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おじろく・おばさ――南信州の家族制度と「新潟奴隷」説の誤記

資料をたどれば、制度そのものは確かにあった

まず押さえておきたい本がある。國學院大學の『國學院雜誌』63巻1号、1962年の号だ。ここに水野都沚生の「置き忘られた制度の遺物『おじろく・おばサ』の調査と研究」が載っている。書誌情報はCiNii Researchでも国立国会図書館でも確認できる。

近藤廉治の「未文化社会のアウトサイダー」も外せない。『精神医学』6巻6号、1964年の掲載だ。その公開概要は、対象地を長野県下伊那郡天竜村とはっきり書いている。舞台は最初から南信州なんだよな。

概要によれば、耕地の零細化を防ぐ事情があった。長兄だけが結婚し、社会生活を営む。ほかの兄弟姉妹は、他家へ養子や嫁入りに出ない限り、結婚も村内の交際も制限された。そして戸主のために無報酬で働いた。

男を「おじろく」、女を「おばさ」と呼ぶ。宗門別帳や戸籍簿には「厄介」と記された、という。数字も残っている。明治5年、1872年の時点で、人口約2,000人の村に190人。昭和35年、1960年には男性2人・女性1人まで減っていた。

少なくとも、呼称も制度もまるごと創作だ、という扱いはできない。ここは動かせない。そのうえで、ネットで広まった話とのズレを一つずつ見ていく。

舞台は南信州であって、越後ではない

史料が示す中心地は南信州の天龍村だ。新潟県の十日町でも魚沼でもない。ところがネットで広まった話は、「豪雪」「雪山」「越後」を物語の核に据えている。対象地がまるごと置き換わっているわけだ。

戸籍から消されていた、は逆だ

近藤論文の概要は、宗門別帳や戸籍簿に「厄介」と記されたとする。これは「戸籍に載らず法的に存在しなかった」というネット版の説明と真逆だ。「厄介」は家に属して扶養され、従属する者を示す歴史的な記載である。無戸籍を直ちに意味する語ではない。

雪山へ捨てたという話に出典がない

老いて働けなくなった者を雪山へ捨てた、生還者が吹雪から戻った、女性が春まで発見されなかった。この手の具体例に、出典が付いていない。今回確認した1962年と1964年の書誌にも、その公開概要にも、そうした事例は見つからなかった。

「奴隷」と呼んでしまっていいのか

無報酬の労働、婚姻の制限、家庭内での低い地位。現代の人権感覚から見れば、極めて苛酷だ。一方で「奴隷」は強い評価語でもある。法的身分を正確に示す語として史料が用いているかどうかは、別に確かめる必要がある。だからここでは、史料に即して「家族内身分」「家族制度」「疎外された者」と記録しておく。

ネットに流れている異説を並べておく

新潟にも同じ制度があった、戸籍のない子だった、働けなくなると山へ捨てられた。この三つが定番の言い回しだ。

さらに、雪山におじろく・おばさの霊が出る、廃村で人影や途中で消える足跡が見える、現代も山奥で制度が続いている、という話も回っている。

これらは噂として保存しておく。ただし現段階では出典が確認できていない。新潟の郷土史、戸籍や宗門人別帳、具体的な村名、証言の採録、調査者の名前。そのどれもが提示されない限り、南信州の実在制度から派生した地域置換型の怪談とみるのが妥当だ。

記録から見えてくるもの

制度の存在自体は、学術資料で確認できる。しかしネットで広まった話は、実在した南信州の制度を新潟の豪雪怪談へ移している。そこへ「無戸籍」「雪山への遺棄」「生還者」「霊の目撃」を追加している。史実の核は持つが、地理の誤記と怪談的な増幅が大きい資料として保存しておく。

ここからが本題だ。暮らしぶりを、記録に沿ってもう少し具体的にたどっておきたい。長野県下伊那郡天龍村、とりわけ旧神原村は山あいの急峻な土地で、耕せる平地がほとんどない。江戸期の分地制限令の影響もあり、限られた田畑を細分化させないため、家督と結婚の権利は長男ひとりに集約された。

次男以下の男子は「おじろく」と呼ばれた。嫁がずに家に残った娘たちは「おばさ」だ。どちらも生涯にわたり、家のために無報酬で働いた。

朝は誰よりも早く起きる。山仕事、畑仕事、家事。村祭りにも若者組の寄り合いにも加わらない。恋愛や結婚は、他家へ養子や嫁入りに出る道のほかは閉ざされていた。

戸主のための労働力として位置づけられ、宗門人別帳や戸籍簿には「厄介」という言葉で記載されたと伝えられる。

精神科医の近藤廉治が1960年代に行った調査記録の紹介によれば、彼らの多くは表情に乏しかった。言葉数も少ない。質問にも、ぽつりぽつりとしか答えなかったという。

趣味や将来への希望を尋ねられても、答えられない者が多かった。幼いころから「そういうものだ」と刷り込まれてきたためだ。自分の境遇を特段不幸とも感じていなかった。そういう趣旨の記述も紹介されている。

数字も押さえておく。明治5年、1872年の記録では、人口約2,000人の村に190人ものおじろく・おばさがいたとされる。昭和35年、1960年には男性2人・女性1人にまで減っていたという数字が残る。

初出をたどると、学術的な一本目は民俗学者の水野都沚生による論文だ。「置き忘られた制度の遺物『おじろく・おばサ』の調査と研究」。國學院大學の『國學院雜誌』63巻1号、1962年に掲載された。

水野の調査は、囲炉裏端で対象者と穏やかに話を聞く形で行われたとされる。比較的多角的な記述だったと紹介されている。

続いて精神科医の近藤廉治が「未文化社会のアウトサイダー」を発表する。『精神医学』6巻6号、1964年だ。こちらは鎮静剤アミタールを用いた面接を主な手法とした、精神医学的な調査だった。

ネット上で広く引用され、無表情・無感情という強いイメージの源になっているのは、主にこの近藤論文の紹介記事だと考えられる。

さらに遡る話もある。1938年発行の郷土誌『南信伊那農村誌』に、すでに制度の詳細な記録があったという指摘だ。だとすると1960年前後の「発見」報道は、高度経済成長期に「前近代の遺物」として全国的な注目を浴びた再発見に近い。そういう見方も示されている。

拡散の経路もはっきりしている。早い段階の広まりは、2ちゃんねるやその後継の掲示板群、オカルト板や怖い話スレッドあたりだ。そこからまとめブログ、Yahoo!知恵袋の質問投稿へと移っていく。個人noteでの論文検証記事、YouTubeの都市伝説考察動画、天龍村を実際に訪れた旅行記ブログ。多様な媒体で語り継がれるようになった。

派生版でまず目立つのが、対象地を新潟県の豪雪地帯へ置き換えた「新潟版」だ。十日町や魚沼が舞台になる。この版では無戸籍とされた設定が加わる。さらに、働けなくなった高齢者が雪山に置き去りにされ、そこで凍死した、あるいは奇跡的に生還したという筋書きも付く。

ところが今回確認した学術資料の範囲では、新潟における同種の制度が出てこない。雪山遺棄の記録も見当たらない。南信州の実在制度が地理的に置き換えられ、そこへ姥捨て伝説の要素が混入した派生形だと考えられる。

もう一つの派生は、戸籍上の扱いをめぐる解釈の対立だ。「戸籍からも社会からも存在を消された」という無戸籍説が、ネット上では広く流布している。一方、学術側の紹介では「厄介」という語で戸籍や宗門人別帳に記載されていたとされる。法的に存在しないのではなく、家に従属する立場として記録されていた。その説明の方が実態に近いとみられる。

三つ目の派生は、制度の過酷さそのものを疑問視する立場だ。長野県出身の複数のnote投稿者が、近藤論文で用いられたアミタール面接法の信頼性を指摘している。暗示にかかりやすく、当時のアメリカでも冤罪の一因になったとされる手法だ。

そのうえで彼らは、無表情・無感情という像が誇張されている可能性を挙げる。対象者同士の性的関係が実際には存在したという記述にも触れる。祭り参加禁止についても、確認が難しいという。センセーショナルな都市伝説化に警鐘を鳴らしているわけだ。

四つ目は、もっと怪談寄りの尾ひれだ。雪山に霊が出る、廃村で人影や途中で消える足跡が見える。現代でも山奥のどこかで同種の制度が続いている、という都市伝説的な噂もある。ネット掲示板や考察動画のコメント欄で、繰り返し語られてきた。

体験談も出てくる。具体的なのは、実際に天龍村を訪れた旅行者のnote投稿だ。投稿者は制度が行われていたとされる集落を歩いている。急峻な斜面にへばりつくように建つ家屋、そして平地の乏しさ。「これほど土地がなければ、長男以外に食い扶持を分けられなかったのも無理はない」と実感したと綴っている。

Yahoo!知恵袋には、別の角度の投稿がある。天龍村在住を名乗る高校生が、「村から出たことがなく外の世界を知らない」という趣旨の相談を書き込んだ。これが「おじろく・おばさの現代版では」という反応を呼び、ネット上で話題になったという経緯もある。

「山中で祖父から聞いた話」として語られる体験談もある。かつて集落の年配者が『あの家にはおじろくがいて、口をきかんで働くだけの人じゃった』と語っていた、という内容だ。実際に会ったことがあるという年配者の証言が、孫世代を通じて伝わる形になっている。

ほかにもある。廃屋となった旧家の跡地を訪れた人のブログ記事だ。「誰もいないのに視線を感じた」「作業小屋の奥に古い蓑と鍬が並んでいて、まだ誰かが使っているように見えた」。史料的な裏付けは持たない話ではある。それでも、制度の記憶が土地の空気として語り継がれている証言としては読める。

掲示板やSNS、考察界隈の反応は大きく割れている。一方には、この制度を「奴隷制度」「日本の暗部」として強く告発的に語る立場がある。現代のブラック企業やヤングケアラー問題と重ね合わせて論じる向きだ。

他方には、長野県出身者を中心とした、消費のされ方への違和感がある。対岸の火事のように扱われることへの居心地の悪さだ。この立場はアミタール面接という調査手法の限界や、当時の郷土誌との記述の食い違いを冷静に指摘する。

ライターの昼間たかしをめぐる一件も話題になった。月刊ムーへの寄稿が「内容が強烈すぎる」との理由で掲載拒否された、という経緯をnoteで公開したものだ。

論争の芯はここにある。水野論文には囲炉裏端で穏やかに聞き取りができたという記述がある。一方、近藤論文の紹介記事は、より陰惨な調査環境を強調する。どちらの像がより実態に近いのか。オカルト系と郷土史系、両方の読者の間で議論は今も続いている。

最後に、実在の地名と事件性の話をしておく。長野県下伊那郡天龍村、とりわけ旧神原村は、この制度が学術的に記録された中心地だ。現在も山間過疎地域として知られている。

この制度は、個別の事件として立件されたものではない。あくまで家族制度、地域の慣習として存在したとされる。当時の法体系のもとでは、違法行為として扱われていなかった。

それでも無報酬の労働と、婚姻の自由の剥奪。この二点で、現代の人権基準からは深刻な問題をはらんでいた。娯楽的な「奴隷伝説」として消費して終わりにはできない。山村における土地不足という経済的な必然と、そのしわ寄せを弱い立場の家族員に負わせた歴史。そう記録しておく必要がある。

家族制度として読み直す

長野県南部に伝えられた「おじろく・おばさ」は、慣行として報告されたものだ。家を継がない次男以下の男性や女性が婚姻せず、本家の労働を担う。男性をおじろく、女性をおばさと呼ぶ説明が一般的だが、呼称や生活条件は地域や家、時代によって差がある。

全員が座敷牢へ入れられ、会話能力を失った「奴隷」だった。そう一括りにするのは正確ではない。

山間地で耕地が限られ、家産を細分化しにくい。そういう状況のなか、家を単位に生活を維持する仕組みが背景にあったと考えられる。もちろん、それは制度を正当化する理由にはならない。本人の婚姻や移動の自由が強く制限された例もあった。

残された聞き取りは、高齢になった当事者や周囲の記憶を基にしている。だから、誰が、いつ、どの集落で語ったのかを確認する必要がある。

ネットでは「新潟の村に残った奴隷制度」として紹介されることがある。だが主に報告される地域は南信州だ。新潟という表記は、地名の取り違えか、転載時の誤記とみられる。誤った県名を繰り返すと、実際の地域史へたどれなくなる。

論文や民俗調査の書誌情報を示さず、写真だけを当事者の姿として使う記事にも注意したい。

当事者が寡黙だったという記録を、知的能力が低かった、感情がなかったと読み替えるべきではない。長期の労働、家内での立場、調査者との関係。語り方はそれによって変わる。

慣行が衰退した時期についても同じだ。学校教育、徴兵、就職、交通の変化。複数の要因が関わっている。恐ろしい奇習として遠ざけるより、近代日本の家制度と地域経済のなかで誰の選択が制限されたのかを、具体的に見た方がいい。

同じ地域でも、すべての家が同じ慣行を持ったわけではない。調査対象になった少数の事例を、村全体の性格へ広げてはいけない。戸数、年代、聞き取り人数を確認したい。

現在の住民を「奴隷村」の子孫として撮影する。住居を探し回る。そういう行為は、歴史調査とは呼べない。

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