学校の資料室に残る古い西洋人形が、夜になると首の向きを変える。ガラスケースの奥から泣き声が聞こえる。そんな「きみちゃん人形の呪い」がネットで語られている。
ところが、この呼び名には別々の話が混ざっている。先に言っておくと、1927年にアメリカから贈られた「青い目の人形」と、童謡「赤い靴」のモデルとされる少女きみちゃんは、同じ人形の物語ではない。接点は、二つの童謡を野口雨情が作詞したこと。それだけだ。そこから後年、一つの怪談に合成されたと見られる。
1927年、12,739体が海を渡ってきた
話は1927年にさかのぼる。日米関係が悪化する中、アメリカの宣教師シドニー・ギューリックが子ども同士の交流を通じて関係を和らげようと呼びかけた。アメリカ各地から日本へ贈られた人形は12,739体。パスポートやビザに見立てた書類を持ち、日本各地の学校や幼稚園へ届けられた。書類まで添えるあたりに、この事業の念の入りようが出ている。
日本側では渋沢栄一が受け入れに関わり、学校では歓迎式典が開かれた。返礼として、日本からも58体の市松人形がアメリカへ渡った。ここまでは、子どもたちの善意を形にした交流事業として記録されている。怪談の気配はまだどこにもない。
ちなみに、童謡「青い眼の人形」が作られたのは1921年で、交流事業より先だ。アメリカ生まれの人形が日本の港へ着くという歌のイメージがすでに広まり、のちの親善人形と重ねて記憶された。歌と現実の人形は、最初から混ざりやすい。
同じ人形が「敵性人形」と呼ばれた
日中戦争が長期化し、対米関係も悪化すると、人形は「敵性人形」「スパイ人形」と呼ばれるようになった。学校によっては、人形を壊したり焼いたりする処分が行われたと伝えられている。歓迎された同じ人形が、社会の空気の変化で敵の象徴に変えられたのである。
一方、人形が日米の子どもの善意で贈られたことを忘れなかった教職員もいた。天井裏や蔵などへ隠し、表向きは処分したことにして残した例がある。2024年時点の調査で確認されている人形は346体とされ、各地の学校や資料館で保存されている。
青森県八戸市の島守小学校には「メリーちゃん」が伝わる。1958年に裁縫室の天井裏から発見され、1967年の校舎火災でも救い出されたという。これは人形が奇跡を起こした証拠ではなく、残そうとした人の行動が二度あった記録として読むほうが自然だ。
「赤い靴」のきみちゃんは、まったく別の話
野口雨情は童謡「赤い靴」の作詞者でもある。そのモデルとされるきみちゃんは1902年生まれ。アメリカ人宣教師夫妻の養女となって渡米する予定だったが、結核を患う。アメリカへ行かないまま、1911年に9歳で亡くなったとされる。
きみちゃんの生涯は、青い目の親善人形が日本へ来た1927年より前の出来事だ。きみちゃんが人形になった、魂が人形へ宿ったという史実はない。「青い眼の人形」と「赤い靴」は、海を渡る人形や子どもを歌い、同じ作詞家が手がけた。その共通点がネット上で混ざり、「きみちゃん人形」という呼び名を生んだと考えられる。
きみちゃんの魂が人形に入り、渡れなかったアメリカへ連れて行ってほしいと訴える話は、都市伝説や派生創作の筋書きだ。実在の少女の生涯と、1927年の交流事業をつなぐ資料は確認されていない。
呪いより重いものが残っている
学校怪談では、人形の向きが変わる、資料室で泣き声がする、目が合うと体が動かなくなる、といった話が定番になっている。人の形をした古い物が暗い展示室にあること。戦時中に破壊された仲間が多いこと。それを知れば、そこへ悲しみや怒りを感じるのは不思議ではない。
しかし、投稿された体験談には日時や場所が特定できないものも多く、呪いや祟りを示す記録にはならない。学校火災や病気を、人形を粗末に扱った罰だと結びつける話にも、因果関係を裏づける資料はない。
この人形たちにあるのは、確認できない呪いより、友好の贈り物まで敵視した戦時下の現実だ。そして、命令に逆らう危険を承知で人形を隠し、戦後まで残した人々の判断もある。「きみちゃん」との混同をほどくと、怪談よりもずっと強いものが見えてくる。人間が人形へ託した友好と敵意の、その両方だ。
