## 土曜の夜七時、龍に乗った少年のあとに
まんが日本昔ばなしには、子供向けアニメの顔をしてとんでもないものを流す癖があった。1975年に始まって、1994年の全国ネット終了までに千五百話前後。平均視聴率20パーセント超えという化け物番組だ。土曜の夜に家族全員で見ていた。そして子供の一定数が、そのうちの何本かで人生を壊された。
市原悦子と常田富士男の二人だけで全役をやるあの語りは、優しいときはとことん優しいけど、冷たいときはとことん冷たい。しかも作画が毎回違う。回によっては水彩だったり切り絵だったりして、悪夢のような絵面が平気で出てくる。その不安定さが、この番組を都市伝説の巣窟にした。
この記事では二つの層を扱う。一つ目は、実在するのに封印されたと囁かれる回。これは実際に見られるし、内容も確定している。二つ目は、誰も存在を証明できないのに「見た」という人だけがいる回。こっちが本当の幻の回だ。両方を一本ずつ、細部まで再現する。長いけど付き合ってもらいたい。
## 猫山の話 ― 山寺の座敷で、人の顔をしたものたちが踊る
まず猫山から行こう。この回は猫岳伝承の系統で、九州の山奥に猫たちの王国があるという話だ。旅人が日暮れになって山道を歩いている。雨が降り出す。灯の火が見えて、立派な屋敷が建っている。声をかけると女が出てきて、どうぞごゆっくりと中に入れてくれる。ここまでは普通の昔話の作法だ。
異変は夜中に起きる。旅人が目を覚ますと、隣の座敷から、はやしたてるお囃子と笑い声が聞こえる。すき間から覗くと、大勢の客が酒盛りをやっている。ただし全員の顔が猫だ。着物を着て、二本足で立って、手を叩いて、踊っている。この番組の怖さはこういうところで、化け猫を恐ろしげに描かない。楽しそうに描く。楽しそうなのに、こっちを一切人間扱いしていないのが分かる。それが怖い。
旅人は必死で寝たふりをする。しばらくして、一匹の猫が柱の陰からこちらを見ている。そして小声で告げる。ここのものを食ってはいけない、風呂に入ってはいけない、一晩も酒を注がれてはいけない。この猫は旅人が昔飼っていた猫だった、という形になる版が多い。飼い猫が山へ行くというのは実際に各地にある伝承で、この番組はそれをそのまま使っている。
翌朝、旅人が目を開けると屋敷はない。自分は草むらに寝ている。座敷も灯も女もいない。ただし手にもらった土産の包みだけが残っていて、中を開けると枯葉だったり骨だったりする。この回は直接人が死ぬわけじゃない。人が死なないのに、見たあとの居心地の悪さが異常に長い。山には人間の法則が届かない場所がある、という事実を子供に直接見せてくるからだ。
## 吉作落とし ― 岩棚の上で、約四日間
これが屈指のトラウマ回だ。1988年10月29日の放送。大分の傾山に伝わる実話をもとにしたとされていて、幕末から明治初期の出来事という話が付いて回る。主人公の吉作は岩茸取りだ。崖の上から綱を垂らして、岩壁にへばりついて岩茸を採る。高価に売れるから、命を掛ける価値がある。
その日もいつも通りだった。吉作は順調に採り進めて、途中にあった小さな岩棚に降り立つ。一服するためだ。気を抜いて綱から手を離す。この一瞬だけ。体重がかからなくなった綱は、伸びていた分だけ縮んで、すっと上に遠のいてしまう。手を伸ばしても届かない。飛び上がっても届かない。あと数十センチのところで、永遠に届かない。
ここからが長い。吉作は叫ぶ。誰か、と叫ぶ。しかし声は谷に反響して、戻ってくる頃には人間の声じゃなくなっている。ウオオンという化け物の唸りのようになる。下の村人はそれを聴いて「山の主が鳴いている」と思い、近寄らない。助けを求める声が、自分を助けない理由に変換されてしまう。この仕掛けがとにかく残酷だ。
日が暮れて、また明ける。雨が降る。吉作は岩をなめて水を飲む。岩茸を食べる。しかし体温が奪われ、頭が回らなくなってくる。この回の怖さの核心は、化け物ではなく「正気が削られていく過程」を丁寧に描いたところにある。吉作はやがて、鳥のことを考え始める。目の前をトビが横切っていく。あんな風に飛べたら。自分も飛べるんじゃないか。
最後のカットで、吉作は岩棚から一歩踏み出す。画面は下を映さない。空だけを映して、語りが淡々と終わらせる。化け物一匹出てこないのに、この番組で一番怖い回に数える人が多いのはそれが理由だ。昔ばなしというより、山岳事故の記録をアニメにしたものだ。子供に見せる内容じゃないと当時から言われていた。
## 飯降山 ― 天から降ってくるご飯と、三人の尼僧
これが全国ネット時代の事実上の最終回だ。1994年8月27日放送。福井の話で、漫画家のいがらしみきおが演出と文芸を担当している。十分弱の尺にこれだけのものを詰めたのか、という代物だ。
山に三人の尼僧が修行に入っている。年長の一人と、若い二人。食べるものがなくて弱っていたところに、ある日天から白いおにぎりが三つ降ってくる。三人は仏のご加護だと喜んで食べる。以後、毎日三つ降ってくる。この部分の絵と音のつけ方が妙に不気味で、ご飯はふわっとではなく、どさっと地面に落ちる。天の恩恵というより、何かが投げてよこしている感じに近い。
やがて一人が思いつく。三つを三人で分けているから一つずつだ。でも二人になったら。一人になったら。三つ全部食べられる。若い尼僧の一人が、崖のへりでもう一人を突き落とす。残った二人になる。しかし降ってくるご飯は三つのままだ。二人で三つを分ける。不自然な余りが出る。この「一つ余る」という描写が、あとから思い返すと非常に不吉な意味を帯びてくる。
やがてもう一人もいなくなる。残った一人は黄金に輝く山の中で、ご飯を食べている。しかしある日、ご飯は降ってこなくなる。尼僧は餓え、ふらふらと里に下りてくる。村人に何があったのか問われて、彼女は語る。ご飯が降ってきたのです、仲間は足を滑らせて崖から落ちたのです、と。ナレーションはそれを否定も肯定もしない。ただ「飯降山と呼ばれるようになりました」と締める。
この回が都市伝説化したのは、この「語らない部分」のせいだ。尼僧の証言しか情報源がないということは、証言が嘘なら何があってもおかしくない。ご飯なんて降っていなかったんじゃないか。三人が餓えて、一人ずつ減っていったのは、落ちたからじゃなくて、食べられたからじゃないか。この読みは後にラジオ番組で披露されて一気に広まった。日付は2014年12月1日、深夜のラジオでだ。以後、飯降山は「昔ばなしの顔をした人肉食の話」として語られることが多くなる。本当にそうなのかは誰にも分からない。分からないからこそ、人は一番怖い答えを選ぶ。
## 十六人谷 ― 柳を切った人間が、一夜で十五人
1983年12月3日放送。富山の話だ。山奥で仕事をする木こりたちが、谷に生えている巨大な柳を切ろうとする。年寄りが止める。あの柳には手を出してはいけない。しかし若い連中は笑って切ってしまう。倒れるときの音が妙に長い。
その夜、小屋で十六人が雑魚寝している。一人だけ目が覚める。囲炉裏の火が消えかかっていて、そこに見知らぬ女が座っている。長い黒髪。白い顔。女は一人一人の顔をのぞき込んでいく。目が合った男は狸寝入りをしていて、息を止めてやり過ごす。女はやがて消える。
朝。男以外の十五人は、全員死んでいる。外傷はない。この描写が非常に淡々としていて、悲壮な音楽も叫び声もない。ただ寝ているだけの人間が並んでいる。生き残った男は山を降り、別の土地で嫁をもらって暮らす。しかし嫁がある晩、髪を梳きながら言う。あなた、あのときのことを覚えていますか。女の顔があの夜の顔になっている。この最後の一瞬の作画がとにかく有名で、当時の子供はテレビの前で固まった。
## 三本枝のかみそり狐 ― 赤カブだと思っていたもの
1991年8月31日放送。福島の話。これもやばい。三本枝という場所に人を化かす狐が出る。若い男が「俺は騙されねえ」と強がって夜道を行く。途中で寺に入る。尼さんが出てきて丁重にもてなしてくれる。食事が出て、風呂を勧められる。男はここで「これは狐の化けだ」と確信する。
寺には赤ん坊がいる。男は、この赤ん坊の正体は赤カブか何かだろうと考える。化けの皮を剥いてやればいい。彼は赤ん坊を取り上げて、囲炉裏の火に――というところで、周囲の尼さんや寺が一気に消える。というか、最初から何もなかった。あったのは野原だけで、男が手にしていたのは本物の子狐だった。もしくは、さらに残酷な版では人間の赤ん坊だったと語られる。どちらにしても、自分の手でやってしまったという事実だけが残る。
この回の怖さは「化け物に騙されないぞという警戒心そのものが人を殺す側へ回す」という構造にある。疑うことが悪いという話にも読めるし、疑ったところで化け物には勝てないという話にも読める。子供にとってはどちらにしても逆に逃げ場がない。だから記憶に後味が残る。
## 亡者道 ― 山で会ってはいけない行列
1984年8月4日放送。岐阜の話。タイトルがもうだめだ。死人の通る道が山にあって、その日だけは入ってはいけないと先人に言われている。だが猟師の男は獲物欲しさに入ってしまう。霧が出る。道が分からなくなる。前方から提灯の列が来る。
行列は無言で進む。男は道を譲る。しかし先頭の人間が振り向く。顔がない。もしくは骨だけだ。一列全部が同時に振り向くというカットをやる回もある。男は逃げる。逃げても逃げても同じ場所に戻る。最後に足を取られて沼に引きずり込まれる。後日、男の体は沼の底から見つかった。やってはいけないと言われたことをやっただけで死ぬ。言い訳は一切ない。この容赦のなさがこの番組の持ち味だ。
## 松山の洞窟 ― 十数年後に、岩が動く
もう一本、忘れられないやつを入れておく。戦に負けた落ち武者が山の洞窟に隠れる。そこに豪雨が来て、土砂と大岩で入口が塞がる。中から声がする。助けてくれ、と。村人は聞いている。しかし落ち武者に関わると面倒だから、聞こえないふりをする。声は何日か続いて、やがて止む。
この回の真骨頂はその後だ。十数年が経ち、すっかり忘れ去られた頃。山が鳴る。洞窟の大岩が、内側から押されて動く。隙間から白い手が出る。白骨になった落ち武者が、最後に一度だけ日の光を浴びようとしている。アップで骸骨の顔が映って終わる。土曜の夜の子供に浴びせていい絵じゃない。
## ここからが本題 ― 存在しないと言われている回の話
さて、ここまでは全部実在する。放送日も内容も確定している。だがこの番組には、それ以外の層がある。データベースにもない、サブタイトルも定まらない、しかし「見た」という人だけが一定数いる回。いわゆる封印回だ。代表的なものを一つずつ、語られている形で再現していく。
一つ目。タイトルのない回。これがいちばん強い。いつも通り龍のオープニングが終わって、サブタイトルが出るはずのところで、何も出ない。黒い画面のまますぐに本編が始まる。内容は、山の中の一軒家に家族が住んでいて、外から誰かが戸を叩く。叩き続ける。家族は開けない。一晩中叩かれ続けるだけで、何も説明されないまま終わる。語りは一言も入らない。この版を語る人は必ず「声がなかったことが怖かった」と言う。あの二人の声優がいないまんが日本昔ばなしは、確かにものすごく不気味だろうな。
二つ目。地獄を最初から最後まで描いた回。主人公はいない。上から下へ、地獄の各階層をカメラが降りていくだけ。針の山、血の池、釜茹でで煮られる人々。ナレーションは淡々と「ここにはこういう人が落ちます」と説明する。最後にカメラが上を向いて、遠くに小さい光が見える。そこで終わる。子供の語りによれば、「見たあと何日も眠れなかった」という定番の感想が付く。地獄を扱った回は実際にいくつもあるので、これは実在の回の記憶が肥大化した可能性が高い。だが、「主人公がいない」という一点にこだわる人が多いのも事実だ。
三つ目。エンディングが違う回。これは話の内容ではなく、番組の枠自体が壊れるタイプの噂だ。いつもの明るいエンディングの代わりに、無声の黒画面に白文字で何かが流れた。内容は語る人によって違う。「この話は実話です」だったという人もいれば、人名と地名が列挙されていたという人もいる。この手の噂の機能ははっきりしていて、「フィクションの保護膜を破って現実に手を伸ばしてくる」ことにある。アニメは作り物だと安心していた子供に、実話だと告げる。これだけでトラウマの深さが変わる。
四つ目。語り手が途中で黙る回。この噂は地味なのに強い。普通に話が進んでいて、クライマックスの直前でナレーションが止まる。絵だけが動き続ける。何が起きているのか説明されないまま、登場人物が一人ずつ画面から消えていく。最後に語り手が一言だけ「おしまい」と言って終わる。この版を語る人は、あの二人の声優の声質を具体的に描写することが多い。「声は市原悦子さんだったけど、いつもの声じゃなかった」という言い方をする。
五つ目。オープニングの少年が龍から落ちる回。これははっきり言って噂の噂だが、異常に流通している。いつものオープニングで、少年が龍の背に乗って雲を抜けていく。その回だけ、少年が体勢を崩して、下を見るカットが一瞬入る。フレーム単位の話だから、残っていないのは当然だという理屈もセットで語られる。これは完全にネット以降の噂で、コマ送りで検証できるようになった時代の産物だ。技術が進むと、噂の形も進化する。
六つ目。実在の回の「違うバージョン」。これが最も面白いタイプだ。例えば吉作落としで、吉作が飛び降りたあとの地面のカットがあったという人がいる。飯降山で、尼僧が骨を抱えているカットがあったという人がいる。十六人谷で、十五人の顔が全部同じ顔だったという人がいる。どれも現行のソフトにはない。だがこの番組は実際にリマスター版を作っているし、再放送では二本立ての組み合わせも変わっている。当時の放送と今見られるものが完全に同一だとは、実は誰も保証できない。この小さな隙間に、噂が入り込む。
## 「見た」と言う人たちの話を聞いてみる
この手の話を追っていると、必ず体験談にぶつかる。いくつか並べてみる。
一人目。東北の五十代の男性。小学低学年の頃、土曜の夜に一人でテレビを見ていた。親は台所にいた。その日の一本目は普通の話で、二本目が妙だったと言う。画面が水彩でも切り絵でもなく、鉛筆で描いたような線だけの絵だった。色がない。山道を女の子が下っていくだけの話で、後ろから何かが付いてくる。女の子は振り向かない。最後まで振り向かないまま終わる。彼は親を呼んで一緒に見てもらおうとしたが、呼んだときにはもうエンディングになっていた。ちなみに彼は当時の新聞のラテ欄を後年図書館で探したという。その日の二本目は別のタイトルだった。「じゃあ俺が見たのは何なんだ。ラテが間違ってたのか、俺が間違ってるのか」。
二人目。関東の四十代の女性。彼女の証言は少し変わっていて、見たのは自分と妹の二人だという。二人とも同じ回を覚えていて、内容も一致する。内容はこうだ。村に病が流行る。子供が次々に死ぬ。親たちは山の神様に子供を一人差し出すことにする。くじ引きで選ばれた女の子が、白い着物を着て山に登る。山の上には何もいない。女の子は座って待つ。日が暮れる。そこで終わる。神様も化け物も出てこない。「この子どうなったの、って妹と二人で騒いだのを覚えてる。でも、リストを何度見てもそれらしい話がないのよ」。二人で同じ噂を共有していると、確信は二倍以上になる。
三人目。関西の三十代の男性。この人の話はビデオ経由だ。実家に、祖父が録画したビデオテープが山ほど残っていた。大学生のとき、退屈しのぎに順番に見ていったら、一本にまんが日本昔ばなしが入っていた。ノイズがひどく、声がこもっていた。囲炉裏の周りに家族が座っていて、一人多い。数えると一人多いんだけど、登場人物は誰も気にしていない。語りも触れない。最後に家族が寝るシーンで、布団が一つ分多く敷かれていて、そこだけさっと映して終わる。彼はそのテープを保管していたが、実家の建て替えのときに行方不明になった。「見たときはマジで背筋凍った。今思うと、ノイズだらけの画面を勝手に読んだだけかもしれんけどなあ」。
四人目。中部の六十代の女性は、自分の子供が見て泣いた回を覚えていると言う。内容は、痩せた牛と老人の話。飢饉で食べるものがなくなって、村人が牛を潰そうとする。老人は反対するが、多勢に無勢で牛は引かれていく。老人はあとを追う。小屋の前で座り込む。中から音がする。老人は耳を塞ぐ。数日後、老人も死んでいるのが見つかる。この回を見たあと、彼女の子供は一週間牛乳を飲めなくなったという。「あの回は何だったのかしらね。農村の話はたくさんあったけど、あんなに何も救いがないのはなかったと思うのよ」。
この四つを並べると、共通の形が見えてくる。全部「回収されないまま終わる」という役を担っている。化け物は出てこない。血も出ない。ただ説明されない。実はこれは、本物のまんが日本昔ばなしの特徴を、噂の側が正確に模倣しているということだ。この番組は本当に説明しない。救いもしない。だから噂の回も、本物に見えてしまう。
## なぜ再放送されないのかという問い
この噂の土台になっているのが、「あの番組は全部は再放送されない」という事実だ。これは本当。しかし理由は、噂が言うような不穏なものではないとされている。まず番組の成り立ちが特殊だ。一話ごとに別のアニメーターやプロダクションが作っていて、千五百話以上ある。現代の基準で二次利用の権利処理をし直そうとすると、権利者を一話ずつ追いかけることになる。経済的に合わない。
次に、地域や職業の描写の問題。昔話は差別的と受け取られかねない描写を含むことがある。当時は問題にならなかった表現が、今の基準ではひっかかる。一本一本チェックするのは手間がかかる。さらに、フィルムや素材の保管状態の問題もある。十年以上にわたる番組で、制作体制も変わっている。全話が完全な形で揃っているとは限らない。
実際、完全な封印ではなくて、復活特番は何度も放送されている。2011年4月10日にゴールデンタイムの特番があり、同年の夏休みと正月にもスペシャルが組まれている。CSの専門チャンネルでは2015年から厳選二百四十話が流された。つまり「選ばれたものは出る」。しかし逆に言うと、選ばれなかった千二百話以上は出ない。この「選ばれなかった側」の巨大な存在が、噂の価値をつり上げている。封印されているのではなく、これだけ多いと選べない。でも見る側には区別がつかない。
制作側が「この回は存在しない」と一つ一つ声明することも、基本的にはない。千五百本のタイトルリストは公開されているので、それを見れば分かるだろ、という態度だ。実際ファンが作っている大規模なデータベースがあって、放送日とあらすじとスタッフが網羅されている。噂の回を検索しても、そこにはない。ないと分かったとき、人は二つの反応をする。自分の記憶違いだと思うか、リストから消されたと思うか。後者を選んだ瞬間、封印回の伝説が一つ生まれる。
## 掲示板と考察界隈の反応
匿名掲示板では、この番組のスレは定期的に立ち続けてきた。流れは毎回ほぼ一緒だ。まず誰かが吉作落としと飯降山の名を出す。十六人谷と亡者道が続く。ここまでは定番で、スレ内の全員が話についてこられる。問題は中盤だ。必ず一人か二人、タイトルを覚えていない回の内容を書き込む人が現れる。スレ住人が必死に特定を試みる。データベースを洗う。似た回が見つかることもあるし、見つからないこともある。見つからないと、そのレスは伝説になる。
この番組の場合、ファンコミュニティの調査能力が異常に高いというのも面白いところだ。タイトル、放送日、演出、作画、舞台となった地域、原話の出典まで追いかける人たちがいる。だから噂の検証も早い。一日で「それはこの回だ」と特定されてしまうことも多い。でも特定されなかったものだけが残って、何年も循環する。このフィルタリングの結果、現在残っている封印回の噂は、奇妙に反証しづらい形をしている。タイトルがないとか、語りが黙るとか、検索しようがないものばかりなんだよな。
動画サイトの時代になってからは、個人のアップロードで実際の映像が見られるようになった。これで噂は一回死ぬはずだった。ところが逆だった。吉作落としや飯降山の実際の映像があまりにもイカれていたために、「これを作れる制作陣なら、もっとやばい回を作ってもおかしくない」という確信が強まった。実物が噂を裏付けてしまったんだ。これは幻の回系都市伝説としてはかなり珍しいパターンで、普通は実物が出ると噂は蒸発する。
## なぜこの番組はここまで怖いのか
怖さの理由をちゃんと分解しておきたい。一つ目は、教訓がないことだ。普通の児童向け作品には、悪いことをすると罰が当たるという因果がある。しかしこの番組の恐い回は、悪いことをしていない人間が普通に死ぬ。吉作は真面目に働いていただけだ。十六人谷の十五人は仕事をしていただけだ。子供は因果応報の世界観を前提にしているから、それが壊れると世界自体が信用できなくなる。
二つ目は、映像のバラつきだ。一話ごとに作画スタッフが違うから、絵が予測できない。可愛い丸い絵の週もあれば、墨を乱暴に塗ったような絵の週もある。子供は番組のフォーマットを信じてテレビの前に座る。でもフォーマットは守られない。何が出てくるか分からない番組を、毎週同じ時間に見させられる。この不安定さこそが封印回伝説の土壌だ。何が出てもおかしくないと思っているから、存在しない回ですら「あり得る」と感じてしまう。
三つ目は、昔話というジャンルそのものの性質だ。日本の民話はもともと残酷だ。子供向けに蒸留される前の形では、子捨ても飢饉も人身御供も普通に出てくる。この番組はその蒸留をさぼっている回が実際にある。飯降山なんかは典型だ。人を殺した尼僧が十分に罰せられない。里に下りてこの後どうなったのかも語られない。現代の児童向け作品なら絶対に通らない未処理さが、そのままブラウン管を通って居間に届いていた。
## なぜ人は「見た」と確信するのか
最後に記憶の話をしておく。この番組を子供の頃に見た世代には、共通の条件が揃っている。まず、見た本数が圧倒的に多い。一人あたり何百話も見ている。しかもタイトルを覚えていない。だから記憶の中では、内容の断片がタイトルなしで漂っている。断片同士は簡単に結合する。Aの回の山道と、Bの回の女の子と、Cの回のラストカットが、一つの「見たことのある回」に合成される。しかも合成されたことに本人は気づかない。
次に、確認手段がなかった。当時は録画も配信もない。地方局の遅れ放送や差し替えも日常茶飯事だった。「うちの地域だけ違うものが流れた」という体験が、現実にあり得たんだよな。この現実的な可能性がある限り、「自分だけ見た回」という仮説は否定しきれない。否定しきれないものは、人の中で年を取って確信になる。
そして三つ目。この番組を見ていた場所が、夜の居間だったこと。土曜の夜七時。風呂の前か後。部屋は暗めで、家族の声がする。この状態の記憶は、感情と強く紐づいて保存される。情動が強いときの記憶は鮮明になるが、同時に歪みもする。鮮明だから正しいとは限らない。むしろ逆のこともある。このギャップが、封印回伝説のエンジンなんだ。
## 本編がすでに健全じゃない、という前提の異常さ
ここまで書いてきて、この番組の封印回伝説が他の作品の噂と決定的に違う点が見えてきた。普通、幻の回というのは「本編が健全だからこそ、健全じゃない回があると面白い」という形で成立する。幸せなアニメの黒い最終回、というパターンだ。ところがまんが日本昔ばなしの場合、本編がすでに健全じゃない。吉作落としも飯降山も十六人谷も、全部実際に放送された。つまり噂の側は、本物と差別化するためにさらに上を行かないといけない。これは相当ハードルが高い。
だからこの番組の封印回伝説は、グロテスクの方向には伸びなかった。代わりに伸びたのが「番組の形式を壊す」方向だ。タイトルが出ない、語り手が黙る、エンディングが違う、オープニングの少年が落ちる。どれも内容の残酷さではなく、番組という装置そのものの不具合を怖がっている。これは非常に興味深い。内容ではもう本物に勝てないと噂の側も分かっているんだよな。だから別のレイヤーを攻める。噂はバカじゃない。空いているところを正確に見つけて入り込む。
もう一つ指摘しておきたいのは、この番組の封印回伝説が奇妙に「優しい」ことだ。他の作品の幻の回伝説には、キャラクターを惨めに殺すとか、実在の事件と結びつけるとか、見た人が死ぬとか、そういうエグいフックが入ることが多い。だがこの番組の噂は、不思議なことにそこまで行かない。噂の中の少年は龍から落ちそうになるだけだし、女の子は山で座って待つだけだし、家族は戸を叩かれるだけだ。血は出ない。実はこれも、本物の作風を正確になぞっている。あの番組は惨劇を描くときですら、カメラを引いて黙って見ている。噂も同じことをする。噂を作った人間が、作品を深く理解していた証拠だと思う。
この番組の実在の回をいま見直すと、当時の作り手が何をやろうとしていたのかは、だいたい推測がつく。彼らは子供を子供扱いしていない。山という場所は危険だとか、飢饉は人を変えるとか、因果は必ずしも合わないとか、そういうことを十分のアニメに仕込んで、土曜の夜に放り込んでいた。日本の児童アニメ史でこれぐらい容赦のない番組は珍しい。そして、その容赦のなさを受け取ってしまった世代が、大人になってからもその記憶を処理できずにいる。封印回伝説は、その未処理の感情の行き先だ。自分の中の恐怖があまりに大きいので、実在の回だけでは容量が足りない。だからもっと怖い回があったはずだと思い込む。
最後に一つ。この番組のデータベースを眺めていると、本当に奇妙なタイトルが山ほど並んでいる。寝てて食われる話、ねこ岳の怪、牛鬼淵。どれも実在する。こういうタイトルを眺めていると、自分の記憶の中のあやふやな回もこのリストのどこかにあるんじゃないかと思えてくる。実際、多くの人はそこで自分の回を見つけて安心する。だが見つからない人もいる。見つからなかった人は、少しだけ寒い思いをする。自分が見たものは一体何だったのか。そしてその寒さを埋めるために、新しい噂を一つ書き込む。こうやって、土曜の夜の幻の回は増え続けている。存在しないのに、確実に増えているんだよな。
まんが日本昔ばなし「幻の回」 ― 二度と再放送されないと囁かれる封印エピソード都市伝説の全貌
