山と海では、同じ言葉を使わない
里を離れて山へ入るとき、普段の言葉を捨てる。最初に変わるのは言葉。
獣、食べ物、道具、体の一部を、仲間だけが知る別の名で呼ぶ。それだけで終わらない。肉や酒を断ち、性行為を避け、死や不浄を思わせる言葉を口にしない。
海の上も同じだ。海へ出る漁師も、猿、蛇、坊主、帰るなどの語を避け、別の言い方へ替えた。陸の上なら誰も気にしない言葉が、船の上では不漁や遭難を呼ぶ音として避けられ、別の呼び方へ置き換えられた。
外から見れば、獲物や漁場を隠す秘密暗号に見える。話はもう少し深い。山言葉と海上の忌み言葉の役目は、仲間以外へ情報を漏らさないことだけにとどまらない。暗号の面が無いとは言わないが、それだけで片づけてしまうと、命を落としかねない山や海へこれから入っていく人が抱えていた緊張や祈りが抜け落ちる。
山と海は、生活を支える獲物を与えながら、突然人の命を奪う場所だ。平地の日常語をそのまま持ち込まず、言葉、食事、体を変えることで、人は別の世界へ入る準備をした。言葉を替えるという行為は、ここから先は里と違う場所だと、自分に言い聞かせる合図にもなっていた。
そこには、山の神、船霊、エビス、流れ仏、海の魔物など、人ならざる存在への信仰も重なる。目に見えない相手が大勢いる場所へこれから入るのだから、言葉づかいにも食べ物にも振る舞いにも、里とは違う気の配り方が求められた。
山の女人禁制、海女の月経禁忌のように、信仰が女性の排除へ使われた。そんな歴史もある。古いから正しいと美化せず、危険な仕事を支えた知恵と、誰かへ負担を押しつけた規則を分けて見なければならない。
山の神は女だから、女性を嫌うのか
鉱山、狩猟、伐採、修験の山で、女性の立入りを禁じた。そういう例がある。
よく語られるのが、「山の神は女性で、人間の女に嫉妬する」という説明だ。女性が入れば山の神が怒り、落盤、遭難、不猟が起きると恐れられた。
別の説明では、月経や出産の血を穢れとし、神聖な山から遠ざけた。そういう話が伝わる。山中で共同生活する男性の職能集団が、自分たちの秩序を守るため女性を排除した。そんな面も考えられる。
全国すべての女人禁制を、どれか一つの理由で説明するのは無理だ。嫉妬の説明も、血の穢れの説明も、職能集団の秩序の説明も、それぞれ一部を照らすだけだ。
修験霊山の入山規則と、鉱山の坑内禁忌、猟師の山入りは、目的も組織も異なる。中身はばらばらだ。女性が山の神をまつり、田畑や出産の守りを願う地域もある。
「山の神は醜い女神で、美しい女性に嫉妬する」という語りは、女性同士の嫉妬を当然とする後世の見方を含むかもしれない。当事者の伝承がいつ記録されたかを確かめたい。語りの古さが分からないまま、今の感覚で読み込んだ意味を昔の人の信仰へ押しつけると、話は簡単にゆがんでしまう。
女人禁制を破ったため事故が起きたという話も、天候、装備、作業記録を確かめなければ因果関係は分からない。
現代の登山・労働で、安全性は性別だけでは決まらない。宗教的な聖域の作法をどう扱うかと、職場での差別を正当化することは別の話だ。山の神への敬意を語ることと、同じ職場や同じ山道にいる目の前の誰かを性別だけで締め出すことを、同じ箱に入れて論じるのは筋が悪い。
山の神へオコゼを見せる
山の神への供物には、海の魚のオコゼが使われる例がある。
猟師が白紙に包んだオコゼを見せて山の神へ祈ると、獲物が得られる。そんな伝承が記録に残っている。山の幸を求める祈りに、わざわざ海の幸を持ち出すところが、この習俗のいちばん奇妙な点だ。
海の魚と山の神。なぜ海の魚を山の神へ供えるのか。
山の神がオコゼの醜い姿を好む、自分より醜いものを見て喜ぶ、と説明される例もある。実物の干物や骨を見せるほか、絵を用いる、獲物を得たらオコゼを供えると約束するなど方法に違いがある。
ここでも「醜い女神を慰める」という説明だけを唯一の由来にすると、女性を容貌で評価する外部の語りを再生産する。オコゼの由来に限らず、由来の説明にはいつの間にか語る側の価値観が混じるものだと、この種の話を読むときほど思い出しておきたい。
海の珍しい品を山へ運ぶこと自体に価値があった。山と海の恵みを交換する象徴だった。どちらの見方もありうる。
オコゼを見せれば必ず熊が捕れる、伐採事故がなくなるという物理的な保証はない。山の神への供物は、危険な仕事を前に心を整え、成功したら感謝を返す関係を作るものだった。
供え物の伝承と、現実の安全装備や猟法は、分けて考えなければいけない。オコゼに手を合わせる気持ちは大事にしていいが、熊の前で頼りになったのは、結局のところ鍛えた腕と確かな道具だった。
山言葉――獲物に悟られないための別名
山へ入った猟師や木地師、炭焼きなどは、日常と違う言葉を使った。
獲物に人の相談を悟られないため、山の神へ俗な言葉を聞かせないため、仲間と外部を区別するため、などの説明がある。
マタギの言葉をすべて「アイヌ語の秘密暗号」と紹介する記事もある。乱暴な話。確かに北方の言語や交流の影響が論じられる語はあるが、語彙一つが似ているだけで全体系の起源は決まらない。
山言葉には、地域の方言、職業語、借用語、言い換えが混ざる。中身は雑多。どの集団が、どの時代に、どの場面で使ったかを確かめたい。
暗号としての実用もあっただろう。集団猟で短く正確に指示を伝え、獲物や猟場を他者へ知られにくくする。猟の最中に大声で細かく説明している暇は無いから、短い別名で通じ合える仕組みは、それだけで十分に役に立った。
同時に、言葉を替えることで、自分は普段の村から山の秩序へ移った。そう確認する行為になる。
山を下りれば日常語へ戻る。言葉の境界が、そのまま場所の境界だ。里の言葉と山の言葉を切り替えるたびに、人は自分がどちらの側に立っているかを確かめた。
現在、古い語彙を観光向けに一枚の「マタギ暗号表」へ詰め込めば、地域差が消える。生の聞き取りと文献で、誰の言葉かを残しておきたい。
山入りの精進――事故を祟りだけで説明しない
狩猟、伐採、修行の前に、肉、魚、酒、性行為、葬式への参加、特定の言葉を避ける。こうした山入りの精進は、体と生活を山の仕事へ切り替える。山へ入る前の過ごし方まで細かく決めておくことで、気持ちの切り替えが体の側からも自然に進んでいった。
酒の話は分かりやすい。酒を控えることは、足場の悪い場所で判断力を保つ現実的な効果がある。食事や睡眠を整え、集団で同じ規則を守れば、規律も生まれる。
困るのは別の禁忌。性行為や月経を不浄とする禁忌は、女性の存在を事故の原因にする場合がある。
禁を破った者が遭難した。そういう後日譚は強く記憶される。禁を守っても事故が起きた例、破って無事だった例は語られにくい。
山の事故を調べるなら、天候、地形、装備、疲労、技術、通信、判断を確かめなければならない。祟りという説明だけでは、再発防止につながらない。
精進を信仰として尊重することと、事故原因を科学的に調査することは両立する。山の神に手を合わせたあとで装備を点検し、天気を確かめて出発することに、矛盾は一つも無い。
念のため言っておく。外部の人が「秘儀」をまねて断食し、軽装で山へ入ればかえって危険だ。現在の登山では、十分な食料、水、防寒、届出、気象確認を優先したい。
マタギの獲物分配――山の恵みを独占しない
集団猟で仕留めた獲物は、参加者が勝手に奪い合わず、決められた規則で分配された。仕留めた者が肉を抱え込む形にせず、山の恵みを皆のものとして扱う決まりが、猟の仲間を支えた。
順番がある。山の神へ初めの肉を供え、猟師、勢子、犬、留守を守った家々へ分ける。肉、皮、骨、熊胆など、部位ごとの価値と役割が異なる。
ここが肝心な点。分配は信仰だけでなく、危険と労働の負担を調整する。
獲物を直接仕留めた者だけでなく、追い込み、道案内、解体、運搬に関わった人へ渡す。猟犬にも取り分を与えることで、共同猟を次も続けられる。
規則は地域によって違う。熊猟の一例を、すべてのマタギへ当てはめるのは無理だ。
解体や熊胆の処理を、残酷な秘密儀式として見せる記事もある。現場では、食料、薬用素材、毛皮を無駄にせず利用する技術と、山の神へ感謝する祭祀が重なっている。
現代の狩猟は、免許、期間、区域、鳥獣保護管理の法令に従わなければならない。伝統の名を出しても、無許可捕獲や違法取引は許されない。
船霊・船玉――船の中に神を納める
次は海。船霊、船玉は、船と乗組員を守り、航海と漁の安全を支える神だ。
船大工が建造中の船へ、札、人形、銭、穀物などを納める例がある。進水の際に祝い、船主と乗組員が供物をする。船を造る段階から神を納めておくのは、この船は人の命を預かるものだ、という覚悟の表れにも見える。
海では、船体そのものが人の命を支える。嵐の中では板一枚の損傷が沈没につながるから、船を単なる道具と見ず、霊を宿す存在として扱う感覚が生まれる。
船霊を女性神とし、女性が乗ると嫉妬するという語りもある。女性の髪や人形を船玉として納めた。そう伝える伝承もある。
ここで話がねじれる。そこから「昔は若い女性を人柱にし、船底へ埋めた」という怪談が作られる。
札や人形、髪などの奉納物と、生身の人を殺した証拠は別物だ。実物の船玉箱や建造記録を確認せず、象徴的な女性像を人身供犠へ変えることはできない。
船の安全は、祭祀だけでなく、設計、整備、気象判断、救命設備、航海技術によって守られる。信仰はその仕事を軽くするものでなく、危険を忘れないための約束でもあった。祭祀に心を込めることと、船底の板をきちんと点検することは、船を無事に帰したいという同じ願いから出ている。
海上の忌み言葉――「帰る」と言ってはいけない
漁船の上で、猿、蛇、坊主、帰るなど、特定の言葉を避けた。そういう地域がある。
不漁、遭難、船の転覆を招く音や意味を嫌い、別名へ言い換える。縁起の悪い音を口にしない約束は、狭い船の上で全員が同じ緊張を分け合うための決まりごとでもあった。
「帰る」は安全な言葉に見えるが、漁をせず戻る、魚が海へ帰るという連想を持つ場合がある。「猿」は「去る」と同音のため避ける、と説明されることもある。
全国の漁師が同じ一覧を使ったわけでもない。ある港で忌む語が、別の地域では普通に使われることもある。よその港の常識をそのまま持ち込んで、ここではこう言うのが正しいと言い張れば、その船に乗る人たちの作法の前では、ただの無作法になる。
ネット上の「船で絶対言ってはいけない十語」を信じ、現役漁師へ頭ごなしに規則を押しつけるのは避けたい。
忌み言葉は、海を日常から分けると同時に、乗組員の結束を作る。仲間の語彙を正しく使えることが、その船の一員の証になる。
遭難原因を忌み言葉の違反へ帰すのは危険だ。通信、救命胴衣、気象、船体、操船の検証を優先しなければならない。
言葉の作法と、事故調査は別の役割を持つ。作法を守る気持ちは尊重しつつ、事故が起きたら装備と判断を洗い直す、という順番を崩してはいけない。
エビス拾い――海から来た物は、福か災いか
浜へ石、木、漁具、鯨、遺体などが漂着する。
海の向こうから来た物を、エビスとして拾い、まつる信仰がある。正体不明の漂着物が、豊漁や富をもたらすと考えられた。正体の分からない物でも、海の向こうから届いたというだけで、浜の暮らしにとっては恵みの側に数えられた。
エビスは商売繁盛や漁業の神として知られるが、漂着した異物の姿も持つ。二つの顔。
海は遠方の品を運び、時に鯨という大量の肉と油を浜へ届ける。漂着物を神からの贈り物と見ることには、生活上の実感がある。
漂着した遺体のほうは、「流れ仏」として恐れられる。拾って葬れば豊漁になるという話と、放置すれば祟るという話が併存する。同じ浜に流れ着いたものが、ある時は恵みとして拝まれ、ある時は恐れの的として遠ざけられるところに、海辺の暮らしの揺れがよく出ている。
「死体を見つけた漁師が隠して神にした」という扇情的な記事もある。けれど現在、遺体を発見したら、警察や海上保安機関へ通報し、身元確認と法的手続きへつながないといけない。
信仰を理由に、遺体や遺留品を勝手に持ち帰ってはならない。拾う側の信仰がどれほど篤くても、流れ着いた遺体を待っている家族が、どこかにいるかもしれない。
エビス拾いは、人の支配を離れて海から来たものを、共同体の秩序へ迎え入れる方法だった。
流れ仏――名の分からない死者を葬る
海や川から遺体が流れ着く。身元も、どこで亡くなったかも分からない。
地域の人は、流れ仏として葬り、墓や祠を作ることがあった。
名も縁もない死者は、供養されなければ祟ると恐れられた。身元も分からないまま放っておかれる死者ほど、浜の村に住む人にとっては恐ろしい存在になる。丁寧に葬った家や村へは、豊漁をもたらすエビスになるとも語られた。
恐れと福が、同じ死者に重なる。祟る死者と福を運ぶ死者が別々にいるのでなく、一人の見知らぬ死者が両方の顔を持っている。
これは、死者の性格が突然変わるというより、共同体がどう扱うかによって関係が変わるという考え方だ。放置された死者は危険で、名を与え、葬り、供物をすれば守り手になる。
現代は、警察、海上保安庁、自治体が検視、身元確認、引取り、無縁遺骨の管理を受け持つ。地域だけで処理する時代とは違う。昔は浜の村が自分たちの手で引き受けていた役目を、いまは法律と役所の側が担っているだけで、死者を粗末にしないという芯は変わっていない。
怪談を求めて海難碑や無縁墓へ入り、遺骨や供物を動かすことは、死者と管理者への侵害になる。やめてほしい。
流れ仏の伝承を読むときは、漂着した死者の尊厳と、遺族が今も探しているかもしれない点を忘れてはいけない。
盆の海へ入らない――先祖に足を引かれるのか
盆の海や川へ入ると、水死者や先祖に足を引かれる。地獄の釜が開き、海の者が人を連れて行く。そんな話を聞いたあとで水の底から伸びてくる手を思い浮かべるだけで、盆の夕方の海が、いつもより少しだけ暗く見えてくるから不思議だ。
こうした禁忌は各地で語られる。
後世には、盆を過ぎるとクラゲが増える、台風のうねりや離岸流が起きやすいからだという合理的説明が付けられる。
海には沖へ向かう離岸流があって、海上保安庁は流れに逆らって泳がず、海岸と平行に移動して抜けるよう案内している。遊泳禁止や監視員の指示に従い、睡眠不足や飲酒時は海へ入らないことも大事だ。
離岸流は盆以外にも発生する。クラゲの出現も海域、種類、水温で変わる。盆だから危ない、盆を過ぎたから安心、という単純な線引きは、海の側から見ればほとんど意味が無い。
昔の人は科学を知らなかったから、霊の話で安全を教えた。そう一つの合理化へまとめるのも早い。霊の話と安全の話を、どちらかに寄せて片づけてしまうのは、どちらの側にとっても雑な読み方だ。
盆は先祖を家へ迎える期間で、水辺は死者の来る境界と考えられた。宗教的な時間の禁忌と、季節の海の危険が重なり、強い規則になったのだろう。
盆でなくても、海の状態が悪ければ入らない。盆でも許可された海水浴場なら安全確認をする。霊の有無に関係なく、現地情報を優先したい。
海女の禁忌――危険な潜水を支えた祈り
海女は、息を止め、海底へ潜り、アワビやサザエ、海藻などを採る。素潜りの仕事。息一つで海底まで往復する仕事だから、潜る者の身と心を守るための約束ごとが、いくつも重ねられた。
三重県教育委員会の調査は、鳥羽・志摩の海女漁の特色を挙げている。女性の素潜り漁の長い継続、漁場を見分ける能力、伝統漁具、地域の役割分担などだ。現在は男性の素潜り漁者もいる。
潜水は、潮流、波、水温、息切れ、岩への接触という危険を伴う。だから、出漁日、葬式、食べ物、言葉、場所をめぐる禁忌や、寺社の守札、魔除けの印が伝えられた。
月経や妊娠を理由にした出漁制限は、身体の安全配慮と穢れ観、性別役割が混ざる。本人の経験、地域の規則、医学的知見を一つにせず見たい。
海女が上がるときに出す「磯笛」は、海の魔物を追う呪文とは違う。長く息を吐く呼吸音で、仲間に所在を知らせる働きもある。
「海女は祈りだけで危険を避ける」というのは違う。海況を読み、無理をせず、仲間と見守り、長年の技術で潜る。その土台の上で、信仰が心を支える。祈りだけでも技術だけでもなく、海を読む目と、海を畏れる心の両方を身に着けた人が、海女として冷たい海の底へ何度も潜っていく。
セーマンとドーマン――海の魔物を寄せない印
鳥羽・志摩の海女が使う磯手拭いや道具には、星形と格子形の印が見られる。
公的な解説は、星形をセーマン、格子状をドーマンとし、貝紫で染めたり、刺繍したりすると説明している。
印は、海の魔物や災いから海女を守る魔除けだという。
名称は陰陽師の安倍晴明と蘆屋道満へ結びつけて説明されるのがふつうだ。星形が晴明判、格子が九字に関係するという見方だ。
名前と歴史は別物。現在の呼び名だけでは、平安時代の二人が志摩の海女へ直接図柄を教えた証明にならない。いつからその名で呼ばれ、誰が刺繍し、どの地区で使ったかを確かめる作業が要る。
同じ印でも、手拭い、磯着、磯ノミ、眼鏡など媒体が違う。家族が縫う場合、本人が描く場合、既製品に印刷される場合もある。手拭いから磯ノミまで印の置き場所がこれだけ違えば、同じ名前で呼ばれていても、込められた思いや使い方までそろっているとみるのは早い。
セーマンは一筆書きで始点と終点が結ばれ、魔物の入る隙を作らない。ドーマンは多くの目で見張る、などの説明も語られる。
御利益を信じることと、救命・安全装備を省くことは別だ。印は危険を忘れないための守りで、海況を無視していい免許とは違う。
禁忌は安全規則か、差別か
山と海の禁忌を「昔の人の安全マニュアル」と説明すれば、分かりやすい。分かりやすい説明は読む側に安心をくれるけれど、その分だけ、説明からこぼれ落ちるものも必ず出てくる。
酒を避け、集団の言葉を統一し、獲物を公平に分け、海況の悪い季節に水へ入らない。確かに、現実的な安全と共同作業に役立つ面がある。
すべてを合理的知恵へ変えると、今度は女人禁制や血穢観が女性へ与えた負担を見落とす。
逆に、迷信と差別だけで切り捨てれば、危険な仕事へ向かう人が、恐れを共有し、山と海の恵みに感謝した意味が消える。
一つの規則が、仲間の命を守ると同時に、参加できない人を作ることもある。同じ一つの禁忌が、ある人には命綱に見えて、別の人には自分を締め出す壁に見えるのは、そのためだ。
現代に残すときは、何が信仰の核で、何が安全上必要で、何が人権と両立しないかを具体的に考えなければならない。
祟りを恐れて事故原因を調べないのは危険だ。伝統を嘲笑して現場の経験知を無視するのも危うい。祟りに頼る危うさも、伝統を笑う危うさも、山と海の禁忌を信仰か安全か、一つの物差しだけで測ろうとするところから生まれてくる。
山と海では、人の力だけで制御できないものが多い。その現実を認めたうえで、祈りと技術をそれぞれ正しい場所に置くことが大切だ。
