手のひらに載る土人形がある。高さは7センチあまり、幅は12センチほど。五人の子どもが、横一列に肩を並べている。古物商の出品解説によれば、底の覚え書きから1976年の入手と分かるそうで、作られたのは、それよりずっと前だ。
この人形の使い道は、葬儀にあった。京都には、友引の日に弔いを出さないという考え方があり、どうしても出すしかないときは、この土人形を棺に納めてきた。呼び名は友引人形で、友人形(ともにんぎょう)や共人形と書く土地もある。
役目は身代わりだ。友引に葬儀を出すと、亡くなった人が寂しさのあまり、親しい友を冥土へ引いていく。そんな俗信を、人は本気で恐れてきた。冗談では済まなかったんだよな。恐れの出どころは暦の字面なのに、棺の中の土人形は、実際に作られ、実際に納められたんだ。
引き分けの日が、友を引く日に化けた
六曜は、先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口の六つが順に巡る暦注だ。決め方は意外に単純。旧暦の月と日を足して6で割った余りで決まり、旧暦1月1日なら1と1で2、余りも2だから先勝になる。
もとをたどると、時刻の吉凶を占う「六壬時課」という中国の占いに行き着く。日本へ入ったのは室町のころらしいが、はっきりしない。日付の吉凶に使う形が整うのは、ずっと後の江戸時代になってからだ。
貞享5年、1688年の『頭書長暦』には、日の吉凶を並べた図が載る。大安、立連、則吉、赤口、小吉、虚妄。いまの六曜とは名前がだいぶ違い、このなかの「立連」、別の書き方で「留連」が、友引のもとの姿だ。名前が変わると、意味も変わった。
元禄9年、1696年に妙法院の『六曜私』が出ると、六曜という言葉と、先勝、友引、先負の名が現れる。1747年の『万暦両面鑑』には、いまと同じ六曜がそろい、仏滅の表記も見える。1854年の『安政雑書万暦大成』には、仏滅の古い形の「物滅」が出てくる。江戸の終わりごろ、現在の吉凶の読み方が出そろった。
友引の中身は、もともと引き分けだった。勝負事は決着がつかず、良くも悪くもない日。朝と晩は吉で、昼は凶という言い方もある。葬式との縁など、どこにも見当たらない。
ところが字面が悪さをした。「友を引く」と読めてしまう。しかも陰陽道には「友曳」という別の忌みがあり、十二支の決まった日に友曳方へ出かけたり、葬儀を営んだりするのを避けた。音が同じなので混同された、という指摘がある。
幕末のころ、方位の友引と混じり合い、この日に葬式を出すと他人の死をさそう、という習慣が生まれたという。江戸時代以降、友引に葬儀を出すと友が冥土に引き寄せられる、という俗信は広まっていった。引き分けの日が、死者が友を連れていく日に化けたわけだ。字面ひとつで、ここまで話が転がる。
大安は混み、仏滅は割引になる
六曜のほかの日にも、それぞれ顔がある。順に見ていく。先勝は先んずれば勝つの意味で、午前が吉、午後が凶になり、先負はその逆で、午前が凶、午後が吉と読む。赤口は、午前11時ごろから午後1時ごろの午の刻だけが吉で、あとは凶という変わり種だ。
大安は、大いに安しと書く。何をやっても吉とされ、婚礼や建前は大安に集まりやすい。仏滅は万事に凶の最大凶日だ。婚礼などの祝いごとを避ける習慣のせいで、料金を割り引く結婚式場まである。
さて友引だ。祝いの席では、悪い日どころか歓迎する人もいる。夫婦円満の意味に読んで披露宴を開いたり、幸せのお裾分けとして、引出物をこの日に送ったりする。同じ二文字が、祝いの場では福を呼び、弔いの場では嫌われるんだ。
お上に禁じられても、六曜は生き残った
明治5年、1872年に改暦の布告が出て、日本は旧暦から太陽暦へ切り替わった。同じ年の11月24日には、歳徳や金神、日の善悪といった暦注を、暦に書き足してはならないという布告も出ている。吉凶の占いは、お上が表向き禁じたんだ。暦の文字は消えなかった。
禁止は長く効かなかった。明治15年ごろには、暦注をぎっしり載せた民間の暦が出回り始め、人々はそれを「オバケ暦」と呼んだ。禁じられたせいで、六曜がかえって重んじられた、という話もある。
戦後になると、政府による暦の統制が外れた。六曜入りのカレンダーが普通に売られ、日取りの目安として広く使われていく。暦は息を吹き返した。結婚式は大安がいい、葬式は友引を避ける。そんな感覚は、この流れの先にある。
役所は逆の動きをしている。根拠のない迷信だとして、公共機関のカレンダーから六曜を外すよう、行政指導が入ってきた。それでも壁に掛かった暦の片隅には、小さな二文字が居座り続ける。
大分県の佐伯市では、2015年の12月25日に、六曜入りの記念カレンダーの配布中止が発表された。市制10周年を祝う「佐伯市10年ダイアリー」で、5万冊が作られ、製作費は2500万円にのぼる。市は配布をやめ、回収に動いた。
市の担当者は、六曜を科学的根拠のない迷信や因習で、偏見や差別など人権問題につながる恐れがあると説明している。これまで六曜入りの暦を作った記憶がなく、今回は手違いだったとも話した。市民からは、「載せて何が悪いんだ」という問い合わせが相次いだ。
火葬場の定休日と、友引明けの混雑
友引に葬儀を出さない習慣は火葬場のカレンダーにも写り、友引を定休日にする火葬場は各地にある。東京都の一部の火葬場では、年間の予定表に友引休業日がはっきり書き込まれているという。
北海道の札幌市は、日付まで残る例だ。昭和59年度、1984年度に里塚斎場が完成したときから、友引の日を休場にしている。理由は二つ書かれていて、一つは、それまで友引の日の火葬の実績が極めて少なかったことだった。
もう一つは、機器の点検日を確保する必要があったこと。そのため札幌市内では友引の日に火葬を頼めず、信心だけでなく台所事情も混じっているのが分かる。
休む理由は、ほかの説明でも三つ並ぶ。友を引くという縁起の悪さ。多くの家族が友引を避けるので、予約が極端に少なくなる需要の低さ。そして、それが慣習として固まったこと。業務の効率から友引を休業日にした自治体が多い、という話だ。
休みの前後には、しわ寄せが来る。友引の翌日の火葬場は混み合う。希望の日に葬儀を組めない遺族も出てきて、日程が友引をまたぐだけで1日以上ずれ込む例は珍しくない。
年末年始や連休、お盆に亡くなると、待ち日数はさらに延び、1週間以上待つ場合もあるという。友引の休みは、その積み重ねのひとつにすぎない。火葬場が休めば、遺体は待つしかないんだ。
近ごろは、友引でも通常どおり開ける火葬場が増えた。2021年には、東京の桐ケ谷斎場、四ツ木斎場、お花茶屋会館が、2月13日と3月13日の土曜に友引営業を試している。3施設だけの様子見だった。流れは確かに変わった。愛知でも、友引に営業する火葬場が増えてきたそうだ。
亡くなって24時間は焼けない
日取りは、自由に動かせるものでもない。「墓地、埋葬等に関する法律」の第3条は、死亡後24時間を経過しなければ、埋葬も火葬もしてはならないと定めている。亡くなったその日に焼くことは、法律の上でできない。立ちはだかる法の壁。
蘇生の可能性が残る時代の名残だ、という説明がある。医学が進んでいなかった頃は、死亡の診断のあとに息を吹き返した例があったらしい。いまの医療では起こり得ないとされるが、決まりだけが残った。例外は、妊娠7か月に満たない死産と、感染症で亡くなった場合に限られる。
最短の流れは、逝去の翌日に通夜、翌々日に告別式。ただ、そのとおりに進む家は少なく、4、5日後になる例も珍しくない。そこへ友引が挟まれば、予定は1日分ずれる。
葬儀の側にも、段取りの知恵がある。通夜は別れの場でなく、故人との思い出に浸る場だから、友引でも差し支えない、と説明される。告別式が友引に当たるときは、前の夜に本通夜、その前の夜に仮通夜を置く形が多い。翌日の火葬場が混みやすいので、前もっての日程の調整は欠かせない。
紙のひとがたが、先にあった
友引人形の根は、もう少し古いところにある。神社の大祓では、人の形に切った紙を使う。名前と年齢を書き、息を吹きかけ、体の具合の悪いところをなでて、穢れを移す。そのあと川や海へ流したり、神社に納めたりした。
大祓は、毎年6月と12月の晦日、新暦で6月30日と12月31日に営まれる。古い行事だ。『日本書紀』には、天武天皇5年、676年の8月に、全国の国造や郡司から馬や布や麻を出させて大解除を行ったと見える。701年の大宝律令で、宮中の年中行事として正式に定まった。
形代は持ち主に代わって災いを引き受ける器で、人の形をしたものに厄を預ける発想は、古くからこの国にある。穢れは紙が引き受けた。友引人形は、その発想を弔いの場へ持ち込んだ形、という読み方がある。
もう一本、別の筋もある。葬儀社のブログに、友引人形の原型は、故人が冥土で寂しくないよう棺へ入れた埋葬人形、という説明が載っている。故人に人形を抱かせて身代わりを連れていってもらい、慰めと厄除けがひとつの人形に重なっているんだ。
友引の災いの書かれ方は生々しく、「友を引く」の言葉が道連れを連想させ、次々に不幸が起きるという。その災いから逃れるために、故人に人形を持たせる。
人形に託される意味は、整理すると三つ重なる。連れていかれる友の身代わりになること。一人で旅立つ故人の連れになること。そして、災いを払う厄除けになること。小さな人形ひとつに、三つの願いが詰め込まれているんだ。
稲荷山の土が、五人の子どもになった
京都の友引人形は、伏見人形の一種だ。形は、五人の子どもが並んだ姿。素材は、伏見稲荷のある稲荷山の土になる。
伏見人形は、日本の土人形の元祖と呼ばれる。始まりは400年ほど前、桃山時代の終わりから江戸時代の初めごろだ。参詣者が稲荷山の土を土団子にして持ち帰り、田畑にまいた習わしが、人形づくりへ移ったという話がある。土師部が深草土器の技を人形に転用して、参詣者向けの土産にした。
江戸の終わりごろ、伏見には50軒から60軒の窯元が並び、稲荷の参道には伏見人形の露店が軒を連ねていたという。各地の土器や瓦の職人が、これを手本に作り始め、土人形の産地は全国で100ヶ所近くに広がった。伏見の系統を引かない土人形はない、とまで言われる。
そのなかの一種が、友引人形だった。京都には、友引の日に葬儀を出さず、やむを得ず出すなら友引人形を棺へ納める風習があった。最近はもう、ほとんど行われない。手のひらの五人の子どもは、古い時代の遺物へ移りつつある。
市松人形も、こけしも、軍手もあった
形は、京都の土人形に限らない。大阪では、友引人形を「いちま人形」と呼ぶ。京阪地方では「いちまさん」だ。市松人形のことで、歌舞伎役者の佐野川市松に似せて作られたのが名の由来という。もとは子どもの着せ替え人形で、明治から戦前にかけて抱き人形として流行した。
人形の形はさまざまで、子どもが手に取って遊ぶような人形もある。木製のこけしのようなものに、手描きで顔や蓮の花を描き込んだものもあるという。ぬいぐるみを選ぶ家も多い。決まった型より、故人のそばに置いて違和感のないものが選ばれた。
北九州の葬儀社のブログに、こんな例が載っている。故人の家族が、軍手で友引人形を手作りした。ひ孫たちが顔を描き、息子夫婦がメッセージを添えて、柩の中に収めたそうだ。手づくりの一体。
その葬儀社は、友引の葬儀には「友を引く、友を道連れにする」という迷信が残る、と書く。人形を入れておけば、俗説への心配は要らない。軍手の指が、小さな手の形をしている。道連れを肩代わりする人形として、最後の贈り物として、よくできている。
大阪や滋賀に残る習わしと、知らない土地
風習の濃さは、土地によって違う。大きな差。友引人形は、大阪などの関西に見られる習わしだ。大阪では友引でも火葬場が開いていて、通常どおり葬儀を出す人も多い。焼くのはいい、けれど友を連れていかれるのは困る、という理屈で人形が棺に入る。
滋賀の彦根、長浜、米原のあたりでは、棺に友引人形を入れる習慣が今も残る。必須ではなくなり、家族の希望で選ぶ形に変わってきた。それでも、小さな人形が故人の友になって旅立ちを見守る、という意味づけは生きている。
愛知では事情が違う。葬儀社のブログによれば、愛知県や豊田市では友引人形になじみがない。友引でも葬儀を出す地域に限られた作法だからだ。全国共通の決まりではないんだ。
葬儀社の側も、ずいぶん変わってきた。友引を定休日にする葬儀社が多い一方で、友引に葬儀を出すことは悪いことではない、と書く会社もある。友引でも対応できる体制を整え、友引の葬儀や告別式の依頼は増えてきたという。大阪市の葬儀社は、友引の葬儀のときに友引人形と呼ぶ身代わり人形を棺に入れる、と案内している。
棺に入れていいのは燃えるものだけ
火葬炉で焼く前提だから、棺の中は燃えるものだけの世界になる。メガネや入れ歯、時計や指輪は、金属が含まれるので入れられない。分厚いハードカバーの本や、メロンのような大きな果物も、燃えにくいため断られる。厳しい条件。
硬貨は燃えないうえに、現金を燃やすこと自体が違法になる。ビール缶や一升びんも不可で、ペースメーカーは火葬中に破裂する恐れがあり、申告が欠かせない。入れてよいのは、手紙や寄せ書き、小さなお菓子、少量の衣類。思い入れのある人形も、そのひとつだ。
人形には、人形の注意点がある。燃えない飾りのついたものや、燃えにくい素材のぬいぐるみは、遺骨に付着する恐れがある。プラスチックのおもちゃも、燃えない可能性がある。だから葬儀社は、燃える素材の小さなぬいぐるみを用意するよう、遺族に伝えている。
意外な決まりもある。生きている人の写真は、あの世に連れていかれてしまうという俗説があり、棺には入れない。身代わりを入れるのに本人の写真は入れず、同じ恐れが別の形で顔を出しているんだ。
お寺は迷信と言う、年配の親族は気にする
六曜は、仏教と関係がない。仏滅も同じで、字面に仏の字が入っていても、お釈迦さまとは何のつながりもない。友引の二文字が仏事の日取りを縛ってきた、って話だ。
浄土真宗は、日の吉凶を選ぶことをはっきり戒める。親鸞は『正像末和讃』に、「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」と書いた。道俗とは、僧と俗人のこと。卜占は占いで、祭祀は神々を祀る儀式を指す。
僧も俗人も、良い日取りを選ぶことに囚われ、占いや祭りに励んでいる。親鸞はそれを「悲しいことよ」と嘆いた。教えの根にあるのは、日の吉凶に従うことが、本来の生き方を見失わせるという考えだ。だから浄土真宗は、友引でも葬儀を出す宗派だ。迷いはない。
それでも気にする人は残る。正直、理屈では割り切れない。年配の人や、迷信を大切にする人には、友引を避けたい気持ちが強い。マナーというほど堅い決まりではない。けれど、遺族の側が人形ひとつで安心できるなら、それが一番という場面もある。
窯元は一軒になった
江戸の終わりに50軒から60軒あった伏見人形の窯元は、いまは一軒だけだ。丹嘉という。寛延年間、1750年ごろの創業で、8代目が継いでいる。
型は、土型と石膏型の二種類。土型は擦り減りにくいので江戸時代から使い続けていて、約2000ある型のどれにも、昔から伝わる物語がある。成形は、前後の二面を型から取り出し、乾かないうちに貼り合わせる。生地は春と夏に作り、色をつけるのは9月から3月だ。夏は絵の具が腐りやすく、冬は土が凍る代わりに絵の具の調子がいい。
狐や干支、招き猫、お多福。歌舞伎の役者を写した人形もあり、変わり種にはペンギンまである。年に2万個ほどが、この窯から世に出ていく。2月最初の午の日の初午には、伏見稲荷の大祭に合わせて、火防の布袋さんが並ぶ。小さなものから年々大きなものを授かり、福が年々大きくなるように願うものだそうだ。
友引人形の風習は京都でもほとんど行われなくなり、火葬場が友引に開いて、葬儀を出す家も増えた。五人の子どもの土人形は、古物商の棚の上で、底の覚え書きを抱えたまま静かに並んでいる。
