「ワクチンに小さなチップが入っていて、5Gで接種者を監視する」。新型コロナウイルスの流行中、そんな話がSNSで広がった。結論から言えば、ワクチンにマイクロチップが含まれる証拠はなく、5G通信につながる仕組みもない。公開されている成分とも一致しない。
では、なぜここまで突飛な話が世界を回ったのか。ここからが、この都市伝説のややこしいところだ。出発点には実在する発言と研究があり、それらの関係を取り違えた説明が何度も上書きされていた。
別々の話が一本につながった
話の出発点は、2020年3月19日にビル・ゲイツ氏が参加したオンラインの質問企画である。そこで新型コロナ対策について、検査結果やワクチン接種状況を示すデジタル証明書が使われるだろう、という趣旨の発言をした。これは記録を電子的に確認する話で、体内へチップを入れるという内容ではない。
ところが翌日、あるウェブサイトが、この発言とゲイツ財団が支援していた別の研究を結びつけた。その研究は皮膚に接種記録を残す技術に関するもので、5Gで人を追跡する計画ではなかった。もともと、この発言とこの研究は別々の文脈にある話だ。それでも記事の見出しでは「マイクロチップでコロナと戦う」という方向へ意味が変わった。
さらに牧師の動画や著名人のラジオ発言、大手紙の記事を通じて話が拡散した。重なったのは、元の発言、別分野の研究、それに誰かの解釈だ。最後には、「ワクチンに監視チップが入る」という一つの物語になった。引用元が実在するため、全部が裏づけられているように見えたのが厄介なところだ。
5G説と混ざり、現実の被害へ
噂は、「5G電波がウイルスを広げる」という別の主張とも合流した。英国などでは通信設備への放火が相次ぎ、5Gとは無関係の設備まで被害を受けた。根拠のない話が、現実のインフラ破壊につながったのである。
世界保健機関は、感染症と同時に誤った情報が大量に広がる状態を「インフォデミック」と表現した。不安が強い時期には、情報の正しさより、怒りや恐怖を強く引き起こす投稿が先に共有されやすい。SNSでは反応の多い投稿がさらに目立つ。そのため、同じ主張を何度も見るうちに、多数の人が認めた事実のように感じられる。
しかし、投稿数や再生数は証拠の質を示さない。「多くの人が疑っている」ことと、「物理的に実現している」ことは別だ。
日本ではどう広がったか
日本にも海外の動画や投稿が持ち込まれ、「マイクロチップを埋め込まれる」「人口削減が目的だ」といった主張が広がった。2021年には関連する内容を掲げる書籍が複数出版され、公共図書館にも所蔵された。X、Facebook、YouTubeなどを通じた拡散も調査されている。
未知の感染症への恐怖、短い間隔で更新される公的情報への戸惑い、政府や専門家への不信が同時に存在した。そこへ、監視社会や大企業への不安が結びついた。複雑な状況を「誰かが裏で仕組んだ」という一つの原因で説明する話は、分かりやすい。分かりやすさは、正しさとは別なのだが、混乱の中では強い説得力を持ってしまう。
この話を信じた人を笑うだけでは、同じことを防げない。どの情報がどこで変形したかをたどり、主張と資料を分けて確認するほうが役に立つ。
成分と通信の仕組みから確認する
念のため、成分と通信の仕組みから確かめておこう。ファイザー社とモデルナ社のワクチン成分は公開されており、マイクロチップに当たるものは含まれていない。注射器を通るほど小さい追跡装置が、電源もアンテナもないまま5G基地局と通信し、個人を継続的に監視するという仕組みも示されていない。国内外の検証でも、この説を支える一次資料は確認されていない。
ワクチンの効果や副反応を検討することと、5Gチップ説を受け入れることは同じではない。医療上の疑問は、公開データや専門的な検証にもとづいて個別に考えられる。一方、監視チップという主張には、その装置の実物、成分表、通信方法といった基本的な証拠がない。
この都市伝説が示したのは、ワクチンに秘密の機械が入っていたことではない。むしろ、実在する断片をつなぎ替えた物語が、非常時には現実の行動まで動かすということだ。
強い言葉を見かけたら、最初の発言まで戻る。別の研究が混ぜられていないかを見る。主張を裏づける現物や一次資料があるか確かめる。その地味な手順が、インフォデミックに対するいちばん現実的な防波堤になる。
