- 「引き寄せの法則は存在する」と言い切るタイトル
- ニューソートから『ザ・シークレット』へ
- 掲示板に出回った「実践マニュアル」
- 科学の側から見ると
- 成功談と失敗談が同じスレに住んでいる
- 体験談という現代の民話
- 借金百万の人が、三百万当たったと書いた
- 名前の代わりにレス番で呼ばれる達人
- 外からは読めない「認識変更」
- 邪魔者は「エゴ」、味方は「自愛」
- 頭の中で鳴るラジオを切り替える
- 比喩が一か月で専用スレになる
- 訳者の正体は英語学者だった
- 書店に「引き寄せコーナー」ができた年
- ミクシィの日記からアメブロの書き手へ
- 十日目、二社から採用の連絡が来た
- 百点を九十点に値切ったら来た恋
- 封筒から出てきた二千円
- 小さい報告ほど長生きする
- 遺産で叶ってしまった願い
- 「批判はご遠慮ください」という張り紙
- Part18まで続いた「疲れた人」の部屋
- 書いた本人が、先にいなくなる
- 叶ったと書いた後で、語り口が変わる
- 訂正されないまま残った数字
- 掲示板が動画になった
- 「無敗の理屈」と言われても
「引き寄せの法則は存在する」と言い切るタイトル
まとめサイトを眺めていると、「引き寄せの法則は存在する|不思議な体験談」なんて自信たっぷりのタイトルにぶつかる。隣には「『引き寄せの法則』簡単すぎワロタ」が並び、「『引き寄せの法則』で貧乏から金持ちになったけど質問ある?」まで出てくる。元ネタはどれも2ch・5chのスレッドだ。
何かを強く願えば現実のほうがそっちへ動いていく、そう語る人たちが画面の向こうにずらっと並んでいる。この手のスレッドは今も少なからず立っていて、数千レスに及ぶ長いやり取りが続く例も珍しくない。正直、最初は量に圧倒される。
ニューソートから『ザ・シークレット』へ
引き寄せの法則、英語で言うLaw of Attraction。起源はふつう、19世紀アメリカの「ニューソート」と呼ばれる、キリスト教系の治癒・霊性運動まで遡る。根はずいぶん古い。「思考はエネルギーであり、同じエネルギーを引き寄せる」という考えが、そこから育っていく。
この思想は長いあいだ、ベストセラーと自己啓発商品の棚のあいだを行ったり来たりしてきた。日本で一気に広がったのは2007年前後で、ロンダ・バーンの『ザ・シークレット』日本語版が出たのが引き金になった。勢いがすごい。書店に「引き寄せコーナー」ができるほど売れたんだよな。
2010年代に入ると、元OLから実践者・作家に転身した奥平亜美衣などが現れ、この言葉はもっと広い層へ根を下ろしていった。担い手の顔ぶれも様変わりだ。本屋の隅の話では済まなくなった。
掲示板に出回った「実践マニュアル」
面白いのは、引き寄せスレがやたら具体的な「実践マニュアル」を伴うところだ。「現実を受け入れる」「手に入れたものを明確に想像する」「すでに手に入れた感情を今感じる」と、段取りが順番に並ぶ。妙に細かい。
この並びは、認知行動療法で使うイメージリハーサルや、スポーツ心理学のメンタルリハーサルとよく似た形をしている。目標を具体的に思い描き、達成した状態を先に体感して、やる気を保つわけだ。発想は同じ。
同じ組み立ては、コーチングの現場でも普通に使われている。オカルトっぽい言葉づかいの裏に、それなりに心理学的な理屈が挟まっているのだから、見た目ほど突飛な話でもない。意外とまっとう。
科学の側から見ると
事典類ははっきり書いていて、科学の見地から見れば疑似科学、裏付けになる実証的な根拠はない、という扱いだ。思考が物理的なエネルギーとして現実を直接動かす、その主張を支える実験は出ていない。ここは動かない。
引き寄せに好意的な心理学者でも、説明の落とし所はだいたい決まっている。意識して目標を肯定すると、普段なら見過ごすチャンスに気づきやすくなる、いわゆるカラーバス効果、選択的注意のバイアスだ。あとは目標設定の行動心理学的な効果。話はそこまで。
分かりやすいのが赤い車の例。買うと決めた途端、街中で赤い車ばかりが目につくようになるけど、走っている赤い車の台数が増えたわけじゃない。探している自分の知覚が変わっただけなんだよな。
成功談と失敗談が同じスレに住んでいる
引き寄せスレには成功談と失敗談がいつも同居していて、そこへ冷めた突っ込みがよく飛んでいた。「上手くいったら引き寄せ、失敗したらイメージ不足や執着のせい。これじゃ無敗だよな」。心理学でいう「反証不可能性」の問題そのもので、どんな結果が出ても理論の裏付けに回ってしまう構造になっている。
だからこそこの思想は、批判にさらされながらも世代を越えて生き残り、新しいスレが今も立ち続けている。とにかくしぶとい。人は先の読めない世界で、自分の人生に意味と手綱を見つけたがる。引き寄せの法則は、その欲求に応える物語の装置として、ずっと回り続けてきた。
体験談という現代の民話
まとめサイトが拾う個人の引き寄せ体験談は、今の口承文芸として読んでも面白い。伝統的な民俗なら神仏や先祖の助けとされた不思議な幸運を、現代人は自分の内面、つまり意識や思考に帰属させて語るようになった。神様の席に自分の頭が座った。
会社社会と、孤立しやすいデジタル環境。その中では「すべて自分の心の持ちよう次第」という自己責任の世界観が、妙に心地よく受け取られる。証明も否定もできないこの「法則」は、人の不安と希望を映す鏡として使われてきた。ネットの口承は、まだ続く。
借金百万の人が、三百万当たったと書いた
したらば掲示板の「潜在意識ちゃんねる」という板に、「達人スレ元祖1式part4」という部屋が立っていた。その四十番目あたりで、名前欄に「714」と入れた人が、宝くじで三百万当たったと報告している。書き出しはこうだ。借金が百万を超えていて、毎日その金のことで胃が痛い、と。
本人の説明は、拍子抜けするほど地味だった。金のことを考えるのをやめて、欲しいとも足りないとも思わない、金の話で感情が完全に麻痺した状態が効いたらしい。願って当たったのではない。願うのをやめたら当たった、という順番を本人は何度も念押ししていた。
同じスレの百十七番目で、714はもう一度補足を入れている。気持ちが荒れていても関係ない。荒れたまま放り出しておけばいい、整えようとする動きこそが余計なのだ、という理屈だ。読んでいると宗教の説法にも禅の問答にも聞こえてくるのに、当選金額だけがやけに生々しいのが妙におかしい。
名前の代わりにレス番で呼ばれる達人
この界隈には、有名な語り手を名前でなくレス番で呼ぶ、外から見るとちょっと変わった作法がある。「108さん」「701さん」「元祖1」。レス番がそのまま人名になった。
108さんが現れたのは二〇〇八年二月で、場所は当時の2ちゃんねるオカルト板だった。七百三十一番目の書き込みでは、どうでもいい物には執着が湧かないのに、肝心の願いには湧いてしまう、と認めている。だから叶わない。
八百四十三番目では、求めていることを実現するには求めない、ここに鍵がある、とまで言い切った。禅問答みたいな一文だ。欲しがるほど遠のく、という理屈がここで言葉になっている。
七〇一という番号から生まれたのが「なる」だ。欲しい状態に「なる」と決めて、決めた後は疑わない。本当にそれだけ。理屈を足すと濁るので足さない、この潔さが後に「701式」と呼ばれ、まとめブログの定番ネタになっていった。
「元祖1」は二〇〇九年八月に登場した。四日から二十六日にかけて、一本のスレの一番目として書き続けた人物で、IDはnCd5yDsA0と記録されている。潜在意識を完璧なコンピューターに見立てて丸投げし、願いを具体的に思い描くことすら要らない、という立場だった。徹底した丸投げ。
外からは読めない「認識変更」
長く回るスレには、外から来た人に意味の取れない単語が溜まっていく。代表格が「認識変更」。欲しいものが手元に無いのは思い込みにすぎず、本当はもう全部そこにあると気づき直す作業を指す。頭で納得するだけでは駄目で、根っこの感覚が入れ替わらないと効かない、という建前までついていた。
その状態を指す言い方が「既にある」だ。願いにくっついた条件づけを全部剥がしたあと、残るものがそのまま手に入った状態だ、という説明が定番になった。言い方が独特だ。高いから買えない、作れる人がいないから存在しない、そういう理由づけを外す工程は「関連づけの放棄」と呼ばれた。
剥がし終わると現実のほうが後から追いついてくる、という言い方も、この界隈の書き込みではよく見かける。先に手に入り、あとから物が届く理屈。順番が普通と逆なんだよね。
邪魔者は「エゴ」、味方は「自愛」
邪魔者として名指しされるのが「エゴ」。無いという認識を握って離さない部分も、理屈で先回りして考えたがる部分も、全部まとめてここへ押し込む。だから実践の中心は、願う努力より考えるのをやめる訓練になっていく。願うより止める。
脳内補完じゃないのか、という突っ込みは昔から絶えず出ていた。経験者側は毎回、補完が先で現象はあとから来るのだと、判で押したように同じ説明を繰り返している。ずっと平行線だ。
「自愛」という語も外せない。自分を責める癖をやめ、自分を先に満たしてやると現実が緩む、という主旨の実践で、これだけを扱う専用スレが何本も立っていた。それだけ支持された言葉だった。
二〇一三年には、河合政実の『完全なる自愛メソッド』が角川フォレスタから出ている。掲示板発の内輪の言葉が紙の本の書名にまで上がった格好で、匿名の言葉がこうして出版の棚に届いた。言葉の出世だ。
頭の中で鳴るラジオを切り替える
方法論も掲示板の中でどんどん枝分かれし、まとめサイトに残るものでは「思考=脳内ラジオ」という捉え方が目を引く。頭の中で勝手に鳴っている実況を番組に見立て、嫌な放送が流れたら明るい番組へ手動で切り替える感覚を掴ませる。頭の中の選局だ。嬉しい嬉しいと連呼するだけの単純な番組でいい、と書いた人もいた。
「自己観察」はもっと静か。願いを叶えにいくのをやめて、今その瞬間に自分が何を考えているのかを後ろから眺める側に回る。要らない考えが浮かんだら、そこで手を離す癖をつけていく。叶えるための技というより、叶わない理由を作るのをやめるための技として説明されることが多かった。
比喩が一か月で専用スレになる
こうした方法は、一本のスレの中で誰かが投げた比喩から始まることがほとんどだ。上手い言い方をした書き込みに読み手が飛びつき、数日で名前がつき、一か月後には専用スレが立つ。名前がついた時点で発案者の手を離れ、あとは各自が勝手に改造していくので、掲示板の発明品はこの板でずいぶん速く量産された。作者は置き去り。
訳者の正体は英語学者だった
引き寄せという言葉が輸入される前から、日本には下地があった。ジョセフ・マーフィーの本だ。『眠りながら成功する』が産業能率短期大学出版部から出て、以後、三笠書房や騎虎書房からも次々に訳された。潜在意識という語が一般の本棚に並んだのは、この線からだった。
訳者の名前は大島淳一。これが筆名で、中身は英語学者の渡部昇一だったから、後年の保守論壇でよく見た顔が潜在意識本の入口に立っていたわけだ。奇妙な組み合わせに見えても、当時の自己啓発書の空気を考えれば、そう外れた話でもない。
ナポレオン・ヒルの成功哲学、谷口雅春の生長の家、中村天風の講話。思いが現実を作るという型は、戦後の日本ですでに何度も回っていた。新顔じゃない。だから二〇〇七年の輸入品も、先にあった器へ新しい名前が入ってきただけ、と見るほうが実態に近いんだよな。
書店に「引き寄せコーナー」ができた年
ロンダ・バーンの『ザ・シークレット』は、原書が二〇〇六年に出た。映画のほうが先に走っていて、DVDは半年で二百万枚売れたと記録され、書籍は五十か国語に訳されて累計二千万部を超えた。とんでもない桁だ。
日本語版は二〇〇七年、角川書店から出た。訳者は山川紘矢、山川亜希子、佐野美代子の三人。同じ年にはエスター・ヒックスの『引き寄せの法則』も、エイブラハムとの対話という副題つきで日本語になった。当たり年だ。
「エイブラハム」という霊的存在からの通信という形式で、ここから「波動」「バイブレーション」という語彙が入ってきた。以後の日本語の引き寄せ談義は、この単語をやたらと使う。耳慣れた言葉だよね。
批判本もすぐに出た。カレン・ケリーの『ザ・シークレットの真実』が、同じ二〇〇七年にPHP研究所から出ている。ブームと反論が同じ年に同じ棚に並び、売れたのは前者だった。国内では二〇二〇年代に入っても関連グッズが出続け、シリーズ累計は百二十万部を超えたという告知が出ている。
ミクシィの日記からアメブロの書き手へ
二〇〇〇年代後半に掲示板と並ぶ受け皿だったのがミクシィのコミュニティで、顔と日記が紐づく分、体験談は掲示板より生活に近かった。子どもの学費が急に工面できた、探していた物件が不動産屋から電話で降ってきた、そんな規模の話が日記に並んだ時期がある。その多くは、サービスの縮小とともに読めなくなった。惜しい話だ。
二〇一〇年代に入ると、主戦場がアメーバブログへ移る。元会社員から実践者兼作家になった奥平亜美衣のように、ブログの人気がそのまま出版につながる導線ができあがった。アメブロ公式トップブロガーになった書き手の一人は、妄想で金を引き寄せるという主旨の本を、二〇二〇年十二月に日本文芸社から出している。掲示板の匿名の報告が、実名の商品に化けていく流れだ。
同じころ、ブログ界隈そのものへの批判も強まった。スピリチュアル系と引き寄せ系のブログは高額セッションへの入口だ、という警告記事があちこちに立つ。無料で体験談を読ませ、講座や個人鑑定に流す動線がはっきり見えていたからだ。読み手も、それを承知で読むようになった。
十日目、二社から採用の連絡が来た
まとめサイトに転載された報告のなかに、繰り返し引用されるものがある。元祖1式を始めて十日目。二つの会社から採用の連絡が来て、その日の夜には元彼からも連絡が来た、というごく短い書き込みだ。一日に三つ重なったのが肝で、書いた本人も驚いていた。
この人がやっていたのは、思考を止める練習だけだったという。就職活動の不安が浮かんだら打ち切り、元彼のことを思い出したらそこでも打ち切って、追いかけない。いい方を選びたいという気持ちまで止めた、と本人は説明していた。選ぶ作業ごと潜在意識へ丸投げ。
反応は真っ二つ。二社から来たのは応募数が多かっただけで、元彼のほうはただの偶然だろう、と突っ込むレスがずらりと並ぶ。実践側は、偶然の重なり方が変わるのがこの現象なのだと返した。噛み合わないまま、報告だけが引用され続けている。
百点を九十点に値切ったら来た恋
恋愛にも有名な報告がある。見出しにされた一文は「軽い妥協を加えると叶う」。妄想通りの相手に一目惚れされ、しかもベタ惚れされた、と本人は書いている。ここで言う妄想とは、顔も性格も収入も細かく決めた理想像のことで、ぼんやりした願望とはまるで違う。
面白いのはその理想を百点で通そうとすると来なかった部分で、九十点でいいと一段だけ落としたら、来た。落とした瞬間に執着が抜けたからだ、と本人は解釈している。値切りに近い作法だ。これが界隈の実践論として共有されていった。
こういう報告には型がある。半信半疑で始めた、と最初に書く。途中で忘れていた、と必ず挟み、忘れた頃に来た、で落とす。日付と数字は妙に細かく、書き手が読み手を意識して整えている感じが、どの報告からも透けて見えるんだよな。
封筒から出てきた二千円
金額の小さい報告のほうがかえって具体的で残りやすく、よく引かれたのが、財布が空で家賃の支払いが迫っていた人の話だ。金のことを考えないと決めて三日目、部屋の整理をしていたら古い封筒が出てきた。中には二千円。
それだけの話が長く引用されたのは、二千円では家賃に届かないと本人がきちんと書いていたからだった。足りていない。それでも、金のことを考えるのをやめた直後に現金が出てきた、という一致だけは動かなかった。
これを引き寄せの証拠と読むか、部屋を片付ければ昔の金が出てくるのは当たり前だと読むか、そこでスレは毎回割れた。どっちの言い分も分かるから、余計にこじれるんだよな。決着はつかない。
小さい報告ほど長生きする
似た報告はいくらでもある。駐車場がいつも空いている、欲しかった本を人からもらった、探していた部品が中古で出た。この手の話が積み上がるほど、確認しようのない大当たりの話よりも、かえって説得力が出てしまうのが厄介だ。確認できないまま生活の細部だけがはっきり書かれた報告が、いちばん長く生き延びる。
小さい報告が好まれた理由は、実践する側の都合とも噛み合っていた。宝くじの当選や結婚のような大きい話は、真似しようにも、どこから始まったのか起点が見えないまま終わってしまう。手が届かない。
封筒の二千円や空いていた駐車場なら、今日の自分の生活にも起こりうる範囲の出来事として想像できる。身近なのだ。だから読み手は、端数みたいな報告を写して自分の記録に足していった。掲示板の実践報告が延々と続いた一因は、この真似しやすさにあったと見ていい。
遺産で叶ってしまった願い
二〇一九年に立った「引き寄せの法則は危険!」というスレで、スレ主はこう言い出した。引き寄せ本に載っている成功例のうち、大金が入った話をよく読むと、身内が死んで遺産が転がり込んだ形のものが混じっている。願いは叶った。叶い方が、まずい。
これは人生の裏技みたいなものなのではないか、と書き込みは続いた。他人の不幸の上に立つ仕組みなら願うこと自体が危ない、という筋の問いで、スレの前半には真面目に倫理を詰める書き込みが並んだ。筋は通っている。
後半は崩れていく。話題が飛び、関係ない書き込みが増え、荒れて終わる。2ちゃんねる由来の板でよく見る末期の風景だ。倫理の議論が立ち上がったこと自体は記録に残ったが、結論は出ないまま流れ、今はスレごと読みにくくなった。
「批判はご遠慮ください」という張り紙
したらばの「潜在意識ちゃんねる」は、5chから分かれて作られた場所だ。スレの一番目に置かれたテンプレには、元祖1式について前向きに話す場で、批判的な書き込みは禁止、と明記されていた。疑う人はお断りの設計だ。
だから空気が濃くなる。同じ語彙、同じ作法、同じ言い回しのまま、part4まで続くうちに内部でも派閥ができた。百四十九番と百五十番の書き込みでは、正体不明の「達人」を信じるな、元の一次ソースだけ読め、と警告が飛んでいる。信仰の内部で起こる原典回帰みたいなものだ。
三十六番目の書き込みには、別筋の違和感が出ていた。願いは一か月ごとに叶っている、それは事実として認めるが、心の痛みは止めて消すものじゃなく向き合って取り払うべきだ、と。思考停止の作法そのものに疑いを挟む声が、賛成派の部屋の中から上がった。内側からの異論だ。
Part18まで続いた「疲れた人」の部屋
もう一方の側もある。オカルト板の「【潜在意識】願いが叶わず疲れた人」というスレは、二〇一七年にはPart18まで来ていた。番号が十八まで伸びたのは、それだけ長く人が通い続けたという話でもある。
書かれている内容は重い。本とセミナーにいくら使ったかの計算があり、瞑想とイメージングに費やした年数を数え直す人もいた。それで何も来なかったという報告に、前向きなふりを続けて気分が不安定になったという訴えも混じる。人生の何年を溶かしたかという後悔が、延々と積み上がっていく。
うまくいっている人は方法が効いたのじゃなく、元から運と素質があっただけじゃないのか、という疑いが繰り返し立つ。そこへ実践側が入ってきて、信じ方が足りなかったのだと説明する。場が荒れる。叶わなかった理由を説明されるのが、いちばん効く攻撃になってしまう。
書いた本人が、先にいなくなる
この題材で厄介なのは、原文が残りにくいところだ。5chのスレは容量で落ちる。したらばの板も、古い部屋は倉庫へ行く。アメブロやはてなに写した人も数年で閉鎖し、実践を語っていたブログがある日ドメインごと消えている。
消える理由はいくつかある。叶ったと書いた後で状況が変わった人は過去の記事を都合悪く感じ、商売に切り替えた人は無料で書いていた時期の投稿を整理する。当時のアカウントを丸ごと消して、別名で再開する例も多い。語り直しもある。同じ体験が、五年後には別の筋書きで書かれていたりするのだ。
それでも体験談自体は生き残る。まとめサイトが本文を丸ごと転載しているので、原文が落ちた後も、孫引きだけは検索結果にしぶとく残り続ける。レス番と日付だけが引き継がれて、書いた人の輪郭が消えていく。「108さん」「701式」という番号の呼び名が定着したのは、番号しか残らなかったからでもある。
叶ったと書いた後で、語り口が変わる
同じ人の報告を時間差で追うと、だいたい語り口が変わっていくのが見える。最初は掲示板に短く書く。数か月後には無料ブログを開き、あの時どう考えていたかを解説する記事に書き直す。その先で有料の講座を始めると、初期の失敗談が都合悪くなって、記事ごと下げられていった、というのがよくある流れだ。
読者もお見通しだった。以前の記事と今の記事で叶った日付が違う、金額が増えている、と指摘する書き込みは昔から出ている。指摘された側が記事を消せば、指摘のほうだけが残る。誰も検証できない状態の残骸が、検索結果の中に半端に積み上がった。
だから体験談は消えないというより、消えたあとの影だけがしぶとく残り続けている、と見たほうが近い。本体はもういない。原文が落ち、当人が去り、番号と要約だけが写し取られて回っていく。
次の世代はその要約を読んで、自分の体験談を要約の形に合わせて書くので、型が先にあって体験があとから型へ寄せられていく。そうやって同じ話が、二十年近く書き継がれてきた。型の勝ちだ。
訂正されないまま残った数字
体験談の細部を照合しようとすると、たいてい途中で止まる。当選金額や採用日の数字を書いた人が、その裏づけを出した例はほとんど見当たらない。証拠を求めるレスは必ず付くのに画像を上げた報告は数えるほどで、それでも要約では数字だけがきれいに引き継がれる。なんとも妙な話だ。
引用が重なるうちに、数字が少し動くこともある。三百万だった当選金が別のまとめでは三百五十万になり、十日目の報告は二週間目として紹介されていたりする。数字が勝手に育つ。転載元をたどっても、どちらが元の書き方なのか確かめようがない。
結局、細部が少しずつ丸くなった話が定番として流通していった。この曖昧さはジャンルの寿命も伸ばしていて、数字が固まっていない話は、読んだ人が自分の状況に合わせて調整できる。三百万を百万に、十日を一か月に読み替えても筋は通る。誰にでも当てはまる形に削られた体験談が、そのまま次の実践者にとっての手本として使われていくわけだ。都合のいい話だ。
掲示板が動画になった
二〇二〇年前後から、過去スレを読み上げて解説する動画チャンネルが立ちはじめた。達人と呼ばれた書き込みを順番に読み、要点を字幕で出していく形式で、十年以上前のレスが音声で流れる。書いた本人はとっくにいない。番号だけが残った発言が、朗読される古典のような扱いを受けはじめた。
Xではもっと短くなった。長い手順の説明は載らず、叶ったという一行と、その日の日付だけが投げられる。掲示板みたいな長文の相互批評が成立しないぶん、反証も来ない。投稿が流れて消えるのも早く、数年前の報告はもう検索に引っかからない。
続いているものもある。誰かが方法を書き、誰かが試して結果を書き、叶わなかった人が別の場所で嘆く、その三つが同時に走っている。それが続くかぎり、このジャンルの供給は止まらない。掲示板が閉じてもアプリが変わっても、報告の型だけが器を乗り換えて残っていった。
「無敗の理屈」と言われても
懐疑側の指摘は、十五年以上ほとんど変わっていない。叶ったら法則の証明で、叶わなかったら本人の執着不足かイメージ不足、それじゃ負けようがないだろ、という冷めた突っ込みだ。実に耳が痛い。証明も反証もできない構造は、スレ主自身が認めている場面すらある。
もう一段きつい批判もある。全部が自分の心の持ちよう次第という話にすると、社会の側の問題が全部消えてしまう。支配する側に都合のいい自己責任論だ、という指摘だった。職質されたのも事故に遭ったのも関心を向けたせいだと説明され、それはおかしいと食い下がった書き込みが残っている。
批判が的を射ていても、スレは止まらなかった。潜在意識板が閉じても別の板に立ち、5chが落ちればしたらばに移り、掲示板が弱ればX、次はショート動画へ流れていく。器が変わるだけで、報告の型はほとんど変わっていない。型はそのままだ。
半信半疑で始めて、忘れた頃に来た。あの型をなぞって、次の人がまた新しい報告を書き始める。
