ピアス穴から出た白い糸
耳たぶにピアスを開けた少女が、穴から細い白い糸が出ていることに気づく。
糸くずだと思って指でつまみ、ゆっくり引く。妙に長い。途中で切ると、突然目の前が暗くなった。病院で診てもらうと、医師は言う。
「それは糸ではありません。視神経です」
一九八〇年代から九〇年代に学校生活を送った人なら、一度は似た話を聞いたかもしれない。結末の型はいくつかあって、片目が見えなくなるもの、両目を失明するもの、眼球が飛び出すもの。白い糸を抜いた瞬間、目の奥で「プツン」と音がした、と付け加える語り手もいた。
やっかいなのは、この話を聞いた後で初めてピアス穴を見たときだ。皮膚の内側が目まで一本の糸でつながっているような気がしてくる。
先に言っておく。耳たぶから視神経が出てくることはない。白い物が付くことはあっても、それを引き抜いて失明するという筋書きは人体の構造と合わない。
では、なぜこれほど長く語られたのか。耳の構造、ピアス穴から出る物、現実に注意すべき合併症。この三つを順に確かめると、作り話が本物らしく聞こえる仕掛けが見えてくる。
視神経は目から脳へ向かう
視神経は、眼球の奥から脳へ視覚情報を運ぶ神経である。
網膜で光を受け取った神経細胞の線維が集まり、眼球の後方から出て視神経になる。左右の視神経は頭蓋内へ進み、一部が視交叉で交わった後、さらに脳の奥へ情報を伝える。
耳たぶを通る経路は、どこにもない。
耳たぶは、皮膚と皮下組織からできている。耳の上部の硬い部分と違い、内部に軟骨はない。血管や知覚に関わる細い神経は分布している。けれど、視神経のような太い線維が眼球から耳たぶへ伸びてはいない。
耳介そのものは、軟骨組織を皮膚が覆い、音波を集めて外耳道へ送る部分だ。上部には軟骨があるが、もちろんこれも視神経ではない。
仮に視神経が本当に切断されれば、重大な視覚障害が起きる。ただ、その損傷は眼球の後方や頭蓋内の外傷、腫瘍、炎症などで問題になる。耳たぶの皮膚へ小さな穴を開け、そこから神経を引き出せる配置ではない。
「神経は白く細長いから、糸に見えてもおかしくない」という説明も聞く。たしかに神経線維は白っぽく見えることがある。それでも、体内の神経が裁縫糸のように皮膚の穴から余って出ていることはない。周囲の組織の中を走り、枝分かれし、末端へつながっている。
耳たぶにある細い知覚神経を傷つける可能性と、視神経を引き抜く話は、まるで別ものだ。
穴から見える白いものは何か
ピアス穴から白っぽいものが出た、という体験そのものは、すべてが嘘というわけじゃない。
穴を開ける行為は、皮膚を貫く小さな外傷だ。治る過程では、透明から淡い色の液がにじみ、乾いてかさぶたのようになることがある。皮脂、角質、石けん、化粧品、衣類の繊維が穴の周囲にたまることもある。
古いピアス穴では、内側が皮膚のような組織で覆われている。そこから剝がれた角質と皮脂が混ざれば、白い塊や細長い栓のように見える場合がある。
新品のピアスを拭いたティッシュや綿棒の繊維が穴へ付着して、糸のように見えることも考えられる。細い繊維を見つけた人が例の怪談を知っていれば、「あれが視神経なのでは」と連想する。まあ、無理もない話だ。
ここで肝心なのは、正体の分からない物を力任せに引かないことだ。
といっても、理由は視神経じゃない。治りかけの組織や固まった分泌物、かさぶたを無理に剝がせば、出血させ、傷を広げ、細菌が入るきっかけを作ってしまう。それだけの話だ。
糸状の物が傷の奥へ続いている。強い痛みがある。膿や血が出て、耳が腫れて熱を持つ。こんなときは怪談の答え合わせをせず、医療機関へ相談した方がよい。
本当に怖いのは感染と軟骨の損傷
視神経の話が嘘だからといって、ピアスに危険がないわけじゃない。
穴を開けた直後は、皮膚の防御が破られている。器具、手指、アクセサリーが清潔でなければ、細菌が入って感染することがある。
感染が疑われる徴候はいくつもある。腫れが強くなる、赤みや熱感が広がる、痛みが増す。白・黄・緑色の膿が出る、発熱や悪寒がある。
英国の国民保健サービスは、ピアス感染を早く治療しないと重症化する場合があると注意している。感染を疑ったら医療上の助言を受けるように、という案内だ。
耳たぶより注意が必要なのが、耳介上部の軟骨へ開けるピアスだ。
軟骨は血流が乏しく、周囲の軟骨膜に炎症や感染が起きると治療が難しくなる。耳介が広く赤く腫れ、強く痛み、軟骨と軟骨膜の間に膿がたまることがある。治療が遅れれば軟骨が傷み、耳の形が変わるおそれもある。
耳の軟骨膜炎の原因例には、ピアスによる感染も並ぶ。出てくる症状は耳介の腫脹、発赤、疼痛、そして膿瘍で、どれも軽く扱える言葉じゃない。
「耳へ穴を開けると目が見えなくなる」という架空の危険を恐れる一方で、赤く腫れた耳を「ピアスはこんなもの」と放置する。これでは逆効果だ。目の前の異変は、迷信ではなく症状で判断しないといけない。
血液を介する感染にも注意がいる
穴を開ける器具が適切に使い捨て、滅菌されていなければ、局所の化膿だけでは済まない。血液を介する感染症の問題も生じる。
厚生労働省のウイルス肝炎に関する資料によれば、B型肝炎とC型肝炎は血液や体液を通じて伝播する。だから同じ資料は、ピアス穴開けに使った器具を共用しないよう注意を促している。
米国疾病対策センターも、C型肝炎の感染経路になり得るものとしてタトゥーやボディピアスを挙げる。無認可・無規制の施設や、非公式な環境で行われるものだ。
ここで「ピアスをした人は肝炎になる」という新しい恐怖話へ飛びつくと、元も子もない。
リスクが高まるのは、器具が他人の血液で汚染され、そのまま次の人の皮膚を貫くような状況だ。だから話は具体的な対策へ落ちる。衛生管理がしっかりした場所を選び、使い捨ての針や滅菌方法を確認する。自分や友人の安全ピンで開けない。
「白い糸」は目で見えるから、一瞬で怖さが伝わる。細菌やウイルスの方は見えない。地味な衛生管理の説明より、視神経を引き抜く話の方が記憶に残りやすかった。
金属アレルギーと接触皮膚炎
穴そのものが落ち着いた後でも、アクセサリーの金属に反応して皮膚炎が起きることがある。
かゆみ、赤み、湿疹、滲出液が出ると、感染と見分けにくい。市販の「低アレルギー」表示があっても、誰にとっても安全だと決まっているわけじゃない。
ニッケルなど特定の金属に感作されている場合は、皮膚へ触れるたび炎症を繰り返す。消毒を増やせば治る、という話でもない。刺激の強い薬剤を何度も使って、皮膚をさらに荒らすこともある。
原因が感染なのか、金属への反応なのか、それとも外傷なのか、見た目だけでは断定しにくい。長引くときは、皮膚科などで判断を受ける方がよい。
ケロイド――傷より大きく盛り上がる
ピアス穴の周囲が硬く盛り上がり、徐々に大きくなることがある。
傷を治すために作られた組織が過剰に増え、元の傷の範囲を越えて広がる。これがケロイドだ。耳は、ピアス後のケロイドが生じやすい場所のひとつとして知られる。
米国皮膚科学会は、本人や血縁者にケロイドの経験がある場合、耳のどの部分へのピアスでも生じうると注意している。皮膚が厚くなり始めた段階で、皮膚科へ相談することが大事だという。
ケロイドは単なる大きなかさぶたではない。かゆみや痛みを伴うことがあり、切除だけでは再発しやすい。圧迫、注射、手術などを組み合わせて治療する場合がある。
怪談の白い糸には「抜いた瞬間」という劇的な転換がある。現実のケロイドは少しずつ厚くなるので、緊急性を感じにくい。それでも、早い段階で気づく意味は大きい。
なぜ「耳」と「目」がつながったのか
身体の離れた場所が見えない一本の線でつながっているという話は、昔から多い。
足の裏のつぼを押すと内臓が変わる。眉毛を抜くと目が悪くなる。耳には全身の反射区がある。こうした説明に日常的に触れていると、耳と目を結ぶ神経があっても不自然に聞こえない。
耳鼻咽喉科という診療科名も、耳と鼻と喉が解剖学的に関係することを示している。おまけに顔面の神経や血管は複雑で、耳の周囲にも細い神経がある。
「頭の中はすべてつながっている」という漠然とした理解へ、視神経という医学用語を一つ入れる。それだけで、怪談は急に専門的に見えてくる。
白い糸という小道具も巧妙で、正体不明の白い繊維なら誰でも皮膚や服で見たことがある。見たことのない臓器ではなく身近な糸が、体の中から出てくる。だから聞き手は、つい自分の耳を触りたくなる。
しかも、糸を「抜く」のは自分の手だ。怪物に襲われるのではない。知らずに自分の視力を奪ってしまう。好奇心と後悔が結びついた話は、子ども同士の警告としてとにかく強い。
ピアスが若者文化になった時代
この噂が広がったのは、ピアスが日本で若者の装身具として目立ち始めた時期と重なる。
耳へ穴を開けることに抵抗のある親や教師にとって、ピアスは単なる飾りではなかった。校則違反、不良、身体を傷つける行為、外国文化。そういう印象が次々に重ねられた。
「化膿するから衛生に気をつけなさい」。この説明では、やりたい年頃の子どもを止められない。「耳から神経が出て失明する」なら、一度で恐怖を植えつけられる。
噂の伝わり方を研究した論考では、この話が日本の現代伝説の代表例として扱われてきた。誰か一人が作った広告文というより、ピアスへの不安と学校の口コミの中で、結末や細部を変えながら広がった、と考える方が自然だ。
ある学校では、失明したのは隣町の女子高生だった。別の地域では、知人の姉の友達になった。病院名や教師の名前が足されることもある。遠すぎず、直接確かめられない距離に人物を置くのは、現代伝説によくある語り方だ。
「友達の友達」が噂を本物にする
白い糸の話をする人は、たいてい「昔こんな噂があった」とは始めない。
「先輩の友達が本当にやったらしい」
「知り合いが勤める病院へ運ばれた」
「保健の先生が言っていた」
出所が近いようで確かめられない、そういう形にする。
相手が「視神経は耳を通らない」と反論しても、「でも、その子は本当に見えなくなった」と体験談の強さで押し返せる。医師や看護師を登場させれば、医学的な裏付けがあるように感じられる。
噂は、解剖図のように正確である必要がない。聞いた人が次の一人へ話したくなる程度に、具体的であればいい。白い糸、引っぱる手、暗くなる視界。この三つの映像があれば、数十秒で再生できる。
インターネットが普及すると、この話は「有名な都市伝説」として検証の対象になった。それでも完全には消えないのは、短い動画や投稿で初めて聞く世代へ再び届くからだ。昔は先輩から後輩へ渡った話が、今はおすすめ欄から流れてくる。
神経を傷つけたら何が起きるのか
「視神経ではなくても、耳の神経を抜いたら危ないのでは」と不安になる人もいる。
ピアス穴の周囲にも、感覚を伝える末梢神経の細い枝はある。穴開けの瞬間に痛みを感じるのは、皮膚へ刺激が加わるからだ。傷によって一時的なしびれや感覚の変化が起きることもありうる。
ところが、そこから一本の長い神経が糸のように垂れて、つまんで何十センチも引き出せる、という話にはならない。神経は組織の中で枝分かれしている。独立したコードが皮膚の穴へ余っている構造ではない。
強い痛み、しびれ、感覚の低下が続くなら、「視神経ではないから大丈夫」と自己判断せず、診てもらってほしい。都市伝説を否定することと、目の前の症状を軽視することは、まったく別だ。
ピアス穴を安全に扱うために
新しく穴を開けるなら、経験があり、衛生管理を説明できる施術者を選ぶ。自宅で安全ピンや再使用の器具を使うのは、感染と組織損傷の危険を増やすだけだ。
触る前には手を洗い、指定された方法で清潔を保つ。過酸化水素や刺激の強い消毒剤を頻繁に使えばいい、という話でもない。米国皮膚科学会は、治癒途中の皮膚を傷めることがあるとして、過酸化水素や抗菌石けんを避け、低刺激の洗浄を勧めている。
赤みが少しある、淡い液が乾いて付く。この程度の初期変化と、広がる腫れ、熱、増す痛み、膿、発熱は分けて考える。後者があれば、早めに医療上の相談をする。
念のため書いておくと、感染が疑われるときにアクセサリーを自分の判断ですぐ外すべきかどうかは、状況による。
穴が閉じて内部に膿がたまることがあるため、国民保健サービスは、医師から指示されない限り装身具を残すよう案内している。引っかかって裂けた、埋まり込んだ、金属アレルギーが疑われる。別の事情もあるので、一律の答えはない。
白い糸を怖がるより、耳を見る
「ピアス穴から視神経が出る」は、解剖学的に成立しない。
耳たぶと眼球の奥を結ぶ線は、どこにもない。穴から見える白い物は、角質、皮脂、乾いた分泌物、外から付いた繊維など、もっと身近なものとみていい。
けれど、この都市伝説を笑って終わらせるだけでは足りない。
ピアスは皮膚へ傷を作る。現実の問題は、感染、軟骨膜炎、金属アレルギー、ケロイド、血液を介する感染症のほうだ。どれも、白い糸を引いた瞬間に失明するほど劇的ではない。その分、赤みや腫れを放置しやすい。
怪談は、存在しない危険を大きく見せる。かわりに、本当に見るべき小さな変化を隠してしまう。
耳から何かが出ていても、視神経ではないかと怯える必要はない。正体を確かめず引っぱらず、耳の色、熱、痛み、腫れ、分泌物、体調を見る。怖い話より、自分の体が実際に出している徴候を読む。それが一番確かだ。
