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霊柩車が通ったら、今すぐ親指を握れ ― 「親の指」に隠された死穢の呪術

交差点で、屋根の反った黒い車が止まった

信号待ちの交差点に、屋根の反った黒い車が静かに入ってくる。屋根の上には、社寺の建物を思わせる飾りが載り、窓の奥には白い花が見えた。霊柩車だ。静かな数秒。その車の周りだけ、街の騒がしさが少し遠のく。

そういう場面で手が先に動く人がいて、親指を折り曲げ、残りの四本の指で包んで、拳の中へ隠してしまう。誰に教わったのかと聞かれても、親だったのか学校だったのか、本人が思い出せない場合は多い。気づいたら、そうしていた。

隠す理由を尋ねると、答えがいくつにも割れる。親の死に目に会えなくなるから。親が早く死んでしまうから。魂が入ってくるから。どれも耳にしたことはあるのに、どれが本当かを言い切れる人は少ない。

百科事典の親指の項目には、霊柩車を見たときは親指を隠す、という一文がちゃんと載っている。野犬に吠えつかれたときも隠す、とそこに並び、辞書に入るほど広く知られた習慣だ。ただ、誰もが知っているわけじゃない。霊柩車の項目には「一部にある迷信」という書き方が見える。土地や家によって、教わった形がずいぶん違うらしい。

隠すか、隠さないか。それだけの動作の背後に、死と親と魂の三つが同時に顔を出し、しかも誰も、その順番を決め切れていない。確かめられた範囲だけをたどっても、話は思った以上に長く伸びていく。確かめられないところは、そのまま確かめられないと書いておく。

柩の字は、法令の文書でひらがなになる

霊柩車の「柩」という字は、常用漢字の表に入っていない。だから日本の法令では、「霊きゅう自動車」とひらがな交じりで書かれる。柩は遺体を納めた箱を指す字で、葬儀や法要でもなければ、めったに目にしない。

車の姿が変わったわけじゃない。紙の上の表記だけが、ほんの少し違っている。奇妙な話。

担ぎ棒が消えて、屋根だけが残った

車が生まれる前、棺は人の手で運ばれ、輿に乗せて列を作り、墓地や火葬場へ向かった。徒歩の葬列が一般的で、肩で担ぐ形もあり、死者を埋葬地や火葬場まで見送る行列を、野辺送りと呼ぶ。

輿の屋根には、唐破風が使われた。中央が丸く盛り上がり、両端が反り返る曲線で、寺や神社の門でよく見かける形だ。この輿の屋根が、後の宮型霊柩車の原点になった。その後、棺を大八車のような台に乗せる棺車が現れ、これには二方破風の屋根が付く。

担ぎ棒は消えて車輪とエンジンが付き、屋根の形だけがそのまま残った。屋根は日本の建築の形、下は自動車。一台の車の上で、二つの時代が出会ったわけだ。

人が歩いて運ぶあいだ、列はゆっくり進み、止まり、また進んだ。道で出会った人にとって、葬列は目の前を通り過ぎるまでに時間のかかる出来事だった。

車になると、それが数秒で済んでしまう。見送る暇も無く、黒い車の背中だけが残る、数秒の出会い。親指を隠す動作は、道具も場所も要らず、歩きながらでも信号待ちの最中でも、周りに気づかれずにできる。

1917年の大阪と、1921年の名古屋

宮型を考え出したのは、大阪で駕友葬祭を営んでいた鈴木勇太郎という人物だ。1917年(大正6年)のこと。輿の屋根を車に載せるという発想が、この年に形になった。

もう一つ、日付まで残る記録がある。1921年(大正10年)9月4日、名古屋の一柳葬具店が、新愛知新聞に広告を載せた。外国製の自動車を改造した霊柩車の広告で、そこから当時の車の姿が読み取れる。

昭和の初めには、アメリカ製の高級車パッカードを改造した霊柩車が多かった。もとは上流層の自家用車や官公庁の公用車で、ボディが古びたあとも、エンジンとシャシは使えた。その中古車が、霊柩車のベースに回されたという。

並べてみると、日本の霊柩車の歴史は、大正の十年ほどのあいだに動き出している。輿を担ぐ肩が、エンジンに置き換わっていった時期にあたる。

親指を隠す俗信が、いつ霊柩車と結びついたのか。年代をはっきり示す資料は、確かめた範囲では見つからなかった。1917年の記録は宮型を考えた人のもので、1921年の広告は商いのもの。どちらも、親指には一言も触れない。

江戸の随筆は、爪の間から魂が出入りすると書いた

手がかりをくれるのが、江戸後期の国学者、小山田与清の『松屋筆記』だ。和漢古今の書から章節を抜き出して考証を添えた辞書風の随筆で、文化12年(1815年)ごろから弘化3年(1846年)ごろまで書き継がれた。1818年から1845年にまとめたとする解説もあり、年はわずかにずれる。

もとは120巻あり、今に伝わるのは84巻で、国語や国文、有職故実から民俗まで、約1万の項目が並ぶ。活字本が出たのは1908年(明治41年)で、霊柩車の話は、この本には出てこない。出てくるのは、親指の話だ。

国立国会図書館のレファレンスの回答は、『松屋筆記 第1』(国書刊行会、1908年刊)を、最も古い文献の記録に挙げる。巻二の二十五に、「左右の親指の爪のあいだから魂魄が出入りする」という内容が載るという。解説はこれを受けて、畏怖のときは握り隠す、と説く。死霊や穢れが入らないように、親指を握って隠せという教えだ。

この話の肝は、時代にある。霊柩車が生まれたのは大正で、親指を握って隠せという教えは、それより前の江戸の書物に、もう書かれていた。

ただ、この記述は、紹介する側の解説を経て知った内容だ。原文を一語ずつ確かめたわけじゃない。書名と筆者、巻の位置までを、確かな範囲として扱う。随筆とは、筆者が見聞きした事柄を自由な形で書き留める文章で、小山田与清は、民間の風習まで書き込んだ学者だった。

狐に化かされない、疫病を避ける、葬列を見たら隠す

親指を握る仕草は、霊柩車専用じゃなかった。夜道を歩くとき、親指を中にして握っていれば、狐に化かされない。疫病を避けるには両手の親指を中に入れて握るとよい、という言い伝えが並ぶ。

先のレファレンスの回答にも、霊柩車のほか、疫病や狐など恐い場面で親指を隠す伝承が全国にある、と見える。参考資料に挙がっていたのは、常光徹の『親指と霊柩車 まじないの民俗』(2000年)。

死者のそばで親指を隠す行いは、霊柩車が日本に入る前からあった。そう説く解説もある。亡くなった人のそばを漂う霊魂が、爪の間から入らないように隠した、という筋だ。

江戸の野辺送りのような葬列を見たときに隠す風習が前身で、もとは「車を見たら」でなく「死を送る列に出会ったら」という広い所作だった、という見方もある。

そこへ宮型の霊柩車が現れて、漠然としていた習慣が、具体的な相手を得た。そう読めば筋は通る。ただ、確かめる資料は見つからなかった。

魂が出入りする指は、体の境目だった

魂魄という言葉は、中国の思想から来ている。魂は精神を、魄は肉体を支える働きを指し、人が死ぬと、この二つが体から離れていくという見方があった。親指の爪の間は、その魂魄が出入りする場所だとされた。

そう考えると、死者を運ぶ車や葬列を見たとき、死の気配が親指から入り込む、という想像が成り立つ。握り込む動作は、体に開いた小さな出入り口を、自分の手で塞ぐ形に近い。握ることで気を高めて自分の身を護る、という考え方を添える解説もある。

親指は、邪悪なものに狙われやすい場所だと説明される。爪や指先、中でも突き出た親指は、外の世界と体の内側をつなぐ境目だった。死者の穢れは、そうした境目から生きている側の内へ入り込む。古い死生観では、そう考えられた。

葬儀社や情報サイトの解説には、この魂の出入りの説明が広く並ぶ。ただ、どれも『松屋筆記』のような古い記録を、細かく引いてはいない。出どころの分かる記載は、少なかった。

魂が入る場所の言い方も、解説ごとに少しずつ違い、指の先から入るとも、爪から入るとも語られる。説明はばらばらなのに、動作の形だけは、どれを読み比べても変わらなかった。握るという、同じ一つの握り方。

死穢という言葉が運ぶもの

古い解説が口をそろえて使う言葉が、穢れだ。死は穢れとされ、穢れに触れた者は、身を清めなければならない。触穢と呼ばれる神道の観念で、死穢や産穢などに触れた者は、清浄な身に戻るまで、神事や宮中への参内を控えた。

927年の延喜式には、死穢の移り方を甲乙丙丁と段階に分けた規定が載る。穢れは人から人へ伝わる。そう見て、細かく線を引いていたわけだ。

霊柩車は、死を運ぶ車。死が穢れなら、車そのものが穢れの動く入れ物になり、入り口を塞ぐのは筋の通った反応だった。

葬儀の解説サイトには、神社の前を霊柩車が通るのを避ける、という習わしも語られる。神道では死を穢れと見るから、という説明だ。

死を生活の外へ追い出し、境目をはっきり引く。穢れの考え方には、そんな働きがあった。親指を握る手は、境目を自分の体に引き直す動作。そう見えてくる。

死者の気を避ける習わしは、ほかの葬儀の場面にも出てくる。出棺のときに故人の茶碗を割る風習は、近畿から九州にかけて広く行われ、関東以北にはあまり見られない。この世への未練を断ち切らせるため、と説明される。親指の俗信も、その流れの端に置いて眺められる。

叉手という礼法が、拳の形に重なる

動作の側から見た説明もある。叉手と書いて、さしゅ、あるいはしゃしゅと読み、貴人や神仏へ敬意を示す所作を指す。

辞典の説明では、左の手で右の手を握り、胸の少し前、乳の高さまで上げる形になる。左手の親指を曲げて、残りの四本の指で握る、と書く記述もある。背を折る、膝を折るなど、時代や地域でいくつかの形に分かれた。

もとは中国の民間で起こった俗習で、のちに貴人へ広まった。宗教では、主に仏教、とりわけ禅でよく知られた礼法になる。

葬儀社の解説には、親指を隠すように片手を握り、もう片方の手で覆う礼法だと書くものがある。亡くなった人にも向ける敬意の所作で、それが霊柩車の話に添えられる。形の説明は、解説によって少し違う。

すると、親指を隠す動作は、死者への礼としても読めてくる。魂の出入りを塞ぐ防御と、敬意を表す礼。二つの説明が、同じ握り方の上に重なった。

ここで確かめておく。叉手という礼法があること、親指を隠す俗信があること。この二つは、別々に確かめられる。辞典の叉手の項目に、霊柩車との関連は書かれていなかった。

両者を結ぶ線は、あとから引かれた説明で、直接の古い資料は見つからなかった。叉手が敬意の所作なら、親指を隠す動きは、避ける動作であると同時に、礼を尽くす動作にもなる。避ける読みと、敬う読み。二つの説明は、同じ手の形を、正反対の向きから見ている。

親指という名前は、いつ「親」になったのか

親指は、中世の日本では「おほゆび」と呼ばれた。大指と書く、いちばん大きな指をそのまま言い表した名前で、親という字は、まだ入っていない。江戸時代に「おやゆび」の用例が見られるようになり、呼び名が定着したのは明治時代以後だ。意外なほど新しい呼び名。

よく聞く説明に、親指の「親」を、両親の「親」に重ねる語呂合わせがある。霊柩車は死を強く思わせるから、その前で親指を出したままにすれば、連想が現実になる。親が早死にする。親の死に目に会えなくなる。そういう理屈だ。

「縁起が悪いから隠しなさい」と言われるより、「隠さないとお父さんお母さんが早く死ぬよ」と言われるほうが、子供にはずっと怖い。理屈は単純なくせに、感情に刺さる力が強い。

ここで、呼び名の歴史を並べてみる。親という字を含む呼び名は、中世には無く、江戸時代に用例が出始め、明治以後に落ち着いた。語呂合わせが成り立つのは、そのあとになる。

もちろん、隠す習慣が先にあって、名前があとから寄り添った可能性も残る。順番を決める記録は無い。分かるのは、名前の側が新しいところまで。

別の解説は、言葉の変化をこう見る。もとは自分の身を守るために隠していた。時間がたつうちに、親指と親が結びついて、親を守るために隠す形に変わった。

隠さなかった報いは、筋書きが割れている

もっとも広く語られる報いは、「親の死に目に会えなくなる」だ。死に目は、死ぬ間際、つまり臨終の場面を指す。親の最期に立ち会えない、という意味で使われる。

読み方は、一つに決まらない。親より先に自分が死んでしまい、その結果、親の最期に立ち会えなくなる、という筋書きもある。本来はこちらの意味だった、と説く解説もある。

親が早く死ぬ、という言い方も根強い。不幸が降りるのは、親指を隠さなかった子の側でなく、親の側だ。知恵袋の回答には、隠さないと不吉なことが起こると言われていた、という書き込みも見える。同じ俗信が、ここまで違う筋書きで伝わった。

親の死に目の話は、間に合わなくなる恐怖を突く。親が早く死ぬという言い方は、寿命そのものが縮む、もっと直接的で残酷な筋書きだ。筋書きが割れても、中心にいるのは親という存在だ。人がいちばん恐れる場面に結びつけたから、この話は強く受け継がれたのかもしれない。

「親の死に目に会えない」は、別の俗信にも出てくる。夜に爪を切ると親の死に目に会えない、という形で、俗信の解説では、この二つが並んで例に挙がることもある。禁じられた行いは違うのに、報いの形が同じ。

夜爪を「世詰め」と読む語呂

夜に爪を切る「夜爪」を、「世詰め」と見立てる説明がある。世を詰める、つまり命を詰めて短命になる、という言い方だ。親より先に死ぬから、親の死に目に会えない、という筋で結ばれる。

この語呂合わせは、親指の「親」の説明と、同じ型をしている。言葉の響きを手がかりに、動作と不幸を結ぶ型。語られてきた説明であって、記録で裏づけられたものじゃない。

実用の説明もある。昔は明かりが油火やろうそくしか無く、爪を切る道具も小刀だった。暗いと指まで切ってしまうので、明るい時間に切るよう勧められた、という話だ。

ごはんに箸を立ててはならない。畳のへりを踏んではならない。夜に口笛を吹いてはならない。俗信の項目には、こうした禁止が並び、理由はあまり語られず、決まりだけが先に伝わる。

親指の場合は、江戸の記録に出てくる魂の出入り口という説明が先にあった。語呂合わせの説明は、そこへあとから重なる。説明が先か、動作が先か。ここでも順番は、確かには分からない。

北部九州では、救急車にも手が動く

親指を隠す相手は、霊柩車だけとは限らない。北部九州の一部には、救急車とすれ違うときも隠す、という話がある。対象が広がることで、土地ごとの、死や不吉さへの距離感が出ている、と読む解説も見られる。

知恵袋にも、霊柩車と救急車のどちらで親指を隠すのかを尋ねる質問が立っていた。回答者の一人は、北部九州に住んでいて、霊柩車とすれ違うと親指を隠していた、そうしないと不吉なことが起こると言われていた、と書いている。ベストアンサーは、隠すのは霊柩車のほうで、後ろの部分が金ぴかな御殿のような改造車が多かった、と答えていた。

救急車も、死や命の危機を運ぶ乗り物として受け取られたのかもしれない。そう読むと、核は霊柩車という物そのものにあるのでなく、死や命の危機を思わせる乗り物のほうにある。

土地や家ごとに意味づけが少しずつ違った、と述べる解説もあり、隠す相手も隠した理由も、一つの形には収まらなかった。

野犬に吠えられたときも、親指を隠した

親指を隠す俗信は、野犬の場面にも出てくる。百科事典の親指の項目には、霊柩車を見たときと、野犬に吠えつかれたときが、並べて挙がっている。

知恵袋の回答には、猛犬に出会ったときは親指を中に隠して拳を握りしめ、犬の目をにらむとよい、という言い伝えが載っていた。吠えられたら親指を隠す。そう聞かされて育った人もいたらしい。

二つの場面には、共通点がある。自分ではどうにもならない相手が、目の前に来たことだ。死者を運ぶ車と、吠えかかる野犬。逃げる以外に手の少ない場面で、頭より先に動く、手だけの反応。

夜道の狐や疫病まで含めて眺めると、親指を隠す動作は、霊柩車専用の決まりじゃなかった。恐いものに出会ったとき親指を握って身を守る、その大きな習わしの中に、霊柩車も含まれていたのだろう。

もう一つ、親指の文化に触れておく。日本の身振りで、親指は「男」を意味する。日本の手話でも、男性や、三人称の「彼」を指す形に使われる。親指は、人を指す指でもあった。

バックしない、別の道で帰る

霊柩車には、親指のほかにも決まりごとが語られる。葬儀の解説サイトによれば、霊柩車はできるだけバックをしない。後ろへ下がるのは、戻ること、つまり成仏できずに戻ってしまうことに通じる、という考え方だ。霊柩車は行きだけの車で、火葬のあとの帰りは、遺族が別の車で戻るという説明もある。

もう一つ、火葬場からの帰り道は、来た道とは別の道を通る、という習わしも語られる。霊柩車に魂がついてこないように、成仏できるように、と説明される。地方では、まだ残っている風習だという。

世代による違いに触れる解説もある。四十代の筆者は、この言い伝えを聞いたことがあると書き、三十代以下には聞いたことのない人が多いのではないか、と添えていた。今の十代や二十代には、なじみの薄い風習だとする記事もある。

並べてみると、親指を隠す動作は、これらの習わしと同じ側にある。死者の車に近づかない。戻ってこさせない。穢れを持ち込まない。どれも、生きている側が、自分たちの暮らしを守るための動きだ。

葬儀社の解説は、親指を隠す俗信を、科学的な根拠のある話とは位置づけていない。科学的根拠などない迷信だ、と書く解説もある。民間に伝わる習わしとして紹介し、地域や世代で伝わり方が違うと添える。肯定も否定もしない、距離を置いた書き方だった。

知恵袋の問いと、古来のケガレ

霊柩車は大正時代に出現したが、それ以前は、どうしていたのか。知恵袋には、そんな疑問を投げる質問がある。

ベストアンサーの答えは、日本古来のケガレ精神から来ているようだ、というものだった。死霊やケガレの影響を避けようとする行動の一つ。親指から「親」という語呂合わせで、親の命を心配するのも理由の一つ、と続く。

さらに、親指は体の中で邪悪なものに狙われやすい場所で、霊的なものとの接触箇所として認識されていた、とも書かれている。ここまでに出てきた説明が、ほぼ一つの回答の中に収まっている。

俗信は、迷信とは少し違う

俗信という言葉を、ここで確かめておく。社会に広く流布して伝承されてきた、ものごとの捉え方や考え方を指す、民俗学でよく使われる言葉だ。

迷信と似ているが、同じ意味じゃない。俗信は、必ずしも間違った考えではない。ただ、なぜ正しいのかという根拠が、伝承や社会での流布に頼っている。

親指を隠す俗信に、科学的な効き目があると示す材料は無い。同時に、これを笑い飛ばす理由も要らない。受け継がれた動作として、静かに受け取れる。

説明はいくつも並び、動作はただ一つの握り方。親の死に目、魂の出入り、礼法の形、語呂合わせ。どの説明を選んでも、実際の動作は、握るという同じ形に落ち着く。

屋根のついた車が、少しずつ街から減っていく

宮型の霊柩車は、今は少数派。2015年の時点で、日本には約6,000台が登録され、年に約500台が更新されていた。

ところが、2009年(平成21年)以降に造られた車は、外装の突起を制限する規則を満たせず、同じ形の新車は登録できなくなった。屋根の飾りが、その規則に引っかかったからだ。

火葬場の側にも、変化があった。宮型の乗り入れを断る火葬場が出てきたのだ。解説によれば、150を超える火葬場で規制があり、葬儀場から火葬場へ向かう途中に生活道路を通るため、地元住民の要望で禁止された例もある。

派手さが敬遠された。死を連想させるとして、住民にも避けられる。ベースになるラダーフレームの車が減り、維持や管理も難しい。減った理由は、いくつも重なっている。

その代わりに増えたのが、洋型と呼ばれる霊柩車だ。高級乗用車やステーションワゴンを改造した形で、車体を伸ばしたリムジン型や、ミニバンを改造したバン型もある。ふつうの黒い車に近く、街で見かけても気づかない人が増えた。

数字を割ってみる。約6,000台のうち、年に約500台が更新されるなら、12分の1ほどが毎年入れ替わる計算になる。屋根の反った車は、数字の上でも、街から消えていく途中にある。

ひと目で霊柩車とわかる車が減れば、親指を隠す手も減るのかもしれない。それでも霊柩車は、形を変えて今も走っている。車が運ぶものは、昔も今も同じだ。

車の形は、輿から宮型へ、宮型から洋型へ変わった。親指の呼び名は、おほゆびから、おやゆびへ変わった。変わらなかったのは、握るという小さな動作だけだ。

信号が青に変わり、車が動き出した。黒い車の背中が、交差点の向こうへ小さくなっていく。握った拳の中で、親指だけが、まだ内側にある。

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