アメリカの都市伝説はだいたい、出所が霧の中にある。誰が最初に言い出したのか分からない。いつからあるのかも分からない。だから怖い、という構造で成り立っている。
ところがバニーマンだけは違う。
この話には、実在する警察の調書がある。事件番号まで残っている。ワシントン・ポスト紙が1970年10月に二度、紙面を割いて報じている。捜査官の名前も、通報者の名前も、投げつけられた手斧が木の柄だったことも、記録に残っている。そして犯人は、55年以上たった今も特定されていない。
つまりバニーマンは、「実在の未解決事件」と「完全な作り話」が地続きになっている、かなり珍しい標本なのだ。しかもその二つの継ぎ目が、公文書館の仕事によってかなりの精度で特定されている。どこまでが事実で、どこから先が誰かの創作なのか。境界線が見える都市伝説というのは、そうそうない。
今回はその境界線を、郡の資料に沿って一本ずつ引き直していく。警察調書の中身から始めて、1999年にインターネットに投稿された一本の文章が話をどう膨らませたか、そしてバージニア州クリフトンの真っ暗な鉄道トンネルが、なぜ毎年ハロウィーンに警察の検問を必要とするほどの聖地になったのかまで。
長くなる。座って読んでほしい。
1970年10月、ギニア・ロードの深夜
まず、記録に残っている最初の夜から。
現場はバージニア州フェアファックス郡バーク、ギニア・ロードの5400ブロック。ワシントンD.C.から南西に車で40分ほど、当時まさに宅地開発の真っ最中だった郊外の一角である。
日付には少しややこしいところがある。郡の資料では10月18日、ウィキペディアなど多くの二次情報では10月19日と書かれている。これは矛盾ではなく、「10月18日の日曜、深夜零時を回った直後」という時刻の書き方の違いだ。カレンダー上は19日の未明。だから両方の日付が流通している。細かい話に見えるが、この手のズレが後で伝説の変異を生む土壌になるので、最初に押さえておきたい。
その夜、空軍士官学校の士官候補生ロバート・ベネットは、婚約者と一緒に車の中にいた。海軍との対抗戦であるアーミーネイビー系のフットボールの試合を見に来ていた帰りだったとされる。ギニア・ロードの向かいには彼の叔父の家があった。要するに、地元をよく知っている人間が、知っている道に車を停めていただけだ。
深夜零時過ぎ。茂みが動いた。
そこから出てきたのは、白い服を着た人影だった。ベネットの証言では、頭に長いウサギの耳がついていた。婚約者の証言はここが微妙に違う。彼女は「先の尖った白いフード」と言った。ウサギの耳とKKKの三角頭巾は、暗闇の車内から見れば確かに紛らわしい。この食い違いは、後に「バニーマンはもともとKKKのローブだったのではないか」という説を生むことになる。
人影は叫んだ。
「ここは私有地だ。ナンバープレートは控えたぞ」
そして手斧を投げた。木の柄がついた、ごく普通の手斧。それが車の右前方の窓を突き破って車内に飛び込んできた。
二人とも無傷だった。ガラスは割れた。手斧は車の中に落ちた。ベネットは車を出して逃げ、警察に通報した。フェアファックス郡警察は手斧を証拠品として押収した。
そして、それだけだった。指紋も、目撃者も、手がかりらしい手がかりも出なかった。当時の警察の記録には「この件に他の手がかりなし」と書かれている。
ワシントン・ポストが「ウサギ」を紙面に載せた日
1970年10月22日、ワシントン・ポスト紙が短い記事を出した。
見出しは「フェアファックスでウサギ姿の男を捜索」。記事の中には、報道側の困惑がそのまま滲んでいる箇所がある。事実関係を書き並べたあとに、括弧で「本当の話である」という趣旨の一言が添えられていた。書いている記者自身が、これは冗談じゃないと読者に念押ししなければならないと感じたわけだ。
ここが決定的に重要な分岐点になる。
もしこの通報が地元警察の書類の中だけで終わっていたら、バニーマンは存在しなかった。ワシントン・ポストという、首都圏で最も読まれる新聞が「ウサギの着ぐるみの男が手斧を投げた」という一文を活字にした瞬間に、この話は個人の体験から地域の共有物になった。
そしてタイミングが最悪、というか最高だった。10月22日である。ハロウィーンの9日前だ。
10月29日、キングス・パーク・ウェスト
一週間と少し後、二度目が起きる。
1970年10月29日木曜、午後10時30分。場所はギニア・ロード5307番地。最初の現場から一ブロックしか離れていない。キングス・パーク・ウェストという、当時1500戸を超える規模で造成されていた新興住宅地の一角である。まだ人が住んでいない、建てたばかりの家だった。
そこにいたのが、建設会社に雇われた民間警備員のポール・フィリップスだ。深夜の現場を見回るのが仕事だった。
彼が見たのは、家のポーチに立っている人影だった。灰色と黒と白の毛皮のウサギの着ぐるみ。長い耳が二本。そして手には斧。
その人影は、ポーチの屋根を支えている柱に、斧を打ち込んでいた。何度も。後で数えたら、柱には8か所の切り込みが入っていた。
フィリップスが近づくと、着ぐるみの男は言った。
「お前らはみんなここに勝手に入ってくる。出て行かないなら頭をかち割るぞ」
別の伝えられ方では「これ以上近づいたら首を切り落とす」となっている。どちらにせよ、脅し文句であることに変わりはない。
フィリップスは拳銃を取りに戻った。戻ってきたときには、男は斧を持ったまま森の中へ消えていた。ある記述では、男は「ぴょんぴょん跳ねるようにして」森へ入っていったという。この一行がまた、話をおかしな方向に生々しくしている。
フィリップスによる犯人の特徴は具体的だ。身長は5フィート8インチ、およそ173センチ。体重は160ポンド前後、資料によっては175ポンド。だいたい72キロから79キロ。年齢は20代前半に見えた。
つまり、幽霊でも巨人でもない。ごく普通の体格の若い男である。
事件番号858-748
ここからが、この都市伝説の他にない部分だ。
フェアファックス郡警察の捜査報告書、事件番号858-748。10月29日の通報に対して、6人の警官が現場に出動している。
捜査を担当したのは犯罪捜査局のW・L・ジョンソン捜査官。彼が本格的に動き始めたのは10月31日、ハロウィーン当日だった。
そして、この捜査には奇妙な続きがある。
ジョンソン捜査官がキングス・パーク・ウェストの関係者を訪ねたその同じ日、開発会社の担当者のところに一本の電話がかかってきた。名乗ったのは「斧男」。
電話の主はこう言った。あんたたちは私の土地を荒らしている。切り株や枝や藪をうちの方に捨てている、と。
電話を受けた担当者は、声の印象を「10代後半か20代前半の白人男性」と警察に伝えている。
これが本人だったのか、便乗した誰かだったのかは分からない。ただ、この電話の内容は決定的なヒントを含んでいる。「私の土地」「捨てている」。この男が怒っていたのは、幽霊的な理由ではない。開発だ。
警察は張り込みを組んだ。現れなかった。
1971年3月14日、報告書に最終所見が書き込まれる。
「極めて広範な捜査を行ったが、白いウサギが本当に存在したのかどうかは、依然として立証されていない」
事件は非活性、つまり事実上の打ち切りとなった。
この一文がまた効いている。警察の公式文書に「白いウサギが実在したかどうか不明」と書かれているのだ。書類の書き手も、たぶん書きながら妙な気分だっただろう。
目撃通報が50件を超えた二週間
二度目の事件の後、フェアファックス郡は静かに軽くパニックになる。
11月6日までに、警察には50件を超える「バニーマンを見た」という通報が寄せられた。フェアファックス郡だけではない。ワシントンD.C.、メリーランド州、プリンス・ジョージズ郡。首都圏全域に広がった。
そのうち一件たりとも裏付けは取れていない。
新聞の方も面白がって追いかけた。10月31日付のカンバーランド・ニューズ紙は「バージニアの『バニーマン』が手斧を持っている」。11月1日付のサフォーク・ニューズヘラルド紙は「『バニーマン』またも出現」。同じく10月31日付のワシントン・デイリー・ニューズ紙にいたっては、この人物が世間の意識の中でスーパーマンに匹敵する存在になった、というような書き方をしている。
ここで起きていることは、心理学でいう社会的伝染そのものだ。「ウサギの着ぐるみを着た斧の男」という具体的で異様なイメージが新聞とテレビで共有された瞬間、暗い夜道で見た白っぽい何かが、全部それに見えるようになる。人間の知覚は、与えられた鋳型に流し込まれる。
そして11月に入ると、通報はぱたりと止んだ。後に採集された証言のひとつに「二週間くらい続いて、それで消えた」というものがある。まさにその通りの経過をたどった。
なぜウサギだったのか、という現実的な問い
犯人は捕まっていない。だから動機も本当のところは分からない。ただ、郡公文書館の歴史担当アーキビストであるブライアン・A・コンリーは、記録された三つの接触点から、かなり説得力のある読みを提示している。
三つの接触点というのは、車への手斧、建設中の家への斧、そして「斧男」を名乗る電話だ。
この三つに共通しているのは、全部「土地」の話だという点である。私有地だ、ナンバーを控えた、お前らは勝手に入ってくる、私の土地に木くずを捨てている。暴力の方向が、常に「境界線を越えてくる人間」に向いている。
1970年のフェアファックス郡がどういう場所だったかを考えると、この読みは腑に落ちる。1950年代から60年代にかけて、スプリングフィールド、マクリーン、アナンデール、フェアファックスと、次々に区画住宅が広がっていった。牧草地と森が、道路と分譲地とショッピングセンターに変わっていく途中だった。キングス・パーク・ウェストだけで1500戸超。翌年には生徒数3900人のジェームズ・W・ロビンソン中等学校が開校する。
つまり、あの一帯は数年のうちに景色が丸ごと入れ替わった。
そこに、それを許せなかった誰かがいた。ということなのだろう。
では、なぜウサギなのか。ここには誰も答えを出せていない。ハロウィーン直前の時期にたまたま手に入る着ぐるみだったのかもしれない。顔を隠すためだったのかもしれない。あるいは単に、頭がどうかしていたのかもしれない。
ただ結果として、この意匠の選択がすべてを決めた。もし彼が黒い目出し帽をかぶっていたら、この事件は「1970年の未解決の器物損壊」で終わっていた。ウサギだったから、55年後も語られている。
話が「橋」に引っ越すまで
ここで大事な事実をひとつ。
1970年の二つの事件は、バニーマン橋では起きていない。
現場はギニア・ロードのバーク地区。今「バニーマン橋」と呼ばれているコルチェスター・オーバーパスは、そこから東に6マイルほど、フェアファックス・ステーションからクリフトンに向かう途中にある。車で15分ほど離れた、まったく別の場所だ。
このコルチェスター・オーバーパスというのは、1906年前後に架けられた鉄道の跨道橋である。上を線路が走り、下をコルチェスター・ロードが一車線でくぐる。オレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道の系譜を引く路線で、近くには南北戦争期の鉄道拠点であったサングスターズ・ステーションの跡がある。
構造としては「橋」というより「トンネル」に近い。路面から線路までの高さはおよそ25フィート、8メートル弱。トンネル部分は狭く、車一台がやっとで、対向車が来たらどちらかが下がるしかない。両側は深い森。街灯はない。
要するに、この場所は「怖い場所」の要件を全部満たしている。狭い、暗い、一方通行、森の中、退避場所がない、そして頭上を貨物列車が轟音を立てて通り過ぎる。
1950年代から60年代にかけて、ここは地元のティーンエイジャーが車を停める場所だった。人目がないからだ。人目がない場所は、必ず怪談を吸い寄せる。
だから、1970年に「駐車中のカップルの車に斧を投げた男」の話が流れてきたとき、その話が着地する先はもう決まっていたようなものだった。地元の子どもたちが「車の中のカップル」と聞いて思い浮かべる場所は、あのトンネルだったのだから。
事件と橋は無関係だ。しかし物語としては、これ以上ないほど相性がよかった。
1999年、インターネットに投稿された「1904年」
現在ネットで流通しているバニーマン伝説の骨格は、1970年の事件とほとんど関係がない。その骨格を作ったのは、1999年ごろにキャッスル・オブ・スピリッツという心霊系サイトに投稿された一本の文章である。投稿者名はティモシー・C・フォーブスとされている。
その内容を、なるべく忠実に再話しておく。これを読まないと、後の検証の意味が分からないからだ。
1903年、バージニア州クリフトンに精神科の施設があった。地域の住民はこの施設を嫌い、移転を求める請願を出した。請願は通り、1904年秋、収容されていた患者たちをロートンの新しい施設へ移送することになった。
移送中、バスが事故を起こす。車両は横転し、収容者たちは森へ散った。
4か月にわたる捜索の末、ほぼ全員が回収された。しかし二人だけ見つからなかった。マーカス・A・ウォルスターと、ダグラス・J・グリフォンである。
やがて森の中で、皮を剥がれ、内臓を抜かれたウサギの死骸が次々と木に吊るされているのが見つかるようになる。そして最終的に、コルチェスター・オーバーパスの近くで、ウォルスターの死体が発見された。手製の手斧を握っていたという。
グリフォンは、ついに見つからなかった。
1905年のハロウィーン。三人の若者が、後にバニーマンの橋と呼ばれることになるフェアファックス・ステーションの跨道橋で死んでいるのが見つかる。喉を切り裂かれ、橋から吊るされていた。
1906年のハロウィーン。七人のティーンエイジャーが橋に集まった。うち六人がトンネルに入り、殺された。ただ一人生き残ったのがエイドリアン・ハタラという少女で、彼女はその後精神を病んで施設に収容され、1953年に亡くなるまでそこにいた。
以後、1913年、1943年、1976年、1987年のハロウィーンにも同様の事件が起きた。毎回、深夜零時に線路の上を薄暗い光が近づいてきて、橋のところで消える。そして人が死ぬ。喉と胸を裂かれ、吊るされる。
投稿者は最後にこう書き添えていた。記録は「オールド・クリフトン図書館」に残っている、疑うなら自分で確かめてみるといい、と。
これがネット時代のバニーマンの原型である。犠牲者の総数は、流通するバージョンによっては32人とされた。
郡公文書館がひとつずつ潰していく
ブライアン・A・コンリーは、フェアファックス郡公共図書館のバージニアルーム、つまり地域史資料部門の歴史担当アーキビストである。彼がこの件の調査を始めたのは1992年ごろ。ネット版が広まる前から、地元の学校で子どもたちが語っている話の出所を追いかけていた。
そしてフォーブス版が広まった後、彼はその一行一行を郡の記録に突き合わせていった。
結果はこうなる。
フェアファックス郡に精神科の収容施設が存在したことは、一度もない。1903年にも1904年にも、その前後にもない。移送すべき患者がそもそも郡内にいない。
ロートン刑務所が開設されたのは1910年である。資料によっては1916年とするものもあるが、いずれにせよ1904年には存在しない。存在しない施設へは移送できない。
さらに、ロートンはワシントンD.C.の矯正局が運営する施設だった。バージニア州の管轄ではない。仮に時期が合っていたとしても、バージニア州の患者をD.C.の刑務所へ移送するという行政のルートがそもそもない。
マーカス・A・ウォルスターとダグラス・J・グリフォン。この二つの名前は、フェアファックス郡の裁判所記録のどこにも出てこない。生まれても死んでもいない。
エイドリアン・ハタラという生存者も、同様に記録にない。
そして、これがいちばん皮肉なのだが。
投稿者が「記録を確かめてみろ」と挑発した「クリフトン町立図書館」は、存在したことがない。町にそんな図書館は一度もなかった。
つまりフォーブス版は、検証を促す一文まで含めて、丸ごと創作だったことになる。
コンリー本人はこの文章を全否定しているわけではない。彼はこれを「とんでもなくよくできた創作文」と評している。実際そうだ。年号を刻み、固有名詞を置き、生存者の死亡年まで書き込み、最後に検証の手がかりまで示す。信憑性を演出する技術としては、かなり洗練されている。
そのうえでコンリーは、1970年に実際に起きたことについてこう言っている。ハロウィーンの時期に、変な格好をした気味の悪い男が、人に手斧を投げつける。あまりに奇妙すぎて、とても本当のこととは思えない。だが、これは本当に起きたのだ、と。
1973年、54通りのバニーマン
ネット版が生まれるはるか前、この伝説がどう変異していったかを記録した学術的な資料がある。
1973年、メリーランド大学カレッジパーク校の学生パトリシア・ジョンソンが、同大学の民俗学アーカイブのために調査を行った。対象はメリーランド州プリンス・ジョージズ郡の高校生33人、年齢は15歳から18歳。彼らから聞き取ったバニーマン譚は、54のバリエーションに整理された。
事件のわずか3年後である。にもかかわらず、話はすでに54通りに分裂していた。
内訳を見ると、変異の方向がよく分かる。
語られた舞台は14の異なる地域にまたがっていた。もう「ギニア・ロード」ではなくなっている。手斧や斧で追いかけられた、脅されたという型が18件。車が襲われる型が14件。駐車中のカップルが狙われる型が9件。家や建物が壊される型が5件。
そして、殺人が出てくるのはわずか3件だった。
ここが決定的に面白い。1973年の時点では、バニーマンはまだ人を殺していないのだ。怖い変質者ではあるが、怪物ではない。1970年に実際に起きたこと、つまり器物損壊と脅迫という枠から、まだそれほど遠くない。
ジョンソン自身の結論は、これは「都市的信仰譚」であり、語られているようなバニーマンは実在しない、というものだった。
彼女が採集した典型例のひとつに、17歳のG・テイラーという生徒の証言がある。テレビのニュースで見た、という前置きから始まり、車に手斧が投げ込まれたこと、男が「不法侵入だ」と言ったこと、警察が捜査したこと、そして警察が仮装衣装の販売店を回ったところウサギの着ぐるみは3着しか売れていなかったこと、という細部まで出てくる。最後は「二週間くらい続いて、それで立ち消えになった」で終わる。
これはほとんど新聞報道の要約だ。コンリーが指摘している通り、ジョンソンが採集した話の多くは、明らかに当時の新聞とテレビのニュースから派生している。
そして、変異の速度も記録されている。ジョンソン捜査官が学校の噂を追いかけていたのは、最初の事件からわずか二週間後のことだった。警察が校庭の噂を捜査の手がかりにしていた、というのが1970年11月の実態である。
派生バージョンを一つずつ
ここからは、時代と地域によって枝分かれした主要なバリエーションを、順番に見ていく。どれも「本物」ではないが、どれも実際に語られてきたものだ。
まず、最も広く流通しているのが「名前を三度呼ぶ」型である。ハロウィーンの夜、深夜零時、コルチェスター・オーバーパスのトンネルの下に立ち、「バニーマン」と三度唱える。すると彼が現れる。これは鏡に向かってブラッディ・メアリーを三度呼ぶ型の、完全な移植である。北米の子どもの怪談文法において、三回という数と名前を声に出すという行為はセットで扱われる。呼ばれた側は名前を呼ばれることで実体化する。バニーマンにこの装置が接続されたのは比較的新しく、少なくとも1973年のジョンソンの採集群には出てこない。
次に、「トンネルの中ほどで振り返る」型。名前を呼ぶ必要はない。ただ、トンネルの半分まで歩き、そこで来た方向を振り返る。すると、入口のところに立っている。南カリフォルニア大学の民俗学アーカイブに残されている、ワシントンD.C.で育った女性の証言がこの型だ。彼女は自分では試さなかったが、友人には試した者が何人もいた、と語っている。この型の怖さは、危害の予告がないところにある。ただ「いる」だけ。それだけで十分だという設計になっている。
三つ目が、「吊るされる」型。これがフォーブス版の中核であり、現在のネット上でいちばん見かける形でもある。深夜零時を過ぎてトンネルをくぐった者は殺され、遺体は橋から吊るされる。喉を裂かれ、胸を裂かれた状態で。この型では毎年ハロウィーンごとに新しい死体が増えていくことになっており、年号のリストがついてくることが多い。1905年、1906年、1913年、1943年、1976年、1987年。数字が並ぶと、それだけで台帳のように見える。実際には一件も裏付けがない。
四つ目、「ウサギの死骸」型。橋の周辺の木々に、皮を剥がれたウサギの死骸が吊るされている、あるいは半分食い荒らされたウサギが枝からぶら下がっている、という描写である。これはバニーマンという名前に説明を後付けするために生まれた要素だと考えられる。「なぜウサギなのか」という問いに、「ウサギを食べていたからだ」と答える。名前が先にあって、由来が後から作られている。伝説の成長としては典型的な順序だ。
五つ目、「線路で轢かれた」型。バニーマンの正体は精神科施設から逃げた男で、彼自身が最後に列車に轢かれて死んだ、だからあの橋に憑いている、という筋である。これは実際に線路が現役であることから来ている。頭上を本物の列車が時速80キロから120キロで通過していく場所なのだから、線路と死を結びつける話が生えてくるのは自然だ。
六つ目、「内臓を抜かれた子ども」型。1980年代の版に多い。犠牲者は1人から3人、多くは子ども。バニーマンをからかった子どもたちが報復された、という因果がつくことが多い。1970年代の版には死者がいなかったのに、1980年代には死者が出て、しかも子どもになる。都市伝説が「子どもへの警告」として機能しはじめると、犠牲者は子どもになる。これも定石だ。
七つ目、「白い三角頭巾」型。これは他と毛色が違う。1970年の婚約者の証言に基づいて、あれはウサギの耳ではなくKKKの尖った白頭巾だったのではないか、という解釈である。事件の背景を人種的な威嚇と結びつける読みで、実際、白い覆面をかぶった男が深夜に「ここは俺の土地だ」と怒鳴りながら凶器を振るうという構図は、南部の歴史文脈では別の意味を帯びる。バージニア州北部という土地柄を考えれば、無視できる説ではない。ただし裏付けもない。
八つ目、「チェーンソー」型。日本語圏でよく見かけるのがこれで、バニーマンの得物が手斧ではなくチェーンソーになっている。おそらくホラー映画のイメージが混入したものだ。1970年の記録には一貫して手斧と斧しか出てこない。
九つ目、「メリーランド版」。1970年11月の通報の波はメリーランド州にも及んだため、プリンス・ジョージズ郡やモンゴメリー郡を舞台にした版が存在する。ジョンソンが採集した14の地域というのは、まさにこの拡散の結果だ。地元の子どもたちは、地元の暗い場所に話を置き直す。伝説は、必ずその土地でいちばん怖い場所に引っ越す。
十番目、「バスの型」。移送車が事故を起こして狂人が逃げた、という導入部分は、実はバニーマン固有のものではない。イリノイ州には、同じ導入でピエロが逃げ出す版がある。移送中の事故という設定は、複数の地域伝説を渡り歩いている移動可能な部品なのだ。フォーブス版は、この既製部品をバニーマンに接続したにすぎない。
体験談その一、2003年ハロウィーンの見物人
2003年のハロウィーン、コルチェスター・オーバーパスには相当な数の人が集まった。地元紙が現場に記者を出し、その様子を記事にしている。
集まったうちの一人にマット・マカダムスという青年がいた。彼がここに来た理由ははっきりしている。テレビの心霊特番でこの橋を見たのだ。番組では、この橋で21人が死んでいる、と紹介されていたという。彼はバニーマンを見たくて来た。
現場では、地元の高校生たちがそれぞれ自分の知っているバージョンを語り合っていた。ある子は1904年の脱獄囚の話をした。別の子はウサギの着ぐるみを着た精神病患者の話をした。また別の子は、自分をからかった子どもたちを殺した頭のおかしな男の話をした。そして誰かが、遺体は「裏返しにされていた」と言った。
同じ場所に立って、同じ橋を見ながら、全員が違う話をしている。これが2003年時点でのバニーマン伝説の実態だ。共通しているのは「ここで人が死んだ」という一点だけで、あとは全部バラバラである。
警察はこの日、コルチェスター・ロードを封鎖した。車を停めさせないためだ。歩行者の通行は認めた。現場を指揮したジェフ・ゴセット巡査部長は、こう説明している。毎年ハロウィーンには大勢が集団でここへ来る、近隣住民にとってこれは問題だ、と。
そして彼は、この現象をひとことでこう表現した。フェアファックス郡版のブレア・ウィッチ・プロジェクトだ、と。
言い得ている。若者が、暗い森の中の場所に、伝説を確かめに行く。何も起きない。それでも来る。あの映画が描いたのは、まさにこの心理だった。
体験談その二、雨の夜に立っていた男
2020年10月、あるカップルがバニーマン橋を訪れた際の記録が、心霊スポット情報を集めるサイトに投稿されている。彼らが遭遇したのは、幽霊らしい幽霊ではなかった。だからこそ不気味だ。
その夜は雨だった。二人が車で現場に向かっていると、後ろのカーブからヘッドライトが現れ、そのまま真後ろにぴったりつけてきた。しばらく走って、二人は道端に車を停めた。停めた場所は、古い教会の墓地だった。意図してそこに停めたわけではなく、あとで気づいたという。
さらに進んだ交差点に、一台の車が停まっていた。エンジンはかかったまま。運転席には人が座っている。ただ、顔がどうしても見えない。角度なのか、影なのか、二人には最後まで分からなかった。
そして、道の脇に男が立っていた。
背が高く、痩せていて、髪は黒く、髭は無精髭。ベージュのシャツにオーバーオール。動かない。ただ、そこに立って、こちらを見ている。
投稿者はこう書いている。あれがバニーマンだったのか、その辺に住んでいる気味の悪い男だったのか、それとも幽霊だったのか、いまだに分からない、と。
この証言が優れているのは、結論を出していないところだ。実在の変質者と、超常現象と、ただの通行人。この三つの可能性が最後まで潰れないまま残る。そして実は、1970年の事件そのものが同じ構造をしていた。警察の報告書に書かれた「白いウサギが実在したかどうか立証されていない」という一文と、この投稿は、50年を隔てて同じことを言っている。
体験談その三、トンネルの奥に灯った光
もうひとつ、シドニー・ウォルターズという書き手が発表している、自身の体験を綴った短い文章がある。
彼女は友人たちと深夜、ワシントンD.C.から30分ほど走ってバニーマン橋に行った。若者がやることだ。度胸試しである。
車を停めて、徒歩で橋へ近づく。友人のうち一人は怖がって車に戻った。残った三人のうち、書き手が先頭を歩いた。トンネルは暗く、彼女の表現では「終わりのないトンネル」に見えたという。実際には数十メートルしかないのだが、光源がないと距離感が消える。
トンネルの中で、同行していたカップルが壁際でいちゃつき始めた。書き手は少し離れて立っていた。
車に戻ると、待っていた友人が妙なことを言った。あんたたちがトンネルの中にいる間、トンネルの向こう側の端に光が見えた、と。
書き手は否定した。誰も懐中電灯を持っていなかった。トンネルの中は完全な闇だった。向こう側から車が来た音もしなかった。
そこで、あの感覚が来る。彼女はこう書いている。あの震え、分かるだろうか、腹の底から始まって背骨を這い上がってくるあれだ、と。
四人はそのまま車を出して帰った。そして、そのことについて、その後誰も口にしていない。
この話には超常現象の証拠が何もない。列車の前照灯だったかもしれない。遠くの家の明かりだったかもしれない。目の錯覚かもしれない。だが体験としては完結している。怪談に必要なのは証拠ではなく、確認できないまま終わることなのだ、というのがよく分かる。
体験談その四、深夜零時にかかってきた警察からの電話
もう一件、性質の違う証言を挙げておく。
バージニア州北部のバンド、モンチュア・フィニアルズのリーダーであるジム・ウォーターズは、1970年当時11歳だった。事件はリアルタイムの記憶として彼の中にある。
それから数十年後、彼の娘がバニーマン橋に行った。若者が行くところだ。そして深夜零時、彼の家の電話が鳴った。警察からだった。
娘が現場で補導されたのである。
このとき彼は、自分が子どものころに聞いた話が、まだ生きていて、次の世代を同じ場所に連れて行っていることに気づいた。そこから彼は弟と組んで、この伝説を全26曲のロックオペラに仕立てた。
作品の筋書きが面白い。フェアファックス郡に住む少年ピーターが主人公で、両親はジャックとメアリー。ジャックは実はバニーマンであり、脱獄囚でもある。メアリーはクリフトンにあったアイヴァコタ農場、つまり未婚の母のための施設の出身という設定になっている。物語はピーターが両親の過去を知るところで、暗い喜劇として決着する。
2013年9月15日、バージニア州ビエナのジャミン・ジャバで一部が上演された。ウォーターズは、誰か脚本にできる人間にこれを渡したい、夢を言えばティム・バートンに映画化してほしい、と語っている。
この一件が示しているのは、伝説の世代間伝達がどう起きるかという実例である。1970年に11歳だった少年が、自分の娘が同じ場所で警察に補導されたことをきっかけに、その伝説の語り手になる。40年かけて、聞き手が語り手に変わった。
ハロウィーンのバニーマン橋で実際に起きていること
ここからは、怪談ではなく現実の話をする。
コルチェスター・オーバーパスは、心霊スポットである前に、生きている鉄道施設だ。
上を通っているのはノーフォーク・サザン鉄道の路線で、通勤鉄道のVREとアムトラックだけで週におよそ90本。貨物を含めれば週100本を優に超える。列車の速度は時速50マイルから75マイル、つまり80キロから120キロ。そして、この跨道橋の位置に警報装置はない。線路上に人がいても、列車は何も鳴らさずに来る。
路面から線路までの高さは約25フィート。落ちれば無事では済まない。
問題が本格化したのは2000年代に入ってからだ。2001年にフォックス・ファミリーの心霊番組がこの橋を取り上げ、全米に紹介した。2003年のハロウィーンにはすでに道路封鎖が必要な規模になっていた。そして動画共有サイトが普及すると、「ここで肝試しをしてみた」という映像が大量に出回りはじめる。橋の下でカメラを回し、線路によじ登り、線路脇の木に登って撮影する。そういう映像が、そのまま次の訪問者への招待状として機能した。
2011年のハロウィーンには、フェアファックス郡警察サリー地区署が本格的な検問を敷いた。警官が現場に到着したのが午後2時30分。撤収したのが翌朝4時30分ごろ。実に14時間の連続警備である。
この一晩で追い返した人数は200人を超えた。ペンシルベニア州とメリーランド州の境あたりから車で来ていた集団もいた。片道数時間かけて、真っ暗な鉄道トンネルを見に来て、警察に止められて帰る。
サリー地区署のパーヴィス・ドーソン警部は、住民が困っている実態をこう説明している。ここに来る人間は悪ふざけをする、橋の下側に落書きをし、侮辱的な言葉を書き散らしていく、と。
対策も打たれた。不法侵入禁止の掲示が増設され、罰則が引き上げられた。従来のクラス4軽罪、罰金250ドルどまりだったものが、「掲示のある土地への不法侵入」としてクラス1軽罪の適用対象になった。最大で禁錮12か月、罰金2500ドル。肝試しの代償としては重い。
近隣住民の側からも、地元紙に投書が出ている。要旨は明快だ。ここは観光地ではない。生活道路であり、現役の線路である。動画のために子どもたちが線路に登っている。いつか本当に人が死ぬ、と。
ただし、地元がこの伝説を全否定しているわけでもない。クリフトンにはハロウィーン期のホーンテッド・トレイルがあり、伝説を織り込んでいる。バークには「バニーマン・ブリューイング」というクラフトビール醸造所がある。創業者のサム・グレイとエリック・バレットは、バークという町がバージニア州で「10番目に退屈な場所」に選ばれたことを逆手に取り、地元の伝説を看板に据えた。醸造所は1970年の事件現場から一ブロックのところにある。今では北バージニアに3店舗を構えるまでになった。
つまりこの土地には、伝説を商売にする層と、伝説に生活を荒らされる層が同時に存在している。心霊スポットを抱えた土地では、たいていこの分裂が起きる。
アメリカの「地元怪談」はどう全国化するのか
バニーマンの経路をたどると、地方の怪談が全国化する回路がきれいに見える。段階は四つある。
第一段階は、事実の報道である。1970年10月22日と31日のワシントン・ポスト。これがなければ何も始まらない。しかも効いているのが、新聞が「これは本当の話だ」とわざわざ断りを入れたことだ。信頼された媒体が異様な話を保証してしまうと、その話は疑われる機会を失う。
第二段階は、口承による地域拡散である。1970年11月の50件超の通報、そして1973年にジョンソンが採集した54のバリエーション。この段階で話は事実から切り離され、語り手のいる土地に合わせて姿を変える。地名が変わり、被害が重くなり、犠牲者が増える。校庭という伝播経路は、新聞よりはるかに速い。
第三段階は、場所への固着である。話が特定の物理的な地点と結びつくと、伝説は「行ける」ものになる。コルチェスター・オーバーパスがその役を引き受けた。ここが決定的で、行ける場所になった伝説は死ににくい。毎年新しい世代が実地に確認しに行くからだ。民俗学ではこれをレジェンド・トリッピングと呼ぶ。伝説は語られることではなく、訪問されることで維持される段階に入る。
第四段階が、テキストの固定と全国配信だ。1999年のフォーブス版がここに当たる。それまで口承で揺れていた話に、年号と固有名詞のついた「正典」が与えられた。しかもインターネット上に置かれたので、コピーが無限に増える。2001年のテレビ番組が全米に流し、2011年には低予算のホラー映画も作られた。こうなると、もう地元の話ではない。
この四段階が揃うと、地方怪談は全国化する。逆に言えば、どこかが欠けると全国化しない。多くの地元怪談が地元から出られないのは、たいてい第三段階か第四段階でつまずくからだ。
そしてバニーマンには、他の伝説にはない第五の要素があった。反証の存在である。
普通、都市伝説は反証されると弱る。だがバニーマンは違った。ブライアン・コンリーの検証は、1904年の話を完膚なきまでに潰した一方で、1970年の事件は本物だと確定させてしまった。結果として「作り話の部分は嘘だが、核心は実話」という、最も強い形が残った。
嘘を剥がしたら、下から本物が出てきたのだ。これは伝説にとって、反証されるより厄介な強化のされ方である。
なぜ着ぐるみは、あんなに怖いのか
最後に、意匠の話をしたい。
もしあの男がスキーマスクをかぶっていたら。あるいは何もかぶっていなかったら。この話は残らなかったと思う。ウサギの着ぐるみだったことが、すべてを決めた。
理由はいくつかある。
ひとつは、表情が動かないという点だ。人間は他人の顔から、絶えず情報を読み取って安全か危険かを判断している。着ぐるみの顔は、その入力を完全に遮断する。しかも「顔がない」わけではない。顔はある。目もある。口もある。ただし、それらは絶対に動かない。脳は顔を検出して読解を試み、失敗する。この処理の空振りが、不気味の谷と呼ばれる不快感の正体のひとつだとされている。
ふたつめは、記号の裏切りである。ウサギは、人間の文化の中で最も安全な側に配置された動物のひとつだ。子ども向けの絵本、イースター、ぬいぐるみ、復活祭のバニー。ウサギは無害と幼児性の記号として使われる。その記号が斧を持って向かってくると、記号体系そのものが誤作動を起こす。これは、ピエロが怖がられる理由とまったく同じ構造だ。「安全であるはずのもの」が敵に回ることの恐怖は、単に怖いものが出てくるより深いところを叩く。
みっつめは、意図の不可解さである。強盗なら金が目的だと分かる。だから対処のしようがある。しかしウサギの着ぐるみを着て深夜に手斧を投げる人間の目的は、推測ができない。人間は、理解できない相手を最も恐れる。理解できれば予測でき、予測できれば逃げられるからだ。予測できない暴力は、防御の手立てそのものを奪う。
よっつめが、着ぐるみの匿名性だ。中に誰がいるか分からない。年齢も、性別も、人種も、体格すらぼかされる。1970年の証言で「ウサギの耳」と「尖った白いフード」に食い違いが生じたのは、まさに着ぐるみが輪郭を溶かすからである。そして誰でもありうるということは、隣人でもありうるということだ。
いつつめ。これがいちばん重要かもしれないが、着ぐるみは「準備」を意味する。
深夜、突発的に激怒して物を投げるのなら、着ぐるみは着ていない。着ぐるみを着ているということは、その人物が事前にそれを入手し、身につけ、そのうえで外に出たということだ。計画がある。段取りがある。そして、その段取りの中に「ウサギの姿でやる」という選択が含まれている。
その選択の理由が分からない。分からないまま、実行されている。
1970年のフェアファックス郡の住民が本当に怖がっていたのは、たぶん手斧ではない。手斧を投げる前に、わざわざウサギの着ぐるみを着た誰かの頭の中身の方だったはずだ。
そして、その頭の中身は、いまだに誰にも分かっていない。
ラベルが先にあって、中身は後から注ぎ込まれた
ここからは、記事本文に収まりきらなかった論点をまとめて掘り下げる。バニーマンという事例は、都市伝説研究の教材としてかなり出来がよく、掘るほど別の話が出てくる。
まず、この事件が「解決していない」ことの意味をもう少し丁寧に考えたい。
未解決事件には二種類ある。犯人が分からないだけで、何が起きたかは分かっているもの。そして、何が起きたのかすら確定していないもの。バニーマンは後者に片足を突っ込んでいる。W・L・ジョンソン捜査官が1971年3月14日に書いた「白いウサギが本当に存在したのかどうかは、依然として立証されていない」という一文は、犯人の身元が不明だという意味を超えている。目撃者は複数いる。物証として手斧もある。柱には8か所の切り込みが残っている。それでも捜査官は「存在したかどうか不明」と書いた。
この書き方は、警察官の職業的な慎重さの表れだと解釈するのが妥当だろう。証言はある。物証もある。しかし、その物証と証言を「ウサギの着ぐるみの男」という一人の人物に結びつける確定的な鎖がない。ベネットの車に手斧を投げた人物と、キングス・パーク・ウェストで柱を叩いた人物が同一だという証明もない。片方は白い服とウサギの耳、もう片方は灰色と黒と白の毛皮。婚約者の証言では尖った白フード。三つの記述は微妙に食い違っている。
つまり、公式には「バニーマン」という単一の人物は存在しない。存在するのは、二件の事件と、一本の不審な電話と、50件を超える裏付けのない通報だけだ。「バニーマン」という名前は、それらを束ねるために誰かが後からつけたラベルにすぎない。
ここに、この伝説の最も深い皮肉がある。ラベルが先に生まれて、中身が後から埋められた。1904年の脱獄囚も、吊るされた死体も、ウサギの死骸も、全部そのラベルを埋めるために生成された内容物だ。空の器があったから、人々が中身を注ぎ込んだ。
次に、1973年のパトリシア・ジョンソンの調査結果を、もう一度別の角度から見てみたい。
54のバリエーションのうち、殺人が出てくるのは3件だけだった。この数字を軽く見てはいけない。事件から3年後、まだ当事者が生きていて、新聞の切り抜きが家にあるかもしれない時期に、94パーセントの語り手が「誰も死んでいない」版を語っていたのである。
ということは、殺人はいつ入り込んだのか。
証拠から言えるのは、1980年代だ。この時期の版には犠牲者が1人から3人現れ、多くの場合それは子どもである。ここには、アメリカ社会の80年代特有の空気が反映されている可能性が高い。行方不明児童の顔が牛乳パックに印刷されるようになったのが1984年前後。見知らぬ大人が子どもを連れ去るという恐怖が、社会全体で異常に高まった時代だった。同じ時期に、いわゆるサタニック・パニックも起きている。子どもが標的にされているという集合的な不安が、既存の伝説の空欄に流れ込んだと考えると、時期の一致は偶然とは思いにくい。
つまり、バニーマンが人を殺すようになったのは、バニーマンの都合ではない。語り手の側の社会不安が変わったからだ。伝説は、その時代がいちばん恐れているものを吸い上げて姿を変える。1970年代のバニーマンは「開発に怒る変な男」だった。80年代には「子どもを殺す怪物」になった。90年代末には「32人を殺した亡霊」になった。
同じ話が、時代ごとに違う恐怖を演じている。これがフォークロアの生態だ。
三つめの論点として、フォーブス版の「文章としての出来」を分析しておきたい。コンリーが「とんでもなくよくできた創作文」と評したのは、単なる皮肉ではないと思う。あの文章には、疑似ドキュメントとして機能するための技術が複数仕込まれている。
第一に、年号の刻み方。1903年、1904年、1905年、1906年、1913年、1943年、1976年、1987年。これらは等間隔ではない。もし10年おきに並んでいたら、作為が見える。不規則に並んでいるからこそ「記録から拾ってきた数字」に見える。
第二に、固有名詞のリアリティ。マーカス・A・ウォルスターとダグラス・J・グリフォン。どちらもミドルネームのイニシャルがついている。この一文字が、公式書類の匂いを出す。エイドリアン・ハタラという生存者にいたっては、収容された事実と1953年という死亡年まで書き添えられている。死亡年を書くというのは、書き手が「この人物にはもう証言を取れない」という説明を先回りして用意しているということでもある。
第三に、否定しにくい構造。「4か月の捜索の末、二人を除いて全員が回収された」という書き方は、成功と失敗を両方含んでいる。全員逃げたと書くと嘘くさい。全員捕まったと書くと話が終わる。ほとんど捕まったが二人だけ残った、という配分が、いちばんもっともらしい。
第四に、検証の誘い。「オールド・クリフトン図書館に記録がある、疑うなら調べてみろ」。これは自信の表明として読まれる。まさか存在しない図書館の名前を挙げるとは、普通は思わない。しかし読者のほぼ全員は、実際には調べない。調べないことを見越したうえで、調べられる素振りを見せる。これがいちばん巧妙な部分だ。
そしてコンリーは、実際に調べた。図書館は存在しなかった。
四つめの論点は、場所と伝説の関係についてである。
コルチェスター・オーバーパスがバニーマン伝説の舞台に選ばれたことには、必然性がある。事件現場から6マイル離れているにもかかわらず、である。
その必然性は、場所の物理的性質から来ている。狭い一車線のトンネル。両側からの視認が効かない。森に囲まれ、街灯がない。頭上を列車が通過する。退避できるスペースがない。そして、地元のティーンエイジャーが車を停める場所として、事件以前から知られていた。
伝説にとって理想的な舞台の条件とは、要するに「一度入ったら簡単には引き返せない場所」である。閉所であり、暗所であり、一方向的であること。バニーマン橋はその条件を完璧に満たしている。だからこそ、「トンネルの真ん中で振り返る」型のバリエーションが生まれた。あの場所でなければ成立しない儀式が、場所の側から生成されたわけだ。
さらに、この場所には現実の危険がある。時速120キロの列車が週に100本以上、警報なしで通過する。8メートルの落差がある。この現実の危険は、伝説の恐怖と区別がつかない形で訪問者に作用する。線路の上に立ったときの背筋の冷たさは、幽霊のせいではなく物理法則のせいなのだが、体験としては同じ引き出しに収納される。
パーヴィス・ドーソン警部が問題視した「線路に登って動画を撮る」行為は、まさにこの混同から生じている。若者たちは怪談を撮りに来ているつもりで、実際には現実の死のリスクに接近している。心霊スポットの本当の危険は、たいていこの取り違えの中にある。
五つめに、「反証されても死なない伝説」という現象について、もう少し踏み込んでおきたい。
一般に、都市伝説は明確に否定されると力を失う。ところがバニーマンの場合、郡の公文書館という信頼性の高い機関が、詳細な反証を公開したにもかかわらず、訪問者は減らなかった。2011年のハロウィーンには200人以上が集まっている。コンリーの調査結果が公開されてから、かなり時間が経った後の話だ。
なぜか。
理由は、コンリーの反証が「全否定」ではなかったからだと思う。彼が否定したのは1904年の物語部分であって、1970年の事件そのものではない。むしろ彼の仕事によって、1970年の事件は公的に確定した。
すると、こういう受け取られ方が発生する。「1904年の話は作り話らしい。でも1970年に本当にウサギ男が出たのは事実で、しかも犯人はいまだに捕まっていない」。
これは伝説の弱体化ではなく、精錬である。不純物が取り除かれて、核だけが残った。しかもその核は、公文書によって裏書きされている。反証によって、かえって信頼性の高い部分が浮かび上がったのだ。
さらに言えば、コンリーの提示した「開発への抗議だったのではないか」という解釈も、恐怖を消すどころか別種の不安を呼び込む。幽霊なら、信じなければ怖くない。しかし「開発に怒った近所の若い男」なら、実在しうる。今も、どこかで年を取っているかもしれない。当時20代前半なら、現在は70代後半である。生きている可能性は十分にある。
正体が超常的だと言われるより、正体が「たぶん普通の人間だった」と言われる方が、この件については不気味さが増す。
六つめ。日本語圏でのバニーマンの受容についても触れておきたい。
日本語で流通しているバニーマン記事の多くは、1904年の脱獄囚版を軸にしている。1970年の事件は「その後、1970年代に目撃情報が相次いだ」という程度の扱いで、順序が逆転していることが少なくない。実際には1970年が先で1904年が後の創作なのだが、時系列の古い方が先に来る書き方をすると、どうしてもそう見えてしまう。
また、日本語圏では得物がチェーンソーになっている記述をよく見かける。これは記録にはない。おそらくホラー映画の定番イメージからの混入だ。日本語圏に入る過程でもう一段階、変異が起きているわけである。
これはこれで興味深い。伝説は言語の壁を越えるときにも変異する。翻訳や紹介の過程で、その言語圏の読者が最も怖いと感じる形に微調整されていく。日本の読者にとって「手斧」より「チェーンソー」の方が殺人鬼の記号として通りがいいから、そちらに寄る。1973年にメリーランドの高校生たちの間で起きたのと同じことが、太平洋を越えて、2000年代の日本語のブログ記事の中でも起きている。
七つめ、最後に。この事件に登場する人々のその後について、分かっていることを整理しておく。
ロバート・ベネット。空軍士官学校の候補生だった彼は、1970年の秋、婚約者と車に乗っていて手斧を投げ込まれた。無傷だった。彼のその後について、公になっている情報はほとんどない。
ポール・フィリップス。深夜の建設現場で斧を振る着ぐるみの男に遭遇し、拳銃を取りに戻った警備員。彼の証言が、犯人の体格に関する唯一の具体的な記述を残した。
W・L・ジョンソン捜査官。1971年3月14日、報告書に事件を非活性とする所見を書いた人物。
パトリシア・ジョンソン。1973年に33人の高校生から54のバリエーションを採集した学生。彼女の記録がなければ、この伝説がどれほどの速度で変異したかを知る術はなかった。都市伝説研究に対する彼女の貢献は、もっと評価されていい。
ブライアン・A・コンリー。フェアファックス郡公共図書館の歴史担当アーキビスト。1992年ごろから調査を続け、警察報告書と新聞と裁判所記録を突き合わせ、この伝説の解剖図を作った。彼がいなければ、バニーマンは「1904年に脱獄した狂人の亡霊」のまま定着していただろう。地域史のアーキビストという地味な職務が、一つの伝説の全体像を保存した実例である。
そして、ウサギの着ぐるみを着た男。
1970年10月、二晩にわたって、フェアファックス郡バークのギニア・ロードに現れた。手斧を投げ、柱に8か所の切り込みを入れ、開発会社に電話をかけて「私の土地を荒らすな」と言い、森の中へ消えた。
彼が誰だったのか、なぜウサギだったのか、その後どこへ行ったのか。何ひとつ分かっていない。
分かっているのは、彼が55年後もまだ、毎年ハロウィーンの夜にバージニア州の暗い鉄道トンネルへ、何百人もの人間を歩かせているという事実だけだ。
たぶん彼自身は、そんなつもりじゃなかったと思う。ただ、家の前の森が削られていくのが我慢ならなかっただけかもしれない。
その怒りは、彼が想像もしなかった形で、いまだに生き延びている。
