葬儀の日取りを決めるとき、カレンダーの「友引」を気にする家は今も多い。どうしても日程をずらせない。そんなとき、棺のなかへ小さな人形をそっと入れて送り出す、という手がある。名前は友引人形。
「亡くなった人が友を連れていかないよう、人形に代わってもらう」。字面だけ見ると少し怖い。ただ実際の葬儀では、遺族を落ち着かせるための習わしという面が大きく、どこかの宗派が定めた決まりでもない。同じ日本のなかでも、地域によって家によって、人形の扱いはずいぶん違う。
「友を引く」は後から生まれた連想
友引は大安や仏滅と同じ六曜のひとつで、もとは勝負がつかず双方が引き分ける、という意味の「共引」だったという。のちに字が「友引」へ変わった。いつの間にか「友を引く日」という読みが定着した。
「この日に葬儀をすると、故人が親しい人を道連れにする」。そんな俗信がそこから広がった。仏教の教えから出た話でもなく、文字の印象が先に立ってできた風習だ。寺院によっては、友引を避ける必要はないとはっきり説明している。
それでも葬儀は家族や親戚が集まる場で、誰か一人でも強く心配していれば、理屈だけでは片づかない。人の代わりになるものを棺へ入れた。これで大丈夫だと気持ちに区切りをつけた。その役を担ったのが友引人形。
棺に入れる小さな身代わり
友引人形といっても、立派な市松人形ばかりでもない。形はまちまちだ。紙や木、布でこしらえた小さな人形を使う家もあれば、故人がかわいがっていたぬいぐるみを代わりにする家もある。京都の伏見人形には、友引の葬儀で棺に納めるための型が伝わってきた。
人の形をしたものに災いや穢れを移す。考え方の名は形代。その発想は日本各地の祭りや神事にも見られ、友引人形もそれに近い身代わりだと考えると腑に落ちる。ただ、いつどこで始まったのかは一つに決められず、すべての地域に共通する作法でもない。
人形を入れたから何か超常的な効き目がある、と確かめられてはいない。まあ、そこは本筋じゃない。肝心なのは、残された側が不安を抱えたまま見送らずに済むかどうかだ。葬儀を終えるまでの心の支えとして続いてきた。「迷信だから」の一言で片づけるより、そう見るほうが実態にずっと近い。
火葬場の「友引休み」との関係
友引に葬儀を避ける家が多かった。それで火葬場も、友引を休業日にすることがあった。理屈は単純だ。これは宗教上の規則というより運営上の都合も大きく、予約がほとんど入らない日に設備を止める、という現実的な事情だ。
現在は地域ごとに事情が違う。友引でも稼働する火葬場はあるし、その一方で、今も定休日としている施設もある。友引の翌日には予約が集中する。希望する日時を取りにくくなることもあるので、日程を決める際は葬儀社や火葬場への確認が欠かせない。
棺に人形を入れたい場合も、勝手に用意せず担当者へ相談したほうがいい。念のため書いておく。金属やプラスチックを含む品、燃やしたときに有害物質が出る素材は断られる場合がある。地域の条例や炉の設備によって、燃やしていいものの条件が細かく異なるからだ。
怖い話より、見送る人の気持ち
友引人形には「入れ忘れると家族に不幸が続く」という怪談もついて回る。ところが、そんな話を事実として裏づけるものはない。もともと不安を和らげるための人形が、いつの間にか不安をあおる道具になってしまっては本末転倒だ。
故人を一人で旅立たせるのは寂しいから、せめて小さな連れを持たせたい、という遺族もいる。そこにあるのは恐怖だけでもなく、好きだった物をそばに置いて最後までその人らしく送りたい、という素朴な気持ちでもある。
使うかどうかに全国共通の正解はなく、宗派と地域と火葬場の決まりを確かめたうえで、家族が納得できる方法を選べばいい。「友を連れていく」という言葉だけを怖がるより、小さな人形がなぜ必要とされたのかを知る。そこまで分かると、この風習の見え方も少し変わってくる。
