毎月24日にだけ開く地蔵堂
願い事の絵馬ばかりじゃない。合格祈願や商売繁盛とは、まるで趣の違う絵馬が、関東の寺や堂にひっそり掛かっている。呼び名は「間引き絵馬」。あるいは「子返しの図」。赤子を押さえつける女と、角を生やした鬼女と、子の魂を天へ導く地蔵菩薩が、生々しい筆でひとつの板に描かれている。
絵馬の起こりは、願いごとのたびに神へ生きた馬を献じた、古い習わしにある。馬の代わりに板へ馬の姿を描いて納めるようになり、やがて馬以外のいろいろな絵も、板に託して掛けられるようになった。願いを預けるための板が、ここでは願いとは正反対の、重い記憶を預かっている。
千葉県野田市の堤台に、子育延命地蔵尊というお堂がある。そこに伝わるのは、幅136センチ、高さ77センチという、絵馬としては破格に大きな額だ。野田市の文化財の説明によると、この絵には間引きを戒める文章が添えられ、絵と文字が一緒に訴える作りになっている。
産まれたばかりの我が子に手をかける産婦と、その子を天界へ導く地蔵菩薩も、はっきり描かれている。子育てと延命を願う堂に、子を手にかける絵が掛かる。祈りの向きが、ここでは二重になっている。
制作は文久3年(1863)で、作者は小林愛山。横幅は1メートルを優に超え、当時の出産の習わしまで、細かく描き込まれている。平成22年(2010)には、野田市の有形民俗文化財に指定された。
見られる日は限られる。公開されるのは、毎月24日に延命地蔵のご開帳がある、その日に合わせたときだけだ。訪ねるなら、この日に合わせて足を運び、絵を見る前に、先に地蔵尊へ手を合わせたい。
浅間の灰が降った年
江戸時代の中ごろから、各地の農村は、何度も大きな飢饉に襲われるようになった。享保(1732)、天明(1782年から87年)、天保(1833年から39年)。この3つが三大飢饉と呼ばれる。冷害、洪水、大風雨と、人の手ではどうにもならない天災が、次々に重なっていった。
天明の飢饉には、浅間山の大噴火という、とどめのような災いが重なった。1783年の噴火で降った灰は、周辺の農村の田畑を、容赦なく埋めてしまう。冷害と凶作は東北でとくに深く、津軽藩では領内の人口のうち8万1100人あまりが、飢えや病気で亡くなったと記録される。全国では、餓死者と病死者が90万人を超えたと伝わる。数字が重い。
藩の台所も苦しかった。諸藩の財政難は、そのまま年貢の重さになって農民へのしかかり、蔵に米を残す余地まで、少しずつ奪っていく。手元に残る米はわずかで、家族を養いきれないぎりぎりの暮らしが、各地の農村で当たり前になっていった。
1787年には、江戸をはじめ全国の各地で、人々の怒りが噴き出すように打ちこわしが続き、世の中が大きく揺れた。老中の田沼意次が失脚へ向かう流れも、このころの米不足と無縁じゃない。飢えは、村の中だけで終わらなかった。
天保の飢饉は、1833年から39年にかけて、足かけ7年も長く続いた。冷害や洪水、大風雨が重なって物価が上がり、下層の農民は田畑を捨てて家を離れ、散り散りになっていく。
苗を抜くように
間引きという言葉は、もともと田畑で使われる、農の言葉だった。育ちすぎた苗や野菜の芽を抜いて、残す株に養分を回す作業を指す。その作業の名を、人は、生まれたばかりの我が子の命に当てはめた。
生まれた子を育てずに命を絶つ。食べる口を減らすための、口減らしと呼ばれた慣行のことだ。特定の村だけの異常な出来事じゃない。当時の農村に広く根を張った、あまりに痛ましい現実だった。
どの子が間引かれたかは、地域によって違ったと伝わる。女の子が多かったという土地もあれば、双子や、生まれ年の縁起が悪い子が選ばれた土地もあった。決まりの形はひとつじゃない。ただ、選ぶ側の家が追い詰められていた点だけは、どこでも変わらなかった。
柳田國男は、少年のころ布川で見た暮らしの不思議さを、後年こう書き残した。どの家も二児制で、1軒の家には、男の子と女の子、あるいは女の子と男の子の2人ずつしかいないという。自分が兄弟8人だと言うと、町の人は目を丸くしたという。
柳田は、そうなった理由にも、飢饉の歴史を踏まえて触れている。あの辺りは飢饉に繰り返し襲われた土地で、食糧が足りなくなったとき、調整のしかたは死以外になかったのだと言う。人工の中絶とは別の、もっと露骨な方式が採られてきたのだと、柳田は言い切る。
禁令を出しても止まらなかった
幕府も藩も、ただ手をこまねいて見ていたわけじゃない。1767年(明和4)には禁令が出て、生まれた子を産所で殺すことも、堕胎も、間引きも、はっきり止めさせようとした。禁令の文言は、間引きを「不仁の至り」と呼ぶほど強いものだったと伝わる。それだけ、出産の場で子を殺す例が珍しくなかったという裏返しでもある。
禁じるだけでは足りなかった。産着の料や養育の手当を出す「赤子養育仕法」が、農村荒廃への手当てとして、各地の藩で広がっていく。会津、仙台、秋田、鹿児島など、東北や九州の藩が熱心に取り組んだ。農村の人口を保ち、減った分を取り戻していくための政策だ。
白河藩を治めた松平定信も、1780年代の藩政の中で、間引き対策に手を打った。養育の手当を出したほか、浄土真宗の土地柄で間引きが少ないとされた越後から、人を迎え入れる施策も、よく知られている。
米沢藩主の上杉治憲(鷹山)は、17歳だった1767年に藩主になった。大倹約と殖産興業を進めて、財政の傾いた藩を、少しずつ立て直していく。米沢市は、天明の飢饉でも領内から1人の餓死者も出さなかったと紹介している。凶作に備えて、野草およそ80種の調理法を記した『かてもの』も作らせた。
でも、これは稀な成功例だ。多くの農村は、貧困と飢えの連鎖から抜けられない。間引きは慣習として、そのまま温存され続けた。
越中から来た百姓たち
北関東の農村は、江戸への人口流出と間引きが重なって、年ごとに細っていった。田畑を耕す手が足りず、荒れたまま放っておかれる土地が、目に見えて増える。そこへ北陸から、浄土真宗の門徒たちが入ってきた。
加賀藩では、1693年に始まった切高仕法で小農民の土地が少数の家に集まり、零細な自作農が増えた。浄土真宗の教えが間引きを厳しく禁じて浸透していた土地でもあり、農村は逆に人口が余る状態になったと説明される。余った人たちは、出稼ぎや移住という形で、故郷の外へと動いていった。
越中の砺波郡からの移民が最も多く、加賀や能登の人も加わった。下野の真岡のあたりでは、1807年までに300戸、1700人あまりを、荒れた田畑の担い手として受け入れたという。相馬中村藩は、幕末までに3000戸を迎えたと伝わる。
常陸や下総にも入植先があった。間引きで人が減った土地へ、間引きを禁じた信仰の土地から人が流れ込む。同じ列島の中で、子を育てるかどうかの考え方が、これほど違っていた。
「子返し」という言い方
手がかりは、言葉に残っている。当時の農民が間引きをどう受け止めたか、その答えは「子返し」という、たった1語に詰まっている。生まれた子は、神仏からこの世へしばらくのあいだ預かった存在。育てられない事情があれば、神仏のもとへ送り返す。そういう考え方だった。
「殺す」とは言わず、「送り返す」と言う。単なる殺人という感覚とは、まるで違うものとして受け止められていた。魂があの世とこの世を行き来するという、当時の生命観や宗教観に根ざした、苦渋の儀礼として位置づけられていたのだ。ここだけは、読み飛ばさないでほしい。
背景には「七つ前は神のうち」という古い言い回しがある。7歳になるまでの子は、まだこの世に完全には定着していない。乳幼児の死亡率が今とは比べものにならないほど高かった事情も、この考え方の根っこにあった。
歴史人口学者の鬼頭宏は、江戸中後期の濃尾地方について、乳児の死亡を、1000人の出生あたり150人から190人ほどと見積もっている。赤子の命は、それほどまでに不安定で、いつ消えてもおかしくなかった。
だから「送り返す」という発想は、共同体の中である種の免罪符として働いた。正直、その面は否めない。罪の重さを、言葉の側がどこかで和らげてくれる。そういう働きがあったのは確かだ。言葉が、罪を薄めた。
それでも話は終わらない。各地に絵馬や供養塔が残されているのは、農民たちがこの行いを決して軽んじていなかった証しだ。胸の内には、深い罪悪感と悲しみがあった。二度と繰り返してはならないという戒めの意識も、同じ胸の中にあった。
布川の丘の地蔵堂
いちばん広く知られているのは、茨城県利根町の徳満寺に伝わる間引き絵馬だ。利根川の河畔、布川城址の丘にある寺で、地蔵堂が建つ。元禄年間(1688年から1703年)に京都の六波羅蜜寺から地蔵菩薩像が持ち込まれ、それがいまの本尊になったと伝わる。
寺には、毎年ご開帳の日が来る。ご開帳の折には、境内で地蔵市が開かれ、寺は人出で賑わう。本尊は、高さ2.2メートルほどの木彫りの地蔵で、絵馬は、その地蔵の堂とともに語られてきた。
利根町の説明では、この絵馬は、水害と天明の飢饉に襲われた当時の農民の、あまりに悲惨な暮らしを描いたものだという。母親が、必死の形相で生まれたばかりの子の口をふさいでいる。見る側が息を詰める場面だ。
この絵馬が民俗学の資料として報告されたのは、木村博の1965年の論文だと、国際日本文化研究センターの資料にある。地蔵堂の入口に掛かっていた1枚の額が、ようやく学問の目で見られるようになった。
13歳の柳田國男が見たもの
柳田國男が布川に来たのは、明治20年(1887)の秋の初め。13歳の少年は、長兄の鼎が開業していた町に身を寄せて、そこで2年あまりを過ごした。
河畔の地蔵堂には、絵馬が掛かっていた。柳田は『故郷七十年』に、その図柄を書き残している。産褥の女が鉢巻を締めて、生まれたばかりの嬰児を抑えつけている。障子には女の影絵が映り、その影には角が生えている。傍らで、地蔵様が立って泣いている。
地蔵堂は、利根川のほとりに建つ。足利の時代に土豪が築いた城の跡で、空濠が残っていた。絵馬は、堂の入口の右手に1枚だけ、彩色されて掛けられていたという。
柳田はこう続けた。その意味を、子供心に理解し、寒いような心になったと。13歳の目で見た絵は、半世紀以上たっても、そのまま言葉になって出てきた。
利根町は、この絵馬と、赤松宗旦の『利根川図志』と、現地での体験が、のちに民俗学を志す原点になったと説明している。
『利根川図志』は、安政5年(1858)に出た全6巻の地誌だ。著者の赤松宗旦は、天保9年(1838)に故郷の布川へ移り住んだ人だった。第1巻は総説で、利根川の源流とされた上野と越後の境の文珠山から語り起こす。第2巻から第6巻までは、中流の古河から、太平洋に注ぐ銚子まで、川を下るように描いていく。柳田は昭和13年に、岩波書店から頼まれて、これを校訂して覆刻した。
地蔵堂のそばには、金比羅様の祠と広場があった。毎年春になると、土地の景気づけに金比羅角力が催される。その広場には、江戸の俳人、小林一茶の句碑が建っていた。刻まれた句は、「べつたりと人のなる木や宮角力」だ。
柳田は、あとになって調べて分かったことも、ちゃんと書き留めている。土地の古田という問屋の隠居が一茶に師事していて、一茶は年に2、3回、ここへ来たのだという。
飢饉のほうの記憶も、本人が書いている。明治18年、北条町で出会った飢饉だ。それがおそらく日本における飢饉の最後のものだっただろうと、柳田は振り返る。
子供心に、こうした悲劇が度々起こってはたまらないと思った。それが、学校を出るまで「三倉」、つまり義倉と社倉と常平倉の研究をやった動機だと、柳田は『故郷七十年』の中で書いている。
昼の星を見た庭
布川での柳田には、もうひとつ有名な話がある。身を寄せた小川家は、代々続く医者の家で、蔵にはたくさんの本があった。少年は、そこで手当たり次第に読んだ。柳田はこの時期を濫読の時代と呼び、故郷の辻川の三木家に次いで、布川の小川家が2度目の濫読の時代をくれたと振り返っている。
その屋敷の庭に、祠があった。亡くなった家の祖母を、屋敷の神様として祀ったものだ。柳田は好奇心から、祠の扉を開けてしまう。
中には、手のひらに握れるほどの大きさの、きれいな蝋石の珠が入っていた。祖母は中風で寝ついてから、その珠をしょっちゅう撫でまわしていたという。それから2、3週間がたったころ、庭で穴を掘っていた柳田は、よく晴れた青い空を見上げた。
すると、昼なのに星が見えた。数十もの星が、点々と光っていたと書いている。柳田自身が、あれはたしかに異常心理だったと思うと振り返った。
そのとき、高い空で鵯がピーッと鳴いて通った。身がぎゅっと引きしまって、ようやく人心地がついたそうだ。あの時に鵯が鳴かなかったら、気が変になっていたのではないかと、柳田は後年に語っている。
間引き絵馬を見て寒くなった少年が、祠の珠と昼の星にも出会った町。布川は、そういう場所だった。
障子に映った角
各地に現存する間引き絵馬は、描き方にどこか共通の型を持っている。中心に女がいる。赤子を押さえつけるその女には、角が生えている。顔つきは、まさに鬼女の形相だ。
狭山市の説明が分かりやすい。絵には、産まれたばかりの子を子返しする女性と、その心が「鬼女」として描かれているという。体は人のまま、心の中だけが鬼になっている。そう読める。
ただ責めるための鬼じゃない。手を下した者を悪魔に仕立てて糾弾するより、間引きに手を染めざるを得なかった母親自身の苦しみを描いた、と考えられている。貧しさと絶望の中で理性を失い、人ならざるものに変わるしかなかった母の姿だ。
母は本来、慈しむ側の人だ。それなのに、極限の貧しさが母性そのものを鬼へ変えてしまう。この痛ましい変貌を、絵馬は見る者へまっすぐ突きつけてくる。
鬼の傍らには、多くの場合、慈悲深い地蔵菩薩が描かれる。間引かれた赤子の魂を引き取り、天界か浄土へ導く姿が、鬼女と対になるように置かれている。絶望した母と、慈悲の地蔵。2つが同じ画面に並ぶ。
太田の額は資料館で守られている
群馬県太田市の青蓮寺にも、間引き絵馬が伝わる。鎌倉時代の弘安年間(1278年から88年)に時宗へ改められたという古い寺で、額は「子返し図」の名でも呼ばれる。額には、産婦が子を手にかける様子と、鬼の姿が、横に並べて描かれている。
描かれたのは、天保4年から7年(1833年から36年)にかけての、全国的な大飢饉のころと考えられている。田畑を捨てて散った農民たちの時代に、生まれた1枚だ。
太田市は、1984年12月24日に、この額を市の重要有形民俗文化財として正式に指定した。市の合併を経て、2005年3月28日に改めて指定している。いまは新田荘歴史資料館に寄託され、大切に保管されている。
群馬県内でも数少ない、歴史と民俗の両方を伝える、たいへん貴重な資料だ。亡くなった子らへの供養を、1枚の額が背負い続けてきた。
狭山の浅間神社には、歌が添えてある
埼玉県狭山市の柏原白鬚神社の境内に、浅間神社がある。社殿の内陣の左側に、絵馬「子返しの図」が掛かる。縦44.3センチ、横81.7センチ。ちなみに、野田の額と並べると、横幅は6割ほどだ。桐の板に彩色した扁額で、江戸時代末期の作と、願主の名から推定されている。
1986年11月1日に、狭山市の有形民俗文化財に指定された。同じころに作られた「陰陽和合図」と、1対になる額だと、市は説明している。
添えられた墨書が重い。声に出して読める歌だ。1首めは、「足らぬとて まひ(間引)くこころの 愚かさよ 世に子宝と いふをしらすや」。2首めは、「罪は身に むくうとしりて 天よりそ さつけたまわる 子かえしをすな」。
足りないからと間引く心は愚かだ。子は宝だと、知らないのか。罪は我が身に返ると知れ。子は天から授かるものだから、子返しをするな。歌は、そう詠んでいる。
鬼の母は、栃木にもいる
栃木県の那須烏山市にも、間引絵馬がある。文政8年(1825)の6月に描かれた杉板の額で、縦77センチ、横134センチ。野田の額と、ほとんど変わらない寸法だ。所在は那須烏山市滝の太平寺で、いまの管理は、宇都宮市の宝蔵寺だという。
絵は、浮世絵風だ。目をそらしたくなる絵でもある。鬼の形相をした母親が、両手で赤子の手を押さえ、右足で赤子の腹を踏みつけている。凄惨さを隠さない筆で、描き手も奉納した人も分かっていない。
添え書きには「禽獣すら子を愛することを知る、いわんや人間をや」とある。鳥や獣でさえ子を愛しむ、まして人が、という意味の文句だ。昭和37年(1962)3月8日に、市の指定を受けた。江戸後期の飢饉と人口減少の時代に、領主が間引きをなくそうとした歴史を背負う資料だ。
宇都宮市には、天保14年(1843)に絵師の法眼祐真藤原梅景が描いた、間引き図絵馬が伝わっている。地元の名主が奉納し、村の人へ間引きの悪行を戒めるために作られたと考えられている。江戸時代の宇都宮藩は、間引きを止めさせる教育に、とくに力を入れていた。昭和63年(1988)3月22日に、市の指定を受けている。
野田、利根、太田、狭山、那須烏山、宇都宮。千葉、茨城、群馬、埼玉、栃木の寺や社に、同じ筋の額がぽつぽつと残る。どれも江戸時代の農村が抱えた、苦しい現実の記録だ。
絵が語り、歌が語り、文が語る
なぜ、こんな絵を、寺や堂の目立つところに掛け続けたのか。理由ははっきりしている。村人みんな、とりわけ妊娠や出産を控えた女たちへの、強い戒めのためだ。文字を読めない人が多かった時代、絵は言葉より早く、「二度と繰り返してはならない」と伝えた。
絵だけじゃない。野田の額には戒めの文章があり、狭山の額には歌があり、那須烏山の額には「禽獣すら」の添え書きがある。目で見て、耳で聞いて、口に出して覚えられる形に、戒めを仕立てていた。
もうひとつの顔が、供養だ。すでに間引かれてしまった数えきれない幼い命へ向けた、せめてもの供養として、各地の絵馬は掛けられていた。地蔵が子の魂を導く図が、多くの絵馬に添えられているのも、そのためだ。
断罪だけでは終わらない。犠牲になった子らの魂が、浄土で安らかであるように。そんな切実な祈りが、1枚の絵に同居している。野田の額も徳満寺の絵馬も、子育てや延命の地蔵を祀る堂とともに伝わる。供養と戒めは、切り離せなかった。
間引きが消えていくのは、明治に入ってからだ。出生が戸籍に記録され、子が国に記される存在になって、家の事情だけでは扱えなくなった。千葉県の初代県令の柴原和は、妊娠の届け出と、乳児の養育の手当の仕組みを作ったと伝わる。明治2年(1869)には日田県で、貧しい子や捨て子を守る養育館が開かれた。だが資金が続かず、1873年に廃止された。
絵馬の前で聞く泣き声
ここから先は、裏の取れない話になる。先に断っておく。出どころまでは確かめられない。そういう話が伝わるという形で、書き留めておく。怖がらせるためじゃない。
1つ目は、茨城県の60代の女性の話だ。子どもの頃、祖母に連れられて古い寺へ参り、本堂の隅に掛かった絵馬を見てしまった。角の生えた女の絵だった。その夜、布団の中にいると、赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。家に赤ん坊などいない。
声は壁の向こうから確かに聞こえ続け、朝方になって、ようやく静まったという。祖母に話すと顔色が変わった。「あの絵馬を見た子は、しばらくお参りを続けなさい」。祖母は、それ以上は語らなかった。
2つ目は、千葉県の40代の男性の話。郷土史の調査で古い地蔵堂を訪ね、扉の隙間から中をのぞくと、暗がりの奥に絵馬らしき輪郭が見えた。彼はカメラを構えた。
シャッターを切った瞬間、記録に赤子の泣き声のような微かな音が混じっていたという。後日、分かったことがある。その堂の絵馬は、間引きの図だった。地元の古老は「あの声は、まだ迷っている子らの声かもしれない」と、静かに語ったらしい。
3つ目は群馬県の話。30代の女性が、資料館に寄託された間引き絵馬を見て、帰り道の駐車場で車に乗り込もうとした。後部座席に、赤ん坊を抱いた女性の影が、ぼんやり映って見えたという。
振り返ると、誰もいない。女性は今も、「あれは絵馬に描かれていた女性そのものだったのではないか」と話す。以来その資料館へ行くたびに、必ず地蔵堂へ手を合わせてから帰る。
鬼女の目
鬼女の母は、怪物じゃない。貧困という時代の構造が生んだ悲劇の姿で、日本の農村がくぐり抜けてきた、極限の貧しさの記録でもある。その中でなお失われなかった、人の良心の痕跡でもあった。
柳田が見た絵では、地蔵が泣いていた。狭山の墨書は、子は天から授かるものだと詠む。野田の額は、毎月24日の延命地蔵のご開帳に合わせた日にだけ、人の目に触れる。
鬼女の目は、悲しげだ。その目が、いまも各地の堂の暗がりから、訪れる者を静かに見つめている。
