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バネ足ジャック――ヴィクトリア朝ロンドンを67年間跳ね回った青い炎の怪人、その全記録と正体をめぐる終わらない議論

いきなりだけど、この話はちょっと格が違う

怪人の都市伝説って世界中にある。でもバネ足ジャックは、その中でも異様な立ち位置にいる。

なにが異様かというと、記録の量だ。ふつう都市伝説というのは「誰かが言ってた」で終わる。ところがこいつは違う。ロンドン市長が公式の場で被害の訴えを読み上げている。全国紙が実名の被害者を載せている。警察が容疑者を逮捕して法廷に引っ張り出している。陸軍の駐屯地で歩哨が実弾を撃っている。それでいて、誰ひとり捕まっていない。

しかも活動期間がおかしい。最初の報告が1837年の秋。最後とされる報告が1904年のリヴァプール。67年だ。人間ひとりの現役期間としては無理がある長さで、それでも同じあだ名で呼ばれ続けた。

姿もいい。というと不謹慎だけど、造形として完成度が高すぎる。真っ白でぬめっとした油布のような全身服。頭には奇妙なヘルメット。目は赤く燃える球。口からは青と白の炎。手は金属の鉤爪。そして塀を跳び越えて消える。ヴィクトリア朝の人間が想像した「悪魔」の要素が、これでもかと詰め込まれている。

この記事では、その全部をやる。事件そのものの再話。新聞に最初に載ったときの生々しい文面。派生していった別バージョン。研究者たちがどこまで潰して、どこで手が止まったか。そして日本にどう入ってきたか。長くなるけど、途中で飽きさせないように書くつもりだ。

1837年秋、クラパム・コモンでの最初の一撃

話は1837年10月から始まる。ヴィクトリア女王が即位したのが同じ年の6月。国がまるごと新しい時代に切り替わった、その最初の秋だ。

被害者はメアリー・スティーヴンス。ラヴェンダー・ヒルの家に奉公していた使用人の娘で、その晩は勤め先へ戻る途中だった。クラパム・コモンを抜ける道。今でこそ公園だけど、当時は日が落ちれば真っ暗な原っぱだ。

暗がりから、何かが跳び出した。

証言によれば、それは彼女を羽交い締めにして動けなくした。そして顔にキスをしようとし、服を引き裂いた。彼女がいちばん覚えていたのは、手の感触だという。冷たくて、ぬるっとしていて、死体のようだった。悲鳴を上げると、近所の住人が飛び出してきた。ところが灯りを向けたときには、もう何もいなかった。総出で探しても、痕跡すら出てこない。

その翌日、今度は近くで別の騒ぎが起きる。何者かが走る馬車の前に跳び出し、御者が驚いて手綱を握り損ね、馬車がひっくり返って御者が大怪我をした。目撃した数人が口を揃えたのは、その人物の逃げ方だ。9フィート、つまり2メートル70センチはある塀を、助走もなしに跳び越えた。しかも跳びながら甲高い声で笑っていた、と。

この「笑いながら跳ぶ」というディテールが、以後ずっとついて回ることになる。跳躍力だけならまだ人間の範囲を想像できる。でも、跳びながら笑うというのが気持ち悪い。追われていることを楽しんでいる、ということだからだ。

1838年1月9日、市長官邸で読み上げられた匿名の手紙

年が明けて1838年1月9日。ロンドン市長サー・ジョン・カウアンが、マンション・ハウスで公開の場を持った。ここで一通の匿名の手紙が読み上げられる。この日が、バネ足ジャックが「私的な噂」から「公的な事件」に変わった瞬間だ。

差出人は自分を「ペッカムの住人」とだけ名乗っていた。手紙の中身がまた強烈で、要するにこう書いてあった。上流階級に属すると思われる何人かの人物が、賭けをした。仲間のひとりが、ロンドン近郊の村々を三つの変装で回れるかどうか。幽霊と、熊と、悪魔だ。紳士の屋敷の庭に入り込み、住人を怖がらせられるかどうか、という賭けだと。

そして手紙の書き手は言う。その賭けは受けられてしまった。この卑劣な男は、すでに七人の婦人から正気を奪った。うち二人は回復の見込みがない、と。

市長は懐疑的だった。これを鵜呑みにする気配はなかったらしい。ただ、彼はこうも認めている。ロンドンのあちこちから同じような話が届いているのは事実だ、と。

ここが重要なポイントで、市長は「事件を認定した」わけじゃない。「そういう手紙が来た」と紹介しただけだ。ところが翌日から、事態は市長の想定を完全に飛び越えていく。

新聞が書いた。書いた途端、マンション・ハウスに苦情と訴えの手紙が殺到しはじめた。ハマースミス、イーリング、ケンジントン、ストックウェル、ブリクストン。ロンドン西部から南部まで、地名がずらずら並ぶ。うちの近所にも出た。妹が襲われた。使用人が正気を失った。手紙の山ができた。

つまり、こういうことだ。市長が手紙を読み上げるまで、これは町内の噂だった。読み上げた瞬間、それは「ロンドン全体で起きている連続事件」になった。ゼロから作られたのではない。バラバラに転がっていた小さな恐怖が、公的な場で一本の糸に通されたのだ。

新聞が名前をつけた

この怪人に「バネ足ジャック」という名を与えたのも新聞だった。塀を跳び越える。だから靴の踵にバネが仕込まれているに違いない。そういう当時の推理が、そのままあだ名になった。タイムズをはじめとする各紙がこの呼び名を使い、あっという間に全国区の言葉になる。

面白いのは、記者たちが最初から全部を信じていたわけじゃないことだ。1838年1月10日のモーニング・ヘラルドには、かなり冷めた記事が載っている。記者が噂の出た土地をいくつも回ってみた。ところが、自分がじかに見たと言い切れる人間はひとりも見つからなかった。誰に聞いても「自分は見ていないが、あそこの誰それが見た」と別の場所を指さされる。それを辿っていくと、また別の誰かを指さされる。永遠に本人に辿り着かない。

この記事は、実は都市伝説研究にとってものすごく貴重な記録だ。1838年の時点で、すでに「友達の友達が体験した話」という構造が観測されている。噂の伝播のかたちが、今のインターネット上のそれと寸分違わない。19世紀のロンドンで、記者が手と足を使って同じ壁にぶつかっていたわけだ。

1838年2月19日、ベアバインダー・レーンの玄関先

そして、決定打が来る。

場所はロンドン東部、ボウとオールド・フォードのあいだにあるベアバインダー・レーン。畑と沼地に挟まれた寂しい一本道だ。そこにアルソップ家の家があった。世帯主はミスター・アルソップ。娘が三人。そのうちのひとりが18歳のジェーン・アルソップだった。

夜の8時45分ごろ。門の呼び鈴が、乱暴に鳴らされた。

出たのはジェーンだった。門の外は真っ暗で、人影の輪郭しか見えない。相手はいきなり、切迫した調子でこう言った。

自分は警察の者だ。すぐに明かりを持ってきてくれ。バネ足ジャックをここで捕まえたところなんだ。

これがいちばん怖いところだと思う。怪人が、その怪人の名前を使って呼び鈴を鳴らしている。ジェーンにしてみれば、噂の怪物が捕まったという吉報だ。しかも相手は警官を名乗っている。断る理由がない。

彼女は家の中に戻り、蝋燭を持って出て、それを門越しに手渡した。

男は蝋燭を受け取った。そして、羽織っていた外套を脱ぎ捨てた。

証言によれば、そこから先は数十秒の出来事だった。男は蝋燭の炎を自分の顎の下に近づけた。下から照らされた顔が浮かび上がる。ジェーンの言葉では、それはこの上なく醜悪で恐ろしい姿だった。目は赤く燃える球のよう。頭には大きなヘルメットのようなもの。体にぴったり張りついた、白い油布に見える服。胸のあたりには小さなランプのようなものを吊るしていた。

そして男は、口から青と白の炎を大量に吐き出した。

ジェーンは目が眩んだ。悲鳴を上げて逃げようとした。男は彼女の首を掴み、頭を脇に抱え込んだ。髪をわしづかみにして引っ張り、爪で首筋と腕を掻きむしった。ジェーンの証言では、その指は金属のようで、まるで鉤爪だったという。

家の中から姉妹が飛び出してきた。姉のサラだ。姉妹は必死でジェーンを引きはがし、家の中へ引きずり込み、扉を閉めた。男は扉を叩き、なおも入ろうとした。近所の人間が集まる気配がして、ようやく走り去った。

翌日、警察の捜査が始まる。父親のミスター・アルソップは、犯人逮捕に10ギニーの懸賞金を出した。

2月22日付のタイムズがこの事件を報じた。これが決定的だった。事件の詳細、被害者の実名、そして「赤い火の玉のような目」「青と白の炎」というフレーズが、活字になって全国に流れた。警察裁判所のミスター・ハードウィックは、この暴挙の犯人を法の前に引き出すために労を惜しむべきではない、という趣旨の発言をしたと伝えられている。

ここから先、目撃者たちの証言は驚くほど揃いはじめる。当たり前だ。全員がタイムズを読んだあとなのだから。この「報道が証言のテンプレートを作ってしまう」問題は、あとの章でじっくり扱う。

ターナー・ストリートの扉と、外套の内側のダブリュー

アルソップ事件の直後、もうひとつ小さいけれど非常に厄介な事件が起きている。ターナー・ストリートの、ミスター・アシュワースという人物の家でのことだ。

呼び鈴が鳴り、住み込みの少年が出た。外に立っていたのは、また外套の男。男はアシュワース氏を呼べと言った。少年が奥へ引き返そうとした、そのときだ。男が外套の前を開き、その下にあるものを見せた。

少年は絶叫して扉を叩き閉めた。何を見たのか、証言は具体的ではない。ただ、恐ろしいものだった、としか語られていない。

問題はそのあとだ。逃げる際に男が外套を翻したとき、少年は内側に金糸の刺繍を見たと言った。大きなアルファベットのダブリューの文字だったと。

この刺繍が、のちの犯人説にとてつもない影響を与えることになる。なにしろ、当時のロンドンで最も評判の悪い貴族の家名が、ちょうどダブリューで始まっていたからだ。

ただし正直に書いておくと、この刺繍の詳細については研究者の側から強い疑義が出ている。誰が最初にこの細部を書いたのか、一次資料まで遡ると足が地面から離れてしまう。そのあたりも後述する。

1838年2月28日、ライムハウスのグリーン・ドラゴン・アレー

アルソップ事件から9日後。今度はロンドン東部の港町、ライムハウスで起きた。

被害者は18歳のルーシー・スケールズ。彼女と姉妹は、ナロー・ストリートに住む兄の家からの帰り道だった。兄は肉屋を営んでいた。夜の8時半ごろ、二人はグリーン・ドラゴン・アレーという細い路地に差しかかった。

路地の先に、人影が立っていた。大きな外套にすっぽりと包まれている。じっと動かない。

ルーシーが先に立って通り過ぎようとした、その瞬間。

人影は、彼女の顔めがけて大量の青い炎を噴きつけた。

ルーシーは目が見えなくなった。そのまま石畳に崩れ落ち、激しい発作を起こした。姉妹の証言によると、その発作は数時間続いたという。

姉妹が語った犯人像がまた印象的だ。背が高く、痩せていて、紳士のような物腰だった。大きな外套に身を包み、体の前に小さなランプ、いわゆるブルズアイ型の角灯を提げていた。警官が持っているものによく似ていた、と。

そして何より、この犯人は一切しゃべらなかった。何も言わない。掴みかかりもしない。触れもしない。炎を吹きつけて、それだけで立ち去った。

アルソップ事件の犯人は饒舌で、警官を名乗り、掴みかかり、引っ掻いた。スケールズ事件の犯人は無言で、触れもしなかった。同じ犯人だと考えると、行動の一貫性がない。別人だと考えると、では二人目はどこで手口を覚えたのか。この矛盾は、いまだに誰も綺麗には説明できていない。

兄のスケールズ氏が警察に届け出た。捜査は行われた。誰も捕まらなかった。

逮捕、そして無罪――トーマス・ミルバンクの一件

アルソップ事件の捜査は、意外なほど早く動いた。

事件からほどなくして、モーガンズ・アームズという酒場で、ひとりの男が酔って大声を出していた。俺がバネ足ジャックだ、と。

大工のトーマス・ミルバンク。通報を受けて駆けつけたのは、ジェームズ・リーという警官だった。リーは以前、悪名高い殺人事件の捜査に関わったことのある実力派だ。ミルバンクは逮捕された。

状況証拠は悪くなかった。ミルバンクは事件当夜、白い作業着の上に厚手の外套を着ていた。しかも現場にその両方を落としていた。さらに、アルソップ家から渡された蝋燭も所持していたとされる。

裁判はランベス・ストリートの治安裁判所で行われた。ここで検察側の主張はあっさり崩れる。

ジェーン・アルソップが譲らなかったからだ。犯人は口から炎を吐いた。それは絶対に間違いない、と。

そしてトーマス・ミルバンクは、口から火を吐くことができなかった。実演を求められても無理だった。この一点で、彼は釈放された。

ここが本件のいちばん皮肉なところだ。もし被害者が「炎を吐いた」と言い張らなければ、ミルバンクは有罪になっていたかもしれない。逆に言えば、この事件を超常的な話にしてしまった最大の要素が、犯人候補を法の網から逃がしたことになる。

なお周辺証言も残っている。馬車職人のジェームズ・スミスという男は、ミルバンクが「あれはひどい話だ」と言い、続けて「バネ足ジャックについてはどう思う」と自分に振ってきた、と証言した。靴職人のリチャードソンは、大きな外套を着た若い男が少年と一緒にバネ足ジャックの話で笑っているのを見た、と述べている。捜査線上にはミルバンクのほか、ペインという煉瓦職人の名前も挙がっていた。二人とも白い服装で現場付近を離れるところを見られていたという。

決定打になったのは、アルソップ姉妹が「犯人は酔っていなかった」と証言したことだ。ミルバンクは泥酔していたと自分で認めていた。姉妹の証言と噛み合わない。結局この事件は、法的には何ひとつ解決しないまま終わった。

目撃談を、じっくり三つ

事件のあらすじだけ並べても、この話の肌触りは伝わらない。ここでは残っている証言を、読み物として腰を据えて追ってみる。

ひとつめ――アルソップ家の姉、サラが見たもの

ジェーン本人の証言はよく引用される。けれど、あの晩いちばん冷静に外を見ていたのは姉のほうだ。

姉が異変に気づいたのは、妹の悲鳴の質だった。門の外で誰かと話す声が聞こえていたのは知っていた。相手が警官を名乗っているらしいことも、切れ切れに耳に入っていた。だから最初は、ああ捕まったのか、とすら思ったという。

その空気が一瞬で裏返った。妹の声が、会話の声から動物の声に変わった。

姉が玄関から飛び出したとき、そこにあったのは信じがたい光景だった。白くぬめる何かが妹の頭を脇に抱え込んでいる。妹の髪が引っ張られて、頭皮ごと持っていかれそうになっている。そして周囲がぼんやりと明るい。相手の胸のあたりに、小さな灯りがぶら下がっていたからだ。

姉は妹の腕を掴んで引いた。相手は離さない。何度も引いた。そのあいだ、相手は一言もしゃべらなかったという。ようやく妹の体が抜けて、二人は転がるように家の中へ入った。扉を閉めた直後、扉が叩かれた。強く、何度も。

姉はのちに、あれは扉を破ろうとしていたのではないと思う、という趣旨のことを語っている。ただ叩いていた。中の人間がどうなるかを、楽しんでいるような叩き方だった、と。

ふたつめ――ライムハウスの姉妹が語った「紳士」

ルーシー・スケールズの姉妹の証言は、恐怖の描写が薄いぶん、かえって生々しい。

彼女が語る犯人像には、怪物の要素があまりない。背が高い。痩せている。紳士のような立ち姿。大きな外套。胸元の角灯。これだけ聞くと、夜の街を歩くごく普通の中流以上の男だ。当時のライムハウスは船乗りと荷役の町で、身なりのいい紳士が路地に立っていること自体は珍しくない。

だから二人は、警戒しなかった。避けようともしなかった。

そこで炎が来た。

彼女が強調したのは、相手が何もしゃべらなかったことだ。名乗らない。脅さない。笑いもしない。炎を吐いて、妹が倒れて、それを見届けてから、静かに立ち去った。追いかけようという気すら起きなかったという。

この「何も言わない」というのが、個人的には全証言の中でいちばん怖い。目的がわからないからだ。金でもない。暴行でもない。ただ、人を炎で倒して、その様子を見て帰る。人間の動機の枠から外れている。

みっつめ――1877年、オルダーショットの歩哨たち

時代を39年飛ばす。1877年、ハンプシャー州オルダーショットの陸軍駐屯地。当時の英国陸軍最大級の基地だ。

最初の記録は3月17日付のシェルドレイクス・オルダーショット・アンド・サンドハースト・ミリタリー・ガゼットに載っている。誰かが歩哨相手にかなり質の悪い悪ふざけをする気になったらしい、という書き出しで、そいつは驚くべき素早さで逃げ去った、と結ばれている。

歩哨たちの体験は、ほぼ同じ形をしている。深夜、孤立した歩哨所に立っている。物音がしない。気配もない。それなのに、突然、顔を平手で打たれる。

その手が、氷のように冷たかった。死体の手のようだった、と複数の兵が証言している。

驚いて振り向くと、何かが歩哨箱の上に乗っている、あるいは屋根から跳び降りて走り去る。ある兵は取っ組み合いになり、両目に青あざを作った。何度か発砲もされた。当たった形跡はない。命中を確認できないまま、そいつは信じがたい跳躍で闇に消えた。

夏には報告が一度途切れ、8月にまた再発している。4月28日付のタイムズには、絨毯地の鞄を持った不審者が基地に入り込んだという話が出てくる。中身は例の衣装ではないか、と推測された。同じ日のイラストレイテッド・ポリス・ニュースは、夜に光り輝く亡霊、まるで燐を塗ったように光っていた、と書いている。

そして1907年になって、ある陸軍高官が漏らしている。当時、軍の内部では第60ライフル連隊のオルフリー中尉ではないかと疑われていた、と。体格のわりに驚異的に身軽な男だったという。本人は最後まで認めなかった。軍法会議の記録も残っていない。

なお、1954年のある雑誌記事が「ジョン・リーガン」という被害歩哨の実名を出したことがある。ただしこの名前は、当時の軍の記録のどこにも出てこない。あとから作られた名前だとみられている。

1843年、全国に広がった波

1838年の大騒ぎのあと、話は一度静かになる。ところが1843年、今度は全国規模で再燃した。

ノーサンプトンシャーでは、悪魔そのものの姿だった、という証言が出た。イースト・アングリアでは、郵便馬車の御者を狙って跳びかかる怪人の話が広まった。もはやロンドンの怪人ではなく、イングランド全土をうろつく存在になっている。

この1843年の波が面白いのは、初出から6年経って、地方に伝わるときには話の芯が入れ替わっていることだ。ロンドンでのバネ足ジャックは「女性の家の玄関に来る変質者」だった。地方では「街道で馬車を襲う悪魔」になった。それぞれの土地で、いちばん怖い形に作り替えられている。

その後も断続的に容疑者が挙がっている。1845年ブレントフォードのリチャード・アダムズ。1847年デヴォンシャーのフィンチ大尉。この人物は暴行2件で有罪判決を受けている。1853年ルイシャムのウィリアム・ターナー。1869年サンダーランドのジョージ・ゴーマン。いずれも「バネ足ジャックの真似をした男」として処理されている。

つまり、少なくとも一定数は間違いなく模倣犯だった。ここは押さえておきたい。バネ足ジャックが実在の何かだったとしても、そうでなかったとしても、「バネ足ジャックのふりをする男」は確実に実在した。

1872年ペッカムの幽霊、そして1873年の公園の亡霊

1872年、ロンドン南部のペッカムでパニックが起きた。背が高く、白い服を着た人影。ニューズ・オブ・ザ・ワールドはこれを昔のバネ足ジャックと結びつけ、バネ仕込みのブーツについて言及した。

翌1873年にはシェフィールドで「公園の亡霊」騒ぎが起きている。こちらも同じ枠組みで語られた。

面白いのは、この時期になると「バネ足ジャック」が固有名詞ではなく分類名になっていることだ。夜に出て、跳んで、白くて、逃げ足が異様に速い。この条件を満たす怪異は、全部バネ足ジャックの一族として扱われるようになる。個体名がジャンル名になった。ゴジラが怪獣映画の総称になったようなものだ。

1877年、リンカーンのニューポート・アーチ

同じ1877年の秋、リンカーンでも騒ぎがあった。ニューポート・アーチというローマ時代の門の周辺に、羊の毛皮をまとった怪人が現れたという。

住民が怒って集団で追い回した。追い詰めた。撃った。それでも平然と跳んで逃げた。

この話には、それまでの目撃談にはなかった要素がある。市民が武器を持って狩りに出ている点だ。1838年のロンドンでは、人々は怯えて家に閉じこもった。1877年のリンカーンでは、群衆が追いかけて発砲した。40年で、恐怖の質が変わっている。得体の知れない悪魔から、捕まえてやるべき侵入者になっている。

1904年、リヴァプールのウィリアム・ヘンリー・ストリート

そして最後の大舞台。1904年、リヴァプール北部エヴァートン近くのウィリアム・ヘンリー・ストリート。

じつはリヴァプールとバネ足ジャックの縁は古い。1887年にはショウ・ストリートのセント・オーガスティン教会に隣接する遊興地で、1888年にはエヴァートンのセント・フランシス・ザビエル教会の尖塔にしがみつく「それ」が目撃されたという話が残っている。少年会の子どもたちが騒いだ、というのが伝わっている形だ。

1904年9月21日付のリヴァプール・エコーが報じたところによると、ウィリアム・ヘンリー・ストリートで相当な騒ぎが起きていた。ただし記事の中身は、じつは怪人の目撃ではない。物が不思議な具合に、目に見える原因もなく投げられている、という内容だ。住民が怖がって家を出るほどだった。警察が調べたが、超自然的なものを裏づける証拠は見つからなかった。

9月24日には続報が出る。幽霊に立ち向かおうとした少年が窓を割って逮捕された。野次馬が数百人集まる見世物になっていた。

ここからが問題だ。ロンドンの新聞スターとニューズ・オブ・ザ・ワールドが、この話に飛びついた。後者がつけた見出しがふるっている。バネ足ジャック、婦人に目のないゴースト。もはや現場で起きたこととは別物になっている。

そして地元の伝承では、こういう形に固まった。1904年、白昼堂々、仮面と長靴と黒いマントの男が街を跳ね回り、25フィート跳び上がって屋根に乗り、そこから別の建物へ跳び移って消えた、と。

研究者ジョン・レピオンは、この過程を伝言ゲームだと表現している。報道が報道を増幅し、事実の輪郭が完全に溶けた、と。1967年に行われたピアポイント夫人という女性への聞き取りでは、彼女は当時学童としてその場にいた。彼女の記憶では、屋根を跳び回っていたのは精神的にやや不安定だった地元の男か、あるいは何らかのポルターガイスト現象であって、バネ足ジャックそのものではなかったという。

つまり最後の事件は、事件そのものよりも「事件がどう化けたか」の記録として貴重なのだ。

ペニー・ドレッドフルという増幅装置

ここで一度、話を犯人探しから離す。この怪人が67年も生き延びられた最大の理由は、たぶん犯人でも目撃者でもなく、印刷機だ。

1838年の1月から2月にかけて、実際の事件に基づくと称する小冊子が3種類も出ている。事件からわずか数週間だ。中身にはすでに相当な創作が混ざっていたとみられている。

そして本番は1863年。バネ足ジャック、ロンドンの恐怖という連載が始まる。いわゆるペニー・ドレッドフル、1ペニーで買える扇情的な大衆読み物だ。

驚くべきは、その中でのジャックの扱いだ。もはや女性を襲う変質者ではない。弱い者を守る側にいる。1878年版でも同じ路線が引き継がれ、20世紀初頭には完全に衣装をまとった義賊、正義のヒーローになっている。

犯罪者が、数十年で正義の味方に変わった。この変質は、キャラクターの寿命という点では最強の戦略だった。恐怖の対象のままだったら、恐怖が薄れた時点で消える。ヒーローになったから、恐怖が薄れても売れ続けた。

研究者たちは、この点でバネ足ジャックをコミックのスーパーヒーローの先祖筋に位置づけている。仮面。マント。人間離れした跳躍。正体不明。夜の街。名乗らない。要素だけ並べると、そのままどこかのコウモリの意匠の人物になる。1938年にスーパーマンが登場するより、ざっと75年早い。

面白いことに、1878年のペニー・ドレッドフル版は、貴族犯人説をはっきり否定している。あの侯爵はダービー巡回裁判にかけられていた時期があり、ジャックが活動していたとされる時期と場所が両立しない、という理屈だ。娯楽小説のほうが、当時の噂に対して冷静な反論をしていたことになる。

パンチとジュディ、そして子どもを黙らせる道具

もうひとつ、増幅装置がある。生活の中への浸透だ。

社会調査家ヘンリー・メイヒューが記録しているところによると、大道芸のパンチとジュディの人形劇で、悪魔役のキャラクターがバネ足ジャックに改名されていた。街頭の子ども向けの娯楽にまで名前が届いていたわけだ。

さらに強烈なのは、親のしつけへの利用だ。言うことを聞かない子どもに、親はこう言った。バネ足ジャックが跳び上がって、寝室の窓からお前を覗きこむよ、と。

これは効く。子どもにとって、夜の寝室の窓は世界でいちばん無防備な場所だからだ。しかも「跳び上がって」というのが最悪で、二階でも安全ではないことを意味する。

つまり19世紀のイギリスでは、かなりの数の子どもが、この怪人の名前を親の口から刷り込まれて育った。その子どもたちが大人になって、夜道で何かを見たとき、真っ先に浮かぶ名前は決まっている。恐怖の受け皿が、社会全体に先に用意されていたのだ。

説その1――貴族の悪ふざけ説

さて、犯人説を一つずつ潰していく。最も古く、最も有名なのが貴族の悪ふざけ説だ。

名前が挙がるのは第3代ウォーターフォード侯爵ヘンリー・ド・ラ・ポア・ベレスフォード。1811年生まれ。イートン校からオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進み、そこで狂気の侯爵というあだ名を頂戴した人物だ。

彼の評判の悪さは筋金入りだった。1837年4月6日、メルトン・モーブレイでやらかした一件が特に有名だ。クロクストンの競馬帰りに泥酔した一行が料金所に着いた。通行料を払えと言われた彼らは、近くにあった赤いペンキとブラシと梯子を持ち出し、料金所の番人と巡査にペンキをぶちまけた。そのまま町中を練り歩き、扉や看板を赤く塗りたくった。駆けつけた警官も殴られ、ペンキを浴びせられた。暴動罪では無罪になったが、暴行罪でひとり100ポンドの罰金を食らっている。

この一件から「町を赤く塗る」という英語の慣用句が生まれた、という説がよく語られる。ただし、この言い回しが記録に出てくるのは1883年以降で、直接の因果は証明されていない。

1838年のある報道は彼をこう書いている。あの手に負えない貴族の一片。その名は多くの場所で、バネ足ジャックそのものと同じくらいの恐怖をもって受け止められている、と。

侯爵説を支える状況証拠は、それなりに厚い。事件当時、彼はロンドンにいた。彼は賭けのためなら何でもやる男として有名だった。彼の家名の頭文字はダブリュー。ターナー・ストリートの外套の内側に見えたという刺繍と一致する。彼の取り巻きには技術に明るい人物がいて、バネ仕込みの靴を作れた可能性が語られる。そして1842年に結婚してアイルランドのカラモア邸に移ると、彼はまったく別人のように穏やかな生活を送り、1859年に落馬で首の骨を折って死んだ。

また、動機を推測する説もある。彼が女性と警官がらみで恥をかかされたことがあり、その報復としてこのキャラクターを作った、というものだ。

ここは慎重に書く。これはあくまで有力な説であって、証明されたことは一つもない。彼が犯人だと断定した同時代の司法記録は存在しない。目撃者による面通しもない。自白もない。1880年に辞書編纂者のエベネザー・コバム・ブルーワーが、侯爵は旅人に不意に跳びかかって楽しんでいた、と書いているが、これは事件から40年以上あとの伝聞だ。

そして最大の弱点。侯爵が1842年に引退したあとも、バネ足ジャックの報告は続いた。1843年の全国的な波。1877年のオルダーショット。1904年のリヴァプール。彼が1859年に死んだあとに45年ぶんの目撃談がある。彼ひとりでは説明が足りない。

説その2――集団ヒステリー説

もっとも学術的に支持されているのがこれだ。

この説の骨子はシンプルで、バネ足ジャックという実体は存在しない、というものだ。あったのは、噂と、恐怖と、報道の相互作用だけだと。

証拠はいくつもある。まず1838年1月のモーニング・ヘラルドの記者が、直接体験者をひとりも見つけられなかったこと。次に、市長が手紙を読み上げたあとで訴えが殺到したという順序。恐怖が先にあって事件が報告されたのではなく、報道が先にあって恐怖が報告された。

さらに決定的なのが、証言の均質化だ。1838年2月22日のタイムズがアルソップ事件の詳細を載せて以降、その後の証言に出てくる要素は、驚くほどタイムズの記事と一致する。赤い目。青い炎。白い服。鉤爪。テンプレートが配布されたあとに、そのテンプレート通りの体験が量産された形になっている。

背景要因も揃っていた。研究者はここで、ヴィクトリア朝初期の社会不安を挙げる。国王ウィリアム4世が死に、18歳の少女が女王になった。1834年の新救貧法が貧困層を追い詰めていた。急速な都市化で、見知らぬ人間だらけの巨大都市ができあがっていた。そして1829年に発足したばかりの首都警察は、まだ市民に信用されていなかった。

不安な時代は、怪物を作る。学術的にはそういう整理になる。

ただし、この説にも穴はある。集団ヒステリーだけでは、ジェーン・アルソップの首と腕に残った実際の傷を説明できない。ルーシー・スケールズが数時間の発作を起こした事実も説明しにくい。何かは、確実に起きている。

説その3――複数犯説

そこで折衷案として出てくるのが複数犯説だ。

1838年の一連の事件には、そもそも何人かの別々の人間が関わっていた、とする考え方だ。アルソップ事件の犯人と、スケールズ事件の犯人が別人だとすれば、行動の不一致は解消する。前者は接触型で饒舌、後者は非接触型で無言。まるで別のタイプの犯罪者だ。

そして「バネ足ジャック」という便利な名前が世に出た瞬間から、この名前を使う人間が増えた。前述の通り、模倣犯として処理された事件は実際に複数ある。

炎の説明もつく。当時、大道芸人の火吹き芸は珍しいものではなかった。可燃性の液体を口に含んで吹く技術は、専門的ではあるが超常的ではない。青い炎という証言も、燃焼する物質によっては十分にありうる色だ。

跳躍も同じだ。バネ仕込みの靴は、実は当時から実験されていて、しかも結論はほぼ出ている。うまく跳べない。着地でまず足首が終わる。だから多くの研究者は、目撃された跳躍は単に身体能力の高い人間が塀や屋根を伝ったものだと考えている。真っ暗な中、パニック状態で見れば、2メートルの塀を勢いで越えるのは「跳び越えた」と記憶される。

この説の弱点は、面白くないことだ。学術的には強いが、物語としては痩せる。だから一般の語りではあまり主役にならない。

説その4――そもそも大部分が創作だった説

そして最も残酷な説がこれだ。私たちが知っているバネ足ジャックの逸話の相当部分は、20世紀に作られた、という指摘である。

ここで名前が出るのがピーター・ヘイニングだ。1977年、バネ足ジャックについての初の本格的な一冊を書いた作家である。日本を含め世界中の紹介記事は、直接間接にこの本の影響を受けている。

ところが1996年、研究者マイク・ダッシュが徹底的な一次資料の洗い直しを行い、ヘイニングの記述のうち複数の要素に、それ以前の記録がまったく存在しないことを突き止めた。

たとえば1837年のポリー・アダムズ襲撃事件。ヘイニングは、被害者が襲撃者をウォーターフォード侯爵だと特定した、という趣旨のことを書いている。ところが同時代の記録が出てこない。

たとえば1838年のターナー・ストリートの一件に付された、外套の金色のモノグラムという細部。これも裏づけが取れない。

たとえば1845年のマライア・デイヴィス殺害事件。ジャックが少女を橋から突き落として殺したとされる話だが、ダッシュはこれを確認できなかった。

ダッシュはヘイニング本人に手紙を書き、出典を尋ねた。返ってきた答えは、資料は何年も前に脚本家に貸したまま失われた、というものだった。

さらに2012年、歴史学者カール・ベルが別の点を突いた。ヘイニングが挙げた1840年のジョン・トマス・ヘインズによる舞台作品について、存在の証拠がない。そもそもバネ足ジャックを扱った演劇は1860年代までほとんど作られていない、と。

これは重い。ポリー・アダムズが実在しないなら、貴族説の最も具体的な柱の一本が消える。マライア・デイヴィス事件がないなら、バネ足ジャックは一度も人を殺していないことになる。

日本語圏で語られるバネ足ジャック像の中には、この検証で否定された要素がまだかなり生き残っている。ネットで見かける「殺人も犯した」という記述の多くは、この系統だと思っていい。

説その5――超常説とその周辺

一応、超常方面も紹介しておく。

宇宙人説。跳躍力の高さは高重力の惑星出身だからで、赤く光る目は再帰反射する眼球構造によるものだ、という主張がある。着地の衝撃を吸収できる体、という発想は面白い。ただし、では何をしにきたのかという説明が一切ない。

悪魔召喚説。オカルト実践者が呼び出したものが暴走した、というタイプの説明だ。当時のロンドンには実際に神秘主義の潮流があったが、これも証拠はゼロだ。

フォーティアン系の研究者が使うのは「ファントム・アタッカー」という枠組みだ。世界各地に、夜に現れて人を襲い、あり得ない方法で消える存在の報告がある。バネ足ジャックはその一例だと位置づける。そして、この種の体験の一部は睡眠麻痺、いわゆる金縛りの体験で説明できると指摘される。胸に何かが乗る感覚。動けない。目が光っている。世界中の民間伝承に共通する構造だ。

先行例も無視できない。1788年から1790年のロンドン・モンスター事件。女性の衣服を刃物で切りつけた人物の連続事件で、当時大パニックになった。1803年から1804年のハマースミスの幽霊事件。白い人影を追いかけた男が、間違えて無関係の煉瓦職人を射殺してしまった事件だ。

つまりロンドンには、バネ足ジャックの30年以上前から「夜に女性を襲う謎の人物」と「白い人影を集団で追いかける」というテンプレートが両方あった。1838年のロンドンは、この怪人を受け入れる準備が完璧にできていた土地だったのだ。

舞台装置としてのヴィクトリア朝ロンドン

この話の怖さは、舞台の力を借りている部分がかなり大きい。当時のロンドンがどんな街だったかを押さえておきたい。

まず、暗い。ガス灯は導入されていたが、それは大通りの話だ。一本裏に入れば闇。しかもガス灯は明るく照らすというより、光の輪をぽつぽつ置くだけの照明だ。光と闇の境目が異様にくっきりする。人影が急に現れて急に消えたように見える環境が、街の構造として存在した。

次に、空気が悪い。石炭を焚く家庭と工場が密集し、テムズ川からの湿気と混ざって、独特の濃い霧が出た。数メートル先が見えないことも珍しくない。「輪郭しか見えない人影」という証言が量産される条件が揃っている。

そして、郊外が本当に郊外だった。アルソップ家のあったベアバインダー・レーンは、ボウとオールド・フォードのあいだの寂しい一本道と描写されている。今なら地下鉄の駅がいくつもあるエリアだ。当時は畑と沼と、ぽつぽつある家。夜に門の呼び鈴が鳴ったら、出るしかない。近所の交番へ走るという選択肢が、物理的にない。

警察も新しかった。首都警察の発足が1829年。アルソップ事件はその9年後だ。まだ市民は警官という職業に慣れていない。制服を見慣れていない。だからこそ「警察の者だ」という一言が、あれほど有効だったのだと思う。今の私たちなら、身分証を見せろと言える。1838年のジェーン・アルソップには、その発想自体がなかった。

さらに階級だ。上流階級の男が下層の女性に何をしても、実質的に罰せられない空気があった。市長への手紙が「上流階級の連中の賭け」を告発したとき、多くの読者がそれを即座に信じたのは、そういう話が現実に起きうると誰もが知っていたからだ。

なぜこの怪人は、こんなに怖いのか

ここからは分析。なぜバネ足ジャックは、他の無数の怪人譚を押しのけて生き残ったのか。

ひとつ目の答えは、境界を破ることだ。

塀を跳び越える。これは物理的な話であると同時に、社会的な話でもある。ヴィクトリア朝の家庭にとって、塀と門と扉は「安全な内側」と「危険な外側」を分ける絶対の線だった。中流家庭の道徳観そのものが、その線の上に建っていた。バネ足ジャックは、その線を跳び越える。しかも門から入るのではなく、上から越えてくる。防ぎようがない。

ふたつ目は、呼び鈴を鳴らすことだ。

これが本当に上手い。この怪人は、押し入らない。呼ぶ。しかも人間の親切心と善意を利用して、内側から扉を開けさせる。しかも名乗るのは警官。つまり社会が「信じろ」と教えている相手だ。信頼という仕組みそのものが罠として使われている。

みっつ目は、目的がわからないことだ。

金を盗らない。殺さない。ほとんどの場合、何も奪わない。炎を吐いて、引っ掻いて、笑って消える。人間の犯罪には動機がある。動機がわかれば、避け方もわかる。この怪人には、避け方がない。

よっつ目は、姿の設計の良さだ。

白い服は、暗闇でいちばん目立つ色だ。だから「白い人影が近づいてくる」というイメージが成立する。赤い目は、生物の目が反射する色として本能的に警戒される。青い炎は、当時の人間にとって地獄の火の色だった。金属の爪は、人間の手が人間の手でないことの証明だ。ヘルメットは表情を隠す。全部の要素が、恐怖の方向に一直線に揃っている。

なぜ、これほど広まったのか

怖さと、広まりやすさは別の話だ。広まりのほうも整理しておきたい。

まず、名前がいい。バネ足ジャック。一度聞いたら忘れない。しかも「バネ足」という部分が、聞いた人に説明を与えてしまう。あんなに跳べるのは、靴にバネが入っているからだ。この説明が、話を信じやすくした。完全な超自然だと突き放される。技術的な説明が一つ混ざると、急に手触りが出る。

次に、権威が触ってしまったこと。ロンドン市長が公開の場で言及した。これは巨大だ。噂の格が一段上がる。市長自身は懐疑的だったのに、「市長も認めた話」として流通してしまった。この構図は現代でもまったく同じことが起きる。

そして、商業出版の存在。ペニー・ドレッドフルは、恐怖を商品として大量生産できる仕組みだった。売れるとわかった瞬間から、書き手は事実を待たなくなる。増やす。盛る。改変する。ヒーローにさえする。

さらに、家庭内での再生産。親が子を脅す道具になった時点で、この名前は世代を越える回路を手に入れた。教育を通じて伝承されるようになった怪物は、そう簡単には死なない。

最後に、器としての空っぽさ。バネ足ジャックには、確定した正体がない。だから何でも入る。悪魔でも、貴族でも、宇宙人でも、義賊でも、どれを入れても形が崩れない。空っぽの器は、時代ごとに中身を入れ替えて生き延びられる。

世界に散った「跳ぶ男」たち

この形の怪異は、イギリスだけのものではない。

いちばん有名な親戚が、チェコのプラハに現れたペラーク、跳ぶ男だ。第二次世界大戦中、ナチス占領下のプラハで語られた。路地や暗がりから跳び出して通行人を驚かせる。跳躍は常軌を逸していて、列車の車両を跳び越えたとまで言われた。

研究によると、1940年から1942年のプラハ警察の記録には、跳ぶ男に関する報告は一件も残っていない。それでも噂は市民のあいだに広く行き渡った。

そして戦後、ペラークは変質する。占領への抵抗の象徴になったのだ。映画になり、漫画になり、舞台になり、ゲームになった。恐怖の対象から、街の魂そのものへ。イギリスのバネ足ジャックがヒーロー化したのと、まったく同じ経路を辿っている。

このことが示しているのは、こういうことだと思う。人間の集団は、不安な時代に「跳ぶ男」を作る。跳ぶというのは、地面に縛られた人間の逆だ。地面に縛られている自分たちの、裏返しの存在。だから最初は怖い。そして時間が経つと、その自由さのほうに憧れが移って、味方になる。

現代のバネ足ジャック

もう終わった話なのか、というと、そうでもない。

比較的最近で有名なのが、2012年2月14日の夜、サリー州エプソム近くのユーウェル・バイパスでの報告だ。目撃したのは当時40歳のスコット・マーティンという男性と、その妻、4歳の息子のサニー、そしてタクシーの運転手。

彼らが見たのは、輪郭のない黒い人影だった。それが幹線道路を横切り、15フィートの土手を駆け上がった。マーティン氏の証言では、道路を渡って土手を登り切るまで、全部でおよそ2秒だったという。タクシー運転手は怯えきってしまい、ひとりで帰り道を運転したがらなかった。

この件を取り上げたのは地元紙のサリー・コメットで、民俗学者のデイヴィッド・クラーク博士も注目した。クラーク博士が指摘したのは、この一帯にそもそも幽霊譚の伝統がなかったことだ。土地の伝承に引っ張られた誤認ではない、という点で興味深いという評価になる。

ほかにも、跳躍力の異常な黒い人影の目撃は散発的に報告され続けている。もちろん、その多くは説明がつくものだろう。それでも、67年で終わったはずの話が、188年経ってもまだ死んでいないというのは事実だ。

日本での受容史

最後に、日本の話をする。

日本語圏でこの怪人が知られるようになったのは、おおむね1970年代以降のオカルトブームの中でだ。当時、海外の怪奇事件や未確認生物を紹介する書籍が大量に出た。中岡俊哉や、のちの並木伸一郎、山口敏太郎といった書き手が、海外の資料を噛み砕いて日本の読者に届けた時代である。バネ足ジャックも、その流れの中で「世界の怪人」枠に組み込まれた。

ここで注意しておきたいのが、翻訳の元ネタ問題だ。日本語での紹介の多くは、直接的にせよ間接的にせよ、1977年のピーター・ヘイニングの本の系譜に乗っている。ということは、前述したマイク・ダッシュが否定した要素も、そのまま日本語に翻訳されて定着した可能性が高い。ポリー・アダムズの名前や、殺人事件の話が日本語の記事に出てくるとき、その多くはこの経路だと考えていい。日本語圏のバネ足ジャック像は、英語圏の1970年代版で時間が止まっている部分がある。

雑誌方面では、ムーをはじめとするオカルト系媒体が定期的にこの題材を扱ってきた。切り口としては「切り裂きジャックより前にいたもう一人のジャック」という紹介のされ方が多い。日本の読者にとって「ジャック」といえば切り裂きジャックなので、この対比は入り口として機能した。名前が似ているせいで混同する人も多いが、切り裂きジャックの事件は1888年、バネ足ジャックの初出は1837年。50年ほど早い。

日本での知名度を決定づけたのは、たぶん漫画だ。藤田和日郎の『黒博物館スプリンガルド』が講談社のモーニング誌上に2007年の23号から28号にかけて掲載され、同年9月に単行本が出た。「黒博物館」シリーズの第一作にあたる。19世紀ロンドンを舞台に、バネ足のある靴を履いた怪人事件を刑事が追う話で、傲慢な貴族への疑惑を軸に、真犯人の正体へ進んでいく。史実の枠組みを踏まえつつ、貴族犯人説を物語として料理してみせた作品だ。

タイトルの「スプリンガルド」というのは、英語のスプリンガルドを日本語読みしたもので、バネ足ジャックの別称にあたる。この作品以降、日本語圏では「スプリンガルド」という呼び名もそこそこ通用するようになった。

ほかにも、古橋秀之のライトノベル作品に怪異として登場するなど、ゲームやアニメを含めた日本のサブカルチャーの中で、この怪人は断続的に顔を出し続けている。共通しているのは、日本での扱いが「悪魔」寄りではなく「怪人」寄りだということだ。日本には仮面をつけて跳ぶヒーローと怪人の巨大な蓄積がある。だからバネ足ジャックは、日本に入ってきた時点で、すでに理解可能なフォーマットに収まっていた。

これは英語圏でのヒーロー化と、実はよく似ている。日本の受容は、翻訳の遅れによって歪んだ部分もあるけれど、キャラクターの本質的な変質という意味では、本国とほとんど同じ道を歩いたことになる。

確定していることだけを、先に並べ直す

ここまでで、事実として押さえられるところは押さえた。ここから先は、もう一段踏み込んで考えたい。バネ足ジャックという現象を、事件としてではなく構造として見るとどうなるか、という話だ。

まず、確定していることだけを並べ直す

議論を進める前に、地面を固めておく。この件で「間違いなくあった」と言い切れることは、実はかなり少ない。だからこそ、そこだけ先に取り出しておく価値がある。

1838年1月9日、ロンドン市長サー・ジョン・カウアンが公開の場で匿名の手紙に言及した。これは確定。手紙の差出人が自称した「ペッカムの住人」が誰かは不明で、そもそも実在の告発だったのかも不明。だが、読み上げられたこと自体は記録がある。

1838年2月、ベアバインダー・レーンでジェーン・アルソップが何者かに襲われ、首と腕に傷を負った。医師の所見も含めて、傷そのものは実在した。2月22日のタイムズが報じた。父親が10ギニーの懸賞金を出した。ここまで確定。

同月末、ライムハウスでルーシー・スケールズが顔面に何かを浴びせられ、視力を一時的に失って発作を起こした。届け出があった。捜査が行われた。これも確定。

大工のトーマス・ミルバンクが逮捕され、ランベス・ストリートの法廷で裁かれ、火を吐けないという理由で放免された。確定。

1877年、オルダーショットの駐屯地で歩哨が繰り返し何者かに襲われ、実弾が発射された。軍関係の新聞が報じた。確定。

1904年、リヴァプールのウィリアム・ヘンリー・ストリートで、正体不明の投擲騒ぎが起き、住民が家を出るほどの騒動になり、地元紙が報じ、警察が調べて超自然の証拠は見つからなかった。確定。

そして、これらすべてについて、犯人は一人も特定されていない。これも確定だ。

逆に言うと、私たちが「バネ足ジャックの物語」として知っているもののうち、この骨格の外側にある要素は、全部が伝聞か、後年の創作か、その両方だということになる。この線引きを頭に入れて読み直すと、この事件の見え方はけっこう変わる。

二人目のジャックは、なぜ違うことをしたのか

私が個人的に、この件でいちばん引っかかっているのはスケールズ事件の異質さだ。

アルソップ事件の犯人は、極端に演出過剰だ。警官を名乗って呼び出す。外套を脱ぎ捨てる。蝋燭を顎の下に持っていって自分の顔を照らす。この「自分の顔を照らす」という所作が、演劇的すぎる。見せるための行為だ。そして炎を吐き、掴みかかり、引っ掻き、扉を叩く。全部が「相手に強い印象を残す」方向に振り切れている。

ところがスケールズ事件の犯人は、真逆だ。路地に無言で立っている。近づいてきた相手に炎を吹きかける。触れない。何も言わない。去る。演出がない。効率だけがある。

同一人物だとすると、9日間で人格が入れ替わったことになる。ありえなくはない。犯行のたびに手口が進化する犯罪者はいる。ただし普通は、演出が地味なほうから派手なほうへ進む。逆は珍しい。

複数犯説を採るなら、話は簡単になる。二人目は一人目の報道を読んで真似した。真似できるのは目立つ要素だけだから、外套と青い炎という「絵になる部分」だけをコピーした。会話や演技はコピーしなかった。そう考えると、二人目の行動の簡素さがきれいに説明できる。

そして、これが重要なのだけれど、二人目が真似犯だとすると、その二人目の犯行がまた報道され、また次の模倣者を生む。つまり1838年の2月というのは、たった数週間のあいだに「メディアを媒介した模倣犯の連鎖」が発生していた可能性がある。これが本当なら、19世紀前半のロンドンで観測された、かなり早い時期の事例ということになる。

「火を吐けない」で無罪になったことの意味

ミルバンクの裁判は、法制度の観点から見るとかなり異様だ。

被害者が「犯人は超自然的な特徴を持っていた」と証言した。被告人はその特徴を持っていなかった。ゆえに被告人は犯人ではない。この論法が通ってしまった。

これは裏返すと、こういうことになる。もし被害者が「犯人は空を飛んだ」と証言していたら、地上を歩く人間は全員が容疑から外れる。「犯人は悪魔だった」と証言していたら、人間は誰も裁けない。証言の中に超自然的要素が一つ入り込むだけで、司法の網は無効化される。

法廷でこの帰結が出てしまったことは、その後の展開にも影響したはずだ。つまり、バネ足ジャックの真似をする側から見ると、この事件は「派手な超常演出をやっておけば、捕まっても言い逃れができる」という前例に見える。実際、その後数十年にわたって模倣犯が現れ続けたことと、無関係ではない気がする。

もう一点。この裁判は、被害者の証言の誠実さも同時に示している。ジェーンは、犯人が炎を吐いたという点を曲げなかった。曲げれば目の前の男が有罪になったかもしれないのに、曲げなかった。彼女が嘘をついていたなら、あるいは復讐したかったなら、この場面で証言を調整するのがいちばん合理的だった。彼女はそうしなかった。

だから私は、ジェーン・アルソップが何かを見たこと自体は疑っていない。問題は、彼女が見たものが何だったかだ。

蝋燭という装置

そこで、あの晩の物理を考えてみたい。

現場は真っ暗な郊外の門前だ。唯一の光源は、彼女自身が持ってきた蝋燭一本。相手はその蝋燭を受け取り、自分の顎の下に持っていった。

顎の下からの光。舞台照明でいう最悪の角度だ。誰の顔でも化け物になる。眼窩が影で落ちて、鼻の穴と頬骨が強調される。目は、光を反射して赤く見える条件が揃う。蝋燭の炎そのものが赤みを帯びているからだ。

そして、口から炎。可燃性の液体を口に含んで蝋燭に吹きかければ、そのまま火炎になる。青と白の炎という証言は、アルコール系の燃料なら十分ありうる色だ。露天芸として当時のロンドンに実在した技術である。

白い油布のような服。当時、漁師や船乗りが使っていた防水の油布は実在した。暗闇で唯一の光源に照らされた油布は、ぬめっと光る。しかもこの素材、火を吹く芸をするなら理にかなっている。燃えにくく、汚れが落ちる。

金属の鉤爪。何かしらの器具を手に装着していたなら、傷の形も説明できる。あるいは単純に、指輪をいくつも嵌めた手でも、闇の中で引っ掻かれれば同じ感触になる。

ヘルメット。顔を隠したいなら当然の装備だ。しかも髪型と頭蓋の輪郭を消せる。

つまり、彼女が証言した全要素は、道具と技術で再現できる。しかも、そのすべてを「これから人を怖がらせる」目的で最適化した人間が選ぶだろう装備と一致している。

超自然を持ち出す必要は、実はどこにもない。逆に言えば、これは相当に周到な人間の仕業だということになる。行き当たりばったりの変質者ではない。準備をして、演出を設計して、リハーサルをして、実行した誰かだ。それはそれで怖い。

貴族説の、いちばん筋のいい形

ウォーターフォード侯爵を単独犯とする説は、前述の通り成立しない。時間が合わない。彼の死後の目撃談が多すぎる。

でも、この説を「起源説」として限定すると、急に筋が良くなる。

つまりこうだ。1837年から1838年にかけて、実際に上流階級の誰かが、悪ふざけとして、あるいは賭けとして、この種の変装をして人を脅す遊びをやっていた。それがバネ足ジャックの起源だった。しかし、その人物が飽きたか、結婚したか、単に危なくなって手を引いたあとも、キャラクターだけが独り歩きした。あとは模倣犯と噂と新聞が引き継いだ。

この形なら、市長への手紙の内容とも整合する。手紙は最初から「賭け」と「複数の上流階級の人間」を告発していた。つまり同時代の告発自体が、単独犯ではなく集団の遊びを想定していたのだ。

そしてこの形なら、時代を越えた継続も説明できる。起源となった人物は数年で消えた。ブランドだけが残った。

ただ、繰り返すが、それが誰だったかを断定する材料はない。ウォーターフォード侯爵は、あくまで当時から今日まで最も強く疑われてきた人物というだけだ。状況証拠は目を引くが、状況証拠でしかない。歴史上の実在の人物を、200年近く経ってから証拠なしに犯人と決めつけるのは、どのみち筋が悪い。彼はもう反論できない。

報道が体験を作るという、いちばん現代的な問題

この事件を今読む価値があるとすれば、たぶんここだ。

1838年1月10日のモーニング・ヘラルドの記者が経験したことを、もう一度思い出したい。誰に聞いても本人には辿り着かない。全員が別の誰かを指さす。

それでも噂は増え続けた。そして2月にアルソップ事件が報じられて以降、証言の中身が均質化した。赤い目。青い炎。白い服。爪。

これは、証言者が嘘をついているという話ではない。人間の記憶は、あとから入ってきた情報で書き換わる。夜道で誰かに驚かされた経験がある人が、その一週間後にタイムズの記事を読む。すると記憶が記事の形に整形される。本人はまったく誠実に「赤い目を見た」と証言する。

19世紀に新聞が全国に届くようになった。この事件は、その体制が完成した直後に起きた最初期の大規模事例のひとつだ。ロンドンの東の外れで起きた一件の傷害事件が、数日で国じゅうの人間の頭の中に同じ映像を植えつけた。

今、この構造は当時の何万倍の速度で動いている。何かが起きる。誰かが投稿する。数時間で全員が同じ映像を共有する。そして、そのあとで自分の体験を思い出そうとするとき、私たちはもう、その映像抜きには思い出せない。

バネ足ジャックは、その意味では終わった事件ではない。あれは、情報環境が人間の記憶に何をするかについての、いちばん古い症例報告のひとつなのだ。

なぜ最後の目撃が1904年なのか

これも考えてみると面白い。

67年で終わったのは、なぜだろう。答えのひとつは、単純に街灯だと思う。20世紀に入ると電灯が普及した。夜が明るくなった。輪郭しか見えない人影が成立する場所が、都市から急速に減った。

もうひとつは、警察の成熟だ。1904年のリヴァプールで、警察は現場に行って調べて「超自然の証拠なし」と結論を出している。1838年のロンドンでは、こうはならなかった。制度が噂に追いついたのだ。

そして三つ目は、ライバルの出現だ。1888年、切り裂きジャック。こちらは本物の連続殺人で、本物の遺体があった。恐怖の需要がそっちに移った。跳んで逃げる悪魔より、路地に死体を残す人間のほうが、はるかに怖い時代になってしまった。

跳ぶ男の役目は、そこで終わった。そして役目を終えた怪物は、娯楽に回収される。ペニー・ドレッドフルのヒーローになり、漫画になり、ゲームのキャラクターになった。プラハのペラークとまったく同じ道筋だ。

結局、これは何の話だったのか

要するに、こういう話だと思う。

まず、1838年のロンドンで、実際に誰かが女性を襲った。これは事実だ。被害者は実在し、傷も実在した。

その誰かは、火吹きと衣装と暗闇を組み合わせて、自分を怪物に見せる演出をしていた。動機は不明だが、たぶん愉快犯だ。金も命も奪わず、恐怖だけを収穫していった。

そこに、生まれたばかりの大衆新聞と、権威の言及と、階級への不信と、都市化の不安が乗った。個々の事件は、瞬時に一つの物語に編集された。

その物語は器として優秀だったので、あらゆる時代のあらゆる不安が中に入った。地方では悪魔になり、軍隊では侵入者になり、大衆小説では義賊になり、占領下のプラハでは抵抗の象徴になり、日本の漫画では謎解きの題材になった。

そして誰も捕まらなかったので、器の底は今も抜けていない。

夜道で背後に足音がして、振り返ったら誰もいなかった。そういう経験は、たぶん誰にでもある。1837年のロンドンで、同じ経験をした人たちは、その足音に名前をつけた。名前をつけた瞬間、それは正体不明のまま、確かに存在するものになった。

バネ足ジャックが本当にいたかどうかは、たぶんもう永久にわからない。でも、あの名前が188年も消えていないという事実だけは、間違いなく実在している。人間が、暗闇に名前をつけずにいられない生き物だという証拠として。

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