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「その電話は、家の中からかけられています」――ベビーシッターと二階の男、六十年かけて世界中の夜を壊し続ける最強都市伝説の全記録

深夜の一軒家。二階では子どもが眠っている。手元には受話器。窓の外は真っ暗で、隣の家の灯りは遠い。ここまでは、世界中どこにでもある平凡な夜の風景だ。ところが、この風景に電話のベルをひとつ足すだけで、話はまったく別のものになる。

「その電話は、家の中からかけられています」

たった一文。これだけで背筋が凍る。怪談としてこれほど短くて、これほど効率のいい一撃はそうそうない。おばけも呪いも出てこない。血もまだ流れていない。それなのに、この一文を聞いた瞬間、読者の頭の中で家の間取りが一気に組み上がって、二階の暗がりに人の形が浮かび上がる。恐怖の設計としては、ほとんど反則に近い。

これがベビーシッターと二階の男、英語圏でザ・ベビーシッター・アンド・ザ・マン・アップステアーズと呼ばれる、都市伝説界の絶対王者のひとつだ。六十年以上前にアメリカの女子高生たちの口から口へ広がりはじめ、映画になり、映画がまた話を広げ、いまではスマホの通知音に姿を変えて生き延びている。電話は家の中からかけられている、という英語のフレーズは、いまや怪談を離れて、敵は内部にいる、という意味の慣用句として辞書に載るまでになった。怪談が言語になった、と言ってもいい。

この記事では、この一本の怪談を徹底的に解剖する。物語そのものを細部まで再話し、どこで生まれてどう記録されたのかを掘り、なぜ逆探知という地味な技術用語が恐怖の核になったのかを考え、派生バージョンを一つずつ潰し、体験談を並べ、実在の事件との関係を検証し、映画がこの話に何をしたのかを追い、日本での姿を探し、そして携帯電話の時代にこの話がどう生き延びたかまで見る。長い。だが、六十年ぶんの話をするのだから、そのくらいはかかる。

完全再話――ある夜の、いちばん長い二時間

まず、話そのものを聞いてもらう。ここで書くのは、一九六〇年代から七〇年代にかけてアメリカの高校生や大学生のあいだで語られていた形をベースに、複数の採集記録に共通する細部をつなぎ合わせた標準形だ。地方によって家の間取りも子どもの数も変わるが、骨は変わらない。

午後七時、彼女は玄関を入る

その夜、少女は十七歳だった。名前はバージョンによって変わる。ジル、と呼ばれることがいちばん多い。映画がその名前を定着させたからだ。だが元の話では、たいてい、うちの姉の友達、とか、隣町の子、とか、そのくらいの曖昧さで語られる。都市伝説の主人公はいつも名無しに近い。名無しだからこそ、聞き手は自分の顔を貼りつけられる。

彼女がその晩シッターに入ったのは、郊外の二階建てだった。芝生があって、私道があって、玄関の脇に外灯がひとつ。アメリカ郊外の、絵に描いたような家だ。この二階建てというのが重要で、この話は平屋では成立しない。上と下、という垂直の距離が、そのまま恐怖の距離になる。

夫婦は出かける支度をしていた。奥さんが早口で説明する。子どもはもう寝かせた、上の子は八歳で下の子は五歳、二階の子ども部屋にいる、夜中に起きることはまずない、冷蔵庫のものは好きに食べていい、帰りは一時か二時になると思う、何かあったらレストランの番号にかけて。テーブルの上にメモが置かれる。番号が二つ。レストランと、警察。

「二階には行かなくていいから。起こしちゃうと後が大変なの」

この一言を奥さんが言うバージョンがある。これがあると話が一段階えげつなくなる。少女が二階に上がらない理由に、正当性が与えられてしまうからだ。彼女はサボっていたわけではない。言われた通りにしていただけだ。それなのに、という構造ができあがる。

夫婦の車が私道を出ていく。エンジン音が遠ざかる。少女は玄関の鍵を閉め、チェーンをかけ、リビングに戻ってテレビをつける。ここまでは、何万回も繰り返されてきた普通の夜だ。

午後九時、最初のベル

一回目の電話は、たいてい九時ごろに鳴る。

少女が受話器を取る。もしもし。返事はない。かすかに息の音。それから、低い男の声。

「子どもたちの様子は見たか」

とだけ言って、切れる。

少女はしばらく受話器を握ったまま固まる。だが、深く考えない。いたずら電話だ。あの手のやつだ。学校にもいる。彼女はテレビの音量を少し上げて、ソファに戻る。これがこの話の巧いところで、一回目の電話は無視できる程度に設計されている。恐怖はまだ日常の側にある。

午後十時半、二回目

二回目のベルは、一回目より鋭く聞こえる。少女が身構えてから取るからだ。

「もしもし」

「子どもたちの様子は、見たか」

同じ言葉。同じ声。だが、間の取り方が違う。ゆっくりしている。楽しんでいる。

彼女はここで初めて怒る。誰なの。やめて。警察を呼ぶから。言い終わる前に切れる。ツーという音だけが残る。

彼女は立ち上がり、階段の下まで行く。上を見上げる。二階の廊下は暗い。子ども部屋のドアはわずかに開いていて、そこから常夜灯のオレンジ色が細く漏れている。物音はしない。何もない。彼女は階段に足をかけて、やめる。

やめる理由は、バージョンによって違う。奥さんに言われたから。怖いから。ばかばかしいから。どの理由でも、結果は同じだ。彼女は上がらない。ここが物語の分岐点で、彼女が上がっていれば話は終わっていた。上がらなかったから、話は続く。

午後十一時すぎ、三回目

三回目で、声は形を変える。

「子どもたちの様子を、なぜ見に行かない」

今度は質問ではない。詰問だ。相手はこちらが上がっていないことを知っている。

この瞬間、少女の中で何かが裏返る。いたずら電話をかけてくる人間は、こちらの行動を知らない。知っているということは、見ているということだ。彼女は反射的に窓を見る。カーテンの隙間。庭。木立。誰かが外から覗いている。そう思う。そう思わせるのが、この話の最大のトリックだ。聞き手も一緒に窓を見る。全員が、間違った方向を見る。

彼女は電話を叩き切り、震える手でメモの番号を押す。警察。

午後十一時二十分、逆探知

電話に出た警官は、意外なほど落ち着いている。いたずら電話の通報など、日に何件も来るのだろう。だが、少女の話す内容が三回目にさしかかったあたりで、声のトーンが変わる。

「わかりました。次にかかってきたら、絶対に切らないでください。会話を続けてください。できるだけ長く」

「どうして」

「逆探知します。回線をたどるのに時間がかかるんです。一分。最低でも一分は話し続けてください」

彼女は受話器を置く。そして、待つ。

この待つ時間が、この怪談でいちばん長い。実際には十分か十五分だろう。だが語られるときは、永遠に近い長さで語られる。時計の秒針。冷蔵庫のモーター音。二階で床が軋む音。いや、気のせいだ。古い家はいつも軋む。

そして、ベルが鳴る。

彼女は受話器を取る。心臓が耳の中で鳴っている。

「もしもし」

「まだ、見に行かないのか」

彼女は必死で言葉を探す。何でもいい。話を引き延ばせ。あなた誰。何が目的なの。どうしてこんなことするの。私に何の恨みがあるの。声が裏返る。相手は答えない。ただ、笑う。低く、短く。

そのあいだ、彼女はもう片方の耳で、もう一台の受話器の存在を意識していない。多くのバージョンで、彼女はキッチンの壁掛け電話を使っている。そして、その家にはもう一台、二階の主寝室に子機がある。同じ回線につながった、内線ではなく並列の受話器。当時のアメリカの家庭では、ごく普通の配線だ。

一分が経つ。相手が切る。

数秒後、電話がまた鳴る。今度は警察だ。

そして、あの一文が来る。

「いますぐ家を出てください。走って。振り返らないで。パトカーはもう向かっています。あの電話は、その家の中からかけられています。二階の電話です」

午前零時、走る

ここから先は、バージョンによって残酷さの度合いが大きく違う。

いちばん一般的な形では、少女は受話器を落として、玄関に走る。鍵を回す手が言うことを聞かない。チェーンが外れない。ようやく外に転がり出て、裸足で私道を走り、道路まで出たところでパトカーのライトが見える。

彼女が振り返ると、二階の窓が明るくなっている。さっきまで暗かった窓に、灯りがついている。人影が立っている。こちらを見ている。

警官が家に踏み込む。二階。子ども部屋。ドアを開ける。

そして、少女は知る。子どもたちは、最初の電話が鳴るよりずっと前に、彼女が玄関の鍵を閉めた、そのときにはもう、死んでいた。

これが、この怪談の本当のオチだ。家の中にいた、ではない。手遅れだった、でもない。もっと悪い。彼女がテレビを見ていた三時間、彼女がいたずらだと自分に言い聞かせていた三時間、彼女が階段の下で引き返した三時間、そのすべての時間、二階には死体と、それを作った人間がいた。そして電話は、その部屋からかけられていた。

男が何のために電話をかけていたのか、この話は説明しない。説明しないから怖い。愉快犯なのか、彼女を上に呼び寄せたかったのか、それとも自分が上にいることを知らせたかったのか。答えはない。答えがないまま、話は終わる。

この話はどこから来たのか

さて、ここからが本題だ。この話はいつ、どこで生まれたのか。

結論から言うと、正確な誕生日は誰にもわからない。口承というのはそういうものだ。誰かが最初に言った瞬間を記録した人間はいない。だが、いつ記録されはじめたか、ならかなりはっきりしている。一九六〇年代初頭だ。

一九六〇年代初頭、アメリカの女子高生たちの口から

民俗学の世界でこの話が発見されたのは、一九六〇年代のはじめごろとされる。噂話の検証で知られるスノープスも、この話について、他のいくつかの思春期向けホラー伝説と同様に、一九六〇年代初頭に発生した、少なくとも最初に採集されたのはその時期だ、という書き方をしている。この、発生したか、少なくとも最初に採集された、という慎重な言い回しが、口承文芸を扱う人間の誠実さそのものだ。

なぜこの時期なのか。理由は身も蓋もなく社会構造にある。第二次大戦後のアメリカでは郊外住宅地が爆発的に広がった。核家族が芝生つきの二階建てに住み、車で二十分の街まで夫婦で出かける。そのあいだ子どもを見るのは、近所に住む十代の女の子だ。ベビーシッターという職業が、ティーンエイジャーの標準的な小遣い稼ぎとして完全に定着したのが、まさに一九五〇年代から六〇年代にかけてだった。

そして同じ時期に、電話が全戸に行き渡った。一家に一台どころか、一階と二階に一台ずつある家が珍しくなくなった。この並列受話器の普及が、この怪談の物理的な前提条件になる。二階に電話がなければ、この話は成立しない。

つまりベビーシッターと二階の男は、郊外化と電話の普及という二つのインフラの上に、ぴったり乗る形で生まれた。生まれるべくして生まれた話だ、と言っていい。

民俗学アーカイブに眠る一枚

この話の初期記録として、いま比較的たどりやすいものに、カリフォルニア大学バークレー校の民俗学アーカイブに収められた採集記録がある。整理番号まで振られていて、学生が家族や友人から聞き取った話が、そのままの言葉で保存されている。

その一本は、こんな出だしで始まる。ニューヨークの二階建ての家でベビーシッターをしていた女の子がいて、笑っている男から電話がかかってきたの。この、いかにも口承らしい、主語のゆるい、ディテールがふわっとした語り口。これが原型だ。整った文章ではない。誰かが誰かに話した、そのままの喋り言葉として残っている。

この記録には、この話が一九六〇年代初頭に登場し、友人や家族や近所のあいだで自然発生的に広まった、という注記が添えられている。注釈をつけたのは、アメリカにおけるベビーシッター像の歴史を研究してきたミリアム・フォアマン=ブルネルという研究者だ。彼女の分析がまた鋭い。この話が反映しているのは、単に見知らぬ男が怖いという感情ではなく、もっと複数の不安が絡み合ったものだ、と彼女は言う。

親の側の、子どもを他人に預けることへの後ろめたさ。母親の側の、外で働きはじめることへの罪悪感。父親の側の、家庭内の権威が薄れていくことへの苛立ち。そして社会全体の、若い女の子たちが従順で家庭的という型からどんどん外れていくことへの、漠然とした居心地の悪さ。一九六〇年代というのは、経口避妊薬が普及し、性の解放が語られ、第二波フェミニズムが立ち上がった時代だ。娘たちが変わっていく。その変化への不安が、怪談の形で吐き出された。

だからこの話は、少女に向けた説教としても機能する。ちゃんと責任を果たしなさい。言われたことをやりなさい。勝手に自立した気になるな。さもないと、取り返しのつかないことになる。そういう教訓が、恐怖でコーティングされて配られていた。フォアマン=ブルネルの読みは、そこまで踏み込んでいる。

一九七〇年代、採集の波が来る

一九六〇年代に採集されはじめたこの話は、七〇年代に入って大量に記録されるようになる。アメリカの各大学に民俗学のアーカイブが整備され、学生が課題としてこの手の話を集めまくった時期だからだ。インディアナ州、ミズーリ州、イリノイ州。中西部を中心に、同じ骨格で細部だけ違う異文が、山のように集まった。

この、同じ骨格、違う細部、というのが、都市伝説が本物の口承であることの証拠になる。誰か一人が書いた小説なら、細部は固定される。ところが採集された異文を並べると、子どもの数が一人だったり二人だったり三人だったり、家がニューヨークだったりカンザスだったり、電話が三回だったり五回だったり、少女が助かったり助からなかったりする。骨だけが同じで、肉が全部違う。これは、たくさんの人の口を通った話にしか起きない現象だ。

そして七〇年代の終わりから八〇年代にかけて、この話は民俗学者ヤン・ハロルド・ブルンヴァンによって、決定的に有名になる。ブルンヴァンが一九八一年に出した『消えるヒッチハイカー』は、アメリカの都市伝説研究を一般読者に開いた本で、この一冊でアーバン・レジェンドという言葉が市民権を得た。ベビーシッターの話も、その中で主要な事例のひとつとして扱われている。

ブルンヴァンの分析の要点は、この話が、思春期の少女が大人の責任を引き受けることへの不安を語っているという読みだ。少女は大人の代理として、子どもの命を預かる。それは彼女にとって初めての本格的な責任だ。ところが彼女は、その責任において壊滅的に失敗する。しかも彼女を追い詰める道具が、よりによって電話だという点が効いている。十代の女の子にとって電話は、いちばん親しい、いちばん安心できる社交の道具だ。友達と何時間でも喋る、あの受話器。それが凶器に変わる。ブルンヴァンはそこを突く。

安全なはずのものが、安全でなくなる。この構造は、この怪談の全レイヤーで繰り返される。家が安全でなくなる。電話が安全でなくなる。二階が安全でなくなる。そして最後に、自分が守っていたはずの子どもが、すでに守られていなかったことがわかる。全部が裏返る。

「逆探知」という魔法

この怪談を支えている技術的な装置が、逆探知だ。そしてこの装置は、驚くほど巧妙に、当時の現実に足をつけている。

いまの若い読者にとって、電話の発信元がわかるのは当たり前だ。着信画面に名前が出る。知らない番号なら検索すればいい。だが、この話が生まれた時代、電話は完全に匿名の道具だった。鳴ったら出るしかない。誰からかは、出るまでわからない。出てもわからないことがある。しかも当時の家庭電話には留守番機能もなければ、着信拒否もない。鳴りっぱなしのベルを止める方法は、受話器を取るか、線を抜くかしかなかった。

そこに逆探知という手続きがある。刑事ドラマでおなじみの、一分間つないでおけ、というやつだ。

これがなぜ時間のかかる作業だったのか。当時の電話網は、物理的な接続の集合体だったからだ。交換機の中で、実際に金属の接点が動いて、回線と回線をつないでいる。ある通話の発信元を突き止めるということは、つながっている経路を、交換機から交換機へ、物理的に逆向きにたどっていく作業を意味した。局の技術者が現場で、どの端子がどこにつながっているかを目で追う。複数の局をまたいでいれば、各局に連絡して同じ作業を頼む。通話が切れた瞬間、接点は離れて経路は消える。だから、切らずにつないでおけ、が必要になった。

映画やドラマの六十秒ルールは、そこを誇張したものだ。実際には一分ではとても足りず、もっと長くかかることの方が多かったらしい。だが、誇張の方向は正しい。つないでおかないと追えない、という核心は、まぎれもなく本当だった。だからこの装置は、当時の聞き手にとって完全にリアルだった。作り話くさい魔法ではなく、そういうものだ、と誰もが知っている手続きだった。

そして、リアルな手続きだからこそ、そこから出てくる答えもリアルに聞こえる。発信元は、その家です。技術が、恐怖に権威を貸している。

さらに巧いのは、逆探知が時間を要求するという点だ。この話のクライマックスは、少女が一分間、殺人者と会話を続けなければならない場面にある。逃げてはいけない。切ってはいけない。むしろ相手を引き止めなければならない。恐怖から逃げるのではなく、恐怖に向かって喋り続けることを強制される。これほど気持ちの悪いサスペンスの作り方はない。しかもその一分のあいだ、彼女は相手がどこからかけているかを知らないまま、相手のすぐ真下で喋っている。

聞き手はここで、ある種の共犯者になる。二回目以降、この話を知っている人間が誰かに語るとき、語り手はオチを知っている。知っていながら、少女が窓の外を気にする場面を丁寧に語る。彼女は外を見たのよ、と言うとき、語り手はにやりとしている。都市伝説は語り直されるたびに、この意地悪な快感を語り手に与える。だから減らない。

技術の話をもうひとつ。この怪談が現実に足をつけていた時代、家庭の電話配線は並列だった。同じ番号の回線に、家じゅうの受話器がぶら下がっている。だから二階の受話器を取れば、一階でかけている通話に無音で割り込むことができた。逆に言えば、家の中の受話器から家の中の別の受話器へ、内線としてかけることはできない。ここが物語の細かい急所で、厳密な形の話では、男は二階の受話器から外の交換局を経由して、同じ番号ではなくその家の番号にかけ直している、という説明はまず出てこない。出てこないまま、みんな納得している。

実はここが、この怪談の最大の論理的弱点だ。同じ回線の並列受話器から、その回線自身に電話をかけることは原理的にできない。この矛盾を突く指摘は、後年になって何度も現れた。それでもこの話が死ななかったのは、指摘が正しすぎて、逆にどうでもよくなるからだ。恐怖の速度が、論理の速度より速い。聞き手が、あれ、それって配線的に、と考えはじめる頃には、話はもう終わって、二階の窓に灯りがついている。

派生・別バージョン――同じ骨で、違う顔

六十年も語られていれば、話は増える。ここからは、記録されている主要な異文を一つずつ見ていく。どれも同じ骨に違う肉がついたものだが、肉のつき方で怖さの質がまるっきり変わるのが面白い。

子どもが助かるバージョン

いちばん優しいのがこれだ。少女が警察の指示で家を飛び出し、パトカーが到着し、二階から男が引きずり出される。そして子ども部屋のドアを開けると、子どもたちは無事に眠っている。男は電話をかけていただけで、まだ何もしていなかった。

一見すると救いのある形だが、語られ方によってはこちらの方が後味が悪い。なぜなら、この形の男は殺すために来たのではなく、彼女を上に呼び寄せるために電話をかけていたことになるからだ。子どもは餌だった。彼が本当に用があったのは、下にいる十七歳の方だった。そう考えると、子どもたちの様子を見に行かないのか、という台詞の意味が、根っこから変わる。彼はずっと、階段を上がってきてくれと頼んでいたことになる。

この形は主に、年少の聞き手に向けて語られるときに選ばれる。学校のキャンプや、子ども向けの怪談本で採用されやすい。血が出ないぶん、後から効いてくる。

シッターも殺されるバージョン

逆にいちばん容赦がないのがこれ。少女は逃げ切れない。玄関の鍵が回らない、あるいはチェーンが外れない、あるいはドアを開けた先に男が立っている。時系列を細かく語るタイプの語り手は、彼女が受話器を落として玄関に走った瞬間、二階でギシ、と床が鳴るところまで描写する。

このバージョンには、決まって印象的な後日談がつく。逮捕された男が連行されるとき、パトカーの窓越しに、あるいは法廷で振り向いて、こう言うのだ。

「またすぐ会おうな」

この一言があるかないかで、話の寿命が変わる。オチの後にもう一段オチを置く構造は、聞き手に、終わっていない、という感触を残す。都市伝説はこの終わらなさで生き延びる。

いたずら電話だったバージョン

拍子抜け系。全部の電話が、二階で寝ていたはずの上の子のいたずらだった、という落ち。子どもが親の寝室の受話器で遊んでいて、声を作って下に電話していた。警察が踏み込んで、パジャマの八歳が受話器を持って立っている。

コメディとして語られることが多いが、これが真顔で語られると妙な不気味さが出る。八歳の子どもが、なぜ、子どもたちの様子は見たか、などという台詞を思いつくのか。誰かに教わったのではないか。そこまで匂わせて終わる語り方も存在する。派生の派生だ。

声を出さないバージョン

男が何も喋らない形。受話器の向こうから聞こえるのは、笑い声だけ。あるいは、荒い呼吸音だけ。あるいは、子どもがくすくす笑う声だけ。

言葉がないぶん、聞き手の想像力に丸投げになる。この形は語りの技量が要る。下手にやると何も起きない。うまい語り手がやると、電話の音の描写だけで数分間、聞き手を釘づけにできる。八〇年代以降、キャンプファイヤー系の語りではこの無言型が好まれるようになった。

シッターが二人いるバージョン

これは残酷度が跳ね上がる形で、採集記録でもたびたび登場する。少女が友達を呼んでいる、あるいは姉妹で来ている。電話に怯えた一人が、見てくる、と言って階段を上がる。そして、降りてこない。

残された方が階段の下から呼びかける。返事はない。しばらくして、二階で何かを引きずるような音がする。この、一人が上がって消えるという展開は、恐怖の設計としてきわめて古典的で、洋の東西を問わず怪談の骨として使い回されているものだ。ここに電話が組み合わさると、下に残された方は上に行けないうえに電話も切れないという二重の拘束に置かれる。

何年も後に電話が鳴るバージョン

少女は助かる。男は捕まる。事件は終わる。それから十年、彼女は結婚して、自分の子どもを持つ。ある夜、夫と出かけて帰ってくると、留守番をさせていた家の電話が鳴る。

「子どもたちの様子は見たか」

この形は、恐怖を一夜の出来事から一生ものに格上げする。逃げ切ったつもりでも逃げ切れていない。しかもこの形が秀逸なのは、彼女がかつてシッターだった立場から、シッターを雇う母親の立場に移っていることだ。守られる側から守る側へ、という時間の流れそのものが恐怖の材料になっている。後年の映画版が繰り返し採用したのも、この構造だ。

ベッドの下バージョン

男が二階の電話ではなく、子どものベッドの下にいた、という形。少女が最終的に子ども部屋に上がり、静かに眠る子どもを確認して、ほっとして部屋を出ようとしたとき、ベッドの下から手が出る。あるいは、彼女がしゃがんで落ちた毛布を拾おうとして、目が合う。

これはベッドの下の男という別系統の怪談との交配で生まれた形だ。都市伝説はこうして混ざる。混ざって、新しい話になる。

ピエロの人形バージョン

厳密には別の話だが、あまりに近い親戚なので触れておく。シッターが子どもたちを寝かしつけた後、リビングの隅に等身大のピエロの人形が立っているのが気になって仕方がない。テレビを見ていても、視界の端に入る。彼女は雇い主に電話して、あのピエロの人形、目に入って落ち着かないので、別の部屋に移していいですか、と聞く。

雇い主の返事はこうだ。

「うちに、ピエロの人形なんてない。子どもたちを連れて、いますぐ家を出なさい」

構造が完全に同じなのがわかると思う。電話をかけて、電話から、それは家の中にある、と告げられる。ピエロ版は電話が凶器ではなく救命具になっている点だけが違う。この二本が同じ系統から枝分かれしたことは、採集の現場でもたびたび指摘されてきた。

遠隔監視バージョン

比較的新しい形。家に監視カメラがついていて、外出中の親がスマホでアプリを開き、リビングを映す。シッターがソファに座っている。子ども部屋を映す。子どもは眠っている。廊下を映す。

そこに、誰かが立っている。

親が慌ててシッターに電話する。シッターは、誰もいませんよ、と言う。親は言う。いま、あなたの後ろに立っている、と。

この形については後でもう一度触れる。技術が変わっても、この話の骨は一ミリも変わらないという、いい見本だからだ。

体験談・証言――「これ、うちの近所の話です」

都市伝説の面白いところは、必ず体験者が湧いてくることだ。しかも彼らは嘘をついているつもりがない。記憶とはそういうものだ。ここでは、この話の周辺で繰り返し語られてきた証言のパターンを、三つ紹介する。どれも特定の一人の告白というより、同じ形で何度も現れる証言の型だ。

証言その一――「うちの町で本当にあった事件です」

一九七九年に映画版が公開された直後、アメリカの各地で同じ現象が起きた。映画館から出てきた観客が、口々にこう言いはじめたのだ。あの話、うちの町で本当にあったやつだ、と。

これは冗談でも誇張でもなく、当時をよく知る書き手が繰り返し記録している。全米のあちこちから、あの映画の事件は自分の地元で起きた、という主張が湧いた。ある者は、殺されたシッターは姉の同級生だった、と言い、ある者は、その家は自分の家から三ブロック先だ、と言い、ある者は、うちの叔父が当時その署にいて、現場に入った、と言った。

彼らは全員、真剣だった。そして全員、間違っていた。映画の元になったのは特定の事件ではなく、彼らがずっと前から聞いていた噂話だったからだ。つまり順序が逆で、彼らは地元で聞いた話を地元で起きた事件に変換していた。都市伝説の伝播において、これはきわめて典型的な現象だ。話には必ず友達の友達がつく。そして時間が経つと、その友達の友達は、いつのまにか自分の記憶の中で実在の人物になる。

証言者たちが悪いわけではない。人間の記憶は、聞いた話と体験した話を、思っているほどきれいに分けて保管していない。特に十代で聞いた怖い話は、感情の記憶として保存されるため、後から体験の記憶に格上げされやすい。この話が六十年生き延びた理由のひとつは、聞いた人間を勝手に目撃者にしてしまう性能の高さにある。

証言その二――「私はあの晩、たしかに二階を見に行かなかった」

もうひとつ、繰り返し現れるのが未遂の記憶だ。実際には何も起きなかったのに、何かが起きかけたと確信している人たちの証言。

典型はこうだ。十代の頃にシッターをしていた女性が、ある晩、無言電話を数回受ける。当時はよくあることだった。彼女は怖くなって、電話線を抜いて、明かりを全部つけて、子どもの部屋の前に座って朝まで過ごす。親が帰ってきて、事情を話すと、笑われる。いたずら電話でしょ、と。

事件は起きていない。何も起きていない。だが彼女の中では、その晩は危なかった夜として一生残る。数十年後、彼女はこう語る。もしあのとき二階に上がっていたら、私はいまここにいないと思う、と。

これがなぜ起きるかというと、話を先に知っていたからだ。彼女はシッターを始める前から、この怪談を知っていた。だから無言電話が三回鳴った瞬間、彼女の頭の中では物語のテンプレートが起動して、まだ起きていない結末まで一気に再生された。都市伝説は、予言ではなく解釈の型として機能する。何でもない出来事を、恐ろしい出来事の未遂として読ませてしまう。

こういう証言は、数え切れないほどある。無言電話は昭和のアメリカでも平成の日本でも日常茶飯事だった。日常茶飯事の上に、たった一本の物語がかぶさるだけで、全部があのときの、あれ、に変わる。

証言その三――「本当に家の中にいた」

そして、いちばん厄介なタイプ。実際に、家の中に他人がいたという証言だ。

これは怪談ではなく、現実の犯罪類型として存在する。英語圏ではファロッギングという俗語で呼ばれている。他人の家に無断で住みつく行為のことだ。屋根裏、地下室、使っていないクローゼット、床下。住人が気づかないまま、数日から、ひどいときには一年以上、同じ屋根の下で暮らしていた事例がいくつも報告されている。

有名なのは、一九八〇年代にマサチューセッツ州で起きた事件だ。ある十代の少年が、一時期交際していた少女の家の床下スペースに何週間も潜んでいた。彼は家の中の物の位置を勝手に変え、壁に調味料で意味不明のメッセージを書き残した。家族は、家に何かがいる、と怯えたが、原因がわからない。一九八六年十二月、警察が家宅捜索してようやく、彼はクローゼットの中から見つかった。顔に塗料を塗り、覆面をかぶり、手には斧を持っていた。彼はその後、保釈中に別の一家の家に押し入り、母親と幼い二人の子どもを殺害して、終身刑を受けている。

この事件は、都市伝説の側から見ると、恐ろしいことを教えてくれる。家の中に他人が潜んでいて、住人がそれに気づかないという設定は、フィクションの誇張ではない。実際に起こる。しかも、住人が違和感を覚えてから、正体にたどりつくまでに、数週間から数か月かかることがある。

だから、この怪談を聞いて、そんなの現実にはありえない、と言うのは、実は正しくない。ありえないのは逆探知の細部の方であって、家の中に誰かがいるという前提は、統計的には稀でも、原理的にはまったくありえる。そこがこの話の底の抜けているところだ。

六十年ぶんの突っ込みと反証

この話は、語られてきた年数のぶんだけ、突っ込まれてもきた。ネット以前は口頭で、ネット以後は文字で。主な論点を並べていく。

反証その一――「同じ回線には自分でかけられない」

最も古典的で、最も正しい指摘がこれだ。前に触れた通り、家庭の電話は並列配線で、二階の受話器と一階の受話器は同じ番号を共有している。同じ番号から同じ番号にはかけられない。話中音が鳴って終わりだ。

これに対する擁護派の反論もいくつか蓄積されている。ひとつは、その家に二回線あった、という説。医者や自営業の家では、仕事用と家庭用で二本引いていることがあった。もうひとつは、男は二階の受話器から外にかけていて、警察が突き止めたのは通話の発信元ではなく、回線が使用中である事実の方だった、という説。さらに強引なのは、そもそも警察は正確な住所ではなく、同じ電話交換局の近距離であることを掴んだだけで、家の中とまでは特定していない、という説。

どの擁護も後付けだ。だが、後付けの擁護が生まれること自体が、この話が守るに値すると思われている証拠でもある。人はどうでもいい話に理屈をつけない。

反証その二――「逆探知はそんなに早くない」

六十秒で追える、という前提への突っ込み。これも正しい。手作業で経路をたどっていた時代、一分では到底終わらないのが普通だった。局をまたげば数十分かかることもあった。

ただし、擁護のしようはある。この怪談で警察が言う一分間つないでおけは、追跡完了までの時間ではなく、追跡を開始できる最低限の保持時間として読むこともできる。それに、そもそもこの話は警察の手続きが正確に描かれている物語ではない。警察が何かをやってくれるという安心の記号として逆探知を使っているだけだ。

面白いのは、この技術的な突っ込みが増えたのが、逆探知が不要になった後だという点だ。着信番号が最初から表示される時代になって初めて、人々は昔の仕組みを検証しはじめた。技術は、失われてから理解される。

反証その三――「元になった事件などない」

実話起源説への疑義。これはかなり根深い論争になっている。詳しくは次の章で扱うが、ネット上の議論では、実話派と否定派がだいたい平行線をたどってきた。

否定派の主張は明快だ。この話は一九六〇年代初頭に、複数の地域で同時多発的に採集されている。特定の事件から広がったのなら、発生源に近い地域から同心円状に広がるはずだが、そういう痕跡がない。だから元ネタは存在しない、というのが基本の立場。

実話派は、一九五〇年にミズーリ州で起きた事件を挙げる。この件は次章で丁寧に扱う。

考察その一――「これは階段の話である」

考察界隈でいちばん人気があるのが、この話の空間構造への注目だ。恐怖の中心は電話ではなく、階段だという読み。

少女は、階段の下にいる。恐怖は、階段の上にいる。二人を結ぶのは、階段そのものではなく電話線だ。つまり彼女は、物理的には十数段の距離しかない相手と、電話網という何キロもの迂回路を通して会話している。この、近いのに遠いというねじれが、この話の気持ち悪さの核だという指摘。

言われてみれば、この話で少女が一度も階段を上りきらないことは重要だ。彼女は何度も階段の下まで行き、そのたびに引き返す。物語は上がらないことで駆動している。そして最後、彼女が上がる代わりに、警官が上がる。彼女は永遠に、二階で何があったかを自分の目では見ない。

考察その二――「これは責任の話である」

民俗学の側からの読みを、ネットの考察が引き継いだ形。少女の罪は、油断でも怠慢でもなく、自分が守るべきものを、守っているつもりで守れていなかったことだ。

しかもこの話は、彼女に落ち度がほとんどない形に作られている。彼女は鍵を閉めた。チェーンもかけた。テレビを見ていただけで、悪いことは何もしていない。二階に行かなかったのは、雇い主にそう言われたからかもしれない。それでも、結果は最悪になる。

つまりこれは、ちゃんとやっていても防げない、という話だ。教訓譚に見えて、教訓が機能していない。そこが、単なる説教話との決定的な違いで、だからこの話は説教くさくならずに生き延びた。

考察その三――「オチの順序がすべて」

技術論として一番語られているのがこれ。この話の効力は、情報を出す順序の設計にほぼ全部かかっている。

もし冒頭で、二階に男が潜んでいる、と明かしてから始めたら、これはサスペンスになる。読者は少女より多くを知り、はらはらしながら見守る形になる。実際、映画版のいくつかはその方式を採っている。

だが口承版は、聞き手を少女と同じ視点に固定する。聞き手も外を疑う。聞き手も窓を見る。そして最後に一気にひっくり返される。この視点の共有と一撃の反転の組み合わせが、口で語る怪談としての完成度を極限まで高めている。実際、この話は語るのに三分もかからない。三分で人を凍らせる話は、そう多くない。

考察その四――「なぜ男は電話をかけたのか」

答えの出ない問いとして、いちばん人気があるのがこれ。すでに子どもを殺しているのなら、電話をかける必要はない。黙って降りてくればいい。それなのに、彼はかける。

読みは大きく三つに分かれる。ひとつは、彼女を二階に呼び寄せたかったという読み。ひとつは、彼女の恐怖そのものを味わっていたという読み。そしてもうひとつ、いちばん薄気味悪いのが、彼は本気で心配していた、という読みだ。子どもたちの様子を見に行かないのか、と彼は繰り返す。彼の中では、それはシッターの職務怠慢に対する正当な苦情だった、という解釈。

三つ目の読みが出てきたとき、この話の温度がまた一段下がる。狂気に一貫した論理があると考えたとたん、相手は理解不能な怪物ではなく、こちらと同じ言語で喋る何かになる。そのほうが、ずっと怖い。

実話起源説を検証する――一九五〇年、ミズーリ州

元ネタになった事件がある、と言われるとき、必ず名前が挙がるのが、一九五〇年三月十八日にミズーリ州コロンビアで起きた事件だ。

被害者は十三歳の少女、ジャニット・クリスマン。十四歳の誕生日まで、あと三日だった。

その晩、彼女は近所の夫婦の家でベビーシッターをしていた。夫婦には三歳の男の子がいた。両親はカードのパーティーに出かけていた。よくある土曜の夜だ。

午後十時三十五分、地元の保安官事務所の当直に電話が入る。受けた副保安官が聞いたのは、少女の悲鳴だった。

「早く来て」

それだけ叫んで、線は切れた。

ここが、この事件が伝説と結びついた最大のポイントになる。当時の技術では、深夜のその時間帯に、切れてしまった通話の発信元を割り出すことはできなかった。住所がわからない。どこの家からの電話なのかがわからない。警官は動きようがなかった。助けを求める声が届いているのに、どこから届いているのかがわからない。この、あまりにも残酷な技術的無力さが、後の伝説における逆探知というモチーフの、裏返しの原型になっていると考える人は多い。

両親が帰宅したのは、午前一時三十五分ごろ。玄関の鍵は開いていて、ポーチの灯りがついていた。父親がリビングに入ると、少女が床に倒れていた。彼女は暴行を受け、電気コードで首を絞められて死亡していた。三歳の子どもは無事で、二階で眠ったままだった。

現場の状況にも、伝説を思わせる要素がある。家の側面の窓が、外から庭仕事用の道具で叩き割られていた。侵入経路だ。つまり、犯人は外から入ってきた。少女が電話をかけたのは、その侵入に気づいた直後だったと考えられている。

捜査は最初からうまくいかなかった。郡の保安官事務所と市の警察のあいだで、管轄をめぐる縄張り争いが起きた。二つの組織が情報を共有せず、それぞれが別々に動いた。証拠の扱いも、いまの基準から見ればずさんだった。

事件当時、被害者と雇い主の家族の両方をよく知る二十代の男性が、有力な参考人として取り調べを受けている。彼はその晩の一時期、集まりの席を二時間ほど離れていたことがわかっていた。だが取り調べの手続きに問題があり、供述は証拠として使えなくなった。彼が立件されることはなく、事件は現在に至るまで未解決のままだ。誰が犯人だったのかは、確定していない。この記事でも、特定の誰かを犯人として名指しすることはしない。

さて、この事件はベビーシッターと二階の男の元ネタなのか。

正直に言うと、直接の元ネタと断言するのは無理がある。伝説の核である、電話をかけてきたのは家の中にいる男だった、という要素が、この事件には存在しないからだ。この事件で電話をかけたのは被害者本人であり、そして誰にも届かなかった。

だが、まったく無関係とも言い切れない。この事件はミズーリ州の地元で長く語り継がれた。そして伝説が最初に濃く採集された地域が、まさに中西部だった。ベビーシッターが殺された、電話があった、犯人はわからない。この三点が、地元の記憶として長く残っていたことは間違いない。それが数年から十数年かけて話者の口を渡り、細部が入れ替わり、電話の向きが逆転して、かける側からかけられる側の物語に変形した。そういう経路は、口承の変形パターンとしてまったく不自然ではない。

もうひとつ、こういう見方もできる。伝説と事件は、どちらが先かという問題ではなく、同じ社会の同じ不安から、別々に噴き出した二つの形なのかもしれない。郊外の家。留守番を任された十代の少女。届かない電話。これらの要素は、当時のアメリカに現実として存在した不安の材料であって、その材料から現実の悲劇も、架空の物語も、両方が生まれうる。

いずれにせよ、この事件がベビーシッターと二階の男の実話起源説の中心にずっと座り続けてきたのは事実だ。そして映画版が世に出た後、この事件と映画を結びつける語りが一気に増えた。人は物語に実話というラベルを貼りたがる。貼られたラベルは、時間が経つと本体と見分けがつかなくなる。

映画がこの話を世界の共有財産にした

ここからは、この怪談がどうやってスクリーンに移り、そこから世界中に配られたかを追う。

一九七〇年代初頭――前哨戦

映画がこの伝説に手を出しはじめるのは、七〇年代の頭からだ。テレビ映画やイギリスのサスペンス作品で、留守番中の若い女性が電話に追い詰められるという構図が、ぽつぽつと現れる。イギリスで一九七一年に作られた作品には、シッターを務める娘が家の中の脅威に追われる展開があり、同時期のいくつかの作品にも似た趣向が見られる。まだ逆探知のオチを正面から使ってはいないが、素材はすでに空気中に漂っていた。

一九七四年『ブラック・クリスマス』――先に着地した方

そして一九七四年、カナダのボブ・クラーク監督が、この構図を決定的な形で映画にする。クリスマス休暇の女子学生寮に、下品でおぞましい電話が繰り返しかかってくる。警察が回線をつなぎ、逆探知をかける。そして、発信元は、その寮の中だった。犯人は屋根裏に潜んでいた。

脚本を書いたロイ・ムーアは、この伝説と、一九四〇年代にモントリオールで起きた実際の連続殺人の両方から着想を得たとされている。当初のタイトルは『ストップ・ミー』だった。制作段階でクラークたちが大幅に手を入れ、舞台を大学の寮に移し、登場人物を若返らせた。クラークは、当時のハリウッドが大学生という層をまともに描けていないと考えていたらしい。

この映画がやったことは大きい。犯人の主観視点で家の中を移動するカメラ、電話という日常的な道具を凶器に変える演出、そして電話は家の中からだったという決着。これらはそのまま、後のスラッシャー映画の文法になった。一九七八年のジョン・カーペンター『ハロウィン』への影響も、繰り返し指摘されている。

ちなみに『ハロウィン』も、この伝説の周辺にいる作品だ。企画の初期段階でのタイトルは、ベビーシッター連続殺人、だった。舞台は郊外の住宅街、主人公は留守番中の高校生、標的はシッターたち。伝説の骨がそのまま映画の骨になっている。

一九七七年『ザ・シッター』――二十一分の伝説

だが、この怪談をそのまま映画にしたという意味で決定的だったのは、一九七七年の短編だ。

フレッド・ウォルトンという若い監督が、スティーヴ・フィークと組んで、二十一分の短編を撮った。タイトルは『ザ・シッター』。予算はわずか一万二千ドル。友人や協力者からかき集めた自主制作だ。撮影期間は三日間。三十五ミリのフィルム。舞台はカリフォルニア州サンタモニカ。主人公の名前は、ジル・ジョンソン。

内容は、ほぼ伝説そのものだ。シッターが電話を受ける。エスカレートする。警察に連絡する。逆探知する。そして、電話は家の中からかけられている、と告げられる。子どもたちは、何時間も前にすでに殺されていた。

この短編は、当時の話題作の併映として上映された。オスカーのノミネートには届かなかったが、業界内での評判はよかった。そして、これを観たプロデューサーが、これを長編にできないか、と持ちかける。

なお、この短編は長いあいだ、監督本人の手元にしか存在しなかった。一般に観られるようになったのは、ずっと後年、長編版の映像ソフトに特典として収録されてからだ。二十一分のフィルムが数十年間封印されていて、その間に世界中の人間がその内容だけを知っていた、というのは、いかにもこの伝説らしい話ではある。

一九七九年、映画史上最強のオープニング

そして一九七九年、フレッド・ウォルトンは短編を長編に拡張する。それが『夕暮れにベルが鳴る』、原題を『ホエン・ア・ストレンジャー・コールズ』という作品だ。

冒頭の約二十分から二十三分は、短編をほぼそのまま再構成したものだ。演じるのはキャロル・ケイン。刑事役にチャールズ・ダーニング。犯人役のトニー・ベックリーにとっては、これが最後の出演作になった。

この冒頭が、とんでもない。何も起きない。ただ、家がある。ドアがある。廊下がある。カメラが静かにパンする。電話が鳴る。そして例の台詞が来る。

「子どもたちの様子は見たか」

批評家の評価は、映画全体としては割れた。中盤以降、犯人が精神病院を脱走して都会をさまよい、刑事が追い、そして数年後にヒロインが再び狙われるという構成に移るのだが、そこは冒頭ほどの緊張を保てていない、という声が多かった。だが冒頭二十三分については、ほぼ全員が同じことを言った。映画史上もっとも恐ろしいオープニングのひとつだ、と。

当時の批評には、この映画が電話という道具を現代の凶器に変えた点を評価したものもある。銃でもナイフでもなく、リビングにある白い受話器が、いちばん怖い。それが一九七九年という時代の発見だった。

商業的にも成功した。製作費約百五十万ドルに対し、興行収入は二千百万ドルから二千五百万ドルほど。公開直後の四日間で四百六十八館から二百六十万ドルを稼いだ。翌一九八〇年の国際ファンタスティック映画祭では、批評家賞と審査員特別賞を同時に受賞している。この二つを同時に獲ったのは、この作品が初めてだった。

一九九三年、続編――今度はドアの向こう

十四年後、同じ監督が続編を撮る。そして、また冒頭二十分で観客を殺しにくる。

今度は電話ではなく、ドアだ。シッターの少女ジュリアが留守番をしていると、見知らぬ男が訪ねてくる。車が故障した、電話を貸してほしい、と言う。彼女は拒む。ドアは開けない。ここまでは完璧な対応だ。

ところが、電話をかけようとすると、電話が死んでいる。彼女は嘘をつく。もう自動車協会に連絡しました、と。男は去る。そしてまた戻ってくる。会話は少しずつ噛み合わなくなっていく。そして彼女は気づく。この家には、すでに誰かがいる。そして、子どもたちがいない。

一作目が電話線が敵に乗っ取られる話だとすれば、二作目は電話線が切られる話だ。同じ道具を、逆から使っている。この続編は全体としては評価が分かれたが、冒頭と終盤の緊張感については高く評価されている。犯人が壁と同化するように特殊メイクで身を隠す、というアイデアも印象的だ。

一九九六年『スクリーム』――伝説がメタになる

そして、この怪談の系譜における最大の転換点が来る。ウェス・クレイヴンの『スクリーム』だ。

冒頭。ドリュー・バリモア演じる少女が、一人で家にいる。ポップコーンを作っている。電話が鳴る。間違い電話だと思って切る。また鳴る。相手は妙に馴れ馴れしい。ホラー映画は好きかい、と聞いてくる。会話が続く。そして、少しずつ、相手がこちらを見ていることが明らかになっていく。

「外を見てみろ」

この場面が『夕暮れにベルが鳴る』の冒頭を明確に下敷きにしていることは、広く知られている。クレイヴン自身がその影響を認めており、脚本を書いたケヴィン・ウィリアムソンも同じ系譜に立っていた。

ただし『スクリーム』は、そこに一段仕掛けを足した。この映画の登場人物たちは、ホラー映画を知っている。ルールを知っている。都市伝説を知っている。それでも死ぬ。つまり『スクリーム』は、ベビーシッターと二階の男を再演したのではなく、その話を知っている世代が、それでも同じ目に遭う、という話にした。伝説が、伝説を知る者を殺しにくる。ここで怪談はメタの階層に上がった。

なお、この冒頭シーンの撮影で、クレイヴンがバリモアに本気の涙を流させた方法についてはいくつもの逸話が残っている。感情を極限まで追い込む演出をしたことは間違いないようだ。結果として、あの十二分あまりは九〇年代ホラーの最重要シーンになった。

一九九八年以降――伝説そのものが主役に

九〇年代末には、都市伝説そのものを題材にした作品群が現れる。一九九八年の『アーバン・レジェンド』はその代表で、実在の都市伝説を一本ずつ殺人の手口として消化していく構成をとった。ベビーシッターの話も、その中に組み込まれている。この時期、アメリカの若者にとって都市伝説は共有されたネタ帳であり、そのネタ帳をなぞる遊びが成立するくらい、話の知名度が飽和していた。

二〇〇六年、リメイク――スマート化された家

そして二〇〇六年、サイモン・ウェスト監督によるリメイク版が公開される。主演はカミーラ・ベル。舞台はコロラド州、湖のほとりに建つ、金持ちの豪邸だ。

このリメイクが面白いのは、伝説を現代化しようとして、逆に伝説の弱点をむき出しにしてしまったところにある。

まず、携帯電話がある。だから主人公は、固定電話に縛られない。着信表示がある。だから匿名性が失われる。家はハイテク化されていて、照明も空調もパネルで制御される。ガラス張りで、開放的で、見通しがいい。要するに、オリジナルの恐怖を支えていた閉じた家、匿名の電話、情報の遮断が、全部なくなっている。

そこで映画は、別の方向に舵を切る。恐怖をわからなさから広さに移した。豪邸は無駄に広く、ガラス越しの闇は無駄に深く、部屋が多すぎて、どこに誰がいるかわからない。温室でのクライマックスは、その象徴だ。

批評家の評価は厳しかった。大手批評サイトの支持率は八パーセント、別の集計サイトでは百点満点中二十七点。ほぼ全否定に近い。だが観客の反応は違った。公開週末に全米一位を獲得し、初動で二千百六十万ドル。最終的に製作費千五百万ドルに対して、全世界で六千七百十万ドルを稼いだ。観客調査の評価はB。つまり、批評家には殺され、客には受けた。

この落差自体が、この伝説の強さの証明でもある。話の骨さえあれば、多少作りが雑でも客は入る。人はこの話を、何度でも見に行く。

そのほかの派生

二〇〇六年には、伝説を直接題材にした別の低予算作品も作られた。二〇〇八年には、複数の都市伝説を編み込んだアンソロジー的なホラーが公開され、その一編にシッターの話が使われている。テレビシリーズやアンソロジー番組での翻案は、数え切れない。『ブラック・クリスマス』は二〇〇六年と二〇一九年に二度リメイクされた。

要するに、この伝説は五十年以上にわたって、映画産業にとっての公共資源であり続けている。著作権のない、誰でも使える、確実に効く仕掛け。これほど便利な素材はない。

日本ではどう語られてきたか

ここで日本に目を移す。この話は日本にも確実に入ってきている。ただし、入ってくるときに、かなり形を変えた。

そもそも日本にはベビーシッターがいなかった

まず、大前提として文化のズレがある。日本の家庭では、近所の高校生に子守を頼むという慣習が、アメリカほど一般的ではなかった。だからベビーシッターの少女という主人公が、そのままでは日本の聞き手にリアルに響かない。

そこで日本に移植されるとき、主人公はたいてい留守番をしている子どもか、一人暮らしの女性に置き換わった。これは実に理にかなった変形で、日本において一人で家にいる不安を最も強く感じる層が、まさにその二つだったからだ。鍵っ子という言葉が定着したのが昭和四十年代以降。共働きが増え、子どもが一人で家にいる時間が伸びた。アメリカのシッター問題と、日本の留守番問題は、社会的にはほぼ同じ位置にある。

日本版のいちばん多い形

日本で語られる形として最も多いのは、こうだ。

親が出かけている夜、小学生の子どもが一人で留守番をしている。電話が鳴る。取ると、無言。切る。また鳴る。今度は男の声で、お母さんいる、と聞かれる。子どもは、母に教えられた通りに、います、いま手が離せません、と答える。電話は切れる。しばらくして、また鳴る。

「うそつくなよ。誰もいないだろ」

そこで子どもは、はっと気づく。この家の電話番号は、家族と限られた人しか知らない。そして相手は、家の中の状況を知っている。

この日本版では、逆探知は登場しないことが多い。代わりに使われるのが、相手がこちらを見ている描写だ。声が続く。いま、テレビ消したろ。そんなとこ隠れても無駄だよ。そして最後に、その声が受話器からではなく、部屋の中から聞こえていることに気づく。

つまり日本版は、逆探知という制度的な救済を捨てて、より直接的な、見られている恐怖に振った。警察も出てこないし、助けも来ない。ここには文化差がはっきり出ている。アメリカ版では警察が救済の主体として明確に機能するが、日本の怪談で警察が出てくると、たいてい話が締まらない。だから省かれた。

内線電話バージョン

日本オリジナルの変形として面白いのが、団地やマンションの構造を利用した形だ。

インターホンが鳴る。モニターを見る。誰もいない。また鳴る。誰もいない。管理人に電話すると、こう言われる。

「そのインターホン、外からじゃなくて、お宅の中から押されてます」

集合住宅の玄関子機と室内親機という構造を知っている人にはピンとくる形で、平成以降のネット怪談でよく見かける。もうひとつ、社員寮や学生寮を舞台に、内線電話がかかってきて、交換手に確認したら、その番号はこの建物の中からです、と言われる、という形もある。どちらも逆探知を、より日本の生活実感に近い装置に置き換えたものだ。

監視カメラ・ベビーモニターバージョン

二〇一〇年代以降に急増したのが、カメラを使った形だ。

親が外出先からスマホでペットカメラや見守りカメラの映像を確認する。子どもは眠っている。問題ない。だが翌日、録画を見返すと、深夜三時ごろの映像に、部屋の隅から誰かが子どもを覗き込んでいるのが映っている。

あるいは、カメラの向きが勝手に変わっている。あるいは、カメラのスピーカーから知らない声がした、と子どもが言う。

この形は、後で述べる通り、現実の事件とほぼ地続きだ。だからこそ、いまの日本でいちばん効くバージョンになっている。逆探知が現実味を失った時代に、代わりに現実味を供給しているのがカメラの脆弱性、というわけだ。

日本での知名度

日本において、この話は有名なアメリカの都市伝説として紹介される形で流通してきた。海外の都市伝説をまとめた記事やテレビ番組、翻訳された怪談本などで繰り返し取り上げられ、二〇〇〇年代以降はネット掲示板やまとめサイトで定番化した。近年は動画や音声の怪談チャンネルでも頻繁に語られている。

日本語圏での解説記事には、この話がアメリカ生まれであること、日本に伝わる過程で形を変えたこと、そして現代版ではただのいたずら電話ではなくストーカー的な要素が強くなっていること、といった指摘が見られる。このストーカー化という観察は鋭い。日本において、見知らぬ他人からの執拗な接触は、六〇年代アメリカ的な殺人鬼の文脈よりも、はるかに現実的な脅威として認識されている。だから話も、そちらに寄っていく。

携帯電話とスマホの時代――この話はどう生き延びたか

ここが、この記事でいちばん考えたいところだ。逆探知が不要になった時代に、なぜこの話はまだ怖いのか。

技術は恐怖を殺したか

一見すると、この怪談は技術に殺されたはずだった。

着信画面に番号が出る。知らない番号は取らなくていい。ブロックできる。録音できる。位置情報も紐づく。固定電話そのものが家から消え、二階の受話器という物理的前提も消えた。逆探知に一分かかるという緊張も、当然ながら消えた。

要素をひとつずつ潰していくと、この話は成立しないように見える。

ところが、恐怖は形を変えて残った

だが実際には、この話は死ななかった。それどころか、いくつかの点でむしろ強くなった。

理由は単純で、この話の本質が電話ではなく境界の侵犯だったからだ。外にあるはずのものが、内にある。それだけが核だ。電話はその核を運ぶ器にすぎず、器はいくらでも取り替えがきく。

そして現代は、境界を侵す器がかつてないほど増えた時代だ。

家の中にはマイクのついたスピーカーがある。カメラのついたインターホンがある。子ども部屋には見守りカメラがある。テレビもエアコンも冷蔵庫も通信している。玄関の鍵さえネットにつながっている。かつては電話一本だった外からの回線が、いまや数十本、家の中に伸びている。

つまり、この怪談が必要とする条件、家の中にある機械が、外の誰かに乗っ取られている、という条件は、現代においてむしろ揃いすぎている。

そして、実際に起きている

ここが恐ろしいところで、これは怪談ではなく現実の事件として繰り返し報告されている。

代表的なのが、乳児の見守りカメラが第三者に乗っ取られた事例だ。二〇一五年一月、テキサス州ヒューストンの家庭で、一歳の女の子の世話をしていたベビーシッターが、部屋のカメラから聞こえてきた知らない男の声に凍りついた。声は言った。きれいな赤ちゃんだね、と。そして続けて、おむつについての品のない一言を口にした。

シッターは最初、雇い主のいたずらだと思ったという。だがすぐに、そうではないと気づいて、パニックになってカメラの電源を抜き、両親に連絡した。

原因は、拍子抜けするほど単純だった。カメラ本体にパスワードが設定されていなかった。家族は、自宅のワイファイにつながった端末のアプリからしか見られない、と思い込んでいたが、実際には外部から丸見えだった。

同種の事例は前後にいくつもある。二〇一三年には二歳の女の子に向かって侵入者が罵声を浴びせた事例が、二〇一四年にはオハイオ州で生後十か月の乳児に向かって叫ぶ声が報告された。その後も同様の報告は各国で続いている。近年の調査では、アメリカ人の八割近くが自分の機器に監視されている可能性を心配しているという数字も出ている。

つまり現代版は、翻案ですらない。ほとんどそのままの再演だ。かつての二階の受話器が子ども部屋のカメラになっただけで、構造は完全に一致している。子どもの近くにある機械から、知らない男が話しかけてくる。そして、それを見ている大人は、その男がどこにいるのかわからない。

いや、ひとつだけ違う点がある。昔の話では、男は物理的に二階にいた。現代の事例では、男は地球の裏側にいるかもしれない。そして、それは救いのようでいて、まったく救いではない。物理的にそこにいないということは、逃げても意味がないということだからだ。玄関から走って出ても、カメラはまだそこにあり、彼はまだ見ている。

SNSでの再流行

二〇一〇年代後半から二〇二〇年代にかけて、この話は短編動画のプラットフォームで何度も再燃した。三十秒から一分で語れる構造が、短尺動画と相性が良すぎたのだ。

再流行の形はいくつかある。声だけで語るタイプ。画面に文字だけを出していくタイプ。実際の家の廊下を歩きながら撮って、最後に二階の暗がりで止まるタイプ。演出は変わるが、決めの一文は変わらない。

同時に、電話は家の中からかけられている、というフレーズ自体が、怪談を離れて一人歩きしはじめた。組織の不祥事が内部犯行だったとき。SNSで誰かを叩いていた匿名アカウントが身内だったとき。自分の不調の原因が自分自身だったとき。人々はこのフレーズを使う。もはや辞書項目として扱われるレベルの慣用句になっている。

怪談としては、これは奇妙な運命だ。話が有名になりすぎて、オチが慣用句になり、慣用句を知っている人が話の方を知らない、という逆転が起きている。電話は家の中から、という言葉だけを知っていて、元のシッターの話を知らない若い世代は、実際にかなり多い。物語が言語に吸収されて、物語自体は透明になった。

現代版のいちばん怖い形

最後に、現代化の中でいちばん背筋が寒くなる形を紹介しておく。

一人暮らしの部屋。スマート家電をひとつずつ買い足して、生活がだんだん便利になっていく。ある夜、スマホにアプリの通知が来る。玄関の鍵が解錠されました。時刻は午前二時十四分。あなたはベッドの中にいる。

慌ててアプリの履歴を開くと、この一か月、ほぼ毎晩、同じ時間に解錠と施錠の記録が並んでいる。あなたが眠っている時間だ。そして、記録の操作元として表示されているデバイス名は、あなたのスマホではない。あなたの部屋の、あなたが名前をつけた覚えのない端末だ。

この話に電話は出てこない。逆探知も出てこない。それでも、これは間違いなくベビーシッターと二階の男だ。骨がまったく同じだからだ。安心のために導入した機械が、侵入の経路になっている。守るための装置が、見張られる窓になっている。そしてあなたは、それに気づくまでの一か月間、ぐっすり眠っていた。

なぜこの話はこんなに怖いのか

理屈を整理しておく。

一、安全地帯が消える

家というのは、心理的には外の危険から自分を隔てる箱だ。鍵をかける、カーテンを閉める、という行為はすべて、内と外を分ける儀式にほかならない。

この話は、その分割を無効にする。しかも、無効になったことが最後まで隠されている。少女は鍵をかけた。チェーンもかけた。彼女は儀式を完璧に実行した。にもかかわらず、危険はもう内側にいた。

これは、防御という行為そのものへの信頼を壊す。この破壊力は大きい。話を聞いた人が、その日の夜に自分の家の二階を意識してしまうのは、そのためだ。恐怖が物語から出てきて、聞き手の実生活に住みつく。

二、時間が遡って恐ろしくなる

普通の怪談は、これから起きる恐怖を予告する。この話は逆で、すでに終わったことを事後的に恐ろしくする。

オチを聞いた瞬間、聞き手の頭の中で、それまでの全場面が再生され直す。少女がテレビを見ていた時間。冷蔵庫を開けた時間。階段の下で引き返した時間。そのすべてに、二階の存在が上書きされる。三時間ぶんの平穏が、まとめて汚染される。

この遡行的な汚染が、この話の切れ味の正体だ。恐怖が一点で爆発するのではなく、過去に向かって広がっていく。

三、自分が見る方向を間違えていたと気づく

構造として最も残酷なのがここだ。少女は窓を見る。聞き手も窓を見る。そして二人とも、間違った方向を見ていた。

人間は、自分の判断が根本から間違っていたと知らされることに、特有の恐怖を感じる。単に危険が近いことより、危険の位置を誤認していたことの方がこたえる。なぜなら、それは、今この瞬間も、自分は何かを見落としているかもしれない、という一般化された不安に直結するからだ。

聞き終わった人がしばらく落ち着かないのは、この一般化が起きるからだ。話は終わったのに、疑いだけが残る。

四、責任と無力の板挟み

彼女は守る立場にいる。だが守る力を持っていない。十七歳で、武器もなく、車もなく、頼れるのは電話一本。それでいて、二人の子どもの命が彼女の肩に乗っている。

この、責任だけがあって、能力がない、という状態は、思春期そのものの比喩でもある。大人のふりをして大人の仕事を引き受けたら、大人の世界の暴力がそのまま降ってきた。だからこの話は、十代の聞き手にとって、単なるお化けの話より深いところに刺さる。

五、そして、間に合わない

最後に、この話の一番の急所。彼女は間に合わない。どんな選択をしても間に合わなかった。子どもたちは、話が始まる前にすでに死んでいる。

物語の冒頭から結末まで、彼女には勝ち筋が一本もない。読者が、こうすれば助かったのに、と考えることを許さない設計になっている。この救いのなさこそが、この話が六十年たっても薄まらない理由だ。

なぜこんなに広まったのか

最後に、伝播の理由を整理する。

まず、短い。三分で語れる。長い準備がいらない。ベビーシッターの子が電話を受ける話、知ってる、から入れば、あとは一直線だ。

次に、装置が身近だ。家、階段、電話。特殊な小道具がひとつもない。聞き手はすでに全部持っている。だから舞台がすぐ立ち上がる。

そして、細部が可変だ。子どもの数も、地名も、人の名前も、語り手が好きに変えられる。しかも変えても壊れない。骨が頑丈だから、肉をいくら替えても立っている。この可変性が、口承の生存能力そのものだ。

さらに、語り手に得がある。オチを知っている側の優越感。相手が震えるのを見る快感。この報酬があるから、人は繰り返し語る。都市伝説は、語ることで語り手に報酬を払う仕組みを内蔵している。

最後に、映画がある。一九七四年から二〇二〇年代まで、映像化が途切れない。世代ごとに新しい入口が用意され続けた。口承だけなら、どこかで途切れていたかもしれない。だが映像は物語を凍結して保存し、新しい世代に配る。そして映像を見た世代が、また口で語り直す。この循環が半世紀続いている。

生き残る話には、生き残るだけの理由がある。この話には、それが五つも六つも揃っている。

総括――これは「電話の怪談」ではなかった

ここまでで、話の全体像はだいたい押さえたはずだ。だが、この怪談にはまだ掘り足りない層がある。以下、総括と、書ききれなかった追加の考察をまとめて置いておく。

まず結論から言い直しておきたい。ベビーシッターと二階の男は、電話の怪談ではない。これは階層の怪談だ。

上と下。二階と一階。守る者と守られる者。大人と子ども。安全と危険。この話に出てくるものは全部、上下の対で整理できる。そして物語がやっているのは、その対をひっくり返すことだけだ。守られているはずの二階が危険になり、守っているはずの一階が無力になる。上にあるものが降りてくる。

だから電話が消えても、この話は消えない。上下の対が存在するかぎり、器はいくらでも用意できる。カメラでもいい。スマート家電でもいい。ネットワークでもいい。上に何かがいて、下からは見えない、という構図さえ確保できれば、この話は何度でも再生する。

そう考えると、六十年生き延びたのは奇跡でも何でもない。この話は、家という建築物が二階建てであるかぎり、原理的に古びない構造をしている。

なぜ「二階」でなければならないのか

平屋ではだめな理由を、もう少し詰めてみる。

平屋なら、少女は数歩で子ども部屋に行ける。行かない理由がない。行けば話は終わる。つまり平屋は、物語に必要な、行かない理由を作れない。

二階だと、上がるという行為に手間がかかる。階段は物理的な労力であり、心理的な壁でもある。しかも階段は、途中で引き返せる。この、途中まで行って戻れるという性質が決定的で、少女は一度も上がりきらないまま、何度も上がりかける。緊張が繰り返し発生して、繰り返し解除される。

それに、階段には視覚的な断絶がある。下から見上げても、二階の廊下の奥は見えない。角度の問題で、必ず死角ができる。この死角が、恐怖の置き場所になる。

そして最後に、音の問題がある。二階の物音は、下に伝わる。だが伝わり方が曖昧だ。ギシ、という音が、人の足音なのか、家の材木が鳴っただけなのかは判別できない。この判別不能性が、話全体を通して緊張を維持する。平屋では、こうはいかない。

つまり二階は、装飾ではなく必須部品だ。この話は、二階建て住宅という建築様式が普及した社会でしか生まれえなかった。郊外化と二階建てと電話の三点セット。物語は社会構造の産物だという、教科書みたいな例になっている。

「子どもたちの様子は見たか」という台詞の設計

この台詞の異常な完成度についても、一度きちんと書いておきたい。

まず、これは脅迫ではない。殺すぞ、でも、そこにいるぞ、でもない。文面だけ見れば、単なる確認だ。むしろ、子どもを気遣っている台詞ですらある。

だからこそ、一回目は無視できる。無視できるということは、聞き手の警戒をすり抜けられるということだ。もし一回目からお前を殺すと言われていたら、彼女はすぐ通報して、話は短く終わっていた。台詞が無害だから、話が続く。

次に、この台詞は命令の形をしている。行動を要求している。だが彼女は要求に従わない。従わないことが、二回目、三回目の口実になる。台詞が自動的に次の台詞を生む構造になっている。

そして最後に、この台詞は、相手がこちらの行動を把握している、という情報を、じわじわ漏らす。三回目のなぜ見に行かないで、その情報が確定する。つまりこの台詞は、無害な仮面をかぶりながら、少しずつ位置情報を開示していく仕掛けになっている。設計として、恐ろしくよくできている。

誰かが意図してこう設計したわけではない。何万回も語られる過程で、効かない言い回しが淘汰され、効く言い回しだけが残った結果だ。口承というのは、そういう残酷な最適化装置だ。この一文は、数十年ぶんの淘汰を勝ち抜いた台詞だと考えると、また味わいが変わる。

もしいま同じ話を作るなら

現代の器で、同じ骨を組み直すとどうなるか。試しに設計してみる。

主人公は、ペットカメラを設置した一人暮らしの会社員でもいいし、実家に帰省中の学生でもいい。だが、いちばん効くのは、やはり誰かを預かっている人間だろう。介護でもいい。年下の弟妹でもいい。責任があって、力がない状態。これが必須条件だ。

器は電話ではなく、通知にする。メッセージアプリの通知が来る。差出人は知らないアカウント。二階、見に行った。ブロックする。別のアカウントから来る。まだ見てないよね。ブロックする。今度は、家族のグループチャットに来る。

そして最後、正体を突き止めようとしてアプリの設定を開くと、そのアカウントが自分の家のワイファイからログインしていることがわかる。

これは、逆探知のオチの完全な現代語訳になっている。器が違うだけで、全部同じだ。発信元はこの家です、がログイン元はこのネットワークです、に変わっただけ。

つまり、この話はいまでも普通に書ける。書けるどころか、現代の方が説得力が出る。なぜなら、家庭内ネットワークに知らない端末がぶら下がっているという事態は、六〇年代に二階の受話器から電話がかかってくるという事態より、はるかに現実的だからだ。

この話が守っているもの

もうひとつ、皮肉な話をしておく。

この怪談は、六十年にわたって、少女は無力である、という物語を配り続けてきた。彼女は守れない。逃げるしかない。助けるのは警察であり、その警察は男性だ。彼女にできることは、電話を切らずに一分間耐えることだけ。

初期の民俗学的な読みが指摘した通り、この話には、女の子は分をわきまえろ、という古い教訓が埋まっている。夜、家に一人でいるな。責任を負える気になるな。自立を舐めるな。恐怖の形をした説教だ。

その一方で、この話は、ちゃんとやっていても防げない、という結論も同時に持っている。彼女に落ち度はない。だから説教としては完結していない。ここに、この話の奇妙な二重性がある。教訓を配りながら、教訓の無効性も配っている。

現代の翻案が、しばしば主人公に反撃させるのは、この二重性への応答だろう。二〇〇六年のリメイクで彼女が子どもを連れて逃げ、最後に相手と正面から向き合うのも、そういう時代の要求への回答だ。話は語り継がれる過程で、語る側の価値観に合わせて調整される。それも口承の性質だ。

結局、実話なのか

最後にこれを片づけておく。

事件として実在した証拠は、いまのところ存在しない。シッターが電話を受け、逆探知したら家の中からだった、という条件を全部満たす事件は、確認されていない。一九五〇年ミズーリの事件は、条件の半分ほどしか満たさない。

だが、要素を分解すると、話は変わってくる。

シッターが留守番中に殺害される。これは実際に起きている。侵入者が家の中に長期間潜伏する。これも実際に起きている。子どもの近くにある機械から、知らない男が話しかけてくる。これも実際に起きている。助けを求める通報が、発信元不明で届かない。これも実際に起きた。

つまり、この話に登場するすべての要素は、それぞれ単独では現実に存在する。存在しないのは、それらが一晩に全部同時に起きた、という組み合わせだけだ。

都市伝説とは、そういうものなのだと思う。まったくの嘘ではない。現実に散らばっているパーツを、いちばん恐ろしい順番で並べ直したものだ。だから聞いた人は、ありえない、とは言えない。言えないから、その日の夜、二階を意識する。

そして、この話の本当に厄介なところは、ここから先だ。

この記事を読み終えたあなたは、いまこの瞬間、自分の家の上の階か、隣の部屋か、天井の裏側について考えている。考えてしまっている。物語は終わったのに、疑いだけが残る。六十年前の女子高生たちが友達に配っていたのは、この疑いだ。そしてその疑いは、話が終わった後も、器を変えながら、ずっと家の中に居座り続ける。

いい怪談というのは、こういうものを指す。

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