口減らしのために、老いた親を背負って山へ捨てに行く。かつて日本の山深い村には、そんな掟が伝わっていた。食えない冬が来る。家族全員が生き延びるために、まだ息のある母や父を雪の尾根へ置いてくる、それが姥捨(うばすて)だ。
作り話で片付けるには、地名が多すぎるんだよな。数えるとぞっとする。長野の姨捨山を筆頭に、棄老の伝承は日本のあちこちで地名になり、昔話になって、土地の記憶へ影を落としてきた。
定めの歳が来たら、背板に乗る
伝承の型は、だいたい決まっている。六十、あるいは七十を境にして、年寄りは働き手としてでなく、食わせなきゃならない「口」として数えられるようになった。定めの歳が来る。息子は親を背板に乗せて、村を見下ろす山の奥へ登っていった。
行き先は遠い尾根だ。人里離れた場所で、二度と自力では下りられない谷へ親を下ろし、わずかな握り飯を置くと、息子は振り返らずに山を下りた。残された親は飢えと寒さと獣の中で、静かに死を待った。
丹波の一部に伝わる「ガンコガシ」の話は、もっと乱暴だ。老人を棺ごと尾根から谷底へ転がり落とした、とまで語る話で、読んでるこっちの背筋まで冷えてくる。捨てるんじゃなくて、落とす。
枝を折りながら背負われていく母
この伝承には、もう一つの顔がある。「枝折り」と呼ばれる話だ。息子に背負われた老母が、山へ向かう道の途中で、しきりに手を伸ばしては木の枝を折って落としていく。
息子が「何をしてるんだ」と聞くと、母はこう答えた。お前が帰り道に迷わないように、目印を折っているんだよ。これは泣けてくる。捨てられる身になってまで、この母はまだ我が子が無事に家まで帰り着けるかを心配しているわけだ。
息子はその言葉に耐えきれなかった。母を背負い直して、家へ連れ帰る。棄老の残酷さと、どうしても捨てきれない肉親の情が、ひとつの話の中で正面からぶつかり合っている。だから姥捨は千年もった。
蟻の腰に糸を結べ、と母は言った
広く伝わる型が、もう一つある。「難題型」と呼ばれる話で、老人を捨てる国の殿様のもとへ、隣の国から無理難題が突きつけられるところから始まる。灰で縄を綯え、曲がりくねった玉に糸を通せ。家来は誰ひとり答えられなかった。
ここで登場するのが、老母をこっそり隠して養っていた息子だ。母の知恵で、次々と解ける。灰の縄なら塩水に浸してから焼けばいいし、糸のほうは蟻の腰に結わえて穴を通らせればいい、という具合だ。感服した殿様は、棄老の掟を廃した。
一話のうちに、老いが裏返る。「捨てるべき無用」だったものが、最後には「敬うべき知恵」として殿様の前に差し出されているんだよな。棄老を語りながら、同じ話が棄老を否定した。共同体が抱えた罪悪感を、物語にして呑み込んだ形だ。
証拠が、一行も見つからない
では、姥捨は本当に行われたのか。民俗学の見方は慎重だ。制度として棄老を強制した記録は乏しく、多くは仏教説話の棄老国の物語から流れ込んだ教訓譚だ、という読みが主流を占めている。
「姨捨山」という地名も、指しているのは田毎の月で知られた信濃の景勝地にすぎない。名所ではある。けれど、そこで老人が捨てられたと示す直接の証拠となると、どこをひっくり返しても出てこないのが実情だ。
時代が時代だ。飢饉が来るたびに、間引きと並んで口減らしが現実の選択肢になっていた。老いた者が自分から山へ入って食を断ち、そのまま死んでいった例が一つもなかったとは、誰にも言い切れない。伝説の残酷さは、飢えの記憶が落とした影だ。
おりんは、自分から山を望んだ
この主題を戦後に叩きつけたのが、深沢七郎の小説『楢山節考』だった。七十になったら楢山へ登る。そういう掟が生きている村で、おりんという名の老婆は、自分のほうから進んで死出の山行きを望んでいた。
歯が丈夫すぎた。だから石で打ち欠いて、もう食う資格はないと村へ示そうとする。息子に背負われて雪の楢山へ向かう場面は、ひどく静かだ。深沢は棄老を残虐な風習として描かず、老いた者の側が抱えた覚悟として、最後まで描き切ってみせた。
映画も二度作られた。どちらの映画も、見る者に向かって、自分の親を、あるいは自分自身を、あの山へ置いてこられるのかと迫ってくるんだよな。見終わってすぐに席を立てる種類の映画じゃない。
誰も憎んでいない、それでも山へ運ぶ
姥捨がこわいのは、これが悪人の所業としてじゃなく、善良な家族が飢えの前で選ばざるを得なかった掟として語られるところだ。誰も憎んでいない。それどころか、愛している。それでも、山へ運ぶ。
この矛盾が、普通の怪談より深く人を凍らせる。枝折りの母、難題を解く老母。こうした後日談が必ず付くのは、本当は捨てたくなかったという後ろめたさを、村が物語の形で供養し続けた跡だ。
散らばり方がまた広い。棄老の話は東北から九州まで、日本のあちこちに点々と残っていて、名前を並べるだけで首筋が寒くなる。岩手のデンデラ野、飛騨の人落し、岡山の甕転ばし、丹波のガンコガシ。飢えと老いという重荷が、土地ごとに同じ形の影を落とした。
この話が何度も映画になり、介護や高齢社会のたとえとして引っぱり出されるのも、根っこは同じところにある。養える口には限りがある。その古い恐怖が、姿を変えて足元にわだかまっている。
かつて、山へ運ばれたのは親だった。運んだ側も年を重ねれば、いずれは運ばれる側へ回っていく、その順番だけは誰にも止められなかった。逃げ場はない。
「棺桶に入れて、投げ落としたんや」
兵庫県篠山市の見内という集落の裏に、松尾山という山がある。標高は六百八十七メートル。その山腹に、村の人たちが昔から「ガンコガシ」と呼んできた急な斜面があり、名の意味はずばり棺を転がす場所だった。
ここで暮らす人たちへの聞き取りが、二〇一九年の春に地元紙の紙面へ載った。話し手は四人。いずれも見内か、その周りの集落で生まれた人たちで、年は七十代から八十代のあたりに固まっている。ところが同じ土地の同じ伝説なのに、四人の口からは四通りの細部が出てきた。
Kさんは七十四歳だった。見内の出身で、村の古老から聞いた筋をそのまま口にしている。年老いて農作業ができなくなると、村の若者が数人がかりでその老人を棺桶に入れ、担いで山を登ってガンコガシへ投げ落とした。看取りも、経も、出てこない。
波賀野のSさんは八十一歳で、この話は母親から聞いたと言っている。棺桶を投げ落とし、立ち去る。それだけの筋で、誰が泣いたとも止めようとしたとも聞いていないし、いまも覚えているのは母が話すときの声の低さだけだという。
波賀野新田のTさんは八十七歳。祖母から聞いた話には、七十歳になったら役人の命令でガンコガシへ行かなければならない、という具体的な条件まで付いていた。村の掟でなく、上から降りてきた命令だ。幼いころ、寝る前に何度も聞かされたという。
住山のMさんは八十三歳。親から聞いた話では、住山の方へ向けて棺桶を投げ捨てていたことになっている。ただ、本人は信じていない。地形を知っているからで、あの斜面から住山の側へ棺を落とすのは物理的に無理がある、と言ってMさんは笑った。
細部は全部ずれている。捨てる年齢も、投げる方向も、命じた者も一致しない。けれど「棺桶」と「投げ落とす」という二つの言葉だけは、四人とも最後まで一歩も動かさなかったんだよな。ずれた部分が伝承の年輪で、動かない部分が芯だ。
神の内側と書く村
否定の声も、同じ紙面に載った。声の主は地元にある宗玄寺の住職で、七十五歳になる酒井勝彦さん、見内に姥捨てなど無かったと言い切った人だ。根拠は、村の成り立ちにあった。
見内は、延喜式内社である二村神社の神事をつとめ、この社を守護する者たちの手で作られた村だった。古い表記は「神内」。一四八二年に「御内」、一六五一年に「見内」へと字が変わっていく。神の内側、という意味の地名だ。
神域の村には死の穢れを嫌う決まりが厳しくかかり、酒井さんの言い方を借りれば、敏感すぎるほどのしきたりを課されていた。つきつめると、村の中に墓を作れない。これは重い。
裏付けは古文書にもある。一七九四年に編まれた『丹波志』には、見内村に人死するときは住山村の山谷に送る、と書かれていた。その地に堂屋敷と呼ぶ古跡あり、とも添えてある。
いまでも同じだ。見内の人の墓地は二キロ離れた隣の集落、波賀野にあって、死者は必ず村境の外へと運び出されてきた。村の中では弔えない。
ここから推理が動く。棺桶を担いで二キロの山道を歩けば、若い衆だって足を滑らせることはあるし、時には棺桶ごと谷底へ落としてしまうこともある。酒井さんはそう読んだ。
事故が何度か起きたとする。落とした側は村へ帰って言い訳をしなければならず、その責任逃れの言葉が、何代ぶんも積み重なっていく。やがてあの斜面は「棺桶が落ちる場所」という共通の認識になった。呼び名が付く。呼び名に話が付く。
経済の側からも、酒井さんは当ててみせた。数字も出てくる。一八五二年の『多紀郡明細記』によれば、見内村は十四軒で、住んでいたのは男三十九人と女三十七人だった。年貢を引いたあとに村へ残る米は、およそ三十四石。
量としては心もとない。酒井さんもこれを十分な量とまでは認めていないが、山と川の恵みを足してやれば、食べ物に困るほどでもない。口減らしの必要が、そもそも無かった。古文書に姥捨ての記載が一行も見つからないのも、同じ方向を指している。
妻が「深い山に棄ててきて」と言った
『今昔物語集』の巻三十第九話には、この伝説のいちばん古い形に近いと思える話がひとつ入っている。舞台は信濃国の更級。そこに、年老いた叔母を家に置いて、まるで親のように養っていた男がいた。
血のつながりは薄い。それでも男には、育ててもらった恩がある。問題は妻だった。妻はこの叔母をひどく嫌っていて、顔を合わせるたびに角が立ち、夫に向かって事あるごとに同じことを言い続けた。深い山に、棄ててきてください。
男は断り続ける。けれど、家の中の空気に負けた。八月十五夜の月の明るい晩、男は叔母に「寺で貴い法事がありますから、一緒に行きましょう」と嘘をついた。
叔母は喜んで背に乗る。男は寺とは逆の方角へ歩いていく。高い山の峰まで登りきったところで、男は背中から叔母を降ろし、そのまま逃げるようにして帰りかけた。
そこへ後ろから、をいをい、と叔母が呼ぶ声が追いかけてくる。男は応じない。一度も振り返ることなく、男はそのまま足を止めずに山道を下りきって、ひとりで家まで帰り着いた。
家に着くと、開けた戸口から月の光が部屋に差しこんできて、長年叔母を養ってきた日々が順に胸へ戻ってくる。男はそこで歌を詠んだ。わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て。
それから男は山へ登り直した。峰の上で叔母を迎えてもう一度背負い、家へ連れ帰って、それからはまたもとのように養って暮らした。話はそこでぷつりと切れていて、教訓の一言も付いていない。
妙にあっさりしている。その山を人は姨母棄山と呼ぶようになり、別名は冠山、いまの冠着山のことだという注も添えられている。地名の話が、ここで顔を出す。
『大和物語』の百五十六段もほぼ同じ筋で、こちらは叔母でなく、親のように養ってきた老女という設定になっている。歌はまったく同じ。その歌は『古今和歌集』に詠み人知らずとして入っていて、成立は九〇五年になる。
ここで順番が大事になる。歌が先に世に出て、その歌に添える由来として棄老の物語があとから付いた、という筋がいちばん濃い。名所の由緒書きが、伝説の親だったわけだ。
続日本紀に載った、更級の孝行息子
更級は、なぜ姥捨ての本場になったのか。記録が一枚、挟まっている。七六八年の『続日本紀』に、更級郡の建部大垣という人物の孝行が、朝廷から表彰されたという記事が載っているんだ。
これは本物の記録だ。朝廷からの表彰は地元にとって大きな誇りで、何代にもわたって語り聞かせるだけの値打ちがある出来事だった。孝行の土地、という看板が立つ。
そこへ仏典が重なった。『雑宝蔵経』の「棄老国縁」は、老人を国の外へ棄てる掟の国で、匿われた老父の知恵が隣国の難題を解き、掟が廃される話だ。筋書きは日本の昔話の難題型と、細部までぴたり一致する。
もう一つ効いたのが道だった。東山道の支道が信濃と都をつないでいて、役人が通り、旅の僧が通り、そのたびに話が運ばれていく。九世紀末から十世紀の初めには、更級を姨捨伝説の中心地に据える物語が、もう出来上がっていた。
地名そのものを疑う説も、別にある。「おはつせ」が転じた形だという読みや、崖を指す古い語だという読みだ。姥を捨てる字面と結び付いたのは後世の連想で、その順番なら地名のほうが伝説を呼び寄せた格好だ。話が逆になるんだよな。
灰で縄を綯え、貝の穴に糸を通せ
難題型の話は、県ごとに問いが入れ替わる。隣の国から突きつけられる無理難題は、土地によって三つも四つも違う顔をしていて、聞き比べるとこれが楽しい。ちょっとしたなぞなぞ集だ。
灰で縄を綯え、という問い。答えは塩水に浸した縄を、形が崩れないように焼くことだ。灰のまま、縄の姿が残る。曲がった貝の穴に糸を通せという問いには、蟻の腰に糸を結び、反対側の口に蜜を塗って、蟻に歩かせて糸を通した。
同じ大きさの馬を二頭見せて、どちらが親か当てよ、という問いもある。答えは草を出すこと。先に食べるほうが子で、親のほうはいつでも子に譲ってやるから、草を置いてしばらく待てば見分けがつく。
丸太の上下を当てよという問いは、水に浮かべれば片が付く。沈むほうが根に近い。答えを知っているのはいつも隠された老人のほうで、息子は殿様の前に進み出て、その種明かしをするだけだった。
これを解いたのは床下に匿っていた私の母です、と息子は打ち明ける。殿様は感服した。その場で棄老の掟は廃され、年寄りを山へ捨てろという決まりは、そっくりそのまま消えてなくなった。
ここが話の急所だ。棄老を語る話は必ず棄老をやめる話で終わっていて、村は掟を語りながら、同じ口でその掟を取り消し続けた。うまくできている。
もっこ型と呼ばれる短い話も、各地にある。父が祖父を山へ捨てて帰る。運ぶのに使ったもっこを、父が谷へ放り投げようとしたそのとき、そばにいた幼い息子がそれを止めた。
それは大事にとっておいて、父さんを捨てるときに使うから。父は青くなった。そのまま祖父を迎えに山を駆け上がっていく場面で、この短い話はすとんと終わってしまうんだよな。
六十を超えたら、蓮台野へ
岩手県遠野市土淵町山口の丘の上に、デンデラ野と呼ばれる平地があり、これを漢字で書けば蓮台野になる。この地名を全国に知らせたのは、『遠野物語』の百十一話だった。あの柳田國男の本だ。
山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺および火渡、青笹の字中沢、土淵村の字土淵。これらの土地にはどこもダンノハナという地名があって、その近くには必ず蓮台野という地が向かい合うように置かれている。柳田はそう書きつけた。
続く一文が強い。昔は六十を超えたる老人はすべて此蓮台野へ追ひ遣るの習ありき、とある。「習ありき」という言い回しは、ぼかしも伝聞もほとんど挟まない、断定にごく近い書き方なんだよな。
ところが同じ話には、老人たちが死んでいない描写が入ってくる。日中は里へ下り農作して口を糊したり、とある。追われた先で老人たちは自給の暮らしを立てていたわけで、そうなるとここは追放と隠居所の中間のような場所に見えてくる。話が変わってくる。
土地の言葉も採られている。里へ下りることをハカダチ、夕方に野へ帰ることをハカアガリと言った。ハカは墓とも取れるし、畑や場所の意味にも取れて、この曖昧さがそのまま解釈の分かれ目になってしまった。
いま行っても、田園が広がっているだけだ。案内板が立ち、当時の住まいを思わせる小屋のレプリカが一棟置かれていて、遠くのほうに民家の屋根が見える。風の音以外に、何も聞こえない。
ダンノハナは壇の塚、つまり葬地を指す語だという読みが強い。蓮台野のほうは火葬や埋葬にまつわる仏教の言葉で、京の都にある鳥辺野や蓮台野と同じ系統に属している。死者の場所と追われた者の場所。どの集落でも、この二つが必ず対で置かれていた。
反論もある。この対は棄老の記憶でなく、葬地の配置そのものを指しているというのだ。墓のそばに老人の小屋を置いていた村の作り方を、後の世の人々が棄老と読み替えた、という見立てになる。そう考えると、地名の分布がきれいに説明できてしまう。
飛騨の吉野村の下に「人落し」
南方熊楠に『棄老伝説に就て』という文章がある。こちらの見方は柳田とまるで違っていて、熊楠は棄老というものを、実際に行われていた慣行だと考えていた。引いているのは飛騨の例だ。
飛騨の吉野村の下に人落しと云ふ所あり、昔は六十二歳に限り此所へ棄てしと云ふ。六十でも七十でもない。六十二という、いかにも半端な数字がわざわざ書き込まれているところに、熊楠は話の具体性を見てとった。
熊楠は伊豆の伝説にも触れて、信州の姥捨山と並べ、さらにヨーロッパ人の祖先にも同じ風習があったと指摘している。話のスケールがでかい。日本については、殉死の慣行から推した。
大化の初年迄人死する時、人を絞して殉ぜしめ。殉死させる時代があったのなら、地方によっては老人を棄てる風もあったろう、というのが熊楠の筋の立て方だ。理屈としては通る。
風習が消えた理由の読みも面白い。親を棄てに行った子が、自分も同じ歳で棄てられる側に回ると気付き、その気付きが掟を内側から終わらせた、と熊楠は見ていた。身につまされる話だ。
地名の層は、ほかにもある。岡山には甕転ばしという場所があり、老人を甕に入れて谷の方へ投げ落としたという伝えが付いている。丹波のガンコガシと、やっていることが同じだ。容器に入れて、転がす。この一致は、偶然では説明しにくい。
八十六歳の家主が、帳面に載っている
では近世の村で、老人は実際どう扱われたのか。手がかりは宗門人別改帳。寺が檀家を書き上げた帳面のことで、そこには家ごとの人別と、それぞれの年齢がずらりと並んで記されている。
武州入間郡平山村の帳面には、年寄りの名が出てくる。安政二年の分では家主の文蔵が八十六歳で、安政六年の分には家主の幸蔵の母みつが、やはり八十六歳で載っているんだ。八十代は普通にいたんだ。
棄てられてはいない。かわりに働いた。完全な隠居ができたのは恵まれた百姓だけで、多くは稲の落穂拾いや品種の計量のような軽い仕事に回された。手が動く限り、何かを持たされる。
家で介護できないときは、村が引き受ける仕組みがあった。最初に名主、次に五人組という近所の網が動き、それでも足りなければ村民全体で面倒を見ることになっていた。放り出しはしない。
年寄りには、別の役目もあった。もめごとの仲裁だ。人生の経験があって、しかもいまの利害から離れている、その二つがそろっていることが仲裁人の条件になった。
飢饉のたびに間引きの話は出る。ただ帳面の年齢を並べていくと、老人より先に乳飲み子が切られた例のほうが、ずっと目につくようになってくる。労働力にならない者から捨てる、という単純な計算は働かない。年寄りは食う口だが、同時に手でもあり、頭でもあった。
「棄老の故実があつたか」
研究の側も動いていた。西沢茂二郎の『姨捨山新考』は一九三七年の本で、目次に「棄老の故実があったか」という項目を堂々と立てている。地元の資料を片端から当たって、実在を検証する形の仕事だった。
同じ著者は『姥捨山・故実と文学』も書いていて、さらに県立公園としての姨捨山と聖山の歴史まで書き残した。地元の人が、地元の伝説を疑う。そういう本だった。
古田武彦が二〇〇二年に出した本は、『「姥捨て伝説」はなかった』という題で、題がそのまま結論になっている。思い切りがいい。読む前から、立場がはっきりしている。
読みの方向を変えた仕事もある。市野澤潤平の「棄老伝承の語る老いと死」は、『日本民俗学』二五五号、二〇〇八年八月に出た構造分析の試みだ。塚田美雪の「棄老伝説『姨捨山』の伝承と民衆思想」は、『学海』第八号、一九九二年三月。伝承と民衆の思想を突き合わせている。
否定の根拠は、だいたい三つだ。古文書に棄老の記載が見つからず、年貢を引いたあとの米でも食っていける村が多く、話の型そのものも仏典から流れてきている。どれも、それなりに手堅い。
肯定の側が握っているのは、地名と聞き取りだ。ガンコガシ、人落し、甕転ばし、蓮台野。それに加えて、八十代の人たちが親や祖母から直に聞いたという語りの厚みが、この側の大きな武器になっている。文書に無いものが口に残った。
この綱引きは、決着していない。どちらの側にも手持ちの材料があって、そのどちらもが相手を黙らせるところまでは、まだ届いていないからだ。決着しないまま、地名だけが地図の上に居座っている。
六十九歳のおりんが、石で歯を砕く
『楢山節考』が載ったのは『中央公論』の一九五六年十一月号で、翌年の二月一日に中央公論社から単行本が出た。第一回中央公論新人賞。選考委員は三島由紀夫、伊藤整、武田泰淳の三人だった。
三島の評が面白い。読後感を「総身に水を浴びたような感じ」と書き、一番こわい場面には、山へ行く者を送る別れの宴会の場を挙げている。武田泰淳のほうは、主人公の無抵抗の抵抗のような美しさ、と言った。
おりんは六十九歳。村の掟では、七十で楢山まいりへ行く。行くのを恥じるより、行けないことを恥じる村だった。おりんの歯は年寄りらしくないほど丈夫で、それが村では体裁の悪いことだったから、石をつかんで自分の歯を打ち砕いた。
息子の辰平は孝行者だ。母を山へ運ぶのを最後まで嫌がったが、それでも真冬の山へ背負って登る。道々の掟は細かい。山へ入ったら口を利いてはならず、帰り道では決して後ろを振り向いてもいけない、という決まりまである。
途中で辰平が見るものがある。銭屋の又やんが、息子に縛られて谷へ突き落とされていく。おりんの静かな覚悟と、又やんの必死の抵抗が、同じ一つの掟の下で二つの死に方として並べられてしまう。
帰り道、雪が降り出した。楢山まいりの日の雪は、縁起がいいと村では言われていた。辰平は掟を破って山道をもう一度引き返し、そこにいる母に向かって、雪だ、雪が降ってきた、と大きな声で叫んだ。
映画は二本ある。一九五八年の木下惠介版は、舞台のような書割と義太夫節で最後まで押し通していて、おりんを演じたのは田中絹代だった。様式の映画だ。
一九八三年の今村昌平版は、真逆を行く。村の生き物と泥と性を真正面から撮って、坂本スミ子と緒形拳を立て、この作品はカンヌでパルムドールを取った。同じ原作とは思えない。
日本三大車窓の駅で、みんな月を見ている
いま姨捨へ行くと、棄老の匂いはほとんどしない。あるのは月と棚田と鉄道だ。おっかない伝説の本場のはずなのに、実際に足を運んでみると、目に入ってくるのは拍子抜けするほど穏やかな眺めばかりだ。
篠ノ井線の姨捨駅は、明治三十三年、一九〇〇年十一月一日に開業した。造りが変わっている。列車の行き違いを目的とした通過型スイッチバックの駅で、ホームは本線から分かれた引き上げ線の上にある。
下り列車は発車のときに、上り列車は到着のときに、それぞれ向きを変える。ここからが本番だ。二番ホームに立つと善光寺平が遮るものなしに開けて、八幡町、稲荷山、屋代、その奥の長野市の中心部まで見わたせる。
日本三大車窓の一つに数えられてきたのも、ここに立てば納得がいく。駅舎は二代目。昭和九年、つまり一九三四年に建てられたもので、二〇一〇年七月二十四日に改装の手が入って、いまの姿になった。
駅から歩いてすぐの所に、長楽寺がある。境内の脇には姨石という名の巨岩がどんと立っていて、その岩のてっぺんまで、ちゃんと人が登れるようになっている。下の斜面には棚田が階段状に連なり、水を張った一枚ごとに月が映る。田毎の月という名所だ。
冠着山にも登れる。標高千二百五十二メートル、長野県筑北村の山で、鳥居平の登山口から頂上までは一・一キロしかない。四十分ほど歩けば山頂に着き、そこからも善光寺平が一望できる。
長楽寺の観月の夜には、境内に人が詰める。手元の酒に口をつけている人より、下の棚田の水面に映った月のほうを黙ってじっと見ている人のほうが多い。姨石の上は順番待ちになる。
