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🏚️ 軍艦島(端島)の怪異譚

海の上に、黒い塊が浮かんでいる

最初は、岩礁にしか見えない。長崎港から南西へおよそ19キロ、船で沖へ出ると、水平線の手前に黒っぽい塊が浮かんでいるのが見えてくる。近づくにつれて、塊の肌に四角い穴がびっしりと並んでいるのが、少しずつ分かってきた。どれもこれも、窓、窓、窓。

黒い塊。初めて島を見た人の感想は、たいていそこへ落ち着く。晴れた日でも島の輪郭は鉛色に沈み、建物の1つひとつが影のように重なり合って見える。窓は数えきれないほどあるのに、その奥には明かりも人影も見えず、四角い闇がただ口を開けている。

東西は160メートル、南北は480メートル。ぐるりと一周しても1,200メートルほどにしかならない、船の上から見ればひと呑みにできそうな小さな島だ。端から端まで、のんびり歩いても10分とかからない。そんな狭い場所に、かつては大勢の人間がひしめき合って暮らしていた。

正式な名前は端島だが、いまではほとんどの人が、軍艦島の名前で呼んでいる。世界文化遺産に登録された観光地でありながら、オカルト好きの間では別の顔で語られてきた。行ってはいけない場所、という顔。怖いのに、人は集まってくる。この二重の顔が、島の怪談をほかのどこの話とも違うものにしているんだよな。

戦艦に似ているから、軍艦島

あだ名の由来は、船の形にある。1921年に長崎日日新聞が、三菱重工業の長崎造船所で建造中だった戦艦「土佐」に似ていると書いたのが始まりだった。その呼び名がじわじわと広まって、そのまま定着したらしい。

海から眺めると、高い壁のような護岸の上に、コンクリートの建物がいくつも重なって立っている。波を切って進む軍艦の艦橋。言われてみれば、そう見えなくもない独特の形をしている。島を見上げた新聞記者が思わず例えたくなった気持ちも、分かる気がする。

意外なのは、この島が最初から今の大きさだったわけじゃないことだ。1897年から1931年にかけて、6回に分けて埋め立て工事が行われた。面積はもとの約3倍にふくらんだというから、半分以上が人の手で作られた島になる。

外周を固める護岸は、「天川工法」と呼ばれる石組みで、明治の時代に積まれたものが島を囲んでいる。炭鉱が大きくなるにつれて人が増え、住む場所が足りなくなるから、また少しずつ、沖へ向かって海を埋めていく。この繰り返しを何十年も続けた末に、ただの岩礁は少しずつ街の形へ育っていったのだ。

石が燃える島だった

端島で石炭が見つかったのは、江戸時代の後期にあたる1810年ごろだと伝わっている。1760年代にさかのぼる記録もあるが、はっきりした年は分からない。どちらの説をとっても、江戸の後期にはすでに、人が島の石を掘り出していたのは間違いない。

島が変わったのは、明治も半ばの1890年。三菱が島を丸ごと買い取り、本格的な海底炭鉱として動き出す。掘る相手は波の下に眠る良質な石炭で、国の産業を回すための大切な燃料として、全国から求められていた。

かつて石炭は、黒いダイヤとまで呼ばれた。工場の機械も、海を行く船も、走る鉄道も、それぞれ石炭を燃やして動いていたのだから、価値が高いのも当然だ。島の下から掘り出される黒い塊が、遠く離れた街の家々や工場の暮らしまで、じかに温めていたわけだ。島で働く人が自分の仕事に誇りを抱いたとしても、少しも不思議じゃない。

1916年、島に日本で最初の鉄筋コンクリートの高層アパートが建った。30号棟。島の狭い土地に大勢の人を詰め込むには、横へ広げられない以上、上へ積むしか手がない。その答えとして選ばれたのが、荒い潮風にも耐えるうえに火事にも強い、鉄筋コンクリートの高い建物だった。

以後、同じような棟が次々と建っていく。いま写真や映像で目にする軍艦島の姿は、すべてこの延長線の先にあるものだ。あの黒い要塞みたいな景色は、石炭を掘るために必死でひねり出した、街の形なんだ。

水券を握りしめた暮らし

人口が最も多かった年は、1960年。この年の島には、子どもから年寄りまで合わせて5,267人もの人が、狭い土地にひしめき合って暮らしていた。1平方キロあたりに直すと8万3,600人になり、東京の特別区の9倍以上というから、数字を見るだけでも、息の詰まるような混み具合が伝わってくる。

ところが島には、湧き水がまったくなかった。水がない。明治のころは、海水を蒸留して作った水を、島の住人へ配っていたという。海底水道が通る1950年代までは、水そのものが貴重品で、住民は「水券」を受け取って、決まった量の水を、大切に分け合っていた。

エレベーターはなく、共同のトイレを使う棟も多い。それでも島には、小学校も中学校も、病院も商店も映画館もそろっていた。1927年に建った映画館の昭和館は、アールデコ風の洒落た造りで、1970年まで島の娯楽を支えた。

島の学校の歴史は、1893年に設立された、会社立の尋常小学校から始まっている。のちの小学校と中学校は、70号棟という大きな建物に入っていた。子どもたちは、海に囲まれた校舎で、毎日同じ波の音を聞きながら机に向かっていたわけだ。

高い建物の屋上へ、わざわざ土を運び上げて、小さな畑や色とりどりの花壇を作る人もいたのだという。土のない島へ、土そのものを持ち込んだのだ。緑が欲しかったのだろう。コンクリートと海しか見えない暮らしのなかで、屋上だけが小さな庭になっていた。

エレベーターで海の底へ

けれど、この島の本当の主役は、人の暮らす地面のさらに下にあった。地の底の話。鉱員たちの毎日は、地の底へ降りることから始まる。

最初の関門は、検身所。煙草もライターもマッチも、火の気のあるものは持ち込めず、すべて預けなければならない。坑内にはガスが出るため、小さな火花ひとつが命取りになるからだ。

次に乗るのは、ケージ。大きなエレベーターで、これが坑内への入り口になる。25人ずつが上下2段に詰め込まれ、秒速8メートルの速さで、約2分30秒かけて海の底へ落ちていく。ようやく降り立つのは、海面下606メートルあたりの深さにある坑道だ。

そこから400メートルから500メートルを歩き、傾斜が21度もある人車に後ろ向きで乗る。トロッコ列車のような乗り物だ。向かう先は海面下800メートルから1,000メートルの採炭現場で、いちばん深い坑道に至っては、海面下1,000メートルを超えていた。

現場では、8人から10人ほどの組をつくって、息の詰まるような熱気のなかで、ひたすら石炭を掘り続けた。頭の上には海がある。足元からは熱が上がってきて、ところによってはガスまで湧いてくる。そんな場所へ毎日通っていたのだと思うと、軍艦島の怖さの根っこが少し見えてくる。

1935年3月26日、10回の爆発

石炭の質がいい鉱山ほど、地中から出てくるガスの量も多くなるのだという。端島はその典型だったらしい。事故の記録は、年と人数を淡々と並べていくだけでも、ずしりと胸にのしかかってくるほど重く感じられる。

1935年3月26日、第一坑でガス爆発が起きた。爆発は翌日の午後4時までに、大小合わせて10回も続いたという。死者17人、重軽傷者17人。

1939年にも、坑内でガスの爆発があり、死傷者は34人と記録されている。1956年にはガスが一気に噴き出す事故が起きて、3人が亡くなった。どちらの事故も、石炭を掘り出すことの引き換えに、島が払わされた代償だった。

なかでも最もよく知られているのは、昭和39年にあたる1964年の事故だ。お盆休みが明けた8月、海面下940メートルあたりの坑道で自然発火が起きた。炎は広がり、最初の被害で10人、続く被害で21人が負傷している。合わせて31人。亡くなった人もいた。

火を鎮めるために、会社は深い区域の坑道へ、海水を流し込む方法を選んだのだ。石炭の層ごと海水に沈めて、火を消し止めるという、思い切ったやり方だった。この事故で石炭の出荷はいったん止まり、その空白は約1年2か月にも及んだ。のちに炭鉱の規模が縮んでいく流れの中で、大きな痛手となった事故だった。

代わってもらった、あの日の勤務

軍艦島デジタルミュージアムのスタッフが、この1964年の事故について、ブログに書いている。書かれているのは、事故にまつわる、そのスタッフ自身の父親の体験談だ。

事故の起きた日、父親は三番方という勤務で坑内へ出る予定だった。ところがなぜか、その日に限って、異常なほど出勤するのを嫌がったという。結局、父親は友人に頼み込んで、その日の勤務を代わってもらったのだった。

代わった友人が、事故に遭って負傷した。父親はその後、坑内に入るのが怖くなって長く苦しんだと綴られている。助かった側に残った恐怖が、そのまま家の中にまで居座り続けたのだろう。

怪談は、こういう話の延長線上に生まれる。虫の知らせとか、嫌な予感とか。説明のつかない感覚が、事故の生々しい記憶にくっついて、いつしか語られていく。だから島の怪談の根っこは、作り話じゃなく、現実の出来事と地続きなんだよな。

火葬認可証が残した数字

戦時中の島では、日本人のほかに、朝鮮半島や中国から来た人たちも働いていた。朝鮮人労働者の集団移入が本格化したのが1939年で、中国人捕虜の労働が始まったのが1943年だ。ここは、避けて通れない。

過酷だったと伝わる労働の実態は、いくつもの証言や資料に残されている。重い話。ここに1つ、動かない数字。1939年から1945年にかけての「火葬認可証下付申請書」に記された、島での死者の数だ。

日本人が1,162人、朝鮮人が122人、中国人が15人。足すと1,299人になる。事故で亡くなった人も、病気で亡くなった人も、この数の中に混ざっているはずだ。

紙に書かれた数字は、人の口から口へ伝わる噂話とは違って、簡単には消えない。1,299人分の亡くなった記録が、当時の役所の書類に、確かに並んでいる。島の下の坑道でも、島の上の暮らしの中でも、これだけの人が命を終えた。軍艦島に無数の霊がさまよっているという噂が生まれる土壌は、確かにここにある。

軍艦と間違えられた、という噂

戦争末期の1945年6月、米軍の潜水艦が、島の近くに停泊していた石炭運搬船の白寿丸を魚雷で沈めた。これは、記録に残る出来事。

そこに、噂が1つくっついた。米軍は端島を本物の軍艦だと勘違いして、魚雷を撃ち込んだのだという話だ。あくまで噂話として語られているだけで、いまとなっては確かめる手立てもない。

それでも、この噂話は、島の見た目と重ねてみると、なぜか妙にしっくりくる。なにしろ、戦艦に似ているからという理由で、軍艦島と名づけられたほどの島なのだから、その見間違いも、聞く側にはすんなり納得がいってしまう。本物の艦と見間違われたと聞けば、誰もが納得したくなってしまう。事実か作り話かは別にして、島の姿が人の想像をかきたてる好例だ。

閉山の前の年、高波にさらわれた人

1960年代から、日本のエネルギーの主役は石炭から石油へ移っていった。安い石油が大量に入ってくると、国内の炭鉱は競争に勝てなくなる。全国で炭鉱の閉山が相次ぐなかで、端島もその流れから逃れることはできなかった。

閉山の前の年にも、悲しい事故があった。1973年1月、ゴミを捨てに出ていた女性が、高波にさらわれたのだ。島は四方を海に囲まれていて、護岸を越えてくる波は、ときに人の命まで持っていった。

炭鉱の外にも、島の暮らしには危険が潜んでいた。島が海の上に立っている以上、波と風は、いつでも生活のすぐ隣にある。そのことを承知のうえで、住民たちはこの小さな島に、自分たちの家を構えていた。

閉山式から3か月で、人が消えた

1974年1月15日、三菱が島を買ってから84年続いた端島炭鉱が、ついに閉山した。長い歴史の幕が、あっけなく降りた日。

閉山のとき、島にはまだ2,000人ほどが暮らしていて、その全員がやがて去っていった。住民は4月20日までに、全員が島を出ていった。閉山式から数えると、わずか3か月あまりで、島から人の姿が消えたのだ。

引っ越しは慌ただしかった。船で運べる荷物には限りがあるから、家財道具を残して乗り込んだ家も多い。食器棚には皿が並び、机の上には本が積まれ、壁にはカレンダーが掛かったままの部屋が、島のあちこちに生まれた。

軍艦島の心霊話を1つずつたどっていくと、たいていこの置き去りの光景に行き着く。ある解説サイトも、家具や家電がそのまま残され、島民だけが消えたように見えるこの環境が、軍艦島で噂の出やすい理由だと書いている。生活の跡が生々しく残っているほど、人はそこに誰かの気配を探してしまうんだ。

誰も住まない島の35年

閉山から上陸が解禁される2009年までの35年間、島には誰も住んでいなかった。生まれた赤ん坊が、立派な中年になるほどの長さだ。台風が来るたびに潮をかぶり、コンクリートの壁は、風と雨と塩に少しずつ削られて、傷みを深めていった。

2001年に、島は三菱マテリアルから、当時の高島町へ無償で譲られた。2005年には高島町が長崎市に編入され、島も長崎市のものになる。建物が傷んでいて危険だったため、島への立ち入りは、長いあいだ制限されたままだった。

日本最古の鉄筋アパートである30号棟でさえ、倒壊の危機にあると、長崎のニュースサイトで報じられたことがある。人が住まなくなった建物は、手を入れる人がいなくなるせいで、驚くほど早く傷むものだ。住人が手入れをやめた瞬間から、建物はじわじわと、確実に朽ち始めていく。

その間、島は海の上で孤立していた。夜は真っ暗で、聞こえるのは波の音のみ。窓の奥には、使い手のいなくなった部屋が並ぶ。誰も見たことのない島の内側を、人は自分の恐怖や好奇心で、勝手に想像してしまう。噂が育つには、絶好の環境だった。

上陸解禁、初月に4,601人

2009年4月22日、立ち入りを制限されていた島の一部が、ついに観光客へ開かれた。上陸ツアーの解禁。最初の1か月だけで、4,601人が足を踏み入れたという。

それまで写真でしか見られなかった廃墟に、実際に立てる。この魅力は大きかった。ツアーに参加した人は、崩れかけの高層アパートや、机が残る教室を、すぐ目の前で見ることになる。

見学できる場所は、決められた通路に限られている。建物の中へ自由に入ることはできない。それでも、通路から窓の奥の暗がりに目を凝らす人は、きっと多いはずだ。

2015年7月には、「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の1つとして、世界文化遺産に登録された。島はその独特の姿のおかげで、映画やゲームの舞台にも、下敷きにもなっている。島は一気に有名になり、心霊スポットとしての評判も、ネットの口コミに乗って同じ速さで広まった。

ストリートビューに写った「手」

軍艦島の怪異として、真っ先に名前が挙がる話がある。2013年ごろ、グーグルのストリートビューに島内の画像が載った。その中に、人の手だけが写っていると、ネットで話題になったのだ。

話は、あっという間に広まった。2013年の6月と10月には、手が写っているという書き込みが残っている。心霊写真として、まとめサイトや動画でも繰り返し取り上げられた。手だけが写っていて、足場も人影も見当たらない。そこが怖い。

一方で、冷静な説明もあった。ストリートビューの撮影をした作業員の手が、たまたま映り込んだのではないか、というものだ。島の解説サイトにも、撮影スタッフの手が写った可能性が高いと書くものがある。

道のない場所では、人が機材を背負って歩きながら撮影する。体の一部が画面の端に入り込む余地は、確かにある。理屈は、通る。

それでも疑問は消えなかった。なぜあの角度で、あの場所に写ったのか。その不自然さこそが、ただの写り込みだったかもしれない一枚を、島の看板のような怪談に押し上げた。説明がついても、怖さは薄まらないんだ。

カーテンが揺れる窓、踊り場の影

島の怪談には、同じ型の話が何度も出てくる。1つ目は、無人の建物の窓辺だ。誰もいないはずの部屋の窓に、白っぽい人影が立っていた、という話になる。

2つ目は、窓の向こうのカーテンだ。風の通らない造りの部屋で、カーテンだけがふわりと揺れた。風のせいにはしにくい話だから、聞いた人の記憶にも深く刺さってしまう。

3つ目は、階段の踊り場だ。撮った写真を後から見返すと、誰もいなかった場所に、うっすらとシルエットが写っている。ツアー客の写真に関する話として、ネットにはこの手の投稿が並ぶ。

人の目は、点が3つ並んだだけで顔を見つけてしまうようにできている。暗い窓の奥や、壁のシミの並びが人影に見えるのは、そのせいだ。ましてここは、人の暮らした跡が残る場所。そういう場所で、気配を探そうとして目を凝らせば、見つかってしまうのは当然のなりゆきだった。

もちろん、どれも確かめようのない話だ。ただ、型がそろっていることには注目したい。窓辺、カーテン、踊り場。どれもこれも、人が暮らした家の中にいつもあったものばかりなんだ。幽霊が出るならきっとこういう場所だと、誰もが思うからだろう。

録音にだけ残る声

島は、心霊特集のロケ地にもなってきた。廃墟の中へカメラとレコーダーを持ち込み、心霊音声を録ろうとする企画もあったと聞く。

その手の企画から生まれる怪談には、判で押したような決まった話型がある。現場では誰の耳にも何も聞こえなかったのに、後で機材を再生してみると、低い呻き声のようなノイズが入っていた、というものだ。

軍艦島を舞台にした話も、例外じゃない。誰もいない部屋で録った音に、「うー」という声が混ざっていたと語られる。人の耳には最後まで届かず、機械にだけ静かに記録されてしまう、奇妙な声だ。

録音機は、人の耳と違って、小さな音まで平らに拾ってしまう。遠くの波音や、建物の中を抜ける風や、どこかで鳴る金属のきしみが、低い唸りになって混ざることもある。それでも、誰もいない無人の部屋で、機械だけが何かを拾ってしまったのだと思うと、背筋が冷える。

光の玉と、終わらない言い合い

ネットには、観光客が島で撮った写真に「光の玉」が写り込んでいるという投稿が、定期的に流れてくる。オーブと呼ばれるものだ。流れてくるたびに、少し話題になる。

すると決まって、反論が付く。ほこりや水滴にストロボの光が反射しただけではないか、という指摘だ。レンズに光が入って生まれるゴーストやフレアだという声もある。

どちらの言い分にも、一理ある。島の空気は潮と砂ぼこりに満ちていて、写真に玉が写る条件は十分にそろっているのだ。その一方で、玉が写った場所が人の暮らしの跡だと聞けば、人は別の物語を見たくなる。

こうした言い合いは、島の話題が出るたびに何度も繰り返されてきた。決着はつかない。ただ、決着がつかないからこそ、話題は絶えないのだと思う。

故郷としての島

廃墟として、心霊スポットとして語られる島が、誰かにとっては故郷だった。この当たり前のことを、つい忘れてしまう。

学校へ通った子どもがいた。映画館で胸を躍らせた人も、屋上の畑で土をいじった人も、水券を握って並んだ人もいた。笑って、泣いて、ときには喧嘩もして、みんなここで暮らしを重ねていたのだ。

窓の奥の人影も、踊り場のシルエットも、ひょっとするとそこに暮らした誰かの気配なのかもしれない。そう考えると、怖いだけだった景色が、少し違って見えてくる。

軍艦島デジタルミュージアムのような場所があるのは、島の記憶を残したい人たちがいるからだ。怪談は、そうして残された記憶の、いちばん外側にぽつんと貼りついている。内側には、人の暮らしが厚く詰まっている。

船が島を離れるとき

見学が終わると、船はゆっくり岸を離れる。さっきまで足の下にあった護岸が、波の向こうへ遠ざかっていく。

島の輪郭が小さくなる。船の上から島のほうを見やると、建物の窓がずらりと並んでいる。どの窓の奥も、真っ暗。誰も見ていないのに、窓だけがこちらを見送っているように感じる。

エンジンの音が高くなる。波の音にかき消されて、島のことはもう聞こえない。ただ、あの黒い塊だけが、長崎の沖の海の上に、ぽつんと残っている。

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