徳島ラジオ商殺し事件

一つの事件に、二人の被害者がいた

1953年11月5日未明、徳島市の電器店兼住宅で店主の男性が刃物で襲われ、死亡した。店主と暮らしていた冨士茂子も負傷した。戦後間もない時代、ラジオは高価な商品であり、「ラジオ商」は現在の街の電器店に近い仕事だった。この店で起きたため、事件は後に「徳島ラジオ商殺し事件」と呼ばれるようになる。

殺人の被害者は店主である。冨士は生き残った被害者だったが、約8か月後、捜査の対象に変わった。彼女は殺人罪で起訴され、懲役13年の判決を受けた。服役を終えた後も無実を訴え続けたが、再審開始を見る前に亡くなった。

1985年7月9日、徳島地方裁判所は再審で冨士に無罪を言い渡した。法務省の刑事参考記録一覧にも、「徳島ラジオ商殺し事件」「無罪」「保存庁・徳島」と記載されている。これは疑いが残った人物への温情ではない。有罪判決を維持できないことを裁判所が認め、法的に無罪となった結果である。

冨士の無罪が確定しても、店主を殺害した人物は確定しなかった。誤って人を有罪にした事件と、犯人を特定できなかった殺人事件が重なっている。どちらか一方だけを語ると、もう一方の被害が見えなくなる。

初動捜査から「内部犯」の筋書きへ

事件直後、捜査は外部から侵入した人物による犯行を疑って進んだ。別の人物が逮捕された時期もあったが、その人物は起訴されなかった。その後、捜査の視線は店の内部へ向いた。

店には冨士の家族だけでなく、住み込みで働く若い店員がいた。10代の店員二人が別件で身柄を拘束され、長い取調べを受けた。二人は、冨士が店主を襲う場面を見たという趣旨の供述をするようになる。この目撃供述が、冨士を起訴する大きな柱になった。

検察側が描いたのは、冨士が店主との関係に不満を募らせ、外から入った強盗の仕業に見せかけて殺害したという筋書きだった。しかし、冨士自身の自白はなく、犯行と結びつける物的証拠も乏しかった。有罪認定は、若い店員たちの言葉へ強く依存していた。

供述証拠は、言葉の内容だけで評価できない。誰が、どこで、どれほどの時間をかけて聴き、本人がどの段階で話を変えたのかをたどる必要がある。特に、別件で身体を拘束された状態では、捜査官が望む答えを推測してしまう危険がある。

二人の供述には変化があった。後に彼らは、事実と違う証言をしたと明かした。1978年に四国放送が制作したドキュメンタリー『真実への道程』にも、元店員が検察側の働きかけによって偽証したと語る場面が収録された。

後から撤回されたから、最初の供述がすべて虚偽だと機械的に決めることもできない。必要なのは、変化の全過程を客観的な証拠と照らす作業である。ところが、最初の裁判では、その作業に必要な捜査記録が弁護側へ十分に示されていなかった。

娘の目撃と、切り捨てられた外部犯の可能性

事件当時、冨士の娘は、現場から立ち去る人影を見たという趣旨の話をしていた。外部から侵入した人物がいた可能性に関わる証言である。

確定判決は、娘が幼かったことなどを理由に、この証言の信用性を低く見た。年少者の記憶には周囲の影響を受けやすい面があり、慎重に扱う必要はある。しかし、年齢だけで証言を捨てれば、現場にいた数少ない目撃者の情報を失う。

再審では、娘の供述を単独で真実と認定するのではなく、現場の痕跡、初動捜査の記録、店員供述の変化と合わせて評価した。刑事裁判で問われるのは、どちらの物語が印象的かではない。有罪とする合理的な疑いが残っていないかである。

冨士を犯人とする説明に合わない事情が、個別には小さく見えても、いくつも重なれば判決の土台は揺らぐ。外部犯を疑った初期の記録を見ないまま、内部犯の供述だけを読むと、捜査が途中で捨てた可能性を再検討できない。

懲役13年と、出獄後も続いた刑罰

徳島地裁は1956年4月18日、冨士に懲役13年を言い渡した。高松高裁は翌1957年12月に控訴を棄却した。冨士は最高裁へ上告したものの、1958年5月に取り下げ、有罪判決が確定した。

上告の取下げは、犯行を認めたことと同じではない。身柄を拘束された状態で裁判を続ける負担、弁護費用、家族の生活、支援の見通しは、法廷での主張とは別に当事者を追い詰める。

冨士は1966年11月30日に仮出獄した。仮出獄は刑の執行上の措置で、無罪判決ではない。外へ出ても、戸籍や記録の上では有罪判決を受けた人であり、「夫を殺した女」という非難がついて回った。

誤判による刑罰は、刑務所の門を出た日に終わらない。家族関係、住居、仕事、地域での評判へ長く影響する。冨士は出獄後も再審を求め、確定判決を取り消すために資料を集めた。

再審請求の回数は資料により異なる。「第5次」とするものと「第6次」とするものがあるのは、本人による請求と、死後に親族が行った請求をどう数えるかが違うためだ。回数の表記が違っても、別の事件を指しているわけではない。

22冊の未提出記録

再審への流れを変えたのは、最初の裁判に提出されていなかった捜査記録だった。法務省の法制審議会資料や国会会議録では、弁護側の開示請求と裁判所の勧告を受け、検察側から22冊の記録が開示された経過が紹介されている。

記録には、警察の初動捜査、現場写真、店員二人の供述の変遷などが含まれていた。検察が有罪立証に使った部分だけでなく、そこへ至るまでに何が語られ、どこが食い違い、どの仮説が捨てられたのかを確認できる資料だった。

「一枚の決定的写真が冤罪を暴いた」という形に単純化すると、この事件の意味を取り違える。再審開始は、一つの新証拠だけで突然決まったのではない。新たに開示された資料を、確定判決が採用した供述、娘の目撃、現場の状態と総合し、有罪認定に合理的な疑いが生じるかを検討した結果である。

通常の刑事裁判では、検察が証拠として法廷へ出さなかった資料を、弁護側がすべて見られるとは限らなかった。弁護側が存在すら知らない記録は、具体的な名称を挙げて開示を求めるのも難しい。徳島事件は、未提出記録へのアクセスが再審の成否を左右した実例として、証拠開示制度の議論で今も参照されている。

捜査機関が集める資料は、有罪方向のものだけではない。被告人に有利かもしれない情報、初期の仮説、信用できないとして捨てた供述も含まれる。裁判所が判断する前に一方だけが選別されれば、証拠全体の形が変わってしまう。

本人の死後に開かれた法廷

冨士は1979年11月15日、再審開始を見ることなく亡くなった。それでも再審手続は終わらなかった。刑事訴訟法439条は、有罪判決を受けた人が死亡した場合、配偶者、直系親族、兄弟姉妹などが再審を請求できると定める。同法441条は、刑の執行が終わった後でも請求できるとしている。

親族は冨士の訴えを引き継いだ。徳島地裁は1980年12月13日に再審開始を決定した。検察側の即時抗告を経て開始が確定し、1985年7月9日、無罪判決が言い渡された。戦後日本で初めて、死後再審によって無罪が確定した事件となった。

死後の無罪は、失われた時間を戻さない。本人が判決を聞くこともできない。それでも法的な意味は大きい。有罪のまま亡くなったという公的評価を改め、家族へ向けられてきた非難の根拠を取り除くからだ。

後に刑事補償も認められた。補償金は冨士の人生を金額へ換算したものではない。国家が誤った拘禁を行ったことに対し、法律に基づいて責任を果たす制度である。

無罪と真犯人不明は両立する

再審無罪によって確定したのは、冨士を犯人として処罰できないことだ。店主を殺害した人物が誰かは、裁判で認定されていない。

事件後に別の人物が関与を語った、捜査当初に逮捕された人物こそ真犯人だった、とする説がある。しかし、誰も店主殺害の犯人として有罪判決を受けていない。名前を挙げて犯人扱いすれば、冤罪を語りながら新しい冤罪を作ることになる。

冨士の名誉回復を中心に据えると、亡くなった店主の被害が背景へ退きやすい。反対に、殺人の被害を強調して「誰かを罰しなければならない」と考えれば、無罪となった冨士へ疑いを残すことになる。

誤った有罪判決は、無実の人を拘禁しただけではない。本来追うべき犯人への捜査を止め、被害者側が真相を知る機会も失わせた。冤罪被害と殺人被害は競い合うものではなく、同じ捜査と裁判の失敗から生じた二つの傷である。

報道と表現が記録をつないだ

徳島事件への疑問は、法廷の外でも語り継がれた。瀬戸内晴美は1960年、『婦人公論』にルポルタージュ「恐怖の判決」を発表した。開高健は翌年、事件を素材に小説『片隅の迷路』を新聞連載した。1965年には山本薩夫監督の映画『証人の椅子』が公開された。

小説や映画は裁判記録ではない。登場人物、会話、場面には表現上の再構成がある。作品中の台詞を実際の取調べ発言として引用したり、脚色された展開を確定事実として扱ったりしてはいけない。

それでも、記録へ触れる手段が限られていた時代に、作品は判決への疑問を社会へ残した。四国放送の『真実への道程』は、関係者への再取材を重ね、店員供述の問題を映像として記録した。放送ライブラリーには1978年9月24日放送、39分の番組として登録されている。

報道には、確定判決を繰り返して偏見を固定する力も、証言が作られた過程を検証する力もある。再審を支える立場であっても、未確定の人物を真犯人に仕立てれば新たな被害を生む。疑問を示すことと、代わりの犯人像を作ることは別である。

徳島事件が今も突きつけるもの

古い事件だから起きた誤り、と片づければ教訓は残らない。供述を客観的証拠より先に置く危険、有罪方向の資料だけで物語が固まる危険、未提出記録の存在を弁護側が知れない危険は、時代が変わっても点検を要する。

冨士茂子は、誰かに突然救われたのではない。服役中から無実を訴え、出獄後も請求を続けた。本人の死後は親族、弁護団、支援者、記者、制作者が記録をつないだ。その積み重ねが、22冊の開示と再審法廷へ届いた。

1985年の無罪判決を伝えるなら、冨士を再び「疑惑の女性」として見せてはならない。同時に、殺害された店主と、真犯人を特定できなかった事実も忘れてはならない。徳島ラジオ商殺し事件は、無罪判決で終わった冤罪事件であり、犯人不明のまま残った殺人事件でもある。

供述を記事にするときの注意

徳島事件を紹介する文章では、店員二人の最初の供述と、後の撤回供述が引用される。どちらか一方だけを載せると、読者は話が変わった過程を知ることができない。

供述は発言者の言葉だが、作成した調書は取調官が文章へ整えた記録である。質問の順序、答えるまでの時間、調書に採用されなかった発言までは、完成した文面から見えない。本人が署名したという事実だけで、自由な環境で一語ずつ選んだ文章とは限らない。

逆に、テレビ取材で撤回した言葉にも、放送時間に合わせた編集が入る。元映像、前後の質問、裁判での証言と照らして読む必要がある。番組の存在は重要な記録だが、それだけで刑事裁判の証拠全部を置き換えるものではない。

「少年店員が嘘をついたため冤罪になった」と個人へ責任を集めるのも適切ではない。年若い店員を別件で拘束し、供述を得て、それを客観的証拠より重く扱い、変遷を示す記録を法廷へ出さなかった過程まで含めて検証すべきである。

再審無罪後に残る名誉回復

無罪判決が出ても、過去の記事、書籍、地域の記憶から有罪時代の呼び名がすぐ消えるわけではない。見出しだけを読んだ人は、再審の結果を知らず、冨士を犯人と思い続ける。

資料を再掲載するときは、当時の記事で有罪と表現されていても、現在の本文で再審無罪を明記する必要がある。古い新聞の引用だからという理由で、誤った人物評価をそのまま残してよいことにはならない。

死後再審では本人が社会復帰することはできないが、親族の名誉、墓碑、行政記録、後世の研究へ影響する。刑事補償と無罪判決は、家族が「無実だった」と言い続けるための法的な根拠になる。

事件を展示や教育で扱う場合も、「夫殺しの女性」という刺激的な呼び方を冒頭に置かず、殺人被害、誤判、再審の順に経過を示したい。名誉回復は判決の日だけの出来事ではなく、社会に残った誤情報を一つずつ直す作業まで含む。

参照資料

  • https://www.moj.go.jp/content/001310989.pdf
  • https://www.moj.go.jp/content/001452183.pdf
  • https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigirokua.nsf/html/kaigirokua/000416220050608021.htm
  • https://laws.e-gov.go.jp/law/323AC0000000131
  • https://www.bpcj.or.jp/program/detail/001442/
  • https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I2017161
  • https://nfad.nfaj.go.jp/det.php?data_id=68494
奇怪千万からのお願い

この記事が少しでも面白かった、役に立ったと思ってもらえたなら、ひとつお願いがあります。Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入ってもらえると、私の調査の足しになります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。あなたの支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。

(*´σー`) いただいた紹介料は、現地調査のガソリン代や撮影機材、古い郷土史料の購入に使います。夜のスーパーカブを走らせ続ける燃料だと思って、協力してもらえたら嬉しいです。

※当サイトはAmazonアソシエイト・プログラムの参加者です。適格販売により収入を得る場合があります。

タイトルとURLをコピーしました