折り返せない道 第2話 地元の人間は笑わない

連作怪談「折り返せない道」第2話。

翌日は昼前に家を出た。

千葉から北へ、昨夜と同じルートを走った。カブで高速には乗れないから、国道をつないで二時間半かかる。山が近づくにつれて民家の間隔が広がっていく。田んぼと畑、それから杉林が続く。集落の密度がどんどん薄くなる。

峠道の手前に、小さな集落があった。

昨夜は素通りした。今日は止まってみようと思っていた。

集落の入口近くに、一軒だけ店がある。飲み物と乾き物が棚に並んで、奥にテーブルが三つある。食堂とも商店とも言い切れない、何でも屋に近い作りだ。引き戸を開けると、古い木の匂いとだしの匂いが混じっていた。

「カレーうどんできますか」

「できる」

奥から出てきた七十代に見えるおじいさんが短く答えた。それだけで座った。

壁に貼り物がある。消防団の連絡先、公民館の予定表、薬局の広告。その端に、古い道路地図がセロハンテープで貼り付けてあった。折り目が黄ばんでいる。

地図を見ながらカレーうどんを待つ。

峠の旧道が細い線で描かれている。現在の県道とは別のルートで、山の内側に入り込んでいる。昨夜走った道と一致していた。

「あの旧道、昨夜間違えて入りました」

湯気の立つ器を置きながら、おじいさんが少し手を止めた。

「ナビが古くて。入ってすぐ気がついて引き返したんですけど」

「なんともなかったか」

問いかけではなく、確かめるような言い方だった。

「影みたいなものが見えました。前を歩いてる人みたいな」

おじいさんが振り向いた。

表情は変わっていない。ただ洗い物の手が止まっていた。

「引き返したんだな」

「はい」

「そうか」

しばらく間があった。

「あの道の先に集落があったと調べました。昭和三十九年の水害で孤立して、翌年に移転したと」

「そうだ」

おじいさんは布巾で手を拭いて、カウンターに腕を置いた。

「四十七戸あった。俺の親戚も三軒いた。全員降りてきたが、一人だけ残った婆さんがいた」

「残ったんですか」

「『もう動けない』と言った。息子夫婦が引き取ろうとしたが、最後まで首を縦に振らなかった。結局そのまま亡くなった」

私は箸を置いた。

「その婆さんが、降りる人間たちに言い残したそうだ。『道の向こうから来た者は、道の向こうへ帰せ』と」

「どういう意味ですか」

「わからん。ただそう言ったというだけだ。意味を聞けた人間はもういない」

カレーうどんが冷めていく。食べながら聞いていたが、箸を動かす気になれなかった。

「あの旧道で何かを見た人間は、たいてい引き返してくる。引き返さなかった人間の話は、あまり聞かん」

「引き返さなかった人は」

「話を聞いたことがないというだけだ。どうなったかは知らん」

それ以上は言わなかった。

おじいさんは奥に引っ込んで、後は出てこなかった。

代金を台の上に置いて外に出た。

山からの風が当たる。昼前なのに谷間は薄暗く、見上げると稜線の上だけが青い。カブのシートに腰を落として、ミラーを直した。

もう一度、壁の地図を思い出した。

旧道の終点に、誰かが鉛筆で書き込んでいた。

「久重集落跡」

地図の印刷とは違う手書きの文字で、ほかの書き込みより後から加えられたとわかった。誰が、いつ書いたのかはわからない。

エンジンをかけた。

「道の向こうから来た者は、道の向こうへ帰せ」

走り出してからも、その言葉が頭から離れなかった。

昨夜の影が何だったのか、まだわかっていない。

ただ、あれが「道の向こうから来た者」だったのか。それとも私が「道の向こうへ」引き込まれかけたのか。

どちらとも取れる言葉だと、峠を下りきってから気がついた。

家に帰り着いたのは夕方だった。

その夜、旧道の入口だけ写真に撮っておこうと思い立った。証拠というか、自分の記録として。次に行くなら昼間にして、入口だけ撮って戻る。それだけのつもりだった。

ところが翌週、現地に着いてみると、旧道の入口に何かが貼ってあった。

A4一枚の白い紙だった。

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