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🩸 赤不浄・青不浄――血と死は「穢れ」として女を隔離した

血を流せば、家を追い出される。かつての日本では、目に見えない「穢れ(けがれ)」への恐怖が、人の暮らしをきつく縛っていた。中でも恐れられたのが、血にまつわる「赤不浄」、死にまつわる「黒不浄」、それに出産にまつわる不浄だ。この考え方は女の体を穢れの出どころとして扱い、月のさわりや出産のたびに村の片隅の小屋へ移す掟を各地に生み出した。

赤、黒、そして青

穢れには種類がある。民俗の世界では穢れをいくつかに分けて恐れていて、赤不浄は血の穢れ、たいていは月経と出産にともなう血を指した。黒不浄は死の穢れ、つまり人が亡くなったことによる穢れのほうだ。

土地によっては青不浄を足す。出産の穢れを青不浄と呼ぶ例もあれば、特定の忌みを青不浄として呼び分ける例もあった。呼び名や区分けは土地ごとにずれる。それでも血と死という生の根っこの現象を、神聖な場や毎日の営みを穢す危ないものとして、きっちり分けた点はどこも同じだった。

月のさわりが来たら小屋へ

火まで分ける。穢れに触れた者は神事に近づけず、家族と同じ火を使うことまで避けられた。この観念がいちばん過酷な形をとったのが、女の隔離だ。月経中や出産前後の女は不浄とされ、家族と火を分け合うこと、つまり同じ竈で炊いた飯を食べることさえ忌まれていた。

行き先は忌み小屋だ。月経のための小屋は月経小屋、タヤ、ヒマヤなどと呼ばれ、出産のための小屋は産屋(うぶや)と呼ばれた。伝承では、女はさわりが来るたび、産み月が近づくたびにこの小屋へ移った。期間が明けるまで、家には戻れない。

これは昔話で終わらない。海辺や山村のいくつかの土地には、こうした小屋が近代まで実際に残っていたことが、民俗調査で確かめられている。血を流す女を、共同体は物理的に囲いの外へ出したわけだ。

血はなぜそこまで怖がられたのか

ただ嫌っていただけじゃない。血と出産への畏れは、嫌悪と崇敬が同居した両義的な感情から出てきている。血は命そのものの印で、出産は新しい命を生み出す神秘だった。人の知恵を超えた強い力は聖なるものでありながら、同時に日常の秩序を乱す危ないものでもあったんだよな。

だから囲い込んだ。手に負えない大きな力を穢れとして囲い、しばらく隔離し、やがて祓い清めて日常へ戻す。この手続きを踏むことで、共同体は得体の知れない生命力を安全に扱おうとした。塩で清めたり水で禊いだりする浄めの作法も、穢れを恐れる観念とぴったり背中合わせになって育っていったものだ。畏怖も排除も同じコインの裏表。

忌中の札と、土俵の論争

痕跡は今もある。この古い観念は、迷信のひと言で片付けられない跡をあちこちに残している。神社に不幸があったときの忌中の張り紙、忌明けまで祝い事を控える習わし、それに何度も議論になる「女人禁制」の問題。

大相撲の土俵がいい例だ。土俵に女が上がれない伝統は、何度も論争の火種になった。その論争が見せたのは、血や出産を穢れとみなす古層の観念が、形を変えて現代の社会まで生き延びているという姿だった。神聖とされる場から女を外す仕組みの根っこには、赤不浄への恐れが横たわっている。

命を生む体が、穢れの側へ回された

本当に怖いのはここだ。赤不浄と黒不浄の観念は、人の生と死のいちばん根っこの瞬間を、そろって穢れの側に置いてしまった。生まれること、死ぬこと、それから命を生む女の体。その三つがまとめて穢れの側へ回された。

出産すら不浄扱いだ。命が生まれる瞬間が穢れとされ、産む女は小屋へ追いやられた。この逆説を見ると、昔の日本人が生命力というものにどれほど激しい畏れを抱いていたのか、嫌でも分かってくる。

強すぎる力は境目を溶かす。聖なるものと穢れたものの境界がぼやけるから、隔離して期間を区切り、祓って戻す儀礼で飼いならすほかなかった。ただ、この観念が結果として女を月ごとに、出産ごとに家から締め出したのは確かだ。神聖な場所からも、ずっと外し続けた。

記録はほとんどない。忌み小屋に一人こもった女が何を思ったか、書かれたものはまず見つからない。穢れという言葉は畏敬の衣をまといながら、人と人を隔てる壁として確かに働いていた。土俵をめぐる論争が示すとおり、その壁は今の社会の見えにくい場所にまだ立っていて、血を恐れる心も清めきれていない。

敦賀の岬に、六畳二間が残った

福井県敦賀市の色浜。敦賀半島の付け根から海沿いを走ると、松林の切れ目に板壁の小屋が一棟、ぽつんと建っている。案内板がなければ、物置にしか見えないだろうね。もとは海べりにあったのを昭和四十九年に集落の人たちが今の場所へ移し、管理は今も色浜の住民が引き受けている。

中は六畳が二間。奥をオクゴヤと呼んで出産にあて、手前のクチゴヤは月のさわりのあいだ過ごす部屋に割り振られていた。産む女は奥へ、血の来た女は手前へ。使われなくなったのは、昭和三十五年前後のことだった。

屋根は低く、窓も小さい。今見ると、どこにでもありそうな古い板小屋にしか見えないのが、かえって落ち着かない気分にさせる。それなのに、戦後十五年目まで村の女がここへ一人ずつ入っていた。明治の法令が穢れの禁を解いてから、八十八年も経っていた勘定になる。

延喜式が数えた日数

平安の役所は、穢れを日数で管理した。『延喜式』の触穢の規定が、そこを驚くほど細かく決めている。人の死に触れたら三十日。出産に触れたら七日で、六畜の死なら五日、六畜の産なら三日と、それぞれにきっちり日数が振ってあったんだ。

この細かさがミソだ。穢れは気分の問題じゃない。甲の家に穢れが出ればそこへ入った乙へ移り、乙の家を訪ねた丙にも薄まりながら伝わる、という理屈が組まれていた。伝染する不浄を、律令国家は感染症の隔離に近い手つきで処理していた。

内裏にも入れない。穢れに触れた者が内裏へ入るのを止められた例は記録に数多く出てきて、祭祀を受け持つ側ほど日数の縛りを厳しく受けた。面倒なのは、この日数が国家の祭祀を実際に止めてしまったことだ。

祭りの直前に産や死が出たら、日を延ばすか担当者を替えるしかない。平安貴族の日記には、穢れの申告と日程の組み直しの記録が繰り返し出てきて、読んでいるとこっちまで疲れてくる。穢れは信仰の前に、役所の実務だった。江戸にも続く。同じ考え方は江戸の武家の服忌令に引き継がれ、誰の死なら何日謹慎するかという表まで作られている。

赤と黒と、白と青

赤不浄は血の穢れ。黒不浄は死の穢れだ。ここまではだいたい全国共通なんだけど、ややこしいのは三つ目からで、土地によって白不浄と呼んだり青不浄と呼んだりした。

三つ目は揺れる。白不浄は産の穢れを指す地域が多く、奄美や沖縄には「しら不浄」という言葉が伝わる。青不浄という呼び方も各地にあって、産の忌みを指す例と、それとは別の忌みを指す例に分かれた。この揺れ方そのものが、中央の法令だけでは説明しきれない、土地ごとの暮らしの厚みを教えてくれるわけだ。

中国地方と四国では月経の期間を「赤火」と呼び、小屋の名も「別火屋」「火小屋」「日小家」と、火にまつわる語が並ぶ。火の字ばかりだ。月経が、火の問題として語られていたわけだ。

出雲はまた違う。月経になることを「コイになる」と言い、小屋は「タヤ」とか「コイゴヤ」とか呼ばれていた。土地の言葉になるほど、暮らしの奥まで食い込んでいたんだよな。神社の入口に忌中の札が下がる家の者は鳥居をくぐらない、という作法も、各地の氏子のあいだで長く守られてきた。

火を分ける、という掟

別火という言葉がある。穢れは火を伝って移ると考えた人たちの工夫だ。月経中の女、産後の女、喪に服す者は家の竈から離され、別の火で煮炊きして別の鍋で食べる決まりだった。その鍋を別鍋と呼ぶ土地もある。

道具も一式そろえてあった。期間が明けると鍋も椀も洗い直し、元の棚へきちんと戻すところまで、あらかじめ手順として決められていた。家の中にもうひとつ台所があったようなものだ。

ここで話がねじれる。理屈の上では、これは締め出しというより管理に近い。神に近づく者、たとえば祭りの当番や斎戒中の神職、山に籠る行者もまた、同じように別火に入るからだ。聖の側と穢れの側が同じ作法を分け合っていたのが、この観念のいちばん厄介なところだった。

不便を背負ったのは、ほとんど女の側だ。月に一度、家の飯が食えない。自分の椀、自分の鍋、自分の火で三度の支度を済ませ、期間が明けるまで家族の輪から外れて暮らした。食事を分ける習慣は、地域によっては戦後まで続いた。

火のほうがしぶとい。小屋が消えたあとも、火を分ける習慣のほうが長く生き延びた形になる。漁村には船霊を祀る舟へ女が乗るのを嫌う土地があって、赤不浄の日は浜へ下りることさえ控えさせた例も伝わる。

「楽しかった」と「切なかった」

色浜の産小屋を取材した記録に、正反対の言葉が並んで出てくる。ひとつは、小屋にいるあいだは家事から解放されて、女同士で楽しく過ごせたという記憶。もうひとつは、産小屋は切なかったという一言だけの述懐で、同じ建物を知る人たちから逆向きの証言が出てきた。同じ小屋なのに。

楽しかった側の理屈は分かりやすい。漁村の嫁は朝から晩まで働く。小屋は、姑がいて、子がいて、網の手入れと魚の仕分けが毎日ある家から、月に何日か堂々と抜けられる場所だった。

飯は家族が運んでくる。持ってくる側は椀を小屋の入口へ置いて声だけかけ、中へは決して上がらない、という決まりを持つ集落もあったほどだ。休める場所ではあった。

切なかった側の理由も、同じくらい具体的だ。自分がいつ小屋へ入ったかを集落の全員が知っていて、何日目に戻るかまで、隣の家の人がちゃんと数えている。子どもが小屋の前を通りながら囃したてた、という話も各地で拾われた。体の周期が村の公開情報。

家ごとの差もあった。同じ村の中でも家によって厳しさが違い、姑の代の作法をそのまま通す家と、形だけ残して済ませる家に分かれていった。この二つの記憶は矛盾しない。

休みであり、同時に晒しでもあった。どちらが本当なのかを無理に一つに決める必要はなくて、小屋を知る女たちにとっては両方ともが本当のことだった。そこがいちばん重い。

出雲で「コイになる」

言い回しがまた独特だ。島根の古代文化センターがまとめた聞き書きによると、出雲では「タヤに居る」と言うだけで月経中を意味した。「コイになった」と言えば、それで通じる。名詞にも動詞にもなっているのが面白い。

小屋は集落の外れ、川べりや浜の近くへ建てられた例が多い。中は土間に藁を敷いただけのごく簡素な作りになっていて、そこへ布団を持ち込み、七日ほど寝起きして過ごした。島根では明治の終わりごろまで使われた地域があったという。薪と水の話もある。

薪や水を誰が運ぶかを女たちの側で順番に回していた村の記録も、聞き取り調査の中からちゃんと拾われている。食事の別火のほうは、もっと長く残った。戦後まで続いた集落がある。

禁止はほかにもあった。神棚に手を合わせない、井戸に近づかない、漁師の家なら舟へ触らない。こうやって並べてみると、当時の暮らしの真ん中にあったものが、まるごと禁止の側へ入っていたのに気づかされる。

大原の産屋、川砂の上の七日

京都府福知山市三和町大原。大原神社の向かい、川原へ降りた場所に、茅葺きの小さな建物が建っている。天地根元造と呼ばれる古い形式で、屋根がそのまま地面まで届いていて、出入りは妻側から中へ入る作りだ。昭和六十年五月、京都府の有形民俗文化財に指定された。

ここで何が行われたか。産み月の近づいた女は、藁を十二束かついで小屋へ入った。閏年なら十三束。月の数だけ束を持っていく決まりで、一年の暦がそのまま背中の藁の重さになっていたのが、なんとも面白い。

入口には古い鎌を吊るした。魔除けの作法として、錆びた刃をわざわざ選んだという。中に敷くのは川原の砂で、産婦はその砂の上に座ったまま七日のあいだじっと籠り、そのあいだは家へ戻らない。土の上で産むという形が、ずいぶん後の時代まで残った例になる。

この形での出産は大正期まで続く。産後の籠りの習俗のほうは、昭和二十三年ごろまで行われた。神社の伝えでは創建は仁寿二年、西暦でいえば八百五十二年にあたるから、千年以上も安産を願う人がここへ通ってきた勘定だ。産屋は神社と一組だ。大原神社の産育信仰と組み合わさっていて、安産祈願に訪れる人の目には、いまも同じ景色として入ってくる。

御簾紙とお馬

処置の話もしておく。小屋の話ばかりだと、肝心のところが抜けてしまう。平安期の女は麻の布で血を拭った。肌当たりの悪い布を繰り返し洗って使うしかなく、量の多い日をどう凌いだかまでは史料に出てこない。

紙の時代が来る。江戸時代に入ると、御簾紙と呼ばれる和紙を当てて、褌の形をした帯でそれを押さえるやり方が広まっていく。帯の形が馬の面繋に似ているところから、俗に「お馬」と呼んだ。紙や布の切れ端を中へ詰めて吸わせる工夫も、あわせて使われていた。

使い捨ての生理用品が国内に出回りはじめるのは、昭和三十年代だ。それまでの千年、月ごとの数日は手間と気疲れの時間であり続けた。脱脂綿が手に入るようになるのは明治以降の話で、それより前は紙と布を洗っては使い回す以外に手がなかった。面倒くさい話だよね。

ここはつながる。小屋に籠る風習はこの面倒くささと無関係じゃなくて、休息として語られた記憶の裏には、処置の不便が確かに横たわっていた。楽しかった、という色浜の声も、その裏側と地続きなのかもしれない。

四百二十字の地獄

短い経文がある。名を血盆経という。中国で作られた偽経で、成立の時期は十世紀以降と見る説と、十二世紀末から十三世紀初めと見る説に分かれた。日本には、遅くとも室町期には入ってきた。

中身は地獄の話だ。釈迦の弟子の目連が地獄をめぐると、血の池で大勢の女が獄卒に責められている。罪状は、産の血と経の血で地と水を穢したこと。生きているあいだに子を産んだというだけで、死んだあとにはその池へ落ちる、という筋書きになっていたわけだ。

救いもセットだった。経を写し、血盆勝会を営めば池から引き上げられる、と同時に説かれていた。恐怖と救いがひとつの巻物に収まっていて、この組み合わせが中世から近世にかけて女たちの心をつかんだ。

裏の前提がえげつない。経の功徳を説くその裏で、この世の女はみんな血の池行きだという前提が置かれていた。逃げ道は、写経と供養しか用意されていない。罪を作った側が同じ手で救いも売る、という仕組みになっているんだから、よく考えるとずいぶんな話じゃないか。

広めたのは熊野比丘尼だ。旅をする尼僧たちで、熊野観心十界曼荼羅の掛軸を持ち歩き、街角で絵解きをして見せた。血の池の場面を指し棒でなぞりながら護符を売り、字の読めない女にも絵で届かせた。池の底から手を伸ばす女たちの姿はひときわ大きく描かれていて、見た者の記憶に焼き付くよう工夫されている。

跡は各地に残る。越中立山の芦峅寺や、奈良の元興寺極楽坊にも、同じ種類の信仰の跡が伝わっている。千葉県我孫子市湖北台の正泉寺には、この信仰の資料がまとまって残された。血盆経二巻に江戸時代の絵画三幅、版木、関連する典籍までそろっていて、平成十年三月二十日に県の有形民俗文化財になった。

寺の由来もなかなかだ。寺の伝えでは開山は北条時頼の娘の法性尼で、室町期に手賀沼から経が現れたという縁起まで付いている。女の棺へ血盆経を納める習俗は、東海から近畿まで広がった。

階層も関係なかった。公家から百姓の妻まで信者がついて、救いを説くはずの経文が、同時に罪の観念を全国へ配って歩いた形だ。そこが、この経のいちばん怖いところだ。

男装して富士へ登った女

穢れの観念は、山の入口にも線を引いた。最初期の史料は、最澄の八条式で、弘仁九年のものとされる。はっきりした記事なら『菅家文草』の仁和二年十一月二十七日条で、「女人禁制」の四字の初見は文明七年だ。血盆経の伝来と歩調が合う。

高野山も同じだ。高野山の女人禁制は明治五年に解かれるまで続き、女たちは山裾に並ぶ女人堂から先へ、一歩も進めなかった。富士山にも結界があった。吉田口の二合目あたりに線が引かれ、女はそこから上へ行けない。

標の向こうは男の場所だった。結界の標を越えた先には宿坊と行場が並び、そこで積んだ修行を、村の男たちが一人前の証として数える仕組みも動いていた。天保三年九月二十七日、その線を越えた女がいる。名は高山たつ、二十五歳。

たつは一人じゃなかった。富士講の指導者である小谷三志らの一行に加わって、男の姿に身をやつし、そのまま山頂まで登りきったんだ。講の文書には「同行六人内女たつ辰二十五」と書かれている。

長いあいだ、日本初の女性登頂は英国公使パークスの夫人だと語られてきた。ところが調べてみると夫人の登山は慶応三年のことで、高山たつの登頂からは三十五年も後の話だった。記録は身内の文書に眠っている。

「文明の上より論じ候へば」

明治五年三月二十七日、太政官布告第九十八号が出た。神社仏閣の女人結界を廃し、登山参詣を随意とする内容だ。理由の文言に「文明の上より論じ候へば」とあって、開国後に入ってきた外国人の目を気にした布告だったことが透けて見える。京都博覧会の開催も絡んでいた。

現場の反応は三つに割れた。全面的に解いた山、期間を限って解いた山、一切動かない山。大峰山は三つ目を選ぶ。明治六年に解禁の提案が出たものの吉野と洞川の地元が反対して、明治十一年二月、政府は最終判断を各宗派へ投げてしまった。

結界はそのまま残る。昭和四十五年、地域振興を理由に線が後退した。吉野側は五番関まで十二キロ、洞川側は清浄大橋まで二キロ。それでも山上ヶ岳を中心に、東西十キロ、南北二十四キロという広い範囲が、いまも結界として残されている。

署名一万筆と、世界遺産

動いたのは女たちだった。平成十一年八月、奈良県教職員組合の女性たちが山上ヶ岳へ登った。話し合いのないまま実行に移したことで、地元の強い反発を招いている。平成十五年には畑三千代と源淳子を共同代表とする「『大峰山女人禁制』の開放を求める会」が発足した。

集まった署名は一万を超え、内閣へ提出された。平成十六年、紀伊山地の霊場と参詣道が世界遺産に登録される。女人禁制のまま通った。平成十七年十一月三日には、伊田広行や池田恵理子らの「大峰山に登ろうプロジェクト」が寺側へ質問書を出した。

その後、参加者の女性三名が実際に登っている。賛否は真っ二つに割れた。人権侵害だから即刻やめるべきだという声と、守ってきた者の合意なしに外から壊すのは筋が違うという声。どちらも譲らないまま、二十年以上が過ぎた。

地元も一枚岩じゃない。洞川の集落にもそれぞれの事情があって、宿や講の付き合いまで含んだ地元どうしの話し合いが、今も続けられている。通年で女人禁制を保つ山は、大峰山の山上ヶ岳と岡山の後山の二か所だ。

山ごとに対応が違う。後山には道仙寺の行者堂があって、登山道の途中に結界の標が立っている。石鎚山は七月一日の山開きの日だけ、女性の登拝を止める運用にしている。令和二年には「女人高野」が日本遺産に認定され、締め出してきた歴史を、遺産の側から語り直す動きも出てきた。

土俵の上の四分間

平成三十年四月四日、午後二時ごろ。京都府舞鶴市の舞鶴文化公園体育館で開かれていた大相撲の春巡業で、舞鶴市長の多々見良三が、あいさつの最中に倒れた。くも膜下出血だった。

客席から女性の看護師らが土俵へ上がり、心臓マッサージを始める。そこへ場内放送が入った。「女性は土俵から降りてください」「男性がお上がりください」と、行司の声で場内に複数回繰り返された。

会場がざわつく。そんなこと言ってる場合か、という声が客席から飛んだ。女性たちが降りたあと土俵には大量の塩がまかれ、協会はこれを、力士がけがをしたときと同じ通例にすぎないと説明した。その説明を額面どおり受け取った人は少なかった。

謝罪だけは早い。八角理事長は同じ日のうちに謝罪の文を出し、人命にかかわる状況には不適切な対応でした、という一文を入れた。事業部長の尾車も、どんな時も人命が第一だと述べている。それでも土俵の女人禁制そのものは動かなかった。

協会の説明はこうだ。協会は土俵の禁制を神事に由来する伝統と説明しているものの、現在の形が定着した時期については、いまも議論が残る。同じ年、宝塚市長の中川智子が土俵上でのあいさつを求めて、断られている。

子どもにも及んだ。春巡業のちびっこ相撲では女児に参加の自粛が求められ、協会はけがの心配と力士の戸惑いを理由に挙げた。説明するたびに、火は大きくなる。地方場所や巡業でのあいさつを誰がするかという段取りを、この一件のあとで見直した自治体もあった。

ネットの反応は、ほぼ一方向へ振れた。伝統より命が先だという投稿がごく短い時間で一気に拡散して、当日の映像がいろんな場所に何度も貼られていく。反論も出た。相撲は神事だから軽々しく変えられない、という主張も相当な数あった。

話は土俵で終わらない。議論は土俵を離れて赤不浄の話まで遡り、延喜式や血盆経の名前を出す投稿まで現れた。千年も前に役所が決めた日数の計算が、平成の体育館でまだしっかり効いていたんだから、ちょっと背筋が冷える。

久高島では、逆だった

本土の話ばかり書くと、見落とす土地がある。それが沖縄だ。琉球列島では月経のある女性が神事を主導していて、血を理由に神から遠ざけるという発想が、そもそも弱い。同じ日本列島で、前提がひっくり返るんだよ。

沖縄県南城市の久高島に、イザイホーという儀礼が伝わった。十二年ごと、午年の旧暦十一月十五日から四日間。三十歳以上の既婚女性が神女になるための就任式で、島には「男は海人、女は神人」ということわざが残った。役割がはっきりしている。

神女の組織には階級がある。最高職のノロ、補佐役の掟神、それからタムト、ウンサク、ヤジク、新しく加わるナンチュと続く。年齢に応じて役が一段ずつ上がっていく仕組みで、島の女は歳を重ねるほど上の役へと順に進んでいった。

最後に行われたのは昭和五十三年だ。平成二年は過疎でナンチュになる女性がおらず、祝詞と儀礼の段取りを知っていた外間ノロもすでに亡くなっていた。平成十四年も二十六年も中止。

同じ血について、北と南でここまで扱いが違った。本土も変わった。当の本土の神社にしても、月経中の参拝を明文で禁じる規定をいまも残しているところは、もうほとんど見当たらない。

誰も惜しまなかった建物

月経小屋は、ほぼ完全に消えた。建物として残るのは、色浜のような数例だけだ。禁令が出たのは明治五年なのに、小屋が実際に閉じるまで、土地によっては八十年以上もの時間がかかっている。

消えた理由は一つじゃない。暮らしの形が変わったのが一つ。昭和三十年代に使い捨ての生理用品が広まり、処理の手間はぐっと減った。家の中にまで水道と内風呂が入ってきたことで、小屋へ隔離するための物理的な口実も、だんだん薄れていった。

もう一つは、当事者が守ろうとしなかったことだ。保存運動もほぼ起きていない。残してほしいと訴えた女の記録もまるで見当たらないし、消えるときに惜しむ声は、どこからも上がらなかった。その一点が、中にいた人の気持ちをいちばんよく伝えている。

中の声は残らなかった。民俗調査で拾われたのは小屋の作りや籠りの日数ばかりで、中で何を考えていたかは、ほとんど書かれていない。文字を残す側に、女はあまり立てなかった。

時間もない。小屋の記憶を持つ世代はすでに九十を超えていて、聞き書きのできる時間は、もうそれほど長くは残されていない。急がないと、聞ける人がいなくなる。

いま色浜の小屋の前に立ってみても、聞こえてくるのは松林の向こうから届く海の音くらいのもので、ほかには何もない。板壁は補修され、屋根も直された。間取りは六畳二間。その半分に、月に一度、村の女が一人ずつ入っていった。

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