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膝の上で酒を飲み、飯を食い、やがて喋りだす――人面瘡という奇病が四百年も日本人を掴んで離さない理由を、一六六六年の初出から医学の反証まで全部掘った

膝に、顔ができる。

比喩じゃない。目があって、口があって、その口が開いて酒を飲む。餅を放り込めばもぐもぐ動いて飲み下す。飯を食わせないと、猛烈に痛む。そして話の系統によっては、喋る。しかも喋る内容が最悪で、「おまえが昔殺した男だ」と名乗る。

これが人面瘡、あるいは人面疽と呼ばれてきた奇病だ。奇病というより、四百年近く日本人の想像力に居座り続けている身体怪談と言ったほうが近い。

この題材、ネットの怪談まとめだと三行で終わる。「体に人の顔ができる病気。殺した相手の顔らしい。怖い」。それで済ませるのはあまりにもったいない。人面瘡は、仮名草子と仏教説話と本草学と外科医学と大正の耽美小説と昭和の少年漫画を、全部同じ一本の糸で串刺しにしている珍しい題材だ。

しかも系統がきれいに二本ある。因果応報型と、治療型。この二本は出自が違う。混ぜて語られてきたせいで正体がぼやけているだけで、ほどけば別々の顔をしている。今回はそこを、資料の年号と巻数まで踏み込んで、まるごと掘る。

山城国小椋、左の股。日本の人面瘡はここから転がりだした

日本語の文献で人面瘡の姿がはっきり像を結ぶのは、浅井了意『伽婢子』巻之九「人面瘡」だ。刊行は寛文六年、西暦でいえば一六六六年。全十三巻の怪異小説集で、中国の『剪灯新話』などを日本の風土に翻案し直した仮名草子の代表格である。

この本、当時えらく売れた。売れすぎて「おとぎぼうこ」に似せた類書が次々出るほどで、江戸前期の怪談出版ブームの点火装置になった一冊だ。その巻之九に、問題の一話が入っている。

話はこうだ。山城国の小椋というところに、一人の農夫が住んでいた。この男が長く体を壊していた。ある時は悪寒がして高い熱が出る。まるで瘧のようだ。またある時は全身がひりひり痛む。これは痛風のようだ。症状が定まらない。あちこちの手当てを試したが、どれも効かない。そうやって半年ほど経った頃、左の股の上に、瘡ができた。

その瘡が、人の顔をしていた。目があり、口がある。ただし鼻と耳はない。ここ、細かいようで妙にリアリティがあって、後世の絵師たちもだいたい目と口だけを強調して描く。

そして不思議なことに、この瘡が出てから、それまでの悪寒も発熱も全身の痛みも、きれいに消えた。消えたのだが、代わりにこの瘡が痛む。その痛みが、言葉にできない。

農夫か、あるいは家人か、誰かが試しに瘡の口へ酒を注いでみた。すると瘡の顔が、そのまま赤くなった。酔った人間の顔と同じように赤くなったのだ。

次に餅を入れてみる。飯を入れてみる。すると人がものを食うのとまったく同じ動きで、口をもぐもぐさせて飲み込んだ。しかも食わせているあいだは痛みが引く。気分まで落ち着く。食わせるのをやめると、また地獄のような痛みが戻ってくる。

つまりこの瘡は、宿主を人質に取っていた。

当然そうなると、飯は瘡に取られる。農夫はみるみる痩せた。肉が落ち、筋が落ち、骨と皮になった。もう死ぬのは時間の問題だと誰もが思った。噂を聞きつけて諸方の医師が集まってきた。内科の術も外科の術も尽くした。効かない。ここまでが前半だ。

「田地を全部売ってもいい」。旅の道人が持ち込んだ、ひとつだけの治療法

そこへ、諸国を行脚する道人がやってきた。仮名草子ではこの手の流れ者が転機を運んでくる。

道人は瘡を一目見て言った。この瘡はまことに世に稀なるものだ。これを患った者は必ず死を免れない。ただし、ひとつだけ治療法がある。それでうまくいくかもしれない。

農夫の返事がいい。この病が癒えるのなら、たとえ田地を全部売り払ったところで、何を惜しむことがあろうか。

農民にとって田地は命そのものだ。それを売ると即答するあたりに、この男が半年で追い詰められた深さが出ている。実際、彼はその場で田を売って金に換え、その金をそっくり道人に渡した。

道人がやったことは、現代の目で見ると滅法おもしろい。買い集めたのは「もろもろの薬種」だ。金属、鉱石、土。そこから草木にいたるまで。それを一種類ずつ、順に瘡の口へ入れていった。総当たりである。

瘡はどれも受け入れて飲み込んだ。金でも石でも土でも平気で食う。しばらくその作業が続き、貝母を近づけたところで、瘡の様子が変わった。

眉をひそめたのだ。そして口をつぐみ、食おうとしなかった。

道人はここで確信する。嫌がるということは効くということだ。貝母を粉にして、瘡の口を無理やり押し開き、葦を筒にして中へ吹き入れた。結果、瘡は瘡蓋になって癒えた。

原文系統によって「十七日ののち」と書くものと「七日のうち」と読ませるものがあり、現代語訳でも十七日と一週間で揺れている。どちらにせよ、貝母を強引に流し込んで数日から半月ちょっとで決着した、というのがこの話の型だ。

そして最後に一行、「世にいう人面瘡とはこのことである」と締める。世にいう、と書いているのがミソだ。了意はこの語がすでに読者に通じる前提で書いている。つまり一六六六年の時点で、人面瘡という単語はもう日本に流通しはじめていた。

貝母が嫌いなのは、たぶん人面瘡ではなく腫れ物のほうだった

この話でいちばん引っかかるのが貝母だ。なぜユリ科の球根なのか。

貝母はアミガサユリの鱗茎を乾かした生薬で、形が小さな巻き貝に似ているからその名がついた。日本の薬局方だとアミガサユリ由来を標準にするが、中国では同属の二十数種が「貝母」として流通していて、川貝母、浙貝母、平貝母などと産地や種類で細かく分かれている。

古い本草書でも性味の記載がばらばらだ。『神農本草経』は辛平、『名医別録』は苦微寒、『新修本草』は甘苦であって辛ではない、と書く。基原がずっと混乱していた生薬なのだ。

肝心なのは効能のほうで、貝母は咳を止める薬であると同時に、瘰癧、つまり首まわりのリンパ節の腫れや、腫れ物の初期に使う薬でもあった。ここが効いてくる。

人面瘡の正体を化膿した腫瘍や膿瘍だと考えるなら、貝母を投げ込むのは当時の医学の枠内では至極まっとうな選択だ。つまり「人面瘡は貝母を嫌がる」という怪異のロジックの下に、「腫れ物には貝母」という実用の薬知識がちゃんと敷いてある。怪談は空中に浮いていない。当時の薬棚の上に立っている。

さらに面白いのは、江戸中期の外科書がこの怪異を病名として登録してしまうところだ。林子伯『錦嚢外療秘録』、明和九年すなわち一七七二年の刊。その九十四番目の項目が「人面瘡」である。

曰く、人面瘡は古くよりあると言うが近世は稀である。これは三陽の湿熱が患いをなしたものだ。膝の上に生じて人の面に似る。荊防敗毒散に貝母を倍にして用い、これを治す。太乙膏でも治す。

まるっきり普通の処方箋の書きぶりだ。妖怪ではなく、めったに出ないが実在する難症として、外科の教科書に載っている。この「稀である」という一言が渋い。江戸中期の外科医は、人面瘡を「昔はあったらしいが今はあまり見ない病」として扱っていた。

遡ると唐に着く。『酉陽雑俎』の商人と、彼の左腕

治療型のオリジナルは日本ではない。唐の段成式が編んだ随筆集『酉陽雑俎』、その巻十五に載る話が初出とされる。

江左、つまり長江下流域の商人が主人公だ。彼の左の腕に、人の顔のような瘡ができた。酒を飲ませれば赤くなる。物を食わせればよく食う。食わせなければ腕が痺れる。諸薬を試したが効かない。ただ貝母にいたって、瘡は眉を寄せて目を閉じた。そこで無理やり口へ貝母を注ぎ込むと、瘡蓋になって治った。

読み比べれば一目瞭然で、『伽婢子』の話はこの唐の記事の忠実な翻案だ。腕が股に、商人が農夫に、江左が山城国小椋に置き換えられ、道人と田地の売却という日本的なドラマが足されている。

了意の仕事はいつもこれで、中国の骨に日本の肉をつける。ただし彼は肉のつけ方が異様にうまい。「田地を売ってもいい」の一言があるだけで、この農夫は名もない事例から一人の人間になる。

そして中国側でも、この記事は本草学の系統でしぶとく生き延びた。明の徐春甫が編んだ大部の医学全書『古今医統大全』、一五五六年の刊。その巻之九十二に人面瘡の記述があり、多くは股の上にでき、口と目があり、口から飲み食いする、治療薬は貝母である、と書かれている。

つまり十六世紀の中国医学の中で、人面瘡はれっきとした項目だった。江戸初期の日本にこれらの本草書や瘍科書が渡ってきて、「人面瘡」という四文字がまず医学の語彙として流通しはじめる。怪談として広まる前に、専門用語として上陸していた。ここが人面瘡という題材の、ほかの妖怪と決定的に違うところだ。

もう一本の系統。膝の顔が「わたしは、おまえが殺した男だ」と名乗る

ここから話の色が変わる。治療型が本草学の水脈を流れてきたのに対して、因果応報型は仏教説話の水脈を流れてきた。しかも源流が具体的に特定できる。唐の悟達国師知玄をめぐる伝承だ。

筋はこうなる。唐の懿宗の代、戒行の正しい高僧がいた。悟達国師と呼ばれ、帝から破格の待遇を受けていた。ある時、その膝の上に人面瘡が生じる。人の面そのままで、目も鼻も口も備わっている。物を飲み食いし、しかもよく物を言う。医者たちは匙を投げた。誰にも治せない。

やがて国師は、かつて自分が助けた病僧の言葉を思い出す。困ったことがあれば、あの山の泉を訪ねろ、と。そこへ向かった国師に、膝の顔が問いかける。おまえは『漢書』の袁氏と晁錯の伝を読んだことがあるか、と。

ここで前世が明かされる。前漢の景帝の時代、呉楚七国の乱が起きた。えんおうという重臣が、削藩策を進めた晁錯を讒言し、晁錯は処刑される。ところが晁錯を殺しても乱は収まらず、結局は周亜夫が七国を滅ぼして事を収めた。つまり晁錯は無駄に死んだ。

膝の顔は言う。わたしはそのえんおうだ。おまえは晁錯だ。おまえは十世にわたって高僧として生まれ変わり、戒律が固かったから、わたしは手を出せなかった。だが今、おまえは帝の寵を受けて名利の心を起こした。だからようやく害をなすことができた。

そこへ迦諾迦尊者が現れ、三昧法水と呼ばれる水で瘡を洗う。国師は痛みで一度気を失い、また蘇る。瘡は消えた。これが仏教の懺悔儀礼である慈悲水懺法の由来譚として広く語られてきた話で、そのままお経の序文になっている。

面白いのは、この説話が中国国内ですでに三系統に割れていたことだ。研究者の整理によれば、水で洗う際に因縁が明かされて最後に治るのがA系統で、『水懺序』や『神僧伝』がこれ。左の股に一つの珠があってその上に「晁錯」の二文字が浮かんでおり、前世の業と知りながら治らずに死ぬのがB系統で、『仏祖統紀』や『宋高僧伝』がこれ。AとBの要素を混ぜたのがC系統で『釈氏稽古略』。

B系統、つまり救われないバージョンがちゃんと存在するのが重い。二文字だけ浮かぶという造形も、目鼻口より不気味かもしれない。

江戸の日本人は、この因果話を「善書」経由で受け取った

で、この悟達国師の話がどうやって日本に入ったか。ここに近年の研究のいちばん面白い指摘がある。仏典から直接ではなく、「善書」という民衆向け道徳書のルートが太かった、という話だ。

善書とは宋代以降、とくに明代に大流行した勧善の書物のことで、儒教と仏教と道教をごちゃまぜにした三教合一の思想をベースに、因果応報と勧善懲悪をひたすら説く。『太上感応篇』が代表格だ。明の永楽五年、一四〇七年に刊行された『大明仁孝皇后勧善書』もその一つで、その巻十「感応」の章に、三昧法水で人面瘡を洗うA系統の話が収録されている。さらに明の顔茂猷が編んだ『迪吉録』、一六三四年刊も江戸初期の日本に流布し、仮名草子作者たちのネタ本として機能した。

日本側の受け皿は具体的に追える。林羅山が撰述した『幽霊之事』、一六五七年頃の成立とされるものには「晁錯」という標題で人面瘡の話が入っている。羅山は別の著作『野槌』で人面瘡の例を挙げる際、出典として『編年通論』『仏祖統紀』と並べて「勧善書」を明記している。羅山自身が善書ルートだと白状しているわけだ。

独庵玄光『善悪現験報応編』、一六八七年刊にも「袁氏」の標題で同じ話があり、末尾に「迪吉録に出づ」と割注を打っている。蔀遊燕『和漢故事文選』、一七一八年刊の巻五「袁氏晁錯ガ事」も、「水懺の序を引いて迪吉録に載せたり」と出典を明示する。

つまり江戸の知識人にとって、人面瘡の因果応報バージョンは怪談である以前に道徳教材だった。悪いことをすると、その報いが自分の膝に顔を出す。しかも殺した相手の顔で。これほど分かりやすい勧善懲悪の装置もない。

地獄は死後に待っているものだが、人面瘡は生きているうちに、しかも自分の体の上に、被害者を連れてくる。逃げ場がない。

因果型の日本化。膝の顔が毒を吐き、あたりを巻き込んで大騒ぎになる

輸入された因果型は、江戸の日本でしっかり土着化した。代表格が曲亭馬琴の読本『新累解脱物語』、一八〇七年刊だ。累の怪談を下敷きにした長編で、挿絵は葛飾北斎が手がけている。

ここでの人面瘡の出方が凄まじい。四歳の、たいそう美しい娘がいる。名をさくという。この子が岸辺で転んで膝に怪我をする。ただの擦り傷のはずだった。ところがその膝に、女の顔をした瘡が出る。累の怨霊の祟りだ。

この人面瘡はおとなしく飯を食うようなタマではない。人を罵る。毒気を吐く。その毒気を浴びた周囲の人間が苦しみ、あるいは姿を変えられ、屋敷じゅうが大騒ぎになる。北斎の絵では、右側の女性の膝から吹き出したものに人々がのたうつ様子が描かれる。

治療型の人面瘡が「宿主だけを苦しめる寄生者」だったのに対して、馬琴の人面瘡は「周囲に攻撃を仕掛ける兵器」になっている。ここで人面瘡は、個人の業から一族の怨念へ、症状から呪いへとスケールアップした。累物という日本最強クラスの怨霊譚と接続したことで、人面瘡は一気に「祟りの器」になったわけだ。

谷崎潤一郎は馬琴の熱心な読者だったから、後年の「人面疽」の着想がこのあたりから来ているという見方は、かなり説得力がある。

もう一系統、殺人の直接的な報いとして描く話もある。『怪霊雑記』に載る話では、人を殺した男の股に、殺された被害者の顔をした人面瘡が生じる。医療も効かず、祈祷も効かず、切り落としてもまた生えてくる。

この「切ってもまた出る」という一節が地味に怖い。外科的介入が無効であること、つまり物理的な処置では業は取り除けないことを、たった一行で言い切っている。横溝正史の小説『人面瘡』はこの『怪霊雑記』を原案にしたと言われている。

症例譚その一。文政二年、仙台から江戸へ送られてきた一通の依頼

ここからは、実際に医者が診た記録の話をする。人面瘡は怪談であると同時に、江戸の医者が真顔でカルテを書いた対象でもあった。

文政二年、一八一九年の中元、七月十五日のことだ。仙台のある商人が、門人を通じて江戸の桂川家に相談を持ち込んだ。桂川家は代々幕府の奥医師をつとめる家で、蘭方すなわちオランダ医学を専門とし、腫瘍や外傷の外科的処置を得意としていた。

奥医師といえば将軍家の体を診る立場で、身分としては大名並みだ。町の人間がふらりと診てもらえる相手ではない。だから患者は仙台の商人に口をきいてもらい、その商人が桂川家の門人に話を通し、門人が師である桂川甫賢に取り次いだ。この迂遠な経路自体が、当時の医療のかたちを物語っている。

門人が伝えた病歴はこうだ。患者は三十五歳の男。十四歳のとき、左の脛の上に腫れ物ができた。それが潰れると膿が流れ出て、いつまでも止まらない。ついには腐ったような骨が二、三枚、傷口から出てきた。おそらく骨まで感染が及んで、腐骨が排出されたのだろう。

そこから四年ほどかけて、ようやく瘡口が落ち着いた。だが腫れは全部は引かず、歩くのがひどく難しい。温泉に浸かってみた。膝の裏の委中というツボの静脈に鍼を刺して瀉血もしてみた。どれも効かなかった。医者を何人も替えたが、目立った改善のないまま歳月だけが流れた。

それどころか腫れ物は大きくなり、膝を取り巻いて腿まで広がり、膿の出る穴が数か所あらたに開いた。かつての瘡口が再び開いたように見えたが、症状はまるで違う。ただ、痛みは感じない。そして今年になって、瘡口は一か所にまとまった。

二十一年である。十四歳から三十五歳まで、この男は左脚の潰瘍と付き合ってきた。慢性骨髄炎に伴う難治性の潰瘍と瘻孔、というのが現代の目での見立てになるだろう。

そしてその一か所にまとまった瘡口が、人の顔に見えた。

甫賢はこの症例を記録し、絵まで描いた。『人面瘡図説』という書物がそれで、文政二年の跋を持つ刊本が伝わっている。奥医師が診た人面瘡の症例録は貴重書として弟子たちに筆写され、板行され、その一方で戯作者や儒官のあいだでは奇談としてさんざん面白がられた。医学と好事家のあいだを、テクストが行ったり来たりしていたわけだ。

症例譚その二。菅茶山が書き留めた、仙台の商客の足

同じ甫賢の見聞は、儒者・菅茶山の随筆『筆のすさび』にも引かれている。要約するとこうだ。仙台で、ある商客の足にできた傷が、何人もの医者にかかっても治らない。その傷を見ると、傷口が唇に見える。その上のくぼみが目に見える。鼻や耳のようなものまで見える。しかも、動いているようにも見えるという。

注目してほしいのは「見える」の連発だ。茶山が引いた甫賢の分析は、驚くほど醒めている。腫れ物の傷口が開いた姿が人間の口のように見え、皺の寄った窪みや傷穴が人間の目鼻に見え、ひくひくと動く患部があたかも呼吸しているように見える。それだけのことだ。怪異ではない。あくまで顔によく似た腫れ物である。

これが一八一〇年代から一八四〇年代の日本の話だというのが、しびれる。人面瘡はしゃべる妖怪だという通俗的理解が本や絵で広く出回っていた時代に、それを実際に診た外科医は、顔に見えるだけです、と言い切っている。

しかもその言い方が、現代のパレイドリア説明とほぼ同じ構造をしている。傷口イコール口、窪みイコール目、拍動イコール呼吸。二百年前の医者が、視覚的錯覚のメカニズムを要素分解して並べてみせている。人面瘡というテーマの合理的説明は、明治の西洋医学が持ち込んだものではない。江戸の内側からすでに出ていた。

症例譚その三。『耽奇漫録』に残った、絵入りの膝

もう一件、江戸後期の記録を挙げる。曲亭馬琴や山崎美成らが持ち回りで珍品奇物を持ち寄って書き留めた集まり、その記録集である『耽奇漫録』にも人面瘡の記事がある。話者はここでも桂川甫賢だ。膝の下にできた腫れ物が人の顔のようになり、痛んだ、という短い記述に、人面瘡の絵が添えられている。

この一件が示しているのは、人面瘡が見せ物としての価値を持っていたということだ。奇物を持ち寄る会に、奥医師が症例のスケッチを持ってくる。戯作者たちがそれを囲んで、ああでもないこうでもないと言い合う。馬琴はその場にいた側の人間で、しかも自分の読本で人面瘡を怨霊の器として書いた張本人でもある。

フィクションの作り手と臨床の担い手が、同じ絵を覗き込んでいる。この距離の近さこそが、人面瘡という題材が江戸の文化の中で異様に長生きした理由だと思う。

近代に入っても、その手の話は消えなかった。東京大学の法医学教室に、明治期の女性から切り取られた人面瘡の標本が保存されている、という話が繰り返し語られてきた。真偽をここで断じるつもりはないが、こういう「標本がどこそこにあるらしい」という語りが、人面瘡という語をぎりぎり現実の側につなぎとめてきたのは間違いない。妖怪は標本にならない。腫瘍は標本になる。人面瘡はその境目を行ったり来たりしている。

江戸の人面瘡は、けっこう笑われてもいた

ここで一つ、通俗的な人面瘡イメージを補正しておきたい。江戸の人面瘡は、怖がられるだけの存在ではなかった。むしろ後期になるとギャグの素材になっている。

歌川国芳の戯画に「きたいなめい医難病療治」という一枚がある。奇妙な名医が難病を治療するという体裁で、当時の風刺を絵解きにした作品だ。その中に、大食らいの人面瘡に借金の証文を見せて説き伏せている場面が描かれている。飯を食わせないと痛むという例の性質を逆手に取って、おまえの食い扶持でうちは借金まみれなんだ、この証文を見ろ、と交渉している構図だ。膝の顔に借用証書を突きつける、という発想がすでにおかしい。

江戸中期には、両膝にできた人面瘡が好き放題にふるまって自分の体をコントロールできなくなる、という滑稽話も産出されていた。人面瘡をはじめ世の奇怪な疾病ばかりを集めた症例集が板行され、それが戯作者のネタ本になっただけでなく、怪妖故事談として改題されて再版され、しかも何度も刷を重ねた、という経緯も知られている。医学書と怪談本の垣根が、商業的にはほぼ無いに等しかった。

この笑いの層は大事だ。人面瘡が四百年もったのは、恐怖一辺倒だったからではない。怖い、痛い、気味が悪い、でもちょっと笑える。膝の上に住みついて飯だけ食う居候。その滑稽さが、この怪異に妙な親しみやすさを与えた。

応声虫のような「腹の中で返事をする虫」の話とセットで語られることが多かったのも、同じ理由だと思う。体が自分の意思とは別に振る舞うという事態は、恐怖であると同時に、笑いの原型でもある。

谷崎潤一郎「人面疽」、一九一八年。顔は、皮膚からフィルムへ移った

近代文学における最大の翻案が、谷崎潤一郎の短編「人面疽」だ。『新小説』一九一八年三月号に掲載された。谷崎はこの頃すでに映画に強い関心を持っていて、当初はこの作品を自身の映画化第一作にするつもりだったという。実現はしなかったが、その企図を知って読むと味が変わる。

主人公は歌川百合枝という日本人女優。一九一〇年代のハリウッドで成功し、日本へ帰ってきた。ある日、彼女は妙な噂を耳にする。自分が主演した覚えのない映画が、新宿や渋谷あたりの映画館で上映されているというのだ。題名は『人間の顔を持った腫物』、邦題『執念』。心当たりがまったくない。

その映画の筋がまた強烈だ。港町の遊廓に、菖蒲太夫という花魁がいる。彼女はアメリカ人の船員と恋に落ち、駆け落ちを企てる。手伝わせたのは、彼女に恋い焦がれている笛吹きの乞食だった。乞食の手引きで首尾よく遊廓を抜け出す。乞食は報酬として、太夫と一晩を共にすることを求める。太夫は断固として拒む。乞食は呪いの言葉を吐いて、海へ身を投げる。

アメリカ行きの船の船艙に隠れた太夫は、数日後、自分の膝頭に人間の顔のような腫れ物が浮いているのに気づく。時が経つにつれ、それは乞食の顔を生き写しにした、本物の人間の首になっていく。アメリカで船員と新生活を始めた彼女は、膝の人面疽を隠して暮らすが、ついにばれる。逃げ出そうとする船員を、彼女は絞め殺す。人面疽はその死体を眺めて、にやにやと底気味悪い笑いを漏らす。それからというもの、彼女の気性は人面疽に支配され、波乱に満ちた人生の果てに無惨な最期を遂げる。

この映画内映画の筋だけで、因果応報型の人面瘡が完璧に再構成されている。裏切られた男の顔が、裏切った女の膝に出る。膝である点も、伝統に忠実だ。

だが谷崎の本領はここからだ。噂を聞いた百合枝は、そんな撮影の記憶がまるでない。そして日東写真会社のH氏から、さらに嫌な話を聞かされる。この『人間の顔を持った腫物』は化け物のようなフィルムで、昼間に大勢で観るぶんには問題ないが、夜に一人で観ると気が狂ったり病気になったりする。スクリーンから微かに人面疽の笑い声が聞こえてきて、それが精神に作用するらしい、と。

会社に所蔵されているフィルムを、百合枝は透かして見る。そこに映る乞食の顔に、やはり見覚えはない。米国のグロオブ社に問い合わせると、そんな作品は製作していないという。誰かが彼女の出演作から必要な断片を選び取り、つなぎ合わせ、別作品に仕立てたのではないか。だとしても、膝に人面を焼き込む合成があまりにも生々しすぎる。謎は謎のまま、小説は終わる。

ここで谷崎がやったことが凄まじい。人面瘡を身体から引き剥がして、複製メディアに移植したのだ。膝に顔が出るのは、女優の膝そのものではない。フィルムの上の膝だ。しかもそのフィルムが観る者に病をもたらす。一九九八年の『リング』でようやく一般化する呪いの映像という発想を、日本文学は一九一八年の時点で完成させていた。

谷崎が足フェチとして知られること、そして美しいものにわざと醜いものを付着させて複雑な美を作る癖を持っていたことも、この短編の質感に直結している。白繻子のような美しい膝頭に、醜い人面疽。彼にとってそれは嫌悪ではなく、美の実験だった。

なお、当時フィルムに「呎」の字を当てることがあった。フィートの意味だが、字形が「呪」に恐ろしく似ている。偶然にしては出来すぎだ、という指摘があって、これが個人的にはこの作品にまつわる最良の余談だと思っている。

横溝正史の脇の下、そして手塚治虫の腹と嚢腫

戦後、人面瘡はミステリの側にも回収される。横溝正史「人面瘡」は『講談倶楽部』一九四九年十二月号に発表され、一九六〇年に金田一耕助ものへ改稿された。

舞台は岡山の湯治場「薬師の湯」。女中の松代が睡眠薬で自殺を図る。妹の由紀子を二度も殺した、という遺書を残して。その後、由紀子の遺体が川から見つかる。松代は岡山の没落した菓子司の長女で、複雑な過去を抱えていた。そして彼女の右の脇の下には、人の顔のかたちをした腫れ物があった。

横溝の処理が近代的なのは、この人面瘡に最終的な医学的説明を与えている点だ。双生児の一方が育たずに、もう一人の体内に残って腫れ物になったもの、つまり寄生性双胎として片づける。怪異を提示しておいて、合理で回収する。本格ミステリの作法だ。

ただしその合理が、結果としていっそう薄気味悪い。妹を殺したと書き残した女の脇の下に、育たなかったもう一人の自分がいる。合理的説明のほうが、祟りより後味が悪いという珍しい例だ。

手塚治虫はこの題材を二度使っている。一つは『ブラック・ジャック』の「人面瘡」。大財閥の若き当主・都築耕一郎が、腹部の腫瘍に悩まされている。その腫瘍が人間の顔のような形をしていて、切除してもすぐ再発し、醜悪な顔でブラック・ジャックを睨み返してくる。真相は心因性で、腫瘍の原因は彼の心の傷にある、という心身医学的な着地をする。因果応報型を「罪悪感の身体化」として現代医学の語彙に翻訳したわけで、江戸の勧善懲悪から一歩踏み込んでいる。

もう一つが、はるかに有名なピノコだ。『ブラック・ジャック』第十二話「畸形嚢腫」で初登場する。名家の娘である双子の姉の体にできた瘤の中に、脳や手足や内臓がばらばらに収まっていた。ブラック・ジャックはそれを摘出し、一人の女児として組み立て直す。

人面瘡そのものではないが、発想の骨格は完全に地続きだ。体の中に、もう一人いる。しかもその存在には意思がある。ピノコが摘出前に念力を使うのに、組み立てられた後は一切使わないという設定も効いている。体内に埋め込まれていたあいだの彼女は、宿主に干渉できる何かだった。人面瘡が語りかけてくるのと、構造が同じである。

そして摘出手術の前、ブラック・ジャックは取り出しても培養液に入れて殺さないと説得する。この一言があるから、ピノコは腫瘍ではなく人になる。人面瘡の物語が四百年かけてたどり着いた最も優しい着地点が、ここにある。姉との関係が最後まで報われないこと、姉が自殺を図って記憶を失っている間だけ本当の姉妹らしく振る舞えたという後日談も含めて、この設定は残酷なくらいよくできている。

で、実際のところ何なのか。医学の側から順に潰していく

ここからは反証パートだ。人面瘡として語られてきた現象に、現代医学はいくつもの説明を用意している。

まず本命がパレイドリアだ。ギリシャ語の「パラ」と「エイドーロン」が語源で、実際には存在しないパターンを視覚や聴覚の刺激の中に見てしまう現象を指す。雲が動物に見える、月の模様が人に見える、コンセントの穴が顔に見える。あれだ。

人間の脳は顔の検出に異常なリソースを割いていて、その検出器は精度より速度に振り切っている。誤検出上等、見逃しは許さない、という設計だ。

これは実験でも裏づけがある。二〇〇九年の脳磁図を使った研究では、顔だと認識された物体が紡錘状顔領域を潜時百六十五ミリ秒で賦活させ、これは本物の顔が引き起こす百三十ミリ秒の反応と時間的にも位置的にも近いと報告された。二〇一一年のfMRI研究では、顔らしい姿をした視覚刺激を繰り返し提示すると、本物の顔を提示したときの反応が減弱することも示された。

つまり脳は、顔もどきを顔の回路で処理している。研究者は、顔らしい物体が引き起こす顔認知は比較的低次のプロセスであって、高次の認知的な再解釈ではないと論じている。要するに、あなたが意識的に「顔っぽいな」と思うより先に、脳は勝手に顔と処理し終えている。

進化的な説明もついている。この能力は長期の自然選択の産物で、脅威となる他者の心的状態をいち早く察知できることが生存に有利だったから、感度を極端に上げる方向に進化した。藪の中の模様が虎の顔かもしれないなら、九十九回の空振りより一回の見逃しのほうが致命的だ。だから脳は空振りを許容する。

この枠に、慢性の潰瘍や膿瘍を当てはめてみる。桂川甫賢が二百年前に分解してみせた通りだ。開いた瘡口が唇に見える。周囲の皺と窪み、瘻孔の開口部が目や鼻に見える。下を走る動脈の拍動や、周囲の筋の収縮で患部が細かく動く。それが呼吸や口の動きに見える。膿や滲出液が出れば、喋った、唾を飛ばした、と解釈できる。酒を注げばアルコールで局所が充血して赤くなる。餅や飯を押し込めば、瘻孔の中へ物理的に沈み込んでいく。食べた、と見える条件は、全部そろっている。

構造的な原因のほうもある。横溝が使った寄生性双胎、より正確には封入胎児は実在する。一卵性双生児の片方の発育が極端に悪く、もう片方の体内に寄生するように発育したもので、出生五十万例に約一例という稀少なものだ。発育不良の側を寄生体、良好な側を自生体と呼ぶ。寄生体は自生体の頭蓋腔、眼窩、胸腔、腹腔、骨盤腔に存在することが多く、栄養を自生体に依存する。ほぼ全例で脊柱があり、四肢を持つ例も多い。この脊柱の有無が奇形腫との鑑別点になる。ごく稀に、口腔内に第二の頭部のような構造を作った症例も報告されている。ここまで来ると、確かに「体の中にもう一人いる」は文学的比喩ではなくなる。

成熟奇形腫、いわゆる畸形嚢腫も外せない。三胚葉性の組織を含み、内部に毛髪や歯や皮脂を形成することがある。腫瘍の内側から歯が生えている画像を一度でも見た人なら、これが「顔のできもの」の想像力にどう火をつけるか分かるはずだ。ピノコの設定はここから来ている。

そのほか、皮膚腫瘍、粉瘤、慢性骨髄炎に伴う瘻孔、ケロイド、リンパ節の腫脹。象皮病のことだとする説も出されてきた。どれか一つが正解というより、「顔に見える皮膚病変」という広い受け皿があり、そこに時代ごとの名づけが与えられてきたと考えるのが妥当だろう。

それでも人面瘡が死なないのは、説明が効かない部分があるからだ

ただ、パレイドリアで全部が片づくかというと、そこは正直に言っておきたい。片づくのは「顔に見える」の部分だけだ。人面瘡の物語が持っている二つのコアは、そこからはみ出す。

一つ目のコア、食わせないと痛む。これは実は臨床的にひっくり返せる。腫れ物が痛いのは腫れ物が痛いからで、患者が食べ物を与えている間は注意が逸れる、あるいは処置による一時的な刺激で感覚が変わる。

しかし物語の側はこれを因果として語る。飯を要求してくる、という主体性の付与だ。痛みという受動的な現象を、要求という能動的な行為に読み替えている。

ここに人間の癖が出る。痛みは、それ自体が誰かの意思のように感じられる。慢性の痛みを抱えた人が「こいつ」「あいつ」と痛みを人称で呼ぶことは珍しくない。痛みは、宿主から見れば常に交渉相手なのだ。

二つ目のコア、殺した相手の顔である。これは医学ではどうやっても説明できない。というより、説明する必要がない。これは病気の説明ではなく、罪の説明だからだ。

人面瘡の因果応報型は、はじめから病理学の話をしていない。誰かを踏みつけて手に入れた地位や金や幸福が、いつまでも安全ではいられない、という倫理の話をしている。悟達国師の説話でいちばん怖いのは瘡そのものではなく、おまえが名利の心を起こしたから、ようやく手が出せた、という一言だ。十世にわたって清らかだった間は無傷だった。緩んだ瞬間にやられた。徳の高さが免疫であり、慢心が発症の引き金である。これは診断ではなく警告である。

なぜ「体に他人の顔が出る」だけで、こんなに震え上がるのか

最後に、この題材の芯を言葉にしておきたい。人面瘡が四百年生き延びたのは、たまたま絵面が気持ち悪いからではない。人間の自己認識のいちばん脆いところを、正確に突いているからだ。

まず、体は自分のものだという前提が壊れる。人は自分の身体を所有物だと思っている。ところが実際には、体は勝手に熱を出し、勝手に腫れ、勝手に痛む。自分の意思が届かない領域が大量にある。

人面瘡はその「届かなさ」に顔をつけただけの装置だ。顔をつけると、届かなさは他者になる。他者は交渉相手になる。交渉相手は敵になりうる。腫れ物に目と口を描き込むというたった一手で、自分の体の中に敵が誕生する。

次に、罪は消せるという前提が壊れる。人間はたいてい、過去を清算したがる。謝罪、供養、時効、忘却。社会はそのための装置を大量に用意している。人面瘡はその全部を無効にする。切り落としてもまた生える。祈祷も効かない。逃げようがない。なぜなら、それは自分の体だからだ。

加害の記憶を自分の肉に縫いつけられるという発想は、地獄や幽霊よりはるかに始末が悪い。幽霊は家を出れば振り切れるかもしれないが、膝はどこまでもついてくる。

そして、顔は人格だという前提が悪用される。顔は人間にとって唯一無二の身分証だ。だからこそ、顔が「あるべきでない場所」に出ることの衝撃が大きい。膝は顔ではない。脇の下も顔ではない。腹も顔ではない。その非対称性が、脳の顔検出器を誤作動させたまま放置する。

パレイドリアは通常、見た瞬間に「ああ、コンセントか」と修正される。ところが人面瘡の場合、その修正が入らない。なぜならその顔は痛むし、動くし、時間とともに表情を変えていくからだ。誤検出が訂正されないまま持続する。これが恐怖の正体だと思う。

最後にもう一つ。人面瘡は「他人が自分の内側に住む」という関係の比喩として、恐ろしく汎用性が高い。恨まれること、忘れられないこと、誰かに取り憑かれること、あるいは誰かを取り込んでしまうこと。谷崎は熱狂的なファンの執着として書いた。手塚は罪悪感と、生まれ損ねた片割れとして書いた。馬琴は一族の怨念として書いた。全部同じ形の器に入る。器の形が良いのだ。だから四百年、いろんな中身が注がれ続けてきた。

二系統は並立していたのではなく、時間差で生まれている

ここからもう一段深く掘る。本文で触れきれなかった角度からの追加分だ。

まず整理し直したいのが、二系統という言い方の精度だ。治療型と因果応報型を分けて語ってきたが、資料を年代順に並べると、この二つは単に並立していたのではなく、明確に時間差で成立している。

先に来るのは治療型だ。唐の『酉陽雑俎』巻十五の江左の商人。ここには因果も業も一切ない。ただ左腕に顔のような瘡ができ、酒を飲み、物を食い、貝母で治った。それだけだ。誰の恨みかも書かれていない。この段階の人面瘡は、罰ではなく症例である。段成式は志怪の書き手であると同時に博物学者的な興味の持ち主で、この記事の書きぶりも「珍しい病気の報告」に近い。

因果応報型が本格的に立ち上がるのは、宋代以降の仏教書においてだ。研究会報告で「なぜ宋代になると仏教の書物に人面瘡の話が見られるようになったのか」という質問が出たと記録されているが、これは核心を突いた問いだと思う。

おそらく答えは、宋代以降の懺悔儀礼の整備と、明代の善書の大流行にある。懺悔の儀礼には、なぜ懺悔が必要かを説明する強力な物語が要る。前世の因縁が今生の体に現れる、という話は、その用途に完璧に適合する。

しかも人面瘡というモチーフは、すでに医学書の側に実在する病として登録済みだった。ここが決定的に上手い。まったくの空想を持ち出すのではなく、実在すると信じられていた奇病に、業の物語を後から接続した。信憑性の借用である。だから因果応報型は、はじめから「あり得る話」として受け取られた。

この構造は、現代の都市伝説の作られ方とまったく同じだ。ある実在の事象があり、そこに説明の空白があり、その空白に物語が流し込まれる。人面瘡の場合、空白は「なぜこの人にこの病が出たのか」という部分だった。医学は「なぜ」に答えない。三陽の湿熱、と江戸の外科書は書いたが、では何が湿熱を招いたのかは書かない。物語はそこに入る。あの人は昔、人を殺したからだ、と。

日本の人面瘡は、救済のパートだけが痩せていった

次に強調しておきたいのが、日本における受容の特殊性だ。

中国側の悟達国師説話は、あくまで仏教の枠内で完結している。前世の因縁があり、聖者が現れ、法水で洗い、救済される。ところが日本に入ってからの人面瘡は、救済のパートがどんどん痩せていく。

『怪霊雑記』の殺人者の股の人面瘡には、迦諾迦尊者は現れない。医療も祈祷も効かず、切り落としてもまた生える。救われない。馬琴の『新累解脱物語』でも、人面瘡は救済の契機ではなく攻撃の手段になっている。

日本の人面瘡は、懺悔の物語から怨みの物語へと重心を移した。これは累物や皿屋敷といった日本の怨霊譚の伝統に、人面瘡が吸収された結果だろう。日本の怪談は、和解より持続を好む。恨みは晴れないほうが物語として強い、という美意識がある。

三点目。人面瘡が特別なのは、医学と文学のあいだを何度も往復した点だ。ふつう妖怪は片道切符で、医学の側から文学の側へ流れて終わる。人面瘡は違う。

中国の本草書から日本の仮名草子へ流れ、仮名草子から江戸の外科書へ逆流し、外科書の症例録が奇談本として改題再版され、その奇談本が戯作者のネタ本になり、戯作者と奥医師が同じ絵を囲んで感想を言い合う。この循環が、江戸を通じて続いた。

医学史の研究者がこの現象を「収まりの悪い事象」と呼んで、文学のもの、医学のもの、好事家のもの、と資料を分類してしまうとそこに宿る運動性まで寸断されると警告しているのは、まったくその通りだと思う。人面瘡の本質は、どのジャンルにも属さないことにある。

総当たり実験の場面が、いちばん好きだ

四点目、貝母についてもう少し。

あの総当たり治療の場面を、私は何度読んでも好きだ。道人は金属を入れ、鉱石を入れ、土を入れ、それから草木を一種ずつ入れていく。これは呪術ではない。実験だ。反応が出るまで変数を変え続けるという、まぎれもない試行錯誤である。しかも判定基準が「瘡が嫌がるかどうか」という、極めて明快な観察に置かれている。

十七世紀の日本の読者は、この場面を怪談として読んだ。だが方法論だけ抜き出せば、それは薬理スクリーニングの原型だ。怪異譚の中に、当時の医学の実務感覚が生のまま埋まっている。そして繰り返しになるが、正解として選ばれた貝母は、実際に腫れ物や瘰癧の初期に使われていた生薬だった。つまり物語は、正しい答えを知っていた。ここに、怪談を単なる嘘として切り捨てられない厚みがある。

ただし、ここで釘を刺しておきたい。この記事を読んで、皮膚の異常に生薬を押し込もうなどと考えないでほしい。江戸の道人がやったのは、当時の知識の範囲での必死の賭けであって、現代においてまったく推奨されない。

慢性の潰瘍や治らない腫れ物、繰り返す膿の排出は、放置すると骨や周辺組織へ進行しうるし、稀ではあるが悪性化することもある。人面瘡の症例譚に出てくる二十一年間苦しんだ男の経過を、現代の医療なら大幅に短縮できたはずだ。奇病として語られてきた歴史を面白がるのと、実際に困っている体を診てもらうことは、まったく別の話である。

そして当然ながら、皮膚に見た目の変化を抱えている人を怪異扱いすることは論外だ。人面瘡の恐怖の歴史は、裏返せば、見た目の異常を持つ人がどれだけ物語の材料にされてきたかという歴史でもある。そこは笑い話にできない。

谷崎がやったのは、身体の境界そのものの拡張だった

五点目に、谷崎の翻案が持つ射程をもう一度確認したい。

彼が人面疽をフィルムに移したことは、単なる舞台設定の更新ではなかった。人面瘡はもともと「身体の上に他者が現れる」怪異だ。谷崎はそれを「複製メディアの上に他者が現れる」怪異へ拡張した。

この拡張が意味するのは、身体の境界が拡張されたということだ。映画の中の自分の膝は、自分の膝なのか。他人が編集した自分の映像は、まだ自分なのか。歌川百合枝が受ける恐怖の本質は、乞食の顔ではなく、自分の身体が自分の知らない場所で自分の知らない使われ方をしていることにある。

この問いは、いま読むと笑えないほど生々しい。誰かが撮った自分の映像、誰かが加工した自分の顔、意図せず流通する自分の像。谷崎はそれを、女優という当時最先端の職業を通して先取りした。人面疽は、身体の複製可能性に関する最初期の恐怖小説だ。

六点目、パレイドリア説の限界についてもう一歩。パレイドリアは「なぜ顔に見えるか」を説明する。だが「なぜ特定の顔に見えるか」は説明しない。ここが人面瘡譚の急所だ。

物語の中で人面瘡は、いつも誰かに似ている。殺した男の顔。裏切った男の顔。前世の敵の顔。抽象的な人の顔ではなく、名指しできる特定の顔になる。パレイドリアの実験が扱うのは類型的な顔検出であって、個人同定ではない。

ところが心理学には、期待と文脈が知覚の内容を強く歪めるという別の知見がある。罪悪感を抱えた人間が、自分の体の異常を見つめ続ければ、そこに誰の顔を見るかは半ば決まってしまう。パレイドリアが「顔」を用意し、記憶と罪悪感が「誰の」を埋める。この二段構えで考えると、因果応報型の説話が持つ心理的な現実味は、相当に高い。作り話ではなく、体験の記述だった可能性すら残る。

なぜ膝ばかりに出るのか

七点目。人面瘡が膝に集中することの意味も考えておきたい。

中国の初出では左腕だったが、日本に入ってからは圧倒的に膝と股が多い。『伽婢子』は左股。『古今医統大全』は多くは股の上。『錦嚢外療秘録』は膝上に生ず。悟達国師も膝の上。馬琴の娘も膝。谷崎の花魁も膝頭。

この偏りは偶然ではないだろう。理由は複数考えられる。まず単純に、膝から下は打撲や外傷を受けやすく、血流が悪くて治りが遅い。慢性潰瘍の好発部位だ。臨床的な必然がある。

もう一つは、視線の問題だ。膝は、座れば自分の目の前に来る。腹や腕とは違って、日常的に長時間見つめることになる部位である。見つめる時間が長いほど、パレイドリアは強化される。

そして三つ目、これは文学的な理由だが、膝は「屈する」部位だ。人が跪き、頭を下げ、屈服する時に折れるところ。そこに他人の顔が出るという構図には、支配関係が反転する快感が仕込まれている。加害者の膝の上から、被害者が見上げている。位置関係として完璧だ。

八点目に、現代における人面瘡の居場所について。この語はいま、二つの方向に散っている。

一つは完全な創作記号としての人面瘡で、漫画やゲームで「体に顔が出る」という記号だけが流通している。近年だと、しゃべるニキビと同居する女性を描いたコメディ漫画が話題になったりもした。恐怖は薄れ、キャラクターとしての人面瘡が残った。

もう一つは、医学的な語彙としての残響だ。顔に似た形の腫瘍が撮影されるたびに、SNSでは「人面瘡だ」という言葉が飛び交う。四百年前の本草書の用語が、いまでも第一想起の語として使われている。この言葉の生存力は、率直に言って異常だ。

あなたの体は、誰のものか

そして最後に。人面瘡の物語がずっと問い続けているのは、結局のところ「あなたの体は誰のものか」だと思う。

江戸の農夫は、田を全部売って自分の脚を取り戻そうとした。悟達国師は、名利の心を起こした瞬間に自分の膝を明け渡した。谷崎の女優は、自分の膝が誰かの編集で他人の顔を宿すのを、なすすべなく見せられた。手塚のピノコは、姉の体の一部だったものが一人の人間として組み立て直された。全員が、自分の身体の所有権をめぐって揺れている。

人面瘡は、たぶんそういう話だ。皮膚の下には、自分ではないものがいる。それは腫瘍かもしれないし、記憶かもしれないし、他人の恨みかもしれないし、生まれ損ねた双子かもしれない。四百年間、日本人はその「いる」という感覚に顔を描き足して、名前をつけて、酒を飲ませてきた。

飲ませているあいだは、痛みが少しだけ引く。だから語り続けてきたのだと思う。人面瘡の口に飯を運ぶ農夫の手つきは、たぶん、私たちが怪談を語るときの手つきとまったく同じものだ。

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