もとの資料に書かれている内容
もとの資料は、新潟県十日町・魚沼などの豪雪地帯で、長男以外の男子を「おじろく」、女子を「おばさ」と呼び、結婚と財産相続を禁じて無償労働に従事させたとする。さらに、戸籍から外された、老いて働けなくなると雪山に捨てられた、生還者がいた、吹雪の中で霊や消える足跡が目撃された、という話を収録している。
- もとの資料公開日:2025年3月27日
- 調査用原文はローカル保存済み。転載公開はしない。
記録と照らすで確認できた制度
國學院大學『國學院雜誌』63巻1号(1962年)には、水野都沚生「置き忘られた制度の遺物『おじろく・おばサ』の調査と研究」が掲載されている。書誌情報はCiNii Researchと国立国会図書館で確認できる。 近藤廉治「未文化社会のアウトサイダー」(『精神医学』6巻6号、1964年)の公開概要は、対象地を長野県下伊那郡天竜村と明記する。概要によれば、耕地の零細化を防ぐ事情から、長兄だけが結婚して社会生活を営み、他の兄弟姉妹は他家へ養子・嫁入りしない限り結婚や村内交際を制限され、戸主のため無報酬で働いた。男を「おじろく」、女を「おばさ」と呼び、宗門別帳や戸籍簿には「厄介」と記されたという。
同概要には、明治5年(1872年)に人口約2,000人の村で190人、昭和35年(1960年)には男性2人・女性1人まで減少したとの記述もある。少なくとも「そうした呼称も制度もすべて創作」という扱いはできない。
1. 舞台
史料が示す中心地は南信州の天龍村であり、新潟県十日町・魚沼ではない。もとの資料は「豪雪」「雪山」「越後」を物語の核にしているが、対象地を置き換えている。
2. 戸籍上の扱い
近藤論文の概要は「宗門別帳や戸籍簿に『厄介』と記された」とする。これは「戸籍に載らず法的に存在しなかった」というもとの資料の説明と逆である。「厄介」は家に属し扶養・従属する者を示す歴史的な記載で、直ちに無戸籍を意味しない。
3. 山への追放
老いて働けなくなった者を雪山へ捨てた、生還者が吹雪から戻った、女性が春まで発見されなかった、という具体例は、もとの資料に出典が付いていない。今回確認した1962年・1964年の書誌と公開概要にも、そのような事例は見つからなかった。
4. 「奴隷」という表現
無報酬労働、婚姻制限、低い家庭内地位は、現代の人権感覚から見て極めて苛酷である。一方、「奴隷」は強い評価語であり、法的身分を正確に示す語として史料が用いているかは別に確認する必要がある。本ページでは、史料に即して「家族内身分」「家族制度」「疎外された者」と記録する。
異説・ネット上の噂
- 新潟にも同じ制度があった
- 戸籍のない子だった
- 働けなくなると山へ捨てられた
- 雪山におじろく・おばさの霊が出る
- 廃村で人影や途中で消える足跡が見える
- 現代も山奥で制度が続いている
これらは噂として保存するが、現段階では出典未確認。新潟の郷土史、戸籍・宗門人別帳、具体的な村名、証言採録、調査者名が提示されない限り、南信州の実在制度から派生した地域置換型の怪談とみるのが妥当である。
記録から分かること
制度の存在自体は学術資料で確認できる。しかし、もとの資料は実在した南信州の制度を新潟の豪雪怪談へ移し、「無戸籍」「雪山への遺棄」「生還者」「霊の目撃」を追加している。したがって、史実の核を持つが、地理誤記と怪談的増幅が大きい資料として保存する。
まず、この制度がどのような生活として営まれていたのかを、記録に沿ってできるだけ具体的にたどっておきたい。長野県下伊那郡天龍村(旧神原村)は山あいの急峻な土地で、耕せる平地がほとんどない。江戸期の分地制限令の影響もあり、限られた田畑を細分化させないため、家督と結婚の権利は長男ひとりに集約された。次男以下の男子は「おじろく」、嫁がずに残った娘たちは「おばさ」と呼ばれ、生涯にわたり家のために無報酬で働いた。
朝は誰よりも早く起き、山仕事や畑仕事、家事に従事し、村祭りや若者組の寄り合いにも加わらず、恋愛や結婚は他家へ養子・嫁入りする道以外には閉ざされていた。戸主のための労働力として位置づけられ、宗門人別帳や戸籍簿には「厄介」という言葉で記載されたと伝えられる。精神科医・近藤廉治が1960年代に行った調査記録の紹介によれば、彼らの多くは表情に乏しく、言葉数が少なく、質問にもぽつりぽつりとしか答えなかったという。
趣味や将来への希望を尋ねられても答えられない者が多く、幼いころから「そういうものだ」と刷り込まれてきたために、自分の境遇を特段不幸とも感じていなかった、という趣旨の記述も紹介されている。明治5年(1872年)の記録では、人口約2,000人の村に190人ものおじろく・おばさがいたとされ、昭和35年(1960年)には男性2人・女性1人にまで減少していたという数字が残る。
発祥・初出について整理すると、学術的な初出は民俗学者・水野都沚生による論文「置き忘られた制度の遺物『おじろく・おばサ』の調査と研究」で、國學院大學の『國學院雜誌』63巻1号(1962年)に掲載された。水野の調査は囲炉裏端で対象者と穏やかに話を聞く形で行われたとされ、比較的多角的な記述だったと紹介されている。
続いて精神科医・近藤廉治が「未文化社会のアウトサイダー」を『精神医学』6巻6号(1964年)に発表し、こちらは鎮静剤アミタールを用いた面接を主な手法とした精神医学的調査だった。ネット上で広く引用され、無表情・無感情という強いイメージの源になっているのは主にこの近藤論文の紹介記事だと考えられる。
さらに遡ると、1938年発行の郷土誌『南信伊那農村誌』に、既に制度の詳細な記録があったという指摘もあり、1960年前後の「発見」報道は、高度経済成長期にあって「前近代の遺物」として全国的な注目を浴びたことによる再発見に近いという見方も示されている。
インターネット上での拡散は、2ちゃんねるやその後継の掲示板群のオカルト板・怖い話スレッドで話題になったのが早い段階の広まりとみられ、その後まとめブログ、Yahoo!知恵袋の質問投稿、個人noteでの論文検証記事、YouTubeの都市伝説考察動画、旧串良町ならぬ天龍村を実際に訪れた旅行記ブログなど、多様な媒体で語り継がれるようになった。
派生・別バージョンとしてまず挙げられるのが、対象地を新潟県の豪雪地帯(十日町・魚沼)に置き換えた「新潟版」である。この版では、無戸籍とされたことや、働けなくなった高齢者が雪山に置き去りにされ、そこで凍死した、あるいは奇跡的に生還したという筋書きが加わる。
しかし今回確認した学術資料の範囲では、新潟における同種の制度も、雪山遺棄の記録も見当たらず、南信州の実在制度が地理的に置き換えられた上で、姥捨て伝説の要素が混入した派生形だと考えられる。もう一つの派生は、戸籍上の扱いをめぐる解釈の対立である。
「戸籍からも社会からも存在を消された」という無戸籍説がネット上では広く流布しているが、学術側の紹介では「厄介」という語で戸籍・宗門人別帳に記載されていたとされ、法的に存在しないのではなく、家に従属する立場として記録されていたという説明の方が実態に近いとみられる。
三つ目の派生は、制度の過酷さそのものを疑問視する立場で、長野県出身の複数のnote投稿者が、近藤論文で用いられたアミタール面接法の信頼性(暗示にかかりやすく、当時のアメリカでも冤罪の一因になったとされる手法)を指摘し、無表情・無感情という像が誇張されている可能性、対象者同士の性的関係が実際には存在したという記述、祭り参加禁止についても確認が難しいことを挙げ、センセーショナルな都市伝説化に警鐘を鳴らしている。
四つ目の派生として、雪山に霊が出る、廃村で人影や途中で消える足跡が見えるという怪談的な尾ひれ、さらには現代でも山奥のどこかで同種の制度が続いているという都市伝説的な噂も、ネット掲示板や考察動画のコメント欄で繰り返し語られている。 体験談・目撃談としては、実際に天龍村を訪れた旅行者のnote投稿が具体的である。
投稿者は制度が行われていたとされる集落を実際に歩き、急峻な斜面にへばりつくように建つ家屋や、平地の乏しさを目にして「これほど土地がなければ、長男以外に食い扶持を分けられなかったのも無理はない」と実感したと綴っている。
Yahoo!知恵袋には、天龍村在住を名乗る高校生が「村から出たことがなく外の世界を知らない」という趣旨の相談を投稿し、これが「おじろく・おばさの現代版では」という反応を呼んでネット上で話題になったという経緯もある。
また、ネット上では「山中で祖父から聞いた話」として、かつて集落の年配者が『あの家にはおじろくがいて、口をきかんで働くだけの人じゃった』と語っていたという体験談も紹介されており、実際に会ったことがあるという年配者の証言が孫世代を通じて伝わる形で語られている。
ほかにも、廃屋となった旧家の跡地を訪れた人が「誰もいないのに視線を感じた」「作業小屋の奥に古い蓑と鍬が並んでいて、まだ誰かが使っているように見えた」という体験を語るブログ記事もあり、これらは史料的な裏付けを持たないものの、制度の記憶が土地の空気として語り継がれていることを示す証言として読むことができる。 掲示板・SNS・考察界隈の反応は大きく割れている。
一方には、この制度を「奴隷制度」「日本の暗部」として強く告発的に語り、現代のブラック企業やヤングケアラー問題と重ね合わせて論じる立場がある。他方には、長野県出身者を中心に「対岸の火事のように消費されることへの違和感」を表明し、アミタール面接という調査手法の限界や、当時の郷土誌との記述の食い違いを冷静に指摘する立場がある。
ライターの昼間たかしが月刊ムーへの寄稿を「内容が強烈すぎる」との理由で掲載拒否されたとしてnoteで公開した経緯も話題になり、水野論文では囲炉裏端で穏やかに聞き取りができたという記述がある一方、近藤論文の紹介記事はより陰惨な調査環境を強調しており、どちらの像がより実態に近いかという論争が今もオカルト系・郷土史系の両方の読者の間で続いている。 最後に、関連する実在の地名と事件性についてまとめておく。
長野県下伊那郡天龍村、とりわけ旧神原村は、この制度が学術的に記録された中心地であり、現在も山間過疎地域として知られる。この制度は個別の事件として立件されたものではなく、あくまで家族制度・地域慣習として存在したとされ、当時の法体系のもとでは違法行為として扱われていなかった。
しかし無報酬労働と婚姻の自由の剥奪という点で、現代の人権基準からは深刻な問題をはらんでいたことは間違いなく、その重さを娯楽的な「奴隷伝説」として消費するだけでなく、山村における土地不足という経済的必然と、そのしわ寄せを弱い立場の家族員に負わせた歴史として記録しておくことが必要である。
おじろく・おばさを家族制度として読む
長野県南部に伝えられた「おじろく・おばさ」は、家を継がない次男以下の男性や女性が婚姻せず、本家の労働を担う慣行として報告された。男性をおじろく、女性をおばさと呼ぶ説明が一般的だが、地域、家、時代によって呼称や生活条件には差がある。全員が座敷牢へ入れられ、会話能力を失った「奴隷」だったと一括するのは正確ではない。
山間地で耕地が限られ、家産を細分化しにくい状況のなか、家を単位に生活を維持する仕組みが背景にあったと考えられる。それは制度を正当化する理由にはならず、本人の婚姻や移動の自由が強く制限された例もあった。残された聞き取りは高齢になった当事者や周囲の記憶を基にするため、誰が、いつ、どの集落で語ったかを確認する必要がある。
ネットでは「新潟の村に残った奴隷制度」として紹介されることがあるが、主に報告される地域は南信州であり、新潟という表記は地名の取り違えや転載時の誤記とみられる。誤った県名を繰り返すと、実際の地域史へたどれなくなる。論文や民俗調査の書誌情報を示さず、写真だけを当事者の姿として使う記事にも注意したい。
当事者が寡黙だったという記録を、知的能力が低かった、感情がなかったと読み替えるべきではない。長期の労働や家内での立場、調査者との関係によって語り方は変わる。慣行が衰退した時期も、学校教育、徴兵、就職、交通の変化など複数の要因が関わる。恐ろしい奇習として遠ざけるより、近代日本の家制度と地域経済のなかで、誰の選択が制限されたのかを具体的に見る必要がある。
同じ地域でもすべての家が同じ慣行を持ったわけではない。調査対象になった少数の事例を村全体の性格へ広げず、戸数、年代、聞き取り人数を確認したい。現在の住民を「奴隷村」の子孫として撮影したり、住居を探し回ったりする行為も、歴史調査とは呼べない。
参照:国立国会図書館サーチ https://ndlsearch.ndl.go.jp/
