焼け落ちた居間の写真を、まず頭に思い浮かべてほしい。天井板は落ち、壁のしっくいは熱で剥がれ、ソファは黒い炭の塊になっている。ガラスは全部割れて、床には水と灰が混ざった泥がたまっている。そのど真ん中に、ひとつだけ無事なものがある。安い額縁に入った、泣いている少年の複製画だ。頬に涙が二筋、目はこちらをまっすぐ見ている。すすすらついていない。駆けつけた消防士が、それを拾い上げて、ぼそりと言う。「またこれかよ」――。
これが1985年の秋、イギリスを六週間ほど丸ごと飲み込んだ騒動の、中心にある一枚の絵だ。名前を「クライング・ボーイ」、日本語で「泣く少年」という。飾った家が燃える。家は全焼するのに、その絵だけが焼けずに残る。燃やそうとしても燃えない。しまいには全国紙が「絵を送ってこい、うちが焼いてやる」と読者に呼びかけ、二千五百枚を野原に積み上げて火をつけた。冗談みたいな話だが、全部実際に起きたことだ。しかも震源地は、遠い異国の古城でも呪術師の館でもない。イングランド北部の、炭鉱町の公営住宅の居間である。
この記事では、その全部をやる。何が起きたのか。誰が「呪い」という言葉を最初に口にしたのか。実際に燃えた家に住んでいた人たちは何を見て、何を語ったのか。絵を描いた画家は本当に呪われていたのか。そして――ここが一番おもしろいのだが――なぜこの安っぽい複製画だけが、火事のあとに何度も何度も生き残ったのか。答えは、たぶんニスと厚紙と、壁に掛けるための一本の紐にある。
炭鉱の村のフライパンから、すべては始まった
1985年8月26日、イギリスは夏の銀行休日だった。連休が明けた最初の月曜日、9月2日。サウス・ヨークシャーの地方紙『ザ・スター』のロザラム版、その七面に、小さな記事が載った。書いたのはジョン・マーフィーという記者だ。見出しは「一家を襲った『呪い』」。
舞台はスワロウネストという、石炭で食ってきた小さな村だった。主人公はロナルド・ホールとメイ・ホールの夫婦。ロンは炭鉱をリストラされたばかりの元鉱夫で、二人はその公営テラスハウスに二十七年住んでいた。火事が起きたのは、二十五歳の息子デイビッドがフライドポテトを揚げようとしたときだ。チップパン――イギリスの家庭に必ずあった、油をなみなみ入れて揚げ物をする深鍋である。当時のイギリスで住宅火災の原因のトップクラスにいた、あの鍋だ。油が発火し、炎はキッチンから一気に回った。デイビッドは腕にやけどを負い、包帯をぐるぐる巻きにした写真が記事の左側に載っている。
一階はひどい有様になった。ところが、居間の壁に掛かっていた額入りの複製画だけが、まったくの無傷だった。右下に「G.ブラゴリン」というサインの入った、泣いている幼児の絵。周りが焼け焦げているのに、それだけが平然と壁に掛かっていた。記事の冒頭は「スワロウネストのホール一家は、『泣く少年』の絵の呪いが我が家に降りかかったと信じている」という一文で始まる。
そしてもう一つ、この記事にはとんでもない爆弾が仕込まれていた。ホール夫妻には、ロザラムの消防署に勤める親族がいたのだ。ロンの弟、ピーター・ホール。消防士である。ピーターは以前から兄夫婦に「あの絵は外したほうがいい」と言っていたらしい。理由がふるっている。「出動した火事の現場に、毎回この同じ絵があるんだ」。
「呪い」という言葉を発明したのは、消防士ではなく記者だった
ここが、この話でいちばん大事なポイントだ。そして、たいていの怪談記事がすっ飛ばすところでもある。
後年、民俗学者にしてもと新聞記者のデイビッド・クラークが、当のジョン・マーフィーに直接取材している。マーフィーの証言はこうだ。あの日は事件が何もない、ひどく退屈な日だった。朝の定時連絡で消防に電話を入れたら、週末にチップパン火災が一件あったという。普通なら三行のベタ記事、業界用語でいう「ニブ」で終わる話だ。でもネタがないから、現場まで足を運んだ。
そこで彼は、泣く少年の絵を手に持って立っている消防士と話した。消防士はこう言ったという。「妙なんだよな。おれが行った火事現場で、焼け残ってるのがいつもこの絵なんだ」。
そこからが記者の仕事である。マーフィーはクラークにこう認めている。「彼は『本当に奇妙だ、何かの呪いに違いない』というようなことを言った。それでおれは、ありふれた記事に切り口を見つけた。要するに、『呪いがある』という発想を作ったのは、事実上おれだと思う」。
つまり、「クライング・ボーイの呪い」という概念そのものが、退屈な月曜の朝に、地方紙の記者の手で生まれた。消防士たちは「変だ」とは言った。「呪われている」とは言っていない。この一段の飛躍が、以降四十年にわたって世界中を走り回ることになる。
1985年9月4日、13面――全国紙が火をつけた
当時のイギリスには、地方紙の記事を「味見」して全国紙に売り込む、地方通信社とフリーランス記者のネットワークがあった。マーフィーの記事はその網に引っかかり、ロンドンに転がり込んだ。
受け止めたのが、日刊四百十万部を誇る英語圏最大の大衆紙『ザ・サン』である。掲載は1985年9月4日、13面。見出しは「泣く少年の絵、燃え盛る呪い!」。サブ見出しは「この絵は火事のジンクス」。書いたのは同紙のサウス・ヨークシャー特派員、マーティン・シャープ。
記事にはメイ・ホールの談話が入っている。「あの絵が二度とうちの玄関をくぐることはありません。ピーター(ロンの弟の消防士)は、自分の家にはあんな絵は置かない、消防署の仲間だって置かないと言っていました」。
そして絵の写真が添えられ、キャプションにはこうあった。「涙の恐怖――消防士たちが呪われていると言う肖像画」。クラークが指摘しているのは、ここの一点だ。消防士たちは「呪われている」という単語を使っていない。だが紙面はそう書いた。消防士という、公の場でいちばん信用される職業の口からその言葉が出たことになった瞬間、これはただの噂話ではなく「事実に近い何か」に化けた。
記事はさらに、G.ブラゴリンのサイン入りの「泣く少年」の複製画が、イギリス国内のデパートでおよそ五万枚売られたと書き添えている。別の記事では二十五万枚という数字も出た。この「大量に売れている」という一文が、あとで効いてくる。
編集長は言った。「これは足が生えてる」
『ザ・サン』の当時の編集長は、ケルビン・マッケンジー。イギリスのタブロイド史に名前が刻まれている男だ。1980年代半ばの同紙は、ライバル紙『デイリー・ミラー』と壮絶な部数競争のまっただ中にいた。マッケンジー時代の『ザ・サン』は、根拠が薄くても娯楽性で殴りにいく記事を連発していて、その代表格が翌1986年の「フレディ・スターがおれのハムスターを食った」である。イギリス人なら誰でも知っている、伝説の見出しだ。
同紙の内幕史『スティック・イット・アップ・ユア・パンター』(ピーター・チッピンデールとクリス・ホリー、1990年)によると、マッケンジーは地方通信社から流れてきた凡庸な原稿の山の中に、この話を見つけた。そして懐疑的な編集デスクたちに向かって、自信たっぷりにこう言い放ったという。「これは足が生えてる」。走り続ける記事だ、という意味の業界スラングだ。
その読みは正しかった。翌9月5日、『ザ・サン』は追撃記事を打つ。書いたのはウィルシャーという記者だ。内容は、「『泣く少年の呪い』の被害者だという恐怖におびえた読者から、電話が殺到している」というもの。彼らは皆、涙を流す幼児の複製画を家に飾っているせいで自分は呪われているのだと恐れている、と。
デイビッド・クラークが1985年9月から1986年4月までの全国紙五紙・地方紙六紙をマイクロフィルムで手作業調査したところ、この期間に確認できた関連記事は三十八本。そのうち二十一本が全国紙、主に『ザ・サン』だった。使われた言葉を並べると「呪い」「ジンクス」「恐れる」「おびえる」。全部、意味より温度で殴りにいく単語である。しかも掲載時期はハロウィーンに向かって加速している。イギリスでハロウィーンが北米式に一般化したのは1980年前後で、当時はまだ目新しく、宗教団体が「悪の力を祝うのは道徳的に問題だ」と警告を出すような空気があった。追い風は完璧に吹いていた。
証言その一――サリー州ミッチャム、ドラ・マンさんの場合
ここからは、当時『ザ・サン』とその周辺紙に載った体験談を、ひとつずつ丁寧に見ていく。まずはサリー州ミッチャムに住むドラ・マンさん。
彼女の家は、絵を買ってからわずか半年で全焼した。彼女の言葉は短いが、この騒動を象徴する一文になった。「うちの絵は全部だめになりました。あの泣く少年の一枚をのぞいて」。
この証言の構造をよく見てほしい。ポイントは「家が燃えた」ことではない。イギリスでは毎年何万件も住宅火災が起きている。彼女が語ったのは「他の絵は全滅した」という比較の話だ。壁に何枚も絵を掛けていて、そのうち一枚だけが助かった。だからこそ、そこに意思のようなものを感じてしまう。
そしてもう一つ重要なのが、時系列の作り方だ。「買ってから半年後」。因果関係を示す証拠は一つもない。ただ、順番があるだけ。人間の脳は、順番を見せられると勝手に因果に組み替えてしまう。この後に出てくる証言のほとんどが、この「買った、そして燃えた」という二拍子の構造を持っている。ドラ・マンさんの短いコメントは、その原型として何百回も引用されることになった。
証言その二――ノッティンガムのブライアン・パークス一家、病院から戻って見たもの
次はノッティンガムの家族の話だ。父親の名前はブライアン・パークス。
火事で家は住めなくなり、妻と三人の子どもは煙を吸って病院に運ばれた。全員命に別状はなかったが、小さい子どもを抱えて一晩で家を失った家族の状況を想像すれば、これが「怖い話」として消費していい出来事ではないことはすぐわかる。当時の記事もそこは書いている。彼らはホームレス状態になった。
パークス氏が病院から自宅に戻ったとき、居間の壁は真っ黒に焼けていた。そこに、泣く少年の複製画が、無傷のまま掛かっていた。壁が炭化しているのに、絵だけが平気な顔をしている。
彼はその場で、自分の手でその絵を破壊した。記事はそこを淡々と書いている。この「自分で壊した」という行動が、実は騒動の性格を決定づけた。人は怖いものを見ると、それを排除しようとする。そして排除しようとしたという行為そのものが、次の読者にとっては「そこまでするほどヤバいものだった」という証拠になる。噂は、恐怖ではなく恐怖への対処行動で加速する。パークス一家の話は、その最初の見本だった。
証言その三――一時間、焚き火に入れても焦げなかった
騒動が進むうちに、話の型が変わってくる。「絵のせいで燃えた」から「絵そのものが燃えない」へ。ここで一気に不気味さのランクが上がる。
きっかけは、二枚の複製画を火で処分しようとした読者の投書だった。彼女は燃やそうとした。ところが燃えなかった。恐ろしくなって、その顛末を新聞に書き送った。
これを実地に検証した人がいる。ポール・コリアーという警備員だ。彼は自宅にあった二枚のうち一枚を、庭の焚き火に放り込んだ。普通の焚き火である。そのまま一時間、燃やし続けた。
結果、絵は焦げてすらいなかった。
コリアーは『ザ・サン』にこう語っている。「ぞっとしましたよ。火がまったく食いつかないんです」「本当にジンクスがあると思う。うちには二枚あるんだから、危険も二倍だ。絶対に手放すつもりです」。
いま読むと、この証言はむしろ物理的な説明のいちばん強い手がかりになっている。当時は誰もそう読まなかった。読者が受け取ったのは「火に一時間くべても燃えない絵が、そのへんの家庭の居間に何万枚も掛かっている」という事実だけだった。恐怖としては満点だ。この一件以降、話は完全に「超常」の領域に移った。
証言その四――五十件の記録をつけていた消防士、アラン・ウィルキンソン
登場人物の中で、僕が個人的にいちばん好きなのがこの人だ。ロザラム消防署の署員、アラン・ウィルキンソン。消防歴三十三年のベテランである。
彼は地方紙のジョン・マーフィーとレイ・パーキンの取材に応じ、とんでもないことを明かした。自分は1973年までさかのぼって、泣く少年の絵が出てきた火事を五十件、個人的に記録していた、と。
ここだけ抜き出すと最凶の怪談になる。だがウィルキンソンは、超常現象説をきっぱり否定していた。自分は迷信深くない、と彼は言う。そして五十件のほとんどについて、原因は人間の不注意だと自分で納得している。投げ捨てたタバコ。過熱したチップパン。故障した電気ストーブ。火事そのものは、全部ちゃんと説明がつく。
彼が説明できなかったのは、たった一点だけだった。壁のしっくいが熱で剥がれ落ちるほどの高温の中で、なぜあの絵が生き残るのか。それだけがわからない、と彼は正直に言った。
ちなみに彼の奥さんには持論があった。「あたしはいつも言ってるの、涙が火を消してるのよって」。この一言は当時の記事にも残っていて、騒動の中でいちばん人間味のあるコメントだと思う。
そして『ザ・サン』は、ウィルキンソンのこの丁寧な留保をまるごと無視した。紙面に載ったのは「消防幹部たちは、最近の一連の事案について論理的な説明ができないと認めた」という一文である。「五十件の原因はほぼ全部わかっている」の部分は消えた。ここが、この騒動における報道の一番きわどいところだ。
さらに愉快な後日談がある。ウィルキンソンが退職するとき、同僚たちが冗談で、額に入れた泣く少年の絵をはなむけに贈った。彼は迷信は信じないと言い張りながら、その場で即座に突き返した。「いや、それはいらん。持って帰ってくれ」。
もう一つ。ある晩、彼の自宅に、絵を怖がった女性が訪ねてきて一枚押しつけていったことがあった。ウィルキンソンはそれを職場に持っていって、冗談で消防署の事務室の壁に飾った。数日後、上司から真顔で撤去命令が出た。そして同じ日、二階のキッチンのオーブンが過熱して、消防士たちの夕飯が黒焦げになった。作り話ではない。地元紙が報じた実話である。
証言その五――「ああ、またこれかよ」と消防士は言った
イングランド中部で暮らしていた女性、ジェーン・マカッチンの体験は、この伝説の中で最も広く語り直されてきたものだ。
彼女は暖炉の上に、泣く少年の複製画を飾っていた。買った理由をうまく説明できない、とのちに彼女は語っている。なぜか惹きつけられた。連れて帰らなきゃいけない気がした。それだけだ。
その夜、幼い二人の子どもを居間でテレビの前に置いて、彼女はキッチンの床を洗っていた。二歳の下の子が入ってきて、彼女のシャツを引っぱり、居間のほうを指さした。何かを言おうとしているが、まだ言葉にならない。
行ってみると、手作りのカーテンが燃えていた。炎はブラインドに、天井に、家具に、猛烈な速さで回っていた。彼女は子ども二人をつかんで外に飛び出し、隣家から消防を呼んだ。全員無事だった。家は無事ではなかった。
鎮火後、焼け跡を歩いた消防士のひとりが、灰の中からこちらを見上げている少年の顔を見つけた。そして口をついて出たのが、あの一言である。「ああ、またこれかよ」。
彼女がのちに語ったところでは、この消防士の反応こそが本当に怖かったのだという。自分の家に起きた不運が、実は「シリーズ物」の一話にすぎないと知らされた瞬間だ。彼女は結局その絵を処分した。あの絵を持っていた間、ろくなことがなかった、と。
なお、この話は語り直されるたびに細部が動いている。年が1982年になったり1985年になったり、場所がノッティンガムになったりウェストンになったり、子どもの人数や性別が変わったりする。これは記憶違いを責める話ではなく、口承伝説がどう育つかの標本だと思ったほうがいい。核だけが残って、周辺が入れ替わっていく。「ああ、またこれかよ」というセリフだけは、どのバージョンにも必ず出てくる。
証言その六――1959年に買った絵と、ある女性が新聞に書き送ったこと
もう一つ、当時の紙面に載って以来ずっと引用され続けている短い投書がある。プレストンに住むローズ・ファリントンさんという女性が『ザ・サン』に送ったものだ。
「1959年にこの絵を買ってから、三人の息子と夫が全員亡くなりました。呪われていたのではないかと、何度も考えました」。
この一文は、騒動のいちばん痛いところに触れている。彼女が経験したのは火事ですらない。長い年月のあいだに、家族を次々に失った。それはあまりに重い出来事で、あまりに説明のつかない出来事だ。人が呪いという言葉に手を伸ばすとき、たいていは「なぜ自分に」という問いに耐えかねている。壁に掛かった一枚の絵は、その問いに形を与えてくれる。理不尽を、名指しできるものに変えてくれる。
同じ時期、ロンドンの読者からは「壁に掛けた絵がひとりでに左右に揺れるのを見た」という報告が届き、デボン州ペイントンの読者からは「絵を買ったあと、十一歳の息子がフックに大事なところを引っかけた」という、深刻なのか笑っていいのかわからない投書まで届いた。この振れ幅こそが、当時の読者投稿欄のリアルな空気だった。恐怖と、悲嘆と、ちょっとしたおふざけが、全部同じページに同居していた。
それでも消防は言った。「絵は火事を起こさない」
騒動が北部を越えて広がり始めると、実務側が動いた。ロザラムのイースト・ヘリングソープで、また一軒の公営住宅が焼け、四人家族が家を失った。この家にあったのも「泣く少年」系の絵だった。
『ザ・サン』は匿名の「消防の専門家」の談話としてこう書いている。心配はいらない、ただし「こうした事案は頻度が増している。奇妙だし、論理的な説明がつかない」。安心させるふりをして、二行目で恐怖を上乗せする。見事な話芸である。
これに耐えかねて、サウス・ヨークシャー消防が公式声明を出した。まず最新の火災の原因をはっきり示した。ベッドに近づけすぎた電気ストーブである。そして師団長ミック・ライリーが、当時としては満点の回答をした。
「この絵は非常にたくさん売れています。火事との関連はまったくの偶然です。火事は絵や偶然が起こすものではない。不注意な行為と怠慢が起こすものです」。
そして彼は、消防側の技術的な説明も口にしていた。ここが重要だ。「この絵が火災でいつも焼けきらない理由は、高密度のハードボードに印刷されているからです。あれは非常に燃えにくい」。
答えは1985年の時点で、現場の人間の口からちゃんと出ていた。地方紙は載せた。『ザ・サン』は載せなかった。載せない自由もまた報道の一部である、という悪い見本だ。
ちなみにライリー師団長は、この声明を出した張本人であるにもかかわらず、記念にと「泣く少年」の複製画を贈られたときには受け取りを断っている。理由は「妻が気に入らないだろうし、うちの内装に合わない」。人間、そういうものである。
「もう十分だ、みんな」――新聞社が絵を回収し始めた日
1985年10月24日。ロザラムの最新火災を報じる紙面で、『ザ・サン』はついに一線を越えた。編集長マッケンジーの名で、読者にこう呼びかけたのだ。
「もう十分だ、みんな。もしあなたの家に泣く少年の絵が掛かっていて不安なら、すぐに我々に送りなさい。こちらで処分する。それで呪いも終わるはずだ」。
直前には、グレート・ヤーマスのイタリア料理店が全焼した火事でも同じ絵が生き残ったというネタが入っていた。舞台は北部の炭鉱町から、南部の観光地の飲食店まで広がっていた。全国紙の面目躍如である。
呼びかけの結果は、たぶんマッケンジー自身の想定を超えた。まず電話が鳴り止まなくなった。「うちの絵、捨てたほうがいいですか」。マッケンジーの返事は「もちろん。送ってきなさい、こっちで処分する」。
そして、フリート街のバウヴァリー街にあった同紙の本社に、絵が届き始めた。チッピンデールとホリーの記述によれば、編集局には泣く少年が高さ十二フィート――四メートル近くまで積み上がった。戸棚からあふれ、ほとんど使われていなかった面談室が絵で完全に埋まった。
社内には最初、編集長がこの話をどこまで本気にしているのかわからない、という空気があった。それが一瞬で解決した事件がある。副編集長が、フォークランド紛争のころから編集局の壁に掛かっていたウィンストン・チャーチルの写真を外し、代わりに泣く少年を掛けたのだ。
いつもの半分走るような足取りで編集局に入ってきたマッケンジーは、壁を見て、その場で立ち止まり、顔面蒼白になった。そして怒鳴った。「それを外せ。気に入らん。縁起が悪い」。
四百万部を動かす男が、自分で作った怪談に自分でびびった瞬間だ。この話は、のちに本人が公の場で「事実だ」と認めている。
ハロウィーンの野焼き――二千五百枚が燃えた夜
さて、集めてしまった以上は処分しなければならない。六週間のキャンペーンの末、『ザ・サン』の手元には二千五百枚の「泣く少年」があった。
マッケンジーの当初案は、バウヴァリー街の本社ビルの屋上で燃やすというものだった。当然のように却下された。ロンドン消防とテムズバレー消防の両方が協力を拒否し、このキャンペーンそのものを「安っぽい売名行為」と切り捨てた。
消防が冷たかった理由ははっきりしている。この騒動のせいで、全国の消防署に何百件もの問い合わせと来訪が押し寄せていたのだ。「この絵は呪われているのか」「この絵は危険な可燃物でできているのか」。本来の業務が圧迫されていた。呪いの絵より、そっちのほうがよほど現実的な被害である。
結局、1985年10月30日、記者ポール・フーパーがバウヴァリー街の本社を出発した。バン二台分の複製画を積んで。行き先はバークシャー州レディング近郊の空き地。そこに絵を山と積み上げ、火をつけた。
翌10月31日、ハロウィーン当日の紙面に、記事が出た。見出しは「サン、泣く少年の呪いを永久に断つ」。添えられた写真には、露出の多い衣装の「灼熱のページスリー美女、サンドラ・ジェーン・ムーア」が焚き火に絵をくべている姿が写り、その後ろで消防士たちが微妙な顔をして立っていた。
一週間前まで、この新聞は死ぬほど怖い呪いの存在を訴えていた。その最終回が、水着モデルと焚き火である。イギリスのタブロイド文化の真髄がここにある。笑っていいのか怒っていいのかわからないが、少なくともこれ以上ないほど正直な幕引きではあった。
呪いは新聞社に返ってきたのか
これで話は終わり――のはずだった。実際、1985年11月以降、関連記事の本数ははっきり減っていく。ハロウィーンの野焼きは、象徴的な「お祓い」として機能したのだ。
ところが翌1986年3月、西部の地方紙『ウェスタン・モーニング・ニュース』のコラムニストが、意地の悪い指摘をした。『ザ・サン』の親会社ニューズ・インターナショナルは、ワッピングの新工場をめぐって激しい労働争議のまっただ中にいた。ストライキと、暴力沙汰にまで発展したピケ。その混乱が始まったのは、あの焚き火の直後ではないか、と。
つまり、マッケンジーがあれほど恐れたジンクスは、最終的に作った本人のところに返ってきたのではないか。ライバル紙による、上等な嫌味である。もちろん因果関係などない。だが、この一件が示しているのは重要なことだ。「呪い」という物語の型は、いったん世に放たれると、放った本人にも使える。誰にでも使える。それが型の強さだ。
描いた男の実像――ブルーノ・アマディオという画家
さて、そろそろ絵そのものの話をしよう。
1985年当時、この絵の作者は謎だった。サインは「G.ブラゴリン」。『ザ・サン』は「イタリア人画家」と書いた。他の記事は「スペインの画家」と書いた。美術史家に問い合わせても「一貫した経歴が見つからない」という返事しか返ってこない。この情報の空白が、のちの伝説の温床になる。
実在の人物である。名前はブルーノ・アマディオ。1911年11月9日、ヴェネツィア生まれ。1981年9月22日、パドヴァで死去。享年六十九。ブラゴリンというのは筆名で、ほかにアンジェロ・ブラゴリン、フランショ・セヴィルといった名前も使っていた。
彼はきちんとした美術教育を受けた画家だった。戦後のヴェネツィアで画家として活動し、古典絵画の修復もやっていた。ヴェネツィアのアカデミアで教えていたという証言もある。「泣く少年」「泣く少女」の連作は、ブラゴリン名義だけで少なくとも六十五点確認されている。その複製が世界中で売られたが、複製使用料は必ずしも彼に払われていなかった。1970年代には、パドヴァで健在に、それなりに裕福に暮らし、なお絵を描いていたことが確認されている。
彼の人柄について、実際に知っていた人の証言がある。イタリアの懐疑論者マッシモ・ポリドーロが2009年、偶然の縁でたどりついたのが、パドヴァ近郊トレバセレーゲに住むアントニオ・カセッラートという人物だった。カセッラートはアマディオの隣人として十年暮らし、彼の死後にその家と、家にあったもの一切を買い取っていた。
カセッラートはポリドーロにこう語っている。アマディオは素晴らしい人だった。いつも笑っていて、親切だった。本物の画家で、画力は非常に高かった。自分は彼の絵を何点も持っているが、どれも美しい。だからこそ、彼が「泣く少年」だけで記憶されているのが残念だ、と。
そして、なぜ彼が泣く少年を描き続けたのかについて、身も蓋もない答えが出てくる。「売れたからです」。どれだけ優れた画家でも、絵だけで裕福に暮らせることはめったにない。世界中から「あの絵をもっと描いてくれ」という注文が来る。だから応じた。ただし、気は進まなかった。だから筆名を使ったのだ、と。ブラゴリンという名前の由来も判明した。ヴォードヴィルの世界で働いていた叔父が使っていた芸名で、その叔父から使用許可をもらったのだという。
アマディオは1981年、食道の病気で亡くなった。そのわずか四年後に、この騒動が始まる。本人はもうこの世にいなかった。
カセッラートは、こんな話も付け加えている。以前スウェーデンの記者が取材に来て、アマディオは貧しい少年時代を過ごし、他の子どもたちを貧困から救いたい一心で同じ主題を描き続けたのだ、と固く信じていた。事実を伝えたら、その記者はがっかりして帰っていった。カセッラートの締めくくりの言葉が、この記事で一番きれいだと思う。「私はただ、ブルーノ・アマディオが実在の人間であって、うさんくさい都市伝説の登場人物ではない、ということを言いたいだけです」。
そもそも「泣く少年」は一枚の絵ではない
ここでもう一段、ひっくり返す。当時「呪われた絵」として扱われていたものは、同じ一枚の絵の複製ですらなかった。
火事の記事に写真が載るたびに、絵が微妙に違うのだ。ロザラムの発端の火事で生き残ったのは、確かにブラゴリンのサイン入りの一枚だった。しかし1985年10月に報じられた別の火事で写っていたのは、まったく別の作品だった。スコットランド人画家アンナ・ジンカイゼンの連作『チャイルドフッド』のうちの一枚である。ジンカイゼンは1976年に亡くなっている。ブラゴリンとは何の関係もない。
クラークの調査によれば、「泣く少年」ジャンルの複製画には少なくとも五種類のバリエーションが存在した。そのうち二種類には対になる「泣く少女」があり、両方持っている家庭も珍しくなかった。ほかにも、花を持った少年少女の絵など、しめっぽいトーンの連作が同じ棚に並んでいた。
つまり「呪い」は、特定の一枚の絵にではなく、「涙を流す子どもの顔」という視覚モチーフそのものに貼りついていた。美術史家ゲイル=ニーナ・アンダーソンは、ここがこの伝説の異例なところだと指摘している。普通、呪われた絵の伝説は「世界に一枚しかない原画」に取り憑く。だがクライング・ボーイは複製に取り憑いた。これは、芸術作品が説明のつかない力の通り道になるという信仰の「民主化」であり、同時に「作者の創作過程がその力の源だ」という前提を削ぎ落としてしまった、と。
言い換えれば、これは近代以降にしか成立しない怪談だ。工場で刷られ、通信販売カタログとデパートで売られ、何万世帯の同じ壁に同じ顔が掛かる。その条件がそろって初めて、この形の呪いは生まれる。
台所の壁に泣く子どもを飾った、あの時代の話
なぜ人はこの絵を買ったのか。今の目で見ると、正直かなり不思議だ。泣いている子どもの顔を、わざわざ暖炉の上に飾る。
背景には、第二次大戦後に流行した「ビッグ・アイ」という絵画ジャンルがある。異様に大きな目をした、悲しげな子どもたち。しばしば涙をためている。犬や猫の版もあった。このジャンルを世界的に広めたのがサンフランシスコの画家マーガレット・キーンで、彼女の人生は2014年にティム・バートン監督の映画『ビッグ・アイズ』になっている。キーンは、戦後のパリで学んでいたときに街で見た戦災孤児たちに着想を得たと語っていた。
アマディオの泣く少年は、その様式の影響下にある。そして1960年代以降、通信販売カタログやデパートを通じて、イギリスの労働者階級と、それに続く中間層の家庭に大量に入り込んだ。1985年のある報道は、国内で二十五万枚売れたと書いている。
なぜ受けたのか。デザイナーのウェイン・ヘミングウェイは、ランカシャーの祖母の家の壁に泣く少年が掛かっていたのを覚えているという。彼の見立てはこうだ。持ち主たちは、みすぼらしい身なりの子どもに「かわいそうに」と思っていたのだと。ジャーナリストのミランダ・ソーヤーはもう少し踏み込む。買った人たちは、この哀れな子どもたちを救ってやりたかったのではないか、と。異国の服を着ていたり、フラメンコの衣装だったり、ディケンズの小説みたいなぼろを着ていたりする子どもたち。
戦後の緊縮とくすんだ暮らしの中で、壁に一枚だけ物語のある絵を掛ける。しかもそれは、自分より不幸な誰かの絵だ。買った人たちは、たぶん恐怖ではなく憐れみで買った。この点は、のちの騒動を考えるうえで絶対に外せない。呪われた絵として叩き売られたその画像は、もともと家庭の優しさの側にあったものだった。
実際、1985年の騒動のさなかにも、絵を手放すのを拒んだ持ち主はたくさんいた。ある持ち主の連れ合いは、記者にこうこぼしている。「私自身はあの絵が好きじゃない。悲しすぎるから」。そして彼は、当時の読者全員が知りたがっていた二つの問いを、そのまま口にした。「なんで泣いてる子どもの絵を飾りたがるんだ。そもそも、この子はなんで泣いてるんだ」。
孤児と放火少年――後付け神話はいつ生まれたか
1985年から86年にかけての報道には、実は決定的に欠けているものがあった。物語がないのだ。絵がある。火事がある。絵が残る。それだけ。なぜ絵が火を呼ぶのか、誰も説明できていない。
民俗学者ジョージナ・ボイズは、1986年の国際現代伝説研究学会でこの点を指摘している。噂系の伝説は文化的な不安を言語化し、正当化する機能を持つ。だからクライング・ボーイに「説明する物語」が存在しないことは、それ自体が重要だ、と。彼女はこれを、民俗学者ジャン・ハロルド・ブランバンドの用語を借りて「原伝説」と呼んだ。まだ成長しきっていない、都市伝説の卵である。
ボイズ自身、この騒動の当事者でもある。タブロイド紙の記者が彼女に取材に来たとき、彼女が悪魔的な解釈を提供することを拒んだので、取材は流れた。記者は「魔女」か「オカルトに詳しい誰か」を探しに行ってしまった、と彼女は書いている。見出しになるコメントを取るまで帰らない、という取材姿勢である。
代わりに紙面に載ったのが、フォークロア・ソサエティ事務局長ロイ・ヴィカリーの談話だった。もとの画家がモデルの子どもを何らかの形で虐待したのではないか。「これらの火事はすべて、その子どもの呪い、復讐のやり方なのかもしれません」。
これがすべての始まりだった。付言すると、ヴィカリー本人は2022年の時点で「その取材を受けた記憶がないし、役に立つことを言った覚えもない」と述べている。つまり、投げやりに口にされた一言だった可能性が高い。
その空白を埋める「完成版の物語」が現れるのは、実に十五年後、2000年である。作家トム・スレメンが『ホーンテッド・リバプール』シリーズの一冊で、こういう筋書きを世に出した。
デボン州に住む引退した教師で、オカルト研究者のジョージ・マロリーという人物が、1995年に原画の作者を突き止めた。マドリードに住むスペインの老画家、フランショ・セヴィル。彼は1969年、マドリードの街をさまよう浮浪児を見つけた。少年は一言も口をきかず、目に深い悲しみをたたえていた。セヴィルはその子を描いた。絵を見たカトリックの司祭が、少年の身元を明かす。名前はドン・ボニーヨ。両親が火事で死ぬのを目の前で見て逃げ出した子どもだ。司祭は警告する。あの子に関わってはいけない。あの子が住み着いた場所では、原因不明の火事が必ず起きる。村人たちは彼を「ディアブロ」――悪魔と呼んでいる、と。
セヴィルは忠告を無視し、少年を引き取って専属のモデルにした。絵はよく売れた。ところがある日、アトリエが火事で全焼し、画家は破産する。彼は少年を放火犯だと責め、少年は泣きながら走り去り、二度と姿を現さなかった。それ以降、ヨーロッパ中から「不幸なクライング・ボーイの絵が火事を起こす」という報告が上がるようになる。そして1976年、バルセロナ郊外で車が壁に激突して炎上した。遺体は判別不能なほど焼けていたが、グローブボックスに残っていた運転免許証の一部が読めた。名前はドン・ボニーヨ、十九歳。
完璧な話だ。あまりに完璧すぎる。
事実関係を言うと、ジョージ・マロリーも、フランショ・セヴィルという独立した人物も、ドン・ボニーヨも、実在の記録がない。フランショ・セヴィルは、ブルーノ・アマディオが使っていた筆名のひとつであって、別人ではない。デイビッド・クラークは端的にこう言い切っている。「これらの話に真実はまったくない」。少年の名前が出てくる話は、2000年より前の記録にはひとつも存在しない。
にもかかわらず、この後付けの物語は驚異的な生命力を持った。2002年にはイギリスのテレビ番組でも事実として紹介され、掲示板とブログとSNSを経由して世界中に広がった。理由は簡単だ。1985年の騒動には物語がなかった。人間は物語のない恐怖に耐えられない。だから誰かが書いた。書かれた以上、それは残る。
派生バージョン図鑑――泣く少女、揺れる額縁、そして幸運の絵
伝説というのは一方向には育たない。クライング・ボーイにも、かなりの数の派生形がある。ひとつずつ見ていこう。
まず「泣く少女」版。もともとブラゴリン連作にもジンカイゼン連作にも、対になる少女の絵があった。当然、少女版が火事現場で見つかったという話も出てくる。ところがおもしろいことに、少女は呪いの側ではなく、対抗策の側に回った。1986年ごろから広まったのが「泣く少年と泣く少女を並べて掛けておけば、幸運が来る、あるいは災いを防げる」という説だ。呪物が二枚そろうと護符になる。日本のお守りの考え方に近い転回で、僕はここが好きだ。
次に「優しくしてやれば守ってくれる」版。絵を邪険に扱わず、大事にしている家には幸運が来る、という言い伝えも同時期に生まれている。クラークが自分のブログに書いた記事には、二十年近くかけて何百件ものコメントがついているが、その中身は真っ二つに割れている。「この絵は邪悪だ」と言う人と、「うちの絵は幸運のお守りだ」と言う人。同じ画像が、正反対の役を演じている。
「絵が動く」版もある。1985年当時、ロンドンの読者が、壁の絵がひとりでに左右に揺れるのを見たと証言した。のちの語り直しでは、複数の姉妹のうち一人が「火事の前に絵が揺れているのを見た」と語ったことになっている。この揺れる額縁というモチーフは、じつは古い迷信と地続きだ。「壁から絵が落ちるのは死の前兆」というのは、イギリスで今も生きているポピュラーな俗信である。クライング・ボーイの伝説が異様な速さで根を張ったのは、この既存の土壌があったからだと考えていい。
「絵の中の目が光った」版。火事のさなかに少年の目が光っていた、という証言もどこかの段階で発生している。出典をたどると1985年の一次報道には見当たらない。ネット時代に足された装飾の可能性が高い。
「霊が閉じ込められている」版。これは2000年代に入ってから、霊能者を名乗る人々の口から出てきたバージョンだ。少年の魂が絵に閉じ込められており、自分を解放するために絵を焼こうとして火を起こしている、という筋書き。前の版と決定的に違うのは、少年が「加害者」ではなく「助けを求めている存在」になっていることだ。悪魔の子から、囚われた被害者へ。時代の空気が変わると、怪談の中の子どもの役割も変わる。
「悪魔と契約した画家」版。クラークが2008年に見つけたブラジルのサイトには、ブラゴリンが人気テレビ番組に出演し、絵を売るために悪魔と契約したと告白した、という話が載っていたという。投稿の締めくくりは「お願いだから、この絵を持っている人は今すぐ捨てて」。もちろん、そんな番組も告白も存在しない。国境を越えると、伝説は現地の宗教観に合わせて衣装を替える。
そして「呪いは戻ってくる」版。2010年、伝説発祥の地ロザラムでまた家が焼けた。所有者のスタン・ジョーンズは、これが三度目の火事だと語った。十年ほど前に市場で二ポンドで買ったクライング・ボーイの複製画は、三度とも生き残っていた。この三度目のとき、身重のパートナーだったミシェル・ホートンさんが、グリルに食事をかけたまま眠り込んでしまい、意識を失った状態で発見された。スタンさんが通報し、駆けつけた消防隊がぎりぎりで蘇生させている。実際に人命がかかった深刻な事故だ。この件については、怪談としての語り口より先に、無事だったことをちゃんと書いておきたい。
燃えない理由は、ニスと厚紙と、一本の紐だった
さて、本丸だ。なぜあの絵は焼け残るのか。
2010年10月9日、イギリスBBCラジオ4の番組『パント・ピー・アイ』で、作家でコメディアンのスティーブ・パントがこの謎を正面から検証した。協力したのは、イギリスの建築研究機構。建材の防火性能をテストする、本職の研究所である。
結論は二つの要素の組み合わせだった。
ひとつ。あの複製画に使われていたニスに、難燃剤が含まれていた。大量生産の印刷物にありがちな仕様である。さらに支持体は高密度のハードボード、要するに圧縮された厚い硬質繊維板だ。これは家具や建築に使われる素材で、木材のように簡単には着火しない。キャンバスに油彩、という「燃えやすい絵」のイメージとは、材料からして別物なのだ。ここは1985年にミック・ライリー師団長が言っていた通りである。
ふたつ。これがいちばん美しい。額縁を壁に吊るしている紐だけは、難燃処理されていない普通の紐だ。だから火災の初期、部屋の温度が上がった段階で、まず紐が焼き切れる。額縁は壁に対して少し前傾して掛かっているから、紐が切れると、絵は絵柄の面を下にして床に落ちる。
床に伏せた絵は、上から降ってくる熱と炎に対して、裏面の頑丈なハードボードを盾にする。絵柄の面は床にぴったり接していて、酸素が回らない。しかも火災の熱の主戦場は天井付近で、床面は相対的に温度が低い。結果、家じゅうが炭になっても、その一枚だけが表面をきれいに保ったまま残る。
紐が焼ける。絵が伏せる。絵が守られる。この三段階が、四十年にわたって人々を震え上がらせた「奇跡」の正体だ。
ちなみに、ポール・コリアーが焚き火に一時間くべても焦げなかったという証言も、これで説明がつく。難燃ニスと高密度ハードボードという組み合わせは、庭の焚き火程度の温度と時間ではまず表面が持ちこたえる。証言は正確だった。ただ、そこから引き出す結論が違っただけだ。
大量流通が「同時多発の怪異」を作り出す仕組み
物理の話が済んだので、次は数の話をしよう。ここが、この事件のいちばん現代的で、いちばん怖い部分だと思う。
前提を並べる。1980年代のイギリスでは、住宅火災が年間何万件も発生していた。当時のイギリスの家庭には、油をなみなみ入れたチップパンと、旧式の電気ストーブと、大量の灰皿があった。火事は珍しい出来事ではなかった。
そこに、同じ画像の複製が数万枚から二十五万枚、同じ国の同じ階層の家庭に配られる。しかも掛ける場所まで似ている。居間の壁、暖炉の上。イギリスの労働者階級の住宅の間取りは規格化されていたから、「絵がどこに掛かるか」までかなり均一だった。
そして、その絵は物理的に焼け残りやすい素材でできている。
この三つがそろうと、何が起きるか。特定の地域で家事火災が起きるたびに、一定の確率で「焼け跡から無傷の泣く少年が出てくる」という現象が発生する。それも、繰り返し、独立に、あちこちで。
現場に立つ消防士から見ると、これは強烈な体験になる。アラン・ウィルキンソンは1973年から十二年で五十件記録した。年に四件強。ロザラム周辺の一消防署が扱う火災件数を思えば、確かにこれは「妙だ」と口に出したくなる頻度だ。彼は嘘をついていないし、勘違いもしていない。彼が見たものは全部本当にあった。
ただ、比較対象がなかっただけだ。分母が見えていなかった。「泣く少年がある家で火事が起きた件数」は数えられる。だが「泣く少年があるのに火事が起きなかった家」は、誰も数えない。数えようがない。これが確率の錯覚の教科書的な形である。仮に国内に十万枚の複製があって、そのうち五十枚が十二年の間に火事に遭ったとする。率にして〇・〇五パーセント。呪いとしては、あまりにも働きが悪い。
さらに厄介なのは、この錯覚が現場の専門家ほど強く効くことだ。消防士は火災現場しか見ない。火事が起きなかった家の居間には、一生入らない。職業的な視野そのものが、分母を構造的に隠してしまう。だからこそ「信頼できる目撃者である消防士がそう言っている」という一点で、この話は突破力を持った。マッケンジーが正直に認めた通り、彼が飛びついたのは「一般人ではなく消防士が言った」からである。
そして『ザ・サン』が全国紙で報じた瞬間、もう一つのループが回り始める。読者は自分の家の壁を見る。同じ絵がある。過去に起きた不運を思い出す。半年前のボヤ。三年前の親族の死。それが「絵のせい」という枠組みに整理される。整理された体験は電話で新聞社に届き、翌日の紙面に載り、また別の読者の記憶を整理する。噂が噂を呼ぶのではなく、噂が記憶を書き換えていく。
四十年前のこの構造は、まったく古びていない。同じ画像が何百万人の手元に同時に届き、それぞれの個別の不運がその画像の周りに集まってくる。今はそれを、アルゴリズムがやっている。
なぜこの絵は世界中に広がったのか
クライング・ボーイの伝説は、イギリスのローカルな騒動で終わらなかった。1990年代には他国からも「泣く少年火災」の報告が出るようになり、2000年代のインターネットで完全に世界商品になった。呪われた絵画といえばこれ、という地位を確立している。
なぜこれが世界に届いたのか。理由はいくつも指摘できる。
第一に、画像が主役だからだ。この伝説は、言語をほとんど必要としない。泣いている子どもの顔と、焼け跡の写真。この二枚があれば、どの国の誰にでも一秒で伝わる。人名も地名も年号も、極端に言えばいらない。翻訳コストがほぼゼロの怪談は強い。
第二に、証拠が家庭にあるからだ。ふつうの怪談は、現地に行かないと確認できない。この話は違う。あなたの家の壁に、あるいはおばあちゃんの家の壁に、その現物が掛かっているかもしれない。中古市場やネットオークションで今も買える。伝説が「参加可能」なのだ。実際、クラークが地方紙で研究を紹介したところ、読者から絵を引き取ってくれという依頼が殺到した。ある人はこう書いてきたという。「妻がこの絵を家に置くことを許さないので、消火器を用意した上で庭の物置に掛けています」。笑っていいのかわからないが、これが伝説の実物性だ。
第三に、「呪い」が原画ではなく複製に取り憑いたからだ。原画に取り憑く呪いは、原画のあるところにしか行けない。複製に取り憑く呪いは、印刷機の数だけ増殖できる。アンダーソンの言う「呪いの民主化」である。
第四に、物語の空白があったからだ。1985年の騒動には説明がなかった。空白は、誰かが埋めたくなる。2000年にトム・スレメンが埋めた。埋めた瞬間、話は「読み物」として完成し、世界中で転載可能になった。
第五に、恐怖の対象が子どもの顔だからだ。これは倫理的にも心理的にもややこしい話で、後段でもう一度触れる。人間は子どもの顔から目を離せないようにできている。悲しんでいる子どもの顔なら、なおさらだ。加えて、その子が誰なのか誰も知らないという情報の穴がある。見つめられているのに、正体がわからない。この居心地の悪さが、伝説の燃料になっている。
日本ではどう紹介されてきたか
日本にこの話が入ってきたのは、ざっくり言えば二段階だ。
第一段階は、オカルト誌と怪奇本の時代。1980年代から1990年代にかけて、日本の海外オカルト情報は月刊誌『ムー』を筆頭とする専門誌と、翻訳系の怪奇読み物が担っていた。英米のタブロイドやフォーティアン系雑誌に載ったネタが、翻訳家や研究家の手で紹介される。クライング・ボーイもこの流れで入ってきた口だ。『ムー』のウェブ版では現在も、翻訳家で都市伝説研究家の宇佐和通氏が、イギリスの呪物騒動を扱った記事の中でクライング・ボーイに言及している。おもしろいのは、そこでの扱いが冷静なことだ。大量生産品なので一枚一枚に背景の物語があるわけではなく、厳密には呪物とは違うだろう、と書いている。日本のオカルト媒体が、本場のネタに対してきちんと距離を取っている一例である。
第二段階は、テレビだ。2010年代以降、この題材は日本のテレビ番組で何度も取り上げられている。フジテレビ系の『世界の何だコレ!?ミステリー』は燃焼実験の映像込みで検証し、日本テレビ系の『世界まる見え!テレビ特捜部』は絵の作者とモデルをめぐる伝説として扱い、同じく日本テレビ系の『THE突破ファイル』は「1985年にイギリスで実際に広まった都市伝説」として再現ドラマ仕立てで紹介している。共通しているのは、日本のテレビが「呪いだ」で終わらせず、必ず種明かしまでやることだ。難燃ニスと厚紙、そして紐が焼け落ちる話まで含めてワンセットで放送される。
この点は東アジア全体の傾向かもしれない。韓国のKBSの人気検証番組でも、2009年に「火災を呼ぶ呪いの絵、ブルーノの泣く少年」として取り上げられ、再現ドラマとイギリスでの騒動の紹介、そして検証という同じ構成が組まれている。
日本のネット上では、2010年代半ばから個人ブログとまとめ系サイトが大量に紹介記事を書き、そこから動画勢が流入した。日本語圏で流通している版には、一次資料に当たらないまま伝言ゲームで生まれた誤差もかなりある。よく見かけるのは、火災の発生日を「1985年10月9日、21日、24日、25日」と具体的に並べるパターンだ。この日付列の出典は英語圏の一次資料には見当たらない。また、作者の国籍がイタリアだったりスペインだったりぶれる、二千五百枚が「数百枚」になる、といった揺れも定番だ。あと日本語版で目立つのは、「絵は消防隊の監視のもとで焼却された」という記述。実際にはロンドン消防もテムズバレー消防も協力を拒否し、消防士たちは遠巻きに眺めていただけである。細かい話に聞こえるが、この差はけっこう大きい。前者だと公的機関がお墨付きを与えたことになるが、後者は新聞社の単独興行だ。
日本語圏でのもう一つの特徴は、この話が「呪いの絵画ランキング」みたいな枠でまとめて紹介されがちなことだ。ビル・ストーンハムの『手を拒む彼』(イーベイで売られたことで有名になった、あの絵だ)などと並べて語られる。ジャンルとして定着したぶん、個別の事件としての手ざわり――ロザラムの炭鉱町、チップパン、消防署の親族、退屈な月曜の朝――は削ぎ落とされやすい。この記事でそこを厚めに書いたのは、そういう理由でもある。
退屈な月曜の朝から、野原の焚き火まで
ここからは腰を据えて、本体で書ききれなかった考察をまとめて置いていく。
まず全体の骨格を、時系列で押さえ直す。1985年8月末、イングランド北部の炭鉱村スワロウネストで、揚げ物鍋から火が出て一軒の公営住宅が焼けた。1985年9月2日、地方紙『ザ・スター』ロザラム版七面に、記者ジョン・マーフィーの記事が出る。ここで初めて「呪い」という言葉が使われた。使ったのは記者自身である。1985年9月4日、『ザ・サン』13面に、マーティン・シャープ記者による「泣く少年の絵、燃え盛る呪い!」が掲載される。副見出しは「この絵は火事のジンクス」。1985年9月5日、読者からの電話殺到を報じる追撃記事。以降、六週間にわたって関連記事が続く。1985年10月24日、編集長ケルビン・マッケンジーが「絵を送れ、こちらで処分する」と紙面で呼びかけ。1985年10月30日、記者ポール・フーパーがバン二台分の絵を積んでバークシャー州レディング近郊へ。1985年10月31日、ハロウィーンの紙面で「サン、泣く少年の呪いを永久に断つ」。集まった絵は二千五百枚。1986年3月、ライバル紙が「呪いは新聞社に返ったのでは」と皮肉る。2000年、トム・スレメンの著書で後付けの物語が誕生。2010年10月9日、BBCラジオ4『パント・ピー・アイ』が建築研究機構の協力で物理的検証を行い、難燃ニスと高密度ハードボード、そして先に焼け落ちる吊り紐という説明を提示する。
この年表を眺めて感じるのは、恐怖のピークから科学的説明までに二十五年かかっている、という事実の重さだ。しかも説明を出したのはコメディアンのラジオ番組である。ここには考えるべきことがたくさんある。
恐怖は四百万部、訂正は数万部
一つ目の論点は、情報の非対称性だ。1985年10月の時点で、サウス・ヨークシャー消防のミック・ライリー師団長は、すでに正しい答えの半分を公の場で口にしていた。高密度ハードボードは着火しにくい。この発言は地方紙に載った。だが四百万部の全国紙は載せなかった。ここに、事実が届く経路の非対称がある。恐怖は全国紙に乗って四百万部運ばれ、訂正は地方紙に乗って数万部運ばれる。この差が、伝説の初速を決めた。現代でも、誤った情報と訂正の拡散速度の差は繰り返し問題になっている。1985年のクライング・ボーイは、その最も古典的で、最も見やすい標本のひとつだ。
専門家は、専門領域の外では無力になる
二つ目は、専門家の証言が持つ二重性である。この事件を全国区に押し上げた決定打は、消防士の存在だった。マッケンジー自身が後年、そう認めている。一般人ではなく消防士が言ったから記事にした、と。ところが、消防士たちは超常現象を主張していない。彼らが言ったのは「同じ絵をよく見る」「なぜ焼け残るのかわからない」の二点だけだ。アラン・ウィルキンソンに至っては、五十件のほとんどについて原因が判明していることを明言している。専門家の証言は、専門領域の内側では正確で、外側では無力だ。彼は火災の原因を語る専門家であって、素材の耐熱性能を語る専門家ではなかった。そして報道は、その境界を消した。証言の一部だけを切り出して「専門家がお墨付きを与えた」形に整形する。この操作は、今もあらゆる分野で日常的に起きている。
信じていないまま、避けることはできる
三つ目。この事件は「メディアが自分で作った怪物に自分でびびった」記録でもある。ウィンストン・チャーチルの写真を外して泣く少年を掛けられた瞬間、顔面蒼白になって「外せ、縁起が悪い」と怒鳴った編集長。退職記念に贈られた絵を即座に突き返した消防署員。声明を出した本人なのに絵の受け取りを断った師団長。全員が「自分は迷信を信じない」と言いながら、同じ行動を取っている。信念と行動は別々に動く。人は「信じていない」まま「避ける」ことができる。ここに、呪物という文化装置の本質があると思う。呪物は信仰の対象ではなく、リスク回避の対象なのだ。信じていなくても、わざわざ受け取る理由はない。ゼロコストで避けられるなら避ける。この判断は、実のところ極めて合理的でもある。
実在の画家に、根拠のない加害者の役をあてがうな
この取材でいちばん考え込んだのは、ブルーノ・アマディオという人物のことだ。彼は1981年に亡くなっている。騒動が始まる四年前だ。だから彼は、自分の絵が「呪いの絵」と呼ばれ、二千五百枚がバークシャーの野原で燃やされたことを知らない。それは幸運だったのか不運だったのか。
隣人アントニオ・カセッラート氏の証言によれば、アマディオはヴェネツィアで訓練を受けた本格的な画家で、修復もこなし、アカデミアで教えていた。画力は高く、風景も静物も描いた。カセッラート氏は彼の絵を何点も所有していて、どれも美しいと語っている。泣く少年を描いたのは、それが売れたからで、しかも気は進まなかった。だから本名ではなく、叔父の芸名を借りて署名した。
つまり、あの絵は「呪いを込めた作品」でも「魂の叫び」でもなく、生活のための仕事だった。世界中から注文が来たから応じた。ただそれだけの、どこの国にもいる職業画家の話だ。そしてその生活のための仕事が、彼の死後に一人歩きし、悪魔と契約したとか、孤児を虐待したとか、アトリエが焼けて破産したとか、ありもしない伝記を勝手に着せられていった。
ここは、この記事で唯一きちんと立場を表明しておきたいところだ。実在の画家に、根拠のない加害者の役をあてがうのはよくない。彼は孤児を虐待していない。悪魔と契約もしていない。アトリエが焼けた記録もない。これらは全部、2000年以降に生まれた創作である。怪談としておもしろいのはわかる。だが、その面白さの代金を、四十年前に亡くなった実在の人物とその関係者に払わせるのは、割に合わない取引だ。カセッラート氏がわざわざ手紙を書いて研究者に連絡してきたのは、たぶんその一点のためだったのだと思う。
この話の材料は、全部が他人の最悪の日でできている
火事の当事者たちのことも書いておく。この記事に出てくる人たちは、みんな実際に家を失っている。ホール一家は二十七年住んだ家を焼き、息子は腕にやけどを負った。パークス一家は妻と三人の子どもが煙を吸って病院に運ばれ、家をなくした。ジェーン・マカッチンさんは幼い子ども二人を抱えて逃げた。ローズ・ファリントンさんは、火事ですらなく、長い年月のあいだに家族全員を見送っている。2010年のロザラムでは、身重の女性が一酸化炭素で意識を失い、間一髪で助かっている。
怪談として消費するとき、僕らはこの部分を軽く飛ばしがちだ。でも実際には、この話の材料はすべて他人の最悪の日でできている。だからせめて、書く側は原因をきちんと書いたほうがいい。原因は超常現象ではない。過熱した揚げ物鍋。ベッドに近づけすぎた電気ストーブ。投げ捨てられたタバコ。放置されたグリル。1980年代のイギリスの家庭に普通にあった、ありふれた発火源だ。そして、この四十年で先進国の住宅火災による死者が大幅に減った最大の理由も、超常的なものではない。煙感知器の普及と、家具や内装材の防炎化と、揚げ物の習慣の変化である。呪いの絵の話をした後にこう書くのは無粋に聞こえるかもしれないが、この記事の中でいちばん実用的な情報はここだ。
信じない人まで運んでしまう怪談
「なぜこの伝説だけが生き残ったのか」も、もう少し掘りたい。1985年のイギリスのタブロイドは、この手のネタを毎週のように打っていた。そのほとんどは翌週には忘れられている。クライング・ボーイだけが四十年生き延びた。差はどこにあったのか。
僕の見立てでは、決め手は「反証が用意されていたこと」だと思う。逆説的に聞こえるだろうか。この伝説には、はじめから物理的な説明が付随していた。ハードボード。ニス。紐。これらは全部、実際に確かめられる。つまりこの話は「検証可能」なのだ。そして検証可能な怪談は、検証したくなる人を引き寄せる。テレビ番組は燃焼実験ができる。ラジオ番組は研究所に持ち込める。ユーチューバーは自分で焚き火に放り込める。日本のバラエティ番組が繰り返しこの題材を選ぶのも、絵に火をつける画が撮れるからだ。
反証されるたびに、この伝説は死ぬのではなく、もう一周する。「呪いだ」と言う人と「いや違う、ニスだ」と言う人が同じテーブルにつける。両方の陣営が同じ話を語り継ぐ。これが、単なる噂話にはない強さだ。純粋な怪談は信じる人だけが運ぶ。クライング・ボーイは、信じない人も運ぶ。
発生の瞬間まで遡れる、珍しい都市伝説
この事件は、都市伝説研究の側にとっても重要な標本になった。デイビッド・クラークは、もと『シェフィールド・スター』の記者で、現在はシェフィールド・ハラム大学の現代伝説研究センターに所属している。彼が2008年以降、断続的にこのテーマを追い続け、2017年には大英図書館の新聞資料室でマイクロフィルムを手作業でめくって三十八本の記事を特定し、当の記者ジョン・マーフィーに直接取材して「呪いという発想を作ったのは自分だ」という証言を取った。この執念のおかげで、僕らはこの伝説について、発生の瞬間まで遡ることができる数少ない都市伝説を手に入れた。
ふつう、都市伝説は起源がわからない。誰が最初に言ったのか、どこで生まれたのか、たいてい霧の中だ。クライング・ボーイは違う。1985年9月2日の朝、退屈な月曜日に、地方紙の記者が現場で消防士と交わした会話。そこが起点だと特定できている。これは学術的にかなり貴重な事例だ。
そして皮肉なことに、クラーク自身がこの伝説の再生産者にもなってしまった。彼の研究が地元紙で紹介されると、読者から「絵を引き取ってほしい」という手紙とメールが殺到した。彼のブログ記事は八万回以上読まれ、五十件を超えるコメントには新しい体験談が書き込まれ続けている。ある投稿者は、祖母の家の泣く少年の絵の下で眠るのが怖かったこと、五年前に自宅が火事になったこと、焼け跡からその絵が無傷で出てきたこと、そして最近ネットの動画で「呪いの絵」の存在を知って眠れなくなったことを書いている。研究が伝説を殺すのではなく、研究が伝説の新しい住処になる。これも現代の怪談の一つの姿だ。
そもそも、この子はなんで泣いてるんだ
最後に。この伝説の中心には、いまだに誰も答えられていない問いが残っている。1985年の紙面で、ある持ち主の連れ合いが口にしたあの二つだ。「なんで泣いてる子どもの絵を飾りたがるんだ」。「そもそも、この子はなんで泣いてるんだ」。
前者には答えがある。戦後の緊縮の中で、人々は憐れみを壁に掛けた。かわいそうな子どもを家に迎えて、なんとなく守ってやっているような気持ちになりたかった。マーガレット・キーンのビッグ・アイが世界的に売れたのも同じ理由だ。それは決して悪趣味ではなく、あの時代の優しさの形だった。
後者には、たぶん答えがない。モデルは特定されていない。アマディオは何十人もの子どもの顔を描き、少なくとも六十五点の連作を残した。そのうちの誰が誰なのか、記録は残っていない。ドン・ボニーヨという名前は創作だ。孤児院が焼けたという話も裏付けがない。
だから、あの子はなぜ泣いているのか、という問いだけがぽっかり残る。そして人間は、答えのない問いを空白のまま置いておけない。空白があると、そこに物語を注ぎ込んでしまう。呪いも、悪魔の子も、囚われた霊も、全部その注入だ。四十年前のイギリスで起きたのは、ある意味それだけのことだった。答えのない子どもの顔が、何万枚も同じ国の壁に掛かっていた。そして、たまたま燃えにくい素材でできていた。
火事の焼け跡で、その顔だけがこちらを見上げている。理由は素材と紐にある。それでも、その光景を見た人が「これは何かある」と思ってしまう気持ちは、素材の話をどれだけ丁寧にしても、たぶん消えない。人間はそういうふうにできている。この記事を書き終えて残るのは、呪いへの恐怖ではなく、その人間の頑固さへの、ちょっとした敬意みたいなものだ。
