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人柱――建設犠牲伝説と史実性の境界

橋のたもとに碑が二つ並んでいる

島根県の松江を流れる大橋川に、松江大橋という橋が架かっている。南のたもとには源助公園という小さな公園があり、園内に並ぶ2つの石碑には、足軽の源助と技師の深田清の名が刻まれている。2人のあいだには300年以上の開きがある。

それでも並んでいるのには、わけがある。橋の下に人が埋められたという話が、この土地で古くから語られてきた。人柱の伝説。工事の成功と引き換えに誰かが犠牲になるという筋が、橋のたもとの石にまで刻まれている。

人柱とは、橋や堤防や城のような難工事を成功させるため、人を生き埋めにして神へ捧げることを指す。ネットや創作の世界では、古代に本当にあった儀礼として描かれやすく、各地の霊やうめき声と結び付ける話も、数え切れないほどある。話を進める前に、確かめられることと確かめられないことを分けておく。

マチのない袴で最初に橋を渡った男

始めは松江大橋の話。出雲・松江の城下を流れる大橋川に、藩は橋を架けようとした。大橋川は宍道湖から中海へ注ぐ川で、城下の南北をつなぐ橋は、暮らしの命綱でもあった。何度架けても、洪水のたびに橋脚が流されてしまう。工事は難航を極めたという。

人足たちのあいだに、ささやきが広がっていった。川の主が怒っているのだ、と。誰が言い出したともなく「人柱を立てねばこの橋は完成しない」という話がまとまってしまうところが、何より怖い。悪人など1人もいなかった。

選び方は残酷なまでに単純だった。翌朝、袴の紐(マチ)のない袴姿で最初に橋を渡った者を、人柱にする。くじも理由もなく、決め手は偶然だけ。

その条件に当てはまったのが、源助という足軽だ。彼は普段どおりの姿で橋に来ただけで、その日から生きて還れない身になるとは、夢にも思わなかったはずだ。何も知らずに渡った橋の上で、運命が決まった。

人足たちは源助を取り囲み、有無を言わさず木箱に押し込めた。抵抗する間もなかったと伝わる。箱は橋脚の下に据えられ、上から土砂と石が積まれていった。

橋は無事に完成した。二度と流されることはなかったという。中央の橋脚は、いつからか「源助柱」と呼ばれるようになる。人柱の名が、そのまま橋の部品の名になった。

「源助柱」という呼び名は、人柱になった足軽の名を、そのまま柱に付けたものだ。名前の伝わる犠牲者だからこそ、橋脚に名が付き、橋のたもとの碑にも、その名が刻まれた。顔も声も伝わらない人の名。

この話には別の語り方がある。マチのない袴の者を人柱にしよう、と言い出したのが源助本人だったという型だ。自分で出した条件に自分が当てはまってしまうという皮肉の利いた筋立てで、長柄橋をはじめ、各地の橋の話にそっくりな型が見つかる。長柄橋の話は『南方閑話』にも載る。水神のために人柱が必要とされた、という筋だ。

橋そのものの記録。初代の松江大橋は、堀尾吉晴が松江城の築城に合わせて、1607年に工事を始めた。完成は翌1608年、慶長13年にあたる。洪水や事故で何度も架け替えられた末に、現在の橋は17代目となった。

初代のあとも、橋は姿を変え続けた。京極忠高の時代の1637年に2代目が架けられ、1891年の15代目は近代的な鉄のトラス橋になる。1911年の16代目は、鋼の桁橋。木の橋が鉄の橋に変わっていっても、橋脚の下に人が埋まっているという話は、語り手を失わなかった。

昭和の源助と呼ばれた技師

時は流れて昭和12年(1937年)、老朽化した橋の架け替え工事が行われた。今の橋が竣工した年。工事そのものは、2年前の1935年に始まっていた。

完成の前の年、昭和11年の9月に、現場監督を務めていた島根県の技師、深田清が、橋脚の工事中に命を落とした。落ちてきた鋼鉄の道具で頭を打ったと伝わる。

事故が起きたのは、橋脚の基礎に当たるケーソンと呼ばれる函の中だった。川の底へ橋を据える仕事は、今も昔も危険と隣り合わせだ。橋の下で人が命を落とすという形が、新聞の見出しに「昭和の人柱」という言葉を呼び込んだ。

亡くなった場所は、かつて源助が埋められたとされる場所のすぐ近くで、新聞が黙っているはずもなかった。「昭和の源助」「昭和の人柱」という見出しが並び、事故は大きく書き立てられた。

橋のたもとの南側公園には、源助と深田の2人の名を刻んだ石碑が並んで立つ。冒頭の碑がこれだ。深田の胸像が橋脚に埋められているとも伝わる。伝説の人物と実在の技師が、同じ場所で追悼されているわけだ。

深田清の死は記録に残る出来事だが、一方の源助の話を裏づける同時代の文書は、今のところ確認できていない。碑は2つ並んでいても、それぞれが拠って立つ重みの種類が違う。

洪水、地すべり、水神、母子

松江の話は、日本にある人柱伝説のごく一部にすぎない。人柱伝説は全国に多数採集され、民俗学や比較民族学の研究対象として、長いあいだ調べられてきた。事例の数は、数えるだけで骨が折れるほど。

話の筋には、くり返し現れる型がある。工事が崩れる。洪水が起きる。地すべりが止まらない。水神が怒って、そこへ旅人や母子や僧侶が通りかかる、という流れだ。

地域ごとに伝説を集めて整理するデータベース化も、行われている。型で分類できるほど似た話が各地に散らばっているので、「人柱という伝説が広く存在する」ことは、確認できる。

数字で見た研究もある。笹本正治は、堤防の人柱を130事例と数えた。内訳は、川の堤防が43、井堰の堤防が37、池や沼の堤防が33、海の堤防が4、不明が13だ。

川の堤防だけで43にのぼり、井堰の堤防を加えると、流れる水を扱う工事が80を数える。ほかに新田開発や干拓が20事例、橋が26事例、築城が13事例という集計もある。橋と築城を足しても39にしかならず、堤防の130はその3倍を超える。人柱の話は、城や橋よりも、水を相手にする土木の現場で最も多く語られた。

笹本によれば、人柱伝説の姿は中世の中頃に広まり、戦国時代には誰もが知る話になっていたらしい。江戸時代の寛文から延宝のころをピークに、話は減っていく。寛文は1661年から、延宝は1673年から始まる元号だ。減った理由は、土木の技術が進んで人々の考え方も変わったためだという。

伝説は工事の現場とともに生きていたので、現場の仕組みが変われば、語りの出番も減っていく。人柱の話が少なくなるのは、人の心が穏やかになったからではなく、橋や堤を支える手立てが増えたからだ。

源助は橋、旅の僧は地すべり、お静は城、強頸は堤と、舞台は違っても、誰かが埋められて難所が収まるという形は同じだ。型の一致は、事実の証拠にならない。個々の話の真偽は、型とは別に確かめるしかない。

池や堤の名を拾うだけでも、長い列ができる。入ヶ池、比夜叉池、一ノ谷池、吉原大池、権現堂堤、龍蔵堤、舌喰池、女堰、亀の子堰。名前を読むだけで、水の工事と犠牲が結び付いていたことが伝わってくる。

橋の側にも名前が並ぶ。尾張国の尾頭橋には僧侶の話があり、名古屋市熱田区の花町には七橋供養碑が建つ。信濃国の犀川に架かる久米路橋、下野国の幸来橋、おまん橋、夫婦橋。どれも土地の人が語り継いだ橋の名。

日本書紀の堤にも人柱の話がある

文献をさかのぼると、人柱という言葉は『平家物語』に出てくるのが最初だと考えられる。17世紀に出た『日葡辞書』にも載っている。話そのものは、もっと古い。

『日本書紀』は720年に成立した歴史書で、仁徳天皇の時代の話は、それよりずっと前の出来事として書かれている。その仁徳天皇11年の条に、茨田堤の話がある。堤を築くたびに崩れてしまうので人身御供が求められ、指名されたのは、武蔵国の強頸と、河内国の茨田連衫子の2人だ。

強頸は泣き悲しみながら川に沈められて堤は完成し、衫子はヒョウタンを使った機転で、難を逃れた。人柱の起こりとして語られる、最も古い部類の話。江戸時代の『摂津名所図会』には、強頸の跡として絶間池が出てくる。

大阪市旭区の千林2丁目には、「強頸絶間之址」の碑が建つ。古代の話が、住宅地の一角に石として立っている。

江戸時代に入っても似た話は生まれ続け、伊勢国度会郡の宮川堤には、寛永10年(1633年)の話がある。人柱を立てねばならないという相談を聞いた松井孫右衛門が、自分から名乗り出た。

孫右衛門は竹筒を通した棺に入れられて土の中に埋められ、3日目には、筒から聞こえていた鐘の音も絶えたという。三重県伊勢市の中島には、孫右衛門を祀る社と山口誓子の句碑がある。命日とされる8月25日には、顕彰会による祭典が営まれる。

母と幼子を埋めた堤の梅

下総国印旛郡の大竹村には、坂田ヶ池の話がある。江戸時代、堤は毎年のように壊れていた。そこへ幼い女の子を背負った女が通りかかり、この子と一緒に埋めてほしいと願い出る。

堤は、それから決壊しなくなったという。やがて堤には梅の木が生え、果肉が半分しかない梅の実がなった。「片歯の梅」と呼ばれる木で、千葉県成田市の坂田ヶ池総合公園に、今もその梅がある。

先ほどの「母子」の型は、こういう話を指す。民俗語の辞典には、子連れの者が選ばれるのは母子神信仰に関わる、という説明がある。下級の神人や盲僧、六部、比丘尼が橋や峠で行った供養が源だ、とする説も添えられている。

海にも例がある。平安時代の末、平清盛が日宋貿易の港である大輪田泊を築いたときの話だ。30人の罪なき人が人柱にされかけたのを、侍童の松王丸が止めたと伝わる。

人柱の代わりに、経文を記した石を海に沈めた。こうしてできた人工島が、経が島。別の語りでは、松王丸自身が入水したともいう。清盛が弔いに建てたのが神戸市の来迎寺で、境内には「松王小児入海之碑」が立つ。

天守の中柱の下に眠るお静

城にも人柱の話は多い。戦国の城を研究する小和田哲男は、城郭の人柱伝説が最も多いと指摘した。工事が難航して立てる型と、祈願のために立てる型があり、志願する型と、拉致される型もある。

福井県の丸岡城には、お静の話がある。片目のお静は、2人の子を抱えて苦しい暮らしをしていた。1人の子を侍に取り立ててもらう約束で、天守の中柱の下に埋められたと伝わる。

福島県の白河小峰城では、寛永6年(1629年)の丹羽長重による改修の際、本丸の石垣が何度も崩れた。石工の提案で人柱が決まり、最初に城へ入る娘が選ばれる。作事奉行、和知半三郎の娘のおとめだった。

埋められた場所には桜が植えられて「おとめ桜」と呼ばれ、戊辰戦争で焼けたあとも、二代目の桜が白河小峰城址に根づいている。伝説が植物の名で生き延びた例。

近江の長浜城には、天正2年(1574年)の築城時の話がある。城下一の美女、おかねが人柱に選ばれ、「おかね堀」の名が付いた。漁師の娘のきくが、妹をかばって自分から人柱になったという別の話も伝わる。

大和の郡山城にも、慶長7年(1602年)の築城にまつわる話がある。盆踊りで集めた人の中から、美しい娘のおさよが密かに連れ去られ、人柱にされた。盆踊りの娘がさらわれる筋は、全国の城に似た形で分布する。

松江城にも話がある。堀尾氏が城を築いたとき、毎晩美しい声で唄いながら通る娘が、人柱にされたという。城主が相次いで亡くなって家が絶えたと続く語りもあり、祟りの話と結び付いている。この話は『南方閑話』に載る。

熊本城の土の下から出た人形

では、城の工事で本当に人が埋められたのか。小和田は、全国の多くの城が発掘されたのに、人柱だと断定できる例は出ていないと述べた。城の人柱は立証された事例が1つもないという見方を、井上宗和も示している。

代わりに見つかるものがある。熊本城、尾張国の岩倉城、福井の一乗谷朝倉氏遺跡から、呪術のために埋めたとみられる人形が多数出ているのだ。生きた人間の代わりに、人の形をした物を埋めた可能性が指摘される。

研究者のあいだでは、築城の工事で人柱を立てることはなかった、という見方がほぼ定説に近い。石や動物の骨が埋められた例なら、いくつも報告があり、人柱の伝説と埋納の習わしは、別の線の上にあるらしい。

人形が出た意味は大きい。生きた人を埋める代わりに、人の形をした物を埋める習わしが、城づくりの現場にあった可能性を示すからだ。伝説は人を埋めたと語り、発掘は人形を見つける。この食い違いが、研究者を慎重にさせてきた。

例外のような場所が、大分県速見郡日出町にあった日出城だ。昭和30年代、遊歩道の工事で石垣の下の岩盤の穴から、遺体を納めた木棺が見つかった。南西の石垣は地盤が弱く、方角でいえば裏鬼門にあたる。

日出城の築城は、慶長6年(1601年)。木棺は、そのときの人柱だった可能性が高いと見られている。令和5年(2023年)9月にも、地元の資料館の館長がそう語ったが、確定と言い切るには、年代と埋葬の状況を確かめる作業が要る。

江戸城の石垣から21体の人骨

大正14年(1925年)6月、江戸城の伏見櫓の修復中に、16体の人骨が出た。7月には5体が加わって合わせて21体になり、人骨には、開元通宝や永楽通宝といった古い銭が載せられていた。開元通宝は唐の時代、永楽通宝は明の時代に、中国で造られた銭だ。

新聞は人柱の発見と書き立てた。調査を担当した東京帝国大学の黒板勝美は、6月30日付の東京朝日新聞で「人柱とは考えられない」と発表する。埋め方が粗末で乱れていて、数も多すぎるというのが理由だった。

黒板の考えは、建築中の事故で亡くなった人を埋めたのではないか、というものだ。これに喜田貞吉が噛みついた。『中央史壇』で発言の矛盾を批判し、人柱説を支持したのだ。

のちの研究者には、別の説を唱える人もいる。慶長期の築城より前に、城内にあった寺の墓地の人骨ではないか、という見方だ。同じ21体の人骨が、人柱とも、事故で亡くなった人とも、寺の墓地の死者とも読まれてきた。

民俗学者の柳田國男は、江戸城の調査は皇居に近いために十分にはできなかったと述べている。人骨が出た事実と、人柱だったという判断のあいだには、深い溝がある。

大甕の中に座っていた旅の僧

新潟県上越市の板倉区には、人骨が出て伝説と結び付いた例があり、人柱供養堂と人柱塔人骨がその舞台になっている。昭和12年、寺野村の正浄寺で、村人が客土を掘っていた。松江大橋が架け替えられた、あの年と同じだ。

掘り出されたのは大きな甕。中には、座禅の姿をした人骨が入っていた。寺野村は、のちに旧板倉町へ合併した村だ。古くから地すべりの多い土地で、旅の僧が来て人柱になり、地すべりを止めたという伝説が語られていた。

村人は毎年7月に、その旅の僧の供養をしてきたという。伝説は本当だったのだと村は受け止め、この発見は全国的にも珍しいものとして知られるようになった。感謝の気持ちから、人柱堂が建てられた。堂の建つ場所は、平安の初めに天台宗の正浄寺があった土地だという。寺はのちに栃木県へ移った。

昭和36年に新潟大学医学部が人骨を調べたところ、結果は、関西系の40から50歳くらいの男性というものだった。旅の僧という伝説と、よく合う内容ではある。

これで話が決着したわけではない。この人骨が誰によって、いつ、どんな事情で甕に納められたのか。確かめる点は、年代と埋葬の状況、そして考古学の評価。個別に当たるほかない。伝説と人骨が結び付くことと、人柱の実証は別の話だ。

人骨が出たら人柱になるのか

人骨が出たときに確かめることは、おおよそ決まっている。いつの時代の骨なのか。どんな姿勢で、どう葬られていたのか。骨の数はいくつで、何が添えられていたのか。江戸城の伏見櫓では数と埋め方が争点になり、日出城では築城の年代が手がかりになり、板倉では骨の主の素性が調べられた。

ここまでの例でわかるように、伝説の存在と実際の生贄埋葬は同じではない。辞典類も、日本に伝説は多いと書く。実行の有無は定かでない、とも書く。

工事現場から人骨が出ることはある。災害で亡くなった人もいれば後の世に建てられた供養塔もあり、そうしたものが、人柱の証拠として読み替えられる場合がある。

ネット上には、いくつかの噂が流れている。城壁や橋脚の下から人骨が出れば、それは人柱だという話。人柱の霊が工事を守る、あるいは災害を起こすという話。最初に通りかかった者や、特定の身体の特徴を持つ者が選ばれたという話もある。

最後の型は、各地の伝説の型として残しておける。袴の話も、通りかかった者の話も、東北から九州まで広く分布する。柳田は、水の神の祭りに関わった巫女が、犠牲になった祖先の話を語り歩いたことが、流布に影響したのではと考えた。

どの型も、一括して史実と認めることはできない。高木敏雄は『日本神話伝説の研究』で、埋められた人の霊魂の力で工事が堅固になるという考えを土台に論じた。同じ書で、袴籤や通掛といった型を分けている。

柱になった人を神として祀る

明治35年(1902年)、布施千造が東京人類学会雑誌の194号に、人柱の論文を載せた。名称、方法、材料、起源、行われた範囲、宗教との関わりを論じた長い論考だ。志願する自動的なものと、強いられる他動的なものにも分けた。

布施は、選ばれるのは老人が多く、男女は問わないと指摘した。国家に有用な人物や富者は対象から外れ、貧しい者や宗教に関わる者が多いという。南方熊楠も『南方閑話』で、日本を含む世界の人柱伝説を紹介している。

熊楠は座敷童子を、人柱になった子供の霊だと述べた。人柱の話は、妖怪や怪談の領域にまで根を伸ばしている。柳田國男は、日本では近世の初めまで、民衆がこの伝説を事実として信じやすかったと見た。

信じる側にとって、人柱の話は説明であり、慰めであり、約束事でもある。工事の難しさと、災害への恐れと、神への畏れが、1つの話の中で結び付いていた。

六車由実は、中世以降の変化に注目した。人身御供を求める神の存在が薄れ、人柱になった人間のほうを神として祀る意識が強まった、というのだ。人柱が効くには、供養が続くことが要る。

怒りや悲しみを、祀るという筋道に変えて収める。それが伝説の働きだったと六車は読んだ。源助柱という名も、深田の胸像も、似た構えの上に立つ。名を付けて呼ぶことは、供養の入口。

柱の名を持つ作り話との距離

漫画やアニメには、「柱」という役職名や、犠牲を前提にした世界の仕組みが出てくる。こうした作品の中の犠牲構造は、文化的な連想としては記録できる。古い儀礼の実証資料にはならない。

作品を入口にして人柱を知る人は多い。それで構わない。伝説の側の資料と創作の側の連想を、同じ棚に並べない。この線引きだけは守っておきたい。

人柱は、史実か作り話かの二択では収まらない。工事と犠牲を説明する伝説、災害の記憶、供養、実際の埋葬の可能性が、重なり合った資料群。個別の話を調べるときは、必ず地域の資料に戻る。

松江大橋の南のたもとでは、今日も2つの碑が川を向いている。1つは伝説の足軽のため、もう1つは頭を打って亡くなった技師のためだ。橋の上を絶え間なく渡っていく、車の列。

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