バンコクの東、スクムウィット通りから細い道を入った先に、昼でも薄暗い一角がある。木がやたらと太くて、幹には色とりどりの布が幾重にも巻かれている。線香の煙が絶えない。金箔を貼られてぬらりと光る女の像が、赤ん坊を抱いて座っている。像の膝には、参拝客が挟んでいった二十バーツ紙幣が何枚も刺さっている。
ここが、タイでいちばん有名な幽霊の家だ。
名前をメー・ナーク・プラカノン。日本語にすると「プラカノンのナーク母さん」。百五十年以上前に難産で死んだ、ただの村の女房だ。それが今では毎日何百人という人に拝まれ、宝くじの番号を教えてくれと頼まれ、徴兵に当たりませんようにと拝み倒されている。三十本を超える映画になり、そのうち一本はタイ映画史上の興行収入記録を塗り替えた。オペラにもミュージカルにもなった。
そして何より奇妙なのは、タイの人たちがこの幽霊を語るときの表情だ。怖い話をしているはずなのに、どこか照れくさそうに笑う。「かわいそうな人なんだよ」と言う。「あの人は悪くない」と言う。夫を殺しかけ、隣人を何人も殺したことになっている女に対して、である。
この記事では、まずその物語を、細部まで、会話ごと、匂いごと再現する。それから、この話がどこから来たのかを一八九九年の新聞まで遡って掘り、映画化の百年をたどり、実際に廟へ行った人たちの証言を並べ、最後に「なぜタイ人はこの幽霊を怖がりながら愛するのか」というところまで行く。長い。覚悟してほしい。
完全再話・その一 運河沿いの家で
舞台はプラカノン。今でこそBTSの駅名になっているが、当時は運河沿いの、椰子とバナナと水田しかない村だった。バンコクの中心からは舟で下る。時代はラーマ四世、モンクット王の御代とされることが多い。十九世紀の半ばだ。まだ電気もなければ写真もろくにない。夜は本当に真っ暗になる。
ナークは、その村の娘だった。村長の娘だとする話もあれば、ごく普通の農家の娘だとする話もある。美人だったという点だけは、どの版でも一致している。長い黒髪を後ろで束ね、川べりで洗濯をし、夕方には家の裏の畑からバイマックルーやトウガラシを摘んでくる。
相手の男はマーク。庭師だったとも、田を耕す小作だったとも言う。とにかく身分は低い。二人は互いに惚れ抜いた。ナークの親は反対したという版もあって、その場合、二人は駆け落ちして運河のさらに奥に高床の小さな家を建てる。タイの家は高床だ。この「高床」が、のちにこの物語のいちばん有名な場面をつくることになる。
暮らしは貧しいが、幸せだった。マークは朝早く出て、日が傾く頃に帰ってくる。ナークは水を汲み、米を炊き、庭で鶏を追い、夕方には家の前の階段に座って夫を待つ。マークが道の向こうに現れると、ナークは立ち上がって手を振る。それだけの毎日だ。
やがてナークの腹が膨らんだ。マークは有頂天になって、赤ん坊の揺りかごを自分で削りはじめた。木を削りながら鼻歌をうたう。ナークが「気が早すぎる」と笑う。
そこへ、村役人が来た。
完全再話・その二 徴兵
呼び出しの理由は戦だった。当時のシャムは、東はベトナム(阮朝)と、西はビルマと、たびたび事を構えていた。一九九九年の映画版はこれを一八三一年から一八三四年のシャム=ベトナム戦争に置いている。とにかくマークは兵として引っぱられることになった。
タイの徴兵は、この時代も現代も、この物語につきまとうモチーフだ。当時は王への労役義務としての徴発、現代はくじ引き式の徴兵検査。どちらも「男が理不尽に家から連れていかれる」という一点で同じである。だからこそ、この話は百五十年たっても古びない。
出発の朝、ナークは腹をさすりながら泣かなかった。泣くと縁起が悪いと言われていたからだ。代わりに、こう言った。
「生まれたら、あなたに似た顔かどうか、いちばんに見ます。だから、必ず帰ってきて確かめてください」
マークは何も言えず、うなずいて舟に乗った。運河の水がやたらと澄んでいた、というのが、語り手たちが好んで付け加える一節である。
マークは戦地で腹を刺された。あるいは矢を受けた。重傷でバンコクの寺か病院に運ばれ、生死の境をさまよい、そのまま何か月も帰れなくなる。
その間に、プラカノンで何が起きたか。
ナークの陣痛は夜に来た。産婆が呼ばれ、隣家の女たちが集まった。だが赤ん坊は横を向いていた。逆子だったとも、へその緒が首に巻いていたとも言う。ランプの油が二度つぎ足され、明け方近くまで叫び声が続き、そして止んだ。母子ともに死んだ。
村人たちは、その日のうちに二人を家の裏手に埋めた。産褥で死んだ女の霊は、タイでは特別に恐れられる。ピー・プラーイ、あるいはピー・ターイ・タン・クローンと呼ばれる、いちばん気性の荒い種類の霊になると信じられていたからだ。だから埋葬は急がれ、呪文が唱えられ、墓には棘のある枝が乗せられた。
それでも足りなかった。
完全再話・その三 帰ってきた夫
何か月かして、マークが帰ってきた。まだ足を引きずっている。運河の岸に舟が着き、見慣れた道を歩き、高床の家が見えたとき、彼は思わず立ち止まった。
家の階段に、ナークが座っていた。腕には赤ん坊を抱いている。
ナークは立ち上がって、手を振った。出征前と同じ動作で。
「おかえりなさい。ほら、見て。あなたに似てる」
マークは駆け寄った。妻の体はあたたかかった。赤ん坊は小さな手を握ったり開いたりしていた。米が炊けるにおいがした。何ひとつおかしいところがなかった。
その夜から、以前と同じ暮らしが再開する。ナークは朝に水を汲み、昼に洗濯をし、夕方に飯を炊く。マークは畑に出る。赤ん坊は泣き、乳を飲み、眠る。
違っていたのは、村のほうだった。
マークが市場へ行くと、人々が彼を見て黙り込む。挨拶をしても、目をそらされる。ある女が思い切って袖を引き、耳元でささやいた。
「マーク、あんた、誰と暮らしてるか分かってるのかい」
マークは笑った。「妻と子とだ。何を言ってる」
女は青ざめて逃げていった。
その夜、その女は死んだ。
村の年寄りが酒に酔って「ナークは死んだ、俺は葬式に出た」と叫んだ翌朝、その年寄りは運河に浮かんだ。マークに真相を告げようとした者から順に、不自然な死に方をしていく。首を折ったり、口から泡を吹いたり、木の枝に引っかかっていたり。
村人はやがて誰も口を開かなくなった。マークは、村八分にされていると思い込んだ。「田舎者は貧乏人の帰還兵が気に入らないんだ」と、妻に愚痴をこぼす。ナークはやさしく相槌を打つ。
「そんな人たちのことは、放っておきましょう。私たちには、私たちがいる」
完全再話・その四 床下へ伸びた腕
そして、あの場面が来る。
タイの怪談史上、いちばん有名な一瞬だ。
その日、ナークは家の高床の上、縁側にあたる部分でナムプリックをつくっていた。ナムプリックはタイの家庭のいちばん基本的なおかず。乳鉢にトウガラシ、ニンニク、干しエビ、パラーを入れて、杵で潰し、最後にマナオ――タイのライムを搾る。
マークは家の中で背を向けて座っていた。あるいは、少し離れたところで道具の手入れをしていた。版によって位置は違うが、大事なのは「見るはずのない角度から見てしまった」ことだ。
ナークの手からマナオが転がり落ちた。
床板の隙間から、ころん、と下へ落ちた。高床だから、地面までは大人の背丈ほどある。普通なら、立ち上がって階段を降り、家の下に潜り込んで拾う。それが面倒だと思ったのだろう。ナークは、座ったまま、腕を伸ばした。
腕は、床板の隙間をすり抜けて伸びた。肘から先が、二倍になり、三倍になった。骨も皮も、糸を引くように、ずるずると。指先が地面のマナオをつまみ、そのまま、するすると巻き戻るように戻ってきた。
マークは、それを見た。
版によって、彼が見た角度が違う。上から見ていたという話もあるし、たまたま床下にいて、板の隙間から「上で座っている妻の腕が自分の目の前まで降りてきた」という、より悪夢的な構図の話もある。一九九九年の映画版はさらに残酷で、マークが床下に潜り込んだとき、そこに腐りかけた何かを見つけ、顔を上げると、板の隙間から髪を梳かしている妻の姿が見え、その腕がぬるりと降りてくる。
いずれにせよ、マークは声を出さなかった。出せなかった。
ナークは何事もなかったようにマナオを搾り、乳鉢を混ぜ、こう言った。
「できましたよ。ご飯にしましょう」
マークは、笑って、うなずいた。
これがこの物語のいちばん怖いところだと私は思う。悲鳴でも逃走でもない。彼はその場では、笑ったのだ。妻を怒らせたら殺される、と一瞬で理解できるくらいには、彼も村人の死に方を見てきていた。
完全再話・その五 夜の逃走
その夜、マークは眠ったふりをした。隣でナークが寝息を立てている。赤ん坊が小さく身じろぎする。マークは、暗闇の中で天井を見ていた。
真夜中、彼は起き上がった。壁の穴から、あるいは床板を外して、音もなく外へ出た。そして走った。
走りながら、彼は思い出していた。年寄りが言っていた話だ。幽霊は、ナットの葉を嫌う。ナットというのは、タイでよく生えているキク科の草で、和名でいうとサジオモダカ属ではなくブルメア属、要は独特の強い香りのする薬草だ。葉を揉むと、鼻を突く匂いがする。
背後で、女の声がした。
「あなた。どこへ行くの」
まだ遠い。でも、確実に近づいてくる。走る足音はしない。それが余計に怖い。
マークはナットの茂みに飛び込んで、身を伏せた。葉の匂いが顔じゅうにまとわりついた。
足音のしない気配が、すぐ横を通り過ぎた。
「あなた。どこ。ねえ。返事をして」
声はだんだん遠ざかり、それからまた戻ってきた。何度も何度も、茂みの周りを行き来した。夜明けが近づく気配がしたとき、ようやくそれは消えた。
マークは這い出して、また走った。行き先はひとつしかない。ワット・マハブット。村の寺だ。境内は仏の結界であり、霊は入れない。
彼は山門をくぐって倒れ込み、僧たちに助け起こされ、そのまま剃髪した。出家した男には、霊も手を出せない。
完全再話・その六 荒れる幽霊と、僧の到来
夫を奪われたと知ったナークは、荒れた。
村人が悪い、と彼女は考えた。あいつらが余計なことを吹き込んだから、夫は逃げた。だから彼女は、村を壊しにかかった。
夜になると、家の戸を叩く音がする。開けると誰もいない。井戸から手が伸びる。田んぼの水面に女の顔が映る。舟が勝手に沈む。子どもが泣きやまなくなる。村人は日が暮れると外に出なくなり、家じゅうの窓に呪符を貼り、それでも朝になると誰かが死んでいた。
たまりかねた村人たちは、ナークとマークの家に火を放った。柱が焼け落ちるまで見届けて、これで終わったと思った。翌晩、焼け跡に女が立っていた。前より怒っていた。
こうなると、村の手には負えない。ここから先は、「誰がナークを鎮めたか」で話が何通りにも分かれる。この分岐こそが、メー・ナーク伝説のいちばん面白いところなので、ひとつずつ独立させて書いていく。
別バージョンその一 壺に封じて運河へ
もっとも古風で、いちばん民話らしいのがこれだ。
森から呪術師、あるいはモータムと呼ばれる霊媒的な術者が呼ばれてくる。彼は儀式を行い、ナークの霊を素焼きの壺に吸い込ませ、蓋をして呪文で封じた。そして、その壺をプラカノン運河に投げ込んだ。
村は静かになった。
だが、話には続きがある。何年もあと、運河で漁をしていた漁師が、網に妙な壺がかかったのを引き上げた。あるいは、川辺に住む老夫婦が拾った。中身が気になって、蓋を開けた。
出た。
再びプラカノンは恐怖に包まれる。この「うっかり開けてしまう」の反復が、いかにも民話らしい。日本の玉手箱と同じで、封印譚には必ず「開ける馬鹿」がいる。
別バージョンその二 少年僧ネーン・チウ
日本語圏の資料でもしばしば紹介されるのが、少年僧が退治する版だ。
ネーンというのはタイ語で見習い僧、沙弥のこと。まだ声変わりもしていないような子どもの僧が、大人の術者たちがことごとく失敗したあとに現れて、あっさりナークを鎮めてしまう。徳の高さは年齢に比例しない、というタイ仏教的な教訓が入っている。
この版では、ナークの遺骨は掘り出され、運河に投じられたとされる。少年僧の名はネーン・チウと伝わる。
別バージョンその三 額の骨と、腰帯
いちばん有名で、いちばん生々しいのがこれだ。
呼ばれたのは、ソムデット・プラ・プッタチャーン(トー・プロマランシー)。通称ソムデット・トー。実在の高僧である。一七八八年生まれ、一八七二年没。アユタヤ生まれ。ラーマ二世の落とし子だという説があり、つまりラーマ一世の孫にあたる。モンクット王が出家していた時代の師であり、王位についてからも相談役をつとめた。プラ・ソムデットという護符の作者としても知られ、その護符は今もタイの護符市場で桁違いの値がつく。
つまり、タイ人にとって「この人が出てきたらもう終わり」という格の僧だ。
ソムデット・トーはナークの墓を掘らせ、遺体の額の骨、前頭骨の一片を取り出した。そこに呪を刻み、彼女の霊をその骨に封じ込めた。そして、その骨片を自分の腰帯に結びつけて持ち歩いた。逃げられないように、身につけて離さなかったのだ。
この額の骨の護符が、その後どこへ行ったか。伝承では、王室に伝わったとされる。あるいは、ラーマ五世の王子で「海軍の父」と呼ばれるチュムポーン親王、アパーカラー・キアッティウォン殿下が所有していたという。親王は医術と呪術に通じた人物としても知られる。
そして現在、その骨の行方は分からない。
これが効いている。日本の怪談でいえば「その掛け軸は今も蔵のどこかにある」という締め方と同じで、物語を現在につなげる装置だ。バンコクのどこかに、あるいは誰かの首から下がった護符の中に、メー・ナークの額の骨がある。そう思うと、話は終わらない。
別バージョンその四 「来世で会える」
いちばん新しく、いちばん優しい版がこれだ。
高僧は、ナークを力ずくで封じない。彼女の前に座り、静かに説く。
「お前が今しがみついているものは、すべて壊れる。夫の体も、お前の体も、この村も。だが、業は続く。この生で夫と添えなかったのなら、次の生で添えばよい。手を離しなさい」
ナークは泣く。そして、自分から去っていく。
この版が主流になったのは二十世紀後半、とくに一九九九年の映画『ナーン・ナーク』以降だ。ホラーだった話が、仏教的な救済譚に読み替えられた。恐怖の物語から、執着と手放しの物語へ。この変化については、あとでもう一度書く。
初出をたどる 一八九九年三月十日の新聞
さて、ここからは冷たい話をする。
この物語には、実は「初出」がある。文献としてたどれるいちばん古い活字は、一八九九年三月十日付の新聞『サイアム・プラペート』に載った記事だ。書いたのは、コー・ソー・ロー・クラープ。タイ近代史では有名な、というより悪名高い人物である。自称歴史家、出版人、王室文書の写しを勝手に刊行して問題になったこともある、癖の強いジャーナリストだ。この記事を近代になって発掘し、学術的に紹介したのが、タイの歴史研究者アネーク・ナウィカムーンである。
クラープが書いたのは、こういう内容だ。
プラカノンのタムボン(区)の長で、クン・シーという人物がいた。その娘が、アムデーン・ナーク。アムデーンは既婚女性につける古い敬称で、要するに「ナークさん」。彼女は妊娠中に死んだ。
夫の名前は、伝説で言うマークではなく、チュムだったという。
そして、幽霊が出るという噂の出所について、クラープは身も蓋もない説明をつける。ナークには先妻の子か、あるいは連れ子の息子がいた。母が死んだあと、父が再婚すれば、遺産が継母のほうに流れる。それを恐れた息子が、母の幽霊が出るという噂を自分で流した。しかも、自分で女の格好をして家のまわりをうろつき、石を投げ、人を追い払った。
つまり、遺産目当ての狂言だった、というのだ。
この記事が、メー・ナーク伝説の最古の文字記録である。皮肉なことに、いちばん古い文献が「あれは作り話だ」と書いている。
実在論争 ナークはいたのか、いなかったのか
ここから論争になる。
実在派の主張は、こうだ。クラープの記事そのものが、「アムデーン・ナークという実在の女性がいた」ことを前提にしている。彼が否定したのは幽霊の実在であって、ナークという女の実在ではない。村長の娘、名前、夫の名、死因まで具体的に書かれている以上、モデルになった人物はいたと考えるほうが自然だ。しかも一八九九年時点で、その出来事は「数十年前のこと」として語られている。ラーマ四世期という時代設定はここから来る。
さらに、ワット・マハブットの周辺には「ナークの墓があった場所」という言い伝えが残る。寺そのものは古い。一七六二年、アユタヤ陥落の五年前に建てられたとされる。プラ・マハブットという僧が村に立ち寄り、寺がないなら住んでくれと村人に請われて留まった。それが寺号の由来だという。歴史のある土地なのだ。
否定派の主張は、もっと単純だ。同時代史料がない。ラーマ四世期の役所の記録にも、寺の記録にも、アムデーン・ナークの死は出てこない。クラープという人物は、史料をでっち上げた前科がある。彼が書いたというだけでは、何の裏づけにもならない。
しかも面白いことに、クラープの「息子の狂言説」自体が、当時としてはやたらと近代的な合理主義の香りがする。西洋的な啓蒙の姿勢を身につけたインテリが、田舎の迷信を「実はこういうカラクリでした」と解いてみせる、という書き方だ。これはこれで、時代の産物である。つまり、狂言説もまた一種の「物語」でありうる。
私見を言うと、この論争に決着はつかないし、つかないほうがいい。産褥で死んだ女がいて、その家の周りで妙なことが続いて、村人が噂をして、遺産争いが絡んで、噂が膨らんで、誰かが芝居を打った。全部が同時に本当だった、という可能性がいちばん高い。怪談というのは、たいていそういうふうにできている。
幽霊が国民的スターになった日
もうひとつ、実在論争より面白い記録がある。
ダムロン親王――ラーマ五世の弟で、タイ近代史学の父と呼ばれる人物――が、子どもの頃の逸話を書き残している。ワット・プラケオで、集まった人々に「いちばん有名な人物は誰か」と尋ねたら、大多数が「メー・ナーク」と答えたというのだ。時期はおおむね一八四〇年代から一八六〇年代あたりと推定されている。
王も高僧も差し置いて、幽霊が一位。この時点でもう、メー・ナークは国民的スターだった。
さらに時代は下る。一九四二年十二月一日、当時の首相ピブーンソンクラーム元帥が、「サマッキー・タイ」という筆名で新聞にコラムを書いた。時は大東亜戦争のさなか。バンコクは大洪水に見舞われ、日本軍の意図をめぐって流言が飛び交っていた。
その流言を戒めるために、元帥が持ち出したのがメー・ナークである。縁起の悪いことを言うやつのところには、メー・ナークが添い寝しに行くぞ、と書いた。冗談まじりの脅しだ。
一国の首相が、戦時下の世論統制に幽霊を使う。それだけの知名度と親しみが、この幽霊にはあった。
映画化の百年 三十本を超えるメー・ナーク
メー・ナークは、タイ映画がタイ映画になる前から映画になっていた。
判明している最古の映画化は、一九二三年四月九日公開の『ナーン・ナーク・プラカノン』。三十五ミリの白黒サイレント。脚本はロー・ウッタティット、製作はモームラーチャウォン・アヌサック・ハッサディン。日本でいえば関東大震災の年である。
続いて一九二四年に『ナーン・ナーク復活』、一九四六年に『ナーン・ナーク特別版』。一九四九年七月二十一日に『メー・ナーク蘇生』。一九五〇年十一月二十三日公開の『メー・ナークの子』はタイ初のカラー版だったとされる。同年十一月二十七日には『ナーン・ナークの霊愛』。
つまり、一九五〇年代に入る前だけで九本ある。
戦後の代表作が、一九五九年の『メー・ナーク・プラカノン』。監督はランシー・タッサナパヤック、脚本はセーニー・コーマーラチュン。主演のプリヤー・ルンルアンは、その後五回もメー・ナークを演じ、事実上「メー・ナーク女優」になった。この一九五九年版の脚本は生命力が異常に強く、二〇〇四年版でも再利用されている。
そこからは、ほとんど暴走だ。一九六〇年『メー・ナーク蘇生』、一九六二年『プラカノンのメー・ナークの霊愛』、一九六八年『メー・ナーク雷鳴の恋』。一九七〇年の『メー・ナーク・プラナコーン』では舞台を現代のバンコク都心に移し、コメディ化した。主演はミット・チャイバンチャーとアルンヤー・ナームウォン、当時の大スターである。
一九七三年には六月二十九日と八月三十一日に二本、同じスリヤー・ドゥアントーンディー監督で公開されている。二か月で二本だ。
そして一九七五年『メー・ナーク・アメリカ』。翌一九七六年『メー・ナーク東京襲撃』。もはや原型がない。幽霊が海外旅行に出る。日本の「ゴジラ対」シリーズに近いノリだ。一九七八年には二部構成の大作版が、当時の看板俳優ソムバット・メータニーを迎えて作られた。
一九九二年には『プラカノンのメー・ナークへの誓い』が公開され、同年テレビシリーズ『メー・ナークがピー・ポープに出会う』も放送された。他所の妖怪とのクロスオーバーである。二〇一一年には『メー・ナーク、ピー・ポープ三匹と戦う』という、もはや怪獣大戦争みたいな作品まで出る。
数えかたにもよるが、タイの映画研究誌が数えたところでは三十二本を超える。これに加えてテレビドラマ、舞台、リケー(タイの大衆芝居)、漫画、ミュージカル、そしてオペラがある。オペラは二〇〇三年、ソムトウ・スチャリトクンが作曲した『メー・ナーク』。二〇〇五年と二〇一一年に再演された。二〇〇九年にはタコンキアット・ウィーラワン演出のミュージカル版。二〇二四年にはチャンネル3でドラマ版『ナーン・ナーク伝説』が放送された。
一人の幽霊が、百年にわたってこれだけ再生産され続けている例は、世界の怪談を見渡してもそう多くない。
一九九九年『ナーン・ナーク』が変えたもの
すべてを変えたのが、一九九九年七月二十三日公開の『ナーン・ナーク』だ。
監督はノンスィー・ニミブット。主演のナーク役にインティラー・チャルーンプラー、マーク役にウィナイ・クライブット。
この映画がやったのは、怪談を「時代劇」にしたことだった。それまでのメー・ナーク映画は、驚かせて笑わせるための見世物だった。ノンスィーは違った。冒頭にラーマ四世の日食観測を置き、シャム=ベトナム戦争の泥と血を描き、十九世紀の村の暮らしを民俗学的な精度で再現した。高床の家、水路、僧の読経、葬送の作法。画面の質感が完全に別物になった。
そして、怖がらせる相手を変えた。観客に「うわ出た」と言わせるのではなく、「かわいそうだ」と言わせる方向に舵を切った。ナークは化け物ではなく、死んだことに気づけない女として描かれる。
興行成績は爆発した。タイ映画で初めて興行収入一億バーツを突破し、最終的に一億五千万バーツを超えた。チケットが一枚百バーツの時代である。単純計算で百五十万枚だ。スパンナホン賞では作品賞、監督賞、撮影賞、美術賞など七部門を獲得した。二〇一九年には公開二十周年でデジタル版が再公開されている。
日本でも『ナンナーク』の題で紹介された。タイ映画が国際的に見られる存在になった、その転換点がここにある。
ラストシーンで、ソムデット・トーがナークに語りかける場面は、タイ映画史に残る名場面とされる。夫との別れを受け入れられない霊に向かって、僧は執着の空しさを説く。ナークは泣きながら、手を離す。そして僧は、彼女の額の骨を取り、腰帯に結ぶ。
これで、メー・ナークは「怖い話」から降りて、「悲しい話」になった。
二〇一三年『ピー・マーク』が壊したもの
十四年後、こんどはそれを笑い飛ばす映画が来る。
二〇一三年三月二十八日公開、『ピー・マーク・プラカノン』。監督はバンジョン・ピサヤタナクーン。ハリウッドでリメイクされた『心霊写真』の監督である。日本では二〇一四年十月十八日に『愛しのゴースト』の題で公開された。
主演のマークにマリオ・マウラー、ナークにダウィカー・ホーン。舞台はモンクット王の御代のまま、しかしノリはコメディだ。マークが戦場から連れ帰った四人の悪友たちが、「お前の嫁、幽霊じゃね?」と疑いはじめ、確かめようとしてはことごとく空回りする。
そして、あの床下の腕の場面が、笑いの見せ場に変換される。ナークが縁側から腕を伸ばす。友人たちが凍りつく。マークは気づかない。原作でいちばん怖い瞬間が、いちばん笑える瞬間になっている。
さらにこの映画は、決定的な逆転をやってのける。終盤、マークは「最初から知っていた」と告白するのだ。幽霊だと分かっていて、それでも一緒にいることを選んだ。悪友たちも、幽霊だと分かった上で、じゃあ一緒に暮らせばいいじゃんと受け入れる。
伝説では、マークは逃げた。逃げたからナークは狂った。この映画は、その前提を消した。
結果はご存じの通りだ。全世界興行収入十億バーツ超、およそ三千三百万ドル。チケット販売枚数千六百万枚。タイ映画史上の興行記録を、それまでの記録の三倍に塗り替えた。タイ国内では『アバター』も『アナと雪の女王』も抜いた。東南アジア全域、香港、日本、ミャンマー、イギリスで公開され、東南アジア全ての国で公開された初のタイ映画になった。
『ナーン・ナーク』が「悲しい話」にしたものを、『ピー・マーク』は「愛おしい話」にした。その差が、興行収入の桁を一つ上げた。
ワット・マハブットの現在
さて、廟の話に戻る。
寺の正式名称はワット・マハブット。だが、タクシーの運転手に正式名を言っても通じにくい。「メー・ナーク・プラカノン」と言えば一発で分かる。そして高い確率で、こう聞かれる。
「怖くないの?」
行政区としては、一九九七年の区画変更でプラカノン区からスワンルワン区に移った。地元住民はこれに相当抵抗したという。自分たちの土地の誇りを取り上げられるような気がしたのだろう。それくらい、メー・ナークはこの土地のアイデンティティになっている。
最寄りはBTSオンヌット駅。そこから徒歩なら二十分ほど、スクムウィット・ソイ77を入っていく。ビッグシーの前からソンテウ(乗合トラック)に乗る手もある。
境内は思ったより明るい。屋台が並び、飯を食っている人がいて、猫が寝ている。本堂の壁には地獄絵が描かれていて、こちらのほうがよほど怖い。参道にも境内にも屋台がびっしりで、日本の縁日みたいな空気だ。
奥へ進むと、運河のそばに、木造の低い建物がある。屋根が木の幹を包み込むようにして建っている。ここが廟だ。
中央に、金箔まみれのメー・ナーク像が座っている。膝の上、あるいは腕の中に、小さな金色の赤ん坊。壁には彼女の肖像画が何枚も掛かっている。像の後ろには、タイの伝統的な女物の衣装がずらりと吊るされている。左右の壁にも、鈴なりに掛かっている。
そのすべてが、願いが叶った人からの礼だ。
廟の作法と、供物の意味
参拝の手順はだいたい決まっている。
入口の売店で、二十バーツのお供えセットを買う。黄色いろうそくが一本、線香が二本、金箔の紙、それに黄色い花の飾り。ろうそくと線香に火をつけ、花を掛け、金箔を像に貼る。金箔を貼るというのは、タイの寺では基本の作法だ。だからメー・ナーク像は年々ぬるぬると金色になっていく。
紙幣は、金の盆に置くか、像の衣装に挟む。
供物には特徴がある。子どものおもちゃが異様に多い。ぬいぐるみ、ミニカー、風車。死んだ赤ん坊のためだ。そして女物の衣装。これは「メー・ナークは女だから、綺麗な服が欲しいはずだ」という、生々しく人間的な発想から来ている。
そしてこれが重要なのだが、衣装のお供えは「お礼」の様式である。願をかけて、叶ったら、必ず戻ってきて服を買って供える。あるいは、リケーの一座を呼んで芝居を奉納する。この「お礼参り」を怠ると、いただいたご利益が取り消される、と信じられている。
聞いていると、まるで人づきあいだ。頼みごとをして、叶ったら手土産を持って挨拶に行く。行かないと機嫌を損ねる。恐ろしい神様というより、面倒見はいいが義理に厳しい親戚のおばさんに近い。
境内の木には、色とりどりの布が幾重にも巻かれている。木に精霊が宿るというのはピー信仰の基本形で、これはメー・ナーク固有の作法ではない。
運河では、放生が行われる。市場で買ってきた魚、亀、カニ、カエルを水に放つ。徳を積む行為であるタンブンの一形態だ。ただし近年は、外来種の放流や生態系への影響から、控えるよう呼びかける声もある。
参拝時間はおおむね朝七時半から夕方五時半。ただし例外がある。宝くじの抽選前夜は、朝まで開いている。
宝くじの夜
タイの政府宝くじは月に二回、一日と十六日に抽選がある。タイ人の宝くじ好きは筋金入りで、事故現場の車のナンバー、僧の見た夢、木の幹に浮かんだ数字、あらゆるものが数字に変換される。
そして、メー・ナークは「よく当てる」という評判がある。
抽選前夜になると、廟の周辺は屋台村みたいになる。宝くじ売りが立ち、占い師が机を並べ、タロットまで出る。廟の中では、番号を教えてくださいと拝む人が列をなす。
番号の受け取り方はいくつかある。ひとつは、廟に置かれた籤引きの筒。十バーツで筒を振って、棒を一本出す。棒には番号が書いてあり、対応する紙にタイ語の託宣が書いてある。もうひとつは、ピンポン玉の入った箱から番号を引く方式。境内の木の幹に浮かんだ模様を数字と読む人もいる。木の表面のシミやコブに数字を見出すのは、タイの寺では珍しくない光景だ。
そして廟には、二十四時間の中継カメラが設置されている。テレビが常時、廟の様子を映している。家から拝むためだ。
近代的だな、と思う。だが考えてみれば、家から幽霊を拝めるようにするというのは、けっこう倒錯している。
徴兵くじの季節
もうひとつ、メー・ナークの得意分野がある。徴兵除けだ。
タイの徴兵制度は、毎年四月にくじ引きで行われる。赤い札を引けば入隊、黒い札を引けば免除。二十一歳前後の男たちが会場に集められ、大勢の家族に見守られながら、箱に手を突っ込む。人生が数秒で決まる。
だから四月、廟は若い男とその母親でいっぱいになる。
なぜメー・ナークなのか。理由は明快だ。彼女の悲劇は、夫が徴兵されたことから始まったからである。徴兵で夫を奪われた女なら、徴兵の理不尽さをいちばん知っている。だから、他人の息子や恋人が同じ目に遭わないよう、力を貸してくれるはずだ。
この「経験者だから頼れる」という発想が、私はいちばんタイらしいと思う。日本の神仏が「格が高いから頼る」対象なのに対して、メー・ナークは「同じ痛みを知っているから頼る」対象なのだ。
同じ理屈で、妊婦もここに来る。難産で死んだ女なら、難産の恐ろしさを誰よりも知っている。だから安産を守ってくれる。
論理としては倒錯している。だが、感情としては完璧に筋が通っている。
参拝と目撃の証言
ここからは、実際にこの場所を訪れた人たちの話を並べる。
ひとつめ。二〇一五年七月二十二日、バンコク近郊の「宝くじに当たる五大願掛けスポット」をめぐる企画で、日本人のブロガーがメー・ナーク廟を訪れている。オンヌット駅からソンテウでワット・マハブットへ。二十バーツのお供えセットを買い、黄色いろうそくと線香二本に火をつけ、金箔を貼り、花を掛ける。廟の中では十バーツで籤を引ける。筒を振って棒を出し、番号に対応した紙をもらう。書かれているのは全部タイ語だ。ピンポン玉の箱から番号を選べる仕掛けもあり、その番号の宝くじをその場で買える動線ができている。
この人が記録しているご利益の一覧が興味深い。宝くじの当選、願い事の成就、健康、仕事の安定、そして徴兵免除。あからさまに現世利益だ。恋愛成就も入る。恐怖とか祟りとか、そういう項目はどこにもない。
ふたつめ。日曜日に訪れた別の日本人旅行者は、境内の人出に度肝を抜かれている。「びっくりするくらい現地の人で溢れかえっていた」「観光客はほぼ皆無」。ガイドブックに載る名所ではなく、地元の人の生活の場としての信仰施設だという印象を強く受けたようだ。参道にも境内にも屋台がびっしりで、静かな寺を期待していたその人は少し面食らっている。本堂では蓮の形のろうそくを流し、僧から祝福を受け、壁の地獄絵に薄気味悪さを覚えたと書いている。
そして廟に着く。運河のそばの奥まった場所にあり、赤ん坊を抱いたメー・ナーク像が座っている。目立ったのは、若い参拝客が多いこと。彼らは真剣にろうそくを立て、手を合わせる。係の人が、燃え尽きたろうそくを次から次へと片づけていく。それくらい回転が速い。木に布を巻く人の列も途切れない。
みっつめ。金色のメー・ナーク人形の前に立った日本人ブロガーは、はっきり「ちょっと不気味である」「見ると背中がぞくっとしてしまう」と書いている。ただし、その恐怖の質が興味深い。像そのものが怖いというより、「これがタイの人たちにとって本当にあった話として信じられている」という事実が怖い、という書き方をしている。
外から来た人間にとっては物語だ。中にいる人にとっては歴史だ。その温度差に、背筋が寒くなる。
よっつめ。英語圏の取材記事では、地元で長年廟に通う人の言葉が引かれている。なぜ人を殺した霊を拝むのか、という問いに対する答えがこうだ。
「メー・ナークの廟がワット・マハブットにあるから、彼女はマークのそばにいられる。もう恨んでいない。だから今は、その力で人を助けているんだ」
理屈が通っている。寺は、マークが逃げ込んだ場所であり、彼が出家した場所でもある。そこに彼女の廟を建てたということは、夫婦を同じ敷地に住まわせたということだ。彼女は目的を達した。だから、もう怒っていない。
これは論理として美しいと思う。除霊ではなく、同居させることで解決する。追い出すのではなく、隣に住まわせる。
いつつめ。廟を訪れた欧米のライターが記録している空気は、「想像していたより不気味さがなく、むしろ変だった」というものだ。二十四時間開いている小さな広場。真ん中を色とりどりのチュールに包まれた木が突き抜けている。金の像。小さな金の赤ん坊。像の服には紙幣が挟まっている。左右にずらりと吊るされたタイの伝統衣装。売店ではその衣装を売っている。抽選日の夜になると、宝くじ売りと占い師とタロット占い師が集まってくる。
そして、二十四時間の生中継テレビ。
このライターがいちばん強調しているのは、「服を買って返しに来ないと、いただいたものを失う」という信仰だ。願いを叶えてもらったら、必ず礼をする。しないと持っていかれる。ここには明確な等価交換の感覚がある。
むっつめ。廟には、ガイドブックには書かれない小さな作法がいくつもある。肩と膝を隠す服装で行くこと。建物に入る前に靴を脱ぐこと。入場は無料だが、二十から百バーツ程度の喜捨が期待されていること。そして、廟の中で写真を撮るときは、像に対して足の裏を向けないこと。タイでは足の裏を人に向けるのは最大級の無礼で、それは相手が幽霊でも変わらない。
生者と同じ礼儀を求められる霊。これがメー・ナークの立ち位置をよく表している。
タイのピーという生態系
メー・ナークを理解するには、その背景にあるピー信仰の話をしなければならない。
ピーというタイ語は、精霊、妖怪、お化け、死霊のすべてを含む。仏教が来る前、バラモン教が来る前から、タイ族にはピーへの信仰があった。今も生きている。都市部では死霊のイメージが強いが、農村部では「小さな神々」に近い扱いを受ける。
分類の仕方はいくつもある。善霊と悪霊。自然霊(山の神、木の霊、水の神、穀霊)と、祖先霊や英雄霊。守護範囲による分類なら、家の霊、村の霊、国の守護霊。タイの家やビルの前に必ず建っている祠、サーンプラプームも、この体系の一部だ。
そのなかで、メー・ナークが属するのがピー・プラーイである。産褥で死んだ妊婦の霊。性格が荒く、生者を取り殺すとされる、いちばん危険な部類だ。難産で死ぬということは、この上なく無念な死に方であり、その無念がそのまま霊力になる。
ほかの有名どころも並べておく。
ピー・ポープ。東北タイの憑依霊で、排泄物や水牛や人間の臓物を好んで徘徊する。人に憑くと、その人は内臓を食い荒らされて死ぬ。村に憑依が発生すると、除霊師が呼ばれて調伏儀礼が行われる。これは今も現役の民俗である。
ピー・クラスー。おそらく東南アジア随一の造形的インパクトを持つ妖怪で、女の生首に内臓がぶら下がったまま夜空を飛ぶ。青白い光を放ちながら、汚物や胎盤を漁る。カンボジアではアープ、ラオスやマレーシアにも近縁がいる。
ピー・ガ。北タイの悪霊で、フクロウを媒介にして人に憑く。憑かれた人は正気を失い、親族を襲う。家系に憑くこともあり、その場合は毎年の饗応儀礼で機嫌をとる。
ピー・ターイ・ホン。事故死や横死をした者の霊。無念の死であるほど強い。
こうやって並べると、メー・ナークがどれだけ特殊かが分かる。ピー・ポープもピー・クラスーもピー・ガも、拝む対象ではない。追い払う対象だ。廟は建たない。
メー・ナークだけが、危険な部類の霊でありながら、廟を持ち、供物を受け、二十四時間中継され、宝くじの番号を頼まれている。
この例外性が、メー・ナーク現象の核心である。
東南アジアの姉妹たち
視野を広げると、東南アジア一帯に「出産で死んだ女の霊」の系譜がある。
マレー半島とインドネシアのポンティアナック。名前そのものが「出産で死んだ女」を意味するマレー語に由来するとされる。青白い肌、長い黒髪、白い服。満月の夜に現れ、赤ん坊の泣き声や、フランジパニの甘い香りで到来が知れる。男を襲うときは絶世の美女の姿をとり、爪で腹を裂いて臓物を食う。退治法として、うなじの穴に釘を打ち込むと美しい女に戻り、良き妻になるという伝承がある。インドネシアではクンティラナックと呼ばれ、鳥の姿で処女や若い女の血を吸うとも語られる。インドネシア領ボルネオのポンティアナックという都市名も、この妖怪に由来するという説がある。
フィリピンのマナナンガル。上半身と下半身が分離して、翼を生やして飛び、妊婦を襲って胎児を吸う。ピー・クラスーとよく似ている。
こうして見ると、メー・ナークは決して孤立した怪異ではない。出産で死んだ女が怪物になる、という語りは、東南アジア全域の基層文化だ。近代以前、出産は女性の主要な死因だった。母子ともに死ぬことは日常だった。その死をどう説明し、どう扱うかという問題に、それぞれの地域がそれぞれの怪談で答えた。
だが、他の姉妹たちと決定的に違うのは、メー・ナークが「怪物になりきらなかった」ことだ。
ポンティアナックは、人を食う。爪も牙もある。動機は基本的に「男への恨み」や「飢え」であって、特定の誰かへの愛ではない。
メー・ナークには、名前のある夫がいる。抱いている赤ん坊がいる。彼女がしていたのは、人を襲うことではなく、飯を炊くことだった。ナムプリックをつくっていた。マナオを拾おうとしていた。
そこが違う。メー・ナークが伸ばした腕は、人を殺すための腕ではなく、落としたライムを拾うための腕だった。
なぜ怖いのか
では、この話のどこが怖いのか。改めて考えてみる。
第一に、「日常のフォーム」で来ることだ。
血まみれで襲ってくる幽霊は、少なくとも幽霊として振る舞っている。メー・ナークは違う。飯を炊く。洗濯をする。夫を出迎える。子をあやす。彼女がやっているのは全部、生きている妻がやることだ。だから、どこにも境目がない。恐怖の始まる線が引けない。
第二に、「気づけない」ことだ。
村じゅうが知っている。マークだけが知らない。読者や観客は最初から知っている。だから、マークが妻に微笑みかけるたび、こちらが冷や汗をかく。サスペンスの構造として、これは異常に強い。しかも、教えようとした人間から死んでいく。真実を知る者が消されていく構図は、現代のホラーがいまだに使い続けている型だ。
第三に、「腕」だ。
床下に伸びる腕という映像は、発明としか言いようがない。恐ろしい造形をしているわけではない。ただ、長い。人体の比率が壊れているだけだ。だが、この「わずかに間違っている」ことの気持ち悪さは、化け物の顔よりずっと深く刺さる。しかも、その動作の目的が「落とし物を拾う」という、限りなく日常的な行為なのが効いている。
第四に、「彼女に悪意がない」ことだ。
ナークは、マークを害そうとしていない。むしろ愛している。彼女がやりたいのは、夫と子と三人で暮らすことだけだ。彼女が人を殺すのは、その暮らしを邪魔されたときだけである。
つまり、彼女の暴力は完全に愛の裏面だ。ここが怖い。悪意なら避けられる。愛は避けられない。
第五に、「彼女は自分が死んだことを知らない」可能性だ。
版によって扱いは違うが、一九九九年の映画版が採用したのはこの解釈である。彼女は死んだと分かっていない。だから帰ってきた夫を迎える。だから台所に立つ。だから、周りが騒ぐ理由が分からない。
自分が死んだことに気づかないまま日常を続ける。これは、人間が想像しうる孤独の極北のひとつだ。
なぜ「愛おしい」のか
そして、ここからが本題である。
これだけ怖い要素を並べておいて、タイの人々はメー・ナークを「愛おしい」と語る。廟に服を買っていく。おもちゃを供える。宝くじの番号を頼む。徴兵くじの前に泣きながら祈る。
なぜか。理由をいくつか挙げる。
ひとつ。彼女の動機が、誰にでも分かるからだ。
夫と暮らしたい。子を抱きたい。それだけである。呪いも復讐も、思想も怨念も、そこには何も混じっていない。祟る幽霊は、たいてい何かに裏切られている。メー・ナークは裏切られていない。ただ、時間切れになっただけだ。
ふたつ。彼女が「被害者」の側にいるからだ。
死んだのは彼女のせいではない。徴兵は国家が決めた。出産は避けられなかった。夫は逃げた。村人は火をつけた。僧は封じた。彼女は最初から最後まで、何かをされる側にいる。物語のなかで、彼女が能動的に選んだのは「待つ」ことだけだ。
みっつ。仏教的な読み替えが働いているからだ。
タイ仏教の枠組みでは、彼女は「執着」の典型例である。手放せなかった者。ただし、この文脈では執着は悪ではなく、哀れみの対象になる。輪廻の途中で立ち往生している存在に対して、正しい態度は、恐怖ではなく慈悲だ。だから高僧は彼女を滅ぼさず、説き聞かせる。
この構図が、そのまま参拝者の態度になっている。怖がるのではなく、憐れむ。憐れんでいるうちに、情が湧く。情が湧いたら、供物を持っていく。
よっつ。徴兵と出産という、いまも続いている痛みに直結しているからだ。
十九世紀の徴発と、現在の四月のくじ引きは、制度としてはまったく別物だ。だが、家族が男を持っていかれるという体験の質は変わらない。出産のリスクは医療で減ったが、恐怖は消えていない。
つまりメー・ナークは、過去の怪談ではない。今も現役の不安を扱っている。だから拝まれる。
いつつ。映画が、彼女を書き換え続けたからだ。
一九二〇年代から五〇年代の映画は、彼女を見世物にした。六〇年代から七〇年代は、ギャグにした。アメリカにも東京にも行かせた。ピー・ポープと戦わせた。
一九九九年、ノンスィー・ニミブットが彼女に涙を与えた。二〇一三年、バンジョン・ピサヤタナクーンが彼女に居場所を与えた。『ピー・マーク』のマークは逃げない。「知ってた」と言う。それが千六百万人に見られた。
物語は、語り直されるたびに書き換わる。百年語り直され続けた結果、メー・ナークは化け物から国民的ヒロインになった。
むっつ。廟の存在が、彼女を「近所の人」にしたからだ。
祭られている霊は、もう野良ではない。住所がある。訪問できる。手土産を渡せる。文句も言える。願いを聞いてもらえる。礼をしないと怒る。
この「関係を持てる」という一点が、恐怖を親しみに変えた最大の装置だと思う。タイの人がメー・ナークを語るときの照れくさそうな笑いは、有名人を語る顔ではなく、近所のちょっと変わったおばさんを語る顔に近い。
逃げた夫と、逃げなかった夫
ここからは、これまでの整理を踏まえた上で、もう少し踏み込んだことを書く。
まず、この物語の構造そのものについて。
メー・ナーク伝説は、実は「幽霊譚」としてはかなり変わった形をしている。典型的な幽霊譚は、死者が生者の世界に侵入してくる話だ。境界を越えて、あってはならないものが来る。だから恐怖が発生する。
だがメー・ナークの場合、侵入してきていない。彼女は最初からそこにいた。自分の家に、自分の夫と、自分の子と暮らしている。侵入してきたのは、むしろ「彼女は死んでいる」という事実のほうだ。
もっと言えば、物語のなかで境界を越えたのはマークのほうである。彼は死者の世界に帰ってきて、そこでしばらく幸福に暮らした。彼が逃げ出した瞬間に、その世界は崩壊した。
この反転が、この話の底知れなさをつくっている。私たちは通常、「幽霊が出た、怖い」という枠で怪談を読む。だがこの話は、「幽霊の家に招かれて、居心地よく暮らしてしまった男」の話としても読める。
そして問われるのは、こうだ。あの床下の腕を見たあと、マークにはどんな選択肢があったのか。
伝説のマークは逃げた。逃げた結果、村人が何人も死んだ。彼女は狂い、寺の僧に封じられ、額の骨にされた。
『ピー・マーク』のマークは逃げなかった。結果、誰も死ななかった。
この二つの結末の差は、単なる脚本の違いではない。「異物をどう扱うか」という、極めて現代的な問いへの二つの回答になっている。排除するか、同居するか。二〇一三年のタイの観客は、後者を選んだ映画に千六百万枚のチケットを買った。
次に、実在論争についてもう一歩進めておきたい。
一八九九年のコー・ソー・ロー・クラープの記事が最古の文字記録である、という事実は、実はかなり重要だ。というのも、ダムロン親王の逸話――「いちばん有名な人物はメー・ナーク」――は、それより半世紀ほど前の記憶を指している。つまり、活字になるずっと前から、この幽霊はバンコクじゅうで有名だった。
これが意味するのは、メー・ナークが「文字の外」で成立し、成長した物語だということだ。誰かが書いた小説ではない。舟の上で、市場で、寺の縁側で、口から口へ伝わって膨れ上がった。
だからこそ、初出の記事が「あれは息子の狂言だった」と暴露的な調子で書かれたのも納得がいく。クラープは、あまりにも広まりすぎた噂に、近代人としてカウンターを当てようとしたのだ。
そして、そのカウンターは、完全に失敗した。それどころか、彼が記録に残した「アムデーン・ナーク」「父はクン・シー」「夫はチュム」という具体的な固有名詞が、逆に伝説にリアリティを供給する結果になった。名前がついたのだ。名前がついた怪談は、死ににくくなる。
否定しようとした記事が、いちばんの証拠として引用され続ける。これは怪談研究では珍しくない現象だが、メー・ナークの場合、そのスケールが桁違いに大きい。
三点目。額の骨の護符について。
この要素は、物語のなかでもっとも生々しく、もっとも「実物がありそうな」部分だ。ソムデット・トーが実在の高僧であること、彼の作った護符が今も高額で取引されていること、チュムポーン親王が呪術的な事柄に関心を持っていたこと。周辺の事実がすべて実在するせいで、この一点だけが強烈な現実味を帯びる。
そして「現在は行方不明」。
この設定は、怪談の生命維持装置として完璧に機能している。もし国立博物館に展示されていたら、話はそこで終わる。見に行けば終わる。行方不明だから、終わらない。
タイの護符市場は巨大な産業で、バンコクのタープラチャンあたりに行けば、無数の露店が護符を並べている。そのどこかに、と考える人間は今も絶えない。「メー・ナークの骨から作られた」と称する品も、当然のように出回っている。
四点目。廟の「二十四時間中継テレビ」について、もう少し考えておきたい。
これは冗談みたいな話に聞こえるが、信仰の技術史としては非常に興味深い。参拝とは本来、身体をその場所に運ぶ行為だ。距離を移動するコストそのものが、供物の一部である。
その前提を、中継カメラは崩す。家から拝める。移動コストがゼロになる。
にもかかわらず、廟は今も混んでいる。抽選前夜には人が溢れる。四月には若い男とその母親で埋まる。
つまり、中継があっても人は来る。来ることそのものに意味があると、みんな分かっている。この矛盾を平然と両立させているところが、タイの信仰の柔軟さだと思う。合理的な便利さを導入しても、非合理な熱心さは減らない。むしろ、テレビで見た人が「やっぱり行こう」と思う。
五点目。「怖い」と「愛おしい」の共存について。
日本の怪談文化と比べると、この点はかなり際立つ。日本にも情の深い幽霊はいる。だが、幽霊に廟を建てて日常的に拝み、宝くじの番号を頼む、という距離感の近さは珍しい。菅原道真も平将門も、御霊として祀られてはいるが、あれは「怒りを鎮めるため」の祀りだ。恐れが先にある。
メー・ナークの場合、恐れよりも共感が先に来ている。地元の人の言葉を借りれば、「彼女はもう恨んでいない、だから力を貸してくれる」。この認識は、御霊信仰とは微妙に違う。鎮めているのではなく、和解しているのだ。
その和解を成立させた最大の要因は、廟がワット・マハブットの敷地内にあることだと思う。寺は、マークが逃げ込み、出家した場所だ。そこに彼女の廟を建てるということは、逃げた夫と追いかけた妻を、同じ敷地に住まわせるということである。
物理的に、二人は一緒にいる。
これは、どんな除霊よりも根本的な解決だ。彼女が求めていたのは、夫のそばにいることだけだった。ならば、そばにいさせればいい。誰が最初にそう考えたのかは分からないが、この解決策を思いついた人間は、怪談というものの本質を理解していたと思う。
六点目。この物語が現代のタイ社会で果たしている機能について。
徴兵くじの前に若者が廟に来る。これは、宗教的行為であると同時に、社会的な感情のガス抜きでもある。徴兵制への不満を、直接的な政治的言葉で表明するのは、タイでは必ずしも簡単ではない。だが、「メー・ナーク、赤い札を引きませんように」と祈ることは誰にでもできる。
そこには、制度への静かな抗議が含まれている。国家が男を連れていく。それを止めてくれるのは、国家に男を連れていかれた女の霊だ。
この構図は、あまりにも出来すぎている。だが、実際に四月の廟で起きていることは、そういうことだ。
同様に、妊婦が安産を祈る行為も、医療体制への不安と結びついている。宝くじの番号を頼む行為は、経済的な行き詰まりと結びついている。廟に集まる願いの内容を並べると、そのまま現代タイ社会の不安の一覧になる。
幽霊は、社会の不安が結晶する場所だ。メー・ナークは百五十年、その役割を務め続けている。
七点目。物語の未来について。
映画は今も作られている。二〇二四年にはテレビドラマ版が放送され、二〇二五年にもチューサック・イアムスック監督による新作が発表されている。三十本を超える映像化を経ても、まだ止まらない。
興味深いのは、作られるたびにナークの「怖さ」が減り、「愛おしさ」が増していることだ。一九二三年のサイレント映画は見世物だった。一九五九年版は本格的な怪談だった。一九九九年版は悲劇だった。二〇一三年版はコメディでありラブストーリーだった。
このまま行くと、いつかナークが完全に怖くなくなる日が来るのだろうか。
来ないと思う。なぜなら、床下に伸びる腕は、どれだけ優しく描いても怖いからだ。あの映像だけは、コメディにしても怖い。『ピー・マーク』でさえ、あの場面は笑いのなかに一瞬、本物の悪寒を混ぜてくる。
物語がどれだけ書き換えられても、あの一点だけは書き換えられない。ライムを拾うために腕が伸びる。ただそれだけの、たった数秒の映像が、百五十年この物語を生かしている。
最後に、あの場面をもう一度思い返してほしい。
夕方の高床の家。乳鉢を挽く音。トウガラシの匂い。転がり落ちるマナオ。座ったまま伸びる腕。何事もなかったように「ご飯にしましょう」と言う妻の声。
そして、笑ってうなずいた夫。
私はこの物語の本当に恐ろしい部分は、幽霊のほうではなく、その瞬間の夫のほうにあると思っている。彼はもう分かっていた。分かった上で、その日の夕飯を、妻と一緒に食べたのだ。
その一食が、どんな味だったか。
タイでいちばん有名な幽霊の話は、結局のところ、そこに戻ってくる。
