かつて日本の山深い村には、口減らしのために老いた親を背負って山へ捨てに行く、という恐ろしい掟が伝わっていた。食えぬ冬、家族全員が生き延びるために、まだ息のある母を、父を、雪の尾根に置き去りにする――それが「姥捨(うばすて)」である。フィクションではない。棄老の伝承は、長野の姨捨山をはじめ、日本各地の地名と昔話の中に、確かな影を落として残っている。
六十を過ぎたら、山へ行く
伝承の型はおおむね決まっている。ある村では、六十、あるいは七十を境に、年寄りは働き手ではなく「食う口」とみなされた。定めの歳が来ると、息子は親を背板に乗せ、あるいは背負って、村を見下ろす山の奥へと登っていく。人里から遠く離れた尾根、二度と自力では下りられぬ谷へ親を下ろし、わずかな握り飯を残して、振り返らずに山を下る。残された親は、飢えと寒さと獣の中で、静かに死を待つ――。丹波の一部に伝わる「ガンコガシ」の話では、老人を棺ごと尾根から谷底へ転がり落とした、とまで語られる。捨てるのではなく、落とす。その一語の重さに、背筋が凍る。
語呂と情け――なぜ捨て、なぜ捨てきれなかったか
だが、この伝承にはもう一つの顔がある。有名な「枝折り」の話だ。息子に背負われた老母が、道中しきりに木の枝を折って落としていく。息子が「何をしている」と問うと、母は「お前が帰り道に迷わぬように、目印を折っているのだ」と答える。捨てられる身になってなお、我が子の帰路を案じる母。その言葉に息子は耐えきれず、母を背負い直して家へ連れ帰る。棄老の残酷さと、それでも捨てきれぬ肉親の情。この二つが同じ物語の中で拮抗するからこそ、姥捨の話は千年を超えて語り継がれてきた。
「難題」型と、老人の知恵
もう一つ広く伝わるのが「難題型」である。老人を捨てる国の殿様のもとへ、隣国から無理難題が突きつけられる。灰で縄を綯え、曲がりくねった玉に糸を通せ、といった難問に誰も答えられない。ひそかに老母を隠し養っていた息子が、母の知恵を借りて次々と難題を解く。灰の縄は塩水に浸して焼けばよい、糸は蟻の腰に結んで穴を通せばよい――。感服した殿様は棄老の掟を廃した、と話は結ばれる。老いは「捨てるべき無用」から一転、「敬うべき知恵」へと反転する。棄老を語りながら、同時に棄老を否定する。伝承は、共同体が抱えた罪悪感そのものを物語にして呑み込んでいる。
史実だったのか
では、姥捨は本当に行われたのか。民俗学の見方は慎重だ。制度として棄老を強制した確かな記録は乏しく、多くは仏教説話(棄老国の物語)に由来する教訓譚だと考えられている。「姨捨山」の地名も、月の名所・田毎の月で知られる信濃の景勝地であって、そこで老人が捨てられたという直接の証拠があるわけではない。それでも、飢饉のたびに間引きと並んで「口減らし」が現実の選択肢となった時代、老いた者が自ら山へ入り、あるいは食を断って死んだ例が皆無だったとは、誰にも言い切れない。伝説の残酷さは、飢えの記憶が生んだ影なのだ。
楢山節考が突きつけたもの
この主題を現代に叩きつけたのが、深沢七郎の小説『楢山節考』である。七十になったら楢山へ登るのが掟の村で、おりんという老婆は自ら死出の山行きを望み、丈夫すぎる歯を石で打ち欠いてまで「もう食う資格はない」と示そうとする。息子に背負われて雪の楢山へ向かう場面の静けさは、棄老を残虐としてではなく、老いた者の側の覚悟として描き切った。二度映画化され、いずれも見る者に「自分の親を、自分自身を、あの山に置いていけるか」という問いを残した。
