焼け跡の東京で起きた連続事件
一九四六年八月十七日、東京・芝の増上寺近くで、若い女性の遺体が見つかった。
捜査線上に浮かんだのは、小平義雄という男だった。
小平は、仕事や食料を求める女性へ声をかけていた。就職先を紹介する、食べ物を手に入れられる場所を教える。そう言って人目の少ない場所へ連れ出す。
八月二十日に逮捕され、終戦前後に起きた複数の性暴力と殺人を追及された。
戦後犯罪史では、「小平事件」「小平義雄連続殺人事件」と呼ばれる。
一審の東京地方裁判所は、一九四七年六月十八日に死刑を言い渡した。ニュース映画「小平判決」には、法廷へ入る小平と、判決を伝える黒板、護送される姿が残る。
控訴と上告は棄却され、七人の被害者に対する殺人などで死刑が確定した。刑は一九四九年十月五日に執行された。
この事件には、「少なくとも十二人を殺した」「今も発見されていない遺体がある」「戦地での経験が殺人鬼を作った」「犯行現場に霊が出る」といった話が付いている。
しかし、裁判で認定された事実、本人が語ったとされる数字、後年の犯罪記事、心霊の噂は同じではない。
まず、司法上確認された範囲から見る必要がある。
「七人」「十件」「十二人」は何が違うのか
小平事件の記事では、被害者数が一定しない。
七人、十人、十二人、さらにそれ以上。数字が違うため、「本当の被害者は今も分からない」と書かれる。
数えているものを分ける。
裁判で殺人について有罪が認定された被害者は七人とされる。
起訴された一連の事件には、有罪にならなかったものも含まれていた。後年の解説では、十件のうち七件が有罪となり、三件は証拠不十分で無罪になったと説明される。
本人が取り調べや手記で、さらに多い件数を語ったという資料もある。
しかし、自供した件数が、そのまま確認された被害者数になるわけではない。
供述には、記憶違い、誇張、迎合、捜査側の誘導が入りうる。犯行場所、遺体、被害者の身元、遺留品、目撃情報などの裏づけが必要になる。
反対に、無罪になった事件について、「無罪だから絶対に関与していない」とも単純には言えない。刑事裁判の無罪は、起訴された犯罪を有罪と認定できる証拠が足りないことを意味する。
記事で正確に書けるのは、七人の殺人で有罪となったこと。ほかに起訴されたが有罪認定されなかった事件や、本人の供述に現れる別件があることだ。
「未発見遺体が多数ある」と断定するには、どの供述のどの場所で、どの捜索が行われたかを示さなければならない。
数字の不一致だけで、現在も遺体が眠る場所を想像するのは早い。
食料と仕事を餌にした
小平の手口を語る時、終戦直後の食料難は背景ではなく、犯行の条件だった。
空襲で都市は焼け、住居と職場が失われた。配給だけでは暮らしが成り立たず、人々は郊外や農村へ食料を買い出しに出た。
鉄道の駅には、荷物を抱えた人が集まった。正規の流通から外れた取引も広がった。
「食料を分けられる」「農家を知っている」「働き口を紹介できる」という言葉は、現在よりはるかに切実な意味を持っていた。
小平は、その必要を利用した。
被害者が軽率だったのではない。
食べ物と仕事を求めて移動し、知らない人の情報へ頼らざるを得ない社会だった。公的な支援も、交通も、通信も、現在の水準ではない。
善意の紹介者と、危険な人物を見分ける手段が少なかった。
事件記事の中には、被害女性が男の誘いへ簡単について行ったように書くものがある。
しかし、犯人は初対面から凶暴な姿を見せたのではない。必要なものを提供できる人、仕事を世話する人として近づいた。
性暴力は、被害者の判断の甘さから生まれたのではない。
犯人が、困窮と信頼を意図的に悪用したのである。
戦後の混乱が「犯罪を生んだ」と言い切れない
小平事件は、戦後の混乱が生んだ犯罪と説明される。
社会状況が犯行を容易にしたことは確かである。
食料を探す人の移動、職を求める女性、空き地や焼け跡、人員と物資の不足した警察、家族と連絡を取りにくい通信環境。被害者を誘い出し、行方が分からなくなっても、別の地域の事件と結びつけにくい条件がそろっていた。
ただし、戦争と貧困が自動的に連続殺人犯を生むわけではない。
同じ時代を生きた大多数の復員者や困窮者は、性暴力と殺人を行っていない。
「社会が病んでいたから仕方がなかった」と書けば、小平が選んだ行為と、被害者へ向けた責任がぼやける。
反対に、犯人一人を生まれつきの怪物として閉じれば、食料難と就職難が犯行に利用された構造を見落とす。
個人の加害責任と、犯行を可能にした社会条件は、どちらか一方ではない。
小平は困窮する女性へ近づく方法を選び、社会の穴を使った。
時代背景は免罪符ではなく、被害が続いた仕組みを理解するために見る。
逮捕へ至った最後の事件
一九四六年八月、若い女性が仕事の紹介を受けた後、行方不明になった。
小平は、本人の家族とも接触していたとされる。名前と顔を知られ、女性との関係をたどれる状態だった。
増上寺付近で遺体が見つかり、捜査は小平へ近づいた。
八月二十日、小平は逮捕された。
この経過から分かるのは、連続犯を捕まえた特別な勘ではない。
最後に被害者と接触した人物、仕事の話、家族が覚えていた情報、遺体の発見。個別の手掛かりが結びついた。
一方、過去の被害は、すぐに同じ犯人の事件と認識されなかった。
場所、被害者の年齢、誘い文句、遺体の状態など、共通点があっても、当時の捜査情報を地域横断で照合するには時間がかかる。
現在なら、行方不明者データ、監視カメラ、携帯電話、交通系記録、DNA型鑑定などが手掛かりになる。
しかし、技術が増えても、困っている人へ近づき、仕事や住居を口実に支配する犯罪はなくならない。
事件の手口は古くても、信頼を装う構造は現在に続いている。
小平の過去と一九三二年の事件
小平は一九〇五年に栃木県で生まれたとされる。
若い頃に軍務に就き、中国大陸にいた経歴がある。帰国後の一九三二年、妻の実家を襲い、義父を殺害し、家族らを負傷させた事件で服役した。
その後、出所し、終戦前後の連続事件へ至った。
この経歴は、犯行が一九四五年に突然始まったわけではないことを示す。
以前にも重大な対人暴力があり、刑務所を出た後に再び被害が起きた。
一方、記事には、少年時代の吃音が劣等感を生み、女性支配へ向かわせたという説明がある。
その因果関係を示す根拠はない。
吃音のある人が暴力的になるという科学的な関係はなく、障害や話し方を犯罪原因にすれば偏見を広げる。
幼少期の性格、家庭環境、外見の印象を、事件後に「殺人鬼の兆候」として並べる記事もある。だが、同じ特徴を持つ人は大勢おり、犯行を予測できる印ではない。
注目すべきなのは、身体的特徴ではなく、確認された暴力歴、被害者へ近づいた手口、刑事司法と社会復帰支援が再犯を防げなかった経過である。
戦地での性暴力をどう扱うか
小平は戦地で性暴力や殺人を行ったと自ら語った、という記録がある。
後年の記事では、戦地で暴力に慣れ、帰国後の連続事件へ発展したと説明される。
本人の供述以外に、個別の被害を特定できる軍記録、現地資料、被害者証言がどこまであるのかを確かめる必要がある。
供述をそのまま全件の確定事実にすることはできない。
それでも、戦時性暴力そのものを、犯人の異常な逸話として片づけてはいけない。
戦時下では、占領地の人々に対する性暴力が、権力関係と軍事行動の中で発生する。個人の犯罪性だけでなく、相手を人として扱わない環境、処罰されにくい構造が関わる。
「戦争で壊れた男が帰国して犯罪者になった」という単純な物語にも注意が要る。
戦地経験者全体を危険視する偏見につながるからである。
小平の国内犯行については、本人が被害者を選び、誘い、性暴力を加え、殺害した責任がある。
戦争を原因として置くだけでは、その選択を説明しきれない。
確認できる供述、戦争下の構造、帰国後の犯罪を分けて考える必要がある。
新聞が作った「怪物」
逮捕後、小平は刺激の強い呼び名で報道された。
性欲だけで動く獣、異常な殺人鬼。現在の記事も、当時の見出しを引き継ぎ、本人の性的な供述を長く引用することがある。
犯行は残酷であり、被害の重大さを弱める必要はない。
しかし、犯人を人間ではない怪物として描くと、二つのことが起きる。
まず、読者は安全な距離を感じる。
あのような人物は自分たちと違う。普通の社会にはいない。そう思える。
次に、犯行の具体的な方法が見えなくなる。
小平は、角や牙を見せて近づいたのではない。食料と仕事を紹介できる普通の男として声をかけた。
恐ろしい外見ではなく、信頼できそうな役割を使った。
再発防止に必要なのは、「怪物の顔」を覚えることではない。
困窮した人に対し、個人が食料、仕事、住居を交換条件に支配できる状況を減らすこと。紹介先を確認できる仕組みを作ること。行方不明の届出と他地域の事件情報を結びつけること。性暴力被害を訴えやすくすること。
怪物という言葉は、犯人への怒りを表せても、手口を防ぐ仕組みにはなりにくい。
裁判と死刑確定
東京地方裁判所は一九四七年六月十八日、小平へ死刑を言い渡した。
中日映画社が保存するニュース映画は、同月二十四日に公開された。法廷内の映像と判決を知らせる黒板は、当時の社会的関心の大きさを伝える。
小平は控訴し、さらに最高裁へ上告したが、棄却された。
一九四八年十一月に死刑が確定したとされる。
一九四九年十月五日、宮城刑務所で刑が執行された。
ネット上では、小平事件が「最高裁が死刑を合憲と初めて判断した事件」と説明されることがある。
これは別の判例との混同に注意が必要である。
一九四八年三月十二日の大法廷判決は、死刑が憲法三十六条の禁じる残虐な刑罰に当たるかを判断した著名な判例だが、小平事件の上告審判決と同じ裁判ではない。
年代が近く、いずれも死刑事件であるため、後年のまとめで一つにされやすい。
判決日と事件名を照らせば、区別できる。
「未発見遺体」はどこにあるのか
元の記事は、未発見遺体の行方を大きな謎として掲げている。
しかし、どの被害者の、どの供述に基づく遺体なのかが示されていない。
裁判で有罪となった七件と、起訴されたが有罪にならなかった三件、起訴されていない供述を一緒に数えると、「まだ複数の遺体がある」という結論になりやすい。
一方、事件として追及された対象には、すでに遺体が発見され、身元が分かったため小平との関係が捜査されたものもある。
有罪にならなかったことと、遺体が未発見であることは同じではない。
本人が「ほかにも殺した」と話したという記録があっても、場所と被害者を特定できなければ、現在の捜索対象を示せない。
「東京のどこかに今も遺体がある」と書けば、都市伝説としては強い。
だが、実在の公園、寺、山林を、根拠なく遺棄現場として扱うことになる。
現在の土地所有者や利用者へ迷惑をかけ、無断侵入を誘うおそれもある。
資料で場所を確定できない未発見遺体説は、未確認の供述としてとどめるべきである。
現場に出る幽霊という噂
小平事件には、「女性の声が聞こえる山林」「小平の影が現れる寺」「夜に足音が追ってくる」といった心霊の噂が付く。
特定の場所と、当時の事件記録を照合できないものが多い。
増上寺周辺で遺体が発見されたという史実があっても、現在の境内全体が事件現場になるわけではない。
東京は戦後に大きく造成され、道路、建物、公園の形が変わった。古い住所表記を現在の地図へ単純に置くと、別の場所を指すこともある。
夜の寺や公園で、人影や声を感じたという体験を否定する必要はない。
ただ、それを小平や被害者の霊と判断するには、根拠がない。
事件の被害者を、永遠に現場をさまよう幽霊として消費することにも慎重でありたい。
被害者は、怪談の役ではない。
仕事や食料を求め、生活を立て直そうとしていた一人一人の人間である。
小平市とは関係がない
「小平事件」という名前から、東京都小平市で起きた事件だと思われることがある。
事件名の小平は、犯人の姓に由来する。
小平市や小平警察署を、連続事件の現場として紹介するのは誤りである。
検索結果には、小平市の地図や警察署が混ざりやすい。心霊スポット記事が、市内の公園や山林へ事件を結びつける場合もある。
現在の行政地名と人名が同じだけで、関係はない。
地名を確認しない記事は、無関係な地域へ長く汚名を残す。
事件を扱う時は、名称の由来を最初に確かめる必要がある。
被害者を数字へしない
七人、十件、十二人。
小平事件は、数の謎として語られやすい。
しかし、数字が増えるほど怖いという見せ方は、被害者一人一人を消す。
被害に遭った女性たちは、戦争末期と終戦直後の混乱の中で、働き口や食料を求めていた。
家族の暮らしを支えようとしていた人もいた。新しい仕事へ移ろうとした人もいた。
犯人は、その希望へ近づいた。
「食べ物に釣られた」「知らない男について行った」と被害者を責めるのは、当時の困窮と、犯人が用意した欺きを無視している。
事件から学ぶべきなのは、異常な男の生い立ちを集めることだけではない。
生活に必要なものを持つ人物が、弱い立場の人へ条件を押しつける時、性暴力と搾取が起きやすくなる。相談先や安全な紹介制度がなければ、被害者は一人で相手を見極めなければならない。
戦後八十年以上が過ぎても、仕事、住居、在留資格、借金を利用した支配は存在する。
小平事件は、焼け跡だけの特殊な犯罪ではない。
事件の「正体」
小平義雄は、終戦前後の食料難と就職難を利用して女性へ近づき、七人の殺人などで死刑判決を受けた。
東京地裁の判決日は一九四七年六月十八日。控訴と上告を経て死刑が確定し、一九四九年十月五日に執行された。
ここまでは、ニュース映像、書誌、判例研究などでたどれる。
一方、十二人を殺した、未発見遺体が多数ある、特定の山林に埋められている、幽霊が現れるという話は、同じ確度では確認できない。
本人の供述、起訴件数、有罪件数を混ぜない。
戦地経験、吃音、家庭環境を、証拠なしに犯罪原因へしない。
小平市を事件現場と誤解しない。
この事件の恐ろしさは、現在もどこかに遺体があるという想像だけにあるのではない。
食べることと働くことに困った人へ、「自分なら助けられる」と近づき、その信頼を暴力へ変えたことにある。
怪物は暗い山から現れたのではない。
助けを申し出る普通の顔をして、戦後の日常へ入り込んだ。
