森で人が消える、という話をしよう
アメリカの国立公園や国有林で、毎年相当数の人間が行方不明になる。これ自体は別に不思議じゃない。年間の入園者は億単位、地形は差別なく人を殺しにかかる。崖から落ちる、川に流される、道に迷って低体温症で死ぬ。悲しいけど、普通のことだ。
だが、その中に「どうにも形が変なケース」が混ざっている。充分な装備を持ったベテランのハンターが、仲間から二十メートル離れた谷間に入ってそれっきり。三歳の子供が、大人でもしんどい急斜面を登った先で見つかる。世界最高の追跡犬が、地面に鼻をつけた瞬間に嫌がって動かなくなる。
こういう事例を一人で何年もかけて拾い集め、「これにはパターンがある」と言い出した男がいる。元警官のデヴィッド・ポーリデス。彼が付けたシリーズ名が「ミッシング411」だ。
元刑事が、ビッグフットの次に見つけたもの
ポーリデスの経歴はそれ自体がこの話の一部になっている。1977年から二十年にわたって法執行の現場にいた人間だ。1980年にサンノゼ市警に移り、SWATやパトロール、街頭犯罪部門を経験している。つまり「行方不明者の報告書を読む」という作業に、職業的に慣れている。この背景が、彼の本に独特の説得力を与えている。オカルトマニアが騒いでいるのとは違う、という印象を与えるからだ。
ただし、彼のキャリアにはケチもついている。1996年12月に、慈善勧募をめぐる虚偽の容疑で軽犯罪に問われている。その後警察を離れ、彼はビッグフット研究にのめり込む。北米ビッグフット捜索という団体を立ち上げ、2013年にはメルバ・ケッチャムという人物によるDNA研究を組織した。この研究は遺伝学者から「ほとんど意味不明」とまで言われる厳しい評価を受けている。この前歴が、後のミッシング411への評価を大きく左右することになる。
彼自身は、一貫して「自分は何が原因かについて理論を持っていない」と言い続けている。「容疑者の範囲は狭まっている」とだけ言って、そこから先を言わない。この沈黙が、ファンにとっては誠実さに見え、懐疑派にとっては計算高いやり方に見える。
なぜ「411」なのか
この数字については、説が分かれている。いちばん広く知られているのは、北米で番号案内・情報提供を意味する電話番号が411だから、というものだ。英語圏では「give me the 411」で「情報を教えてくれ」というスラングになる。つまり「失踪者についての情報」という意味合いだ。
一方で、当初彼が抽出した事例の件数が411件だったから、という説明も日本語圏のオカルトメディアを中心に広く出回っている。もっとも、彼がカタログ化した事例はシリーズが進むにつれて千四百件を超えていくので、件数説だとタイトルがすぐに実態と合わなくなってしまう。どちらにしても、三桁の数字をタイトルに置いたのはブランディングとしては大成功だった。意味を説明しなくていいし、検索しやすいし、何より「事件番号っぽい」。
第一作が出るまでと、その後の増殖
シリーズの第一弾は2012年。しかもアメリカ東部編と西部編の二冊同時というスタートだった。翌2013年に北米・世界編、2014年に『デビルズ・イン・ザ・ディテールズ』、2015年に『ソバリング・コインシデンス』、2016年にハンター編、2017年にオフ・ザ・グリッド、2018年に法執行関係者編、2019年にカナダ編、2020年にモンタナ編。ほぼ毎年だ。
このペースの速さは、このプロジェクトの性格をよく表している。一つの仮説を検証して確かめていくというより、当てはまる事例を集めて並べていく。並べれば並べるほど「こんなにあるのか」という圧が生まれる。これは読み物としては強いが、検証としてはもっとも危ういやり方でもある。この点はあとでじっくりやる。
映像化も2016年から始まり、2019年に『ザ・ハンテッド』、2022年にはUFOをタイトルに入れた作品まで出ている。このタイトルの変化は、このシリーズがどこへ向かったかを雄弁に物語っている。
パターンその一——岩場、水辺、ベリーの茂み
ここから、ポーリデスが「プロファイルポイント」と呼ぶ共通項を一つずつ見ていく。
まず地形。失踪現場または発見現場が、巨大な花崗岩の岩場、沼や湖や激流のそば、あるいはベリー類の茂みの近くだった、というやつだ。この三つセットはミッシング411の代名詞みたいになっていて、ネットでは「岩・水・ベリー」としてミーム化している。
ポーリデスはこれを「何らかの存在が好む環境なのでは」というニュアンスで提示する。もちろん反論は簡単で、岩場は足を取られやすく、体が落ちれば見つからない。水辺は溺れるし、遺体は流される。ベリーの茂みは——これが一番地味に重要だが——クマが集まる場所だし、子供が夢中になって親から離れる場所でもある。つまりこの三つは、「人が死にやすく、かつ遺体が見つかりにくい場所」のリストとしても完璧に成立してしまう。
パターンその二——犬が、追えない
これはミッシング411の中でもとくにインパクトが強いパターンだ。
ブラッドハウンドは、数日前に人が通った単一の臭いを追える。それが仕事だ。ところがこの手の事件では、犬が奇妙な振る舞いをするという。ハンドラーの足元から離れない。地面を嗅いでも反応しない。ある地点で嫌がって一歩も進まなくなる。中には毛を逆立てて唐突に吼え始めるという証言もある。
人間の側から見るとこれは非常に怖い。自分には分からない何かを、動物が先に知覚しているという図だからな。これは怪談の基本文法でもある。
ただし現場の人間に言わせると、追跡犬が仕事をしない理由は山ほどある。雨で臭いが洗われる。気温や湿度で臭いの乗り方が変わる。捕食者の臭いが強すぎて混乱する。そして何より、先行する捜索隊やボランティアが現場を踏み荒らして臭いをぐちゃぐちゃにする。大規模な捜索になる事件ほど、犬の条件は悪くなる。つまり「奇妙な事件は大がかりになる」という選択の段階で、すでに犬が失敗しやすい条件が揃ってしまっている。
パターンその三——衣類がない、あるいは畳まれている
発見時に靴がない。靴下もない。上着が上手に畳まれて倒木の上に重ねて置いてある。あるいは、服が裏返しになっている。
このパターンは、ネットでもっとも人気がある。想像力を刺激するからだ。自分で脱いだのか、誰かに脱がされたのか。脱いだのならなぜ畳んだのか。凍え死ぬ寸前の人間が、なぜ服をきちんと重ねておくのか。
後で触れるが、ここには低体温症の医学的な説明がある。だが、その説明を知ってもなお、現場写真の印象は消えない。人のいない森の真ん中に、脱ぎ揃えられた服が置いてある。これはもう、絵として強すぎる。
パターンその四——消えた直後に、天候が崩れる
人がいなくなってから一時間もしないうちに、極端な天候の崩れが来る。土砂降りの雨。季節外れの雪。濃霧。
ポーリデスはこれを「痕跡を消すためのもののように見える」というトーンで描く。実際、天候が崩れれば臭いは洗い流され、足跡は消え、ヘリは飛べなくなり、捜索は中断される。失踪者から見れば低体温症のリスクが跳ね上がる。
だがこれも、逆向きに考えると普通の話になる。山岳地帯では天候はしょっちゅう崩れる。そして天候が崩れたときこそ、人は道に迷い、滑り、体温を奪われて行方不明になる。つまり「失踪の直後に天候が崩れた」のではなく、「天候が崩れたから失踪した」ケースが相当数含まれているはずなんだよな。因果の向きがひっくり返っている可能性は、このシリーズ全体につきまとっている。
パターンその五——何度も探した場所で、あとから見つかる
これも定番だ。捜索隊が何十人もで歩いたはずの草地で、数ヶ月後、あるいは数年後に遺体や遺留品が見つかる。しかも、隠れていたというより「置いてあった」としか思えない状態で。
これは人間の直感に強く訴える。探したところで見つかるなら、誰かがあとから置いたことになる、と。
だがここも、現場を知っている人間は違うことを言う。森でのグリッドサーチは、想像されているほど完璧じゃない。下藪の中では、五メートル離れたものが見えない。倒木の下、岩の隙間、黒い地面。そして遺体は動く。クマ、ピューマ、コヨーテが遺体を引きずり、分散させる。雪解け水が流す。数ヶ月あれば、捕食者が骨の一部を捜索済みエリアに運び込むのは普通にありうる。
パターンその六——幼児が、ありえない距離と高さを移動している
ミッシング411で一番重いのは、正直これだと思う。
二歳や三歳の子供が、失踪地点から何マイルも離れた場所で見つかる。しかもただ遠いだけじゃなくて、途中に大人でも登るのがしんどい標高差がある。千フィートとか、三千フィートとか。子育てをしたことがある人間なら、これがどれだけ奇妙か即座にわかる。三歳児は平地でも一キロ歩くのに大騒ぎする。
このパターンに対する反論は、意外とシンプルだ。遺体や遺留品が見つかった場所は、子供が自分の足で到達した場所とは限らない。捕食者は小さな遺体を相当な距離運ぶし、崖の上の安全な場所へ持ち上げる習性を持つものもいる。とはいえ、この説明を遺族の前で口にするのは残酷だ。だからこそこのパターンは、誰にとっても扱いにくい。
パターンその七——生還者の記憶が、抜けている
全員が死ぬわけじゃない。帰ってくる人間もいる。しかしその一部は、失踪中の記憶がすっぽり抜けているという。
この型の代表例としてよく挙がるのが、1977年にミシガン湖周辺でクロスカントリースキー中に消えたスティーブン・クバッキのケースだ。彼は十四ヶ月後に、失踪地点から七百マイル以上離れたマサチューセッツ州で発見される。自分のものではない服を着ていた。で、その間のことを何も覚えていない。
もう一つ、よく引き合いに出されるのが2018年2月のダニー・フィリピディスのケース。ニューヨーク州のスキー場で消え、六日後にカリフォルニア州サクラメントの空港で発見されている。三千マイルの移動。しかも新しいスマートフォンを持っていて、髪を切っていた。本人は覚えていないと言う。
このタイプの事例は、解離性遁走や健忘という医学的な枠組みで説明されることが多い。しかしミッシング411の文脈に置かれると、一気に「連れ去られて、戻された」という色を帯びる。同じ事実でも、並べ方で味が変わる。
パターンその八——有能な人間ほど消える
ポーリデスが繰り返し強調するのが、失踪者のプロフィールだ。初心者やドジの観光客ばかりではない、と。高度な登山技術を持つベテラン、マラソンランナー、長年同じ山に入っているハンター、元軍人。そういう人間が、あっさり消える。
確かに、これは印象的なポイントだ。だがここにこそ、このシリーズの方法論上の急所がある。「熟練者なのに消えた」ケースだけを選んで並べれば、当然「熟練者が消えやすい」ように見える。初心者が消えたケースは「不可解ではない」としてリストから外れる。この選び方の問題は、後でまとめて扱う。
事例一——1969年6月14日、スモーキー山脈の午後四時半
このシリーズの顔ともいえるのが、デニス・マーティンの失踪だ。
1969年6月14日、父の日の週末。テネシー州側のグレート・スモーキー・マウンテンズ国立公園、スペンス・フィールドと呼ばれる高地の草原。ノックスビルから来たマーティン家は、父、祖父、兄ダグラス、そして六歳のデニスという面々でハイキングに来ていた。デニスの七歳の誕生日の六日前だった。
午後四時半、子供たちは別の家族の子と一緒に、大人を驚かそうとして茂みの後ろに隠れた。ちょっとしたいたずらだ。父親がデニスを見失ったのは、わずか五分。子供たちは順にキャンプサイトに戻ってきた。デニスだけが戻ってこなかった。
ここから先の規模が異常だ。国立公園史上最大級とされる捜索が展開され、ピーク時には千四百人が投入された。国防総省の支援も入っている。捜索範囲は五十六平方マイル、つまり百五十平方キロに及んだ。6月29日に大規模な捜索が一区切りとなり、9月14日に正式に終了した。何も見つからなかった。
失踪直後には激しい雨が降った。数時間で三インチ、つまり約七センチ。気温は華氏五十度、摂氏十度前後まで下がった。天候のパターンとしては教科書的だが、同時に六歳児の低体温症リスクを決定的に高める条件でもある。
そして、この事件を永遠にオカルト側に繋ぎ止めているのが、ハロルド・キーという観光客の証言だ。彼は別の場所で「ひどく不気味な悲鳴」を聞き、その直後に、だらしない格好のもじゃもじゃな男が、肩に赤い布のようなものを担いでいるのを見たと証言した。デニスは赤いシャツを着ていた。ただしFBIと公園レンジャーは、場所と時刻の隔たりなどからこの証言と失踪を結びつける証拠は不十分だと判断している。ここは慎重に書いておきたい。目撃された人物が誰であれ、その人物を犯人扱いする根拠は何もない。
1985年には、高麗人参を採取していた人物が小さな子供のものらしい散乱した骨を見たと報告したが、その後の捜索では何も見つからなかった。現在に至るまで、デニスは見つかっていない。
事例二——ヨセミテのレンズキャップ
1981年7月、ヨセミテ国立公園。十四歳のステイシー・アラスは、父親を含む七人のグループでサンライズ・ハイシエラ・キャンプに滞在していた。キャビンで着替えを済ませ、カメラを持って、近くの湖を撮りに行くと言って小屋を出た。徒歩で一キロもない。
最後に彼女を見たのは、同じ方向に歩いていた年配の男性だった。彼は疲れて途中で座って休んでいた。ステイシーはその脇を通り過ぎ、数本の樹の向こう側に回り込んだ。それっきりだ。数分しか経っていない。
ヘリと犬と多数のボランティアを動員した大規模な捜索が行われた。見つかったのは、彼女のカメラのレンズ関連の部品が一つだけ。しかも樹木限界付近という、彼女が向かったはずの場所とは違う高さだったとされる。他には何も出ていない。衝突の痕も、血も、引きずった跡も。
ヨセミテは世界でもっとも人が多い公園の一つだ。真夏の午後、ハイカーが行き交うトレイル沿い。そこで十四歳が白昼堂々と消えるというのは、確かに説明がつきにくい。この事件はいまもネットの掲示板で何百というスレッドが立ち続けていて、ミッシング411の入口になっている人も多い。
事例三——コロラドの森、三歳児と三年半後の斜面
1999年10月2日の午後、コロラド州のアラパホー・ルーズベルト国有林。ビッグサウス・トレイルで、三歳のジャリッド・アタデロが行方不明になった。
彼はあるグループのハイキングに参加していた。一行は歩くペースで自然に分かれ、ジャリッドは先頭グループにいた。三歳児が先頭を歩いていた、というのも不思議な話だが、彼は好奇心の強い子だったという。ある地点で、彼の姿がなくなった。
大規模な捜索が展開されたが、報道が殺到して現場が混乱したという。捜索用のヘリが山間の気象条件と燃料の問題で地上に落ち、乗員が負傷する事故まで起きている。それでもジャリッドは見つからなかった。
三年半あまり後の2003年5月6日、ハイキングしていた二人組が、トレイルから相当な高さを登った場所で遺物を発見する。茶色いフリースのセーター、青いズボン、ディズニーの『ターザン』柄のスニーカー、そして臼歯と頭蓋骨の片。DNA鑑定でジャリッド本人と確定した。
このケースがミッシング411的な文脈で語られるのは、主に二点だ。一つは、三歳児が自力で登れるとは思えない急斜面の上で見つかったこと。もう一つは、ズボンが裏返しになっていたことだ。
父親のアリンは、山獅子による被害という見方に強く疑問を投げかけてきた。専門家から「山獅子は内臓を狙って腹部を先に攻撃する」と聞いたが、セーターにはそれらしい破損がない。スニーカーにも引きずられた痕がなく、摩耗がほとんどない。一方で彼は、子供の足跡に向かって山獅子の足跡が近づき、両者が交わる地点で子供の足跡が消えていたとも述べている。矛盾しているように見えるが、子供を失った親があらゆる可能性を抑えようとした結果だと思えば、これはとても人間的な記録だ。
事例四——1952年、オレゴン、十九時間後の氷の池
これは生還例だ。だからこそ、もっとも不可解だとされる。
1952年、オレゴン州リッターという小さな集落。二歳のキース・パーキンズが、寒い時期に屋外からいなくなった。周辺の住民を挙げた捜索が行われ、十九時間後に、失踪地点から十五マイルも離れた凍った池のそばで生きて見つかっている。
十五マイル。キロに直すと二十四キロ前後だ。二歳児の歩幅を考えれば、十九時間でこの距離を、しかも夜の山野で移動するのは、単純に物理的に厳しい。しかも彼は低体温症で死んでいない。
本人は、何も覚えていないと言った。二歳なので当然といえば当然だが、ミッシング411の文脈ではこれが「記憶の欠落」としてカウントされる。当時の地元紙もこの事件を「不可解な失踪」として報じており、ポーリデス以前から奇妙な話として地元で語り継がれていたことがわかっている。この点は重要で、彼がすべてを発明したわけではない。既存の奇談を集めて列に並べ直したというのが、彼の仕事の実態に近い。
事例五——補聴器だけが戻ってきた
1958年、コロラド州のロッキーマウンテン国立公園に近いキャンプ場で、十歳のボビー・ビズップが行方不明になった。彼は聴覚に障害があり、補聴器を使っていた。釣りをしていた後、一人でキャンプに戻る途中で消えている。
捜索は大規模に行われたが、何も出なかった。約一年後、捜索済みのエリアに含まれていたはずの場所で、標高差で二千フィート以上上の地点から、彼の補聴器と衣類の断片が見つかっている。遺骸は見つからなかった。
このケースは、ミッシング411のパターンを完璧に満たしている。障害を持つ子供、標高差、捜索済みエリア、遺体なし、衣類の断片。一方で、ロッキー山脈で子供が山獅子やクマの被害にあうリスクは現実に存在するし、一年という時間は人間の遺体を分解・分散させるのに十分すぎる長さだ。どちらの読みも成立してしまう。この「どちらも成立する」状態が、ミッシング411の本質なのかもしれない。
「国立公園局は、数を数えていない」という一撃
ポーリデスの仕事の中で、懐疑派でさえ価値を認める部分が一つある。
彼は情報公開請求を使って、米国国立公園局に「公園内で行方不明になった人のリストを出してくれ」と要求した。返ってきたのは、該当する記録がない、という回答だった。職員は「行方不明者の一覧を追跡したり維持したりはしていない」と述べている。
これはなかなか衝撃的な事実だ。年間数億人規模の来園者を受け入れる巨大な組織が、自分の管轄地で何人が行方不明になっているのかを一元的に把握していない。各公園ごとに記録はあっても、他の全国データベースと連携していない。行方不明者情報を扱う国家的な仕組みの担当者も、国立公園は広大で複雑だという趣旨のコメントを残している。
この指摘に後押しされる形で、データベース構築を求める請願が出され、ネットでも繰り返し話題になった。オカルト的な主張とは切り離して、行政に対する問題提起としては正当なものだったと思う。目の前に空白があることを見つけてしまったのだから、そこに何を入れるかは別問題として、空白自体は本物だった。
懐疑派の反撃その一——なぜ服を脱ぐのか
さて、反論側だ。
衣類の謎については、低体温症の医学にはっきりした答えがある。パラドキシカル・アンドレッシング——矛盾性脱衣と呼ばれる現象だ。
低体温症が進むと、体は末梢の血管を収縮させて中心部の熱を守ろうとする。しかしさらに体温が下がると、この収縮を維持する機能が崩れ、血管が一気に拡張する。その瞬間、本人は強烈な灼熱感に襲われる。燃えるように暑いと感じる。だから服を脱ぐ。もちろんこれで死期は早まる。
さらに進むと、ターミナル・バローイングと呼ばれる行動が出る。倒木の下、岩の隙間、ベッドの下など、狭い隔離された空間に潜り込もうとする。動物の冬眠本能の名残だとも言われる。この二つを組み合わせるとどうなるか。衣類を脱いで、見つかりにくい場所に自ら潜り込んだ遺体ができあがる。つまり「服がない」「捜索で見つからなかった」の両方が、一つの生理現象で説明できてしまう。
服が畳まれているケースについても、意識が混濁しつつも習慣的な動作が残ることは珍しくないとされる。低体温症の人間がボタンを掛け違えながらシャツを着直していたという事例も報告されている。奇妙に見える行動が、奇妙な原因を必要としない。
懐疑派の反撃その二——分母がない、という指摘
もっと致命的な批判は、統計側から来た。
データ科学者のカイル・ポーリッチは、ミッシング411の主張を正面から検証し、懐疑主義系の媒体で結果を発表している。彼の結論はシビアだった。これらの失踪の発生頻度は、予想される範囲の外にはない。そして、単独で見たときに本当に際立つ事件は一つもない。落下、溺死、動物による被害、寒さにさらされたこと。この四つでほぼ説明がつく、と。
ここでかなめなのが分母の問題だ。何千件もの奇妙な事例を並べられると圧倒されるが、その分母は何億人の入園者と何十年という時間幅だ。低確率の出来事も、標本数が十分に大きければ必ず起きる。しかもポーリデスの選択基準は公開されていない。どの事件を拾ってどの事件を捨てたのかがわからない以上、「共通パターンがある」と言われても検証のしようがない。共通パターンを持つものを選んで集めたのなら、共通パターンがあるのは当たり前だ。
懐疑的な評価を行ってきた論者のシャロン・ヒルも、この分析は人間側の要因か技術的なアーティファクトで十分に説明できるという趣旨の指摘をしている。統計的に見て、これらの失踪は特に異常ではないというのが、データを触った側の一致した見解だ。
現場の人間は、もっと退屈なことを言う
手っ取り早いのは、実際に山で人を探している人間の話を聞くことだ。
捜索・救助の世界には、遭難者行動学という地味な学問がある。ロバート・コースターなどの研究者が、世界中の捜索事例を集めて国際的なデータベースを構築し、失踪者の属性別に「どこを探すべきか」を統計的に導き出している。幼児はこれくらいの半径にいる、認知症の高齢者は直線的に進む傾向がある、ハンターは尾根を下りたがる、といった具合に。
この分野の知見でいちばん外せないのが、幼児の行動が予測困難だという点だ。小さな子供は呼びかけに応えない。大人を避けて隠れることすらある。疲れるまで直進し続けることもあれば、斜面を上ることもある。大人の常識で「子供には無理」と思う距離を、実際には移動しているケースが記録されている。これはミッシング411の主張を裏付けるようにも見えるし、逆に「不可解ではない」証拠にもなる。この両義性が、このテーマが決着しない理由だ。
現場の人間がミッシング411に対して抱く一番の不満は、「自分たちの仕事の実態を知らない人間の推測だ」というものだ。捜索は完璧じゃない。人手も時間も足りない。見落としは日常的に起きる。それを「不可解」と呼ばれるのは、現場にとって居心地が悪い。
ビッグフット、UFO、ポータル——ネットが勝手に走り出す
ここからが、このシリーズのもっとも厄介な部分だ。
ポーリデスは、自分の著作でビッグフットに言及したことはないと否定している。形式上はその通りだ。だが彼の前歴は広く知られているし、事例の描写には「大柄で毛深い何か」の目撃話がしばしば添えられる。結論は言わない。だが材料は並べる。批評者はこのやり方を、読者が自発的に結論に至るよう意図的に曖昧にしていると見ている。
で、読者は実際に至る。ネットの論はおおむね三つに分かれる。一つはビッグフット説。領域を持つ大型の捕食者が人を連れ去るというもので、子供が遠くの斜面上で見つかるというパターンと相性がいい。二つ目はUFO説。実験のために連れ去られ、別の場所に置き去られる。記憶の欠落や長距離移動を一発で説明できる。三つ目がポータル説。特定の場所で次元の境界が薄くなっていて、人が向こう側に滑り落ちる。
この三つは、ソーシャルメディア上で完全にミーム化している。短尺動画では、実際の失踪事件の名前と写真の上に不安をかき立てる音楽を乗せて、数十秒で「これは人間の仕業じゃない」と結論してしまうフォーマットが横行している。この拡散の代償を払っているのは遺族だ。実際、家族を失った人間の一部は、身内が超常現象のネタとして消費され続けることに複雑な思いを抱えていると伝えられている。
日本ではどう入ってきたのか
日本語圏での紹介は、オカルト系のネットメディアが先行した。とくに一部のオカルト専門サイトが、デニス・マーティン事件を入口にして何度も記事を出している。見出しには「突然の断末魔」「年老いた大男」「魔の三角域」といった単語が並ぶ。この語彙の選び方が、日本での受容の向きをよく表している。つまり、統計の話ではなく、怪談として入ってきた。
その後、個人ブログやノート系サービスで、原書を読んだ人間によるもっと丁寧な紹介が増えた。パターンを一つずつ訳して並べ、代表的な事例を日本語で再構成し、同時に懐疑派の反論も併記する。この手の記事は、英語圏の議論を知らない日本の読者にとって貴重な入口になっている。
動画プラットフォームでは、ゆっくり解説や都市伝説系チャンネルがこのテーマを繰り返し扱ってきた。一つの事例を二十分かけて語る回もあれば、五件まとめて早回しする回もある。コメント欄では、日本の山での行方不明例と重ねて語る人が必ず現れる。この「地元の山に引き寄せて考える」反応が、日本での定着を支えている。
神隠しという、日本にもあった同じ話
日本にはもともと、この手の現象を受け入れる器がある。神隠しだ。
神隠しとは、消えた人間は神域に引き取られたと考える発想だ。現世と常世の境界で人が消える。下手人とされるのは天狗、狐、山の神、山姥、鬼。子供が遭うケースが多いことから、子を亡くした妖怪の仕業だという説まである。
面白いのは捜索方法だ。各地で、太鼓や鐘を叩きながら消えた子の名を呼ぶという風習があった。部落総出で行列を作り、太鼓を叩きながら「かやせ、もどせ」と呼びながら探し回る。名前を呼べば、たいていはどこかから出てきたという伝承も残っている。
さらに引っかかるのが、帰還者の描写だ。江戸期の雑記類には、戻ってきた人間がひどく健忘の様子だったという記録がある。これはミッシング411の「生還者の記憶が抜けている」パターンと、不気味なほど重なる。便所に入ったきり消え、二十年後に同じ便所から現れたという、今ならポータル説が飛び出しそうな記録も残っている。
近代になると、神隠しの実態は迷子、家出、失踪、誘拐、事故だったと整理されていく。精神的に不安定な時期の子供や、産後の体調が悪い女性が遭いやすかったという分析もある。この「神秘から社会学への翻訳」のプロセスは、現在ミッシング411をめぐって起きていることとまったく同じだ。千年単位で同じことをやってるんだよな。
なぜこの本は売れ続けるのか
懐疑派の反論は、正直なところかなり強い。それでもこのシリーズは売れ続けている。理由はいくつかある。
一つ目は、形式が強いこと。事件を一件ずつ短く区切って並べる構成は、どこから読んでもいいし、やめどきがない。一件読むと次が気になる。リスト形式の中毒性を、このシリーズはうまく使っている。
二つ目は、結論を出さないこと。もしこの本が「犯人はビッグフットだ」と断定していたら、読者は半分以上逃げていただろう。何も言わないことで、読者は自分の好きな仮説を持ち込める。宗教的な人も、UFO好きも、単にミステリーが好きな人も、同じ本を楽しめる。
三つ目は、自然に対する原初的な恐怖を正面から扱っていることだ。都市に住む人間にとって、森はもはや日常ではない。レクリエーションとして入っていく場所であって、生活圏ではない。だからこそ「楽しいはずの場所で、家族が一瞬で消える」という図が彼らの弱点を突く。キャンプ場でこの本を読む人間が後を絶たないのは、そういうことだ。
四つ目は、中核に本物の空白があることだ。国立公園局が行方不明者の統一データベースを持っていないという事実は、誰にでも確かめられる形で存在する。この一点がある限り、このシリーズ全体を「完全なデタラメ」として切り捨てるのは難しい。
空白は、いつの時代も何かで埋められる
ここまで見てきて、ミッシング411という現象の正体は、実は「失踪事件の謎」ではないと思う。「空白をどう埋めるか」という問題だ。
人が山で消えると、とにかく情報が足りない。遺体が見つからなければ死因も分からない。目撃証言は一件か二件しかない。捜索記録は混乱の中で書かれ、ときに矛盾する。この断片の集まりに、人間は何か形を与えずにはいられない。与える形の選択肢が、時代と文化によって違うだけなんだ。江戸期の日本なら天狗と狐。現代の北米ならビッグフットとUFO。専門家なら低体温症と捕食者と自発的な道迷い。同じ空白に対して、三通りの埋め方が提示されている。
このシリーズの方法論上の問題をもう一度整理しておきたい。事例の選択基準が公開されていないこと、これが決定的に致命的だ。科学の手続きでは、仮説を立てたあとでデータを集める。しかも仮説に合わないデータも同じ基準で集める。このシリーズは逆で、先に「奇妙なもの」を集めてから共通項を抜き出している。これだと、共通項は必ず見つかる。しかも奇妙さの定義自体が主観的だから、外部からの再現もできない。データを実際に触った人間が口を揃えて「統計的には特に異常ではない」と結論するのは、この構造上の問題が見えているからだ。
一方で、このシリーズを一行で切り捨てるのも雑だと思う。国立公園局が行方不明者の統一リストを持っていなかったという事実を、公の場に引きずり出したのは彼だ。これはオカルトの話ではなく、行政の責任の話だ。毎年起きている悲劇の総数すら把握されていないのなら、パターンの有無を論じる以前に、そもそも議論の土俵がない。彼の結論に同意しない人間でも、この問題提起の価値は否定しにくい。皮肉な話だが、彼の仕事で一番長く残るのは、ビッグフットでもUFOでもなく、この事務的な指摘なのかもしれない。
そして、これだけは書いておきたい。ここに並んだ事件は、すべて実在の人間の話だ。デニス・マーティンの兄は、今も弟が消えた日のことを語る。ジャリッドの父親は、三年半以上をかけて息子を探し続けた。ステイシーの家族は、四十年以上答えのないままだ。彼らにとってこれはコンテンツじゃない。ネットの短尺動画が、人の名前と顔写真を使って数十秒で「人間の仕業じゃない」と結論するとき、その裏側で誰かがそれを見ている。目撃されたというだけの人物を犯人と呼ぶのも同じで、そもそも特定さえされていない人間を、半世紀後のネットで裁く権利は誰にもない。
最後に、このテーマがここまで人をつかむ理由をもう一度考えてみる。思うに、これは「捕食者としての人間」という自己像が揺らぐ体験なんだと思う。現代の人間は、自然の頂点にいるつもりで生きている。GPSがある、ヘリがある、衛星がある。それでも六歳の子供一人を、千四百人で百五十平方キロを探しても見つけられない。この事実は、どんな超常現象よりも直接的に人を怖がらせる。森は、今でも人間を忘れさせることができる。ポーリデスがビッグフットを持ち出さなくても、この一行だけで十分に怖い。そしてこの怖さは、低体温症という説明を付けても、一ミリも弱まらない。
