北海道の背骨を東へ越えていく単線が、旭川から北見、網走へ抜ける石北本線だ。遠軽町生田原と北見市留辺蘂町金華のあいだに、全長507メートルの常紋トンネルがある。長さだけ見れば、どうということもない短さだ。500メートルなんて、特急なら20秒で抜ける。
でもこのトンネルは、日本の鉄道が抱えた穴のなかで、たぶんいちばん重い。壁のなかに、人が立ったまま埋まっていた。実際にその姿で掘り出された人がいたのだ。
氷雨の夕方、機関士が見たものから始めよう
いちばん古くから語られてきた形の怪談を、できるだけそのままの温度で置いておきたい。国鉄の乗務員のあいだで、昭和のなかばには広く共有されていた話だ。季節は秋の終わり。氷雨というやつが降っていた。
北海道の内陸の、しかも峠の上の雨は、もう半分は雪みたいなもので、機関車の窓ガラスに当たって細かい筋を引く。生田原から金華まで、およそ15キロ。この区間は常紋信号場を頂点にして、25パーミルの勾配が延々と続く。1000メートル進んで25メートル上がる坂だ。数字にすると地味だが、蒸気機関車にとってはとんでもない。
半径300メートルのカーブが右へ左へ連続して、機関車は文字どおり喘ぎながら坂を登る。ドラフト音が山にぶつかって返ってくる。煙が客車まで巻き込む。運転台の窓は開けられない。
その日、上り列車を牽いていた機関士は、峠の頂上にぽっかり開いた坑口へ、いつものように機関車を突っ込ませた。レンガ積みの、古い古い坑門。トンネルの中は真っ暗で、しかも全体が緩くカーブしているから、入っても出口が見えない。前照灯の光が壁のレンガをなめていく。煙が充満して、息が苦しい。
その光の先、線路の上にこちらを向いて男が立っていた。頭から血を流している。顔が赤黒く濡れていた。
機関士は反射的に非常制動をかけた。鉄と鉄が擦れる悲鳴みたいな音がトンネルに反響し、列車が止まる。カンテラを持って降りて前へ回っても、線路にも退避所にも排水溝のわきにも誰もいない。当たり前だ。こんな山の上のトンネルの中に、雨の日の夕方、人が歩いているわけがない。
安心して運転台に戻り、汽笛を鳴らして、また動かそうとした。すると、また立っている。同じ場所に、同じ姿で。
その機関士はそれ以降、常紋の坑口が近づくと体が動かなくなった。手が汗で滑って、加減弁を引けない。何度もこの目に遭って、とうとう「もう走りたくない」と口にするようになり、区の判断で後続の乗務員に交代させられた――というところまでが、この話の定型だ。似た話は時代を変え、何人もの機関士の体験として語られている。
乗客の側からも報告があった。夜行の列車が常紋を越えるとき、トンネルの中で火の玉が飛んだ、という話。それから、信号が理由もなく消えて、暗くなった線路のわきに血だらけの男が立っていた、という話。当時の常紋信号場には職員が詰めていて、こうした申告が実際に上がってきていたという。
雨の日に常紋を通ると、声が聞こえる、というバージョンもある。「腹減った、ママくんろ」。ママというのは飯のことだ。腹が減った、飯をくれ。それだけを言う声が、雨音に混じって聞こえる。
その声が「腹減った」だった意味
怪談としての完成度で言えば、この「腹減った、ママくんろ」はちょっと異様だ。普通、非業の死を遂げた者の霊が発する言葉は、恨みか、無念か、名前か、助けを求める声だ。ところが常紋の声は、飯をくれ、と言う。
これがなぜ異様かというと、あまりにも即物的で、あまりにも工事現場の現実に忠実だからだ。後で詳しく書くが、常紋トンネルを掘った労働者たちは、慢性的な飢えのなかで死んでいった。重労働に対して食事が絶対的に足りず、脚気が蔓延した。副食がほとんどなく、白米に近いものを立ったままかき込んで、また現場に戻される。倒れても医者は来ないままだ。
この怪談には、加工されていないような生々しさがある。恨みという抽象に昇華されず、飢えという生理のまま、100年間そのへんの雨のなかに残ってしまった。怪談としてはむしろ稚拙とすら言える。でも、だからこそ本物くさい。誰かが作ったにしては、ディテールの選び方が下手すぎるのだ。
これがこの記事全体のテーマにつながる。常紋の怪談は、たぶん「怖がらせるために作られた話」ではない。労働災害の記憶が、記録として残されなかったせいで、怪談という形でしか保存できなかった。そういう種類の話だと思う。
常紋という名前は、二つの郡をつないだだけの言葉だ
土地の話をしておく。常紋という地名には、由緒ある伝承も、アイヌ語由来の風景の描写もない。北見側の常呂郡と、遠軽側の紋別郡。その頭を一字ずつ取って「常紋」。ただそれだけの、行政の都合で生まれた合成語だ。
峠の名前も、トンネルの名前も、信号場の名前も、全部そこから来ている。ここは元々「名前をつけて呼ぶほどの土地」ではなかった。人が住んでいなかったからだ。
標高は約347メートルとたいした高さではないが、北海道内陸の山中だ。周囲を鉄道林と原生林に囲まれ、国道からも離れていて眺望はほとんどない。冬は雪が深く、風が抜ける。夏は藪が繁って視界がなくなり、ヒグマの領域と完全に重なる。生田原側から登るルートは特に地味で、鉄道ファンのあいだでも「有名なのは留辺蘂側」と言われてきた。
ここに線路を通す必要があったのは、オホーツク側と旭川側を結ばなければならなかったからだ。1912年、明治45年3月。湧別軽便線の常紋隧道として、工事が始まった。
約二年半かかった、たった500メートル
507メートルのトンネルに、約二年半かかっている。これは異常な数字だ。当時の技術水準を考慮しても遅い。
地質が悪く、湧水も出た。冬は零下30度近くまで落ちる。資材は運び上げるだけで一苦労で、そもそもトンネルまでの道すら自分たちで作らなければならなかった。掘っていたのは、本州から集められた男たちだ。彼らは「タコ」と呼ばれた。
工事が完了したのは1914年、大正3年の10月。同年10月5日に湧別軽便線の留辺蘂と下生田原のあいだが開業し、同じ日に常紋信号所も開業している。トンネルと信号場は、生まれた日が同じだ。
その工事のあいだに、100人を超える死者が出たとされる。百数十人という記述もある。北海道のタコ部屋労働史上、単一工事としては最大級の死者数だと言われてきた。
「される」「言われてきた」と書かざるを得ないのがこの話の核心で、正確な数字は誰も知らない。名簿も死亡届も、埋葬記録もない。何人来て、何人死んで、何人帰ったのか、公的に残っていない。人が100人以上死んだのに、その100人が誰だったか一人もわからない。それがこのトンネルの本当の異常さだ。
タコ部屋とは何だったのか、まっすぐ書く
怪談から一度離れて、制度の話をする。ここを飛ばすと常紋の話は成立しない。北海道の開拓の始まりを支えたのが、囚人労働だ。
明治20年代、樺戸や釧路の集治監に収監されていた囚人が、道路や鉄道の建設に投入された。網走と旭川を結ぶ中央道路の工事はその代表で、鎖でつながれ、足に鉄丸をつけられたまま作業させられた者がいた。死んだ者はその場に埋められ、鎖をつけたまま土をかけられたという伝承から、後年になって「鎖塚」という言葉が生まれている。囚人労働そのものは1894年ごろを最後に廃止された。
あまりに死にすぎたからだ。問題は、廃止されたあと、その労働力の穴を誰が埋めたか、である。埋めたのが民間の請負による土工部屋、通称タコ部屋だった。
1890年の北海道炭礦鉄道の建設あたりから芽が出て、以後、道路・鉄道・港湾・灌漑・ダム・鉱山・飛行場と、北海道のインフラ工事のほぼ全域に広がっていく。制度として法的に禁じられるのは、戦後、1947年に労働基準法が施行されてからだ。半世紀以上、続いた。
集め方は、募集の名を借りた誘拐だった。「ポン引き」と呼ばれる斡旋屋が本州の都市部や港町に出て、いい仕事がある、楽な現場だ、前金を出す、と持ちかける。乗ってきた者に酒を飲ませ、前借金を負わせ、そのまま連絡船に乗せて北へ運ぶ。着いた先が山奥の飯場だとわかっても、前借金に縛られてもう戻れない。この網には、日雇いの人足だけでなく、失業した勤め人や学校を出た者まで、幅広くかかったと記録されている。
飯場は、松丸太を組んだ粗末な平屋だった。採光も通気も足りず、昼でも薄暗く湿っている。1棟に数十人を詰め込み、出入口は施錠され、窓には武者窓と呼ばれる格子が入っていた。当時から「監獄部屋」と呼ばれた、監獄同然の場所だった。
内部には次のような階層がある。頂点に親方、その下に世話役、帳場、そして現場を直接締め上げる棒頭。棒頭は文字どおり棒を持っていた。労働者のあいだにも上飯台・中飯台・下飯台といった非公式の序列がつけられ、新入りは最下層に置かれる。
労働は早朝から夜に及び、1日15時間以上働かされたという記述がある。契約は3か月から6か月、雪で現場が止まる冬以外は休みなしだ。食事は粗末で、副食がほとんどなく、立ったまま食べさせられた。しかも飲食費は賃金から天引きされる。前借金の利息と合わせて契約期間が終わっても手元にはほとんど何も残らず、また次の現場に送られる。
体調を崩す者が続出した。脚気と結核が飯場を巡回するように流行した。栄養不良と、閉め切った不衛生な空間の合わせ技だ。倒れれば、治療されない。動けない人間は費用でしかないからだ。
逃げようとする者はいた。捕まった者への制裁は、見せしめとして公開で行われた。裸で縛り上げて棒で殴る。縛ったまま外に放置して、夏なら蚊とアブに任せる。北海道の夏の虫の量を知っている人なら、これがどれほどの拷問かわかると思う。
官憲が巡回に来るタイミングで、わざと事件を起こす者がいたという記録が残っている。刑務所に送られたほうがましだからだ。監獄部屋から出るために、監獄に入りたがった。この一文が、制度の性質を全部言い切っていると思う。常紋トンネルは、この制度が最も剥き出しだった時期の、最も条件の悪い現場のひとつだった。
「見せしめに壁へ塗り込めた」という言い伝え
そこで、人柱の話になる。地元と、当時の労働者と、その周辺に伝わっていた話はこうだ。監督や棒頭の指示に従わなかった者、あるいは病んで使い物にならなくなった者を、スコップなどで殴り殺し、トンネルの側壁の中に立てた姿のまま塗り込めた。残った者への見せしめが目的で、工事の安全祈願とは違う話だった――。
この伝説の「人柱」は、日本の各地に伝わる伝統的な人柱伝説とは動機の構造が違う。橋が流される、堤が切れる、城の石垣が崩れる、だから神に人を捧げる。そういう呪術的な意味づけが古典的な人柱にはある。常紋のそれは、神様が一切出てこない。ただの暴力と、労務管理の一環としての恐怖政治だ。
だから正確に言えば、常紋の話は「人柱伝説」の顔をした「労働災害と暴力の記憶」なのだ。呼び名だけが伝統的な語彙を借りている。そして、この伝説は長いあいだ、伝説のまま扱われてきた。
証拠がなかったからだ。工事関係者が高齢化して口を開き始めても、記録がない以上、確かめようがない。国鉄の職員のあいだで「あそこはタコの祟りだ」と囁かれ、地元では「あの山には骨が埋まっている」と言われ、けれど公式には何もなかった。そこに、地震が来る。
1959年、地蔵の裏を掘ったら、2日で49人分出た
順番として、地震の前に押さえておくべき出来事がある。戦後、常紋トンネルでは原因のはっきりしない急停車がしばしば起き、乗務員は嫌がっていた。信号場に詰める職員や家族に病人や不幸が続いた、という話も出る。これが「タコの祟り」と呼ばれるようになる。
国鉄の中湧別保線区は、当時の町長の協力を得て、慰霊のための地蔵を作ることにした。1959年、昭和34年のことだ。場所は常紋トンネルから留辺蘂側へおよそ1キロ入ったところ。
地蔵には歓和地蔵尊という名がつけられた。歓和。争いを解いて和らげる、という意味を込めたのだと思う。問題はこのあとだ。
地蔵を据えるにあたって、その裏手の空き地を掘った。すると、骨が出た。ひとつやふたつではない。掘った当事者の話として、2日間で49人分の遺骨が出たと伝えられている。
その後も掘り出しは続き、これまでにおよそ50体分が、国鉄職員とその家族らの手で掘り出されたとされる。地蔵を立てるために掘ったら、そこが墓場だった。しかも、誰の墓なのかわからない。
このあたりでは、それ以前から、山菜採りに入った住民が草むらで白骨につまずく、穴に落ちたらそこに骨があった、といった話が絶えなかった。頭蓋骨や手足の骨が地表近くに散らばっていたのだ。土に還りきる前の、まだ形のわかる骨が。
実際に骨が転がっていた土地で、「幽霊が出る」という噂は絶えなかった。この順番は大事だと思う。怪談が先にあって骨が発見されたのではない。骨が先にあって、それを説明する言葉として怪談が育った。
以後、この地蔵の前では毎年6月に供養祭が営まれるようになった。6月24日という記述もある。国鉄の職員とその家族が、誰の骨かもわからない骨を、それでも毎年拝みに行く。60年以上続いている行事だ。
1968年5月16日、午前9時48分
十勝沖地震。気象庁マグニチュード7.9、モーメントマグニチュードで8.2。震源は青森県の東方沖で、十勝沖という名前の印象とは離れている。のちに三陸沖北部の地震に分類し直されている。
死者52人、負傷者330人あまり。被害は青森県に集中し、建物の全壊は600棟を超えた。北海道側でも道東と道南で被害が出て、河川堤防が各所でやられたという。震源から遠く離れた北見の山中で、この地震はひとつの壁にひびを入れた。常紋トンネルの側壁だ。
大正3年に積まれたレンガである。50年以上、蒸気機関車の煤と煙と水分を吸い続けた壁だ。地震の揺れで一部が損傷し、国鉄は改修工事を計画した。この工事が本格的に動き出すのが、地震から2年後の1970年になる。
なぜ2年かかったのかは、資料からははっきりしない。単線の幹線を止めずに直す段取りの問題だったのだろうと思う。ともかく、地震が壁を割ってから、人がその壁の中を覗くまでに、2年の間があった。
1970年9月10日の朝、足の骨が落ちてきた
その朝のことを、できるだけ即物的に書く。作業は、常紋の坑口から数えて3つ目の待避所を拡げるところに来ていた。待避所というのは、トンネルの側壁に一定間隔でくぼみを設けたもので、列車が来たときに保線の人間が身を寄せて逃げるための空間だ。
日本中のトンネルにある。要するに、人が命を守るために立つための穴だ。その穴を拡げるために、レンガをはがしていった。すると、骨が落ちた。
最初に見つかったのは足の骨だったという。壁から落ちてきたと思われる骨。作業員は手を止めた。そこからさらにレンガの奥を探ると、頭蓋骨が出てきた。
出てきた位置は、レンガ壁からおよそ60センチ奥。そこに玉砂利が詰められていて、その中に人骨があった。しかも横たわっていたのではない。立ったままの姿勢で埋まっていた。
その頭蓋骨には損傷があった。打撲によるとみられる痕が残っていたと報じられている。――ここで、はっきりさせておきたいことがある。
この瞬間まで、常紋の人柱は「言い伝え」だった。国鉄の乗務員が飲み屋で語る与太話、地元の年寄りが子どもに聞かせる怖い話、その程度の位置づけだった。それを物理的な事実の側へ引き寄せたのが、レンガの奥60センチの玉砂利から現れた頭蓋骨だ。
言い伝えと遺骨の発見が、ここで重なる。壁に人が埋まっているという話が、現実味を帯びた。壁の中に人が立っていた。頭に損傷を残して。60年近く、走る列車の音を聞きながら。
事件はマスメディアによって全国的に報じられた。そして報道を見た人々が動き出す。かつて同じ現場で働いていた老人たち、その周辺に住んでいた人たち。彼らがそれまで語ることをためらっていた話を、語り始めた。伝承が事実として広く共有される回路が、このときようやく開いた。
骨は、トンネルの外にもあった
発見は、トンネル内にとどまらない。考えてみれば当たり前で、死んだのはトンネルを掘っていた者だけではない。トンネルまでの取り付け道路を作る段階でも、資材を運ぶ段階でも、人は死んでいる。だから調査はトンネルの外にも及んだ。
周辺の山林に、不自然な窪地がいくつもあった。掘ってみると、10体分の遺骨が出た。こちらは穴に投げ込まれ、土をかけられた形だ。
壁に塗り込められた者もいた。穴に放り込まれた者もいた。どちらも同じ種類の処理だ。
出土した遺骨は、留辺蘂町の共同墓地内に設けられた「常紋トンネル殉職者之墓」に納骨された。改葬である。工事から半世紀以上を経て、ようやく墓に入った。
このときの発掘に参加した人の言葉が伝わっている。目の前には、長い年月で茶褐色に変わり果てた骨があった。「無名の労働者の怒りや無念が迫ってきて、目を背けることができなかった」と、その人は語る。
証言をいくつか、そのまま読んでほしい
ここからは、語られてきた体験談を、いくつか独立させて置く。いずれも公表されているのは人物の属性までで、実名はわからない。それでも、聞くべきものだと思う。
ひとつめは、人骨が出たあと報道や聞き取りに応じた、ある保線区員の言葉だ。常紋の現場を日常的に歩いていた彼は、こう言っている。「みんなが『人柱』だといってました」。「ほかにも埋まってる可能性があると思います」。この短い二文が、僕には妙に重い。
誰か一人の奇談と違い、現場で共有された常識だったことが「みんなが」という言葉からうかがえる。後半では、壁の裏を職業として一番よく知る保線のプロが、まだ埋まっていると思う、と言っている。500メートルのうち掘り返されたのは一部の待避所周辺だけだ。残りを誰も見ていないという言葉は、怪談の恐ろしさ以上に事実の未完了さを突きつける。
ふたつめは、機関士たちのあいだで受け継がれてきた話だ。冒頭の血だらけの男の目撃は、一人の一回きりの体験を超え、複数の乗務員の口を経て伝わっている。ある機関士は坑口の前で一度、トンネルの中でもう一度男を見た。急停止して確認しても誰もいないのに、走り出すとまた立っている。それを繰り返すうちに、トンネルに向かうこと自体ができなくなった。
「もう走りたくない」と言い続けた彼のダメージは、恐怖以上に職業的な無力感に近い。列車を止めればダイヤが全線に響くと知りながら、止めて確認し、何もないと確かめても、また止めた。真面目な人間ほど壊れるやり方で追い詰められている。乗務員のあいだで「常紋は嫌だ」と言われ続けた理由には、心霊よりもこの構造の怖さがあったと思う。
みっつめは、峠のてっぺんの常紋信号場に勤めた職員と家族の話だ。周りは鉄道官舎が数戸あるだけの山で、買い物にも学校にも簡単には行けない。冬は雪に埋まり、子どもは金華の小学校まで通っていた。
そういう場所で夜勤に入ると、火の玉を見た、信号が理由もなく消えた、という申告が出る。誰かが戸を叩く音がする。機器が理由もなく不調になる。
職員や家族に病気が続き、事故が絶えないと言われた。これらはまとめて「タコの祟り」と呼ばれ、常紋への配属を嫌がる空気が長く続いた。極端な閉鎖環境と孤立、慢性的な睡眠不足、足元に骨が埋まるという知識の3つが揃えば、人は普通に参る。祟りという説明の仕方が正しいとは思わない。でも、彼らが本当に苦しかったこと自体は、疑う理由がひとつもない。
よっつめは、タケノコやウド、フキの豊かな山へ入った地元住民の体験だ。ある人は草むらで足を取られ、人の頭蓋骨を見つけた。またある人は、地面の窪みに落ちて白骨を見た。山を下りる中年の女性が、足首を掴まれたと語る話も伝わっている。真っ黒な骸骨の手だった、と。
この最後のものは明らかに怪談の形式を持っていて、そのまま事実として扱うことはできない。ただ、前の二つ――つまずいた、落ちたら骨があった――のほうは怪談ですらない。ただの発見報告だ。そういう報告が普通に上がる土地だったから、1959年に地蔵が立てられ、その裏を掘ったら49人分出た。順序をもう一度確認しておきたい。
いつつめは、1970年以降の発掘調査に参加した人たちの証言だ。地元の教師や高校生、市民が加わって進んだ掘りおこしは、行政主導のものではなかった。専門の考古学者ばかりでない「調査関係者」が、スコップを手に山へ向かう。普通の人が、名前のわからない人の骨を掘った。湿った土で茶褐色に変色し、原形をとどめていないものも多かったという。
その場にいた人は、「無名の労働者の怒りや無念が迫ってきて、目を背けることができなかった」と語った。怒りや無念は主観で、骨は何も言わない。それでも、掘った人がそう感じたことは記録された。この記録の仕方が、僕はこの一件でいちばん誠実な部分だと思っている。
掘りおこしという運動が、この話を怪談から歴史へ引き上げた
ここで一人の人物を紹介しなければならない。小池喜孝。1916年生まれ。青山師範学校を出て小学校の教員になり、1948年にGHQによって教職を追われている。
出版社勤めを経て北海道へ渡り、1953年に北見北斗高校へ社会科教師として赴任した。その後、美幌高校、北見工業高校で教壇に立ち、1978年に定年退職している。2003年、87歳で没。彼は北海道で、授業にとどまらず土を掘る活動に踏み込んだ。
1971年から「オホーツク民衆史講座」を始める。前史となる「北見歴史を語る会」を含めれば1960年代後半からの動きだ。教科書に載らない地域の歴史を、地域の人間が自分で調べる活動だった。囚人労働による中央道路開削や、常紋のタコ労働の犠牲者も、その対象だ。
置戸鉱山やイトムカ鉱山での朝鮮人・中国人の強制労働も対象だった。道内に収監された自由民権運動家、足尾鉱毒事件で栃木から佐呂間に移住させられた人々もいる。そういう対象を、ひとつずつ聞き取り、掘り、書いた。
小池には写真の相棒がいた。佐藤毅。小池が聞き取りのメモを取り、佐藤が写真で記録する。二人三脚で運動を進めた。1977年には佐藤の手による『写真集 鎖塚・常紋トンネル』が、オホーツク民衆史講座から出ている。
小池の著作を年代順に並べると、この土地の記憶が公になっていく過程がそのまま見える。1973年に『鎖塚 自由民権と囚人労働の記録』、1977年に『常紋トンネル 北辺に斃れたタコ労働者の碑』を出した。これは朝日新聞社から出て、1991年に朝日文庫に入った。1979年には脱走兵の告白を扱った『雪の墓標』。
1982年、子ども向けに書き下ろした『北海道の夜明け 常紋トンネルを掘る』が国土社から出る。翌1983年には、青少年読書感想文全国コンクールの課題図書になった。課題図書、というのがすごい。全国の子どもが、常紋トンネルの壁の中の話を、読書感想文の宿題として読んだのだ。
『常紋トンネル』の目次構成も示唆的で、最初の章のいちばん最初が「幽霊が出るトンネル」から始まっている。歴史の本が怪談から書き起こされ、次に「人間の生き埋め」が来て、そこから工事の困難、資本の進出へと話が広がっていく。第二部でタコ労働の実態、第三部で掘りおこしの記録。小池は、怪談を入口にして人を招き入れ、奥の部屋で制度の話をする、という構成を取った。これは戦略として相当うまい。
この運動は北海道全域に広がった。各地で遺骨の発掘と供養、民衆碑の建立が行われた。歴史学の側からも色川大吉や遠山茂樹といった名前が評価に加わり、70年代後半から80年代にかけて、全国的なブームと呼べる規模になっていく。
この運動の歴史観そのものを批判する声もある。囚人やタコ部屋労働者を悲劇の主人公として据え、開拓功労者の側の評価を相対的に低くしたのではないか、という指摘だ。無縁墓を掘り返すことが歴史運動とされたことへの疑問も出されている。
この論争にここで決着をつけるつもりはない。ただ、常紋の発掘について言えば、掘らなければ骨は骨のまま山に残り、名前も工事も忘れられていた、というのは動かない。評価が分かれるのは運動全体の方法論であって、常紋で骨が出たこと自体ではない。
1980年11月、峠を見下ろす高台に
人骨の発見から10年。1980年、昭和55年の11月、留辺蘂町と追悼碑建立期成会によって、「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」が建てられた。場所は金華信号場の西方にある高台。
かつて金華小学校があった敷地だ。碑は、石北本線を見下ろす向きに据えられている。列車の窓からも見える。
碑には由来が刻まれている。北海道開拓の歴史から葬られてきた人びとの功績を、末永く後世に伝える――そういう趣旨の文言だ。「葬られてきた」という言い方が的確だと思う。この言葉は、人とともに葬られていた歴史を指している。
碑の造形についても触れておく。トンネルの内壁のレンガの奥に、人柱として立ったまま埋められた労働者の姿をかたどっている。決して穏やかな表情ではない、と現地を訪れた人は書いている。遺族が救われるようにと、慰霊碑はたいてい安らかな顔をしているものだ。常紋の碑は、そうしなかった。
建立にあたって地元に反対の声があったことも記録に残っている。町の名前に暗い話が結びつくのを嫌う気持ちは、正直、想像できなくもない。それでも建った。そして1983年には、期成会の編で『トンネルの壁のなかから 常紋トンネル工事殉難者追悼碑完成記念誌』がまとめられている。
碑とは別に、留辺蘂町の共同墓地には「常紋トンネル殉職者之墓」がある。掘り出された骨が納められた場所だ。そして歓和地蔵尊の前では、いまも毎年6月に供養祭が続いている。
本当に「人柱」だったのか、真面目に検証する
ここは慎重にやる。日本の人柱伝説は、数だけなら大量にある。堤防にまつわるものが130例あまり、橋が26例、築城が13例といった集計がある。『日本書紀』の茨田堤の話、松江大橋の源助柱の話。どれも有名だが、考古学的に「人柱が確認された」と認められる例は驚くほど少ない。
有名なのが江戸城の伏見櫓だ。1925年の修復工事で21体の人骨が出て、当初は人柱だと報じられた。ところが東京帝国大学の黒板勝美が、埋葬の仕方が粗雑で、しかも数が多すぎるという理由から「人柱とは考えられない」と結論を出した。今日では、慶長期の築城以前に城内にあった寺院の墓地の骨だろうというのが通説になっている。
城郭研究の側では、井上宗和が「城郭建築時の人柱伝説が立証されたケースは全くない」とまで言い切っている。一方で小和田哲男は、城館跡から呪術的な意味で埋められた人形が多く出土していることを挙げ、そうした人形の風習が人柱伝説の元になった可能性を指摘している。人の代わりに人形を埋めた、という順序だ。
つまり、日本の人柱伝説の大半は、伝説である。これは冷たい言い方に聞こえるかもしれないが、学術的にはかなり堅い結論だ。では、常紋はどうか。
僕の見立てはこうだ。常紋を古典的な意味での「人柱」と呼ぶのは、たぶん正確ではない。同時に、常紋で起きたことは古典的な人柱よりもっと悪い。
理由のひとつは、古典的な人柱には宗教的な動機があることだ。神を鎮め、災いを避け、工事を成功させようとする。だから人柱は選ばれ、儀礼を伴い、しばしば名前が残る。源助という名前が伝わるように、犠牲者が共同体の中で意味づけられている。
常紋に、それは一切ない。伝えられている動機は「見せしめ」だ。その行為が向けられた相手は、神よりも生き残った労働者だった。儀礼はなく、名前は残っていない。
次に見るのは、60センチ奥の玉砂利の中に、頭蓋骨に打撲痕のある人が立った姿勢で埋まっていた、という物理的な状況だ。そこからは「工事の途中で死んだ人間を、その場で壁の空隙に押し込んで塞いだ」という解釈が、最も無理なく導ける。トンネルの側壁は、レンガの内側に裏込めの砂利を入れる構造になっている。その空隙に詰めた、という読み方だ。
ここには慎重な留保も置く。頭蓋骨の打撲痕には殴打のほか、埋設後の岩や砂利の重み、工事中の落盤事故という可能性がある。当時の報道段階で厳密に鑑定し分けられた形跡は、公開資料から確認できない。「打撲痕があった」と繰り返し記されても、法医学的所見の範囲ははっきりしない。「殴り殺されたことが科学的に立証された」と書くのは、行き過ぎだ。
同じく、「生きたまま塗り込めた」という部分も、骨からは証明できない。生前か死後かは、骨だけでは判定が極めて難しい。では何が確実に言えるか。
労働者の遺体が、トンネルの構造体の中に、正規の埋葬手続きを一切経ずに遺棄されていた。これは確実だ。骨が出たのだから。
さらに、周辺の山林の窪地から10体、地蔵の裏から約50体。合わせれば60体分の人骨が、記録も墓標もない状態で地中にあった。これも確実だ。
この二つが確実である以上、「工事中に死んだ人間を、まともに弔わずに処理する慣行が、この現場に存在した」ということも、ほぼ確実になる。ひとりやふたりの逸脱ではない。60体は、慣行の規模だ。
そこまで確定したうえで、「殴り殺して見せしめに立てた」という伝承が正しいかどうかは、最後まで宙に浮く。でも、こう考えてほしい。労働者を殺してその場に埋める慣行がある現場と、殺さずに埋める現場の差は、実務上ほとんどない。逃亡者を虫に食わせる拷問が公然と行われていた現場で、殴打による死が起きなかったと考えるほうが、むしろ不自然だ。
結論。常紋は「人柱伝説が実証された珍しい例」ではない。「人柱伝説という古い器を借りて語られてきた、労務犯罪の記憶が、部分的に物証にたどり着いた例」だ。器の形は伝統的だが、中身は近代の産業犯罪である。
なぜ、この話は怪談の形でしか残らなかったのか
ここが本題だと思っている。労働者が100人以上死んだ。にもかかわらず、公式の記録がひとつもない。この記録の欠落を、僕は制度の設計と見ている。
タコ部屋の労働者は、そもそも戸籍上の所在が曖昧なまま連れてこられた者が多い。前借金で縛られ、家族に連絡が取れない者もいる。死んでも探す人間がいない。
それを見越して集められている。記録を残さないことが、この制度の安全装置だったのだ。記録がなければ、責任も発生しない。責任が発生しなければ、補償も裁判も起きない。公式の歴史からは、この100人の姿が見えなくなる。
でも、同じ飯場で寝ていた仲間の記憶からは消えなかった。あいつは殴られ、あいつは壁に入れられ、あいつは沢に埋められたという場面を、彼らは見ていた。文字を書けない者も多く、書けても発表する媒体はない。訴える先もない。訴えれば次の現場で自分が殴られるのだ。
そういう人間が記憶を保存しようとするとき、使える形式はひとつしかない。口で語ることだ。口で語る記憶には、生き延びるための条件がある。おもしろくなければ、次の人に伝わらない。ここで怪談という形式が入ってくる。
「大正3年の常紋隧道工事で、劣悪な労務環境により多数の死者が出た」という文は、誰も次の人に伝えない。退屈だからだ。「雨の日にあのトンネルを通ると、腹減った、飯をくれ、という声がする」という文は、伝わる。夜、酒の席で、あるいは子どもを寝かしつけるときに、必ず誰かが誰かに話す。
つまり怪談は、記録を持てない人間が記憶を運ぶための、唯一の運搬船だった。統計にも公文書にもならないものが、幽霊という形で60年間、峠の上を漂う。そして地震が壁を割り、レンガの奥から頭蓋骨が出てきたときに、その船はようやく港に着いた。荷物は本物だった。
この構造は、常紋だけのものではないと思う。日本中の心霊スポットのうち何割かは、たぶん似た性質を持っている。忘れられたら困る何かがあった場所に、怪談が居座って、看板の代わりをしている。看板が朽ちても怪談は残る。怪談には維持費がかからないからだ。
ただし、この運搬船には欠点がある。積荷が変質する。100年運ぶあいだに、飢えて死んだ労働者の記憶は、「出る場所」「肝試しのスポット」「Sランク心霊スポット」へと変わっていった。今日、常紋トンネルの名前を検索すると、出てくるのは大半がその手の情報だ。壁のガラスが石で割られていた、悪質ないたずらがある、といった記録が現地には残っている。
記憶を守るために怪談が必要だった。その怪談が、いまは記憶を薄めている。皮肉な話だ。
だから、行かないでほしい
この記事の中で、いちばんはっきり書いておきたいのがこれだ。常紋信号場は、2017年3月4日をもって正式に廃止された。1914年10月5日の開業から、102年半で役目を終えている。
もともとは、急勾配で発車できない列車のためのスイッチバック式の交換設備だった。側線が3本あり、分岐部分は巨大なスノーシェルターで覆われていた。1950年代前半からは仮乗降場扱いで旅客も乗降できた時期がある。1970年代のSLブームには、撮影のために多くの鉄道ファンが訪れた。
だが1975年ごろに旅客扱いが終わり、2001年7月1日のダイヤ改正で列車交換が停止され、以後は閉塞の境界としてだけ生き延び、そして廃止に至る。信号場は廃止された。けれど、線路は現役だ。
常紋トンネルはいまも石北本線の本線で、特急も貨物も走る現役の線路だ。トンネルに入る行為は、営業中の単線の線路上に立つことを意味する。しかも全長507メートルがカーブしていて、坑口から反対側は見えない。列車が来ても、見えたときにはもう手遅れになる。
そして鉄道用地は立入禁止だ。線路内立入は法令違反であり、同時に、自分と、列車に乗っている数百人と、乗務員の人生を賭けた行為になる。運転士に人影を発見させるということが何を意味するか、この記事をここまで読んだ人ならわかると思う。100年前に壁の前に立たされた人と、あなたが線路に立って運転士に見せる人影は、機関士にとって同じ重さで乗ってくる。
信号場跡へ向かう林道についても、時期によって閉鎖されていたり、ゲートが設けられていたりする。周辺は完全なヒグマの生息域で、実際に現地を訪れた人が蛇や熊の痕跡を報告している。人家はない。携帯電話が通じる保証もない。
だから、行かないでほしい。心霊スポットとして煽るつもりは、この記事には最初からない。その代わりに、行っていい場所がある。
常紋トンネル工事殉難者追悼碑だ。金華の高台、かつての小学校の跡地に建っていて、国道沿いの階段を登れば行ける。石北本線を見下ろす位置にある。手を合わせるために作られた碑なのだから、訪れるならそこだ。
そしていちばん確実で、いちばん安全な方法がある。列車に乗ることだ。旭川と網走を結ぶ特急に乗って、生田原を出て、右へ左へカーブしながら坂を登り、スノーシェルターをくぐって、常紋トンネルに入る。20秒で抜ける。その20秒のあいだ、窓の外は真っ暗だ。
その暗闇の向こう側、レンガと砂利の奥に、名前のわからない人がいる。あるいは、まだいる。それを知っている状態でその20秒を過ごすことが、この土地に対してできる、いちばんまともな態度だと思う。
名前のない死は、なぜ百年も消えなかったのか
ここからは総括と、本編に収めきれなかった論点を書く。書きながらずっと引っかかっていたことがいくつかあるので、順番に開いていきたい。まず、この話を「実証された人柱伝説」として消費することの危うさについて。ネット上でこの件を扱う記事の多くは、「伝説だと思われていたものが本当だった」という一行に収束していく。
話としてはきれいだ。オチがある。でも、そのきれいさが何を隠すかというと、常紋で起きたことの本質が、神事を連想させる「人柱」の裏に隠れた「労務犯罪」だったという点だ。人柱という言葉は、どうしても神事や呪術の香りを引きずる。
運命的で、荘厳で、どこか納得のいく死のイメージがある。ところが常紋の壁の中にいた人は、神に捧げられていない。誰も彼を選んでいない。彼は、脚気で倒れて働けなくなっただけかもしれない。指示に逆らっただけかもしれない。
そこには物語がなく、ただ処理があった。人柱という語を使うたびに、その「物語のなさ」に物語が上塗りされる。だから僕は本編で、器と中身を分けて書いた。伝説の器はたしかに人柱の形をしている。でも中身は、明治から昭和にかけて日本の産業が黙認していた、記録を残さない労働の帰結だ。
次に、数字の扱いについて。この件では「100人を超える」「百数十人」「数百体」といった数字が、資料によってばらつく。実際に出土して収容が確認できているのは、地蔵の裏からのおよそ50体分と、山林の窪地からの10体、そしてトンネル内壁からの発見分だ。合計は60体台になるのに、一部では「数百体」という表現も見られる。僕はこの記事で、確認できる数字と伝承の数字を意識的に分けて書いた。
ここを混ぜると、話が一気に信用を失う。逆に言うと、確認できる60体台という数字だけでも、この現場は十分すぎるほど異常だ。60人分の骨が、名簿も墓標もないまま同じ峠から出てくる。これを「怪談」として片づけられる社会のほうが、よほど怪談だと思う。
三つめに引っかかるのは、発見が1970年だったという時間の問題だ。地震が壁を割った1968年5月16日から、骨が出た1970年9月10日までは、2年ちょっとの間がある。この間隔がずっと気になっている。壁が損傷したまま列車を通し続け、順番が来て改修に着手したら中から人が出てきた。もし1968年の時点で全面改修が入っていたら、発見はもっと早かったかもしれない。
逆に、地震がなければ、壁はそのまま何十年も立っていたはずだ。常紋の骨は、たまたま三陸沖のプレートが動いたおかげで見つかった。この偶然性は、他のトンネルや堤防や埋立地に何が入っているかを誰も知らない、という未知の領域を映してもいる。北海道のタコ部屋労働が関わった工事は、常紋のほかにも狩勝トンネル、雨竜のダム、各地の飛行場とある。そのすべてに地震が来て壁が割れたわけではない。
四つめ。怪談の記録者たちについて。常紋の怪異譚が今日まとまった形で読めるのは、何人かの書き手が拾ったからだ。歴史の側からは小池喜孝が『常紋トンネル』の冒頭に「幽霊が出るトンネル」の章を置いた。怪談の側からは、合田一道が1988年に幻洋社から出した『北海道こわいこわい物語』のような本が、道内の伝承を集める仕事をしている。
近年では朝里樹が、機関車の前に立つ血だらけの男や、雨の日の「腹減った」の声を整理して紹介した。常紋駅長官舎の幽霊、信号場の火の玉という話もある。昼近くにドンドンと音がする「ドンドン小屋」のような細部まで拾っている。
この最後の「ドンドン小屋」が僕は妙に好きで、怪異の名前としてあまりに素朴だからだ。音がするから、ドンドン小屋。名づけの手つきに、その土地で実際に働いていた人の呼吸が残っている。
作家が考えた名前ではない。現場の人間がつけた名前だ。こういうディテールが残っているかどうかで、怪談の信憑性はかなり判定できると思っている。
五つめは、この怪談における「音」の比重だ。常紋の怪異には声やうめき、ドンドンという響き、汽笛、戸を叩く音と、視覚より聴覚の話が多い。理由はたぶん、全長507メートルがカーブし、内壁をレンガで覆ったトンネルの構造にある。蒸気機関車のドラフトや汽笛、車輪のきしみが壁で何度も反射し、原音とずれて戻ってくる。運転台は煙で視界がきかない。
視覚が奪われ、聴覚だけが過剰に働く環境が、構造的に作られている。人間の脳は、そういう状況で必ずパターンを見つける。無意味な反響音の中に、声を聞く。
これは心霊否定の材料に使えるけれど、僕はそう使いたくない。むしろ逆で、このトンネルは物理的に「声が聞こえる」ようにできていた、そこに骨が本当に埋まっていた、という二重性が面白い。反響という物理現象が、記憶を運ぶ装置として機能してしまった。壁が音を返し、その壁の中に人がいた。偶然にしては出来すぎている。
六つめに、掘りおこし運動の功罪へもう少しだけ踏み込んでおきたい。小池喜孝が始めたオホーツク民衆史講座は、常紋の骨を歴史の側へ引き渡した最大の功労者だ。同時に、無縁墓を掘り返すこと自体を歴史運動と位置づけた点には批判もある。囚人やタコ部屋労働者を悲劇の主人公として構図化し、開拓功労者の評価と釣り合いを欠いたという指摘も出されている。
僕はこの論争の当事者ではないので判定はしない。ただ、方法論への批判と、出土した骨の事実性への批判は、まったく別のものだ。ここを混ぜてはいけない。骨は運動が作ったものではない。運動が始まる前に地震が壁を割り、改修工事の作業員がレンガをはがすと、骨はそこにあった。
七つめに、碑の顔を見たい。常紋トンネル工事殉難者追悼碑は、レンガの奥に立ったまま埋められた労働者をかたどり、訪れた人は穏やかな表情でないと口を揃える。慰霊碑としては異例だ。普通は遺された側が安心できるよう、安らかであってほしい、成仏してほしいという願いを形にする。常紋の碑はそれを拒んでいる。
あれは、鎮めることよりも忘れさせないことを目的とした碑だ。しかも石北本線を見下ろす向きに据えられている。線路を、列車を、そして今も走っている鉄道そのものを、あの顔が見下ろし続けている。建立に反対の声があったという記録を思うと、この向きと表情を通した人たちの意志の強さがわかる。
八つめ。現在の常紋について。信号場は2017年に廃止され、地名としての常紋を今に伝えているのは、事実上トンネルだけになった。かつてあった官舎も、集落も、学校も、もうない。
金華駅も信号場になった。特急も貨物も、変わらず峠を越えていく。坑門は改修されてコンクリートになり、大正3年のレンガの顔はもう外からは見えない。中の壁はどうなのか、僕は確かめていないし、確かめるつもりもない。あそこは営業中の線路の中だ。
あの保線区員の言葉に戻る。「ほかにも埋まってる可能性があると思います」。この一文が、常紋の話をいつまでも終わらせない。
掘り返されたのは待避所の周辺と、地蔵の裏と、山林の窪地の一部だけだ。全長507メートルのトンネルの、側壁の裏込めの砂利のなかに、あと何人いるのか、誰も知らない。そして知る必要が今のところ発生していない。次に大きな地震が来て、壁がもう一度割れるまでは。
最後に、この記事を書きながらずっと考えていたことを書いて終わりにする。怪談というジャンルは、基本的に消費されるものだ。娯楽だから、読んでぞっとして忘れれば、それでいい。でも、ときどき、消費しきれない話が混ざる。読んだあとに残ってしまう常紋は、そういう話だと思う。
理由は、この話に「誰か」がいないからだ。加害者の名前がない。被害者の名前もない。請負の会社名も、棒頭の顔も、殴った人間の動機も、殴られた人間の故郷も、何ひとつわからない。わかっているのは、レンガの奥60センチの玉砂利のなかに、立った姿勢の骨があったことだけだ。
名前がない死は、怖い。祟るからではない。誰も引き受けないからだ。
100年前、この峠で死んだ人は、誰かの息子で、誰かの兄で、たぶん誰かの父親だった。本州のどこかの町から、いい仕事があると船に乗り、気がつけば山の上にいる。腹は、ずっと減っていた。最後に壁の中に立たされる。その人の名前を、いま地球上の誰も知らない。
その状態を100年放置しないために、機関士は血だらけの男を見て、住民は骨につまずき、教師は生徒を連れて山を掘った。町は碑を建て、いまも6月に地蔵の前で線香が焚かれている。怪談は、その連鎖のいちばん最初にあった。ぞっとする話として語られたからこそ、誰も忘れずに済んだ。
だから常紋の幽霊は、脅かしに来ているんじゃないと思う。ただ、まだ名前を返してもらっていないだけだ。そのことだけ覚えて帰ってもらえたら、この記事は役目を果たしたことになる。線路には、絶対に入らないでください。あそこは、いまも現役の道です。
