桶川ストーカー殺人事件

1999年1月、埼玉県大宮駅のゲームセンターで、一人の女子大学生が一人の男と出会った。男は「誠」と名乗り、年齢も職業も本当のことを話していなかった。実際には彼は複数の風俗店の経営に関わる人物だった。二人は交際を始めるが、この何気ない出会いが、わずか10ヶ月後、日本中を震撼させる殺人事件と、警察の組織的な不祥事の発覚という、二重の悲劇に発展することになるとは、当時誰も想像していなかった。

交際が始まった当初、男はブランド品を頻繁に彼女に贈るなど、一見すると献身的な恋人を演じていた。しかし彼女がその贈り物を受け取ることを拒み始めると、男は次第に情緒不安定な言動を見せるようになる。1999年3月20日頃、彼女は男の自宅マンションで隠し撮り用のビデオカメラを発見してしまう。動揺した彼女がこれを問い詰めると、男は逆上し、「逆らうなら親に言いふらす」「ソープで働いて金を作れ」などと脅迫を始めた。

ここから、彼女に対する執拗な束縛と嫌がらせが本格化していく。6月14日、彼女がついに別れを切り出すと、男は興信所を使って彼女の父親の勤務先や自宅の情報を調べ上げ、家族にまで危害が及びかねないことを匂わせるようになった。

7月13日には、彼女の顔写真付きの誹謗中傷ビラが数百枚もばら撒かれるという事態に発展し、その後も「大人の男性募集中」という売春を勧誘するかのような虚偽のカードが大量に投函され、8月23日には彼女と父親を中傷する文書が父親の勤務先にまで送りつけられた。10月には自宅前に大音量で音楽を鳴らす車が現れるなど、嫌がらせは日を追うごとにエスカレートしていった。

彼女とその家族は、この異常事態に対処すべく、繰り返し埼玉県警上尾警察署に相談に訪れていた。6月15日、彼女と母親が最初に相談に訪れた際、対応した署員は「これは事件なのか民事なのか、ぎりぎりのところだ」「民事のことに首を突っ込むと後で困る」といった趣旨の発言をし、事実上、相談を突き放すような対応をとった。7月13日にビラ撒きの被害を訴えた際には実況見分こそ行われたものの、本格的な捜査には発展しなかった。

7月15日、彼女と母親が再び来署し、逮捕を強く求めたが、対応した刑事二課長は「告訴がなければ捜査はできない」「裁判になれば、あなたも辛い目に遭う」などと述べ、大学の試験期間が終わってからの再来を促すにとどめた。彼女たちはやむなく告訴状を提出したが、7月29日付でこれを受理した署員の記載には「犯人が誰かわからない」という趣旨の文言が記されていたことが、後に明らかになっている。

8月下旬以降、父親がさらなる中傷文書の被害を訴えた際にも、対応した刑事二課長は届けられた中傷文書を見て「いい紙を使っていますね」という、被害の深刻さとかけ離れた感想を漏らしたと伝えられ、逮捕を急ぐよう求める家族に対しても「ケースバイケースです。じっくり捜査します」と繰り返すばかりだった。 そして、事件の核心とも言える出来事が9月に起きる。9月7日、上尾署の署員が彼女の自宅を訪問し、被害届を取得した。

ところが9月21日、署員は再び自宅を訪れ、なんと告訉の取り下げを要請したのである。当初、署員は刑事訴訟法の規定を誤って説明しながら取り下げを説得しようとしたが、母親が強く拒否したため、その場では一旦引き下がった。しかしこの一件で、彼女は完全に警察への信頼を失ってしまう。友人に対し「警察はもう頼りにならない。もうおしまいだ」と漏らしていたと、後の関係者の証言で明らかになっている。

この言葉は、彼女が命の危険を感じながらも、頼るべき先を失っていたことを何よりも雄弁に物語っている。 事件の裏側では、彼女の知らないところで、殺害計画が着々と進められていた。6月22日、交際相手の男の兄にあたる人物が、実際の主犯格として、風俗店の店長で元暴力団員の人物に2000万円という多額の報酬を提示し、彼女の殺害を依頼していた。

そして10月26日午後12時53分、桶川駅西口前の商業施設「マイン」の前で、実行犯の男が彼女に近づき、ナイフで襲いかかった。彼女は背中を一度刺され、逃げようと振り返った瞬間、今度は左の前胸部を刺された。周囲を歩いていた通行人たちは、突然の惨劇に言葉を失ったという。彼女はすぐに病院へ搬送されたが、午後1時30分、肺損傷による大量出血性ショックのため死亡が確認された。まだ21歳の若さだった。

当時、桶川駅周辺は買い物客で賑わう時間帯であり、白昼堂々の犯行に居合わせた人々は強い恐怖を覚えたと、当時の新聞は伝えている。 捜査は12月に入って急速に進展し、12月19日に実行犯の男が逮捕され、翌20日には主犯格の男、運転役、見張り役が相次いで逮捕された。さらに1月16日には、被害者への誹謗中傷ビラや文書の作成・配布に関わったとして、計12人が名誉毀損容疑で逮捕・再逮捕されている。

しかし、直接彼女に交際を持ちかけ、すべての発端となった当の交際相手の男は、逮捕を免れたまま姿を消していた。1月27日、彼は北海道の屈斜路湖で水死体となって発見される。警察は自殺と断定した。彼の遺書には、彼女とその家族、そして事件を追及した報道機関への恨みつらみが書き連ねられていたと伝えられている。 この事件が「事件」以上の意味を持つに至ったのは、警察の対応そのものが重大な不祥事として発覚したためだった。

2000年4月6日、埼玉県警は内部調査の結果を発表し、上尾署の担当者が告訴状の記載を「告訴」から単なる「届出」へと書き換え、事実と異なる報告書を作成していたことを認めた。これは、被害者が命がけで提出した告訴を、警察組織の内部で実質的になかったことにしていたに等しい行為であり、社会に大きな衝撃を与えた。

埼玉県警本部長は「(適切に対応していれば)殺害は避けられた可能性がある」として国民に謝罪し、異例の対応として遺族の自宅を訪問した。この不祥事に関わった刑事二課長ら数人は懲戒免職となり、その他十数人の県警幹部も減給や戒告の処分を受けた。告訴状の改竄に直接関わった元署員3人は、虚偽有印公文書作成罪で起訴され、執行猶予付きではあるものの有罪判決を受けている。

事件の真相解明に大きな役割を果たしたのは、警察ではなく、一人の雑誌記者だった。写真週刊誌『FOCUS』の記者・清水潔氏は、独自の取材によって警察よりも先に実行犯グループの存在を突き止め、警察の捜査の遅れと組織的な怠慢を報道した。テレビ朝日の『ザ・スクープ』でジャーナリストの鳥越俊太郎氏もこの問題を大きく取り上げ、警察対応の検証番組を放送した。鳥越氏は「被害者は2回殺された。

1回目は犯人に、2回目はマスコミによって名誉をズタズタにされた」という強い言葉で、当時の報道被害の問題にも警鐘を鳴らしている。実際、事件発覚当初、警察からの情報がそのまま垂れ流される形で、彼女について「ブランド品狂い」「風俗嬢だった」といった不正確なイメージが報道されてしまった経緯があり、ジャーナリストの佐野眞一氏も「警察がでっちあげた虚偽を検証せず、被害者の人格を傷つけた」と厳しく批判している。

実際には彼女は決して派手な浪費家ではなく、友人の頼みで短期間だけ風俗店で働いた経験があったに過ぎなかったことが、後の詳細な取材で明らかになっている。 2000年3月7日には、国会の参議院予算委員会でもこの問題が取り上げられ、当時の警察庁長官が「怠慢でございました」と明確に非を認める答弁を行った。

遺族は2000年12月、埼玉県に対して1億1000万円の国家賠償請求訴訟を提起し、2003年2月の地裁判決では、警察の対応を「不誠実」と断じた上で550万円の賠償が命じられたものの、捜査の怠慢と殺害との直接的な因果関係については否定された。この判断は2005年の高裁判決、2006年8月の最高裁判決でも維持され、確定した。

判決後、彼女の母親は「警察が助ける機会を逃したのに、(悔しさを)一生言い続けるつもりだ」と語ったと報じられている。 ネット上では、事件発覚から現在に至るまで、警察の対応への強い怒りの声が絶えず投稿され続けてきた。

掲示板やSNSでは「なぜ告訴状を書き換えるという発想に至ったのか」「命の危険を訴えていた被害者を、なぜ守れなかったのか」といった疑問と憤りが繰り返し語られ、桶川事件は「警察に頼っても守ってもらえない典型例」として、後年発生した類似のストーカー事件やDV事件のたびに引き合いに出されるようになった。

同時に、記者の清水潔氏や鳥越俊太郎氏の取材活動を「マスコミが警察の不作為を暴いた数少ない成功例」として評価する声も多く、事件はジャーナリズムのあり方を考える上での重要な事例としても語り継がれている。 この事件を直接の契機として、日本は2000年5月18日、「ストーカー行為等の規制に関する法律」(ストーカー規制法)を制定し、同年11月24日に施行した。

それまで日本にはストーカー行為そのものを取り締まる法律が存在せず、被害者は「実際に何か被害が発生するまで」警察が動けないという構造的な問題を抱えていた。桶川事件は、まさにその構造的欠陥が一人の若い女性の命を奪った象徴的な事例として、法整備を強く後押しすることになったのである。

もっとも、この法律には当初、電子メールやSNSでの執拗な連絡を規制する規定が含まれておらず、2012年に発生した逗子ストーカー殺人事件では、まさにその抜け穴が問題視されることになった。この教訓を踏まえ、ストーカー規制法はその後も繰り返し改正が重ねられ、SNSでの執拗な接触やGPSを用いた位置情報の無断取得なども規制対象に加えられていった。

桶川ストーカー殺人事件は、単なる一つの殺人事件としてだけでなく、被害者が公権力に助けを求めたにもかかわらず、その公権力自身によって見捨てられたという、極めて重い教訓を日本社会に残した。彼女が繰り返し警察に足を運び、危険を訴え続けていたという事実は、記録として明確に残っている。

それにもかかわらず、彼女の命を救うことができなかったという結果は、その後のストーカー規制法制定や警察の対応マニュアル整備という形で、制度的な反省へとつながっていった。しかし、その後も日本各地でストーカーが絡む殺人事件は後を絶たず、法律や制度が整えられた後もなお、「相談したのに守ってもらえなかった」という被害者の声が繰り返し報じられている。

桶川事件が問いかけたのは、法律の有無だけでなく、一人ひとりの被害者の訴えに真摯に向き合う組織文化そのものの重要性だったと考えられる。彼女の死は無駄にはならなかったが、同じ悲劇を完全に断つには、今なお課題が残されている。

桶川事件が残した捜査と報道の課題

1999年10月、埼玉県桶川市のJR桶川駅近くで、大学生の猪野詩織さんが刺殺された。事件前から元交際相手とその周辺者によるつきまとい、脅迫、中傷が続き、家族は警察へ相談していた。殺害を実行した人物だけでなく、組織的な嫌がらせや犯行の指示に関わった複数人が捜査対象となった。

警察への告訴相談では、被害申告の扱いが適切でなかったことや、文書の内容が変更された問題が明らかになった。埼玉県警は後に調査結果を公表し、関係者の処分も行った。被害者が警察へ行かなかったのではなく、助けを求めた記録があった点を外して「逃げればよかった」と語ることはできない。

週刊誌『FOCUS』の記者らは、警察発表に頼らず嫌がらせの関係者を追い、犯行グループへ迫る報道を行った。この取材は事件解明へ影響した一方、現在同じことを名乗って関係者宅へ押しかける行為が正当化されるわけではない。報道の公益性、取材方法、個人情報の扱いを分けて評価する必要がある。

事件後、2000年にストーカー規制法が成立した。つきまとい、待ち伏せ、面会要求、連続した電話などを規制し、警察による警告や禁止命令の仕組みが設けられた。その後もSNSや位置情報など新しい手段へ対応する改正が重ねられている。法律ができたから被害が自動的に防がれるわけではなく、相談時の危険評価と迅速な保護が必要になる。

元交際相手が死亡したため、その人物に対する刑事裁判で全容が認定されたわけではない。実行犯らへの判決、民事訴訟、警察の調査報告を別々に読み、誰にどの責任が認められたかを混同しないようにしたい。出所不明の相関図へ周辺人物を追加すれば、無関係な人を共犯者扱いする危険がある。

詩織さんの服装や交際歴を事件の原因として並べる報道は、被害者へ責任を移す。記事では中傷ビラの文言を繰り返すより、それが加害側による信用毀損の手段だったことを示すべきである。現在つきまとい被害を受けている人には、緊急時の110番、警察相談、支援機関、証拠保存の方法を案内することが、事件を過去の惨劇だけで終わらせない。

参照:警察庁「ストーカー事案への対応」https://www.npa.go.jp/bureau/safetylife/stalker/

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