判決文には、その言葉が旧い仮名づかいで書かれている。「おつとい嫁じよ」。小さな「っ」も「ょ」もない。1959年6月19日、鹿児島地方裁判所の刑事第二部は、被告人の男に懲役3年を言い渡した。
裁判の前に勾留されていた30日は、刑期に数えられた。舞台は鹿児島県の大隅半島、肝属郡の串良町。いまは鹿屋市の一部になっている町だ。3年の重さは、あとで量る。
2月6日、午後3時の路上
話は、判決の5か月ほど前にさかのぼる。1959年1月15日ごろ、男は義兄から早く結婚するよう勧められた。知人に年ごろの娘の紹介を頼むと、その計らいで、19日に席が設けられ、男は1人の女性と顔を合わせた。
男は会ったその場で結婚を申し込んだ。その後も2回、同じ申し込みを繰り返す。1月30日、女性の兄を通じて、はっきり断られた。ここまでは、どこにでもある縁談の失敗。
男は諦めなかった。判決文は、男の考えをこう認定している。計画には、夜の行き先まで入っていた。女性に暴力で関係を迫れば、結婚に同意せざるをえなくなる。2月5日、男は仲間2人と相談し、翌日の段取りを決めた。
2月6日の正午過ぎ。3人は鹿屋の職業安定所の近くで、女性の帰りを待ち伏せた。女性を近くの食堂へ連れ込み、もう一度、結婚に同意するよう説得している。答えは、変わらず断りだった。男たちは、決めてあった計画に移ることにした。
午後3時ごろ、鹿屋市向江町の路上。男が前から女性の手を引き、仲間2人が後ろから押して、前もって男が連れてきていたタクシーへ、無理に乗せた。車は大崎町の方角へ走っている。連れ回されたのは、およそ3時間。食堂で時間をつぶしたあと、「家に送る」と偽って、女性をもう一度タクシーに乗せた。
途中で降ろしてほしいと、女性は頼んだ。男たちは、タクシーの戸を押さえて、出られないようにした。午後6時過ぎ、串良町の民家に着く。夜10時ごろ、その一室で、男は女性に暴行を加え、治療5日間を要する傷を負わせた。
念のため断っておく。ここまでの経過は、判決文の「罪となるべき事実」の部分に書かれた範囲だ。ネットに流れる再話は使っていない。被害女性の名前や住所は、判決文に出てきても書かない。
懲役3年という下限
3年は、軽いのか重いのか。数字だけなら、軽い。いまの感覚でも、そう見える。当時の刑法を開くと、見え方が変わった。
判決が使った条文は、刑法の181条、177条、60条と、勾留日数を刑に数える21条の4つ。181条は、強姦の罪を犯して人にけがをさせた者を、当時は無期か3年以上の懲役に処すと定めていた。3年は、その法定刑のいちばん下の線と同じだ。下限ぴったり。判決は、無期ではなく有期の懲役を選び、期間を3年とした。
下限の線は、その後なんども引き上げられている。2004年の改正で、強姦致死傷罪の下限は5年になった。2017年の改正で6年になり、2023年に罪名が不同意性交等致死傷罪へ変わっても、6年のままだ。1959年の3年は、いまの下限の半分の物差しで決まった数字。
「適法視されている」と弁護人は言った
法廷で、弁護人はこう主張した。被告人の住む串良町地方には、婚姻に同意しない女性を無理に犯して承諾させる、「おつとい嫁じよ」という慣習がある。その行為は世間で適法とみられていて、被告人もそう信じていた。だから故意がない、という理屈だ。
ここからが、裁判所の判断だ。裁判所は、2段で退けた。1段目は法律論で、少なくとも本件のような自然犯では、違法性の認識は故意の成立要件にならない、というもの。2段目は事実の認定だ。被告人が法廷で述べた内容と、検察官に対する供述調書から、男は慣習の反社会性を分かっていたことが明らかだ、と判断した。
刑法38条3項は、法律を知らなかったとしても、そのことで罪を犯す意思がなかったとすることはできない、と書く。判決の1段目は、この線に沿っている。自然犯は、法律がなくても悪いと分かる犯罪を指す言葉で、強姦はその典型として扱われた。
のちの最高裁は、この問題に、もう少し細かい物差しを持ち込んだ。1987年7月16日の決定は、百円札に似せたサービス券を作った事件だ。被告人は、知り合いの警察官に相談し、通貨及証券模造取締法の条文を示されて、紛らわしいものを作れば違法だと告げられていた。それでも助言に従わず、サービス券を作った。
最高裁は、違法性の意識を欠いたとしても、相当の理由があるとはいえない、と判断している。相当の理由があれば罪にならないのかは、この決定でも答えが出ていない。1959年の判決は、その問いに触れないまま、事実の認定で決着をつけた。
判決の理由の部分は、慣習があったかどうかに踏み込んでいない。あったとしても無罪にならない、という順で書かれている。筆者の見立てでは、裁判所は、慣習の有無を決めないまま有罪を言い渡した。
館内限定の論文と、日曜特集の見出し
事件は、判例雑誌にも、新聞にも載った。1959年7月発行の『判例時報』192号に、中川善之助の論文「『おっとい嫁じょ』の違法性」がある。国立国会図書館の書誌には、論文の主題を表す語として、「刑法」と「婚姻」の2つが並んでいる。
論文の本文は、確かめられなかった。国会図書館の記録では、閲覧は館内に限られ、図書館への送信の対象にもなっていない。論文が何を論じたのか、筆者は本文で読んでいない。確かなのは、書誌に2つの語が並ぶところまで。
刑法と婚姻。2つの語は、事件の2つの顔に重なる。暴力で人を傷つけた犯罪と、結婚が誰の意思で成り立つのかという問題だ。日本国憲法の24条は、婚姻は両性の合意のみに基いて成立する、と定める。施行から12年が過ぎていた。
この年の4月10日には、皇太子明仁親王の結婚の儀があった。ご成婚パレードの生中継で、テレビの売れ行きが急増したという。同じ年の、2つの結婚の話。
新聞の動きは早かった。百科事典の脚注によると、判決の翌日、6月20日の『鹿児島毎日新聞』に記事が出た。見出しは「実刑三年でも軽い」「これを許す社会にも罪」。同じ日には、「正しい結婚観をもとう」というコラムも載っている。
9日後の6月28日、日曜特集で、『南日本新聞』が事件を取り上げた。シリーズ「希望する話題」の2面で、見出しには「あきらめきれず暴力」「人権無視もはなはだしい因習」という言葉が並ぶ。見出しの言葉は、強い。新聞社が事件をどう見たかは、見出しだけでも伝わる。
脚注の要約では、特集は風習そのものも調べている。おっとい嫁じょは、戦前までは県内の一部地域に残っていたが、事件のころには、ほぼ失われていた。本来は略奪婚と違い、家の事情やお金の問題から、合意の上でする駆け落ちだった、と書かれたという。
事件は、その駆け落ちの風習を歪めたものだ、という考えも紹介された。教育委員会の主事、地元の青年団長、青年団連絡協議会の副会長。3人は、話し合って違法だと分かり、因習をなくすことに力を入れたいと語ったという。新聞そのものは読めていない。脚注の要約に頼った話だ。
嫁盗みの事典を引くと
語源は「おっ盗り嫁じょ」だという。鹿児島弁の辞典は、おっといよめじょを「嫁盗み」「略奪婚」と説明する。用例は、「昔は嫁盗みというのがあったらしいけど、今はない」と訳せる鹿児島の言い回しだ。
嫁盗みは、鹿児島だけの言葉ではない。日本大百科全書は、身分や財産の違いで縁談が進まないとき、男が女を連れ出して結婚しようとする習俗と説明する。呼び名は、嫁カタギ、カカソビキ、ドラウチなどたくさんあり、西日本を中心に全国にあった。
日本大百科全書の説明は、もう一歩踏み込む。嫁入り婚が広まる中で、「家」を第一に考える家長と、婚姻を仲間うちで仕切る習わしを捨てきれない若者たちが、ぶつかった。嫁盗みは、そのぶつかり合いの中で生まれた習俗だという。
民俗学者の柳田國男は、著書『故郷七十年』の中で、誘拐婚には3つの型があると述べた。1つ目は、親が気づかないうちに、男が友人の助けを借りて女を連れていく型。2つ目は、親が表立って認められない事情がある型。3つ目は、お金の都合で正式な結婚ができない型だ。
大阪では「ボオタ」と呼んだ。柳田によると、明治の初めまで、木津、難波、今宮で行われていた。お金がないとき、女は夕方に着飾って男を待ち、男は黙って連れていく。「ボオタ、ボオタ」と大声で言いながら男の家へ向かい、あとで仲介人を挟んで、親子が対面した。
高知県の大豊町には、「かたぐ」という言葉があった。家のつながりが重い時代の話。親の承諾が得られない結婚への、対抗手段の1つ。女を夫の家へ直接入れず、仲介者の家に預けると、家名に傷がつかず、親との交渉もうまく運びやすかった。明治以降は、本人どうしの同意があるものが多かった、という。
世界大百科事典は、例外にも触れている。まれに、娘も親も承知しないのに、男だけの意図で行われることがあった。例外は、まれだ。逆に、娘も親も賛成なのに、お金がない、近所への義理がある、といった事情で、表向きは反対の形をとる場合もあったという。
長崎の嫁盗みは、記録がよく残る。明治まで嫁盗みが行われた土地があり、娘を運ぶ「嫁盗み籠」という道具も残された。実行するのは集落の若者たちで、吉日を選び、夜に娘を誘い出して籠に乗せ、「よめご盗み」と連呼しながら運んだ。町の人は止めるどころか、家から出てきて見物したという。
駆落の項は、嫁盗みを駆落の一種と見る。事後に親の承認が得られるのが普通で、当人たちは元の社会へ戻れた。百科事典マイペディアは、強制的な誘拐を伴うのはまれだと書く。助けた若者仲間と祝宴をあげる点が、駆落との違いだ。
長崎では、奉行が嫁盗みを禁じた。嫁盗みをした者は召し捕って重く罰する、というお触れが出ている。奉行所の記録『犯科帳』には、親の反対で仲間4人に娘を盗んでもらった男が、島流しになった例が載る。娘本人が家に戻らないと言い張っても、罰は下った。
民俗学者の早川孝太郎は、1944年2月に大崎町で婚姻の習俗を調べた。昭和19年には、嫁盗みの習俗はほとんど行われなくなっていた、と書く。その調査の中で、鹿児島地方のオットイを、略奪婚として扱ってよいものかどうか、と疑問も述べている。
大崎町は、串良町のすぐ隣にある。事件の日、男たちが女性を乗せて向かった先も、大崎町の方角だった。早川が疑問を述べた土地と、裁判で慣習の名が出た土地は、地図の上でほとんど隣り合っている。
薩摩では、若者組を「二才組」と呼んだ。若者組は、娘組の監督や婚礼への関与など、婚姻に深くかかわる団体だった。明治になると、陋習と批判され、青年会や青年団へ改組されていく。筆者の見立てでは、1959年の日曜特集に出てくる青年団長は、その流れの先にある団体の長だ。
判決文によると、女性は結婚を断り続け、兄を通じてもはっきり拒んだ。その女性を、「家に送る」と偽って連れ回している。筆者の見立てを書く。事典の型に当てはめると、1959年の事件は嫁盗みの形から外れる。当てはまるとすれば、事典が例外と書く、男だけの意図で行われた型だけ。
台地の上で町が割れていた年
串良町は、大隅半島のほぼ中央にある。町の大半は笠野原という台地で、東の境を串良川が流れる。東西12.7キロ、南北6.1キロの町は、1932年に町制を敷き、2006年1月1日に鹿屋市などと合併して、その一部になった。
人口は、昭和30年の1万8千人から、合併前には1万4千人弱まで減った。2005年の国勢調査では、13,272人。古い土地でもある。町の計画書は、713年に書かれた大隅風土記に、この地が郷として記されると書く。いまの串良は、さつまいも、和牛、養豚、うなぎの養殖で知られる農業の町だ。
笠野原は、シラスと呼ばれる火山灰の台地だ。雨はすぐ地中へ染み込み、地表には川も池もほとんどない。農業の記録は、台地の中ほどでは、深さ80メートルを超える井戸の水を、牛の力で汲み上げた、と伝える。水は、貴重だった。風呂は一度沸かすと、翌日もつぎ足して使い、三番風呂まで入ったという。
台地の開発は、江戸時代に始まった。耕地整理組合ができたのは1924年、区画整理が終わったのは1930年代の半ば。畑は直線の道で区切られ、どの畑にも車が横付けできるようになった。それでも水は足りず、2週間も晴れが続けば干ばつになり、雨乞いをする年もあった、と農業の記録は書く。
水不足は、暮らしにも響いた。笠野原の小学校では、児童の4割余りが眼病を患っていた、と農業の記録は書く。嫁の話も、その記録に出てくる。水に苦労する台地の農家には、近隣の農村から嫁のきてがなかった、という。「いやじゃいやじゃ笠野原はいやじゃ五十五尋の綱を引く」と、歌にまで詠まれたそうだ。
事件の1959年は、この台地に水を引く国の事業が動き出した年でもある。2月には、農林省が笠野原の農業水利事業所を開設し、翌3月には、事業計画の公告と縦覧が始まった。串良町では、2年前の1957年9月に畑地かんがいへの反対農民大会が開かれ、町長のリコール運動にまで発展している。農業の記録は、この争いが串良町の町政をまひさせるほど激しかった、と書く。
水が台地の畑に届いたのは、1967年3月18日。串良川の上流に高隈ダムが完成し、国営の畑地かんがい事業の第1号として、台地の畑へ初めて水が通った。そこから台地は、野菜や畜産の産地へ変わっていく。事件から8年後の話だ。
筆者は、この事業と事件を、原因と結果で結ぶつもりはない。結べる根拠が、手元の資料にはないからだ。同じ年の同じ町に、町を二つに割るほどの争いごとがあった。それだけを書いておく。町の名が全国に知られたのは、水の争いのほうではなかった。
検索窓に「実在したのか」と打つ人
いま「おっとい嫁じょ」で検索すると、質問サイトの題が並ぶ。「本当に実在したのか」と問う投稿がある。「国内で最後に行われたのはいつですか」という質問の答えの欄には、1959年の串良町の事件が書かれている。事件が風習の最後の実例として扱われているわけだ。
まとめサイトでは、同じ言葉が「検索してはいけない言葉」の項目に入っている。どれも、答えを探す人の題だ。「その真相」「真相を考察」と名乗る題も、ゆっくり朗読の動画のページも並ぶ。
判決文の全文を引いた投稿として、よく目にするのは、2011年9月2日の夜に書かれた匿名ダイアリーの記事だ。投稿者は、検索しても、串良町と慣習を結びつける文献がネット上に見当たらない、と書いている。失われていく日本の文化を何かの形で保存したい、という願いも添えてある。この風習で夫婦になった人たちは、まだ十分に存命だろう、とも書く。
ただ、この投稿が最初ではない。2010年11月の日付がある個人ブログに、すでに「判例時報によれば」と断って、判決の一部を引いた記事がある。そこでは、被害女性の年齢が16歳に書き換わり、場所も判決とは違う建物になっていた。
ほかにも食い違いは多い。事件の月を4月と書く民俗解説のブログがある。判決の認定は2月だ。加害者の年齢も、22歳と書くページと、24歳と書くページに割れる。判決文の抜粋に、年齢は出てこない。
判決にない話が、コピーを重ねるうちに足されていく。2016年に子育て掲示板へ貼られた長い再話には、2つの記述がある。被告の母親も同じ形で結婚していた、協力した2人も暴行に加わった、というものだ。判決の「罪となるべき事実」には、そのどちらも出てこない。出どころは、筆者には確かめられなかった。
署名の話もある。村を挙げて被告の無罪を求める署名が集められた、と匿名ダイアリーは書く。地元の学校長が、子どものころに提灯を持って行列の先導をした、と語ったという話も広まった。どちらも、筆者が確かめられた出どころは、事件から50年以上あとの、ネット上の書き込みまで。
学校長の発言には、反論もある。個人ブログのコメント欄に、その話は子どもの行事のことだ、という書き込みがある。「本来は子どもの行事だった」という説も、ネットにはある。新婚の家へ子どもたちが押しかけ、垣根を壊す真似をして「嫁をよこせ」と迫り、食べ物をもらって帰る、という内容だ。
ハロウィンやなまはげに例える人もいる。ただ、筆者が引いた事典類には、嫁盗みを子どもの行事とする説明が見つからなかった。種子島や奄美の習俗との結びつきを言うページもあるが、根拠は示されていない。鹿児島大学が調べ、70代以上の3割が聞いたと答えた、と書くページもある。調査の名も実施者も、書かれていなかった。
作法を細かく書くブログもある。2023年の民俗解説のブログは、明治期に認識されていた手順として、地域の年寄衆と青年団長に相談してから動く、と書く。連れ出したあと、年配の男が娘の家へ行って必ず告げる、という手順もある。親に告げる骨組みは、事典の説明と重なる。出典に挙がる昭和27年の雑誌2誌の本文を、筆者は確かめられていない。
逆に、「風習などなかった」と言い切る解説もある。2021年のブログは、南日本新聞の指摘をとらえる。風習はすでに失われた文化で、弁護人が被告をかばうために作った話だ、と結論した。ただ、新聞の特集は、戦前には一部の地域に残っていた、と書いたという。ない、とまでは言っていない。
鹿屋の地元掲示板には、2020年9月の書き込みがある。検索に出てくる記事の中には、串良町の名を書かず、大隅地方とだけ書くものがあり、周りの町にとっては迷惑だ、という内容だ。書いたのは地元の住民らしい。
ネットニュースに載った84歳の男性の話も、よく引かれる。女性が犯されたあとで嫁ぐ形が、昭和30年代までこの地方で行われていた、と語る。男性の名は仮名で、記事の出どころは、筆者にはたどり切れなかった。
名前を借りたのは誰か
筆者の見立てを3つ書く。1つ目は、名前が世に出た順番についてだ。早川孝太郎の調査記録を除くと、確かめられた限り、この言葉が全国に出た最初の形は、判決文の中の弁護人の主張だった。被告を守るために持ち出された言葉が、そのまま事件の名前になった。
2つ目は、風習の中身についてだ。事典の嫁盗みは、同意や黙認を土台にしていた。南日本新聞の特集は、おっとい嫁じょが本来は合意の駆け落ちだったと書いたという。2つの根拠が重なる以上、筆者は、名前の指す習俗はあったが、暴力で犯す形は含まなかった、と見る。
荒っぽい形もあった、という古い人の記憶は、仮名の証言やネットの書き込みに混じる。裏付けの記録が出てこない以上、荒い形が広く行われていたとは言い切れない。まあ、まったくなかったと言い切れる材料も、筆者の手元にはない。
3つ目は、誰が得をして、この話が残ったかだ。事件の名前は、怖い風習の記事の題になり、ゆっくり朗読の動画の題になり、「真相」を名乗る考察の題になった。弁護の主張として借りられた名は、別の人の手で、もう一度、見出しに使われている。
得をしたのは、見出しで読まれる側だ。損を引き受けたのは、周りの町の側かもしれない。判決文に残る被害女性の言葉は、途中で降ろしてほしい、とタクシーの中で頼んだ懇願が1つあるだけ。男と、弁護人と、周りの人間の言葉ばかりが、あとの再話に残った。
5月26日の棄却
男の側は、判決のあとも争った。最高裁判所の裁判集には、男の側が挙げた理由が載るという。百科事典の脚注は、事実の誤認、治療日数の根拠、風習の認知度や周囲の勧めによる違法性の認識の欠如、量刑の重さ、の4点を挙げる。
脚注によると、最高裁は1960年5月26日に、その争いを退けた。判決から11か月、事件の日からは1年3か月あまりがたっていた。記録は、最高裁判所裁判集刑事の第133巻に収められているという。筆者は、その原本を確かめられていない。3年の実刑は、そのまま動かなかった。
