奇怪千万からのお願い

このサイトの記事が面白かった、役に立ったと思って頂けたら、一つお願いがございます。
Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入って頂いて買い物をしていただくと
サーバーの運営費と心霊スポットやパワースポットの取材費になります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。
貴方様の支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。
記事をもっとたくさん増やしたいので、ご協力をお願いします。

当サイトではアマゾンアソシエイト以外のアフィリエイトは使用しません
(記事が見づらくなるから・・・)

劇場でその名を呼んではならない――四百年生き延びた『マクベス』の呪いと、二十三人が死んだ夜

劇場という場所には、妙な話がやたらと多い。幽霊が出るとか、開演前に必ず一本だけ灯りを残すとか。だがその中で、四百年近く生き延びて、いまも世界中の劇場でガチで守られている禁忌がひとつある。

シェイクスピアの『マクベス』。その題名を、劇場の中で口にしてはいけない。

冗談みたいな話に聞こえるかもしれない。でもロンドンでもニューヨークでもシドニーでも、舞台の仕事をしている人間の前でうっかりあの四文字を言うと、周りの空気がすっと変わる。ベテランの俳優が真顔で「外に出ろ」と言う。稽古が止まる。実際に止まる。信じているかどうかは別として、みんなその作法に従う。これは信仰というより、業界の礼儀に近い。ここではその礼儀がどんなもので、どこから来て、なぜ死ななかったのかを、端から端まで見ていく。

まず、何を言ってはいけないのか

禁じられているのは、劇場という建物の中で、上演中でも稽古中でもないときに、あの題名を声に出すこと。台本にあるから言うぶんには構わない。舞台上でマクベス役がマクベス夫人を呼ぶのは当然セーフだ。問題は、楽屋で、ロビーで、客席で、雑談の流れで「そういえばマクベスがさ」とやること。これが地雷になる。

厳格な現場だと、題名だけでなく劇中の台詞を引用するのもアウトになる。1904年に出た演劇関係の読み物にはすでに「楽屋でマクベスを引用するな」という戒めが載っている。魔女の呪文のあたりを口ずさむ、というのがいちばんまずいとされる。それから登場人物の名前。マクベス、マクベス夫人、この二つも建物の中では避ける。

だから言い換える。いちばん流通しているのが「あのスコットランドの劇」。舞台がスコットランドだから、それで通じる。「詩人の劇」という言い方もある。イギリスの現場だと「マッカーズ」なんてくだけた略称も使う。登場人物のほうも同じで、マクベスは「スコットランドの領主」あるいは「スコットランド王」、夫人は「スコットランドの奥方」か、もっと短く「奥方M」。役名を書いた香盤表にすら本名を書かない劇団がある。

面白いのは、上演する側がこの言い換えを使い続けることだ。『マクベス』の稽古をしている最中に、演出家が「じゃあ、あのスコットランドの劇の三幕から」と言う。傍から見ると滑稽だが、当人たちはいたって真剣で、そこには自分たちがいま何を扱っているかを忘れないための儀礼めいた緊張がある。

言ってしまったら、どうするか

ここからが本番だ。うっかり口にした人間は、その場で許されない。手順を踏む必要がある。

もっとも標準的とされる作法はこうだ。まず建物の外に出る。中で儀式をやっても意味がない。次に、その場でぐるりと三回まわる。時計回りか反時計回りかは伝承によって割れているが、三回という数だけは動かない。まわったら唾を吐く。左肩越しに、というのが多数派。そして口汚い言葉を吐く。これは「呪う」というより「悪態をつく」ほうで、要は上品でない言葉なら何でもいい。最後に扉をノックして、中の人間に「入っていいか」と許しを請う。招き入れられて初めて、その人間は劇場に戻れる。

つまり、いったん外へ追い出されて、穢れを落として、あらためて招かれる。構造としては禊ぎと祓えで、ヨーロッパの民間信仰にごく普通にある型だ。唾は魔除け。三という数は完結と反転。ノックして許可を得るのは、境界を越え直す手続き。ここまで整っていると、素朴な迷信というより儀礼として設計されている感じがする。

変種もいろいろある。イギリスのある系統では、外に出て三回まわったあと、自分の体を手で払う仕草を加える。埃を落とすように、肩から腕へ。それから題名を三回はっきり口にしてから戻る。禁じられた語をあえて三度唱えて力を抜く、という発想で、こっちのほうが呪術としては古風だ。

もうひとつ、シェイクスピアの別の作品の台詞を唱えて中和する、という流儀がある。これがなかなか凝っている。いちばん効くとされるのが『ハムレット』の、亡霊を見た瞬間の台詞。天使よ、恵みの使いよ、我らを守りたまえ、という意味の一行だ。禁忌を犯して呼び出してしまった何かに対して、真正面から守護を求める形になっている。次点が『真夏の夜の夢』の幕切れ、我ら影法師が気に障ったのなら、と観客に詫びる有名なくだり。役者が観客と劇場そのものに向かって頭を下げる台詞だから、これも理屈が通っている。あとは『ヴェニスの商人』の、良き思いと幸せな時があなたに寄り添いますように、という祝福の一行。

劇場ごとに流儀が違う、という厄介さ

やっかいなのは、この作法が土地と劇団によって微妙に違うことだ。統一された教典がない。だから旅公演で他所の劇場に入ると、自分の劇団の流儀が通じない。

ロンドンの古い劇場だと、外に出て三回まわって唾、で完結する簡素なところが多い。北米の学生劇団や地方のレパートリー劇団になると、やたらと手が込んでくる。三回まわって唾を吐いて悪態をつき、さらに『ハムレット』の一行を唱え、それでもまだ足りずに舞台監督に頭を下げる、という段取りまである。逆に「うちはやらない」と公言している劇団もあって、ただしそういう劇団に限って、団員が本当に困ったときにはこっそり外に出ていたりする。

もっと意地の悪い運用もある。常習犯対策だ。何度も同じ人間がやらかすと、招き入れる側がわざと時間を置く。五分でも十分でも外に立たせておく。これは呪いを祓う手続きというより、単なる罰であり、しつけだ。伝承が集団規律の道具として使われている典型で、劇場という「ミスが命に関わる職場」の性格をよく表している。

例外規定を主張する人もいる。パトリック・スチュワートは、あの役を実際に演じたことのある俳優は、いつどこであの題名を言ってもいいのだ、と語っている。つまり戦場に立った者には免罪符がある、という理屈だ。これが伝承として正式なものかというと怪しいが、大俳優が言うと通ってしまうあたりが、この手の掟のいい加減さと生々しさを同時に示している。

起源説その一――1606年、少年俳優が死んだ

さて、この禁忌はどこから来たのか。いちばん有名な話から行く。

こういう筋書きだ。1606年8月7日、『マクベス』が初めて上演される。当時のイギリスの舞台に女優はいないから、マクベス夫人を演じるのは少年俳優だった。名前はハル・ベリッジ。ところが本番直前、この少年が突然の高熱に倒れて死んでしまう。代役がいない。仕方なく、作者であるシェイクスピア自身が女装して夫人を演じた。以来、この芝居には死がつきまとうようになった。

物語としてはよくできている。初演、少年の死、作者本人の登板。あまりにも収まりがいい。そして収まりがよすぎるものは、たいてい後から作られている。

実際、ハル・ベリッジという俳優は存在しない。当時の劇団員の記録は、研究者たちによってかなり徹底的に洗われている。エドウィン・ナンゲザー、E・K・チェンバーズ、G・E・ベントリー、そして近年ではデイヴィッド・カスマン。誰の一覧にもこの名前は出てこない。カスマンは1593年にリンカンシャーの教区で洗礼を受けたヘンリー・ベレッジという子どもを見つけてはいるが、年齢が合うというだけで、その子が役者になった証拠も、舞台の上で死んだ証拠もない。

では誰がこの話を作ったのか。有力なのは、イギリスの批評家で諷刺家のマックス・ビアボームだ。1898年の劇評の中でこの逸話を披露し、しかも十七世紀の好事家ジョン・オーブリーの記述だと出典を偽装した。オーブリーは当時の文人の噂話を大量に書き残した人物で、彼の名前を出せばそれっぽく響く。だが実際のオーブリーの著作をいくらめくっても、そんな記述は出てこない。要するに、これは書き手の芸として仕込まれた作り話だった。

これが十九世紀末の話だという点が重要になってくる。あとでもう一度戻ってくるが、呪いの「起源」とされる最古の逸話が、じつは呪いの伝承が流行りはじめた時期に書かれた創作だった、という入れ子構造になっている。

ついでに言うと、1606年8月7日に王の前で三本の芝居が上演された記録自体はある。ただ演目名が残っていない。『マクベス』だった可能性は十分あるが、確定できない。この作品の上演を確実に記録した最古の証言は、占星術師で医者のサイモン・フォーマンが1611年4月にグローブ座で観たと書き残したもので、初演から五年も飛んでいる。この空白を「王が気に入らなかったから上演されなかったのだ」と読む人もいるし、単に記録が残らなかっただけと見る人もいる。

起源説その二――魔女が本気で怒った

二番目の説はこうだ。シェイクスピアは劇中の魔女の場面を書くにあたって、実在の魔女集団が使っていた本物の呪文をそのまま流用した。秘儀を舞台の上でばらされた魔女たちは激怒し、この芝居そのものに呪いをかけた。だから上演のたびに人が死ぬ。

これも物語としてはよくできている。そして検証しようがない。本物の呪文かどうかを判定する基準がそもそも存在しないからだ。ただ、この説が生まれた背景には、実際に無視できない事情がある。あの魔女の場面が、当時の観客にとってどれほど生々しかったか、という事情だ。

大鍋に何が投げ込まれたか

第四幕の冒頭、洞窟の真ん中で大鍋が煮えている。三人の魔女が周りをまわりながら、材料を放り込んでいく。二倍だ、二倍だ、苦労も面倒も、火よ燃えろ、鍋よ煮え立て。この反復の合間に並ぶ品目が、じつに具体的で気味が悪い。

まず、石の下で三十一日と昼夜眠って毒を溜め込んだヒキガエル。沼のヘビの切り身。イモリの目玉、カエルの指、コウモリの綿毛、犬の舌。マムシの二股の舌、脚のないトカゲの針、トカゲの脚、フクロウの翼。竜の鱗、狼の牙、魔女のミイラ、人食いザメの胃袋。夜に掘り出したドクニンジンの根。月食の最中に切り取ったイチイの小枝。そして最後のほうに、産み落とされた直後に絞め殺された赤ん坊の指、という一行が来る。溝に捨てられた娼婦の子の指だ、と魔女は続ける。

現代の観客はここで少し身構える程度だが、1606年の観客は違った。この芝居が書かれたイングランドとスコットランドでは、魔女は空想上の存在ではなく、裁判にかけられ、拷問され、絞め殺されて焼かれる実在の犯罪者だった。しかも国王自身が、その第一人者を自任していた。

ジェイムズ王は、スコットランド王ジェイムズ六世だった時代に、デンマークのアンとの結婚のために北海を渡った。その往復の航海が猛烈な時化に遭う。王はこれを魔女の仕業だと確信した。ちょうどデンマーク側で魔女裁判が始まっていたことも影響している。帰国した王は1590年から、東ロージアンのノース・バーウィックを舞台にした大がかりな魔女狩りを主導する。七十人以上が関与を疑われ、百人を超える人間が捕らえられた。

犠牲者の中に、ヒュンビー出身のアグネス・サンプソンという年配の女がいる。彼女は口枷を嵌められ、鉄の爪を口の中に押し込まれた状態で尋問され、五十三件の起訴事実を認めた。認めた末に絞め殺され、焼かれた。プレストンパンズの学校教師ジョン・フィアンは、指を潰す拷問具と脚を砕く木沓にかけられた。若い女中ジリス・ダンカンの自白が、次々に他人を巻き込んでいった。王は裁判の場に自ら出向いて、供述を直に聞いている。

1597年、王は『悪魔学』という本を出す。魔女は実在し、悪魔と契約を交わし、社会を脅かしている、という趣旨の書物を、現役の国王が自分の名前で刊行した。そして1603年にイングランド王位を継いだ翌年、1604年に新しい魔女法を成立させる。スコットランドでは1560年からの百五十年ほどのあいだに、三千人から四千人が魔女として殺されたと推計されている。

こういう時代のど真ん中で、シェイクスピアは魔女三人を舞台に上げた。しかも王の一座、国王付きの劇団として。あの大鍋の場面は、当時の王が本気で信じていた世界そのものを、娯楽として再現したものだった。演じる俳優たちが「これ、まずいんじゃないか」と感じたとしても、まったく不思議はない。魔女が怒った、という説の芯にあるのは、この時代の生々しい肌感覚だと思う。

ちなみに『マクベス』が書かれた1606年は、1605年11月の火薬陰謀事件のすぐ翌年でもある。王を吹き飛ばそうとした計画が発覚したばかりの国で、王殺しの芝居を上演する。しかも劇中の門番の場面には、二枚舌を使って両方の秤で誓う男、という当てこすりが入っていて、これは陰謀に関与したとして処刑されたイエズス会士ヘンリー・ガーネットの「曖昧語法」を指している。この芝居は、初演の時点ですでに政治的に相当きわどい荷物を背負っていた。

起源説その三――潰れかけの劇場が最後に打つ演目

三つ目は、まったく色気のない説明だ。だが、たぶんこれがいちばん当たっている。

『マクベス』はシェイクスピアの悲劇の中で最も短い。四大悲劇の他の作品と比べると上演時間がかなり詰まっていて、休憩を含めても二時間台に収まる。展開が速く、血と幽霊と魔女が出てきて、筋が単純で、誰でも筋を知っている。要するに客が入る。

だから、経営が傾いた劇場が最後の勝負に出るとき、この演目を選んだ。今週の売上がなければ来週の給料が払えない、という状況で、確実に席を埋められる札を切る。そして多くの場合、それでも間に合わなかった。劇場は潰れた。

すると劇場人の目にはこう映る。あそこも『マクベス』をやって畳んだ。ここも『マクベス』の直後に閉まった。因果が逆さまに見える。演目が劇場を殺したのではなく、瀕死の劇場がその演目を選んだのだが、順序は現場の記憶からは抜け落ちる。残るのは「あれをやると劇場が潰れる」という印象だけだ。

演劇史の研究者マーティン・ハリソンは、この作品が「確実に人を呼べる」から選ばれたのだと指摘したうえで、同時に大所帯と大掛かりな仕掛けが必要で費用がかさむ博打でもあった、と付け加えている。安全牌のつもりで切った札が、じつは資金繰りをさらに悪化させる。追い詰められた劇場ほどこの罠にはまりやすい。

もうひとつ、事故が起きやすい構造的理由もある。この芝居は暗い。照明を落とした舞台で、霧や煙を焚き、大量の血糊を使い、そして幕切れに剣戟がある。マクベスとマクダフの決闘は台本上必ず殺し合いで終わるから、どの上演でも刃物を振り回す場面が入る。暗くて、足元が滑って、視界が悪くて、手には剣。事故が起きないほうがおかしい。呪いを持ち出さなくても、労働災害の発生率で説明がついてしまう。

1849年5月10日、アスター・プレイス――芝居が二十三人を殺した夜

呪いの実例として必ず挙がる事件の中で、群を抜いて桁が違うのがこれだ。ニューヨークのど真ん中で、『マクベス』の上演をめぐって二十人以上が撃ち殺された。

発端は、二人の俳優の反目だった。イギリスのウィリアム・チャールズ・マクレディと、アメリカのエドウィン・フォレスト。どちらも当代一のシェイクスピア役者を名乗っていて、どちらも相手のやり方を心底軽蔑していた。マクレディは知的で抑制の効いた話芸の人、フォレストは筋骨隆々で声量で押し切る人。芸風の違いがそのまま人格攻撃に発展した。

決定的だったのが、1846年にフォレストがイギリスを巡演したときの出来事だ。エディンバラでマクレディの舞台を観ていたフォレストが、客席から露骨に野次を飛ばした。マクレディがハムレットの場面でやった仕草が気に入らなかったのだという。イギリスの新聞は激怒し、アメリカの新聞は反撃した。二人の喧嘩は、そのまま旧宗主国と新興国の意地の張り合いに変換された。

1849年、マクレディがアメリカ巡演でニューヨークに入る。会場はアスター・プレイス・オペラハウス。ここが悪かった。この劇場は、上流階級向けに作られていた。ドレスコードがあり、桟敷が並び、下町の労働者が気軽に入れる場所ではない。同じ時期、フォレストは近くのブロードウェイ・シアターで、同じ『マクベス』を上演していた。ぶつけたのだ。

5月7日の夜、マクレディの舞台に、フォレストの支持者たちが大量に紛れ込んだ。開幕と同時に怒号が飛ぶ。イギリス野郎、舞台から降りろ。そして物が飛んできた。腐った卵、じゃがいも、りんご、レモン、靴、悪臭のする液体の入った瓶。しまいには客席の椅子まで引き剥がして投げ込まれた。舞台上の声はまったく届かず、役者たちは最後まで無言劇として演じ切るしかなかった。マクレディは裏口から逃げ、もう二度とアメリカでは演じないと決めた。

ところが、そこで話が終わらなかった。ニューヨークの名士たちが、それでは市の恥だと言って引き止めにかかる。四十七人が署名した嘆願書が届けられた。署名者の中には、作家のワシントン・アーヴィングと、ハーマン・メルヴィルの名前があった。マクレディは折れた。5月10日、もう一度舞台に立つと約束してしまう。

その日、街には煽動の刷り物がばら撒かれていた。労働者諸君、この街を支配するのはアメリカ人か、それともイギリス人か。政治的な仕掛け人のアイザイア・リンダーズらが火を点けて回った。夕方、劇場の周囲に人が集まりはじめる。最終的にその数は一万人とも、一万五千人とも言われる規模に膨れ上がった。

運の悪いことに、その界隈は工事中だった。水道管を通し、下水を敷くために、道路の敷石が剥がされていた。つまり、投げるための石が、無限に足元に転がっている状態だった。

劇場は板で塞がれ、窓は塞がれ、それでも石が雨のように降った。投げていたのは十二歳から十八歳くらいの少年が多かったと、目撃者は書き残している。中では公演が続いていた。マクレディは最後まで演じ、終わると変装して裏から抜け出し、そのまま北へ逃げて、ボストンから船でイギリスに帰った。二度とアメリカの舞台には立たなかった。

外では、事態が制御を失っていた。警官隊は数で押し切られた。午後九時十五分、州兵が投入される。騎兵と歩兵。だが騎兵は石を投げつけられて馬ごと転倒し、ほとんど役に立たなかった。歩兵が劇場の前に整列する。指揮官のサンドフォード将軍は、繰り返し警告した。解散しなければ発砲する、と。群衆は聞かなかった。ショームウェイという大尉が拳銃弾を受けて負傷する。銃剣を構えての突撃も、押し返された。

最初の一斉射撃は、群衆の頭上を越えて放たれた。近くのラングドン邸のほうへ向けての威嚇だった。ところが群衆はこう叫び返した。空砲だ、もう一度やらせろ。

二度目は、水平に撃たれた。

死者は二十三人。負傷者は三十人前後。名前と年齢が残っている。ジョージ・W・ゲドニー、三十四歳、仲買人。ラングドン邸のそばに立っていて、頭を撃ち抜かれて即死した。ジョン・マクドナルド、十五歳。ティモシー・バーンズ、十六歳、印刷工。ブリジット・フェイガン、三十歳。彼女は二区画離れた場所を夫と歩いていて、脚を撃たれた。ニール・グレイ・メリス、二十七歳。銃弾は心臓を正確に貫いた。

死んだ人間の多くは、暴徒ですらなかった。通りがかりだった。引退した老商人のスチュアート氏は、離れたバワリー通りに立っていて首を撃たれた。弁護士のウィリアム・C・ラッセルは、角を曲がったところで左腕を粉々にされた。腕や脚の切断手術が何件も行われた。犠牲者の大半は労働者階級で、アイルランド系移民が目立った。警官には五十人から七十人の負傷者が出て、州兵側も百四十一人が投石で傷を負っている。

翌朝、5月11日。街は静まり返った。死者の数が知れ渡ると、市民は言葉を失った。数千人が公園に集まって、人命の破壊に反対する集会を開き、市当局が民間の手段を尽くす前に軍を出したことを非難する決議を採択した。だが世論は割れていた。復讐を口にする者もいれば、いくら犠牲が出ようと秩序は守られねばならなかったと主張する者もいた。裁判では十人が有罪になった。煽動の中心にいたリンダーズは訴追を免れている。

アスター・プレイス・オペラハウスは、その後「災難のアスター」と呼ばれるようになり、まもなく劇場としての息の根を止めた。そして、この事件はアメリカの演劇そのものの形を変えてしまった。それまで大衆娯楽だったシェイクスピアが、この夜を境に、教養ある階層のものへと押し上げられていく。劇場は階級によって分かれ、客席の性格が固定された。ひとつの芝居をめぐる喧嘩が、一国の文化の地層を組み替えたことになる。

呪いのせいか、と問われれば、違うと答えるしかない。あれは階級対立とナショナリズムと拙劣な治安判断が重なった政治的惨事で、魔女は一ミリも関与していない。それでも劇場人の記憶には、あの演目の名前だけが刻まれた。二十三人が死んだ夜、舞台の上で演じられていたのは『マクベス』だった。その一点が消えない。

1937年、オールド・ヴィック――オリヴィエの頭上を落ちてきた重り

二十世紀に入ってから、この呪いを「現代の話」にした事件がいくつかある。まず1937年、ロンドンのオールド・ヴィック劇場。主演は当時三十歳のローレンス・オリヴィエだった。

この座組は、稽古の段階からとにかく事故が続いた。オリヴィエは本番前に声を潰した。装置が舞台の寸法に合わず作り直しになった。作曲家が自分の書いた音楽を破棄した。そして稽古中、舞台の上部から二十五ポンド、十キロを超える吊り物の重りが落下し、オリヴィエのすぐ脇をかすめて床に叩きつけられた。数十センチずれていたら、頭蓋骨は残らなかった。

同じ時期、演出家とマクダフ夫人役の女優が乗った車が事故を起こしている。決定打はその後だ。この劇場を率いていたリリアン・ベイリスが、心臓発作で急死した。オールド・ヴィックとサドラーズ・ウェルズを一代で立て直した、イギリス演劇界の伝説的な興行主である。逸話の伝わり方には揺れがあって、初日直前だったとも、舞台稽古の当日だったとも言われる。ついでに彼女の飼い犬まで死んだ、という尾ひれもついた。

尾ひれかどうかは、じつはあまり問題ではない。この座組で起きたことは、劇場という職場でものが落ちてくる危険、車の事故、そして高齢の経営者の心臓発作という、それぞれ独立した出来事だった。ただ、その全部が同じ二か月に集中し、同じ演目の名前の下でまとめられた。人間の記憶はそういう束ね方をする。

1942年、ギールグッド版――ひとつの座組から四人が消えた

もっと悪い数字が出たのが、1942年のジョン・ギールグッド演出・主演による上演だ。ロンドンのピカデリー劇場で、7月8日から10月10日まで、百九回上演された。戦時下のロンドンである。

この座組では、公演期間中に三人の出演者が死んだ。ダンカン王を演じていた俳優。そして魔女を演じていた女優が二人。伝承の中には、そのうちの一人は舞台の上で倒れたのだ、という話まで含まれている。

さらに、衣裳と装置を担当したデザイナーが自ら命を絶った。初日の日だった、という説と、公演期間中だったという説がある。

戦時中のロンドンで、しかも高齢の役者が多い座組で、三か月の間に複数の死者が出ること自体は、統計的にありえない話ではない。空襲もあった。だが、死んだ役柄の並びが悪すぎた。殺される王。そして魔女が二人。よりによって、この芝居の中でも呪いに直結する役の人間から順に消えていったように見えてしまう。ギールグッドは以後、この演目について語るとき慎重になったと伝えられている。

1947年、オールダム――ハロルド・ノーマンの三週間

これは尾ひれのつけようがない、記録の残った死だ。

1947年2月、イングランド北部の工業都市オールダムのレパートリー劇場で、三十四歳の俳優ハロルド・ノーマンが主役を演じていた。劇場の記念公演だった。

最終幕、マクダフとの決闘。マクダフを演じていたのはアンソニー・オークリー。段取りのどこかが狂って、刃渡り十五センチほどの短剣がノーマンの腹に入った。傷は五インチ、十三センチ近くに達していた。

舞台監督は即座に幕を降ろすよう合図し、医者を呼ばせた。客席には八百人がいた。女性客が悲鳴を上げ、何人かはその場でショック状態の手当てを受けている。ノーマンは舞台衣裳のまま、顔の化粧も落とさないまま、王立オールダム病院に運ばれた。

彼は二度の手術を受け、三週間持ちこたえて、そして死んだ。刺してしまったオークリーは、手術のあいだ廊下の外に立ち尽くしていたという。

その後、この劇場には幽霊が出るという話が定着した。出るのは木曜日。ノーマンが死んだ曜日だとされている。自分の身に何が起きたのか分からないまま、まだ舞台のあたりをうろついている、という語られ方をする。2023年に劇場が閉鎖されるまで、この話はオールダムの地元に生き続けた。

呪いの実例として挙げられる出来事の多くは、突き詰めると偶然の束か、後世の創作だ。だがこの件は違う。人がひとり、芝居の最後の場面で本当に刺されて死んだ。演劇の現場で刃物を扱うことの現実的な危険を、これ以上ないほど直接に示している。

眠ったまま四メートル半落ちた女優、燃えた男

1948年、ストラトフォード。ダイアナ・ウィンヤードがマクベス夫人を演じた。彼女は迷信を鼻で笑うたちで、しかも役への解釈にこだわった。夢遊病の場面は、本当に眠っている人間として演じるべきだ、と考えたのだ。だから目を閉じたまま歩くことにした。

そして舞台の端から踏み外し、十五フィート、四メートル半下のオーケストラ・ピットへ落ちた。

驚くべきなのはその先で、彼女は自力で起き上がり、そのまま舞台に戻って最後まで芝居を続けた。大きな怪我はなかったと伝えられている。落ちた高さを考えれば信じがたいが、この逸話はイギリスの演劇界で繰り返し語られてきた。迷信を笑った人間が、その日のうちに舞台から落ちる。話としてあまりに出来がいいので疑いたくもなるが、彼女が転落したこと自体は複数の記録が一致している。

1950年代半ば、バミューダ。チャールトン・ヘストンが屋外劇場でマクベスを演じた。夜の場面で炎と煙を使う演出だった。風向きが変わり、煙と火が客席側へ流れ込んで大混乱になる。それだけでも十分だが、ヘストン自身にはもっとひどいことが起きた。彼が穿いていたタイツに、なぜか灯油が染み込んでいたのだ。馬具の手入れか、松明の燃料の取り扱いか、原因の説明はいくつかある。火が回り、彼は脚と股のあたりに重度の火傷を負った。稽古期間中にオートバイで事故を起こしていた、という話も付随している。

1955年、ふたたびストラトフォード。オリヴィエがマクベスを演じ、マクダフ役のキース・ミッシェルとの決闘の最中に、剣先が相手の目のすぐ脇をかすめた。あと少しで失明していた。

もう少し古いところでは、1882年6月8日、俳優のJ・H・バーンズが立ち回りの最中にウィリアム・リグノルドの胸を突いてしまった事故がある。リグノルドは手当てを受けて助かった。1926年12月24日には、マクベス夫人を演じていたシビル・ソーンダイクが、共演者に首を絞められかけている。1928年にはロンドンのロイヤル・コート劇場で大きな装置が崩落して出演者が負傷し、その後に火災が起きた。1934年には主役のマルコム・キーンが舞台上で声を失い、代役に立ったアリステア・シムは高熱で入院した。

こうして並べていくと、確かに気味が悪い。だが同時に、この一覧の作り方そのものにも気づいてしまう。四百年分の上演記録の中から、事故があったものだけを抜き出して並べれば、どんな演目でも似たような表は作れる。それを『マクベス』についてだけ、演劇界が四百年間せっせと集め続けてきた。集める行為そのものが、呪いを育てている。

1936年、ハーレム――ヴードゥー・マクベス

呪いの逸話の中でも、いちばん芝居がかっているのがこれだ。

1936年4月14日、ニューヨークのハーレム。ラファイエット劇場で、連邦劇場計画の黒人劇団部門が『マクベス』を上演した。演出は二十歳のオーソン・ウェルズ。製作はジョン・ハウスマン。

ウェルズの案は、舞台をスコットランドから十九世紀のハイチに移し、中世の魔術をヴードゥーに置き換えることだった。総勢百五十人。そのうち職業俳優は四人しかいなかった。マクベスにジャック・カーター、夫人にエドナ・トーマス、バンクォーにカナダ・リー、そして脇役にすぎなかったヘカテを興行師のような司会役に格上げしてエリック・バロウズが演じた。シエラレオネ出身の振付家アサダタ・ダフォラが、アフリカの音楽と踊りを持ち込んだ。

初日、七番街は十ブロックにわたって通行止めになった。無料公演には三千人が押しかけた。ハーレムで十週間の満員興行を打ち、その後、人種隔離下のアメリカを巡演した。テキサスの博覧会では、客席を人種で分けずに上演している。当時としては前代未聞だった。

さて、呪いの話だ。ニューヨークの批評家パーシー・ハモンドが、この公演を酷評した。すると劇団のアフリカ人打楽器奏者たちが、批評家を模した人形を作り、呪いをかけたという。ハモンドはその数週間後に死んだ。

出来すぎている。ウェルズ自身、この話を怖がるどころか面白がっていた。宣伝としてこれ以上のものはない。誰が言い出したのかもはっきりしない。それでもこの逸話が消えないのは、そこに二重の仕掛けがあるからだ。魔女の呪文が本物だったから呪われた、という起源説を、三百三十年後にハーレムの舞台の上で、別の呪術によってもう一度演じ直した形になっている。伝説が自分自身を引用している。

1988年。ブロードウェイと、メトロポリタン歌劇場の家族席

1988年は当たり年だった。二つの事件が起きている。

ひとつはブロードウェイ。クリストファー・プラマーとグレンダ・ジャクソンという看板を揃えた大型公演で、製作はガース・ドラビンスキー。ところがこれが泥沼化した。地方巡演の途中で演出家ケネス・フランケルが降り、ロビン・フィリップスが引き継ぎ、最終的にはゾーイ・コールドウェルが仕上げた。初日のプログラムには、当初の演出と追加の演出が並記されるという珍しい体裁になった。トニー・ウォルトンの装置は捨てられ、ダフネ・デアの簡素な案に差し替えられた。衣裳も稽古中に変わった。主演二人は繰り返し衝突した。

伝わっているところでは、五人のマクダフが入れ替わり、舞台監督が六人交代し、インフルエンザが二十六件、靭帯断裂と股関節の故障がいくつも出た。プラマーはこの件について、大したことは起きていないという態度を崩さなかった。膝と、誰かの股関節。細かいことばかりだ、と。ジャクソンのほうは装置への不満を漏らしている。芝居ではなく装置を演じているようだった、と。批評家のフランク・リッチは、開幕を受けてこう書いた。舞台裏の流血騒ぎがさんざん報じられた割に、正典中もっとも血なまぐさい芝居が、驚くほど血の気のない出来になっている。

もうひとつは、同じ年の1月23日、メトロポリタン歌劇場。演目はヴェルディの歌劇『マクベス』の昼公演で、全国に放送されていた。

八十一歳のバンチョ・バンチェフスキーという男が、最上階の家族席にいた。ブルガリア生まれで、五十年代初頭にアメリカへ渡り、五か国語を操り、歌手の指導と翻訳で生計を立てていた。オペラを心底愛していた人物だ。

第一幕の休憩中、彼が最上段の手すりに腰かけて、ゆっくり前後に体を揺すっているのを、案内係が二人がかりで引き離した。そして第二の休憩に入って十分後、彼は八十フィート、二十四メートル余りを落下した。途中で下の階の手すりに当たり、平土間の後方十列目あたりの、誰も座っていない座席の上に落ちた。自ら身を投げたと見られている。

演目が『マクベス』でなければ、これは悲しい事件として静かに記録されただけだったと思う。だが場所と演目が組み合わさった瞬間、この死は呪いの一覧に組み込まれた。そういう吸引力を、この作品の名前は持ってしまっている。

俳優たちは、実際のところどう思っているのか

面白いのは、この禁忌を「信じている」と明言する演劇人がほとんどいないことだ。

彼らが口を揃えて言うのは、信じてはいないが守る、という奇妙な立場だ。理由を尋ねると、だいたい二種類の答えが返ってくる。ひとつは、自分は平気だが、気にする人間が座組の中にいるから、という配慮の説明。もうひとつは、万が一そういうものがあったとして、それで得することは何もないから、という保険の説明。どちらも合理的で、そして結果として伝承を維持している。

演目に取り組む当事者たちは、もう少し身も蓋もない。デンゼル・ワシントンは、迷信を脇に置いてこの役に挑むと語っている。マイケル・ファスベンダー主演の映画版では、撮影現場のスタッフが題名を口にしないよう気を配っていた。パトリック・スチュワートのように、演じた者は免除される、と独自の規則を主張する者もいる。

現場で本当に効いているのは、たぶん別のことだ。この芝居は暗い。ずっと暗い。血と殺意と幻覚の中で三時間近く過ごすと、演じている側の神経がすり減る。夜の場面が多く、火や煙を焚き、刃物を振り回す。座組の空気は自然と張り詰める。その張り詰めた空気に名前をつける装置として、呪いという言葉は都合がいい。今日はやけに事故が多い、と言うかわりに、あの劇の呪いだ、と言えば、笑いながら緊張を共有できる。掟は恐怖を煽るためではなく、恐怖を扱いやすくするために機能している。

そして、掟には教育的な側面もある。劇場では喋るな、注意しろ、という一般規範を、新人に一発で叩き込む手段として、これほど効率のいいものはない。あの題名を言うと外に出されて三回まわらされる、という体験は忘れられない。忘れられないから、劇場では言動に気をつけろという意識だけが残る。

反証――この呪いは、そんなに古くない

ここまで散々煽ってきたので、そろそろ冷や水をかける。

呪いの伝承は、十七世紀からずっと続いてきたわけではない。それを示す痕跡が、ほとんどない。

最古の逸話とされるハル・ベリッジの話は、すでに見たとおり1898年のマックス・ビアボームの創作だ。しかもビアボームは十七世紀のオーブリーの記述だと偽って出した。要するに「これは古い伝承である」という装いごと、十九世紀末に発明されている。

では、劇場でこの題名を言うな、という実際の禁忌はいつから記録に現れるのか。文献に現れはじめるのは二十世紀の入り口あたりだ。1904年の演劇読み物に「楽屋でマクベスを引用するな」という一行が出る。1920年代の読み物にも、この芝居から引用するのは非常に縁起が悪い、という言及がある。それより前に遡ろうとすると、途端に足場がなくなる。

もし本当に十七世紀からこの禁忌が存在したなら、十八世紀や十九世紀前半の膨大な劇場関係の記録、日記、書簡、回想録のどこかに、一行くらい漏れ出していてよさそうなものだ。イギリスの演劇人はよく書き残す人種で、劇場の内輪の慣習についてもずいぶん饒舌だった。それなのに、この禁忌についてはほぼ何も出てこない。

もちろん、記録に残らない口伝が先行していた可能性は否定できない。研究者のガブリエル・イーガンは、リチャード・ブロームとトマス・ヘイウッドが1634年に書いた『ランカシャーの魔女たち』の中に、マクベスのスコットランドの怪しい姉妹への言及があることを指摘している。初演から三十年近く経っても、観客がこの芝居の魔女を知っていることを前提にできた、という証拠にはなる。ただし、それは作品が有名だったことの証拠であって、題名を口にしてはいけないという禁忌の証拠ではない。

そして、アスター・プレイス暴動を思い出してほしい。1849年、この芝居をめぐって二十三人が死んだ。もしその時点で「マクベスは呪われている」という業界共通の認識があったなら、事件直後の新聞や関係者の記述に、その連想が大量に出てきていいはずだ。実際に出てくるのは、階級対立、反英感情、市当局の失策といった話ばかりで、呪いの話はほとんど出てこない。つまり1849年の時点では、まだこの物語は組み上がっていなかった可能性が高い。

面白いのはその先だ。呪いの物語が完成したあとで、過去の事件が遡って呪いの証拠として編入された。アスター・プレイスは、事件の五十年後くらいに「呪いの実例」になった。歴史が後から書き換えられている。

なぜ十九世紀の終わりに生まれたのか

では、なぜこの時期だったのか。いくつかの流れが重なっている。

まず、シェイクスピア崇拝の過熱だ。十八世紀後半から十九世紀にかけて、イギリスではシェイクスピアが国民的聖人の地位に押し上げられた。ところが、その聖人の実生活についての史料が驚くほど少ない。洗礼、結婚、訴訟、遺言。ほとんどそれだけだ。この空白に、後世が大量の物語を注ぎ込んだ。鹿泥棒をして故郷を追われた、劇場の前で馬の番をしていた、そしてこの、初演で少年俳優が死んだから自分で女装した、といった逸話群である。ハル・ベリッジの話は、この神話製造の産業から出てきた製品のひとつだ。

次に、心霊主義の流行がある。十九世紀後半のイギリスとアメリカでは、交霊会、心霊写真、心霊研究協会。目に見えないものを真面目に扱う空気が、教養層にまで広がっていた。同じ時期に、劇場に幽霊が出るという話も体系化されていく。呪われた戯曲という観念は、この土壌によく馴染んだ。

三つめが、劇場という職場の変化だ。この時期、ガス灯から電気照明への移行が進み、舞台機構が大型化し、吊り物や回り舞台が重くなった。事故は増えた。同時に、興行が資本の論理で動くようになり、劇場の倒産が可視化された。危険と不安が増した職場に、それを名指す言葉が必要だった。

四つめが、劇場人という職業集団の自意識だ。十九世紀を通じて、俳優は放浪芸人から専門職へと社会的地位を上げていく。専門職には、内輪だけが知る作法が要る。医者に医者の隠語があるように、俳優には俳優の禁忌が要った。「あの題名を言ってはいけない」という掟は、それを知っている者と知らない者を一瞬で選り分ける。素人が劇場に来てうっかり口にする。周りが凍る。誰かが優しく、あるいは意地悪く教える。その瞬間、集団の境界線が引き直される。

そして最後に、二十世紀のマスメディアが決定打を打った。新聞、雑誌、ラジオ、テレビ。呪いの一覧は語られるたびに項目が増え、増えるたびに説得力を増した。1981年にはリチャード・ハゲットが、この呪いと他の劇場の迷信を一冊にまとめた本を出している。まとまった本が出ると、伝承は権威を持つ。以後の記事はその本を引き、引かれることで話は固定された。

日本の演劇界にも、同じ形のものがある

日本の舞台にこの禁忌が輸入されたのは、翻訳劇の現場を通じてだ。シェイクスピアを扱う劇団では、イギリスの慣習として紹介され、なかば冗談として、なかば律儀に守られている。演劇関係の書き物には、口笛の禁忌とセットでこの話が出てくる。うっかり吹いたら三回まわって部屋を出て、一分置いて三回ノックしてから入り直す、という具体的な手順まで紹介されている。三回まわって、外に出て、ノックして許しを請う。マクベスの作法とほぼ同じ骨格をしている。

そもそも日本の劇場には、輸入品を待つまでもなく独自の禁忌がびっしりある。楽屋で口笛を吹くな、というのは日本でも同じだ。理由の説明はいくつかあって、蛇が来るとも、泥棒を呼ぶとも、人買いの合図だったとも言われる。西洋のほうは、帆船の水夫が舞台裏の作業員に転職した時代に、笛が装置転換の合図だったから、素人が吹くと吊り物が落ちてきて危険だった、という実務的な説明がつく。理由づけは違うのに、禁じられている行為が同じというのが興味深い。

言葉の言い換えも、日本の芸能は得意分野だ。相撲や芝居の世界では、縁起の悪い語を避けて別の語に置き換える。すり鉢の「する」を嫌って「あたり鉢」と言う。するめを「あたりめ」と呼ぶ。芝居の最終日は本来なら終わりを意味する語になるはずのところを「千秋楽」という祝いの言葉で包む。名指しを避けて別名で呼ぶという操作は、日本語の芸能の中に深く根を張っている。

歌舞伎の世界には、初日前に楽屋で言ってはいけないことがある、舞台の道具をまたぐな、履物を揃えろ、といった細かい規律が積み重なっている。その多くは実務的な安全と規律の要請から来ていて、それが縁起という言葉で包装されている。マクベスの禁忌とまったく同じ構造だ。

違いもある。日本の芸能の禁忌は、特定の作品に対してかかることが少ない。演目ではなく、場所と行為と言葉にかかる。ある演目そのものが呪われている、という発想は、日本では珍しい。四谷怪談のように上演前に墓所や神社に参るという習慣がある演目はあるが、あれは呪いを避けるというより、実在した人物の霊を祀って許しを得るという慰霊の形をとる。名前を封じるのではなく、名前を呼んで丁重に扱う。英語圏の「名前を言うな」と、日本の「名前を呼んで拝む」。同じ不安に対して、正反対の解法を選んでいる。

この対比はけっこう根が深いと思う。名を呼ぶことで力を封じる文化と、名を呼ばないことで力を避ける文化。どちらも言葉に実体的な力があると信じている点では同じで、処方箋だけが逆になっている。

なぜ、四百年も生き延びたのか

最後に、この掟がなぜ死ななかったのかを考えてみる。

第一に、コストがほとんどかからない。外に出て三回まわって唾を吐くのに要する時間は一分もない。信じていなくても実行できる。実行のコストが低い規範は、真偽の検証を経ずに生き延びる。

第二に、反証されない構造になっている。掟を守って何も起きなければ、掟のおかげだ。破って何も起きなければ、運がよかっただけとされる。破って何かが起きれば、それ見たことか。守っても事故が起きれば、誰かがどこかで言ったに違いない、と犯人探しが始まる。どう転んでも結論が変わらない。

第三に、この作品自体が事故を呼びやすい。暗い舞台、煙、血糊、そして必ず刃物での決闘で終わる構成。安全管理が甘い時代ほど負傷率は上がる。呪いの一覧に並ぶ事故の多くは、労働安全の問題として説明できてしまう。だが説明できてしまうことは、伝承にとって好都合ですらある。事故の実例が定期的に供給されるのだから。

第四に、集団の結束を作る。内輪の掟を共有することは、その集団の一員である証になる。新人はこの掟を教わることで座組に迎え入れられ、部外者はこの掟を知らないことで部外者になる。演劇のように流動的で、公演のたびに解散と再結成を繰り返す職業集団にとって、こういう即席の帰属の印はきわめて実用的だ。

第五に、面白い。これに尽きるかもしれない。この掟は喋りたくなる。人に教えたくなる。実演したくなる。取材に来た記者に話すと必ず記事になる。劇場の見学ツアーで案内係が話せば必ず受ける。テレビのコメディでも繰り返し茶化されてきた。伝承は、語られる回数で生き延びる。この掟は語られやすさという点で、他のどんな劇場の迷信より優れている。

そして第六に、この芝居そのものが、言葉の力についての芝居だからだと思う。マクベスは、荒野で三人の魔女から言葉を受け取る。まだ起きていないことを、言葉として先に受け取ってしまう。そしてその言葉に引きずられて、実際にそのとおりの人間になっていく。予言が現実を作る話だ。しかも最後は、言葉の解釈を誤ったことで滅びる。森は動かない、と思ったら動いた。女が産んだ者には殺されない、と思ったら例外があった。

その芝居に対して、演劇人が「言葉を口にすることを禁じる」という掟を作った。作品の内容と、作品を取り巻く儀礼が、まったく同じ主題を扱っている。予言の言葉が現実を呼ぶ物語の周りに、名前を口にすると災いが来るという規則が生えてきた。偶然にしては出来がよすぎるし、意識的な発明にしては自然に育ちすぎている。

たぶん、あの芝居を上演した人間が、上演しているあいだに何かに気づいてしまったのだ。言葉には実際に力がある。ということを、四百年前に舞台の上で証明してみせた作品を扱っている以上、その言葉を軽々しく扱うわけにはいかない。そういう職業的な畏れが、伝説の形をとった。

呪いは、たぶん存在しない。魔女は怒っていない。少年俳優は死ななかった。というより、そんな少年は最初からいなかった。だが、劇場の中で誰かがあの名前を口にした瞬間に空気が変わるという現象は、今日も世界中の劇場で毎日起きている。呪いが実在するかどうかとは無関係に、禁忌のほうは完全に実在している。

そして、実在するのはそれで十分なのだと思う。

信じていない。でも守る。このねじれがすべてだ

ここからは、上でざっと通した話を、もう少しねじって考えてみたい。

まず押さえておきたいのは、この禁忌が「呪いを信じるか否か」という問いでは全然捉えられない、ということだ。演劇人に取材した記事を片っ端から読むと、ほぼ全員が同じことを言う。信じていない。でも守る。この矛盾を矛盾のまま平然と抱えているのが、この伝承のいちばん奇妙で、いちばん本質的なところだと思う。

信念と行動が食い違っているとき、普通は行動のほうが先に消える。信じていない儀式はやらなくなる。ところがこの掟は逆で、信念が抜け落ちたあとも行動だけが完全に残った。むしろ信念が抜けたことで、より広く普及したふしすらある。信じている必要がないから、参加のハードルが消えたのだ。信じている人だけがやる儀式は、信じる人が減れば消滅する。信じていなくてもやる儀式は、信じる人がゼロになっても存続できる。生存戦略として、こちらのほうがはるかに強い。

同じ構造は、日常のあちこちにある。神社で手を合わせる人の全員が神を信じているわけではない。結婚式で塩を撒く人が、塩に殺菌以上の力があると思っているわけでもない。行動が信念から切り離されて、作法として自立する。マクベスの禁忌は、その切り離しがかなり早い段階で完了した、非常に洗練された事例だと思う。演劇という、そもそも「本気で信じることと、信じたふりをすることの区別」を職業にしている集団の中で育ったのだから、当然といえば当然かもしれない。

そう考えると、あの三回まわって唾を吐く儀式の位置づけも変わってくる。あれは呪いを祓う手続きではなく、演技だ。演劇人が演劇人に向けて演じてみせる、ごく短い一人芝居。しかも屋外で、扉の向こうから見られながらやる。中の人間は観客の位置にいる。ノックして許しを請うのは、カーテンコールに近い。禁忌を破った者が、その罰として即興の一場面を演じ、それが受け入れられて再び共同体に戻る。演劇の職場でしか生まれないだろう、と思わせる形をしている。

次に、この伝承の「証拠の集め方」について、もう一段しつこく考えたい。

呪いの実例として語られる出来事を並べ直してみると、性格がまるで違うものが平然と同居している。1849年のアスター・プレイスは、階級対立と外国人排斥と治安当局の判断ミスが重なった政治的惨事だ。1947年のハロルド・ノーマンの死は、殺陣の安全管理の失敗という労働災害だ。1937年のリリアン・ベイリスの急死は、七十近い人物の心臓発作である。1988年のバンチェフスキーの死は、八十一歳の男性の自死だ。1964年のリスボンの国立劇場の火災は、建物の火災事故だ。

この五件のあいだに、共通する因果は何もない。共通しているのは、そのとき舞台にかかっていた演目の名前だけである。にもかかわらず、同じ一覧に並べられた瞬間に、五件は一つの現象に見えてくる。分類そのものが、因果の錯覚を作り出している。

これは呪いに限った話ではなくて、あらゆる「呪われた何か」の話に共通する仕組みだ。ある名前のもとに集められた出来事は、集められたという事実だけで関連づけられる。そして一覧は増える一方で、減ることがない。事故が起きた公演は記録される。何事もなく終わった無数の公演は記録されない。四百年分の分母が丸ごと消えている。

分母のことを考えると、この呪いの成績はむしろ驚くほど悪い。世界中で毎年おそらく数千回はこの作品が上演されている。学校の発表会まで含めれば、もっと多い。四百年で少なく見積もっても数十万回。その中で、呪いの証拠として持ち出せるのは百件に満たない。しかもその大半は「怪我をした」「批評が悪かった」「風邪が流行った」といった水準のものだ。もし本気で呪いの効力を測るなら、この作品の上演での事故率を、同規模の他の演目と比較しなければならない。誰もそれをやらないし、やったところで有意差は出ないだろう。

だが、この計算をしてみせても伝承は一ミリも揺るがない。それは伝承が反証を求めていないからだ。これは科学の主張ではなく、職場の作法だ。統計で殴っても、作法は死なない。むしろ「野暮なことを言うな」と一蹴されて終わる。

三つめに考えたいのは、この禁忌がなぜ他の演目に転移しなかったのか、ということだ。

シェイクスピアには、もっと血なまぐさい作品がある。『タイタス・アンドロニカス』は舌を切り、手を切り、人肉を食わせる。『リア王』は目を潰す。上演中の事故で言えば、大量の吊り物と殺陣を使う歴史劇のほうが危ない場面も多い。それなのに、呪われたのはこの一本だけだった。

いくつか理由が考えられる。ひとつは、超自然が「本物」として扱われている唯一の作品に近いこと。『ハムレット』にも亡霊は出るが、あれは物語の起動装置で、儀式の再現ではない。『マクベス』の魔女たちは、材料を並べ、韻を踏み、鍋をかき混ぜる。手順が舞台上で実演される。つまり、観客の前で儀式が「実行されて」しまう。これを毎晩繰り返すことに対する後ろめたさは、他の作品には生じない。

ふたつめは、この作品が国王の目の前で上演された可能性が高く、しかもその国王が魔女狩りの当事者だったこと。作品の外側にある現実の暴力が、あまりに濃い。ノース・バーウィックで焼かれた人間の数は、記録に残っているだけでも相当な数にのぼる。スコットランド全体では十六世紀半ばから十八世紀初頭までの間に三千から四千人が殺されたと推計されている。その血の上に立って書かれた芝居だ。作品の背後に本物の死体が積まれているという事実は、時代が下っても消えない。

みっつめは、単純に短くて人気があったから、上演回数が桁違いに多かったこと。分母が大きければ、分子の事故も増える。事故が増えれば逸話が増える。逸話が増えれば呪いの評判が立つ。評判が立つと「呪われた芝居をやる」という話題性でさらに上演される。増幅の輪が閉じている。

四つめに、この禁忌が現代のメディア環境の中でどう振る舞っているかも見ておきたい。

2022年のアカデミー賞の一件は象徴的だった。壇上でクリス・ロックがある映画版のタイトルを口にし、その直後にウィル・スミスに叩かれた。因果関係は当然ゼロだ。だが式典の直後、この連想は交流サイトで爆発的に広がり、劇作家までが冗談に加わった。四百年前の劇場の掟が、世界中に生中継される授賞式のハプニングに、数分で接続された。

同じことは映画の撮影現場でも起きている。ホラー映画『ヘレディタリー』の監督は、撮影現場でこの戯曲の題名を口にした直後に照明が破裂した、と語っている。イタリアの監督ダリオ・アルジェントは、自作『オペラ』の撮影中の不運を、劇中劇がヴェルディの『マクベス』だったせいだと語った。舞台という場所を離れて、映像の現場にも掟が越境している。

これは伝承の生命力の証拠であると同時に、質の変化でもある。かつて劇場の中だけで通用した内輪の掟が、いまでは誰でも知っているネタになった。オンラインの短い動画で、俳優が儀式を実演してみせる。喜劇番組が茶化す。そのたびに掟は薄まり、同時に広がる。信じる密度は下がり続けているのに、知っている人間の総数は増え続けている。

伝承の未来としては、たぶんこの方向に進む。誰も信じないが、誰もが知っていて、劇場に入った人間はとりあえず従う。宗教というより、エチケットに近い場所へ着地しつつある。実際すでに、この掟は「劇場では静かにする」「舞台の道具に勝手に触らない」といった一般的な礼儀と同じ棚に並べられて教えられている。呪いの部分は、その礼儀を覚えさせるための語り口として残っている。

五つめに、どうしても書いておきたいことがある。ハル・ベリッジという少年の話についてだ。

彼は存在しなかった。マックス・ビアボームが1898年に作り出した架空の人物で、出典すら偽装されていた。それは間違いない。だが、この作り話がこれほど長く生き延びたことには、理由があると思う。

十七世紀初頭のイギリスの舞台で女性役を演じていたのは、実在の少年たちだ。十歳前後で徒弟に出され、劇団の中で暮らし、女装して大人の男たちの前で悲劇のヒロインを演じ、声変わりとともに役を失った。名前が記録に残っている子もいれば、残っていない子もいる。当時の死亡率を考えれば、稽古の途中で病死した子も実際にいただろう。ペストが流行れば劇場は閉まり、閉まっているあいだ彼らの生活は保証されなかった。

ハル・ベリッジは架空だが、ハル・ベリッジのような子どもは実在した。ビアボームの作り話が四百年後まで語られているのは、それが史実の空白にぴったり嵌まる形をしていたからだ。舞台の上で名も残さず消えていった大勢の子どもたちの記憶が、たった一人の架空の名前に凝縮されて生き延びている。呪いの起源としては嘘でも、劇場の歴史の要約としては、あの逸話はかなり正確なことを言っている。

最後に、この話全体をどう受け取るべきかについて。

呪いの実在を証明することはできない。反証も、厳密にはできない。証明も反証もできない主張について、あまり長く議論しても得るものは少ない。だが、それとは別に、はっきり言えることがいくつかある。

一つ。この禁忌は十九世紀末から二十世紀初頭にかけて形を得た、比較的新しい伝承である。古代からの秘儀ではない。

二つ。呪いの起源とされる最も有名な逸話は、批評家による意図的な創作である。

三つ。呪いの証拠とされる事件の大半は、政治、労働安全、老齢、精神疾患、建物の防火といった、それぞれ別の説明を持つ出来事である。

四つ。それらの説明がすべて与えられたあとも、劇場人はこの掟を守り続けている。

この四つを並べたときに残るのが、この話のいちばん面白いところだ。真偽が確定しても、行動は変わらない。人間は、正しさで動いているわけではない。共同体の中で共有された、名前のついた作法で動いている。そしてその作法は、正しさよりずっと長持ちする。

四百年前、荒野で三人の女が男に向かって言葉を投げた。その言葉が男を動かし、男は王を殺し、そして滅びた。言葉が現実を作る話を、シェイクスピアは書いた。その後、その作品を扱う人間たちが、言葉を封じる掟を作った。作品の主題が、作品の外側に染み出して、四百年かけて現実の慣習になった。

戯曲がひとつ、こんなふうに世界に爪痕を残すことがある。呪いなんてものが本当にあるとしたら、たぶんそれはこういう形をしている。何かを信じ込ませることではなく、何かを言わせなくすること。そして、言わせないという行為そのものを、四百年にわたって人々に反復させ続けること。

劇場に行く機会があったら、少しだけ気をつけてみてほしい。そこで働いている人たちの前で、あの名前を出さないように。彼らは笑って許すかもしれない。でも、その笑いの底には、四百年分の何かがちゃんと沈んでいる。

タイトルとURLをコピーしました