群馬の五十一歳が「他人事じゃない」と震えた夜
語り手は群馬の男性だ。群馬県に住む五十一歳で、事件の翌年にこの話を寄せてくれた。彼が他人事じゃないと感じたのは、前の年の七月に相模原の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた無差別殺人事件だった。十九人の命が奪われ、多数の負傷者が出たあの事件だ。
まず冥福を祈る言葉があった。怖いと感じた理由は、彼の父親にあったんだよな。ちょうど事件と同じ時期に父親は入院していて、その病院は夜でも外の人間が出入りできる状態だった。セキュリティーの面ではかなり不安だった、と彼は振り返る。
テレビに流れた映像。犯行前後の犯人の動きが、そこに映っていた。「今から犯行に及ぶ」場面や「犯行後」の生々しい映像に、男性はある種の戦慄を覚えた。被害者はみな障害を抱えた人たちで、何が起きたのかも判らないうちに命を絶たれたのは間違いないだろう、と彼は推し量る。
けがをした人もいた。施設の中で襲われた人たちだ。刃物を持った犯人を前にしたその人たちがどれほど大変な恐怖を味わったのか、容易に想像がつくと男性は書き残している。
疑問も書かれていた。犯人は逮捕後に薬物反応が出たり、犯行前からおかしな行動や言動が目立ったりしていたと伝えられていた。そんな人がなぜ世の中に普通にいるのか、彼は大きな疑問を抱いたそうだ。
警察と医療への不満。似た事件が起きるたびに、警察や医療の関係者は決まって言い訳のような話をする。薬物の使用歴がある人は再犯率が高いと判っているはずだ。だったら警察や医療の側は、もっと厳しくそういう人の居場所や行動を監視していくべきだというのが彼の考えだった。
願いはひとつだった。こんな凄惨な事件が、二度と起きないでほしい。周りで暮らす人たちの声に警察や医療の関係者が耳を傾け、おかしな行動や言動をする人を監視してほしいという願いだ。男性の体験談は、その言葉で結ばれていた。
午前二時台、元職員は裏手の窓を割った
二〇一六年七月二十六日の未明。現場は神奈川県相模原市緑区千木良の知的障害者支援施設、津久井やまゆり園だ。夜が明けきらない午前二時台に、事件は起きた。当時二十六歳だった元職員の男は、複数の包丁とハンマー、結束バンドを自宅からスポーツバッグに詰めて持ち出していた。
男は車で施設へ戻る。かつて働いていた建物だから、造りは知り尽くしている。正面玄関には向かわず、わざわざ裏手へまわってハンマーで窓ガラスを割り、東棟の一階に入り込んだ。宿直の職員は数名しかいない時間帯だった。
出くわした職員に、男は刃物を突きつける。「障害者を殺しに来た。邪魔をするな」と告げると、男は持ってきた結束バンドを使って、居合わせた職員を次々に縛り上げていったという。本当に怖いのはここからだ。
男は入所者を指さして、職員に「こいつは話せるか」と尋ねて回った。「話せない」と返ってくると、その人に刃物を向けた。これが男の「選別」だ。職員がとっさに「みんなしゃべれます」と嘘をついてかばっても、男はまるで気にせず刃を振るい続けたと伝えられている。
読んでいて息が詰まる。ベッドで眠っていた入所者たちは、抵抗する間もなく次々に襲われた。その様子は後の裁判で職員や生存者の証言によって明らかにされ、法廷にいた人たちはみな息を呑んだという。
救いになった動きもある。障害の程度が軽めの入所者の一人が、はさみで結束バンドを切ったのだ。自分と職員を縛っていたバンドを切って脱出させたことが、被害のさらなる拡大を防いだかもしれないという指摘もある。
「beautiful Japan!!!!!!」と投稿した男
犯行を終え、男は施設を出た。その直後の午前二時五十分ごろ、男は自分のSNSに自撮り写真を投稿していて、そこには短い言葉が添えられていた。「世界が平和になりますように。beautiful Japan!!!!!!」。いったいどういう神経なんだ。
次はコンビニ。血のついた手を洗い、菓子パンまで買っている。そして午前三時を少し過ぎたころ、男は自分から津久井警察署に出頭して「私がやりました」と告げたのだった。
入所者十九人が命を落とした。重軽傷を負った人は二十六人にのぼる。戦後の日本で単独犯による殺害人数としては最多となる、それほどの大量殺傷事件になってしまったわけだ。
半年前から、予兆はずっと出ていた
衝動的な犯行ではない。半年近く前から周到に計画されていたことが、のちの捜査で判明している。二〇一六年二月中旬、まだ施設で常勤職員として働いていた最中に、男は衆議院議長の公邸を訪ねている。議長宛ての手紙を出そうとしたんだよな。
一度目は断られた。受け取りを拒まれた男は、その場で土下座までしている。それでもあきらめずに翌日また公邸を訪れ、今度は正門前に座り込んで、とうとう手紙を受理させてしまった。
中身がまた異様だ。手紙には「ニュー・ジャパン・オーダー」と題した計画書が記されていたという。名指しされていたのは津久井やまゆり園と、厚木市内の施設二か所だった。「職員の少ない夜勤帯に決行し、職員を拘束したうえで入所者二百六十名を抹殺する」という具体的な内容まで並んでいたという。
見込みも身勝手だった。「逮捕後は心神喪失を理由に無罪となり二年以内に釈放されるはずだ」という想定まで、手紙には書き記されていたという。読むほどに寒気がしてくる話だ。
警告は届いていた。手紙の存在は、県警から施設側にも伝えられていたのだ。けれど、その危機感は関係者のあいだで十分に共有されることのないまま、ずるずると数か月が過ぎてしまう。
同じ二月のことだ。男は同僚に「重度障害者は安楽死させるべきだ」と話し、それが問題視された。精神保健福祉法に基づく措置入院となったものの、退院後の支援体制が整わないまま、一か月足らずで退院が決まってしまう。
そこから先が問題だった。誰の目も届かないまま、男は計画を実行へ移していった。のちに厚生労働省の検証委員会は、この経緯を厳しく批判している。「退院後のケア計画が策定されていなかった」「関係機関の情報共有が不十分だった」というのが、その指摘の中身だ。
法廷で小指を噛んだ被告、そして十年
男は変わらなかった。逮捕後の取り調べでも、「意思疎通ができない人は不幸を生む」という趣旨の主張を一貫して崩していない。謝罪の言葉も、被害者本人ではなく「遺族」にだけ向けられた。聞いていて胃が重くなる。
裁判員裁判が始まったのは二〇二〇年一月だ。初公判では、被告人が突然自分の右手の小指を噛み切ろうとして、その場で取り押さえられる騒ぎになった。翌日には収監先で、実際に指の関節を噛みちぎったと報じられている。異様としか言いようがない。
弁護側は、大麻の影響による心神喪失を主張した。それでも二〇二〇年三月十六日、横浜地裁は被告の完全な責任能力を認め、求刑どおり死刑を言い渡している。被告本人が控訴を取り下げた。そのため同年三月末に死刑が確定し、のちの再審請求も二〇二三年に退けられた。
二〇二六年の今年で、事件からちょうど十年になる。死刑は未執行のまま。獄中の男は表現展への応募や手記の発表を続けていて、事件当時の思想を改めていないと報じられている。
掲示板は燃え、同調の声がさらに燃えた
ネットの反応は早かった。事件の直後から、匿名掲示板やSNSで異例の速さで情報が飛び交っている。投稿の「beautiful Japan」の異様さに元職員という立場、それに措置入院からわずか数か月での凶行。当時の「なんJ」系のまとめ板や5ch系の事件板には、連日スレッドが乱立するほどの反響があったらしい。
特に荒れたのが優生思想の話だ。被告人は「意思疎通のできない人間は不要」と主張していた。これに一部のネットユーザーが「言っていることは理解できる部分もある」と、同調するような書き込みをしたのだ。その書き込みが、また大きな批判と炎上を呼んだ。
反論は次々に出た。福祉や医療の専門家、当事者団体、そして障害者の家族が声を上げていった。ネット上では「優生思想批判」対「一部の共感の声」という構図が、それからずいぶん長いあいだ続いていくことになる。この対立が、事件をただの猟奇事件でなく社会問題として記憶させる大きな要因になったんだと思う。
「イルミナティ」と「一〇〇一」、ネットが描いた影
考察勢も黙っていない。YouTubeの考察チャンネルや個人ブログも、この事件を繰り返し取り上げてきた。施設職員だった人間がなぜ凶行に及んだのか、措置入院制度の欠陥はどこにあったのか、という問いが定番の切り口だ。大麻精神病説とパーソナリティ障害説のどちらが真実かも議論され、公判記録や精神鑑定を独自にまとめた動画や記事が多数作られている。
オカルト界隈はさらに踏み込む。持ち出されたのは、被告が愛好していたとされるカードゲーム「イルミナティ」だ。彼が好んだという数字「一〇〇一」への強いこだわりや、「ニュー・ジャパン・オーダー」という手紙の題名も並べられた。
話はそこから膨らんだ。単独犯ではなく、背後に何らかの思想的な結びつきがあったのでは。洗脳されていたのでは、という声まであった。一部のオカルト系や都市伝説系のまとめサイトでは、そんな一種の陰謀論めいた見立てが繰り返し紹介されてきたってわけだ。
ただし、ここは大事だ。裁判では精神鑑定を経たうえで、完全責任能力が認められている。こうした背後関係の説はあくまでネット上で語られている憶測の域を出ないものだと、頭に入れておいたほうがいい。
静かな山あいの町に鳴り続けたサイレン
地元の衝撃も大きい。「まさかこんな静かな山あいの町で、これほどの事件が起きるとは思わなかった」。事件の後、施設周辺の千木良地区に住む人たちの声として、地元の集まりや報道の中で何度も繰り返し語られてきた言葉だ。津久井やまゆり園は相模湖にほど近く、緑の豊かな住宅地の中にある。
ある近所の住民の話。その夜はパトカーのサイレンが立て続けに鳴り響いていた。ふだんは静まり返った山あいの道路を何台もの緊急車両のライトが照らし、その光景が何年たっても忘れられないと語ったという。
職員の傷も深い。かつての同僚職員には、強いショックで一時的に出勤できなくなった人もいた。労災認定を受けた人が複数いたことも報じられている。当直中に巻き込まれた職員の一部は、深夜の暗い廊下で刃物を持った元同僚と向き合った恐怖を、長く引きずったとされる。
実名か匿名か、割れたままの家族の声
家族の考えも割れた。被害者の家族の中には、匿名での報道に異を唱える人がいる。「差別や偏見を恐れて実名を出せないこと自体が、この社会がまだ変わっていない証拠だ」という訴えだ。
逆の声もある。「これ以上ネットで晒し者にされたくない」と、匿名を望む家族もいるのだ。どちらの気持ちもわかるだけに胸が痛むが、家族の意見は割れたまま、今日に至るまでまとまっていない。
根の深い論争。実名か匿名かという問題は、ネットで幾度となく蒸し返されてきた。事件が話題にのぼるたびに持ち上がってくる、いわばおなじみのテーマのひとつになってしまっているんだよな。
建て替えられた施設と、終わらない問い
この事件が今も語り継がれる理由は、はっきりしている。猟奇殺人で終わらなかった。精神保健福祉法上の措置入院制度の不備と、現代社会に根深く残る優生思想の問題を、白日の下に晒したのだ。
国も動こうとした。事件後、厚生労働省は措置入院からの退院後支援を義務づける法改正を目指している。けれど当事者団体や野党からの反対もあり、その国会提出は結局二度にわたって見送られることになった。
施設も姿を変えた。相模原市や神奈川県は建物を建て替え、より小規模で開かれた施設として二〇二一年に再開させている。防犯カメラや防犯ガラスが入ったその姿に、事件が福祉施設のあり方そのものを変えたことが表れている。
節目の年になった。二〇二六年の今も、毎年七月末になるとネット上で「風化させてはいけない事件」として改めて語られる流れが続いている。被害者一人ひとりに人生があったことを忘れず、語り継ごうとする動きがある。その一方で、猟奇的な側面だけを消費しようとする動きも消えていない。二つは今も混ざり合ったままだ。
