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骨噛み――九州・琉球の葬送習俗と故人との結びつき

火葬場の炉の前で、骨上げが始まる。白く乾いた骨を二人一組の箸で拾い、骨壺へ納めていく。ふだんの食事では嫌われる箸渡しが、この場だけは作法になる。静かな時間。話し声も、ほとんど聞こえない。

その骨の一片を、口に入れて噛んだ人たちがいた。冗談でも怪談でもない。民俗学の文献に、採集例として名前が残っている習俗だ。

呼び名は骨噛み。地域によっては骨かじり、骨こぶりとも呼んだ。九州から琉球列島にかけて、この言葉や、よく似た響きの言い回しが拾われている。

怖い話として語られることが多い。ここが入口だ。だが資料を並べてみると、そこにあるのは恐怖より先に、死者との距離の近さだった。ちょっと意外な話らしい。

熊本、大分、薩南で拾われた言葉

民俗学の文献では、熊本や大分、薩摩半島の南の一帯で、死者の骨を噛んだという採集例が論じられてきた。葬式を指す地域語として、骨かじり、骨こぶりが挙がることもある。習俗の存在そのものを、架空とは言えない。そこは動かない。

ただし、全九州で同じことをしていたわけではない。誰が、どの骨を、どの場面で噛むのか。ここが地域でも家でも時代でも違っていた。

一つの型にまとめた瞬間に、資料から離れてしまう。骨を噛む習俗と書けば簡単だが、実際の採集例はもっと細かく、もっとばらついている。

この揺れの大きさが、骨噛みを語るときの最初の注意点になる。熊本の話を大分に当てはめない。琉球の話を薩南に持ち込まない。地名の付いた事例は、地名の付いたまま読む。

葬式に行くことを「噛みに行く」と呼んだ

面白いのは、行為そのものより言葉のほうが広く残っている点だ。西南日本の各地には、葬式に行くことを骨噛みと呼ぶ言い方があったと報告されている。

実際に骨を噛む家が少数でも、言い回しだけは村中が使う。そういう状態は十分にあり得る。言葉は習俗の影を長く引きずるからだ。残るのは音だけ、ということもある。

琉球列島では、この種の言い回しがとくに具体的だった。徳之島では、葬儀に行くことを「シシカミに行く」と言った。シシは肉のことで、直訳すれば肉を噛みに行くになる。

宮古島には、骨をしゃぶる行為そのものを指す「プニシズ」という言葉があった。八重山では「ピトカンナ」、あるいは「ピトゥクンナ」と言い、人を噛みに行く、人を食いに行くという意味で葬儀への参列を表したと伝わる。

字面だけ見れば物騒な響きだ。ぎょっとする。それが挨拶のような日常語として使われていた。島の暮らしの中で、葬式と噛むことが、ひとつながりの言葉になっていた。

本骨と肉をめぐる親族の呼び名

琉球の事例でよく引かれるのが、親族の呼び名に残った痕跡だ。近い親類を「真肉親類」と書いてマツシシオヱカ、遠い親類を「脂肪親類」と書いてブトブトーオヱカと呼ぶ。

どちらにも肉の字が入っている。血の濃さを、肉の濃さで言い分ける発想がそこにある。この呼び名が、骨や肉を分け合う慣行と結びつけて論じられてきた。

伝承の形に沿って場面を組み直すと、こうなる。年老いた家長が息を引き取り、近隣と親族が集まって通夜をする。やがて火葬があり、骨あげの場で、血縁者が骨のかけらを一つずつ受け取る。

もっとも近い血筋の者には本骨が回り、遠い縁者には代わりに用意した肉が振る舞われた、と語られる。後の時代には、その肉が豚や牛になった。あくまで伝承の再構成だ。全島で同じ手順があったという意味ではない。

噛んだ者は、その場で泣き崩れることもあれば、どこか晴れやかな顔をすることもあったという。理由を問われた老人たちは、あの人の強さや魂の一部が残された者の中に還ってくるからだ、と答えたと語られている。

人の肉が豚の肉に変わった話

この「肉」の話に、文献で触れた人がいる。沖縄学の伊波普猷が書いた『南海古代の葬制』で、昭和13年8月の『をなり神の島』に収められている。

そこには、かつては親類縁者が集まってその肉を食べていたが、のちに人の肉の代わりに豚の肉を食べるようになった、という民間の説明が紹介されている。

同じ流れの記述として、1862年ごろまでの那覇、久米島、国頭郡の様子を伝えるものがある。70歳以上で亡くなった人の葬式では、豚肉の料理が会葬者に振る舞われた、という内容だ。

この文章だけで、人肉を食べた事実が証明されるわけではない。民間の説明は説明であって、記録とは違う。それでも、豚肉の振る舞いと親族の呼び名と、噛みに行く言葉が、同じ方向を指している。

人から動物へ。置き換えを語る説話は、池間島、八重山、島尻郡にも伝わっている。形は少しずつ違うが、人の肉が四つ足の動物の肉に変わったという筋は共通する。

「それでは、股、食べられるね」

石垣島には、ぎょっとする返事の記録がある。池間栄三の『与那国島の歴史』に出てくるもので、親族の死を告げられた人が「それでは、股、食べられるね」と答える。

悲しみの場面での返事としては、あまりにも乾いている。だが言葉の側から見れば、死と食べることが、日常の会話の中で自然に結びついていたことが分かる。

新城島には、肉を食べる夢は親族の死が近づく前触れだ、という信仰があった。夢の中で肉を食べる。目が覚めると、誰かが亡くなる。そういう連想の回路が、島の人の中にできあがっていた。

与論島には、賢い嫁を持つ愚か者が、死者の始末の仕方をとんちんかんに提案する滑稽譚が伝わる。笑い話の形をとっているのが、いかにも民話らしい。

笑い話になるほど、骨や肉の扱いは身近な題材だった。恐ろしい秘儀として隠されていたというより、島の言葉や冗談の中に溶け込んでいたように見える。

洗骨と骨噛みは別のものだ

琉球の葬送を調べていると、必ず洗骨にぶつかる。これと骨噛みを混ぜて語る文章が多い。分けておかないと、話がすぐに濁る。

洗骨は、遺体を風葬や土葬にしてしばらく置き、白骨になった頃に取り出して、海水や酒で洗い清める習俗だ。期間は3年から7年ほどが一例として挙がる。

戦前は、男性の近親者が遺体を掘り起こし、女性の親族や長男の嫁が骨を洗う慣わしだったと伝わる。骨から皮をはがし、残った肉をそぎ落とす作業もあり、心の負担は大きかったという。

その後、戦後の女性解放の動きと火葬の普及で、洗骨は沖縄でも減っていった。骨を洗うことと骨を噛むことは、触れる対象が同じでも、そこへ向かう目的がまるで違っていて、同じ棚には置けない。

洗骨は、死者を墓に納め直す手続きだ。骨噛みは、死者を自分の側へ取り込む所作。ほかにも拾骨、改葬、分骨、納骨といった別の言葉があり、どれも骨噛みとは同じではない。

骨上げの作法と、論文の言葉の使い分け

骨上げには、決まった手順がある。二人一組で、箸から箸へ骨を渡す。足のほうから頭のほうへ向かって拾い、最後に喉仏を納める地域が多い。

骨噛みは、この作法の外側にある。拾い終えて壺に納まる前、あるいは納まったあとの、ごく短い間の出来事だった。立ち会えるのは身内だけ。

近藤の論文は、言葉の整理から入っている。死者の遺骨や遺体の一部を食べる行為を、食屍と呼ぶ。人間の肉を食べる行為の一般用語が、食人だ。

火葬のあとの灰は、人灰。遺骨をすりおろして粉にしたものは、骨粉。遺骨を噛む儀礼的な食人は、骨噛と書いてホネカミと読ませ、西南日本では葬式に行くことを指す地域語でもあった。

一つの行為に、これだけ呼び名がある。それだけ、地域ごとに受け止め方が違ったのだろう。呼び名の多さは、習俗の広さの裏返しだ。

学術論文が拾った淡路島と大島の話

骨噛みを正面から論じた論文がある。近藤雅樹の「現代日本の食屍習俗について」で、国立民族学博物館研究報告の36巻3号に、2012年に載った。

近藤は、骨を食べる行為を聞き取りで集めた事例から並べていて、九州や琉球に限らず、本州や四国の例も入っている点が大きい。

淡路島の南部、福良の近くでは、1987年2月下旬に聞き取りがあった。葬儀のあとで近親者が集まり、大往生をとげた人の遺骨を粉にして、分け合って飲んだという話だ。目的は、頭が良くなるように。

話した女性は、それを聞いて驚き、ひどく気持ちが悪かったと証言している。内側の習俗が、外から来た人の目にはそう映る。この温度差まで記録されているところが、論文の誠実さだ。

愛媛県の越智郡、今治沖の大島では、1984年の祖母の葬式で、親類が焼いた灰を飲んだという報告が出てくる。人灰と呼ばれ、飲むと丈夫になる、万病に効く、と言われていた。

この大島の報告は、1996年の夏に大学の講義のあと、学生が語った内容だ。さらにさかのぼる話として、不治の病にかかった人が薬として人灰を飲んでいた、という学生レポートも紹介されている。

三河の山村で、こっそり行われたこと

愛知県の三河高原の西部、山あいの農村にも例がある。1942年に72歳で亡くなった男性は、頭のよい有力者だった。

集まった親戚たちは、その頭のよさにあやかろうとして、焼けた脳みそをそれぞれ食べたといい、この地方ではそれが骨噛み、骨かじり、骨こぶりと呼ばれた。

語ったのは、その男性の三女にあたる女性で、1907年の生まれ。小学校の教員を務めた人だった。行いは人目を避けて、こっそりと行われたと語っている。

同じ女性は、明治年間までは同じ風習が続いていた、とも証言した。つまり一代前の記憶として、骨を噛む習慣がまだ手の届く場所にあったことになる。

ここで押さえておきたいのは、噛まれた側の顔ぶれだ。長生きをした人、村で敬われていた人、頭のよかった人。誰の骨でもいいわけではなかった。

先行研究と、近藤が投げた問い

この論文は、突然現れたわけではない。先行研究として、藤井正雄の『骨のフォークロア』が1988年に、吉岡郁夫の『身体の文化人類学』が1989年に出ている。

近藤はこれらを踏まえ、考古学の記録にも目を向けた。モースの『大森貝塚』まで引いているのだから、守備範囲は広い。

論文の言葉は、かなり率直だ。日本人が自分を世界有数の先進文明国と思いたいプライドが、この問題を見る眼を曇らせている、と書く。

食人の問題は真剣に議論されているとは言えず、手を出す研究者は猟奇視されがちだ、とも嘆く。だから逆に、秘儀化して連綿と続いてきたのではないか、という見立てまで出てくる。

もう一つ、古くからの民間療法が、庶民の間で幅広く、しかも相当に根強く支持されていた、という指摘がある。骨や灰を薬と考える土台は、思った以上に厚かったわけだ。

骨上げの場に残った、もう一つの習わし

骨を口にする話ではないが、骨上げの場にはほかの習わしもあった。論文には、新潟県の糸魚川の例が出てくる。

2008年7月3日の聞き取りで、山形県の酒田市で密葬をしたあと、糸魚川で本葬をした家の話だった。火葬のときに10円硬貨を一緒に入れて焼き、骨拾いのとき、取り出したものを身内が「お守り」にする。

昔は、穴の開いた古い銭を使っていた。アナモノと呼ぶ。5円や50円の穴開き硬貨を入れたが、溶けてしまうので、やめたという。

骨と一緒に焼けたものを、お守りとして持ち帰る。ここにも、火葬の場に残ったものから力を分けてもらう、という考え方が顔を出す。

噛む、飲む、持ち帰る。形はばらばらでも、骨の場から何かを受け取るという筋は通っている。

組長の骨を噛んだ話は、愛情とは違う

論文には、別の種類の骨かじりも出てくる。暴力団の抗争の中で、射殺された組の会長の遺骨を、その幹部が噛んで、復讐を誓ったという話だ。

出典は溝口敦の『撃滅 山口組 vs. 一和会』で、2000年の本だとされる。1976年に起きた事件の話だ。ほかにも、抗争で殺された組長の骨灰を酒に入れて飲み、復讐を誓ったという新聞報道が紹介されている。

これは、強さを受け継ぐ儀礼とも、愛しさの表現とも少し違う。誓いの道具として、骨が使われている。

近藤は、この種の話の真偽を慎重に扱った。噂の段階にとどまるものは、真偽は定かでない、と断ったうえで載せている。書かれたものがどこまで確かなのかという線引きを、論文自身が読み手に見せながら進めているのだ。

どの例にも共通するのは、死者の骨が、ただの遺物として扱われていない点だ。生きている者の体の中へ、何かを渡すための媒介。

噛んだものは、骨だけではなかった

骨噛みと一口に言っても、口に入れたものは骨のかけらだったり、粉にした骨だったり、灰だったり、焼けた脳みそだったりして、中身には驚くほど幅があった。

淡路島では粉にして分け合い、大島では灰を飲み、三河では焼けた脳みそを食べ、琉球では骨や肉を噛んだと語られている。名前は同じでも、手の動きはかなり違った。

共通しているのは、口に入れる相手が近親者にとって特別な人だったことと、場が身内だけの閉じた席だったことだ。

噛む理由を問われても、語り手たちは長い説明をしなかった。頭がよくなる、丈夫になる、あやかりたい。それだけで足りた。素朴な動機。

理屈を重ねるほど遠ざかってしまう種類の習わしを、あとから言葉にして並べているのが、いまの私たちの立場になる。だから事例の並べ方が、そのまま読み手の想像の幅になってしまう。

強さを受け継ぐのか、別れを惜しむのか

では、なぜ噛むのか。ここは解釈が一つに決まらない。

一つめは、故人の強さや性格を受け継ぐために噛む、という考え方だ。近藤の論文も、長寿を全うした者や崇敬を集めた人物が対象になっている点から、卓越した生命力や能力にあやかろうとする素朴な思いを読み取っている。

二つめは、あまりに別れがたいので、遺骨を食べたいほどいとおしむ、という表現だ。愛情の行き着く先が、体に取り込むことだった、という読み方になる。

三つめは、死者との一体化だ。噛んで飲み込めば、故人は自分の体の中に残る。ふつうの墓参りとは違う回路で、死者と生者がつながる。

四つめは、医療としての側面だ。人灰が万病に効くという話は、民間療法の考え方と重なっている。信じる人にとっては、供養であり、同時に薬でもあったかもしれない。

どれか一つを正解に選ぶ必要はない。決めないままにしておくほうが、資料には誠実に向き合える。同じ村の中でも、同じ家の中でも、人によって意味が違った可能性がある。一つの宗教の教義では、とても説明し切れない。

一人の記憶に頼る、という限界

ここまでの事例には、共通する弱みがある。多くが聞き取りで、語り手は一人か、ごく少数だった。

淡路島の話を語ったのは、大阪市内で働く、島出身の女性。大島の話は、祖母の葬式を子どもの頃に見た学生の記憶だ。当時の学生は7歳か8歳で、実行したのは祖母の姪にあたる63歳の人だった。

三河の話も、一人の女性の証言に支えられている。語られた内容は具体的で、細部に迷いがない。それでも、同じ村の別の家で同じことが行われたかどうかは、これだけでは分からない。

だから事例を足し合わせて、日本中の定説のように語るのは危うい。一つの家、一度の葬式、一人の記憶。その単位を崩さずに読むのが、いちばん安全な読み方になる。

逆に言えば、これだけ違う土地で、似た語りが繰り返し拾われているのも事実だ。点は少ない。けれど、点同士が示す向きは、おおむね揃っている。

葬式の席は、外の人間には見せない場でもあった。記録が薄いのは、なかったからではなく、書かれなかったからかもしれない。ここは推測の域を出ない。

「噛まなければ成仏できない」という話

ネットの記事には、よく見る型がある。骨を噛まないと故人があの世へ行けない。夜になると骨から声がした。神社でお祓いをして清めた、という話も付く。さらに、噛まなかった家に祟りが起きる。

読めば雰囲気は出る。しかし、この話のどれにも、固有の採集資料が付いていない。時期も場所も語り手も、霧の中にある。いつ、どの集落の、誰の話なのか。そこが示されていない。

故人の強さを受け継ぐ、別れを惜しむ。この二つは民俗の解釈として論じられる。祟りの個別談は、確認できていない。

実在した習俗に、あとから怪談を重ねた形に見える。骨という強い素材は、語り手に怪談を作らせやすい。習俗が本当にあったことが、作り話の説得力まで上げてしまう。

資料にないものは、書かない。その線を引いたうえで残るのは、怖さの薄い、しかし深い話だ。死者が生者の体の近くまで来ていた、という話。

骨に声を聞く、という語り方

怪談が骨に集まるのは、分かる気がする。火のあとに残るのは骨だけだ。肉も髪も消え、白くて硬いかけらだけが、炉の台の上に並んでいた。居合わせた者の目に焼き付く光景。

声がした、という話は、その記憶の延長にあるらしい。夜の静けさと、仏壇の前に置かれた骨壺と、まだ生々しい別れの気持ちが重なれば、人は音のない部屋にも声を聞いてしまう。聞こえるはずのない音を聞いたと思う人がいても、不思議はない。

骨噛みの資料には、そういう声の話が出てこない。語られているのは、強さが移る、頭がよくなる、体が丈夫になる、といった実利のある話ばかりだ。怖がる前に、まず分けてもらう。そんな順番だった。

怖さは、あとから乗ったように見える。習俗の意味が薄れ、噛むという動作だけが残ると、人はそこに理由を探す。見つからなければ、祟りや声という分かりやすい筋を当てはめる。

だから怪談版の骨噛みは、習俗の本体ではなく、その影だ。影の形は面白いが、影を測っても本体の大きさは分からない。ここは、はっきり言って別の話だ。

同じ名前の、熊本の郷土料理

もう一つ、混同しやすいものがある。熊本県の人吉、球磨地方には、骨かじりという郷土料理がある。

猪や豚の骨付き肉を大鍋に入れ、水から3時間ほどじっくり煮る。肉が骨から外れるくらいまで煮えたら、塩で味を付けるだけだ。みんなが骨の髄まで吸って楽しむので、この名が付いたと言われる。

もともとは猟師の料理で、猪や豚をさばいたあとの骨に残った肉を使ったのが始まりだという。宴会で出され、焼酎の肴になる。大勢で手づかみにかぶりつく豪快な食べ方が、この料理の売りになっている。

葬送の骨かじりとは別のものだ。同じ言葉が二つの意味を持っているだけで、検索すると両方が並んで出てくる。ここも、混ぜない。

葬式を指す骨かじりと、料理の骨かじりのあいだに言葉のつながりがあるのかどうか。それを裏づける資料は、確認できていない。分かっているのは、同じ名前のものが二つあることまでだ。

死者がいまより近かった頃の話

骨噛みを、怖い奇習として消費することはできる。しかしそれでは、資料の細かさを取りこぼす。

九州から琉球にかけての骨噛みや、肉を分け合う話に共通するのは、死が家の外の出来事ではなかった、という感触だ。家で亡くなり、近所が集まり、骨まで関わる。そういう生活の中で、噛む、食べる、飲むという動詞が、死者へ向かって使われた。

いま、火葬場の骨上げで骨を口に運ぶ人は、まずいない。無断で遺骨を口にする行為を勧める資料も、もちろんない。衛生の面でも、遺族の感情の面でも、現代の葬儀には現代の作法がある。

現在、どこまで実施が確認できるかは、地域ごとに調べる必要がある。ひと昔前まで残っていた、という語りと、いまも行われている、という断定は、別の主張だ。

最後に、近藤の論文の言葉を一つだけ引いておく。これらの行為は、素朴な人間感情の表出であると考えてよい。怖がらせるためでも、隠すためでもなく、ただ別れの重さが、骨のかけらの上に乗っていた。

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