一九七〇年三月十三日。金曜日。ロンドン北部、ハイゲートの丘のふもとを走るスウェインズ・レーンという細い坂道に、日が落ちてから人が集まりはじめた。最初は数人。次に数十人。テレビの夕方の番組が終わる頃には、坂道は身動きが取れないほどになっていた。手に手に木の杭、十字架、ニンニク、聖水と称した瓶、懐中電灯。パブ帰りで顔を赤くした若者もいれば、学校の先生に引率された生徒たちもいた。警官はおよそ四十人。彼らは正門の前に並んで人の波を止めようとしたが、群衆は正門など使わなかった。三メートル近い煉瓦塀を、肩車で、あるいは倒れた鉄柵を踏み台にして、次々と乗り越えていったのだ。
目的はひとつ。吸血鬼を殺すこと。
これは映画の話ではない。ハマー・フィルムの撮影でもない。二十世紀後半、車が走りテレビが各家庭にある大都市の真ん中で、実際に起きた「集団吸血鬼狩り」の話だ。しかも狩られる側は、たぶん最初から存在しなかった。存在したのは、荒れ果てたヴィクトリア朝の墓地と、地元紙の投書欄と、二人の若い男の途方もない自意識だった。この三つが噛み合った瞬間、噂は現実の群衆になった。
そして本当に恐ろしいのは、その夜が終わりではなかったことだ。二人の男――デイヴィッド・ファラントとショーン・マンチェスターは、その後およそ半世紀にわたって憎み合い、書き合い、訴え合い、インターネットの掲示板で罵り合い続けた。片方が死ぬまで終わらなかった。ハイゲートの吸血鬼という怪物の正体は、突き詰めればこの二人の男そのものだった、という身も蓋もない結論に、多くの書き手がたどり着いている。
順を追って見ていこう。長い話になる。
舞台――「壮麗なる七つ」の一つが廃墟になるまで
まずハイゲート墓地がどういう場所か、ここを押さえないとこの事件は理解できない。
十九世紀前半のロンドンは、死体の置き場に困っていた。人口が爆発的に増え、教区の小さな墓地に遺体が積み重なり、浅く埋められた棺から出るガスと臭気が公衆衛生の問題になっていた。そこで議会は民間資本による大規模な郊外墓地の造成を後押しし、一八三〇年代から四〇年代にかけて、ロンドンの周縁に七つの巨大な商業墓地が誕生する。のちに「壮麗なる七つ」と呼ばれる一群だ。ハイゲート墓地はそのうちの一つとして、一八三九年五月二十日に聖ジェイムズに献堂され、その六日後に最初の埋葬が行われた。
設計は建築家スティーヴン・ギアリー。斜面を削り、曲がりくねった小径を通し、木立の下に墓を配した。目玉は「エジプト通り」と「レバノン環状墓所」である。前者はオベリスク風の門柱と蓮の意匠をあしらった通路の両側に納骨室の扉が並ぶ、まるで異教の神殿のような一角。後者は円形に掘り込まれた通路をぐるりと納骨室が囲み、その真上に樹齢数百年のレバノン杉が立っているという、悪趣味すれすれの絶景だ。さらに丘の中腹には「テラス・カタコンベ」と呼ばれる長大な地下納骨廊が走る。石造りの棚に棺を安置していく方式で、暗く、湿り、音が反響する。
つまりこの墓地は、最初から「死の劇場」として作られている。ヴィクトリア朝の人々は死を隠さなかった。むしろ盛大に飾り、参観し、日曜の散歩コースにした。ハイゲートは人気の観光地ですらあった。一八六〇年にはスウェインズ・レーンを挟んだ東側に拡張区が開かれ、東西二つの墓地という現在の形になる。今日では両側あわせておよそ五万三千の墓に、十七万人ほどが眠っているとされる。
問題はそのあとだ。二十世紀に入ると、豪華な墓を買う文化そのものが廃れていく。二度の大戦で会社の経営基盤は傷み、火葬が普及し、永代管理を前提にした商業墓地のビジネスモデルは崩壊した。運営していたロンドン墓地会社は維持費を捻出できなくなり、一九六〇年代には西側墓地は事実上放置される。
放置された墓地がどうなるか。まず草が伸びる。次にキヅタが墓石を覆う。イチジクやトネリコの若木が墓の隙間から生え、根が石棺を持ち上げ、傾け、割る。天使像の首が落ちる。納骨室の鉄扉が錆びて外れ、中の棺が露出する。木の棺は腐り、蓋が落ち、中身が見える。ロンドンの霧と、丘の斜面と、伸び放題の下草。日が落ちれば懐中電灯なしでは歩けない暗さになる。
さらに悪いことに、鍵は当てにならなかった。塀は崩れ、鉄柵は倒れ、どこからでも入れた。一九六〇年代後半、ここは十代の若者、オカルト愛好家、そして本物の墓荒らしの遊び場になっていた。実際に納骨室がこじ開けられ、棺が引きずり出され、遺骨が散乱している事例が繰り返し報告されている。地元では「あそこで黒魔術をやっている連中がいる」という噂が既に立っていた。
ここが重要な点だ。ハイゲートの吸血鬼騒動は、何もないところから湧いたわけではない。ヴィクトリア朝の壮麗な墓地が管理を失って廃墟になり、実際に荒らされていたという、極めて散文的で現実的な土壌の上に咲いた。噂は現実の荒廃を説明する物語として求められていた。「なぜ墓が開いているのか」「なぜ骨が転がっているのか」。行政の無策や貧困や若者の非行より、吸血鬼のほうがよほど納得しやすい答えだったのだ。
一九六〇年代、スウェインズ・レーンの下地
騒動が全国紙に載る前から、地元には断片的な噂があった。
よく引かれるのは一九六三年の話だ。夜、スウェインズ・レーンを歩いていたカップルが、北門の鉄柵の向こうに背の高い黒い人影が「浮かんでいる」のを見た。顔は恐怖に歪んだ悪夢のようだった、という。別の証言では、同じ人影が塀を「黒い糖蜜のように」ぬるりと越えていったと語られている。
一九六七年には、二人の女子学生が北門付近で「死者が墓から起き上がる」のを見たと訴えたという話が伝わっている。この二人のうちの一人が、のちにマンチェスターの著作で重要な役割を担うことになるエリザベス・ウォイディラだ。
これらの初期報告には、後の騒動の中核をなす「吸血鬼」という単語が一切出てこない。出てくるのは、背が高い、黒い、浮いている、目が光る、寒い、といった、イギリスの幽霊譚として何百年も繰り返されてきた定型ばかりである。ここも押さえておきたい。吸血鬼は最初からいたのではない。あとから名付けられたのだ。
発端――一九六九年十二月、鉄柵の向こうの赤い光
デイヴィッド・ファラントは一九四五年生まれ。マズウェル・ヒルに住み、タバコ屋で働いていた。ウィッカや心霊研究に傾倒し、一九六七年に「英国心霊オカルト協会」を名乗る団体を立ち上げていたとされる。二十四歳。長髪で、写真映りを気にするタイプの青年だった。
彼自身の回想によれば、事の始まりは協会に寄せられた目撃報告だった。「トーントン」あるいは「ソーントン」と呼ばれる会計士の男性から、墓地の中で黒い人影に出くわし、体が動かなくなったという話を聞き取っている。同種の報告が複数集まり、ファラントは自分で確かめることにした。
一九六九年十二月二十一日、冬至の前夜。彼は一人で夜通しの張り込みを行う。そして十二月二十四日、クリスマスイブの晩――ここは資料によって日付の扱いが揺れるのだが、彼が公にした話ではこの日――北門の鉄柵越しに、それを見た。
彼の言葉はこうだ。門から五ヤードも離れていないところに、背の高い暗い形があった。人の輪郭に見えたが、人ではなかった。二つの赤みがかった光がこちらを見ていた。生きた存在の圧のようなものを感じた。強烈な悪寒と、意識が引っ張られる感覚。そして次の瞬間、それは消えていた。
ファラントは後年、これを吸血鬼だとは一度も言っていないと主張し続けた。彼にとってそれは「霊的な存在」であり、レイライン上を移動するエネルギー体という説明を好んだ。しかしこの証言が、これから起きるすべての引き金になる。
一九七〇年二月六日、地元紙への一通の投書
年が明けて、ファラントは地元紙「ハムステッド・アンド・ハイゲート・エクスプレス」に手紙を書いた。地元では「ハム・アンド・ハイ」の愛称で親しまれる週刊紙である。掲載は一九七〇年二月六日。
内容はごく穏当なものだった。自分は昨年十二月にハイゲート墓地の近くで灰色の人影を目撃した。同様の体験をした方はいないだろうか。情報を求む。それだけだ。煽り文句もない。
だが投書欄というのは恐ろしい装置である。翌週から、ハム・アンド・ハイの編集部には返信が殺到した。
返ってきた「目撃談」の洪水
二月十三日付の紙面には読者からの反応が並んだ。そこに書かれていたものを並べると、一貫性のなさに笑ってしまう。
帽子をかぶった背の高い男。幽霊の自転車乗り。白い服の女。鉄柵の隙間からこちらを睨む顔。池に入っていく人影。青白く滑るように動く何か。誰もいないのに鳴る鐘の音。呼びかける声。
後年これを整理した研究者たちが揃って指摘するのは、「二人として同じことを言っていない」という点だ。共通しているのは「墓地の近くで不気味なものを見た」という枠だけで、中身はイギリスの幽霊譚のカタログをそのまま並べたようなラインナップになっている。
これは怪談としてはむしろ自然な現象だ。人はきっかけを与えられると、過去に見た説明のつかない何かを掘り起こし、提示された枠に押し込む。二十年前に見た変な影が、投書欄という受け皿を得た瞬間に「ハイゲートの怪異」として登録される。ここまではどこの町でも起きる。
異常だったのは、ここから先に起きたことだ。
二月二十七日、「ハイゲートを歩くのはヴァンパイアか?」
この投書合戦に、ショーン・マンチェスターという男が参戦した。
マンチェスターもまた一九四五年生まれとされる。写真家を名乗り、「英国オカルト協会」の会長を称し、さらに一九七〇年二月二日には「吸血鬼研究協会」なる組織を設立したと主張している。後年には旧カトリック系の司教を名乗るようになり、詩人バイロンの末裔を自称した。服装は黒。仕草は演劇的。皮肉抜きで、完全に、芝居がかっていた。
一九七〇年二月二十七日付のハム・アンド・ハイに、彼の説が載る。曰く、あれは単なる幽霊ではない。ワンパイア、すなわち吸血鬼である。中世ワラキアの貴族で黒魔術に手を染めた者が、十八世紀初頭に棺ごとイングランドへ運び込まれ、のちにハイゲート墓地となる土地に建っていた屋敷アシャースト・ハウスに持ち込まれた。そいつが現代のオカルト愛好家たちの儀式によって目覚めたのだ、と。
紙面の見出しはこうなった。「ハイゲートを歩くのはヴァンパイアか?」
この瞬間、事件の性格が完全に変わった。「幽霊が出る」は町の噂で終わる。「吸血鬼がいる」は、対処法とセットで流通する。杭を打て、ニンニクを置け、聖水をまけ、日の出前に片をつけろ。物語に手順が付属した途端、人は参加できるようになる。参加できる怪談は、必ず現実にはみ出す。
なおマンチェスター本人は後年、ワラキアの貴族うんぬんは記者の誇張だと弁明している。ただし一九八五年に出した自著では、名の知れぬ貴族の遺体が棺ごとヨーロッパのどこかからハイゲートに運ばれた、という筋書きをやはり書いている。
三月六日、「なぜキツネは死ぬのか」
物語には証拠がいる。証拠は、都合よく現れた。
三月六日付のハム・アンド・ハイに載った記事の見出しは「なぜキツネは死ぬのか」。墓地の中で死んだキツネが見つかった、という話だ。記事中でファラントは、二十四歳のタバコ商として紹介され、こう語っている。他にも複数のキツネが墓地で死んでいるのが見つかっている。奇妙なのは、外見上どうやって死んだのか分からないことだ。
そして、吸血鬼説がもっともありそうな答えではないかと述べ、皆が安心して眠れるよう、必要なあらゆる手段を取ってこれを追及したい、と続けた。
マンチェスターも援護射撃を放つ。死んだキツネの件を知らされた彼は、これは自分の吸血鬼理論を補完する不可解な出来事だ、と応じた。
のちに検証にあたった書き手たちは、この「血を抜かれた動物」というモチーフに冷や水を浴びせている。墓地の管理人が飼っていた大型犬、アルセイシャン(シェパード)が獲物をくわえて歩き回っていた可能性が、当時から地元では指摘されていた。実際、後年の関連記事を原資料まで遡って確認した調査者は、記事の中に犬による説明がきちんと書かれていたのに、その部分が引用の際に落とされていたことを突き止めている。
だが一九七〇年三月の紙面を読む読者にとって、そんな注釈はない。あるのは「血の抜けたキツネ」と「吸血鬼」という二語の並びだけだ。
目撃証言その一――会計士が見た、時間の止まった夕暮れ
ここで、当時語られた具体的な目撃談を三つ、腰を据えて紹介したい。いずれも当事者や関係者が繰り返し語り、活字になったものだ。真偽の判定はできない。判定できないまま人々を動かした、という事実のほうがここでは重要になる。
一つ目は、ファラントが聞き取ったという中年の会計士の話である。
彼は仕事帰りに、近道のつもりでハイゲート墓地の中を通り抜けようとした。西側墓地の小径は、日が長い季節ならただの気持ちのいい散歩道である。だがその日は曇っていて、思ったより早く暗くなった。曲がりくねった小径は同じ角度で何度も曲がる。同じ天使像を二度見た気がする。歩いても歩いても出口の門に着かない。
そのうち、鐘の音が聞こえてきた。教会の鐘ではない。もっと近く、もっと小さく、ゆっくりした音。彼は方向を探ろうと足を止めた。止めた瞬間、空気の温度が落ちた。夏の夕方だったのに、吐く息が白くなるかと思ったという。
顔を上げると、小径の先、二十メートルほど先に、背の高い黒い人影が立っていた。輪郭はぼやけているのに、こちらを見ているという確信だけがあった。逃げようとしたが、足が動かない。彼の表現によれば、体が自分のものでなくなったようで、まるで催眠にかけられたかのようだったという。何秒か、あるいは何分か。人影はふっと消えた。同時に体が動くようになり、彼は転がるように走って、いつのまにか門の外に出ていた。
この証言には吸血鬼らしい要素が一つもない。牙も血も棺も出てこない。出てくるのは、迷う、寒い、動けない、消える、という古典的な幽霊譚の骨格だけである。それが「ハイゲートの吸血鬼」の材料として流通した。ここに、この事件の全構造が凝縮されている。
目撃証言その二――スウェインズ・レーンの老婦人
二つ目は、スウェインズ・レーンを歩いていた高齢の女性の話だ。
彼女は日が落ちてから、坂を下ってくる用事があった。この道は片側が西側墓地の高い塀、もう片側が東側墓地の柵で、街灯が乏しく、両脇から木がかぶさっている。昼でも薄暗い。夜は完全にトンネルだ。
坂の途中で、彼女は前方に人が立っているのに気づいた。背が高い。黒い服。帽子だったか外套だったか、輪郭がはっきりしない。近所の人だろうと思って会釈しようとして、違和感に気づく。その人物は、歩いていなかった。にもかかわらず、こちらに近づいてきていた。
距離が縮まるにつれ、目が見えた。彼女の表現では、その目は光っていた。ろうそくを内側に灯したような、赤みを帯びた光。そして氷のように冷たい空気が、坂の下から吹き上がるのではなく、その人物のほうから押し寄せてきた。
彼女はよろけて塀に手をついた。次に顔を上げたとき、そこには誰もいなかった。彼女は坂を駆け上がり、近所の家の戸を叩いた。しばらく口がきけなかったという。
この「黒い長身、光る目、急激な冷気」という三点セットは、ハム・アンド・ハイに寄せられた複数の投書に共通していた数少ない要素でもある。ただし、これが「先に語られた話を聞いた人が、同じ枠組みで自分の体験を整理した」結果なのか、それとも「同じものを複数の人が見た」結果なのかは、五十年以上たった今も分けられない。分けられないからこそ、双方の陣営が今も好き勝手に引用できてしまう。
目撃証言その三――エリザベス・ウォイディラの夜
三つ目は、この事件で最も有名で、最も疑われている証言である。
エリザベス・ウォイディラは、一九六七年に北門付近で「死者が起き上がる」のを見たとされる二人の少女のうちの一人だ。マンチェスターの記述によれば、彼女はその後、繰り返し悪夢に襲われるようになった。
夢の中では、死人のような顔をした何かが、彼女の寝室の窓の外にいる。それは中へ入ろうとしている。窓を開けてはいけないと分かっているのに、体が勝手に動いて、鍵に手を伸ばしそうになる。目が覚めると全身が汗で濡れている。
やがて症状は夢の外へ出た。顔色が異常に青白くなり、めまいと吐き気が続いた。夜中に起き出して家の中を歩き回るようになった。そして、首筋に小さな刺し傷が二つ、並んで現れた。
マンチェスターは彼女の部屋に銀の十字架を持ち込み、窓辺にニンニクを吊るし、塩を詰めた小袋を首にかけさせ、聖水をまいたと書いている。すると彼女の容態は改善した、と。
読んで気づくと思うが、これはブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」のルーシー・ウェステンラの章の要約とほぼ同じである。夢遊病、青白い顔、首の二つの傷、ニンニクと十字架による防御、そして一時的な回復。あまりにも一致しすぎている。
さらに厄介な話がある。ファラント側は後年、マンチェスターの本に載っていた「噛まれた首」の写真について、傷はマーカーペンで描かれたものだと主張した。この写真は後の版から削除されている。それが訂正なのか、単なる編集判断なのかは、外からは確認できない。マンチェスター側はファラントの主張を一貫して否定してきた。ここでは、双方の主張が真っ向から食い違っていて、第三者が検証できる物証は残っていない、とだけ書いておく。
一九七〇年三月十三日――当日を時系列で
さて、あの夜だ。
金曜日。しかも十三日。この偶然だけでも十分だったが、火に油を注いだのはテレビだった。
夕方、独立テレビ、当時のロンドン地区の担当局であるテムズ・テレビジョンの取材班が、ハイゲート墓地の北門前にやってきた。番組は夕方の情報番組で、インタビュアーはサンドラ・ハリス。カメラはファラントとマンチェスター、そして目撃者を名乗る人々を順に捉えた。
マンチェスターは黒い装いで、朗々と語った。吸血鬼はいる。自分はそれを退治する用意がある。エクソシズムを行う。
ファラントは、彼自身の後年の回想によれば、「吸血鬼」という煽情的な言葉は避けたいと強調したという。悪意ある力が働いている可能性は否定しないが、これは慎重な心霊調査の対象であって見世物ではない、という趣旨だ。
マンチェスターは自著で、この撮影中にカメラマンが突然その場に倒れた、と書いている。何かの力が働いたのだ、と。ずっと後年、この件を検証した書き手が当のインタビュアー本人に連絡を取り、確認を試みている。彼女の回答は、当時のテムズ・テレビジョンでは局の外に大きなゴミ容器が置かれていて、貴重なテープやフィルムが毎日大量に捨てられていた、というものだった。つまり映像は残っていない。誇張だったのか事実だったのかを、映像で確かめる術はもうない。
放送は夕方に流れた。そして二時間以内に、事態は制御を離れた。
ロンドン中から、そしてロンドンの外からも、人が集まりはじめた。地下鉄アーチウェイ駅から丘を登ってくる者、車で乗りつける者。パブは早々に人を吐き出した。手には即席の武器がある。庭の垣根を削った杭。台所から持ち出した木槌。スーパーで買ったニンニク。ペットボトルに詰めた水道水を「聖水」と称する者もいた。
警察はおよそ四十人を投入した。北門と正門を固め、拡声器で退去を呼びかけた。だが群衆はすでに数百人規模になっていた。当時の記録や後年の集計で「約百人」とする資料もあれば「数百人」とするものもある。この人数の揺れ自体が、現場が誰にも把握できていなかったことを物語る。
彼らは門を使わなかった。西側墓地の塀は高さ三メートル前後。だが十九世紀の煉瓦塀は各所で崩れ、鉄柵は傾き、抜け道は無数にあった。若者たちは肩車で塀を越え、倒れた柵をまたぎ、キヅタの蔓を掴んで斜面をよじ登った。警官が一人を引きずり下ろす間に、十人が別の場所から入った。やがて警察は警察犬を投入する。それでも止まらなかった。
墓地の中は真っ暗である。無数の懐中電灯の光が、傾いた墓石とキヅタの塊と天使像の間を舐めるように走った。人が転ぶ。墓石が倒れる。誰かが叫ぶ。その叫びを聞いた別の集団が「出た」と思って走る。走った先で別の集団と鉢合わせして、また叫ぶ。
現場にいた二十七歳のアンソニー・ロビンソンという男性は、墓の間を歩く「形」を見た、と語っている。そして説明のつかない甲高い悲鳴を聞いた、とも。それが人間の悲鳴だったのか、キツネの鳴き声だったのか、彼自身も断定していない。ちなみに、キツネの警戒声は本当に人の悲鳴そっくりに聞こえる。あの夜、ハイゲートの藪にキツネがいなかったと考えるほうが不自然だ。
もう一人、印象的な人物がいる。エセックス州チェルムズフォードから来た歴史教師、アラン・ブラッドという男だ。名字がそのまま「血」である。この偶然を新聞が放っておくはずがなく、彼は紙面で「吸血鬼の専門家」として扱われた。本人は生徒たちを連れて現場に来ていた。ファラントの回想によれば、ブラッドは共同で調査を行いたいと持ちかけてきたが、ファラントはこの混乱の中で心霊調査など不可能だと答えて断り、代わりに観察役として三人を送り込んだという。翌日の新聞写真には、そのうちの二人が写っているとされる。
その夜、吸血鬼は見つからなかった。当然だ。だが「暗い人影を見た」と証言する参加者は複数出た。数百人が暗闇で杭を持ってうろつけば、そのうちの何人かは何かを見る。それが群衆というものだ。
騒ぎは深夜まで続き、警察は少しずつ人を排除していった。墓石が何本倒れ、柵がどれだけ壊れたのか、正確な集計は残っていない。
翌朝の紙面
一九七〇年三月十四日、夕刊紙イブニング・ニューズは「開いた墓のサタン謎」といった趣旨の見出しでこの騒動を報じた。写真つきである。全国紙も追随した。
ファラントはこの報道を、後々まで恨み続けた。彼の言い分はこうだ。テレビ番組で、自分ではない誰かが「ファラントが今夜吸血鬼狩りを行うと宣言した」という趣旨の発言をした。自分はそんなことは言っていない。その虚偽が群衆を呼び、群衆が起こした破壊行為の印象が、四年後の自分の裁判に致命的な偏見をもたらした――。
この主張の当否を、外から検証する手立てはない。放送の記録が残っていないからだ。ただ、事件全体を通じて、ファラントが「自分は吸血鬼などと言っていない」と繰り返してきたのは事実である。そして同じくらい確かなのは、彼が新聞に載ることをまったく嫌がっていなかったという事実だ。この矛盾が、彼という人物の分かりにくさの核心にある。
警察はこの夜のあと、ハイゲート墓地の夜間巡回を定例化した。
八月一日、地下納骨堂の近くで見つかったもの
騒動の熱がいったん引きかけた頃、この事件で最も生々しく、そして最も後味の悪い出来事が起きる。
一九七〇年八月一日、ハイゲート墓地の地下納骨堂からそう遠くない場所で、女性の遺体が見つかった。焼け焦げていた。頭部がなかった。
遺体は生きている人間のものではなかった。およそ百年前に埋葬された女性の遺骸である。誰かが納骨室から棺を引きずり出し、蓋を開け、遺体を取り出し、首を落とし、胸に杭を打ち込み、火をつけた――そう推定される状態だった。
警察は黒魔術の儀式に関連した行為として捜査した。周辺には、儀式が行われた痕跡と解釈できるものがあったと報じられている。円形に並べられた蝋燭の跡、地面に描かれた図形、そういった類のものだ。
ここは慎重に書かねばならない。この行為を誰が行ったのかは、確定していない。誰も、この遺体損壊について有罪判決を受けていない。当時から現在に至るまで、犯人は特定されていない。ファラントもマンチェスターも、この件について自分がやったとは述べていないし、この件で有罪になってもいない。
分かっているのは、一九七〇年夏のハイゲート墓地では、生きた人間の手によって、実在した誰かの遺体が引き出され、切断され、焼かれた、という事実だけである。吸血鬼はいない。だが墓を暴いて死者を焼く人間は、確実にいた。
この一件は、ハイゲートの吸血鬼という話に決定的な影を落とす。それまでは、暗がりで影を見たとか、キツネが死んだとか、その程度の話だった。ここから先は、誰かの祖母や曾祖母の遺骨が、見知らぬ他人に燃やされた事件の話になる。
八月十七日、杭と十字架を持った男
その半月ほど後、一九七〇年八月十七日の夜、ファラントは墓地の敷地内で警官に発見された。所持していたのは木の杭と十字架。降霊の儀式を行っていた、とも報じられている。
彼は「不法な目的で囲われた場所に立ち入った」という趣旨の容疑で逮捕された。だが翌月、クラーケンウェル治安判事裁判所で、彼は無罪となる。法律上の技術的な理由による、というのが通り相場の説明だ。この時点では、彼は何の有罪判決も受けていない。
八月十九日付のデイリー・エクスプレスは、この出廷を報じている。「吸血鬼を退治するための木の杭」というフレーズは、全国紙の読者に強烈な印象を残した。
ここで一つ整理しておきたい。杭と十字架を持って夜の墓地にいた、という事実と、遺体を焼いた、という行為の間には、証拠上の断絶がある。前者は本人も認めており記録もある。後者については、彼を有罪とした判決は存在しない。この二つを混ぜて語るのは公正ではない。ネット上でこの事件が語られるとき、この混同が最も頻繁に起きる。
マンチェスター版――納骨室、黒い棺、そして地下室
一方、マンチェスターの側の物語はさらに濃い。ただしこちらは、ほぼすべてが彼自身の著述に依拠しており、第三者による裏づけがない。
彼の記述によれば、三月十三日の夜、彼は群衆とは別に、崩れた塀から墓地に入った。地下納骨堂の扉をこじ開けようとし、空の棺を探し、ニンニクと聖水をまいた。
八月一日、彼のグループは納骨室の一つで、他とは明らかに違う黒い木の棺を発見したという。彼らは七本の十字架、四本の白い蝋燭、七杯の聖水を用いてラテン語の儀式を行い、その後、墓地の管理側にその納骨室を煉瓦で塞がせた、と書いている。
その場で杭を打とうとしたが、同行者に止められた、というエピソードも彼は書き残している。代わりにニンニクと香を残して立ち去った、と。
そして一九七三年から七四年初頭にかけて、彼は最終決着を主張する。ハイゲートとクラウチ・エンドの境あたりにあった、廃墟同然のゴシック様式の邸宅。その地下室で、彼はあの黒い棺を再発見した。中の遺体に木の杭を打ち込むと、遺体は汚れた茶色の粘液のようなものに崩れ落ちた。彼は棺と残骸を焼いた。これで汚染は終わった、と。
彼の言葉として引かれるのは、あの感染は一九七四年初頭に無事に祓われた、以後ハイゲート墓地における新たな汚染はない、という趣旨の宣言である。
さらに一九八二年、彼はフィンチリーのグレート・ノーザン・ロンドン墓地で、ハイゲートの吸血鬼に噛まれたという女性「ルシア」の件を処理したと述べている。この話の結末はなかなかのもので、彼は猫ほどの大きさの蜘蛛のような生き物に杭を打った、と書いている。
このルシアという人物については、後年の調査で疑問が呈されている。ある調査者がマンチェスター側の窓口に問い合わせたところ、ルシアが誰なのか明確な答えは得られなかった。ファラント側は、その女性は実在の別人であり、しかも存命だと主張した。真相は分からない。
一九七三年四月、パーラメント・ヒルの「魔術決闘」
二人の対立が最も喜劇的な形を取ったのが、一九七三年の「魔術師の決闘」騒ぎである。
ロンドン市内に、四月十三日、パーラメント・ヒルにて二人の魔術師が対決する、という趣旨のビラが出回った。パーラメント・ヒルはハムステッド・ヒースの高台で、ロンドン市街を一望できる有名な場所だ。決闘の見物人が押し寄せることを警戒して、警察は準備までしたと伝えられる。
決闘は行われなかった。誰も呪文を唱えず、誰も倒れなかった。だがこのビラ騒ぎ一つで、二人の関係の本質が分かる。彼らは吸血鬼を追っていたのではない。互いを追っていたのだ。
一九七四年、オールド・ベイリー
そして一九七四年。ファラントはロンドンの中央刑事裁判所、通称オールド・ベイリーの被告席に立つ。
罪状は、聖別された土地における記念碑の損壊、地下納骨堂への侵入、そして遺体への干渉といった内容だった。検察側の主張には、降霊の儀式の過程で遺体に杭が打ち込まれたという趣旨の指摘が含まれていたと伝えられる。
ファラントは一貫して否認した。自分は正当な心霊調査を行っていたのであり、墓地を荒らしたのはサタニストだ、と。裁判所はこれを退けた。
判決は有罪。量刑については資料によって数字が揺れる。四年八か月とする記述が広く流布している一方、実際の服役はおよそ二年程度だったとされる。この種の食い違いは、複数の訴因ごとの刑期の合算と併合、そして仮釈放を含む実際の服役期間の違いから生じることが多い。ここでは、彼が一九七四年に有罪判決を受け、実際に相当期間服役した、という点を確定した事実として押さえておく。
一方で、押さえておくべき点がもう一つある。一九七〇年八月一日に見つかった焼かれた女性の遺体、あの件について彼が有罪とされたわけではない。彼の有罪は、彼が有罪とされた訴因についてのものである。事件全体をひとまとめにして「あの男が全部やった」と語るのは、記録に反する。
ちなみにファラントは、この時期に警察官へブードゥー人形を送りつけたことは認めている。違法行為ではないが、印象は最悪だった。彼はまた、猫を生贄にする計画があるかのように書いた新聞に対して名誉毀損訴訟を起こし、勝訴している。この人物は、被害者でもあり、加害者でもあり、そして何より徹底した目立ちたがりだった。
一九八五年と一九九一年、本による戦争
刑期を終えたあとも、二人の戦いは終わらなかった。むしろ舞台を紙に移して激化した。
一九八五年、マンチェスターが「ハイゲート・ヴァンパイア」を出版する。自らを吸血鬼退治の主役に据え、目撃者たちの証言を配し、儀式の詳細を描き、最終的な討伐までを一本の物語として完成させた本だ。読み物としてはよくできている。よくできすぎている、というのが後年の評価でもある。若い女性の犠牲者、夢遊病、地下納骨室の棺、十字架とニンニクと聖水、東欧起源の貴族、そして心臓への杭。ストーカーの「ドラキュラ」の構成要素が、ほぼ順番通りに並んでいる。
一九九一年、ファラントが「ビヨンド・ザ・ハイゲート・ヴァンパイア」で応じる。こちらは、あれは吸血鬼などではなかった、心霊現象だった、そしてマンチェスターは事実を捏造している、という反論の書だ。
以後、二人は互いの本に互いを登場させない、あるいは登場させても罵倒の対象としてのみ扱う、という奇妙な作法を守り続けた。新聞の投書欄での応酬も止まらなかった。片方が「有罪判決を受けた前科者」と呼べば、もう片方が「自称司教の詐欺師」と返す。
検証の試み――物語の縫い目を探す人たち
二〇一〇年代に入り、この事件を一次資料から検証しようとする研究者や書き手が現れた。
ある調査者は、マンチェスターが吸血鬼説の根拠とした「アシャースト・ハウスに外国の貴族が住んでいた」という点を確かめるため、この屋敷の歴代の借主を記録した歴史資料に当たった。結果、該当する外国貴族の名前は見つからなかった。物語の土台に、記録上の裏づけがなかったということになる。
別の検証では、動物の死骸に関する記事の原文が図書館で確認された。前述の通り、そこには大型犬による説明がきちんと書かれていた。引用の際に落ちていたのだ。
テレビ映像の消失も確認された。あの夜を映像で検証することは、もうできない。
こうした検証は、マンチェスターの物語の縫い目を確実に一つずつ解いていった。ただし、それによって「では何が起きていたのか」が説明されるわけではない。一九七〇年三月十三日に数百人が塀を越えたことも、八月一日に遺体が焼かれていたことも、記録として残る。物語が虚構寄りだったからといって、出来事が消えるわけではない。
ハマー・フィルムとの共犯関係――映画が墓地を作り、墓地が映画を作る
この事件を語るとき、絶対に外せないのが同時代のイギリス映画である。
一九五〇年代末から、ハマー・フィルム・プロダクションズはドラキュラ映画を量産していた。クリストファー・リーの吸血鬼が、真っ赤な血と鮮やかな色彩で暴れ回る。イギリスの若者にとって、吸血鬼はルーマニアの民間伝承ではなく、土曜の夜の娯楽だった。杭の打ち方も、十字架のかざし方も、棺の開け方も、みんな映画で見て知っていた。
そしてここが面白いところなのだが、一九六八年から六九年にかけて、ハマーは「ドラキュラ血の味」の撮影の一部にハイゲート墓地を使っている。荒れ果てたヴィクトリア朝の墓地は、映画の美術として完璧だった。つまり、この墓地は騒動の前から、すでにスクリーンの中で「吸血鬼が出る場所」として上映されていた。
一九七〇年三月十三日に塀を越えた若者たちの頭の中にあったイメージは、ほぼ間違いなくハマーのものだ。中世ワラキアの民俗ではない。彼らは映画の中に入りに行った。
そして輪は閉じる。一九七二年、ハマーは「ドラキュラ一九七二」を公開する。現代ロンドンの若者が墓地で降霊の真似事をしてドラキュラを甦らせてしまう、という筋書きだ。この企画にハイゲートの騒動が影響を与えたことは、複数の論者が指摘している。
墓地が映画を生み、映画が信仰を生み、信仰が群衆を生み、群衆が映画を生んだ。一周した。この循環をどこかで断ち切らないと、どこが出発点なのかも分からなくなる。
民俗学者の見立て――「オステンション」という言葉
民俗学者のビル・エリスは、一九九三年に発表した論考でこの事件を扱い、社会学的な視点から分析した。彼の関心は吸血鬼の有無ではなく、実在の、あるいは実在すると思われた出来事についての公衆の認識が、噂と選択と誇張と紋切り型によって、どのように一つの物語へと成形されていくか、という点にあった。
彼が持ち出したキーワードが「オステンション」である。日本語に定訳がないので、そのままカタカナで通用している。おおまかに言えば、伝説を語るのではなく、伝説を実演してしまう現象を指す。子供が肝試しで幽霊屋敷に忍び込むのも、若者が都市伝説の場所へ深夜に車を走らせるのも、この一種だ。物語を消費するだけでは足りなくなり、身体でなぞりはじめる。
ハイゲートの場合、この実演が三層で起きた。第一層は、マンチェスターがストーカーの小説の筋書きを現実の墓地でなぞったこと。第二層は、数百人の群衆がハマー映画の吸血鬼狩りを現実の墓地でなぞったこと。第三層は、誰かが実際に遺体を引き出して杭を打ち首を落として焼いたこと。
第三層まで来ると、これはもう物語ではない。犯罪である。オステンションという概念の怖さは、まさにここにある。物語をなぞる行為には、どこにも自然なブレーキがない。「ここまでは演技」「ここからは本気」の境界線は、誰も引いてくれない。
エリスはまた、当時のイギリスにアメリカ由来の「悪魔崇拝カルト」の噂話が流入していたことも指摘している。荒らされた墓を見た人が、その原因として悪魔崇拝カルトを想定する。すると悪魔崇拝カルトの噂が増える。噂を聞いた誰かが、それらしい痕跡を作る。作られた痕跡が、噂の証拠になる。これも見事な循環だ。
なぜ噂は群衆に化けたのか
改めて、一九七〇年三月十三日の夜に何が揃っていたのかを整理してみる。
まず、舞台の実在性。ハイゲート墓地は実在し、荒れ果てており、誰でも入れた。行こうと思えば地下鉄で行ける。都市伝説の多くは「どこかの山奥のトンネル」で終わるが、これは違った。ロンドンの地下鉄の駅から歩けた。
次に、日付。金曜日の十三日。この符合は、それだけで数百人分の口実になる。
そして、対処法の存在。吸血鬼という語彙には、殺し方が付属している。幽霊なら、見に行ってどうする、で終わる。吸血鬼なら、杭を持っていけばいい。行動の指示がある噂は、必ず行動を生む。
さらに、テレビという同時性。地元紙の投書欄なら、読む人は数千人で、しかも読む時間はばらばらだ。テレビは違う。同じ映像を、同じ時刻に、同じ地域の何十万人が見る。「今夜、あそこで」という情報が、一斉に共有される。噂の伝播速度が、人が現地に集まる速度を上回った瞬間に、群衆が発生する。
最後に、時代。一九七〇年のイギリスは、カウンターカルチャーとオカルト復興の真っ只中だった。一九五一年に魔女術禁止法が廃止され、オカルト実践が合法化されて二十年。ウィッカが広まり、デニス・ホイートリーの黒魔術小説が売れ、ハマーの吸血鬼が銀幕を血で染めていた。既存の宗教への信頼が揺らぎ、代わりに何かを信じたい人々がたくさんいた。
この五つが同じ夜に重なった。だから群衆が湧いた。逆に言えば、どれか一つでも欠けていたら、これは地元紙の投書欄の中で静かに死んでいた噂だったはずだ。
ネットの時代――終わらない泥仕合
一九九〇年代後半、インターネットが普及すると、二人の戦いは新しい戦場を得た。
掲示板、個人サイト、ブログ、そして後にはソーシャルメディア。両陣営ともサイトを立ち上げ、支持者を組織し、相手の主張を逐一論駁するページを作った。マンチェスター側はファラントを有罪判決を受けた人物として繰り返し指弾し、ファラント側はマンチェスターの経歴や称号の正当性を執拗に突いた。
二〇〇二年には、ファラントがマンチェスターとその関係者に対する嫌がらせ、ストーキングの容疑で逮捕されたという話が出てくる。ただしこれは本格的な訴追には至っていない。この件の扱いも、両陣営で正反対に語られている。
インターネット上での応酬は、複数の匿名アカウントを用いた投稿合戦にまで発展したとされ、外部から見ると誰が誰なのかまるで分からない状態になった。ある時期には、マンチェスター側がファラントの死亡を伝える写真や偽の訃報を流し、葬儀費用の募金を呼びかけたという主張まで飛び出している。ファラント本人はぴんぴんしていた。
ファラント側も負けてはいない。彼は相手を戯画化したコミック作品を作り、グッズにして売った。タイトルは「ビショップ・ボンカーズの冒険」。ボンカーズは英語で「頭がおかしい」の意である。
これを不毛と切り捨てるのは簡単だ。だが、この五十年の泥仕合こそが、ハイゲートの吸血鬼という物語を生き延びさせた。二人が黙っていれば、一九七〇年の騒動は「昔そんな騒ぎがあったね」で消えていた。彼らが罵り合い続けたおかげで、この話は毎年更新され、新しい世代に発見され続けた。作家のマーリン・コヴァリーは、二人の関与を取り除いてしまえば実のところ物語には大して何も残らない、彼らこそが物語そのものであり、ハイゲートの吸血鬼とは二人を引き合わせた状況の集合にすぎない、という趣旨のことを述べている。手厳しいが、的確だ。
二〇一九年四月、片方が退場する
デイヴィッド・ファラントは二〇一九年四月に死去した。享年七十三、あるいは七十二。晩年はトッテナムの介護施設で過ごしたと伝えられる。
追悼記事が伝える彼の人物像は、事件の記述から想像するものとは少し違う。権威を恐れず、いたずら好きで、最後まで笑っていた人物。血を吸う吸血鬼など一度も信じていなかったが、他人からエネルギーを吸い取って疲弊させる「心霊的な吸血鬼」のような人間は存在すると考えていた、という。彼のパートナーであるデラは、若い頃のいたずら心の側面を、彼自身が若気の至りとして振り返っていたと語っている。
そして、驚くべきことが起きた。ショーン・マンチェスターが、真摯な追悼文を発表したのだ。
彼はそこで、ファラントが自分の赦しを知らないまま墓に入ったことが計り知れないほど悲しい、という趣旨のことを書いた。さらに後には、自分たちは親しい友人同士にすら珍しいほどの温かさを共有していた、宿敵同士だったにもかかわらず、といったことまで述べている。
五十年憎み合って、片方が死んでから和解する。これほど人間くさい結末もない。ハイゲートの吸血鬼という怪談の最後の一行が、これだ。
墓地の現在――保存されたゴシック
騒動のあと、ハイゲート墓地はどうなったか。
一九七五年、運営していた会社が立ち行かなくなった状況を受けて、「ハイゲート墓地友の会」が結成される。ボランティアが藪を刈り、小径を通し、崩れた石を積み直しはじめた。一九八一年には墓地の所有権を取得し、以後、この慈善団体が管理を続けている。
現在のハイゲート墓地は、静かで、美しく、そしてきちんと管理された場所だ。西側墓地はガイドツアーが中心で、エジプト通りとレバノン環状墓所を歩ける。東側墓地は自由に散策できる。ここには、あの巨大な髭面の胸像で有名なカール・マルクスの墓がある。マルクス自身は一八八三年に埋葬されたが、あの記念碑は一九五〇年代に共産党によって建立されたもので、現在の位置は元の墓所から少し移されている。ジョージ・エリオット、クリスティーナ・ロセッティ、そして近年ではダグラス・アダムズやジョージ・マイケルの墓もあり、巡礼者が絶えない。
墓地はいまも受難を経験している。二〇一九年には、マルクスの記念碑が二週間のうちに二度も損壊された。一度目は大理石の銘板が鈍器で叩き割られ、二度目はスプレー塗料で落書きされた。吸血鬼とは何の関係もない、純粋に政治的な破壊行為だ。ヴィクトリア朝の墓地は、いつの時代も何かの象徴として狙われる。
そして近年、友の会は大規模な保存計画を打ち出した。二〇二〇年代半ばに承認された計画では、およそ千八百万ポンド規模の投資を長期にわたって行い、崩落の危険がある構造物を修復し、来訪者施設を整え、樹木の管理を進めるという。表現として使われたのが「ロマンティックな荒廃からの救出」という言い回しで、これがなかなか味わい深い。あの荒廃こそが吸血鬼を生んだのだから。
年間の来訪者は十万人を超える規模になっている。かつて数百人が杭を持って塀を越えた場所に、今はチケットを買った観光客が列を作る。ガイドは吸血鬼の話をすることもあれば、しないこともある。友の会としては、この墓地はヴィクトリア朝葬送文化の第一級の遺産であって、心霊スポットではない、という立場だ。もっともなことである。
だが夕方、ツアーが終わって門が閉まったあと、スウェインズ・レーンを一人で歩いてみるといい。両側から木がかぶさり、街灯は遠く、坂の下から風が吹き上がってくる。塀の向こうは真っ暗で、キヅタに覆われた墓石が積み木のように傾いている。どこかでキツネが鳴く。あの悲鳴みたいな声で。
そのとき、一九七〇年の若者たちが何を見たつもりになったのか、少しだけ分かる気がする。
被害者のいない吸血鬼、という異常さについて
ここから先は、この事件を何度も読み返して考えたことを、まとめずに書き散らしていく。
まず、この事件の一番奇妙な点を挙げておきたい。それは、この話に被害者がいないことだ。
普通、吸血鬼の伝説には血を吸われた人がいる。十八世紀の東欧の吸血鬼パニックには、死んだ村人がいた。十九世紀ニューイングランドの吸血鬼騒ぎには、結核で家族が次々に死んでいくという厳然たる現実があった。人が死ぬから、原因を探し、墓を掘り、心臓を焼いた。順序としては、死が先で、吸血鬼が後だ。
ハイゲートには、それがない。誰も血を吸われて死んでいない。誰も襲われて怪我をしていない。首に傷があったと主張された若い女性がいるが、その傷を第三者が検証した記録はなく、写真は後に削除されている。医師の診断書も、警察の被害届も、遺体も存在しない。存在するのは、暗がりで背の高い黒いものを見た、という証言だけである。
つまりハイゲートの吸血鬼は、被害なき吸血鬼だ。伝統的な吸血鬼伝説の因果関係が、完全に逆転している。原因が先にあって、後から結果を探しに行った。死んだキツネがそれだ。「血を抜かれた動物」を探しに行った人たちが、実際に死んだキツネを見つけた。キツネは日常的に死ぬ。都市部のキツネはとくによく死ぬ。車に轢かれ、病気になり、犬に噛まれる。だが吸血鬼という枠を先に用意した人間の目には、それが証拠に見える。
これは怪談の構造としてかなり新しい。二十世紀後半の都市伝説の特徴が、ここに全部詰まっている。まず物語があり、次に物語に合う現実を探し、見つかった断片を証拠として提示し、提示によって物語が強化される。ネット時代の陰謀論の構造と、寸分違わない。ハイゲートは、その意味で「インターネット以前に生まれたインターネット的怪談」だった。
二つ目に考えたいのは、なぜ吸血鬼だったのか、という点だ。
投書欄に集まった目撃談は、繰り返しになるが、ばらばらだった。帽子の男、白い女、自転車の幽霊。イギリスの伝統的な幽霊のカタログである。この雑多な報告群を「一つの怪物」にまとめる作業が必要だった。そして、まとめるための概念として選ばれたのが吸血鬼だった。
なぜか。まず、当時のイギリス人にとって最もイメージが鮮明な超自然の怪物だったからだ。ハマー映画のおかげで、誰でも吸血鬼の姿を思い浮かべられた。黒いマント、青白い顔、赤い目。投書に出てきた「背の高い黒い人影」「光る目」は、この既製のイメージにぴったりはまる。
次に、吸血鬼には物語の構造が付いてくる。起源があり、被害者がいて、ハンターがいて、決着がある。幽霊にはこれがない。幽霊は出るだけだ。だが吸血鬼は、追いかけて、見つけて、殺せる。誰かが主人公になれる。マンチェスターが吸血鬼を選んだのは、たぶん、彼が主人公になれる唯一の怪物だったからだ。
三つ目。ファラントとマンチェスターという二人の対比を、もう少し丁寧に見ておきたい。
表面的には、二人は同じ穴の狢に見える。同じ年に生まれ、同じ墓地で同じ影を追い、同じ新聞に投書し、同じテレビに出た。だが二人が売ろうとしたものは、実は違った。
マンチェスターが売ったのは「権威」である。司教を名乗り、協会の会長を名乗り、ラテン語の儀式を行い、詩人の末裔を自称した。彼の物語では、彼は最初から専門家で、最後に勝つ。彼の書いたものを読むと、あらゆる場面で彼が正しく、他の誰かが間違っている。これは信仰の構造だ。
ファラントが売ったのは「参加」である。彼は投書欄で読者に呼びかけ、目撃情報を募り、みんなで調べようという姿勢を取った。彼は最後まで、あれが何だったのか分からない、と言い続けた。断定しないぶん、彼の周りには議論の余地が残り続けた。これは掲示板の構造だ。
そして二人は、互いの方式を憎んだ。マンチェスターにとってファラントは、答えを持たずに騒ぐだけの素人だった。ファラントにとってマンチェスターは、答えを持っているふりをする詐欺師だった。どちらの言い分にも、それなりの理がある。この対立軸は、現代のあらゆるオカルト論争、疑似科学論争、陰謀論争でそっくりそのまま繰り返されている。断定する権威と、参加を煽る扇動者。ハイゲートの二人は、そのプロトタイプだった。
四つ目に、あの焼かれた女性の遺体について、もう一度書いておきたい。
この記事を書くにあたって、いちばん気が重かったのがこの部分だ。一九七〇年八月一日にハイゲート墓地の地下納骨堂の近くで見つかった遺体は、生前に名前があり、家族がいて、葬られた誰かだった。百年前に埋葬された人が、百年後に見知らぬ他人によって棺から引き出され、首を落とされ、胸に杭を打たれ、火をつけられた。
このことについて、誰も有罪判決を受けていない。犯人は分かっていない。だから、この記事も含めて、誰かを名指しすることはできない。できないが、行為そのものは実在した。
そして、この行為を可能にしたのは、間違いなく、あの数か月間に紙面とテレビが作った空気である。「あそこに吸血鬼がいる」「杭を打てば殺せる」という情報が、数十万人に配られた。数十万人のうちの数百人が塀を越えた。数百人のうちの誰か数人が、遺体に手をかけた。この漏斗のような構造こそが、この事件の本当の教訓だと思う。
噂は、大半の人にとっては娯楽だ。だが十万人に一人か二人、それを実行してしまう人がいる。母集団が大きくなれば、その一人か二人は必ず出る。噂を面白がって広げる行為には、この確率的な代償が常についてまわる。ハイゲートの場合、その代償を払ったのは、名前も分からない百年前の女性だった。
五つ目。この事件の「終わり方」について。
普通、この手の騒動には終わりがある。犯人が捕まる、幽霊の正体が判明する、みんな飽きる。ハイゲートにも、一応の終わりはあった。マンチェスターが一九七四年に討伐を宣言し、以後は汚染はないと述べた。物語としては、これで完結している。
だが誰もそれを受け入れなかった。ファラントは受け入れなかったし、当然だ。そして受け入れないという行為が、この事件をさらに五十年延命させた。
面白いのは、この延命の過程で、吸血鬼そのものはどんどん脇に追いやられていったことだ。一九八〇年代以降の論争は、ほとんど「どちらが嘘つきか」の話になる。吸血鬼はもういない。いるのは二人の男だけだ。それでも人々は読み続けた。なぜなら、二人の争いのほうが吸血鬼より面白かったからだ。
怪談は、しばしばこういう形で生き延びる。中心の怪異が空洞化しても、それをめぐる人間関係が残っていれば、話は続く。むしろ怪異が曖昧なほうが、周辺の人間ドラマは自由に膨らむ。ハイゲートは、その極端な例だ。
六つ目。日本でこの話がどう受容されてきたかも触れておきたい。
日本語圏では、この事件は「二十世紀に本物の吸血鬼騒ぎが起きた」という切り口で紹介されることが多い。海外の怖い話を扱うサイト、ロンドン在住者の旅行記、心霊スポット紹介、そういう文脈で断片的に語られる。紹介の際、ほぼ必ず強調されるのが「警察が出動するほどの騒ぎになった」という点だ。
日本の怪談文化には、集団で心霊スポットに押しかけて実力行使に及ぶ、という型があまりない。肝試しはあるが、杭を持って行って何かを殺そうとはしない。だからこの事件の「群衆が塀を越えた」という部分が、日本語圏では最もエキゾチックな要素として受け取られる。逆に言えば、日本人が読んだときに一番引っかかるのはそこであり、そこにこそこの事件の文化的な固有性がある。
キリスト教文化圏における吸血鬼は、単なる怪物ではなく、神への冒涜の産物であり、聖なる道具で滅ぼすべき対象だ。だから十字架と聖水が武器になり、退治には宗教的な正当性が伴う。マンチェスターが司教を名乗ったのは、この文脈では理にかなっている。彼は自分の行為に神学的な免罪符を与えようとしたのだ。日本の心霊スポット荒らしには、この免罪符がない。だから群衆にならない。
七つ目。あの夜、彼らは何を見たのか。
数百人が真っ暗な墓地に入り、複数の人間が「暗い人影を見た」と証言した。これをどう考えるか。
まず、暗闇の中で人間の視覚がどれほど当てにならないかは、よく知られている。周辺視野で捉えた不確かな形を、脳は既知のパターンに当てはめる。人の形は、最も強力なパターンだ。傾いた墓石、キヅタに覆われた樹木、崩れた天使像。懐中電灯の光が動けば、影も動く。人影が「浮いて」見えるのは、下半身にあたる部分が下草に隠れているだけでも起こる。
音も同様だ。キツネの鳴き声は本当に人の悲鳴に聞こえる。フクロウの声も不気味だ。数百人が藪の中を歩けば、あちこちで枝が折れ、石が転がり、誰かがつまずく。その音の発生源が見えなければ、人は最も不安な解釈を採用する。
そして群衆特有の効果がある。誰か一人が「いた」と叫べば、その方向を全員が見る。全員が見れば、暗い形は必ず見つかる。見つかったものが「それ」として共有される。この一連の流れは数秒で完結し、後から検証することは不可能だ。
だから私は、あの夜に何かが「いた」とは思わない。だが、あの夜に何百人もが「見た」ことは、まったく疑わない。人が何かを見るのに、対象は必要ない。必要なのは、期待と暗さと仲間だけだ。
八つ目、そして最後に。
この事件を追っていて何度も思ったのは、ハイゲート墓地という場所が、あまりにも語りを誘発する構造をしている、ということだ。
ヴィクトリア朝の人々は、死を隠さないどころか、演出した。エジプト風の門をくぐらせ、レバノン杉の下に円形の納骨室を配置し、丘の斜面に地下廊を掘った。彼らは「死は荘厳である」というメッセージを、石で建築した。壮麗な死の劇場を作ったのだ。
ところが、それを維持する社会が消えた。劇場だけが残り、観客も俳優もいなくなった。石は割れ、草が生え、扉が外れ、中身が見えるようになった。
無人の劇場に、誰かが入ってくるのは時間の問題だった。一九六〇年代の若者たちは、この舞台装置を見て、自分たちの物語を上演しはじめた。ハマー映画の台本を持って。地元紙が宣伝を打ち、テレビが開演を告げ、金曜十三日の夜に、数百人のエキストラが塀を越えた。
ハイゲートの吸血鬼は、墓地が待っていた芝居だったのかもしれない。誰かが台本を持って来るのを、百三十年間ずっと待っていた。そう考えると、あの二人の男が現れたのも、必然のように思えてくる。舞台があれば、役者は来る。
いま、その舞台は修復されつつある。崩れた石は積み直され、危険な構造物は補強され、藪は刈られ、来訪者は決められた小径を歩く。ロマンティックな荒廃からの救出、という言葉のとおりだ。
それでいいのだと思う。あそこは心霊スポットではなく、十七万人が眠る墓地なのだから。ただ、修復が完了して、すべての小径に照明がつき、すべての納骨室の扉が閉まったとき、ハイゲートの吸血鬼は本当に死ぬだろう。杭でも聖水でもなく、園芸と補助金と管理計画によって。
怪談を殺すのは、いつだって退治ではない。手入れだ。
