1966年だけ出生数が落ちた
1966年、日本の出生数は約136万人だった。前年は約182万人、翌年は約193万人なので、その年だけ大きくへこんでいる。グラフにすると、深い谷が一つだけ口を開けたように見える。
景気や感染症でなく、「丙午に生まれた女性は気性が激しく、夫を不幸にする」という迷信を気にして、出産時期をずらした家庭が多かったためだとされる。前の年と比べると、およそ25%の減少だ。数字は正直だ。
前後の年の流れから割り出した本来の出生数と比べると、1966年は約41万4000人も少なかった。ところが前年は約8万7000人、翌年は約12万3000人、いつもより多く生まれている。前後の山を足すと約21万人。この数字が、迷信に狂わされた人数として語られる。
国が命じたわけではない。誰かが号令をかけたわけでもない。一軒一軒の家が悩んだ末に出した答えが、全国の統計に同じ形で現れたのだった。
差し引きすると、約20万人は前後の年にも現れていない。計算の上では、生まれるはずだった子が、そのぶん生まれなかったことになる。谷の深さのおよそ半分は、時期のずれで説明がつく。残りの半分が消えた。
火が二つ重なる年
丙午は、十干の「丙」と十二支の「午」が重なる年で、60年に一度めぐってくる。十干は10種類、十二支は12種類。組み合わせが一巡するまでに60年かかる。60歳の還暦は、生まれた年の干支に戻る節目でもある。
暦の組み合わせにすぎないが、丙も午も火と結びつけられ、「火の力が強すぎる年」という説明が付いた。丙は「ひのえ」と読み、五行の火の兄に当たる。午は南の方角と、真昼の時刻を表す字だ。火と火が重なれば、さぞ激しい年になる。そんな理屈だった。
暦の理屈が人の運命へ移ったのは、そのあとだ。江戸の初めには、丙午の年は火災が多いという言い伝えが町に出回っていた。火の年に火の災難。わかりやすい連想だった。
その連想が、火事の多い年から火のように激しい女へと入れ替わるまで、言葉の置き換えは簡単だった。そこから迷信は、女性の性格や結婚生活を決める話へ姿を変えていく。
言い伝えの文句は、いくつもの形で残る。気性が激しい。夫の命を縮める。男を食う。どれも、責任を女性の側へ押しつける点で同じだ。
警戒されたのは、丙午だけだ。午年は12年ごとに来るが、1990年も2002年も2014年も、出産を避ける動きは起きなかった。干支の午が悪いのでなく、丙と午が組み合わさる60年に一度の年だけが、特別な目で見られた。
八百屋お七と結びついた物語
舞台は江戸。迷信の由来として、江戸時代の八百屋お七の話がよく挙げられる。火事で避難した寺で出会った男性にもう一度会いたいと考え、放火に及んだ少女として、芝居や読み物に描かれてきた。
伝わる筋では、きっかけは天和2年の暮れ、駒込や本郷を焼いた大火だ。焼け出された八百屋の一家は寺に身を寄せ、お七はそこで寺の小姓と恋に落ちる。家が建て直されれば寺にはもう居られないが、もう一度火事が起きれば、あの人にまた会えるかもしれない。思い詰めた少女が、自分の家に火をつけた。
火はすぐに消し止められたらしい。それでも放火は重罪で、お七は鈴ヶ森の刑場で火あぶりになったと伝わる。年は数えで16。江戸の人々が好む悲恋の型に、これほど合う話は少なかった。
日付も伝わっている。大火は旧暦の天和2年12月28日、いまの暦で1683年1月25日のこと。お七の放火は翌春の旧暦3月で、処刑は同じ月の28日だったというから、炎の冬から刑場の春まで、数か月の出来事になる。
後世の物語では、お七が丙午生まれだったという設定が加わった。1666年は丙午の年に当たる。16歳で亡くなる筋書きと、年の計算がぴたりと合ってしまった。「丙午の女性は恋に激しく、男を滅ぼす」という印象は、ここから広まったとされる。
順序には注意したい。先にあったのは、丙午の年は火事が多いという言い伝えだ。そこへ、火をつけた少女の物語が重なった。火の年と、火をつけた女。二つが一つに結びついて、迷信の形ができあがった。
浄瑠璃作家と講釈師が作った生年
お七を丙午生まれにしたのは、誰だったのか。浄瑠璃の作者、紀海音が作品の中で丙午生まれとして描いたのが始まりだという。その設定が、あとの作品へ引き継がれていく。
紀海音の「八百屋お七恋緋桜」は、1715年から16年頃の作と伝わる。お七の事件から、30年以上があとのことだ。丙午のお七は、事件の当時でなく、芝居の世界で生まれた。
講釈師の馬場文耕が書いた「近世江都著聞集」では、お七の生年が寛文6年、つまり1666年と定められた。この本が決め手になって、丙午のお七という像が定着する。創作の中で付けた生年が、そのまま事実のような顔をして歩き出したことになる。
名を広めた大きな一冊が、井原西鶴の「好色五人女」だ。1686年に出たこの本には、お七の恋と放火が一章分の物語として収まっている。事件から、およそ3年後の刊行だった。同時代の作家が、売れる題材として拾い上げたわけだ。
その後も、お七は舞台に上がり続けた。浄瑠璃の「伊達娘恋緋鹿子」は1773年、歌舞伎の「松竹梅雪曙」は1856年の作。百年以上にわたって、新しい脚本が書かれるたびに、同じ少女が火の中へ戻された。見物客は、涙を流して劇場を出ていった。
小姓の名さえ、作品ごとに違った
お七の実像や生年には不確かな部分が多く、生まれた年を寛文8年の1668年とする話さえある。丙午の1666年は、数ある説の一つにすぎない。
恋の相手になった小姓の名は、作品ごとに食い違う。「天和笑委集」では生田庄之介、西鶴は小野川吉三郎、「近世江都著聞集」では山田左兵衛。避難した寺も、正仙院と書く本があれば、円乗寺と書く本もある。
円乗寺には、法名を妙栄禅尼という女性の墓が残る。のちに五代目岩井半四郎が、これをお七の墓に見立てたという。火あぶりになった罪人が寺に葬られるものか、疑う研究者もいる。
芝居では、15歳以下なら罪が軽くなると役人がほのめかし、お七が年を16と答えて助からなかった、という場面が有名だ。年齢で刑が変わる決まりが整ったのは、事件のずっとあと、享保8年のこと。名場面の中身は、後世の創作になる。
確かな記録の少ない人物に、後から次々と設定が足されていった。芝居で作られた人物像を、同じ年に生まれたすべての女性へ当てはめるのは無理がある。理屈の上では当たり前だ。ところが話が何度も上演されるうちに、創作の設定が昔からの常識のように見えてくる。
現代なら、拡散したデマと呼ぶところだ。当時も、人気の物語が人の印象を作る力は強かった。創作が常識に化けるわけだ。
漱石の小説にも、丙午の悪女がいた
丙午の年は1966年の前にも来ていて、60年さかのぼると1906年、さらに60年前は1846年にあたる。江戸の末にも、明治の半ばにも、同じ年が来て、同じ噂が出た。
1906年の翌年、夏目漱石は新聞連載の「虞美人草」で、わがままな悪女の藤尾を「丙午」と書いた。小説の読者が、それだけで性格を想像できたということだ。迷信が、物語の記号として通じる時代だった。
作家の坂口安吾も、1906年の生まれだ。本名の「炳五」という字には、丙午の意味が込められていた。親類からは「男に生まれて良かった」と言われたと、本人が書き残している。安吾は1954年の随筆で、この迷信は簡単には消えないだろうと見ていた。
その言葉どおり、迷信は消えなかった。60年後の1966年、日本の出生数は、予想を大きく下回ることになる。
明治の丙午と、出生届のずらし
1906年の出生数は、前の年より約4%減った。1966年の25%に比べればずっと小さな落ち込みだが、それでも迷信を気にした家は確かにあった。当時の新聞には、元日に生まれた女の子の将来を心配する記事が載っている。
小さな谷だった。それでも谷は谷だ。数字の小ささが、迷信の弱さを意味したわけではない。
出生届を前後の年にずらして出す家もあり、実際には同じ年に生まれたのに、書類の上だけ別の年にした。戸籍に残るのは、嘘の生年だ。娘の将来を守りたいという親の気持ちが、書類を動かした。
丙午に生まれた娘のために、家族が選んだ手段は、書類をずらすことだった。そこまでさせた迷信の側にこそ、問題がある。
1924年から1926年にかけて、明治の丙午に生まれた女性が結婚の年頃を迎える。縁談が壊れた、婚期が遅れたという話が、新聞に相次いで載った。迷信を否定する論も出て、丙午を題材にした映画まで作られている。
新聞に載った話は、60年後の人々の記憶に居座り、祖母や母の世代が見た光景が、1966年の家庭でふたたび思い出される。
長生きの時代に、迷信が強くなった
意外なことに、1906年より1966年のほうが、迷信の力は強く働いた。この差については、人の寿命が理由だという見方がある。
江戸や明治の頃は平均寿命が40代にとどまっていたため、60年前の丙午を自分の目で見た人は、そう多くない。迷信を実感として知る年長者が、少なかったわけだ。
丙午は、60年に一度しか来ない。一生のあいだに出会える回数は、せいぜい二度か三度だ。前回の丙午に何が起きたかを、自分の目で覚えている人は、いつの時代も限られる。だから迷信は、書物や噂に頼って、次の丙午まで運ばれていった。
戦後の日本では寿命が急に伸びて、1966年を迎える頃には、前の丙午を覚えている祖父母や親が大勢生きていた。縁談で泣いた娘を見た親が、若い夫婦に妊娠を避けるよう勧めたという。身近な家族の経験談は、書物より重い。
もう一つ、新聞やテレビ、雑誌の影響も大きかった。1964年頃から、丙午を扱う報道が目立って増えていく。「気をつけろ」という論調もあれば、「迷信を打ち破ろう」という論調もあった。どちらの記事も、丙午がもうすぐ来ると皆に思い出させる役を果たした。
助産師の指導が、避妊の道を開いていた
1966年の出生減は、避妊や出産の調整が、すでに社会へ広がっていたからこそ起きた現象でもある。1950年代から、全国で助産師による受胎調節の実地指導が行われていた。
産む時期を夫婦が選ぶ知識は、迷信が広まる前から家庭に届いていたことになる。1966年に避妊で出産を見送った例は、20万件以上と見積もられている。迷信の力と、避妊の知識。二つが重なって、大きな谷ができた。
迷信の強さだけが効いたわけではない。産む時期を夫婦が自分で決められる土台が、すでに整っていた。迷信は、その土台の上で働いたのだった。
出生数の減り方にも、特徴がある。減ったのは主に、二人目以降の子どもだ。第一子の割合は、1966年に統計を取り始めて以来の高さで、約51%に達した。初めての子を授かった夫婦は産み、次の子を見送ったということだ。
地方や農村部では、迷信を気にして出産や妊娠を避ける夫婦が特に多かった。1965年には証券不況もあって暮らしへの不安が重なり、迷信だけでなく、いくつもの事情が同じ年に集まった。
山形市のパレードと、迷信追放の村
役所も、黙って見ていたわけではない。1965年11月、山形市では法務局が中心になって「ひのえうま追放運動」を行った。11月21日には、市内を歩いて呼びかけるパレードまで開かれている。
背景には、深刻な相談があった。出産をめぐる夫婦の揉めごとで離婚の調停が持ち込まれ、近所から嫌がらせを受けたという訴えも多い。迷信は、冗談では済まなくなっていた。
群馬県の粕川村は、村長の主導で「迷信追放の村」を宣言する。1906年とその前後に生まれた女性1400人を調べ、丙午に根拠がないことを村の人々へ知らせた。数字を突きつけて迷信に挑む、珍しい試みだ。
福岡県の久留米市は、1966年最初の広報紙「市政くるめ」で、丙午を「むかしむかしのおとぎ話」と呼んだ。昨年は二人目のノーベル賞受賞者を出した科学の日本に、まことにふさわしくない奇妙な風習だと、強い言葉で切り捨てている。それでも出生数は、予想どおり大きく減った。言葉の力には、限りがあった。
周りが気にするから避けた
1966年を迎える家庭は、子ども本人が将来傷つかないようにと考え、出産を前後へずらした面もあっただろう。我が子が嫁に行く頃、「あの子は丙午だ」と陰口を言われるかもしれない。その不安は、迷信を信じるかどうかとは別の問題だった。
研究では、1965年と1967年の出生数が周辺の傾向より増えており、1966年を避けた出産が前後へ移ったとみられている。1966年の落ち込みの一部は、消えた命でなく、動いた時期だったことになる。
単に迷信を強く信じた人だけでなく、「周りが気にするから避けたほうがよい」と判断した人もいたはずだ。この種の判断は、本人の信心と無関係に広がる。
迷信が嫌ったのは、あくまで女の子だ。男の子の丙午に、悪い言い伝えは付いていない。それでも、男の子も含めて、出産そのものが避けられた。性別は、生まれるまで分からないからだ。
隣の家が避ければ自分の子だけが目立つし、相手の家が気にしなくても、相手の親戚が気にするかもしれない。気にする人が一人でもいると考えただけで、行動は変わる。皆がそう考えた結果が、136万人という数字だった。
1.58という数字は、あとで引き合いに出された
1966年は、合計特殊出生率が1.58まで落ちた年でもある。ひとりの女性が一生に産む子どもの数の目安で、前の年は2.14、翌年は2.23だった。1966年だけが、はっきりと低い。
この数字は、のちに別の形で思い出された。1990年に、前年の1989年の出生率が1.57だったと発表されたからだ。丙午の1966年を下回る値だった。「1.57ショック」と呼ばれ、少子化が国の課題として表舞台に出てくる。
丙午の年に出生率が下がったのは、迷信が理由だった。1989年に下がったのは、迷信が理由ではない。どちらも同じ一つの数字を割り込んだ。違いは、前者が一年限りの谷で、後者が長い下り坂の一部だったことだ。
戦後の出生数は、1949年の約270万人を山にして減っていき、1973年に約209万人まで戻ったあと、また下りに入った。2016年に100万人を割り、2022年には77万人、2024年は68万人台まで減っている。丙午の谷は、いまの数字から見れば、まだ浅かった。
2024年の出生数は、1966年の、ほぼ半分だ。あれほど深く見えた136万人の谷が、いまは遠い数字になり、迷信がなくても子どもの数は減り続けている。
生まれ年を理由にした差別
迷信の怖さは、本人の知らないところで差別が動くことにある。丙午の女性が不幸になるのでなく、周囲が丙午を理由に縁談や進路で扱いを変える。そのため、本人が実際に不利益を受ける。
ここには自己成就の仕組みがある。縁談が壊れた。嫁ぎ先で苦労した。そういう結果だけを見て「やはり丙午は不幸だ」と言えば、差別が迷信の証拠にされてしまう。なんとも皮肉な循環。
生まれた日を、自分で選べた人はいない。それなのに、気が強いとか、嫁の貰い手がないとか、周りが勝手に先回りして言う。言われた側は、反論する場もないまま年を重ねていく。
迷信を信じていない人にも、自分は気にしなくても相手の家が気にするかもしれないという形で、この仕組みは重くのしかかる。そう思った瞬間に、迷信は個人の信念から、社会の約束事へ変わる。
1966年に生まれた人たちは2026年に還暦を迎えるが、同じ年に生まれた同級生は、前後の学年より少ない。学校のクラスが1つか2つ減った地域もあったと伝わる。迷信の跡が、生まれた時点から名簿の人数に刻まれていた。
1966年生まれの女性142人への質問
2023年には、大阪教育大学の卒業論文で、1966年生まれの女性142人にアンケートが行われた。半数近くが、気性が荒いと決めつけられた経験を持っている。
決めつけたのは、母や祖母など、身近な女性が多かった。出生数が少ないことや、結婚できないという偏見から、嫌味を言われた人もいる。厳しくしつけられたと答えた人も、少なくなかった。
大規模な調査ではない。それでも、当の本人たちの声をまとめた、貴重な記録だ。身近な人の口から出る言葉だけに、本人は受け流しにくい。
一方で、丙午の年なら結婚や出産を避けるべきかと尋ねると、賛成した人は1%しかいない。迷信を当てはめられた側は、その怖さをよく知っている。だから自分の子や孫には、同じ思いをさせたくない。
数字にすれば、わずか1%。142人のうち、一人か二人にすぎない。60年かけて、迷信は細い糸になった。
回答を寄せた人たちは、みな同じ年に生まれた。生まれた年の数字が、人数の少なさだけでなく、周りの言葉にまで付いてまわる。60年のあいだ、自分では選べない印を背中に付けて生きてきたことになる。
古い偏見は、60年たっても消えたわけではなかった。ただ、受け継ごうとする人は、確かに減っている。
2026年に見るべきもの
2026年も丙午に当たる。1966年と同じ規模で出生数が変わるかどうかは、年が終わり、統計を確認するまで分からない。少子化や家族の形、情報の伝わり方も60年前とは違う。予測を事実のように書くことはできない。答えは、まだ出ていない。
数字の見え方も変わる。2024年の出生数は68万人台なので、1966年と同じ25%が減るとしても、計算の上では17万人ほどだ。谷の深さは、土台の人数で決まる。あくまで計算であって、予測ではない。
2024年12月、政府は国会の質問に、国の人口推計が丙午の影響を織り込んでいないと答えている。こども未来戦略でも、丙午を理由にした対策は取られていない。迷信は、公の計画にとって数えない要素になった。
60年前は新聞やテレビが丙午を話題にして噂が家々へ届いたが、いまはスマートフォンの画面を通して、同じ噂が一瞬で届く。迷信を面白がる投稿もあれば本気で心配する書き込みもあり、広がる速さは、昔とは比べものにならない。
晩婚化や晩産化が進んだことも60年前との大きな違いで、産む時期を干支だけで決めにくい時代になった。それでも噂は、人の胸に小さな不安を置いていく。
出産の時期を決める材料は、60年前より増えた。年齢、仕事、住まい、お金。干支の順番は、それらと並べれば小さな項目になる。
確かなのは、丙午生まれの人の性格や人生を決めつける理由がないことだ。「気が強い」「結婚に向かない」などの言葉は、軽い冗談のつもりでも、本人へ古い偏見を背負わせる。言葉は軽くない。
ここが核心。丙午の迷信は、昔の人が非科学的だったという笑い話では終わらない。人は自分が信じていなくても、周囲が信じると思えば行動を変える。噂が大勢の判断を同じ方向へ押し、出生数のグラフにまで跡を残した。
60年に一度の暦そのものに、女性を不幸にする力はない。誰かを生まれ年で扱い分ける社会の側に、現実を変える力がある。2026年の丙午に振り返るべきなのは、迷信の当たり外れでなく、その力をどちらへ使うかだ。
