部屋が遠ざかり、自分の手だけが巨大になる
夜、子どもが突然泣き出す。
「お母さんの顔が小さくなった。部屋がすごく遠い」
自分の手は風船のように膨らみ、天井が頭のすぐ上まで下がってくる。時計の音が異様に速く、数分が何時間にも感じられる。
目をこすっても、物の大きさは戻らない。本人は、実際の母親が縮んだわけではないと分かっている。それでも、見える世界と身体の感覚が変形している。
こうした一時的な知覚のゆがみを、不思議の国のアリス症候群と呼ぶ。物が小さく見える小視症、大きく見える大視症、遠くまたは近く感じる距離の変化、自分の身体の大きさや形が違う感覚、時間のゆがみなどが含まれる。
名前は物語から取られたが、空想好きな子どもの気のせいではない。片頭痛、感染症、てんかん、薬物などに伴うことがある神経学的な知覚症状である。
アリスの身体が伸び縮みする物語
ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』では、アリスが飲み物や菓子を口にし、身体が大きくなったり小さくなったりする。
英国の精神科医ジョン・トッドは1955年、身体像の大きさ、質量、形、空間での位置が発作的にゆがむ症状をまとめ、物語にちなむ名称を使った。
トッド以前にも、米国の神経科医カロ・リップマンが1952年に似た症状を記載している。トッドの報告が広く知られ、Todd’s syndromeという別名もある。
キャロル自身が片頭痛を持ち、視覚のゆがみを体験して作品へ書いたという説がある。しかし、作者の診療記録から不思議の国のアリス症候群を確定できるわけではない。
文学作品が病名の由来になったことと、作品が医学的な症例報告であることは別である。名前は患者の感覚を伝えやすくしたが、症状はアリスと同じ型に限らない。
物が小さく見える小視症
最もよく知られる症状の一つが、小視症、ミクロプシアである。
目の前の人、家具、文字が実際より小さく見える。縮んだ模型を見ているように感じる。自分から遠くへ離れたように見える遠視症、テレオプシアと重なることもある。
反対に、物が大きく見える大視症、マクロプシアがある。壁の模様が迫り、顔の一部だけが巨大に感じられる。
形が伸びる、傾く、波打つ。直線が曲がる。対象物の一部だけ大きさが違う。視覚のゆがみをまとめて変視症と呼ぶが、原因は網膜や眼の病気にもある。
片目だけで同じゆがみが続く場合、網膜疾患など眼科の評価が重要になる。両目で一時的に場面全体が変わり、片頭痛などと関係する場合は脳の知覚処理が考えられる。
症候群名だけで眼科と神経の原因を分けることはできない。
自分の身体が変形する
外の物だけでなく、自分の身体像が変わる。
手が巨大、脚が遠い、頭が膨らむ。身体全体が小さくなり、ベッドが広大な空間に感じられる。腕が何メートルも伸び、壁へ触れているように感じる人もいる。
実際に手を見ると普通の大きさだと分かっても、内部の感覚は巨大なままの場合がある。
脳は、目で見る身体、皮膚や筋肉の感覚、平衡感覚をまとめ、自分の身体の形と位置を作る。この統合が一時的に乱れると、実際の身体と身体像がずれる。
自分の身体が自分のものではない感覚、身体から離れる感覚、世界が夢のようになる離人感や現実感の低下を伴うこともある。
精神的な問題と決めつけず、発症の時間、頭痛、発熱、意識、薬を確認する。
時間が速く、または遅くなる
時計の秒針が異様に速く感じる。周囲の人の動きと声が早送りになる。反対に、すべてがゆっくりで、短い発作が長時間に思える。
時間知覚の変化は目で測れる大きさのゆがみより説明しにくいが、症候群の一部として報告される。
音の大きさ、距離、速度が変わる場合もある。小さな生活音が耳元の轟音になり、声が遠くから聞こえる。
「時間が止まった」という表現が、比喩なのか知覚症状なのかを丁寧に聞く必要がある。恐怖で時間が長く感じられた場合と、動きそのものが遅く見えた場合は違う。
発作中の体験を言葉にするのは難しい。子どもは「壁が動く」「人がロボットみたい」と表現することがある。表現を否定せず、何がどう見えたかを一つずつ尋ねる。
片頭痛との強い関係
成人の不思議の国のアリス症候群では、片頭痛との関連がよく報告される。
頭痛の前兆として大きさや身体像のゆがみが起こる場合、頭痛と同時、頭痛なしで起こる場合もある。子どもの症状が、後年の片頭痛の前触れになることもある。
典型的な片頭痛の視覚前兆は、ギザギザの光、視野の欠け、ちらつきなどで、数分かけて広がることが多い。小視症や身体像変化は別の型だが、同じ人に重なる場合がある。
片頭痛と分かっている人でも、新しい症状、片側の麻痺、言葉の障害、突然最大となる頭痛があれば、いつもの発作と決めない。
頭痛日誌に、知覚変化が始まった時刻、続いた時間、頭痛、吐き気、光過敏、睡眠、食事を記録すると、片頭痛との関係を確認しやすい。
子どもの感染症で起こること
子どもでは、感染症や発熱に伴う例が報告される。
2016年の臨床レビューは、小児ではEBウイルス感染、成人では片頭痛が代表的な関連として報告されてきたとまとめている。
ただし、発熱した子どもが物の大きさを変に感じたから、必ずEBウイルス感染というわけではない。インフルエンザなど別の感染症、脱水、発熱時のせん妄、薬の影響も考える。
発熱中に、会話が通じない、長い混乱、けいれん、首の硬さ、強い頭痛、嘔吐がある場合は、知覚のゆがみだけとして様子を見ず、早急に診察を受ける。
子どもの発作は短く自然に収まることも多いが、原因となる感染の評価が必要になる場合がある。家庭で特定のウイルスを自己診断しない。
てんかんと意識の変化
後頭葉、側頭葉などの焦点発作で、視覚や身体感覚のゆがみが起こることがある。
毎回同じ型で突然始まり、短時間で終わる。反応が止まる、異臭、恐怖、口を動かす、発作後に混乱する。こうした症状があれば、てんかんの評価を考える。
けいれんがなくても焦点発作は起こりうる。一方、知覚のゆがみがある全員にてんかんがあるわけではない。
脳波で発作が捉えられないこともあり、症状の動画や記録が役立つ。発作中に本人へ無理に質問を続けず、安全を確保し、開始と終了時刻を記録する。
初めての発作、5分以上続くけいれん、繰り返し意識が戻らない場合は救急対応が必要になる。
脳のどこで大きさを作るのか
視覚野は、目から届いた輪郭や色を処理する。頭頂葉や側頭葉は、空間、身体、意味との関係をまとめる。
不思議の国のアリス症候群の研究では、側頭・頭頂・後頭領域が交わる部分が、視覚空間と身体感覚の統合に重要と考えられてきた。
病変を持つ症例のネットワーク解析では、損傷場所そのものはばらばらでも、身体と大きさの知覚に関わる共通ネットワークへつながるという報告がある。
ただし、同じ症候群名に視覚、身体像、時間、聴覚の多様な症状を含むため、一つの脳部位だけで説明することは難しい。
画像検査が正常でも、片頭痛のように一時的な脳機能の変化で症状が起こる場合がある。正常画像は体験が偽物という意味ではない。
眼の病気との区別
物がゆがむ、線が曲がる、中心が小さく見える症状は、網膜、黄斑、視神経など眼の病気でも起こる。
片目を交互に隠し、どちらの目でも同じかを確認することが診察の手掛かりになる。ただし、家庭で原因を決めるためではない。
片目だけの変視、視力低下、黒い影、光の閃き、飛蚊症の急増がある場合は、網膜裂孔や黄斑疾患などを含め眼科へ相談する。
不思議の国のアリス症候群では、場面全体や身体像、距離、時間の変化が一時的に起こることが多い。それでも症状だけで眼科疾患を完全に除外できない。
「珍しい脳の症候群だ」と思い込み、治療可能な眼の病気を見逃さないことが重要である。
薬物と市販薬
幻覚作用のある薬物、特定の医薬品に関連して、知覚のゆがみが報告されることがある。
服薬を始めた時期、増量、中止と発症が近い場合は、薬名と用量を医師へ伝える。自己判断で急に中止すると、別の危険が生じる薬もある。
発熱した子どもへ使った市販薬、乗り物酔い薬、睡眠薬なども含め、飲んだものを記録する。
ネットには、アリス症候群の感覚を体験するため薬物を使うという情報がある。知覚の変化だけでなく、意識障害、事故、依存、精神症状を起こす危険があり、再現のために試すものではない。
原因が薬かを判断するには、基礎疾患、同時に使った薬、発症の時間関係を医療者が評価する。
どのように診断するのか
一つの検査で確定する病名ではない。
何が大きく、小さく、遠く感じたか。身体像か外界か。片目か両目か。発作の長さ。頭痛、発熱、意識、けいれん、薬。これらを詳しく聞く。
視力・眼底、神経学的診察を行い、必要に応じて脳波、MRI、感染症の検査などを選ぶ。
症候群の診断基準は完全に統一されておらず、文献では異なる範囲の症状が同じ名前で扱われる。2016年のレビューも明確な診断基準の不足を課題に挙げた。
本人の絵は役立つ。部屋がどう見えたか、身体のどこが大きかったかを描くと、言葉だけより伝えやすい。子どもへ「変なことを言わない」と叱らず、発作後に記録する。
治療は原因に合わせる
知覚のゆがみそのものに、全員へ共通する特効薬はない。
片頭痛に伴うなら、発作時治療と予防、睡眠、食事、誘因管理を行う。感染症なら原因と全身状態を治療する。てんかんなら発作型に合った治療を検討する。
短い発作が自然に消え、検査で危険な原因がなく、生活に支障がなければ、説明と経過観察が中心になることもある。
発作中は、転倒しない安全な場所へ座る。運転、自転車、階段を避ける。世界の大きさが変わっていると、距離を誤ってぶつかる危険がある。
暗すぎる部屋や強い刺激で不安が増すなら、落ち着いた照明にし、信頼できる人がそばで「実際の物は動いていない」と伝える。
子どもの話を否定しない
子どもが「お母さんが小さい」「自分の手が部屋いっぱい」と言うと、夢や作り話だと思われやすい。
本人は、現実には変わっていないと分かりながら、知覚だけが変わる恐怖を経験している場合がある。
まず、見えている内容を聞き、発熱、頭痛、吐き気、意識を確認する。危険な場所から離し、開始時刻を記録する。
「そんなはずはない」と否定すると、次の発作を隠すようになる。反対に、「超能力だ」「異世界が見えた」と強く意味づけると、不安や期待を増やす。
体験は認め、原因の解釈は急がない。必要なら小児科、神経科、眼科へ相談する。
物語の名前が助けること、邪魔すること
「不思議の国のアリス症候群」という名は、複雑な知覚のゆがみを一言で伝えやすい。子どもにも説明しやすく、同じ経験を持つ人が情報へたどり着ける。
一方、かわいらしい物語の名前のため、症状が軽く扱われることがある。逆に、珍しい病名が独り歩きし、少しの遠近感の違いまで自己診断される。
病名は原因を一つに決めない。片頭痛、感染、てんかん、眼疾患、薬物など、異なる背景で似た症状が起こる。
キャロルが本当に同じ症候群だったかも確定していない。作品の魅力と医学的な診断を分ける。
世界が伸び縮みする感覚は、脳が大きさ、距離、身体、時間を常に組み立てていることを示す。その仕組みが短くずれたとき、私たちは現実が固定されたものではなく、知覚によって作られていると気づく。
参考資料
- NCBI MeSH「Alice in Wonderland Syndrome」
- NCBI MedGen「Alice in Wonderland syndrome」
- Mastria G, et al. “Alice in Wonderland Syndrome: A Clinical and Pathophysiological Review”
- Lanska DJ, Lanska JR. “The Alice-in-Wonderland Syndrome”
- Friedrich MU, et al. “Lesions Causing Alice in Wonderland Syndrome Map to a Common Brain Network”
- Liu AM, et al. “‘Alice in wonderland’ syndrome: presenting and follow-up characteristics”
- Blom JD. “Alice in Wonderland syndrome: a research overview”
