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穢れ払いの川――富山の人形流しと人身流し説

蝋燭を灯した姉様人形は夜の川を下る

八月七日の夜九時、太鼓が鳴る。富山県黒部市の尾山地区では、子どもたちが火を灯した舟と姉様人形を手にして、集落を流れる川へ入っていく。舟は木でできていて、杉の葉がさしてあり、色紙で飾ったあんどんが載る。黒部市の文化財の解説に、そう書いてある。

行事の流れは、文化遺産オンラインの説明が詳しい。子どもたちは家で作った人形や船を尾山コミュニティセンターへ持ち寄り、大きな姉様人形を曳いて、笛と太鼓で集落を練り歩く。そのあとローソクを灯した人形や船を持って川に入り、両岸に立てた笹の七夕飾りの間を、下流まで押し流す。

尾山の七夕流しは、国が記録作成などの措置を講ずべき無形の民俗文化財に選んだ行事だ。選択は2018年3月8日。県の無形民俗文化財としては、2004年7月に指定された。担い手は、尾山七夕流し保存会。

ちなみに、数字は出どころで少しずつ違う。県指定の日付は、文化財のデータベースが7月15日と書き、黒部市の解説が7月16日と書く。川の名も、文化遺産オンラインとデータベースは湧水川、市の解説は泉川だ。同じ川なのかどうか、筆者には確かめきれなかった。

目的は、心身の穢れや災厄を祓うこと。行事の説明は、そう書く。北陸中日新聞のウェブ記事の見出しも、病や災いを川に流そうと呼びかけている。流れていくのは舟と人形であって、人間は一人も入っていない。目的だけを見れば、静かな祓いの行事だ。

黒部市の解説には、こんな昔話も載っている。大正の初め頃は、青年たちが四十から五十センチの麦わらの馬を三十頭も作って飾ったという。人形の行事は、時代ごとに形を変えながら続いてきたわけだ。

ニブは睡魔のことだった

七月の最終日曜の夕方には、同じ黒部市の中陣地区で、ニブ流しが行われる。場所は前川。子どもたちが麦藁や色紙で小さな船を作り、伝承者養成館の前の土手から川に入って、ニブ橋までの間で船を流して送る。

ニブというのは、眠気のことだ。ネブタと同じ語源だとされる。夏の農作業の邪魔になる眠気と心身の穢れを、作り物の船に託して流すのだ。こちらも2018年3月8日に、国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財になった。

県の教育委員会が2008年に出した年中行事の冊子は、この種の行事をひとまとめにしている。ニブはネブとも言い、日本海側を中心にした東日本の各地に、似た行事がある。滑川のネブタ流しと中陣のニブ流しは、眠気を払うと同時にケガレを水に流す禊の行事だと書く。

七夕そのものも、本来は水神を迎える祭礼だったという。南砺市のネツオクリは、稲の病気や虫が出やすい出穂の頃に笹竹で稲田を払う。魚津の蛇田では、川に流した七夕飾りを燃やす。ネツオクリと七夕が、ひとつの行事になっている。

並べてみると、流すものの顔ぶれが見えてくる。眠気、熱、虫、病害。どれも人にとりついて暮らしを重くするものばかりで、穢れという言葉がさす範囲は、思っていたよりずっと広い。

流す先は、いつも川だった。川上から川下。自分の暮らしの外へ、水が運んでいってくれる。

須磨の浜で、陰陽師は人形を舟に乗せた

川に人形を流す風習は、ずいぶん古い。『源氏物語』の須磨の巻には、三月の上巳の日に、光源氏が陰陽師を呼ぶ場面がある。海辺で祓をさせ、舟に大げさな人形を乗せて流すと、源氏はそれを見て、知らざりし大海の原に流れ来て、と歌を詠んだ。

流されていく人形に、自分の姿を重ねたのだ。ところがその直後、にわかに暴風雨が来て、一行は山荘へ逃げ帰る。物語はそういう運びになっている。

日本人形協会の解説によると、人形はもともと「ひとがた」だった。いまも川や海へ流し雛を流す地域がある、とも説明している。草や木や紙で人の形を作り、体をなでて病や災いを移し、水に流す。流れる水で厄を落とす中国の風習と、人形を身代わりにする日本古来の風習が、溶け合ったものだという。雛人形は、その人形から育ったという見方がある。

富山市の市長の文章も、子どもの身代わりとして川に流す流し雛が、平安時代の人形流しと一つになったと説明する。いまの富山にも例はある。県の冊子によれば、夏越しの大祓えで、自分の罪や穢れを移した形代を、身代わりに海や川へ流す。

年越しの大祓えでは、人形に名前と年齢を書く神社がある。ここが大事なんだよな。流される人形は、「自分の代わり」だ。人形があるから人は流されずに済むのであって、身代わりの仕組みは、もともと人を守るために作られていた。

川から叫び声が聞こえるという話

ここからが、噂の話になる。ネット上には、富山の川にまつわる怪談がある。人形を流す行事が、昔は生きた人を流す「穢れ払いの川流し」だった、という筋だ。

ある都市伝説のページは、こう語る。飢饉の年に病人を川へ流したら雨が止み、罪人を流したら村は穢れを免れた、という。対象は罪を犯した者や重い病の者で、舟や筏に乗せて川下へ流したそうだ。

怪異のほうは、夜の川から叫び声が聞こえる、というものだ。神通川や庄川の話として、明治の旅人の日記、1950年代の富山市の住民、1980年代の釣り人が挙がる。川沿いの祠は「穢れを流す場所」だとも書かれている。

このページには、2025年4月6日という日付が入っている。流し雛と人形流しは『富山県史』や『北陸地方民俗誌』に記述があるとも書く。ただし巻も頁も引用もない。観光では穏やかな流し雛ばかりが強調されて、昔は怖い話もあったと地元のガイドが軽く触れる、という描写まで添えてある。

筆者も探してみたが、「人を流した」と書いた自治体史や民俗調査には行き当たらなかった。正直、ここは確かめきれていない。ページ自身が、生きた人を流す風習には文献に明確な証拠がないと認めている。

ページは、この風習が明治以降の近代化や仏教の影響で衰え、昭和初期まで怪談として語られたと書く。その頃の語り手も記録も、挙げていない。ここで筆者の見立てを書く。

根拠は三つある。ページの日付が2025年であること。裏づけの書名に、巻も頁もないこと。旅人の日記や釣り人の話は、書いた人も年月も示されないこと。この三つから、古い口碑というより、近い年代に文章として組み上げられた話だと見る。

2022年頃にネット上の投稿で広まった、という書き方もある。しかし、その投稿そのものは示されていない。語られていること自体は事実でも、いつ誰が最初に言ったのかは、わからないままだ。

人形神という別の薄気味悪さ

富山の砺波地方には、人形が出てくる別の怪談がある。人形神、ヒンナ神と呼ばれる憑き物で、川の行事とはまるで関係のない独立した話だ。先に言っておくと、ここは寄り道になる。

作り方は恐ろしい。三年間で三千人に踏まれた墓地の土で人形を作る。念入りな場合は、七つの村の墓地の土を人の血で練り、千人に踏ませる。これを祀ると望みは何でも叶い、財産もできるが、死ぬときに苦しみ、地獄へ落ちるという。

記録は、民間伝承の会の雑誌『民間伝承』13巻12号、1949年12月号の「砺波のヒンナ神」にある。『綜合日本民俗語彙』第3巻にも項目が立つ。急に裕福になった家は人形神を祀っていると噂された、と書かれている。小矢部市には、墓地の石で作るという別の言い伝えもある。

憑き物の研究は、こうした話を家筋への差別の問題として扱ってきた。周囲から「憑き物を使って金や物を手に入れている」と見られた家が、結婚を避けられた例が、各地にある。人形神を語るなら、そこを踏まえてほしい。誰かの家の話として面白がると、いまも傷になりかねない。

人形流しと人形神は、どちらも「人形」で、どちらも同じ富山にある。それで一つの怪談に混ぜたくなる気持ちは、わからなくもないが、二つを結ぶ記録は、筆者の調べでは見つからなかった。

川に人形を流す行事の側から見れば、いい迷惑だろう。年に一度、子どもたちが穢れを託して送り出している行事だ。尾山の子も中陣の子も、ただ自分で作った舟を、水に押し出しているだけなのだから。

罪人は川上へ送られ、飢えた人は小屋に入った

罪人を川に流す、と聞けば、人が思い浮かべるのは簀巻きだろう。「水に流す」という慣用句を、そのまま実行したような絵面だ。この言葉は、前にあったいざこざをなかったことにする、という意味で使う。語源は禊にあると説明されることが多く、川や滝の水で身を清めた昔の習慣が、その下に置かれている。

江戸の公儀の死刑は、下手人、死罪、獄門、磔、鋸挽、火罪の六つだった。吉宗の時代、1747年に公事方御定書ができて、裁きの基準がそろった。水に沈める刑は、この中に一つもない。簀巻きも入っていない。

簀巻きは、百科事典の説明では、博徒の私刑でよく使われた方法だ。縄で縛って水に放り込んでも必ず死ぬとは限らず、重い懲らしめや見せしめに使われた、とある。村の穢れ払いというより、やくざ者の手口だった。

では加賀藩は、罪人をどうしたのか。越中は加賀藩の領地で、重い罪人は庄川の上流の五箇山へ送られた。元禄3年、1690年に藩士の不祥事があって、そこから始まったとされる。籠の渡しの他に道がなく、里へ出る脇道もない土地だった。

流刑小屋は、庄川の右岸の七つの村に置かれ、そのうち南砺市の田向には、復元された一棟が残る。七つの村は、小原、猪谷、田向、嶋、籠渡、大崩島、祖山。

広さは九尺二間。番人は二人で、食事の支度と見張りをした。流人は最も多いときで二十人。明治元年3月の大赦の時点では、九人が小屋にいた。

人を「流す」のは、川下ではなく川上だった。しかも番人に給金を出して、毎日食事を差し入れる仕組みだ。邪魔な人間を黙って始末する話とは、まるで向きが違う。

飢饉の場合も、記録は別の対応を示している。寛文8年と9年には、加賀と越中で風水害が続き、それが飢饉の引き金になった。1670年、寛文10年に、藩は金沢の笠舞に非人小屋を置いた。困った人を収容して手当てをする、常設の小屋だ。

元禄9年、1696年の飢饉。飢人は六万一千二百三十人に達した。支給した御救米は約八千百六十石。研究書の書評によると、小屋の中では衣食住と医療を与え、体力が戻れば稼ぎの仕事をさせて給銀を渡した。出るときは生活資金を持たせ、奉公に出る者の身元まで保証したという。

小屋は約二百年続いた。幕末の1867年に別の施設へ移されるまでの話だ。十八世紀の後半になると「非人」という名前への差別意識が広がり、小屋に入るのを嫌がる動きも出た。だが藩は、名前を変えずに小屋を続けたという。天保の頃には、新たに御救小屋も作られている。

病人についても、近い事情がある。1879年のコレラ流行は、全国で患者十六万人。死者は十万人を超えた。明治政府は避病院という建物に患者を収容したが、福井県史によれば、人々はそれを恐れて患者を隠したという。

筆者の見立てを書く。罪人は流刑小屋に、飢えた人は非人小屋と御救小屋に、病人は避病院に入れられた。根拠は上に並べた通りで、行き先はいつも建物だった。川に流して片づけた記録は、いまのところ見つからない。

舟に乗せられた生者は、二人だけいる

生きた人を舟に乗せて流す話は、日本に全くないわけではない。二つだけ、確かなものがある。筆者が資料を当たった範囲では、そうなる。

一つは神話だ。国生みで最初に生まれた子が、水蛭子だった。古事記は、葦の舟に入れて流し去った、と書く。日本書紀の側の伝えでは、三歳になっても足が立たなかったから、とされる。のちに蛭子は、西宮などの社で恵比寿の神として祀られた。

もう一つは、補陀落渡海だ。僧が小さな舟に乗って、南の海の彼方の浄土を目指した行だという。新宮市の資料は、868年から1909年までの記録を56例まとめている。

出どころには、熊野年代記、平家物語、吾妻鏡などが並び、うち熊野の那智からは28例。最後の記録は、1909年、足摺岬の沖。天俊による入水だという。

比べると、はっきりする。蛭子は神話の中の出来事で、村の誰かが誰かを流したわけではない。補陀落渡海は、僧が自分の意志で乗り込んだ行だ。村が選んだ誰かを、穢れ払いのために川へ流したという例は、この二つのどちらにもない。

噂の筋は、この二つを裏返した形をしている。神話のように「捨てる」のに、補陀落のように「祈りの舟」の顔をさせる。筆者の見立てだが、そう組み合わせると、怖い話ができあがるのだろう。

流された人々は、本当にいた

それでも、富山の川が怖い川だったことは確かだ。県の冊子は、背後に高い山々を抱え、そこから流れ出る河川が豊富な水を湛えて一気に富山湾に注ぐ土地だと書く。広い扇状地は、古くから農地だったが、氾濫はしばしば大きな被害をもたらした。水神を祀る行事が県内に多いのも、そのせいだ。

神通川の上流と中流は、日本でも屈指の急流だとされる。蛇行する所でたびたび水害が出たため、明治になって、蛇行を短絡する分流路が掘られ、工事は1901年1月から1903年5月まで続き、その水路は馳越線と呼ばれた。水の通り道の付け替え。

洪水のたびに、新しい水路のほうが本流のようになっていった。旧本流は松川と名を変え、跡地には県庁や市役所が建った。川の姿そのものが、人の手で何度も変わった土地だ。

その前の富山城下には、神通川の舟橋があった。1605年、前田利長が隠居した頃に、舟の渡しが船橋に改められ、1661年には、いまの位置に架け直されている。舟は六十四艘。

一艘の長さは六間、およそ十一メートル。春の雪解けの大洪水があるので、常の橋は懸けがたい川だと記録にある。江戸の富山町では、売薬、時鐘、船橋が三大名物に数えられたと、県の冊子にも出ている。木の橋の神通橋に替わったのは、1882年12月。

庄川はもっと気まぐれだった。古い名は雄神川という。江戸の頃は、大洪水のたびに主な河道が別の分流へ切り替わり、分流ごとに千保川などと別の名で呼ばれた。1654年に藩主が流路の変更を命じ、1670年に前田綱紀が大工事を始めて、1714年に松川除が完成した。県のページによれば、二キロの堤に松を植えたこの工事は、四十五年かかり、百万人を超える人が働いたという。

県の冊子には、高岡の千保川の灯籠流しも載っている。古くから洪水に悩まされた土地で、水の神様の祭りと、流された人々の供養を兼ねて、大正3年から続くという。流された人は、ここでは洪水に流された人のことだ。立山町の西大森には、安政5年、1858年の大洪水で流されてきた石を水神として祀る祭りもある。

川だけでなく、風も土地を痛めつけた。県の冊子は、砺波地方や南砺地方、神通川流域にはフェーンの強風による被害が多く、風神を祀る神社が点在すると書く。南砺市の級長戸辺神社は、延宝3年、1675年に砺波地方の百八十余りの村が協力して建てた風の神の社だ。

川の怪異の伝承も、人身流しの形ではない。魚津の片貝川には、洪水を起こして退治された龍が巻きついて死んだという竜石があって、いまも祀られる。富山市の神通川右岸には雨乞い岩があり、洞窟の奥の不動明王に、僧と住民が雨を祈る。

筆者の見立てを書く。人身流しの記録がなくても、夜の川から叫び声が聞こえる怪談は成り立つ。急流に飲まれた人も、洪水で流された人も、実際にいたからだ。噂は、本物の水難の記憶に、人形流しという別の記憶を接いだのだと思う。

上流から流れてきたのは、人形ではなかった

神通川には、もうひとつ、現実の穢れの記録がある。上流の岐阜県の神岡鉱山から出た廃水に、カドミウムが含まれていた。それが川の水と田に入り、イタイイタイ病を起こした。百科事典は、大正の頃から昭和40年代にかけての問題だとまとめる。

1961年に研究者らがカドミウム説を学会で発表し、1968年5月には厚生省が、主因は神岡鉱山のカドミウムだとする見解を出した。国が公害病だと公式に認めたのは、これが初めてだったという。被害を受けた住民は、同じ1968年に、三井金属鉱業を相手に裁判を起こしたのだ。

裁判は、二つの判決で決着した。1971年6月30日の富山地方裁判所の判決は、全国の公害病の裁判で、はじめて住民側が勝った。名古屋高等裁判所の金沢支部も、1972年8月9日に住民側を全面的に勝たせたのだ。会社は上告を断念した。原告は合わせて506人。

判決の翌日、住民たちは会社の本社へ出向き、直接交渉した。賠償と、土壌の復元と、公害防止の三つで協定を結んだ。会社が住民の立ち入り調査を受け入れる条項は、県の解説によると、美しい神通川を取り戻す第一歩だったという。

穢れを川に流して終わりにするという考え方は、ここでは通らなかった。流した側の責任を裁判所が問うたからで、人形流しの穢れは象徴にすぎず、鉱山の廃水は実物だった。

筆者の見立てを足しておく。水難と公害の両方を知っている土地だから、川は怖い場所として語られやすい。ただし、これは噂が事実だという意味ではない。

鯉は酒を飲まされて、生きたまま川へ戻った

庄川の流れる砺波市庄川町金屋には、一月に鯉を放す行事がある。厄払い鯉の放流という。はじまりは1816年だ。金屋神明宮の祭りで供えた鯉が、祭典が終わっても生きていた。その生命力にあやかろうと、酒を注いで放した。

きっかけの祭りは、地元紙の間で食い違う。富山新聞の記事は遷宮祭と書き、北日本新聞の記事は厄よけ祈願祭と書く。どちらが正しいのか、筆者には決められなかった。富山新聞は、この行事を「奇祭」と呼んでいる。

県の冊子の説明では、厄年の青年が神明宮で祈祷を受けてから、庄川の川べりへ降りる。大きな鯉にお神酒を飲ませ、一人ずつ手を触れて災厄を移し、川へ放す。穢れを託された生き物は、殺されない。

2026年1月3日には、数え年で厄年の男女六人が参加した。二十五歳の男性が三人、三十三歳の女性が一人、四十二歳の男性が二人。場所は庄川水記念公園の、鯉恋の宮の下の水辺。鯉は体長四十センチほど。去年までは一升瓶だった。

変えた理由は、大量の酒を飲ませていると誤解されかねないからだという。もう一つ、日付も変わった。昔は一月七日だったが、参加者が増えるように、去年から正月休みの三日になった。

生き物を放す行事は、ほかにもある。高岡の谷内天満宮の天神祭では、生きた鯉を供えたあと、鯉の放生をする。射水市の放生津八幡宮は、天平18年、746年から続くとされる放生式で、ヒブナの成魚二匹と文鳥一羽を放つ。放生津の地名は、この行事に由来するという。

筆者の見立てを書く。この行事が残るのは、主催する観光協同組合と青年会がいて、毎年厄年を迎える若者がいて、写真を撮りに来る人がいるからだ。尾山にも中陣にも保存会がある。

残る伝承には、続けさせる人の手が要るが、人身流しの噂には、その手が見当たらない。碑も、祠の由緒も、担い手もない。あるのは、読む人だけだ。

一月三日の庄川の水辺で、朱塗りの杯が鯉の口へ傾けられる。参加した六人は、金屋神明宮でお祓いを受けたあとだった。お神酒を注がれた鯉は、そのまま庄川に放たれた。

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