平取町一家4人射殺事件

1979年7月18日の平取町

1979年7月18日夜、北海道沙流郡平取町で、はく製加工業を営む一家4人が自宅で射殺された。

亡くなったのは、51歳の男性、その37歳の妻、22歳の長女、2歳の次男だった。凶器にはライフル銃が使われ、4人はいずれも至近距離から撃たれたとされた。

家にいたはずの家族が一度に命を奪われ、幼い子どもまで被害に遭った。平取事件、平取町一家4人射殺事件、平取猟銃一家殺人事件などの名で報じられた出来事である。

現場から金品を奪うことを主目的に押し入った事件ではなかった。捜査と裁判で中心になったのは、同じくはく製加工に携わっていた男と被害男性の商取引だった。

男は事件から約1年後に逮捕された。札幌地方裁判所は1984年3月23日に死刑を言い渡し、札幌高等裁判所は1987年5月19日に控訴を棄却した。最高裁判所は1993年12月10日に上告を棄却し、死刑が確定した。

確定死刑囚となった男は、刑を執行されないまま1999年11月18日、札幌拘置支所内で自ら命を絶った。

「最後まで無実を訴えたまま獄中自殺した」という説明も見かけるが、裁判の経過はそれほど単純ではない。男の供述は捜査、公判、上級審の間で揺れており、犯行を認めた時期もあった。否認と自殺だけを結び付けて冤罪を断定することはできない。

毛皮代金をめぐる訪問

確定判決で認定された事件の発端は、キツネの毛皮の取引だった。

被告となった男は当時35歳で、胆振地方の壮瞥町ではく製加工業を営んでいた。平取町の被害男性から毛皮を買い入れたものの、代金127万6千円の支払いが遅れていたとされる。

7月18日夜、男は支払いを待ってもらうため、被害男性の自宅を訪れた。現金の代わりの担保として、ライフル銃を持参していたという。

裁判所の認定では、被害男性がライフル銃を手にし、代金の支払いについて男を強く責めた。男は銃を奪い返し、被害男性を撃った。その後、目撃した妻、長女、幼い次男も次々に射殺した。

最初の一発が衝動的だったとしても、残る3人を撃った行為まで偶発的な事故にはできない。裁判所は、犯行の発覚を防ぐため、目撃者を一人ずつ殺害したと判断した。

「金銭トラブルで一家を殺した」とだけ書くと、最初から代金を踏み倒すために全員の殺害を計画したようにも読める。公表された判決要旨から読み取れるのは、支払い猶予を求める訪問が、口論と最初の射殺を経て、口封じの連続殺人へ変わったという認定である。

計画性の程度と、4人を殺害した結果の重大さは別に考える必要がある。最高裁は、動機に酌むべき事情がなく、至近距離から4人を射殺した犯行は冷酷で残虐だとして、死刑を維持した。

「担保の銃」が意味すること

現在の感覚では、借金の相談へ実銃を持っていくこと自体が理解しにくい。

1970年代の北海道では、狩猟や有害鳥獣駆除のために猟銃を所持する人がいた。毛皮やはく製を扱う仕事は、野生動物の捕獲と近い位置にあり、ライフル銃が業務や狩猟と無関係な道具だったわけではない。

ただし、「当時の北海道では誰もが銃を持ち歩いていた」という説明は誤りである。

銃砲の所持は当時も許可制だった。狩猟用の銃を持つには、公安委員会の許可を受け、保管や携帯に関する規制に従う必要があった。地域に猟銃所持者が比較的多かったとしても、自由に携行し、人へ向けることが認められていたわけではない。

事件を「銃社会だった北海道らしい犯罪」と地域性へ還元すると、商取引の争いへ実銃を持ち込んだ個人の行動がぼやける。北海道、狩猟、はく製という要素が重なっていても、4人を射殺した原因を土地の文化に求めることはできない。

アイヌ文化が受け継がれる平取町の土地柄を、事件の不気味さへ結び付ける根拠もない。被告と被害者の商取引に、町の先住民族文化が関係したとする裁判上の認定は確認できない。

長男が疑われたという話

事件を紹介する記事には、「最初は一家の長男が疑われたが、アリバイが証明された」と書かれることがある。

一家の身近な人物や、事件当時に家にいなかった家族が事情を聴かれることは、初動捜査として不自然ではない。だが、長男が正式に容疑者とされたのか、参考人として行動を確認されたにすぎないのかを示す、公的に閲覧できる資料は乏しい。

「第一容疑者になった」「厳しい取り調べを受けた」「警察が長男を犯人と決めつけた」と段階を上げて書くには、当時の捜査記録や本人の証言が必要になる。

長男にアリバイがあり、捜査対象から外れたという筋書きは複数の後年資料に出る。しかし、その過程を詳しく説明する同時代の一次資料を確認できない以上、確定判決で認定された被告の犯行と同じ確かさでは扱えない。

事件後に生き残った家族を、根拠なく疑われた人物として再び前面へ出すことにも慎重さが要る。一家4人を失った遺族であり、現在の生活を詮索される理由はない。

逮捕まで約1年を要した理由

男の逮捕は、事件直後ではなかった。

現場に犯人を直接示す物証が少なく、凶器の特定、被害者との取引関係、事件当日の行動、供述の整合性を積み上げる必要があったとされる。判決資料の紹介では、捜査段階の自白、弁護人が作成した供述録取書、公判での発言などが重要な位置を占めた。

物証が少ない事件で自白が重視されると、誤判の危険が問題になる。日本の刑事裁判には、本人の自白だけでは有罪にできず、犯罪事実を補強する証拠が必要だという原則がある。

平取事件の弁護側は、捜査段階の取り調べや供述の信用性を争い、無罪を主張した。第一審では多数の弁護人が加わり、長期の審理になった。

一方、被告は初公判で起訴事実を認め、その後も弁護人への供述や裁判長の質問に対し、断片的ながら犯行を認めたとされる。全面的に一貫した自白でも、一貫した否認でもなかった。

裁判所は、供述だけでなく、毛皮代金の債務、事件日に被害者宅へ行った経過、銃との関係、供述内容が秘密の暴露に当たるかなどを検討し、被告を犯人と認定した。

長期裁判だったことや物証が少なかったことは、判決を無条件に正しいと保証しない。反対に、それだけで冤罪の証明にもならない。判決がどの証拠を採用し、弁護側の疑問へどう答えたかを見る必要がある。

一審から最高裁まで

札幌地裁は1984年3月23日、被告に死刑を言い渡した。

判決は、金銭上の争いをきっかけに被害男性を殺し、犯行を隠すため妻、長女、2歳の次男まで射殺した点を重く見た。被害者側に生命を奪われるような落ち度はなく、結果も一家4人の死亡という取り返しのつかないものだった。

被告側は控訴したが、札幌高裁は1987年5月19日に退けた。

さらに最高裁へ上告し、事実認定と死刑の重さを争った。最高裁は1993年12月10日、上告を棄却した。ライフル銃で4人を至近距離から射殺した犯行について、刑事責任は極めて重く、死刑を選んだ一、二審の判断はやむを得ないとした。

事件発生から死刑確定まで約14年半を要している。審理が長いことを「犯人かどうか分からなかった証拠」とみなす説明もあるが、死刑事件では事実認定と量刑を慎重に争い、上告審まで進むため、手続が長期化することがある。

長さだけから、無罪の可能性も有罪の確実さも読み取れない。日付の連なりは手続の経過であり、証拠評価そのものではない。

死刑確定後の自殺

1999年11月18日、55歳になっていた死刑確定者は、札幌拘置支所の浴場で自ら首などを切り、死亡した。

事件紹介の一部は、日付を11月8日とする。配信記事の見出しや転載時の表記が混ざった可能性があり、死刑確定者の記録を整理した資料では11月18日とされている。日付を扱う際は、単一の転載文だけでなく、複数資料を照合した方がよい。

刑事施設には、刃物の持ち込みを防ぎ、被収容者の自傷を監視する責任がある。ひげそり用の刃がどう管理されていたのか、死刑確定者が浴場で自傷できたのはなぜかという疑問は残る。

自殺によって、死刑は執行されなかった。だからといって刑事裁判の判決が取り消されたわけではない。死亡時点で、死刑判決はすでに確定していた。

反対に、自殺を「罪を認めた証拠」とすることもできない。人が自ら命を絶つ理由は一つではなく、行動だけから内心を確定できない。

「無実を訴えていたから自殺した」「死刑執行が怖くなり逃げた」「真犯人を守るため口を閉ざした」といった説明は、本人の遺書や施設の調査結果で裏付けられていない。死の意味を推測で埋めるより、確定した手続と分からない内心を分けて残す方が正確である。

冤罪説を考える際の線引き

平取事件には、冤罪を疑う材料として、物証の少なさ、供述の変遷、逮捕までの時間が挙げられる。

冤罪の検証は必要である。とりわけ死刑判決は取り返しがつかないため、捜査や裁判に疑問があれば、証拠を改めて調べる意味がある。

ただし、「否認した」「弁護団が大きかった」「獄中で死亡した」という三点だけで、別人が犯人だったとは立証できない。

被告が一度も認めていないという説明も、公開されている裁判経過と合わない。初公判で起訴事実を認めたとされ、弁護人の録取書や裁判長への回答にも自認部分があった。その後に否認へ転じたため、なぜ供述が変わったか、認めた内容に外部から知り得ない事実が含まれていたかが争点になる。

真犯人が別にいると主張するなら、その人物と現場を結ぶ証拠が必要だ。供述の問題を指摘することと、別人の犯行を証明することは同じではない。

公開資料だけでは、全取り調べ録音、全鑑定、証人尋問を再検討できない。したがって、「冤罪だった」「誤判の余地は一切ない」のどちらも、資料を示さず断言すべきではない。司法上は被告の有罪と死刑が確定した。後年の疑義は、その法的状態と区別して書く必要がある。

事件記事では、被害者と被告がはく製業者だったことを、得体の知れない職業のように描く例がある。

はく製は、動物の皮を保存処理し、標本として形を整える技術である。博物館の研究・展示、教育、狩猟記念品などに用いられてきた。野生動物を扱うため、現代では鳥獣保護管理法、種の保存法、狩猟規制、取引規制との関係を確認する必要がある。

職業そのものが犯罪や秘密取引を意味するわけではない。

事件ではキツネの毛皮代金が争いのきっかけになったが、これは個別の商取引である。「はく製業界には裏社会があった」「動物を殺す仕事だから人も殺せた」といった因果関係を示す判決上の認定はない。

被害男性もはく製業者だった。職業を不気味な装飾に使えば、被害者の仕事まで犯罪の背景として疑わせることになる。

被害者4人を数字にしない

事件名は「一家4人」とだけ伝える。

その中には、仕事上の取引相手と向き合った父親、家にいた母親、22歳の長女、まだ2歳だった次男がいた。最初の争いへ関わっていなかった3人が、目撃者として命を奪われたというのが確定判決の認定である。

幼児まで撃った事実は、犯人を怪物として見せる材料ではない。逃げることも事情を説明することもできない子どもの生命が、犯行隠蔽のために奪われたという被害の中心である。

遺族がその後どこで暮らしたか、長男がどのような人生を送ったかを追う必要はない。残された家族の沈黙を「事件の謎」として扱えば、長い裁判と被害の記憶に加えて、外部の好奇心まで背負わせる。

平取町が静かな町であることも、事件を意外に見せるための対比にすぎない。犯罪は都市だけで起きるものでも、地域の評判が悪い場所だけで起きるものでもない。一件の殺人が、その町に暮らす人全体の性質を表すことはない。

心霊話や土地の因縁は確認されていない

一家全員が死亡した家、銃で撃たれた現場、死刑確定者の自殺という要素から、心霊話が付け加えられることがある。

しかし、事件現場に人影が出る、銃声が聞こえる、被害者の霊が現れるという話に、発生日時や原記録を伴う確かな報告は確認できない。現在の建物や土地の利用状況を、事件当時の住所と安易に結び付けることも避けるべきだ。

個人宅だった場所を特定して訪ねれば、現在の所有者や近隣住民へ迷惑をかける。事件から半世紀近くが過ぎ、建物や地番の状況が変わっている可能性もある。

死刑確定者が拘置所で自殺したことを、「被害者の霊に呼ばれた」「呪いで刑の前に死んだ」と説明する根拠もない。刑事施設内の安全管理と本人の精神状態を検討すべき出来事を、超常現象へ置き換えると、現実の問題が消える。

記録に残る現在地

平取町一家4人射殺事件について確認できる骨格は、1979年7月18日に4人が死亡したこと、毛皮代金をめぐる訪問から発砲に至ったと裁判所が認定したこと、1984年の一審から1993年の最高裁まで死刑が維持されたこと、確定者が1999年に拘置施設内で自殺したことである。

その外側には、長男がどの程度疑われたか、取り調べでどのような圧力があったか、被告が供述を変えた正確な理由、最期に何を考えていたかという、公開資料だけでは確定できない部分が残る。

後年の短い記事は、前者と後者を混ぜやすい。「犯人は最後まで否認したので冤罪だった」「北海道では銃が身近だったから起きた」「はく製業には隠された闇があった」といった説明は、事件を分かりやすい物語へ変えるが、裁判記録の複雑さを失わせる。

司法上の事実を基礎にしながら、供述と物証への疑問は疑問として残す。被害者の職業や町の文化を怪奇の背景にしない。刑事施設内の自殺を、罪や無実の証明に使わない。

この線引きを保てば、事件の恐ろしさは誇張しなくても伝わる。支払いを相談するための訪問が、一丁のライフル銃によって4人の死へ変わった。最初の一発の後、犯行を隠すために家族全員へ銃口を向けたという司法認定こそ、平取事件の動かしにくい中心である。

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