概要――氷点下30度の雪原に残された、9人分の「逃げた痕跡」
1959年2月、ソビエト連邦・ウラル山脈北部。厚い雪に覆われたホラート・シャフイル山――現地マンシ語で「死の山」を意味するその斜面で、9人の熟練登山家からなる一隊が忽然と消えた。彼らは皆、ウラル工科大学(当時ウラル科学技術学校)に籍を置く学生や卒業生で、長距離スキーや山岳踏破の経験を積んだベテランだった。ところが約1か月後、捜索隊が発見したのは、キャンプの惨状としてはあまりにも異様な光景だった。テントは内側からナイフで切り裂かれ、荷物も食料もすべて置き去りにされたまま、9人分の足跡だけが吹雪の斜面を下って森へと続いていた。
足跡の多くは裸足か靴下のままで、氷点下30度近い極寒の中を、まるで何かから逃げるように一直線に離れていたのである。最終的に9人全員が遺体で発見されたが、その状況はどれも常軌を逸していた。ある者は凍死という一見して分かりやすい死因だったが、別の数名は交通事故に匹敵するほどの強い衝撃による骨折や内出血を負っていながら、外部からの打撃を示す外傷がまったく見当たらなかった。さらに一部の衣服からは高い放射線量が検出されたと噂され、遺体の中には眼球や舌が失われていたものもあったと語り継がれている。
ソ連当局は捜査の末、「抗いがたい自然の力」によって全員が死亡したという、あまりに漠然とした結論を出して幕引きを図り、関連資料を長年にわたり機密扱いにした。この不自然な情報統制こそが、事件を単なる遭難事故から「20世紀最大の未解決ミステリー」へと押し上げる原動力になった。雪崩、極地性ヒステリー、軍事実験、超低周波音、そしてイエティやUFOに至るまで、実に半世紀以上にわたって無数の仮説が乱立し続け、2021年になってようやく科学的に有力な説明が発表されたにもかかわらず、いまだに「本当にそれだけで説明がつくのか」という疑念が世界中のオカルトファン・ミステリーファンを惹きつけてやまない。
これは、雪と氷に閉ざされたウラルの山肌で、9つの若い命が一夜にして奪われた、実話に基づく戦慄の物語である。
遭難までの完全な物語――出発、氷原の行軍、そして運命の最後のキャンプ
事件の主人公は、当時23歳のイーゴリ・ディアトロフ。ウラル工科大学で無線工学を学ぶ優秀な学生であり、すでに複数の冬季遠征を成功させてきた経験豊富なリーダーだった。1959年1月、彼は自ら隊を編成し、最高難易度の「第3categorie(カテゴリー)」に指定されるルートに挑むことを計画する。目的地は、ウラル山脈北部にそびえるオトルテン山。往復で300キロメートル以上、真冬のシベリア奥地を踏破する過酷な行程だった。
隊のメンバーは、副リーダー格のジナイダ・コルモゴロワ、紅一点でもう一人の女性であるリュドミラ・ドゥビニナ、無線技師のアレクサンドル・コレヴァトフ、快活な性格で知られたルステム・スロボディン、陽気なムードメーカーだったユーリー・クリヴォニシチェンコとユーリー・ドロシェンコ、イタリア系の血を引くニコライ・チボ゠ブリニョーリ、そして隊の中で唯一の社会人であり最年長だったセミョーン・ゾロタリョフの計9名。加えて、当初は10人目のメンバーとしてユーリー・ユーディンも同行していたが、持病のリウマチが悪化したため1月28日、行程の途中で隊を離脱する。これが結果として彼の命を救うことになった。
一行は1月25日に列車でイヴデリという町に到着し、そこからバスとトラックを乗り継いで、人跡未踏に近い山岳地帯へと分け入っていく。第41地区と呼ばれる伐採者の集落を最後の文明の痕跡として後にし、そこから先はスキーによる徒歩行軍だった。隊員たちが残した日記や、道中で撮影された写真フィルムを後に捜索隊が回収し再構成したところによれば、彼らの旅は当初、実に和やかなものだったという。焚き火を囲んで冗談を言い合い、雪原でふざけ合う写真、手作りの壁新聞に冗談めいた記事を書き込む様子まで記録に残っている。しかし1月31日、一行はオトルテン山の麓に到達し、いよいよ本格的な登頂準備に入る。
荷物の一部をデポ(後で回収するために隠しておく物資)として木に吊るし、身軽になって前進を再開した。ところが2月1日、猛烈な吹雪によって視界が奪われ、一行は道を誤ってしまう。本来向かうべきオトルテン山ではなく、誤ってホラート・シャフイル山の斜面を登り始めてしまったのだ。彼らはやがて自分たちが間違ったルートを進んでいることに気づいたとされる。通常であれば、安全な森林限界まで1.5キロほど下り、木々に囲まれた場所で風雪をしのぐのが定石だっただろう。
しかし何らかの理由――生存者ユーディンの推測では、せっかく登った標高を無駄にしたくなかった、あるいは吹きさらしの斜面でのキャンプという経験をあえて積みたかったのではないかとされる――により、ディアトロフは何の遮蔽物もない、剥き出しの雪の斜面にテントを張ることを決断する。これが、9人にとって人生最後の夜となった。テントは丁寧に設営され、中には防寒着や寝袋、食料、そして日記帳や複数台のカメラが整然と並べられていた。最後に残された日記の記述には、特段の恐怖や異変を示唆する言葉はなく、その夜もまた、いつも通りの野営の一夜になるはずだった。だが、その静寂な雪山の夜に、後世の人々を今なお悩ませ続ける「何か」が起きたのである。
発見時の異様な状況――切り裂かれたテント、裸足の足跡、そして凄惨な遺体
一行はもともと2月12日までにヴィジャイの村へ帰還し、無事を知らせる予定になっていた。しかし約束の日を過ぎても連絡はなく、家族からの強い要請を受けて2月20日、大学関係者や軍を巻き込んだ大規模な捜索隊が組織され、航空機まで投入する捜索が始まった。同日、イヴデリの検察当局も正式に捜査を開始している。そして2月26日、捜索隊員の一人であった学生ミハイル・シャラヴィンが、ホラート・シャフイル山の斜面で雪に半分埋もれたテントを発見する。中には誰もおらず、荷物や食料、防寒着までもがそのまま残されていた。決定的に異様だったのは、テントの側面が内側から切り裂かれていたという事実である。
出入り口のジッパーを開けて外に出るのではなく、あえてナイフで布地を切り破って脱出した形跡があった。まるで一刻の猶予もない、テントの出入り口を通る時間さえ惜しいほどの何かに追われていたかのようだった。テントの外に目を向けると、雪の上には9人分とみられる足跡が残されていた。その大半は裸足、あるいは靴下だけの状態で、氷点下25度から30度という極限の寒さの中を、森の方角へ向かってまっすぐに歩き――あるいは走り――去っていた。登山靴も防寒着も、テントの中に置いたままで。この足跡は800メートルほど下った地点で吹雪の新雪に埋もれ、そこから先を追うことはできなくなっていた。
捜索隊がまず発見したのは、その足跡が向かった先、渓谷のほとりに立つ一本の大きなヒマラヤスギの木の根元だった。そこには小規模な焚き火の跡があり、ユーリー・クリヴォニシチェンコとユーリー・ドロシェンコの遺体が発見された。木に登ろうとしたのか、枝が折れて木の高い位置まで裂けた跡もあったという。さらに周辺を捜索する中で、木から300メートルほど離れた場所にディアトロフの遺体、480メートル離れた場所にコルモゴロワの遺体、630メートル離れた場所にスロボディンの遺体がそれぞれ発見された。彼らの体勢は、まるでテントに向かって引き返そうとしていたかのようだったと伝えられている。
この最初の5人については、検視の結果、死に直結するような外傷は見当たらず、全員の死因は単純な低体温症、つまり凍死と判定された。スロボディンの頭蓋骨にわずかな亀裂が見つかったが、致命傷ではないとされた。捜索はここでいったん深い雪のため中断し、本格的な再開は雪解けを待つ5月までずれ込むことになる。そして5月、ヒマラヤスギの木からさらに75メートルほど森の奥に入った渓谷の中、実に4メートルもの深さの雪の下から、残る4人――アレクサンドル・コレヴァトフ、リュドミラ・ドゥビニナ、ニコライ・チボ゠ブリニョーリ、セミョーン・ゾロタリョフの遺体が発見された。この4人は、先に発見された5人よりもずっと厚着をしていた。
検視官たちはこの状況から、先に力尽きた仲間が、自分の衣服を脱いで生き残っている仲間に譲り渡していたのではないかと推測している。実際、ゾロタリョフはドゥビニナの人工毛皮のコートと帽子を身につけており、ドゥビニナの足には、すでに死亡していたクリヴォニシチェンコのウールのズボンの切れ端が包帯のように巻き付けられていた。極限状況下で最後まで互いを助け合おうとした形跡が、皮肉にも凄惨な発見の光景として残されたのである。そしてこの4人の検視結果こそが、事件を単なる遭難事故では片付けられないものにした最大の理由だった。チボ゠ブリニョーリは頭部に大きな損傷を負っており、ドゥビニナとゾロタリョフは肋骨を複数箇所にわたって激しく骨折していた。
検視を担当したボリス・ヴォズロジデンヌイ博士は、この損傷を引き起こすには「自動車事故の衝突に匹敵するほどの、非常に強い力」が必要だと証言している。にもかかわらず、彼らの体表や軟部組織には、殴打や格闘を示すような外部からの傷はほとんど見当たらなかった。何か途方もない圧力が体の内部だけを破壊し、皮膚の下に痕跡をほとんど残さなかったかのような状態だったのである。加えて、ドゥビニナは舌を失っており、一部の遺体は眼球が失われていたとも伝えられている。この凄惨な逸話は、後年語られる中で「拷問を受けたのではないか」「何か得体のしれない生物に襲われたのではないか」という憶測を呼ぶ大きな要因となった。
さらに、犠牲者数名の着衣――セーターやズボンの一部――から通常より高い放射線量が検出されたという報告もなされ、これが軍事実験説や核関連の陰謀論に燃料をくべることになった。加えて、事件現場から南に約50キロ離れた場所にいた別の旅行者グループが、事件当夜、夜空にオレンジ色の奇妙な発光体が浮かんでいたのを目撃したと証言しており、同様の目撃情報はその後数か月にわたってイヴデリ周辺の複数の独立した証人(気象関係者や軍関係者も含む)から寄せられている。
これらすべての異様な事実が積み重なった結果、ソ連当局の死因審問は1959年5月、「犠牲者は抗いがたい自然の力によって死亡した」という、具体性を欠いた曖昧な結論で幕を閉じ、事件記録は機密文書として長らく封印されることになった。
諸説の徹底紹介――科学、心理、軍事、そして怪異
ディアトロフ峠事件をめぐっては、実に半世紀以上にわたって多種多様な仮説が提示され、議論され、そして否定されてきた。まず現在もっとも有力とされているのが雪崩説である。斜面に積もった不安定な雪の層が、テントを設営したことによる荷重や気候の変化によって崩落し、一行を襲ったのではないかという説だ。突然の雪塊の直撃を受けたメンバーはパニックに陥り、テントの出入り口を探す余裕すらなく、内側から布地を切り裂いて脱出した。そのまま靴も上着も身につける間もなく森へと逃げ込み、寒さと衝撃の中で力尽きていった、というシナリオである。
この説を大きく後押ししたのが、2021年1月にスイス連邦工科大学ローザンヌ校とチューリッヒ工科大学の研究者アレクサンダー・プズリンとヨハン・ガウメが発表した論文だった。彼らは映画『アナと雪の女王』の雪のシミュレーション技術や、1970年代にゼネラルモーターズが自動車のシートベルト開発のために行った衝突実験データまで応用し、傾斜がゆるやかなあの斜面でも、わずか幅5メートルほどの「スラブ雪崩」(積雪の層がそのまま板状に滑落する現象)が発生し得ること、そしてその雪塊がテントの上で眠る人体に、自動車事故に匹敵するような骨折を引き起こしうることをシミュレーションで示した。
さらに彼らは、遺体の放射線反応はランタンに使われていたトリウム系素材に由来する可能性が高く、眼球や舌の欠損についても、雪解け後に野生動物が遺体を食害した結果である可能性を指摘している。この研究は大きく報道され、事件の「科学的な説明」として広く受け入れられたが、同時に弱点も抱えている。もっとも大きな批判は、雪崩が一般的に発生しやすいとされる傾斜30度以上の斜面に対し、現場の傾斜はわずか15度程度しかなく、雪崩多発地帯とは言い難いという点だ。加えて、捜索隊がテントの周囲に一行の足跡以外の乱れ、つまり雪崩による吹き飛ばされた痕跡をほとんど確認していないことも、この説への疑問として根強く残っている。
次に語られるのが、極地性ヒステリー、あるいは集団パニック説である。極寒・閉鎖環境・強いストレスにさらされた人間集団が、些細なきっかけから理性を失い、集団で非合理的な行動――たとえば防寒着も履かずにテントを飛び出すような行動――に走ってしまう現象は、極地探検や潜水艦などの閉鎖環境下で実際に報告例がある。しかし、この説は「なぜ全員が同時にそこまで極端なパニックに陥ったのか」という根本的なきっかけを説明できておらず、あくまで補助的な仮説にとどまっている。三つ目が、インフラサウンド(超低周波音)説である。
アメリカ海洋大気庁で超低周波音研究チームを率いていたアルフレッド・ベダード博士が提唱したこの説は、ホラート・シャフイル山のドーム状で左右対称な地形が、強風時に「カルマン渦」と呼ばれる渦を連続的に発生させるのに理想的な条件を備えていると指摘する。カルマン渦が引き起こす人間の可聴域を超えた超低周波音は、直接耳には聞こえないものの、めまいや吐き気、原因不明の恐怖感やパニック発作を誘発することが知られている。一行はこの目に見えない「音」に晒され続けたことで、得体のしれない恐怖に襲われ、我先にとテントを飛び出したのではないか、という説である。
作家ドニー・アイカーが著書『死に山』の中で大きく取り上げたことで広く知られるようになったが、あくまで理論上の可能性であり、当夜に実際にカルマン渦が発生していたという直接的な証拠は存在しない。四つ目は、軍事実験・秘密兵器説である。この説の根拠となっているのは、まず現場周辺で目撃された謎の金属片やスクラップの存在、そして事件の起きたキャンプ地が、地理的にバイコヌール宇宙基地――ここからは大陸間弾道ミサイルR-7の試験発射が繰り返し行われていた――と、ソ連の主要核実験場の一つであったノヴァヤゼムリャのチェルナヤ・グバとを結ぶ直線上に近い位置にあったという指摘である。
事件当夜からその後数か月にわたって目撃された謎のオレンジ色の発光体についても、研究者エフゲニー・ブヤノフらは、これがR-7ミサイルの発射時に生じる閃光だったと結論づけている。この説を支持する立場からは、ソ連軍が何らかの秘密兵器(有毒ガス、音響兵器、あるいは実験中のミサイルの落下物など)を試験していた最中に一行が偶然巻き込まれ、その事実を隠蔽するために当局が捜査資料を機密化したのではないか、と主張される。作家アナトリー・グシチンが著書『国家機密の価値は、9人の生命』でこの説を大々的に展開し、世論の関心を大きく喚起したことでも知られている。ただし、この説は物的証拠に乏しく、憶測に依拠する部分が大きいという批判が根強い。
五つ目に、雪男(イエティ)襲撃説がある。ロシア語圏では「メンク」とも呼ばれる雪山の怪物伝説がウラル地方には古くから存在しており、遺体に見られた原因不明の骨折や内出血、そして眼球や舌の欠損が「人間業とは思えない」ことから、この超常的な生物による襲撃ではないかという説が一部で根強く語られてきた。しかし現場に残されていたのは9人自身の足跡だけであり、格闘や近接での争いを示す痕跡は一切確認されなかったことから、この説は捜査当局や研究者の間ではほぼ完全に否定されている。六つ目のUFO・超常現象説は、1959年当時に実際の死因審問を指揮していた警察関係者レフ・イヴァノフ自身が、1990年になって発表した回顧録の中で語ったことから広まった。
イヴァノフは、捜査チームが事件を合理的に説明できなかったこと、そして地元の高級官僚から「飛行する発光体」に関する資料を機密扱いにするよう直接指示を受けたことを証言し、自身も何らかの超常現象、具体的にはUFOの関与を信じていると述べている。当時ソ連の高官という立場にあった人物のこの証言は、陰謀論に大きな信憑性を与える材料として今なお引用され続けている。ただし前述の通り、目撃された発光体についてはミサイル発射に由来するという説明もあり、UFO説の根拠は限定的だとする見方が主流である。最後に、当初捜査の初期段階で疑われたのが、現地の先住民族マンシ族による襲撃説である。
彼らの聖域や伝統的な狩猟地に一行が無断で立ち入ったことへの報復ではないか、という憶測が流れたが、現場に残されていたのは一行自身の足跡のみであり、争った形跡や外部からの侵入者の痕跡は一切見つからなかった。検視を担当したヴォズロジデンヌイ博士も、3人が負った致命傷は「他の人間による暴行によるものではなく、非常に強い衝撃によるものであり、遺体の軟部組織には損傷が見られない」と明言しており、この説は公式にもほぼ否定されている。
派生・別バージョン――機密指定が生んだ陰謀論、映画化、そして日本のオカルト番組
この事件が世界的な知名度を獲得した最大の要因は、皮肉にもソ連当局自身の対応にあった。1959年の死因審問はわずか数か月で「不可抗力による死亡」という曖昧な結論を出して打ち切られ、捜査資料は一般には閲覧できない機密文書保管庫へと送られてしまった。冷戦下のソ連社会において、国家が特に理由も告げずに事件を隠す、あるいは資料を封印するという行為そのものが、市民の間に「何か重大な真実が隠されているに違いない」という強い疑念を植え付けることになった。
実際、1990年代に入りソ連崩壊後の情報公開の流れの中でようやく資料の一部が公開された際にも、目録に記載されていたはずの謎の「エンベロープ(封筒)」に関するページなど、複数の資料が失われていたことが指摘されており、この「都合の悪い部分だけが消えている」という事実が、陰謀論をさらに勢いづかせる結果となった。ロシア国内では、ジャーナリストのアナトリー・グシチンが軍事実験説を軸にした著作を発表して大きな議論を呼び、ディアトロフの後輩にあたる関係者らが設立した「ディアトロフ財団」は現在も真相究明と再調査を求める活動を続けている。
ロシア検察当局は遺族の要請を受けて2018年に事件を再調査し、2020年7月には改めて「死因は雪崩によるものである」との結論を発表したが、遺族団体側はこの結論に強く反発しており、人為的な要因が関わっているはずだと主張し続けている。海外では、この事件はホラー映画やドキュメンタリーの格好の題材として繰り返し映像化されてきた。
2013年にはレニー・ハーリン監督によるファウンド・フッテージ形式のホラー映画『デビルズ・パス(原題:The Dyatlov Pass Incident)』が公開され、実際の事件をベースにしながらも大胆にフィクション要素――現代の若者たちが現場を再訪し、政府の陰謀に巻き込まれていくという筋書き――を加えたことで、事件をより広く一般に知らしめるきっかけとなった。2021年には、より事実に即したドキュメンタリー映画『An Unknown Compelling Force』も制作され、当時の関係者へのインタビューや現地取材を通じて事件を検証している。
米国のヒストリー・チャンネルをはじめとする複数の番組でも、「古代の宇宙人」のような番組内で特集が組まれるなど、超常現象を扱う海外メディアの定番ネタとして繰り返し取り上げられ続けている。日本においても、この事件はオカルト・都市伝説コンテンツの鉄板ネタとして長年愛されてきた。2013年にはPlayStation 4・Nintendo Switch向けホラーゲーム『ホラート -ディアトロフ峠の惨劇-』が発売され、事件をモチーフにしたサバイバルホラーとして話題を集めた。テレビの世界では、2018年12月にフジテレビ系『奇跡体験!
アンビリバボー』が特集を組み、2019年8月にはNHK BSプレミアムの人気ミステリー番組『ダークサイドミステリー』でも詳しく紹介されるなど、地上波の人気番組が繰り返しこの事件を取り上げている。またAbemaTVの都市伝説系トーク番組でも、進行役が「口の中に指が入っていた」といった生々しい逸話とともに紹介する回があるなど、ショッキングな細部が強調される形で語られることが多い。
書籍の分野では、アメリカの作家ドニー・アイカーによる調査ノンフィクション『死に山世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相』が2014年に原著刊行、2018年には河出書房新社より日本語版が発売され、日本のオカルト・ミステリーファンの間で事件の詳細を知る決定版として広く読まれるようになった。この本はインフラサウンド説を中心に据えつつも、著者自身が実際に現地を訪れ、生存者の関係者や捜索隊経験者に取材した臨場感のある筆致で高く評価され、事件への関心を国内外であらためて呼び起こす原動力となった。
ネット上の反応・考察――掲示板とYouTubeが紡ぐ「終わらない考察」
海外のミステリー・パラノーマル系コミュニティでは、Redditの未解決事件系サブフォーラムをはじめとして、ディアトロフ峠事件は長年にわたり定番の議論テーマであり続けている。2021年の科学論文発表後も、「雪崩説はテント発見時の足跡の状態や、放射線検出の説明として本当に十分なのか」「なぜ複数の独立した目撃者が同じ時期に発光体を見ているのか」といった疑問が繰り返し投稿され、雪崩説を支持する現実主義的な立場のユーザーと、軍事隠蔽やUFO関与を疑うロマン主義的な立場のユーザーの間で、今なお活発な論争が続いている。
中には現地の地形図やGPSデータ、当時の気象記録を独自に検証し直す熱心なアマチュア研究者も存在し、彼らの投稿はしばしば大手ニュースサイトにも引用されるほどの精度を持つ。日本語圏でも、5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)のオカルト板や未解決事件板では、事件発生から半世紀以上が経過した現在でも定期的にスレッドが立ち、「テントを内側から切り裂いてまで逃げた恐怖とは何だったのか」「舌や眼球が失われていた本当の理由」といった論点を中心に、まとめサイトへの転載も含めて繰り返し盛り上がりを見せている。
特に「不思議.net」や「パラノーマルちゃんねる」といった2ch(5ch)まとめ系サイトでは、この事件が「ガチで闇が深い未解決事件」として定期的に再掲載され、新規読者を獲得し続けている定番コンテンツとなっている。YouTubeにおいては、いわゆる「ゆっくり解説」形式の考察動画や、地図とアニメーションを使って時系列を丁寧に追う解説動画が多数投稿されており、中には数十万回再生を記録する人気動画も存在する。
コメント欄では「雪崩説で説明がついたはずなのに、なぜかまだモヤモヤする」「放射線と光る球体の話だけはどうしても引っかかる」といった感想が数多く寄せられており、科学的な説明が提示された後もなお、視聴者の間で怪異としての魅力が失われていないことがうかがえる。都市伝説系トーク番組の切り抜き動画やショート動画も人気があり、「口に指が入っていた」「テントを切り裂いた理由が未だ謎」といったセンセーショナルなキャッチコピーとともに拡散され、事件を知らない若い世代への入り口としても機能している。
こうしたネット上の言説の広がりを見る限り、たとえ2021年の科学論文が有力な説明を示したとしても、この事件が持つ根源的な不気味さ――極限状況下で9人の人間が示した理解不能な行動そのもの――は、今後も語り継がれ、考察され続けていくだろう。
雪崩のシミュレーションがどれほど精緻になろうと、あの夜テントを切り裂いてまで裸足で飛び出した9人の心に何が去来したのかは、誰にも証明できない。科学は「何が起こり得たか」を語れても、「何を彼らが見て、感じたか」までは語れないからだ。放射線の噂、発光体の目撃、失われた舌と眼球――そのひとつひとつに合理的な説明が積み重ねられていく一方で、点と点をつなぐ物語への欲求は決して消えることがない。ディアトロフ峠は、これからも「解明された未解決事件」という奇妙な肩書きを背負ったまま、雪と沈黙の中で語り継がれていくのだろう。
