注射一本で監視される、という噂
2020年代の日本で、外せない都市伝説がひとつある。新型コロナワクチンに5Gチップが入っている、という話だ。ワクチンにマイクロチップが仕込まれていて、打った人は5G通信網で監視・管理されるというのが噂の中身だった。笑い話で済めばよかった。
この噂はSNSで爆発的に広がり、日本でも一定数の支持者がついている。しかも実害まで出ている。海の向こうの与太話が、どうやって日本の図書館や銀座の路上までたどり着いたのか、道のりがけっこう生々しいんだよな。
始まりはゲイツ氏の何気ないひと言
発端は意外と地味だった。2020年3月19日、マイクロソフト創業者のビル・ゲイツ氏がRedditに登場した。誰でも質問を投げられる「Ask Me Anything(何でも聞いて)」という企画で、新型コロナ対策に答えていたんだ。ウイルスの正体すら、世界がまだつかみきれていなかった頃のこと。
彼の答えはこうだ。検査結果やワクチンの接種状況を示すデジタル証明書が、いずれ発行されるだろう。別の伝え方では、誰が検査を受けて誰が回復し、最終的に誰が接種したかを示す証明書が必要になる、という趣旨だった。公衆衛生の技術的な提案で、陰謀めいた要素はどこにもない。
ところが翌日、話がねじれる。バイオハック系のウェブサイト「Biohackinfo」が、この発言を別の研究とくっつけたんだ。ゲイツ財団が資金を出していた研究で、皮膚の下に極小のマーカーを注入し、紫外線で読み取って接種歴を残す技術だった。途上国でワクチンを広めるための研究で、皮膚に接種記録を刻む技術とも紹介されている。
記事の見出しはこうだった。「ビル・ゲイツはマイクロチップでコロナと戦うつもりだ」。もとの発言にチップの話は出てこないのに、無関係な研究と並べただけで急にそれっぽく見えるのが怖いところだ。この記事からさらに2日後、次の役者が出てくる。
牧師の動画、元顧問のラジオ、そして100万シェア
今度は動画。記事に影響を受けた米国のある牧師が、中身をなぞる形でYouTubeに長い解説動画を投稿した。動画はあっという間に広がり、最終的に160万回以上も再生された。ネットの片隅の記事が、声と顔のついた「解説」に化けたことで、届く範囲が一気に広がっていったわけだ。
決定打は4月に来た。元トランプ政権顧問のロジャー・ストーン氏が、2020年4月13日のラジオ番組でこう言い切ったんだ。「グローバリストはワクチンにマイクロチップ技術を用いている」。この発言を「グローバリストたちはワクチンにマイクロチップ技術を組み込もうとしている」と伝える資料もある。
肩書きの力は大きい。無名の牧師の動画と違って、元政権顧問の口から出た言葉は、それだけで「事情を知る人の証言」っぽく聞こえてしまう。そこに大手の紙面まで加わったのが大きい。
この発言をニューヨーク・ポストが報じた。大手タブロイド紙が取り上げたことで、話はにわかに信憑性を帯びたような空気をまとった。Facebook上だけで100万回以上シェアされ、証明書の話が「ワクチンにチップ」の物語へすっかり化けてしまったんだ。文字どおりの大炎上。
日付を並べると、その速さがよくわかる。3月19日に発言、翌日に記事、その2日後に動画、そして4月13日にラジオ。技術的なひと言が、一か月もたたないうちに世界規模の「チップ騒動」へ膨れ上がったわけで、ちょっと寒気がする。いくらなんでも早すぎる。
並べてみると型がある。実在の発言の切り取り、無関係な研究との結びつけ、著名人の断定、大手メディアの見出し。この4段階を経て、ただの技術的なひと言が、確立した「事実」みたいな顔をするところまで仕上げられていったんだ。現代の陰謀論が生まれる教科書的な例として、しばしば引き合いに出される一件だ。
イギリスでは基地局に火がつけられた
噂は海を越えた。やがて大西洋を渡ってイギリスなど各国に飛び火し、まったく別の筋で語られていた説と合流する。「5Gの電波が新型コロナウイルスを広めている」という説だ。もともと独立した主張だったのに、「ワクチン」と「5G」という不安のキーワードがつながり、ひとつの物語にまとまっていった。
完成形はこうなる。ワクチンに仕込まれたマイクロチップが、5G通信網を使って接種者を監視し、管理する。パーツを寄せ集めただけなのに、合体したとたんに妙な説得力が出てしまうのが、この手の話のいやらしいところなんだよな。イギリスでは、これが放火にまでつながった。
基地局が燃やされたんだ。5G基地局への放火事件が相次ぎ、複数の携帯電話基地局が実際に火をつけられた。皮肉なことに、被害を受けた設備の多くは5Gと無関係な旧世代の通信インフラだったと、後の調査で明らかになっている。怒りの矛先まで的外れだったわけだ。
新しい言葉まで生まれた。世界保健機関(WHO)は、こうした情報の異常な氾濫を「インフォデミック」と呼んだ。「パンデミック」と「インフォメーション」を掛け合わせた造語で、情報のあふれ方そのものを流行病になぞらえた呼び名だ。
数字もえげつない。2020年の約11か月間だけで、52か国24言語にわたり637件もの関連する噂や陰謀論が確認された。これをある研究の集計として紹介する資料もあれば、WHOの記録として伝える資料もある。どちらにしても、1年足らずでこの量だ。
日本上陸、図書館の棚にまで
日本にも入ってきた。反ワクチンの立場で書かれた本が、2021年に何冊も出版されている。中身には「マイクロチップが埋め込まれる」「遺伝子組み換え生物にされてしまう」などの主張が含まれていた。神戸大学のリポジトリに収められた論考によると、こうした本は政令指定都市の公共図書館にも所蔵されていた。
チップだけの話じゃない。遺伝子組み換え生物にされる、というのはまた別方向の怖さだ。体に機械を入れられる不安と、体そのものを作り変えられる不安が、同じ本の中に並んでいたことになる。
図書館の件も重い。噂がネットの中だけでなく、公的な情報インフラの中にまで静かに紛れ込んでいたことになるからね。図書館の棚に、ほかの本と同じ顔をして並んでいたんだ。SNSのほうはもっと派手だった。
舞台はSNSに移る。主戦場はX(旧Twitter)、Facebook、YouTubeの三つだった。翻訳された海外発の言説と、日本流にアレンジされた言説とが入り混じりながら、じわじわと拡散していったんだ。総務省の委託調査「Innovation Nippon 2022」は、陰謀論が三つの場をまたいで広がった経路を記録している。
SNSのアルゴリズムそのものが、噂の増幅装置として働いていたという指摘もある。中でも飛び抜けていたのが、ある投稿者の主張だ。コロナワクチンを打つと身体が乗っ取られ、脳が5GでAIとつながり、精神がクラウドにアップロードされる、というものだった。もはやSF小説の粗筋だ。
チップ、5G、AI、クラウド。流行りの技術用語を全部盛りにしたような話で、書いた本人がどこまで本気だったのかはわからない。突っ込みどころしかないのに、話はここで終わらなかった。
ところが、これが回った。大量にリツイートされ、まとめサイトに転載されて、さらに二次拡散していく現象まではっきり観察されている。笑っていられないのは、次の数字を見てからだ。
日本人の4割が揺れていたという数字
調査の中身はこうだ。厚生労働省関連の研究機関が、「世界の黒幕が人口削減のためにワクチンを使っている」という説について検証した。「信じていた」と答えた人が11.1%、「迷っていた(判断を保留していた)」人が31.4%にのぼったんだ。足すと、およそ4割になる。
4割って、相当だよね。日本人のおよそ4割が、この陰謀論に何らかの形で触れて、態度を保留したり肯定したりしていたことになる。一部の特殊な人たちの妄想、と片づけるのは危うい。数字の大きさが、それをはっきり突きつけてくる。
内訳も見ておきたい。はっきり信じていた人は1割ほどで、迷っていた人はその3倍近くいたことになる。白黒をつけられずに、宙ぶらりんのまま揺れていた人のほうがずっと多く、そこに噂の根の深さが見える。
噂は街頭にも出てきた。2022年1月、東京・銀座の中心部でデモ行進が行われている。根拠に掲げられたのは副反応疑いの死亡報告数で、「ワクチンの本当の目的は人口削減だ」と訴えながら歩いたんだ。通行人の間でも話題をさらった。画面の中で回っていた話が、とうとう人の列になって銀座の中心部を歩いたわけだ。
腕にスプーンがくっつく動画
チップの噂には枝分かれもある。ワクチンを打った場所に、磁石がくっつくようになるという噂だ。接種部位に体内埋め込み型のマイクロチップか、あるいは磁性を持つ物質が仕込まれている証拠だとされたんだ。世界各国で、腕にスプーンやコインをくっつけてみせる動画が大量に投稿された。
日本も例外じゃない。似た映像がSNSや動画サイトで広がり、腕に磁石が吸着しているように見える女性の動画が話題になった例も報告されている。ただ、ワクチンの成分に磁性を帯びる物質は入っていない。汗や皮膚の凹凸、軽い圧着で、軽い金属片が一時的に肌に留まっているだけ、というのがその説明だ。
それでも映像は強い。見た目のインパクトのせいで、この「磁石」版はマイクロチップ本体の噂から離れて一人歩きを始めた。今でも時々、思い出したように再燃する定番ネタとして居座っている。
掲示板ではBluetooth論争まで起きた
匿名掲示板も黙っていなかった。「ワクチンに反対する人が、あっさりと怪しい陰謀論にハマってしまう理由」なんてスレッドが立ったりもした。善良な一般市民がなぜこうした説を信じるに至るのか、冷静に分析しようとする書き込みが積み重なっていったんだ。ただ、同じ場所には本気の投稿も並んだ。
中身はこんな具合。「ワクチンは秘密結社が世界支配と人口削減を進める手段」「接種すると5年以内に死ぬ」。こうした主張が、冗談ではなく真剣に書き込まれている様子も確認されている。冷静な分析と本気の信仰とが、同じ掲示板の中でずっと隣り合っていたわけで、なかなか奇妙な光景だよね。
技術っぽい話も出てくる。ナノチップやマイクロチップの存在を専門的に考察するスレッドでは、ある主張がしばしば書き込まれた。ワクチンにはBluetoothで通信できる極小デバイスが仕込まれていて、専用アプリを使えば近くで検出できる、という話だ。拾えるのはMACアドレスのような機器識別番号なんだとか。
これには反論が飛んだ。Bluetoothで通信するには相応の電源が要るし、注射針を通るサイズでそれをやるのは物理的に無理だ、という指摘だ。100メートル規模の通信距離を出すなら、相応の大きさのアンテナも要る。工学の側からのこうした反論は、粘り強く投稿され続けた。
完全に綱引きだ。陰謀論を唱える側と、科学的な反証を試みる側とがせめぎ合う、いかにも陰謀論系の掲示板らしい様子を見せていたんだ。同じ議論は、場所を変えて何度も繰り返されてきた。
怖い話ほど、なぜか信じたくなる
ここで心理学の出番だ。「感情ヒューリスティック」という考え方がある。人は強い恐怖や驚きを伴う情報に触れると、真偽を吟味する前に「これは重要な情報に違いない」と直感で判断しがちなんだ。脳がそう錯覚しやすい。
SNSはこれと相性が良すぎる。タイムラインは、「いいね」やシェアの数ができるだけ伸びるように作られている。感情を強く揺さぶる投稿ほど、アルゴリズムに優先的に拾われて、どんどん拡散されていく構造なんだ。怖い話ほど遠くまで届く。
条件もそろっていた。正体不明のウイルスへの恐怖、日々更新され続ける公式情報への戸惑い、専門家や政府への根深い不信感。この三つが、パンデミックのもとでほぼ同時に噴き出したんだ。噂が異例の速さで広まる土壌は、こうしてできあがったという見方がある。
成分表のどこにもチップはない
肝心の中身の話をしよう。ファイザー社とモデルナ社のワクチンは、成分が公式に公開されている。製薬各社が出している成分表のどこを見ても、マイクロチップに類するものは一切含まれていないんだ。5G通信システムとワクチンをつなぐ技術的な経路も、どこにもない。
検証も重ねられてきた。国内外の複数のファクトチェック機関が、この説を何度も繰り返し調べている。それでも、チップ説を裏づける一次資料はいまだに一つも見つかっていない。Bluetoothだの磁石だのと話がどれだけ膨らんでも、土台になるはずの証拠そのものが最初からどこにもない。
磁石の動画も同じだ。成分に磁性を帯びる物質が入っていない以上、腕にスプーンが付いて見えても、チップが埋まっている証拠にはならない。汗や肌の凹凸でくっつくだけ、という説明のほうがよほど筋が通っている。
笑い話で終わらなかった理由
材料を並べると妙に現代的だ。著名人の発言の断片、既存の研究、感情を煽るメディア演出。どれも今の時代ならではの部品で、それが組み合わさって育っていったのが、この令和の陰謀論だった。デジタル時代を象徴する、新しいタイプの怪異譚と呼んでもいい。
ただの笑い話では済まなかった。イギリスでは実在の通信設備に火がつけられ、現実の被害が出ている。日本でも街頭デモという形で目に見えるものになり、人々の医療への向き合い方そのものに影を落としたんだ。都市伝説が娯楽の域を超えて、現実の社会を動かしうることを見せつけた一件だった。
