墓が二つある、と言われたら奇妙に思うだろう。だがかつて日本の各地では、一人の死者に対して墓を二つ設けるのが当たり前の土地があった。一つは遺体を実際に埋める「埋め墓(うめばか)」。もう一つは、手を合わせ花を供えて参るための「参り墓(まいりばか)」。この二つを使い分ける葬送のしきたりを「両墓制(りょうぼせい)」という。そして恐ろしいのは――家族が普段お参りしている墓の下に、亡骸は無い、ということなのだ。
遺体は、村はずれの「捨て墓」へ
両墓制の村では、人が死ぬと遺体は集落から離れた場所、山裾や川べり、村境の一角に埋められた。この埋め墓は「捨て墓」「三昧(さんまい)」などとも呼ばれ、多くは粗末な土饅頭に竹や木を挿しただけの、簡素なものだった。そして一度埋葬を終えると、人々はこの埋め墓へは足を運ばなくなる。草に埋もれ、荒れるにまかせ、やがてどこに誰が埋まっているのかも分からなくなっていく。参られることのない、忘れられるための墓。それが埋め墓であった。
参るのは、遺体のない「石塔」
一方、集落の内や寺の近く、参りやすい場所には立派な石塔が建てられた。これが参り墓である。人々が盆や彼岸に花を手向け、線香をあげ、先祖として拝むのはこちらの石塔だ。だが、その下に遺体は埋まっていない。参り墓はあくまで死者の霊を祀り、記憶を留めるための「魂の依り代」であって、亡骸の在処ではない。私たちが「お墓参り」と呼ぶ行為の対象が、実は遺体とは切り離されていた――この分裂こそ両墓制の核心である。
なぜ二つに分けたのか――穢れと霊の分離
背景にあるのは、日本人の死に対する二重の観念だ。腐りゆく亡骸そのものは「死穢(しえ)」、すなわち忌み避けるべき穢れであった。腐敗する肉体は不浄であり、生活の場から遠ざけねばならない。だからこそ遺体は村はずれの埋め墓へ隔離された。しかし、死者の「霊魂」はけがれたものではなく、やがて浄化されて先祖神となり、子孫を見守る存在になると考えられた。この清らかな霊を祀るために、生活圏の近くに参り墓を設けた。穢れた肉体は遠くへ、清らかな魂は近くへ――肉体と霊を空間ごと切り分ける発想が、二つの墓を生んだのである。土葬が前提であったこと、忌明けとともに死者が「個」から「先祖」という集合体へ移行していく死生観も、この習俗を支えていた。
どこに残っていたのか
両墓制はかつて近畿地方を中心に、瀬戸内、伊豆諸島、そのほか西日本の広い範囲で確認された。とりわけ瀬戸内海の塩飽(しわく)諸島などの島嶼部には、埋め墓と参り墓を明確に分ける形が色濃く残り、民俗調査の対象となってきた。地域によっては参り墓を「詣り墓」「性根墓」などと呼び、呼称や作法に細かな差があった。火葬が全国的に普及し、遺骨を骨壺に納めて一つの石塔に納骨する現代の墓へと移行するにつれ、遺体と参拝先を分ける必要そのものが消え、両墓制は急速に姿を消していった。
