夜が更けて、病人の息がだんだん浅くなってきた。医者を呼びに走る余裕もなく、家の者が顔を見合わせたまま、誰も口をきけずにいる。すると誰かが、低い声で言った。屋根へ上がれ。
民俗調査の報告をつなぎ合わせると、昔の看取りの夜は、おおよそこんな形になる。近親の者が屋根の棟にまたがって、死にかけた人の名を闇に向かって呼ぶ。手には、死者が着ていた着物や、農具の箕を握りしめている。声は夜の底へ吸われていった。
怪談じゃない。ホラー映画の一場面でもない。つい最近まで日本のあちこちで、本当に行われていた、れっきとした看取りの作法のひとつだ。
呼び名は魂呼び、魂呼ばい、たまよばい。息を引き取った直後や、息を引き取る間際の人に向かって、体から離れかけた魂を名前で呼び戻そうとする習俗だった。別名には、よぼしかえしという言い方もあって、ここから追いかけるのは、その中身と、日本列島に広がった姿になる。
棟にまたがり、北を向いて名を呼ぶ
中身はいたって単純だ。人が死んだ直後か、死にかけている最中に、体を離れてしまった魂を、大声で名前を呼ぶことで引き戻す。それだけの話だった。事典の説明も、臨終や急死のときに死者の名を呼んで蘇生させようとする行為、という趣旨で書かれている。
いちばん知られた舞台は屋根の上だ。死者が生前に着ていた着物を手に屋根へ上がり、北を向いて名を呼ぶ形が、よく語られる。屋根は家のなかで最も高い所で、魂は空を飛んでいると考えられたから、という説明も添えられている。
屋根だけじゃない。死にかけた人の枕元で呼ぶ土地もあれば、庭先や戸口、木の上、池や沼に向かって呼ぶ土地もあった。山の頂や水辺で呼ぶ型を挙げる辞典まであって、場所の選び方は本当にばらばらだ。
呼ぶ相手は、死にかけた人だけではなく、急に気を失った人の名を呼んで目を覚まさせようとする土地もあった。気を失うのは、魂が一時的に飛び出した状態と考えられていたのだろう。若い人や産婦が亡くなったとき、あるいは頓死のときには、とくによく行われたという。
呼び手にも決まりがあった。赤の他人が呼んでも効き目は薄いと見られたらしく、呼ぶのは母親や配偶者、我が子といった、死者にいちばん近い人たちだった。声の主は、近いほどいい。
居合わせた者が何人も並んで、声をそろえる土地もある。一人で細々と呼ぶより、何人もで力いっぱい張り上げたほうが遠くまで届くと、心の底から信じられていた。夜の屋根に並んだ家族の影。想像すると、ぞくりとする。
方角も一色ではなかった。北を向く型がよく語られる一方で、西へ向かって叫ぶ屋根の例もあれば、南の海へ向かって呼んだ島の記録もある。土地ごとに、魂が去っていく先の見立てが違っていたことになる。
着物を振り、桝を叩き、傘を掲げた
屋根の上で使う道具が、またやけに多彩だ。まず着物。死者が生前に袖を通した衣を掲げたり、振り回したりしながら名を呼ぶ形が、全国に広く伝わっている。
着物は持ち主の魂が宿る品と見られていて、迷っている魂にとっては、帰る先を示す目印にもなる。名前と、着物。この二つがそろって、はじめて呼びかけが形になった。
桝を叩きながら呼ぶ土地がある。開いた傘を掲げる土地もある。鍋の蓋を鳴らす土地、箕で風を送る土地、団扇であおぐ土地まであって、どれも各地の記録にちゃんと残っている。
会津地方には、マスウチと呼ばれる作法が伝わった。屋根に上がって一升枡を棒で叩くほか、死んだ人が使っていた茶碗を叩く例もあったらしい。どれも、音の出る物ばかり。
箕や桝や笠は、魂を招き返すための道具として語られる。穀物をすくい、あおぎ分ける日用品が、魂をこちらへ招く道具に化けたわけだ。どれも、台所や納屋にあるもの。
播磨の中部には、庭の松の梢で提灯を掲げ、夜の闇に向かって名を呼ぶ型が伝わる。魂が迷わないように明かりを出すという、そんな発想が、そのまま形になったのだろう。夜の木の上の、小さな灯り。
道長が陰陽師を呼んだ八月の夜
文献に残る早い例が、平安時代にある。藤原実資の日記『小右記』が伝える、藤原道長の末の娘、嬉子の死だ。時は万寿二年、西暦でいえば1025年のことだった。
嬉子は東宮敦良親王、のちの後朱雀天皇の妃として、八月三日に皇子の親仁親王を産んだ。この皇子が、のちの後冷泉天皇になる。ところが産後に、赤斑瘡にかかってしまった。
赤斑瘡は、いまの麻疹にあたる病で、出産からわずか2日後の八月五日、嬉子は19歳でこの世を去った。死因は、物の怪のせいだとも言われる。その日は、雨が激しく降っていたという。
父の道長は取り乱し、陰陽師の中原恒盛らを呼んだ。屋敷の東の屋根へ上らせ、嬉子が着ていた衣を振って、三度名を呼ばせる。権力の頂点にいた男が、最愛の娘を前にして、薬でも祈祷でもなく魂呼びに賭けたことになる。
この所作は、古い中国の礼書に載る招魂の作法、復に重なる。復の作法は、『礼記』に詳しく書かれている。屋根に上り、衣で魂を招き、三度呼ぶ手順まで、道具立てはほぼ同じだった。屋根に、衣に、名前。
後日談がある。中原恒盛は、この魂呼びが陰陽師の務めに反するとして、のちに注意を受けたと伝わる。陰陽師に頼むほど追い詰められた父の姿と、その行為を咎める周囲の目が、同じ記録に並んでいた。
嬉子が産んだ後冷泉天皇には、結局世継ぎができなかった。摂関家はその後、力を落としていく。道長が屋根の上から呼び戻したかった娘は、その家の行く末にとっても、大きな存在だった。
最古級の記録に数えられる魂呼びが、貴族の屋敷で、しかも天皇家に連なる娘のために行われた。この作法はやがて庶民の暮らしへ降りていく。農村にも漁村にも広がり、場所ごとに姿を変えながら、民俗調査が書き留める時代まで続いた。
『小右記』から『新可笑記』まで
日本国語大辞典は、魂呼ばいの実例として二つの書物を挙げる。ひとつが平安時代の『小右記』の1025年の記事、もうひとつが江戸時代の浮世草子『新可笑記』で、刊行は1688年にあたる。どちらも、実在する書物だ。
二つのあいだには、六百年以上の開きがある。貴族の日記から町人向けの読み物へと、書かれる場所は大きく変わっても、魂呼びは言葉として生き続けていた。
デジタル大辞泉の説明は、もっとあっさりしている。死者の出た家の屋根に登り、大声で死者の名を呼ぶ習俗で、明治時代まで広く行われていた、とある。
辞典の上では、明治で区切られる習俗だ。ところが民俗調査の報告には、それより新しい時代の例が、ぽつぽつと混じる。辞典の言葉と現場の記録には、少し温度差がある。
愛媛では屋根の棟で箕をあおいだ
民俗の記録でとくに濃いのが愛媛県だ。県の生涯学習のデータベース『えひめの記憶』には、旧吉海町椋名や旧宮窪町、旧野村町惣川の作法が載る。呼び名はヨビカエシだった。
近親者か近所の人が、箕や団扇、タコロバチなどを屋根の棟や破風であおぎながら、死にかかった人の名を呼ぶ。道具であおぐ手つきまで、記録にちゃんと残っている。
旧宇和町と旧一本松町ではヨビモドシ、旧日吉村犬飼ではムネヨビと呼んだ。棟で呼ぶから、ムネヨビ。呼び名を聞くだけで、屋根の上の場面が目に浮かぶ。
旧中山町中山では、棟にまたがって箕を持ち、病人の名を呼び続けた。旧宇和島市の薬師谷では、「もんてこい、もんてこい」と声をかけたという。旧八幡浜市の若山には、箕であおいで「もどれよ」と大声で呼ぶ型があった。
もんてこい、もどれよ。難しい言葉は一つもない。叫ぶ側にあったのは、戻ってきてほしいという、ただそれだけの願いだ。
旧大洲市の長谷や蔵川では子供や若い人が亡くなったときに、旧肱川町大谷では瀕死の人に行ったという。急死した人の場合に、男が屋根の棟へ登って名を呼び、ひとよびと呼ぶ土地も報告されている。若すぎる死ほど、呼ぶ声は切実だっただろう。
瓦を剥ぎ、杉皮を剥ぎ、屋根に穴をあけた
屋根の上で呼ぶだけでは終わらない土地がある。和歌山県には、屋根の瓦を剥いで、そこから階下の死者に向かって名を呼ぶ型が報告された。
『民間伝承』の1948年9月号に、熊野の葬送習俗の報告が載った。舞台は、いまの田辺市本宮町にあたる山あいの集落で、怪我や急病で死にそうな人が出ると、まず枕元で名前を呼ぶ。そのうえで何人もが屋根に上り、棟を剥いでつくった穴に向かって大声で呼んだ。
呼んでも戻らなければ、それが寿命だと考えた。話者の記憶では、約40年前に田で倒れた人にこれをやったところ、まもなく意識を取り戻したという。呼ぶ側は、最後の望みを穴の底へ託し、返ってこなければ静かに受け入れた。
1985年の記録にも、屋根に登って杉皮を1枚剥ぎ、その人の名を呼んだ例が見える。瓦でも杉皮でも、屋根の一部を剥ぐことに変わりはなく、屋根に開けた小さな穴が、あの世とこの世をつなぐ通り道になる。
島根県の隠岐の島には、さらに凝った作法があった。屋根に穴をあけて細引きを垂らし、死者の髪の毛に結びつけ、屋根の上の人と細い綱でつなぐ。そのうえで名を呼ぶ。
声だけでは足りない。屋根と死者を、本物の綱で結んでおく。魂が通る道を、目に見える物として用意したことになる。
京都府の記録も具体的だ。1943年のものには、屋根の棟にまたがって重態の病人の名を呼ぶと、意識を取り戻すことがある、と見える。1933年の記録には、身内の重い者が大屋根へ上がり、棟にまたがって、その名を大声で呼ばわったとある。
鹿児島県の沖永良部島には、1943年の記録が残る。息を引き取る前に屋根へ上がり、南の海に向かって、二、三人でその人の名を呼んだ。すると病人は、一週間ほど延命したという。
もちろん偶然だったかもしれない。それでも呼んだ人たちの記憶には、声が命を延ばしたという実感が刻まれたはずだ。やめられなかった理由の一つは、こういう体験が土地ごとに語られたからだろう。
似た作法の報告は、ほかの県にも広がる。島根は1935年、長野は1933年、福島は1964年、宮崎は1965年。香川は1973年、静岡は1976年、高知は1990年、広島は1992年と、報告の年がずらりと並ぶ。
いちばん新しい報告は、沖縄の2001年と山梨の2003年だ。二十一世紀に入ってからも、魂呼びは調査の対象として書き留められていた。
井戸の底へ「戻れ」と叫ぶ
井戸を使う型も、確かにあった。千葉県には、井戸の底に向かって叫ぶ例が報告されていて、屋根へ上がる型が目立つなかでは、これは地面の下へ向かう型だ。
深い穴に向かって叫べば声は暗い水面で跳ね返り、呼んだ者の耳には、自分の声がこもって返ってくる。名前を穴の底へ落とすような、気味の悪い手触りがあっただろう。
井戸の作法は、死ぬ前に行うほうが効き目がある、と言われた。息が止まってからでは遅い。まだ息のあるうちに、井戸端へ走る。そんな切迫した夜。
京都の六道珍皇寺には、冥途への通路とされる井戸がある。民俗学者の常光徹は、角川選書の一冊『魔除けの民俗学』のなかで、魂呼びの話の流れにこの井戸を置いている。井戸の底は、あの世へつながる穴と見られていたらしい。
屋根が天へ向かう呼びかけなら、井戸は地の底へ向かう呼びかけだった。上と下、二つの方角。そこへ向けて、人は同じ名前を叫んでいた。
死はまだ終わっていなかった
根っこには、古い生命観がある。死は一瞬で完了するものではない、という考え方だ。魂は肉体からふっと抜け出しただけで、まだ遠くへは行っていない。
古代には、埋葬の前に殯という期間を置き、遺体を安置して、そばで別れを重ねた。その間に死者が生き返るかもしれないという期待が、どこかにあったとされる。
だから家族は、悲しみに暮れる前に屋根へ駆け上がった。あるいは井戸端へ走った。今ならまだ間に合う。名前という最も強い呼びかけで引き止めれば、魂は戻って、肉体にまた宿るかもしれない。
魂呼びをしたところで、生き返る保証なんてどこにもなかった。呼んでも呼んでも、死者が目を覚まさない夜のほうが、ずっと多かったはずだ。
それでも誰もやめなかった。精いっぱい名前を呼び尽くしたという行為そのものが、残された者にとっては、できる限りのことはしたと思えるけじめだった。慰めとして働いた面が強い。
八日八夜の喪屋で、死者は取りすがられた
殯の様子を、神話が描いている。『古事記』の天若日子は、高天原から遣わされた先で命を落とした。父の天津国玉神が地上へ降り、喪屋を建てて、八日八夜のあいだ殯をおこなう。
喪屋では、河雁や鷺、翡翠、雀、雉といった鳥たちが、それぞれに役を受け持った。歌や舞いで死者の魂をなぐさめ続け、何日も眠らずに、遺体のそばで騒ぎ続けるのが、古い弔いの形だった。
そこへ、阿遅志貴高日子根神が弔いにやって来る。この神は、亡くなった天若日子と、見分けがつかないほどそっくりだった。遺族は「死んでいなかった」と喜んで、神にすがりついてしまう。
神は、死人と間違えられたことに激しく怒り、喪屋を壊して、その場を去ってしまう。生き返ってほしいという願いが、人違いという形で噴き出した場面だ。
『魏志倭人伝』にも、日本の弔いの様子が出てくる。人が亡くなると、十日あまり喪主が声をあげて泣き、集まった人々は歌い、舞い、飲み食いを続けたという。通夜に賑やかな宴を重ねる習いは、ずいぶん古くから根づいていた。
死者のまわりで歌い、踊り、うまそうな物を食べて見せれば、魂が「自分も仲間に入れてくれ」と肉体へ戻ってくる。そう期待した、という説明が葬儀の解説にある。魂呼びは、体から離れてしまった魂を呼び返す作法だ。
魂を結びとどめる歌
魂呼びには、対になる作法がある。その名は、魂結び。呼び返すのが魂呼びなら、魂が体から離れないように留めておくのが魂結びだった。
着物の下前の褄を結び、「魂は見つ 主は誰とも知らねども 結びとどめつ 下がひの褄」という歌を3回唱える。男は左の褄、女は右の褄を結び、3日たってから解いた。
『源氏物語』には、この魂結びを詠み込んだ歌が出てくる。「嘆きわび 空に乱るる わが魂を 結びとどめよ 下がひの褄」。悲しみに耐えかねて体を抜け出した魂を、もう一度つなぎ止めてほしい、という訴えだ。
呼ぶか、結ぶか。抜け出した魂への、二通りの向き合い方。くしゃみをした直後に、わざと乱暴な言葉を口にする習いも、魂が飛び出すのを防ぐためだったとされる。昔の人は、魂が肉体から離れやすいものだと、よく知っていた。
泣き女は鎮め、魂呼びは呼んだ
死の場には、別の種類の声もあった。葬送で泣く役の女、泣き女だ。葬儀の研究では、泣き女の号泣を呪術的な直接行為と捉え、荒ぶる魂を鎮めるための声だったと説明する。
魂呼びは、向きがまるで逆だ。鎮めるのではない。蘇生や再生を促すために、死者の名を儀礼として大声で叫ぶ。
蘇生を促す叫びと、魂を鎮める泣き声。同じ死の場に、向きの違う二つの声が並んでいた。
呼んでも戻らなかったとき、叫び声は泣き声へ変わっていったのだろうか。記録にそこまでは書かれていない。分かるのは、人びとが二通りの声を使い分けていたことまでだ。
沖縄では、魂は落ちて、拾われた
沖縄の霊魂観には、マブイという言葉がある。魂のことで、マブヤーとも呼ぶ。事故や病気は、マブイが体から離れた、あるいは落ちたせいだと考えられてきた。落ちた魂を取り戻す役目を担うのが、ユタと呼ばれる人たちだ。
魂を落とすことをマブイウトゥシ、拾い戻す儀礼をマブイグミと呼ぶ。漢字で書けば魂込めだ。驚いたり強い衝撃を受けたりした生きた人が、儀礼の対象になる。
本土の魂呼びが主に死にかけた人や死んだ人に向けられたのに対して、沖縄のマブイグミは、生きている人にも広く向けられる。適用の範囲が、ずっと広い。
3日以内なら自分で行えるとも言われる。驚いた場所で地面に手をあて、魂をすくい上げて胸に押し当てる動作を3度くり返しながら、本人の名前を呼んで言葉を唱える。3日を過ぎたり、自分の手に負えなかったりすれば、ユタに頼る。
強い衝撃を受けたときは、夕方以降に、ススキを3本束ねた魔除けの草結び、サンを使う。儀式のあとは3日間、同じ寝巻きを着て、寝床にサンとハサミを置き続ける。
死者に対する魂呼びを指す言葉も、ちゃんとある。タマスアビー、つまり魂を呼ぶ声だ。宮古の言葉では、魂のことをタマスと呼ぶ。
久高島には、マンブカネーという儀礼が伝わる。カネーは囲うという意味で、魂込めの儀礼を指す語だ。叫んで呼び戻す本土の型と、そっと囲い込む型は、同じ魂を相手にしても、手つきがまるで違う。
家で死ぬ人が、いなくなった
屋根の上の魂呼びは、都市部ではほぼ姿を消した。理由を探すと、まず数字に当たる。
1951年、死亡の場所は自宅が82.5%を占めた。病院で亡くなる人は9.1%にすぎず、1975年には、病院が41.8%まで伸びた。1980年には52.1%に達して自宅を追い越し、2009年には、病院が約78%、自宅は約12%という数字になる。
死ぬ場所が家でなくなれば、屋根へ上がる場面が消える。病室の窓から叫ぶわけにはいかず、マンションの一室で、棟にまたがる人もいない。
それでも、願いは消えなかった。もう一度だけ、こっちへ戻ってきてほしい。その願いは、静かな形に姿を変えて、いまの看取りにも残っている。
臨終の席で、家族が脱脂綿に水を含ませ、死者の唇を湿らせる。末期の水、または死に水と呼ばれる作法で、由来は、釈迦の入滅の故事にあるとされる。
釈迦は入滅の前に、喉の渇きを訴えて弟子に水を頼んだ。最後に口にしたのは、鬼神が捧げた清らかな水だったという説がある。その水の故事が、日本の臨終の作法に重なっていった。
葬儀の解説書には、この水にこめられた願いが二つ書かれている。あの世で喉が渇かないように、というのがひとつで、もうひとつが、蘇生への希望だ。水の力で生き返ってくれ、という祈りが、この作法の底にある。
用意するのは、脱脂綿と水、それに箸の三つ。医師の臨終の宣告のあとに行い、脱脂綿で唇を左から右へなぞる。神道では、脱脂綿の代わりに榊の葉を使う。浄土真宗では、死後すぐに成仏するという教えから、この作法を行わない。
水を含ませる順番は、血縁の濃い順だ。配偶者、子、親、きょうだいと続く。屋根の上で名前を呼んだ顔ぶれと、ほとんど重なっていた。
