位置づける。孫市個人の勝敗より、社会の構造が変わった事件だった。
「八咫烏」と黒装束は史実か
現代の雑賀衆は、黒い装束に身を包み、八咫烏の旗を掲げる姿で描かれることが多い。和歌山の観光や祭りでも親しまれている。
しかし、雑賀衆全体が統一された黒装束を軍服として用い、八咫烏を共通軍旗にしたと確定する同時代資料は乏しい。地域や家ごとに旗印と装備が違ったはずで、現代の視覚表現は、ばらばらな集団を一目で分かるようにまとめたデザインの性格が強い。
黒色は火薬を扱う実用性、夜戦、紀州の熊野信仰などと説明されることがあるが、後から意味づけされた部分を含む。伝統行事の衣装として価値があっても、16世紀の全員が同じ姿だったと遡らせることはできない。
創作を退ける必要はない。司馬遼太郎の『尻啖え孫市』、漫画、ゲーム、祭りは、雑賀の歴史へ人を導いてきた。ただし創作の孫市を入口にした後は、古文書と遺跡が示す複数の雑賀へ進むと、物語はむしろ豊かになる。
孫市の墓が複数ある理由
孫市ゆかりの墓や供養塔は、和歌山をはじめ各地に伝わる。生没年と最期が確定していない人物には、逃亡先、仕官先、同族の居住地に伝承が生まれやすい。
墓碑があることは、その土地で孫市が記憶された証拠になる。しかし、埋葬された本人の遺骨があり、同時代の銘文で身元が確定したこととは別である。建立年、碑文、寺の過去帳、鈴木氏の系図を一つずつ確かめる必要がある。
平井城跡も孫市の居城と伝わるが、現在の地形と後世の伝承から復元される部分がある。和歌山市の案内は、平井が交通と防衛の要地で、城があったとされることを紹介する。発掘成果と伝承を合わせて見れば、単独の天守を持つ「孫市城」ではなく、段丘、道、港を使った地域拠点として理解しやすい。
人物の墓と城を一か所に決められないことは、研究の失敗ではない。中央の大名ほど記録を残さなかった地域指導者が、複数の共同体の記憶に生き残った結果である。
史料から見える「正体」
雑賀孫市は架空の人物ではない。16世紀後半、本願寺方で活動し、雑賀の有力者として信長と戦った鈴木孫一がいた。その人物を重秀とみる整理も広く行われる。
しかし、雑賀衆全体を支配した絶対的頭領、どの戦場にも現れる無敗の狙撃手、後代の鈴木重朝まで同じ生涯を生きた英雄という像は、史料の範囲を越える。
実像に近いのは、五つの地域から成る惣国の一角で、鉄砲と海運に強い人々をまとめ、本願寺との同盟を動かした指導者である。彼の力は個人武勇だけでなく、合議する共同体と物流網から生まれた。そのため外敵への抵抗では大きな役割を果たせても、共同体が割れれば一人で統一できなかった。
英雄の正体が「集団の中の有力者」だと、地味になったように感じるかもしれない。実際は逆である。雑賀の強さは、一人の超人がいたことではなく、農業、水利、海運、信仰、火器技術を持つ地域社会が、大名に対抗できるほど組織されたことにあった。孫市の名は、その社会を代表して後世へ残ったのである。
参照資料
- 和歌山市「和歌山市ゆかりの人物―雑賀衆のリーダー雑賀孫市」https://www.city.wakayama.wakayama.jp/shisei/wakayama/1001005/1001031/1001032.html
- 和歌山市立博物館「紀州の戦国―雑賀衆と鷺森遺跡」展覧会資料 https://www.city.wakayama.wakayama.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/025/184/20190820-1-2.pdf
- 和歌山市「和歌山市のあゆみ」https://www.city.wakayama.wakayama.jp/shisei/wakayama/1001005/1001031/1001030.html
- 和歌山大学「信長・秀吉vs紀州惣国一揆」https://www.wakayama-u.ac.jp/kii-plus/news/2021101300071/
- 国立国会図書館典拠データ「鈴木, 重秀, 戦国時代」https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/01195773
- 国立国会図書館『大系真宗史料文書記録編12 石山合戦』書誌情報 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000010896404
