- 08番とほぼ同じ中身の、もう一本
- 服は匂いも体型も覚えている
- まだ裏の取れていない話たち
- 昔の日本は、死者の着物を着ていた
- 平安の「御形見の衣」と、財産としての布
- 四十九日という待ち時間
- 喪の日数は、幕府の法令で決まっていた
- 七つ前は神の内、という例外
- 死装束は、縫う側が禁忌だらけだった
- 糸を留めない理由は、三つある
- 土地ごとに、まるで別バージョン
- 北向きに干すな、二人で縫うな
- 逆さ事という、ひとつの基本ソフト
- 着るなの正体は「分類を壊すな」
- 夜干しと、片袖の幽霊
- 喪服は白かった、しかも千年以上
- 黒い喪服を広めたのは貸衣装屋
- 魂が残る理由、四つの説明
- 他人の布を集めて、子どもに着せる
- 四十年遅れで世に出た一冊
- 産着は、生まれる前に縫うな
- 長生きした人の葬式は、縁起物の山
- 母の振袖を、娘が着る
- 焼く社会、継ぐ社会、身につける社会
- 遺髪のブローチと、黒い服の権利
- アイヌ、韓国、中国の答え
- 遺品整理という産業の顔
- 古着の山のどこかに
- 語られてきた五つの話
- 服は、誰が着ていたかを語らない
- 反対側にも立っておく
- この禁忌が守っているもの
08番とほぼ同じ中身の、もう一本
この記事は重複組だ。同じ収集元の別ページにあった記事なんだが、中身は08番とほぼ同じなんだよな。死者の服に魂が宿るとか、着ると病気や不幸になるとか、そういう超自然がらみの因果は確認できない。着るかどうかは、故人の意思、遺族の合意、衛生状態、それに宗教や感情で判断できる。
元の記事の言い分はこうだ。死者の着物や愛用品に亡魂が宿って、着た人に病気や不幸、重い感覚を起こすという。根拠として挙がるのは『日本霊異記』『今昔物語集』『怪談老の杖』『新耳袋』『源氏物語』『竹取物語』あたりだ。
体験談も二つ載っている。2010年代に祖母の形見の着物を着て、体調を崩した女性の話がひとつ。もうひとつは、2000年代に遺品を着て親から止められた子どもの話だった。08番の元記事も同じ死者の服を扱っていて、無断で着ること、憑依、遺品供養、衛生の話まで論じている。
数え方は一件だ。収集件数を保つため別ページで記録はするが、別の民俗事例が二件あるとは数えない。35番は独立した新しいテーマじゃなく、あくまで08番の重複ソースとして残す記録という扱いになる。
消しはしない。重複だとはっきり書いたうえで、一次収集の完全性を保つ。公開記事にするなら、一本に統合するのが筋だ。そのときは故人の服を受け継ぐ肯定的な実践、衛生上の注意、着たくない遺族の感情、憑依譚を記事の中で分けて書く。
服は匂いも体型も覚えている
服は記憶の塊だ。故人の匂い、体型、生活の痕、家族の記憶を強く残す。だから袖を通すと、悲しみや安心、罪悪感や違和感が出てきたりする。それはそれで大事な体験なんだが、だからといって魂のせいで病気になったと即断するのは話が別だ。
こっちは実務の話。感染症、害虫、カビ、体液汚染なんかの疑いがある服は、霊より先に気にするところだ。処分の仕方も洗い方も、専門家に確かめてから決めたほうがいい。ふつうの形見の服なら、素材表示に従って洗濯かクリーニングをして、遺族が納得すれば着てかまわない。
道はほかにもある。仕立て直す、寄付する、しまっておく。供養を選ぶ自由もあるけど、供養しないと祟るぞなんて言って人を脅すのは、やっちゃいけないことだ。
まだ裏の取れていない話たち
保留の棚もある。各古典に死者の服を着て憑依される話がある、という元記事の主張がまずそれだ。『新耳袋』を江戸時代の資料と同じ列に並べた、元記事の時代の整理もここに入る。祖母の着物を着たあとに体調を崩したという匿名の体験談も、今のところ裏は取れていないんだよな。
残りは二つ。死者の匂い、重さ、夢、声を感じたという体験の一群。それから、寺院で供養をしなかった衣服が家族に障るという説で、どれも未確認の情報として保存してある。
昔の日本は、死者の着物を着ていた
ここからが本題だ。「死者の服を着るな」という言い回しは、日本の伝統としてはむしろ新しいほうに入る。古い日本がやっていたのは、正反対のことだった。死んだ人の着物を親族や親しい人たちで分け合い、実際に袖を通していたわけで、それが形見分けという制度だ。
ただの遺品整理とは違う。死者の霊魂を受け継ぐ、あるいは死者にあやかるための、目的のはっきりした行為だった。日本大百科全書はそこを明言していて、形見分けが衣類に集中したのは、衣類にこそ霊魂がこもりやすいと考えられたからだという。
逆転が起きている。魂が宿るという考えそのものは着るなの理由じゃなく、むしろ着る理由のほうだったんだ。魂が宿るから受け継ぐと考えた時代があって、そのあとに、魂が宿るから避けると考える時代がやって来た。同じ前提から真逆の結論が出ていて、ここが今回いちばん面白いところだと思う。
転回の場所を追いたい。どこで向きが変わったのかを追うと、日本人の死の扱い方が丸ごと見えてくる。形見分けの制度史、死装束を縫うときの禁忌、逆さ事という体系、喪服が白から黒になった近代史と進む。そのあとは反対向きの風習、海外の類例、今の遺品整理とリユースの現場まで掘っていく。
平安の「御形見の衣」と、財産としての布
古い部類の記録は平安時代。藤原道長の一族を描いた『栄花物語』に、「あはれなる御形見の衣は」という一節がある。悲しみを誘うお形見の衣は、と訳せる箇所で、ここですでに形見が衣なのが分かる。当時の衣類は今の人間が想像しにくいくらいの高級品で、反物一反がそのまま蔵にしまう財産だった。
しめっぽい記念品配りじゃない。形見分けは、実質的には遺産分割でもあった。その二重性は呼び名にもろに出ていて、北陸や近畿では形見分けをショムワケ、つまり所務分けと呼んだ。
所務は所領や収益のこと。江戸時代語の所務分けが訛って、中部から西日本にかけてのショウブワケ系の言い方になった。財産分与という顔が、言葉そのものに刻まれているわけで、霊魂の話とはまるで別の筋がここに通っている。
霊魂側の呼び名もある。大分県や愛媛県の一部では袖分けと言ったんだが、これは袖にこそ魂が宿るという発想が、その土地にあったからだ。垢つき、お手汚し、裾分けという言い方も広く残っている。どれも死者がじかに肌につけていたものを配る、という意味合いが前に出た呼び方だ。
四十九日という待ち時間
分ける時期にも決まりがあった。多くは忌明け、つまり四十九日だ。地域によっては三十五日目の五七日を忌明けとして、そこで分けた。仏教でいう中陰は四十九日間で、死者は七日ごとに裁きを受け、四十九日目に行き先が決まるとされる。
満了は満中陰と呼ぶ。遺族から見れば忌に籠もっていた期間が終わって日常に戻る節目で、形見を分けるのはそこからになる。神道なら五十日祭か、三十日祭がこれに当たる。忌の明けないうちに死者の持ち物を動かすのは、まだ動いている最中のものに手を突っ込むようなものだった。
細かい決まりも面白い。形見分けは本来、目上の人には分けないのが礼儀とされた。上から下へ流れるものだったからだ。群馬県桐生には「くしは縁切り、かんざしはかたみ、指輪は当座の縁つなぎ」という俚言があり、簪を形見分けにすることがあった。
櫛は外される。縁切りに通じるからだ。岐阜県吉城郡では形見分け用の麻の肩掛けをあらかじめ機で織って保存しておき、これを「とっとき布」と呼んだ。自分が死んだときに配る布を、生きているうちに用意しておくのだから気が長い。
群馬県では、子や兄弟に位牌を分ける例まで報告されている。位牌まで分けるんだよ。財産分けの延長線上に形見分けがあったことを示す証拠としては、これはかなり直接的なものだと思う。
喪の日数は、幕府の法令で決まっていた
なぜ四十九日まで待つのか。宗教の理屈だけじゃない。江戸時代には、喪の期間が幕府の法令で定められていた。服忌令というやつで、五代将軍徳川綱吉が貞享元年、西暦1684年に幕府公式の法令として施行した。
作ったのは学者たち。林鳳岡、木下順庵、吉川惟足といった儒者や神道家が制定に関わった。その後も何度も改定されて、八代将軍吉宗の元文元年、1736年の改定版が最終形として明治維新まで通用した。
中身が細かい。親族を尊卑と親疎で六段階に分けて、その段階それぞれに服と忌の日数をきっちり割り当てていくやり方だ。父母が亡くなれば服は十三か月、忌は五十日。妻や兄弟姉妹なら服九十日と忌二十日、甥姪や従兄弟姉妹なら服七日と忌三日になる。
忌の間は門を閉じる。出仕はせず、魚肉を断ち、髭や髪を剃らず、神社にも参らない。服の期間は祭や神事に出られない。死に触れた者がいったん社会から退くという仕組みが、法の条文としてきっちり書き込まれていたんだから驚く。
七つ前は神の内、という例外
子どもは別扱いだった。七歳未満で死んだ場合は服忌なしと明記されていて、父母は三日遠慮、その他の親類は一日遠慮で済む。柳田国男が有名にした「七つ前は神の内」という言い回しは、この服忌令の規定と結びつけて語られてきた。ただ、この解釈には強い反論があって、それは後で触れる。
明治でも消えなかった。明治7年、1874年10月17日の太政官布告第108号がその節目になる。公家に行われてきた京家の制を廃して、武家の制、つまり幕府の服忌令に一本化したんだ。喪の日数はこうして、法律という形のまま明治の世まで生き延びたわけで、ここはちょっと意外だった。
効力が消えたのはもっと後。明治29年以降の民法制定で、親族の定義と服喪の関係が切り離されてからだ。とはいえ忌引という慣習は、学校にも会社にも残っている。四十九日まで待つというあの感覚には、宗教だけじゃなく、二百年以上続いた法制の記憶まで混じっている。
死装束は、縫う側が禁忌だらけだった
禁忌の本丸は作る側にある。着る側じゃないんだよな。かつて死装束は、亡くなってから急いで縫うものだった。全国で共通点の多い作法を拾っていくと、晒し木綿で白衣を仕立て、縫うのは故人と血の濃くつながった女性たちになる。
道具の使い方も普段と違う。物差しは使わず、扇子で寸法をはかる。鋏も使わない。糸は撚りのかからない麻糸を使い、その糸に結び目は作らず、布のほうは鋏を入れる代わりに引き裂いて仕立てる。
縫い方にも決まりがある。何人も寄って引っ張り縫いをして、襟はつけず、返し針もしない。一反を余さず使い切るのも決まりで、頭陀袋、手甲、脚絆、額烏帽子、笈摺まで作って端切れを一枚も残さない。
着せ方も逆さだ。着物は左前にして、頭陀袋は首にかける。手甲と脚絆は縦結びにして、額烏帽子のほうは固結びにする、というところまで作法が決まっている。
読んでいて気づくと思う。全部、普段の逆だ。物差しを使う、鋏を入れる、玉止めをする、返し縫いで補強する、余った布は取っておく。日常の縫い物なら当たり前にやる手順を、ひとつ残らず裏返しているわけで、偶然でこうはならない。
糸を留めない理由は、三つある
解釈を与えたのは井之口章次。民俗学者の井之口は、引っ張り縫いをするのは忌の害を分散させるためだと論じた。糸尻を留めないのは完全な形に縫い込めるのを嫌ったため、つまり霊魂が脱出できるようにするためだ、という読みになる。
井之口は葬儀の人だ。『仏教以前』や『日本の葬式』で、葬送儀礼を集中的に扱った。葬儀をわざわざ研究対象に選んだわけについては、日本人の霊魂観を知ることができるからだと本人が述べている。
五来重は別の読みを出した。仏教民俗学の五来は、死者に着せるものは本来、裁ったり縫ったりすべきものじゃなかったと見る。一枚の布で包んだり覆ったりしていた頃の名残だろう、という見立てになる。鋏を使わない、布を引き裂くという作法は、仕立てるという行為そのものを小さく抑えようとした痕跡だと読んでいる。
現場の説明はもっと素直。今の和裁の現場では、返し縫いをしないのは途中で引き返したり迷ったりせず、まっすぐあの世へ行けるようにだと語られている。玉止めを作らないのは、玉止めを執着と見て、この世に未練が残らないようにするためだという。
腑に落ちる話だ。技術者の言葉としても納得がいくし、実際に縫う人がそう説明してきたこと自体がもう民俗なんだよな。ただ、これが古い時代からの説明そのままかは分からない。
決着はついていない。井之口の説と五来の説と現場の説が並んだままで、どれが正解とも決まっていない。確定した由来がないというのは、この手の禁忌だとむしろ普通のことで、そこは覚えておいてほしい。
土地ごとに、まるで別バージョン
作法は全国一律じゃなかった。土地ごとに独自の条項が足されている。岐阜のある地域では死者の娘が寒冷紗で縫うものとされていて、娘という血縁の一点に絞った型になる。
愛知の例は重ね着だ。経帷子の上からさらに裃を着ける例が報告されている。旅装束の上に礼装を重ねるわけで、死者を旅人として送るのか、正装の人として送るのかで発想が違ってくる。
滋賀のある地域は変わっている。村内で七歳になる者が寒冷紗で縫う、という驚くような条項が、この土地ではちゃんと記録に残っているんだ。七歳前後の子どもは神に近い存在とされてきたから、その手を借りるという理屈なんだろう。血縁じゃなく年齢で縫い手を決める型だ。
三重では後家さんが縫う。白布を一重で後家さんに縫わせる例があって、夫を亡くした女性という、死の側にすでに近い立場の人の手を借りる型だ。これも縫い手の属性で意味を作っている。
兵庫は小さな着物。ある地域では白の晒し木綿で小さな着物を作り、死者の白衣の胸元に年寄りが縫い付けた。小さな着物というたった一点が加わるだけで、ぐっと別の儀礼に見えてくるんだから不思議なものだ。
愛媛には後始末の作法がある。仏衣を縫い上げたあと、縫い手たちが冷酒を飲み、使った針を酒に浸して針洗いをする。死の仕事に使った道具を清めて日常に戻す手続きで、縫い手の側のケアが組み込まれているのが目を引く。
閉じ切らない型もある。鹿児島には袖の下を縫わずに開けておく型がある。福島、埼玉、茨城、九州南部には、死装束の背中を一部あけておく習慣が見られるという話で、これも同じ系統に入る。閉じ切らない、完成させないという共通の方向性が、ここでも顔を出している。
北向きに干すな、二人で縫うな
洗濯まわりの俗信も濃い。愛媛県の柳谷村誌に収められた俗信の一覧は、読むとちょっと圧倒される。北枕はいけない、死人を北枕にするから、御飯の上に箸を立ててはいけない、死人の御飯に立てるから、と続いていく。
続きはこうだ。着物を左前に着てはいけない、死人の着物は左前だから。洗濯物を北向きに干したらいけない、死人の着物を北向きに干すから。理由がどれも「葬式でそうするから」で揃っていて、日常の禁忌が葬儀の作法の鏡像として組み上がっている。
海を渡っても同じだ。沖縄の粟国島には、着物を二人で縫ってはいけないという言い伝えが記録されている。理由ははっきりしていて、着物を二人で縫うのは死人の着物だけ、つまり死装束を縫うときだけだからだ。
構造は同じ。葬式の日にすることを日常でしてはならない、という原則が島の言い伝えとして残っている。本州から遠く離れた小さな島にまで同じ型の禁忌があるということは、この発想がかなり根深いことを教えてくれる。
逆さ事という、ひとつの基本ソフト
こうして並べると、ばらばらの禁忌に見えていたものが、ひとつの体系の部品だと分かってくる。それが逆さ事だ。死後の世界は現世と逆さまだから、死に関わる場面では何もかもを逆にしてやる、という考え方で動いている。
具体例はいくらでもある。枕元の屏風を逆さに立てる逆さ屏風。湯灌の湯は、水を張ってからお湯を足して温度を合わせる逆さ水で、普通ならお湯に水を足すところの順序を反転させている。
着せ方でも逆をやる。経帷子は左前に着せ、帯は縦結びにする。足袋や草履は左右を逆にして履かせるし、着物は反対向きにかけるという具合で、徹底して裏返しだ。
宗教学の側にも議論がある。これを儀礼的逆転として整理するもので、安元正也は1973年の論考で、葬送儀礼における意図的な対照という考え方を紹介した。日本の民俗にも同じ型の事例があると指摘しているんだ。
例が生々しい。葬式で使う水は、左手に持った柄杓で汲まなければならないという慣行がひとつ。船に乗るときは左舷からなのに、漂流している遺体を引き上げるのは右舷から、という海の民俗も挙がっている。
日常から鋭くはみ出す。その逸脱で、場面の社会的な意義を高めている。逆さ事ってのは、ここは非日常の場なんだと、身体と道具の両方を使って宣言するための装置なんだよな。
着るなの正体は「分類を壊すな」
置き場所の問題だ。死者の服を着るなという禁忌は、逆さ事の体系の一部として置いてみると、ぐっと理解しやすくなる。死者の服は、すでに逆さの側に振り分けられた物だ。それを日常の側へ持ってきて普通に着ると、区分をまたいでしまう。
話は魂より分類だ。禁忌の正体は「魂が悪さをする」というより、「分類を壊すな」に近い。境界を守るという地味な仕事が、「着るな」というたったひと言の短い言葉の形をとって表に出てきている。
夜干しと、片袖の幽霊
夜干しの禁忌もある。洗濯物を夜に干すと招かざる客が来る、というよく知られた迷信だ。臨済宗の寺院が出している解説によれば、体を包む着物には、着ていた人の霊が宿ると考えられてきたという。
そこから夜につながる。人が亡くなると、その死者の着物を干しっぱなしにする習慣があった。だから夜に干した洗濯物はどうしても死者の着物を連想させて、縁起が悪いとされた、という筋道になっている。
昼と夜で分けるわけだ。逆さ事の理屈を当てはめれば、生きている人の洗濯物は日中に干し、死者の洗濯物は夜に干す、という対比にもなる。死装束は一度洗って、畳まずに着せる作法も伝わっている。畳むという片づけの動作を省くところが、やっぱり逆さの側なんだよな。
実用の理由も重なる。夜は明かりに虫が寄って洗濯物につくし、夜露や急な雨で濡れもする。日光の殺菌が効かないから雑菌が増えやすいし、取り込まれていない洗濯物は留守の合図になって空き巣を呼ぶ。
俗信はばかにできない。言葉の上ではいかにも宗教的な禁忌なのに、機能として見るとちゃんと実用的な生活の知恵になっているんだ。夜干しの一件はその見本みたいなものだ。
袖の禁忌も濃い。民俗学者の酒井卯作は、袖に人間の魂の存在を見ようとした発想を指摘している。経帷子は白い布で袖のない仕立てにする例があって、それを着るのは魂のないあの世の人になった証拠だ、という理屈になる。
だから生者は袖を気にする。着物の袖付けは一夜のうちに済ませないと幽霊の片袖になる、という言い伝えが大阪にある。和歌山には片袖だけつけて放っておくと幽霊が出るという言い方があって、どちらも片方だけの未完成の状態が怖がられている。
鍵は閉じていないもの。死装束では閉じないことが正しく、生者の着物では閉じないことが危険になる。同じひとつの観念を、生きている側か死んだ側かという立場ごとに、きれいにひっくり返して運用している。
喪服は白かった、しかも千年以上
色も動いてきた。喪服が日本の歴史に最初に登場するのは、奈良時代とされる。『日本書紀』の記述では、親族や会葬者は白い喪服を着るのが通例だったという。庶民の喪服はそのあと千年以上にわたってずっと白が主流で、黒は長いあいだ上流の側だけの話だった。
上流は別の道を行く。718年、養老二年の養老喪葬令で、天皇が錫紵と呼ばれる薄墨色の麻の細布衣を喪服として着るようになった。これで上流階級に薄墨色が広まる。墨染の色は時代とともに濃くなって、平安後期には黒い喪服が着られるようになった。
ところが揺り戻す。貴族の影響力が落ちた室町時代に、また白が主流に戻ったんだ。白と黒を行ったり来たりしているわけで、喪服の色が昔から一つに決まっていたわけじゃないのが分かる。
転機は明治維新。1878年、明治11年に初代内務卿の大久保利通が暗殺された。その葬儀は諸外国から注目されて、政府から会葬者は喪服を黒で統一するように、という達しが出たと伝えられる。
決め手は外国の客だった。1897年、明治30年の皇室の大喪に列席した欧米の賓客が、そろってヨーロッパ王室式の黒い喪服を着ていた。それを見た政府首脳部が、日本人の会葬者にも黒い喪服をしつらえさせたんだ。こうして黒が国際標準の色として、上流階級に定着していく。
大正で明文化される。1915年、大正四年の皇室令で、宮中参内の喪服は帯締め、帯揚げ、足袋を白とし、それ以外は黒と正式に定められた。とはいえ庶民にとっては、まだ遠い世界の話だった。
黒い喪服を広めたのは貸衣装屋
決定打は戦争だ。黒が一般に広がったのは第二次世界大戦がきっかけで、当時の喪服は貸衣装が主流、店には白と黒が混在していた。戦死者が急増して喪服を借りる人が増えると、白い喪服は汚れが目立ってすぐ使い物にならなくなる。
そこで店が動いた。貸衣装屋が、汚れが目立たず手入れのしやすい黒をそろえるようになったんだよ。日本人の喪服が黒くなった直接の原因は、思想でも宗教でもなく、レンタル在庫の回転率だったことになる。
仕上げは既製服だ。昭和四十年代、冠婚葬祭これ一着というコピーで略礼服が量販されて、男性の黒服が一気に定着した。昭和41年には俳優を専属モデルに起用した既製品喪服の広告が打たれ、昭和50年代にかけて洋装の喪服が一般化していく。
歴史は案外浅い。庶民の黒い喪服は、せいぜい戦後八十年ほどの歴史しかないことになる。地方には白喪服の風習が残った地域もあって、近年でも著名な歌舞伎俳優の葬儀で、妻が白い喪服を着て話題になった。
よくある話ではある。伝統だと思い込んでいるものが、ふたを開けるとかなり最近の商業的な事情の産物だった、というやつだ。喪服の黒は、その見本みたいなものなんだよな。
魂が残る理由、四つの説明
整理しておきたい。死者の衣に魂が残るという観念を、民俗学はどう位置づけてきたのか。説明の筋は大きく分けて四つあって、どの筋に立つかで死者の服の見え方がまるで違ってくるわけなんだ。
一つ目は霊魂継承説。形見分けの核にある考え方で、衣類を分けることで死者の霊魂を受け継ぐ、あるいはあやかるとする。袖分けという呼び名や、袖に魂を見る発想がこれに当たる。この立場だと死者の衣は危険物じゃなく、ありがたい資源になる。
受け取る人は関係で決まる。誰が受け取るかは故人との関係の濃さで決まるから、目上には分けないという序列の規則が要る。霊魂を受け継ぐと言うと大げさに聞こえるが、要は故人の役割や立場の一部を引き継ぐということでもあった。
羽織を思い浮かべてほしい。家業を継ぐ人が父の羽織を着る、という光景を想像すると分かりやすい。衣は看板でもあり、身分を示すしるしでもあり、それに故人の記憶をしまっておく器でもあったんだ。
二つ目は穢れ説。死は穢れで、死者に接した物には死穢が付く、という考え方だ。服忌令が穢れの規定を細かく持っていたことを思い出してほしい。死穢は一日、産穢は夫が七日で妻が三十五日という具合に、穢れの強さと続く時間が数字で管理されていた。
この線だと話が変わる。死者の衣は、消毒すべき対象になるんだ。井之口章次は、禁忌には神聖なものに身を慎む場合と、穢れを忌む場合の二つの面があると述べている。
二つは近かったらしい。古い時代の感覚では、この二つは緊張感という一点で共通していて、かなり接近した感覚だったらしい、とも井之口は書いている。尊敬しつつ、それゆえに畏れる。この曖昧さのおかげで、同じ衣類が資源にも危険物にもなる理由が見えてくるんだよな。
三つ目は財産説。衣類が高価で、遺産分割の主要な対象だったという実際的な事情だ。誰が何をもらうかは、まあ揉める。その揉め事に決着をつけるのに、忌明けという時期の指定、目上には分けないという順序の指定、霊魂という重みづけが役に立った。
調停の道具でもあった。禁忌が家族のトラブルを収める装置として働いていた側面は、見落とせない。お金の話を、霊魂という言葉がうまく包んでくれていたわけで、これはこれで生活の知恵だったと思う。
四つ目は分類説。人類学でいう、あるべき場所にない物は危険だという発想だ。死者の衣は、生の側でも死の側でもない中途半端な物になる。半端なものを日常に置くと落ち着かないから、焼くか、供養するか、分けて意味を与え直すかで場所を決めてやる必要が出てくる。
逆さ事とは相性がいい。この説は、さっきの逆さ事の体系とよく噛み合う。四つは排他的じゃなく、実際の家ではこの全部がごちゃっと混ざっているのが、むしろ普通なんだと思う。
中身を開けてみる。「なんとなく気味が悪い」の内訳を開けると、いろんなものが出てくる。あやかりたい気持ちと穢れの感覚と財産の話と、片づけたいという実務が、だいたい同居しているんだ。どれか一つだけで説明がつく家なんて、たぶんほとんどない。
他人の布を集めて、子どもに着せる
今度は反対方向の話だ。日本には、他人の古い布をわざわざ集めて子どもに着せる風習が広く存在した。百徳着物という。子どもが丈夫に育った家や長寿の人から端切れをもらい、それを縫い合わせて産着や宮参りの晴れ着に仕立てる。
名前がそのまま願いだ。百徳、つまり百の徳を集めるという意味になる。他人が着た布を避けるどころか、わざわざ集めて赤ん坊にくるむ発想で、死者の服を着るなとは真逆の向きを向いているんだよな。
数字が具体的で面白い。秋田、栃木、京都、福岡では、子どもの育ちがよい家庭三十三軒から端切れをもらう例が報告されている。福井では四十八軒から四十八枚、福島では百人からだ。岡山ではセンマイゴといって、千人から布切れをもらう。
呼び名もいろいろ。群馬には百反着物、百とこ集めという呼び名がある。三重には、百色の小さな布で仕立てた着物を着せると百歳まで生きる、という話まで残っているんだ。共通しているのは、多くの人から少しずつもらうという一点だ。
布は力の入れ物だった。長寿の人や健やかな子が着た着物の端切れには、生命力が宿るという前提がある。他人が着た布は避けるべき汚れじゃなく、せっせと集めるべき力だったわけで、ここは形見分けとも地続きになる。
四十年遅れで世に出た一冊
記録の出どころが面白い。この話がいまも読めるのは、恩賜財団母子愛育会が編んだ『日本産育習俗資料集成』という分厚い記録のおかげだ。昭和8年の皇太子誕生を記念した御下賜金で、翌年に母子愛育会が設立された。
乳児がよく死んだ時代だ。当時は乳児死亡率が高く、とくに農山漁村で深刻だった。そこで昭和10年、民俗学者の柳田国男の立案で、妊娠、出産、育児に関する行事や伝説や習俗の調査が各都道府県で実施される。
刊行は昭和50年。調査と整理は昭和14年に終わっていたのに、戦争で出版が遅れた。四十年遅れでやっと世に出た記録なんだと思うと、ページをめくる手つきもちょっと変わってくるんだよな。
実物もちゃんとある。金沢市の真成寺には、百徳着物が二十八点納められている。子授けや安産祈願で知られる鬼子母神を祀る寺だ。昭和57年、1982年には、百徳着物を含む着物や人形などの産育信仰資料966点が国の重要有形民俗文化財になった。
古いものは江戸の後期。天保10年、1839年のものが保存されているという。形は袖無しから袖付きまでいろいろあって、友禅や銘仙といった華やかな着物の端切れも、あちこちに混じっている。
産着は、生まれる前に縫うな
産着まわりも逆説だらけ。産着は生まれる前から縫うものじゃない、という俗信が広く分布していた。生まれる前に縫ってしまうと弱い子が生まれる、とまで言われていたんだから、なかなか徹底している。
最初の三日はぼろにくるむ。生後三日ほどまでは袖のある着物を着せず、ボボサヅツミ、コロバカシ、マエカケヅツミなどと呼んで、ぼろや腰巻や前掛けにくるんでおくほうがよく育つとされた。生まれたばかりの命ははかなく悪霊に魅入られやすいから、あえてぼろに包んでその目を避ける、という理屈だ。
三日目に袖が付く。その日に初めて袖のある着物を着せて、これをウブギとかミツメギモノと呼んだ。新潟県の佐渡ではニンジュギモンといい、人衆に入れてくれ、つまり仲間に入れてくれという意味の方言に通じる。
産着は仲間入りの服だった。人間の仲間に入れてもらうための一枚で、背中には背守りを縫い付けた。子どもが溺れるなど危機に陥ったとき、荒神や産神が背守りを引っ張り上げてくれると信じられていたという。
長生きした人の葬式は、縁起物の山
葬式でもあやかる。民俗学者の板橋春夫が集めた事例がかなり具体的だ。群馬県安中市では、高齢で亡くなった人の名を書いたメイキ、つまり銘旗は縁起がよいといって、すぐにもらい手が出る。この布を小さく切って持っていると、長生きして病気にもかからないとされた。
福島では奪い合いになる。いわき市勿来では、老人の葬式で寺に持っていく四十九餅や、棺に取り付けた善の綱と呼ばれる綱を、人々が競って奪い合った。山梨県の河口湖周辺には、長生きした人の葬式で棺に巻いた布を長生きのお守りにもらう習俗がある。
埼玉は銭を撒く。埼玉県では花籠をゼニカゴとも呼び、小銭のオヒネリを入れて、喪家から寺や墓地までの道中で撒いていった。長生きした人のものを拾うと縁起がよいといって、拾った銭を衣服に縫い付けてお守りにしたんだ。
死者の布が幸運を呼ぶ。死者に触れた布を身につけることが、そのまま供養にも幸運祈願にもなる社会があった。千葉、埼玉、群馬の一部で今も行われている長寿銭という習わしは、この系譜のれっきとした生き残りになる。
長寿銭の仕組みはこうだ。百歳近くで亡くなった長寿者の葬式で、祝儀袋に硬貨を入れて会葬者に配る。もらった人はそれを財布に入れたり、神棚に上げたりして、しばらく大事に手元に置いておくことになる。
板橋の読みが鋭い。板橋はこれを、長寿を媒介にして穢れを長命と富貴に転換し、分配する仕組みだと読んでいる。死の穢れが、長寿という条件を通すと逆に縁起物へ変わるわけで、同じ布、同じ物が条件次第で正反対の意味に化けてしまう。
母の振袖を、娘が着る
仕立て直しも生きている。形見の着物を仕立て直して着る実践は、今日まで続いている。着物は洋服と違って、ほどけば一枚の反物にまた戻せるという構造をしているのが大きな強みになっている。
仕組みが面白い。使わなかった部分を切らずに縫い込んであるから、糸を解いて並べ替えれば反物に戻る。解いて洗い張りをすれば元の縫い目が消えて、次に着る人の寸法にぴったり合わせて、また一から仕立て直せる。
具体的な値段も出ている。呉服店の事例では、母より十センチ以上背が高い娘のための仕立て直しが紹介されている。振袖を解いて洗い張りし、胴裏を新しくして仕立て直した例だ。費用の内訳は、解き洗い張り仕立てが五万二千円、胴裏が一万七千円、伊達衿が五千円という具合だった。
合計は七万四千円ほど。納期は三か月半程度が目安とされる。母の着物を娘が成人式で着る、いわゆるママ振の需要は、今の時代になってもまだまだ強いままだ。ここでの死者の衣は、避けて通る忌避物なんかじゃなく、手をかけて引き継ぐ資産として扱われている。
焼く社会、継ぐ社会、身につける社会
外も見ておこう。まず徹底して焼く側がロマの葬送習俗で、埋葬のあと死者との物質的なつながりを注意深く断つ。衣類や寝具といった燃やせるものは灰にする。皿やコップやグラスや装身具は壊すか傷つけて、故人の車やトレーラーまで焼くことがあるんだから徹底している。
怖いのは霊の帰還だ。背景にはマリメという汚染の観念と、ムロという死者の霊への恐れがある。ムロは、埋葬儀礼が正しく行われなかったり、故人の持ち物を壊さず手元に置いたりした者を狙って戻ってくるとされる。
名前も口にしない。死者の名前を口にすることも避けられる。ある女性の名にちなんで呼ばれていた魚の名前を、彼女の死後に共同体全体が言い換えたという記録さえあるんだ。
最近は売ることも増えた。経済的な負担が大きいから、近年は壊さずに売る例が増えている。ただし同族には売らない。死で儲けてはならないという原則があって、焼かずに売るようになった今でも、そこだけは曲げないわけだ。
印象的な言葉がある。イギリスのテレビ番組で、あるロマの女性が、両親の遺品を箱詰めして中古店に持っていくのを両親は望まないだろうと語った。他人が自分の親の服を着るのも嫌がるだろう、と。たとえ二万ポンドの価値があっても焼く、と兄弟が続けていて、日本の形見分けとはほぼ正反対の答えになっている。
遺髪のブローチと、黒い服の権利
身につける側もある。十九世紀イギリスのモーニングジュエリーがそれで、故人の遺髪を編み込んでブローチや指輪やネックレスに仕立てた。それを服喪期間に肌身離さず身につけたんだ。髪を煮て重みを出し、糊付けして編み、ロッククリスタルの下に収める。
大英博物館にも実物がある。1764年頃の遺髪入りモーニングリングが所蔵されているんだ。1785年に八十四歳で没した女性の名と、没年月日が裏に記された指輪もある。長さ一・七メートルの人毛のチェーンが百五十年後の今も美しく残っている、という展示の紹介が話題になったこともある。
火付け役ははっきりしている。1861年にヴィクトリア女王が夫のアルバート公を亡くして、そのまま長く喪に服したことがきっかけだ。宮廷ではジェットの着用が求められて、黒い喪の装身具が量産された。ただ大衆化すると上流層は敬遠しはじめ、第一次世界大戦の頃にはほとんど作られなくなる。
服装規定も厳しかった。ヴィクトリア朝には喪の段階ごとに決まりがあり、深い喪では全身黒で装飾は最小限、半喪に移ると控えめな光沢が許された。悲しみを縛る不自由な規則にも見えるけど、私は今こう見ている。
服が代わりに言ってくれる。黒い服や太い縁取りは、私は今深い悲しみの中にいます、というメッセージを言葉なしに伝える装置だった。通常どおりの振る舞いを求めないでください、という意味もそこに込められていた。悲しみを公に示す権利を、服が保証していたんだ。
アイヌ、韓国、中国の答え
アイヌの葬送も外せない。棺を用いず、遺体をガマで編んだ茣蓙にくるんで紐で縛る。ただしその紐は、ちょっと引っ張るとほどける程度にゆるく結んでおくのが決まりになっているんだ。この世の人間がしばると、あの世に行ってからほどけないから、という理由になる。
副葬品はわざと傷つける。副葬品を入れる袋も手作りして、針入れや糸巻や小刀を入れるが、そのとき中身はすべて小刀で切ったり傷つけたりしておく。この世で役に立たないものにすることで、逆にあの世では使える道具になると考えるからだ。
家まで焼くことがある。亡くなった人の家を焼くという弔い方もあるんだ。壊すことが贈ることになるという発想は、日本の死装束で糸尻を留めない作法と、よく似た論理を持っている。
韓国には寿衣がある。死装束を寿衣と呼び、生前に用意すると無病長寿になるという言い伝えがあるんだよな。還暦や古希の節目、あるいは四年に一度の閏年や閏月に用意すると長生きするとされる。死装束を贈り物にするわけで、日本の感覚だとぎょっとするが、逆修という考え方を知っていると腑に落ちる。
中国は紙を燃やす。紙で作った家や金銀や日用品、いわゆる紙扎を焼いて死者に届けるんだ。北宋の開封の様子を記した『東京夢華録』にも紙銭を焼く記述があり、宋代には葬儀用品を作る専門の商売が成立していた。
焼七という習わしもある。埋葬後は四十九日まで七日ごとに墓に詣でて、紙扎を燃やす。物を燃やすことで別の世界に送り届けるという発想で、日本の御焚き上げとほとんど地続きになっている。
御焚き上げもこの並びにある。火には浄化の意味があり、仏教では品を焚くことで故人へ返し、神道では火の神の力を借りて天に還す、と説明される。対象は故人の衣類、手紙、日記、写真、仏壇、お守り、人形など。焼く文化と継ぐ文化は、同じひとつの社会の中にちゃんと同居しているんだ。
遺品整理という産業の顔
ここからは今の話。日本には遺品整理という産業がある。遺品整理士認定協会が遺品整理士養成講座を開いたのは、2011年11月だった。会員数は2023年に五万名を突破し、2024年6月には六万名を突破して、法人会員は千社を超える。
見逃しにくい数字がある。会員の九割近くが古物商の免許を取っていて、彼らは片づける人であると同時に、買い取って売る人でもあるわけだ。国土交通省に出された業界側の資料では、この手のサービスを提供する事業者は全国で約七千社と見積もられていた。生前整理、遺品整理、空家整理を手がける企業や個人事業主の数だ。
売上の規模もでかい。2018年に業界団体が公表した数字では、加盟八千社の年間売上高の合計は五千億円を超えるという。桁がひとつ違う感じだ。
異業種も入ってきた。従来はリユースショップや買取店が中心だった。この一年余りで介護業界、解体業、ハウスクリーニング、リフォームを含む建設会社の参入が増えたんだ。全体の13.28パーセントを占めるようになった、と協会側が説明している。施設で亡くなる利用者が増えたので、介護事業者が自分たちでやるようになった、という流れらしい。
需要の数字も見ておく。警察庁が公表した2024年上半期の統計では、自宅で亡くなった一人暮らしの人が全国で37,227件あった。うち65歳以上が28,330件で、全体の76パーセントを占めた。孤独死の現場では、原状回復費に約38万1千円、残置物処理費に約22万円、合計で約60万1千円かかるというデータもある。
よくある光景だ。人が亡くなり、部屋に物が残り、それを誰かが片づけて値段をつけて売る。この流れはもう例外なんかじゃなく、今の日本ではどこにでもある、すっかり標準的な光景になっている。
古着の山のどこかに
遺品の古着はどこへ行くのか。現場の証言は、わりと即物的だ。専門業者が入る段階では、ブランド品や貴金属はすでに売られていることが多い。それでも、買取店に断られた物やはじめから売りに出されなかった物の中に、再販価値の高い物が眠っている。
行き先は東南アジア。ある業者は処分品の中から、古着や着物、カバン、ぬいぐるみ、瀬戸物などを選び分けている。それをコンテナ単位で海外輸出を行う業者へ売却していて、輸出先として名前が挙がるのはフィリピン、カンボジア、タイだ。日本で役目を終えた品が、現地で暮らしの道具としてまた使われる。
国全体の流れも押さえたい。環境省がまとめた2025年版の衣類のマテリアルフローによれば、衣類の国内新規供給量は約82万トン。家庭から手放される衣類は約79.6万トンで、行き先は、可燃や不燃や混合ごみとしての廃棄が55パーセント、古着としての販売が18パーセントだ。
残りの内訳も出ている。行政回収が13パーセント、譲渡や寄付が3パーセントで、リユースが35パーセント、リサイクルが7パーセントという割合だ。家庭から手放されて、最終的に焼却などで処理される量は約46.1万トンと推計されている。
ちょっと考えてみてほしい。年間に亡くなる人は百四十万人を超えて、その全員に着ていた服がある。その服の一部は確実に、買取と選別と輸出のルートに乗って、どこかの誰かの手元へと流れていっているんだ。古着の山に故人の服が混ざっていない可能性のほうが低い。
なのに何も起きない。古着を買った人の圧倒的多数には、何も起きていない。この点は、死者の服の禁忌を語るときには絶対に外しちゃいけない、いちばん大事な土台だと思っている。
語られてきた五つの話
ここからは体験談だ。ネットや書き手の記録に残っているもので、どれも本人が語った形で流通している。真偽の判定はできないが、こういう話がどういう型で語られるのかを見るには、これで十分なんだよな。
一つ目は黄色い小紋。ある中年の夫婦が、平成の初め頃から毎年開かれるようになった東京の大規模な骨董市に通っていた。夫は陶磁器、妻は着物や帯などの古布の加工が趣味で、会場では別行動をとる。
その日、夫は足を止めた。ある店で衣桁に掛けられた黄色地の女物の着物に目が留まり、着物に関心はないはずなのに、惹かれるように歩み寄って手に取った。明治から大正期と思われる絹の小紋で、品質が高く柄も洒落ている。
買う理由はない。そう気づいて離れたのに、頭から離れない。喫茶室で妻と落ち合うと、妻が紙袋から取り出したのは、さっき見たばかりのまさにその黄色い小紋だった。傷みがないからこのまま着られそう、と言う。
着物は和室へ。自宅の和室の衣桁に掛けられた数日後の夜半、そこで寝ていた夫は、耳元で轟々と鳴る風のような音で目を覚ます。金縛りで体が動かない。
女が座っていた。枕元の左手に、洗い髪の細身の女が立て膝で座り、こちらを見下ろしている。しかもその女は、和室の衣桁にちゃんと掛かっているはずのあの黄色い小紋を、見事に着こなしていた。
やっと声が出た。金縛りが解けて電灯をつけると、襖は閉じていて、着物は衣桁に掛かったまま、女の姿はもうどこにもない。翌朝、夫は処分を申し渡し、妻は渋々同意した。
ところが数か月後。病院から呼び出しがかかり、妻が側頭部を切って八針縫う手術を受けていた。その着衣を見て、夫は驚いた。黄色い小紋が、洋装のワンピースに形を変えて、ちゃっかり妻の体の上に存在していたんだから、たまらない。
妻には妻の理屈があった。着物を洋服に加工して、亭主の留守中に着るなら問題ないと考えていたんだ。ところが、加工を終えたその服を着て初めて外出したときに、玄関先の石段で転倒してしまったのだった。
そこで妻の気持ちが変わる。この事故で怖さを実感し、懇意にしている寺の住職に御焚き上げ供養を頼んだという。処分すると決めたのに形を変えてしぶとく残っていた、という一点が、この話の背骨になっているんだよな。
二つ目は軍パン。二十年ほど前、ファッションを趣味にしている男性が、休みのたびに近所の古着屋に通っていた。その日はパンツの棚が妙に気になって、米軍のミリタリーパンツが一本だけ、ほかとは違う異彩を放って見えたんだ。
妙にぴったりだった。コンディションは良好で、実物放出品のタグが付いている。試着する前からもうサイズが合うと分かっていて、実際に穿いてみると丈までぴたりとちょうどよかったんだ。日本人の体型で軍パンの丈が最初からぴったり、なんてことはまずない。
六千八百円で持ち帰った。その日はほかの物と分けて洗濯して部屋干しし、翌日クローゼットにしまった。数日後、そのクローゼットのあたりから、なんとも言えない嫌な気配をじわじわと感じるようになっていく。
気配は足元から来た。週末にそのパンツを穿いて出かけ、帰って洗い、リビングと寝室の仕切りの近くに部屋干しして寝た夜のことだ。足元の方向から同じ気配が来て、ビュン、ビュンと風を切るような音が聞こえた。
朝には汗の跡。額や腕や胸に、大量の発汗の跡が残っていた。翌日、彼はわざわざ有給を取って近くの神社にそのパンツを持っていき、お焚き上げをしてもらったんだ。神主はいわくつきかどうか分からない様子だったが、本人には確信があったという。
後日談が好きだ。これに懲りて古着や軍物を買わなくなったかというと、そんなことはない。今も両方が好きで、心の底ではいつまた似たことが起こるかもしれないと思いながら、たまに買っている。
三つ目は黒いコート。ネット通販で買われた、ブランド物でもない少し型落ちのロングコートにまつわる話として語られているものだ。届いた段ボールを開けると、古着特有の埃っぽい匂いがした。
ポケットにメモがあった。クローゼットに掛ける前にポケットへ手を入れると、小さく折り畳まれたメモが指に触れたんだ。前の持ち主のレシートだろうと広げたが、書かれていた文字を読んで意味が分からなくなり、気味悪さを覚えながらゴミ箱に捨てた。
それから数日、彼はそのコートを日常的に着るようになる。異変は仕事帰りの夜だった。人通りの絶えた住宅街を歩いていると、背後から布が擦れる乾いた音がして、振り返っても誰もいないんだ。
リズムがずれている。その音は自分の歩くリズムと微妙にずれていて、何度か続いたある日、歩いている最中に唐突に足を止めてみた。自分の足音が止まって静寂が来るはずの一瞬、少し遅れて背後で一度だけ、布の擦れる音が響いた。
今度は影が分厚い。恐怖が頂点に達したのは深夜の帰宅時だ。街灯に照らされたアスファルトに落ちた自分の影のすぐ後ろに、もうひとつ影のようなものが重なっていた。人の形じゃない。ただ、自分の影の輪郭が不自然に分厚くなっている。
彼は手放すことにする。数日後、彼はフリマサイトにそのコートを出品して、すぐに買い手がついた。発送の準備を整え、最後に念のため空のポケットを確かめると、指先にあのカサリとした感触が来る。
結末はこうだ。広げた紙に書かれていたのは、やはり最初と同じ言葉だった。ゴミ箱に捨てたはずの紙がまた手元に戻ってくるという、この型の話の中でもかなり嫌な終わり方だと思う。
四つ目は掲示板の定番。友人の友人が、買った古着と同じ服を着た女に枕元に立たれる、という相談として繰り返し語られてきた型だ。女は「私の服返して」としか言わない。どうやって返せばいいのかと聞いても、返して、としか答えないんだ。
返し方はこうだ。二人で話し合った結果、「服を返します」と宣言してからその古着を燃やし、塩をかけて地面に埋めた。その晩から女は出なくなり、ちゃんと返せたのだと安心した。
最後の一行が怖い。語り手は最後に、今考えると、返し方が間違っていた場合、服を燃やしてしまったのでもう取り返しがつかない、と付け加えている。これは後悔の言葉だ。
これがいちばん怖いと思う。怪異そのものより、自分の対処が正しかったのかどうかを永遠に確かめられないことのほうが、人を長く縛るんだよな。燃やしてしまった以上、答え合わせの手段はもう何ひとつ残っていない。
五つ目は怪談じゃない。伝承の生の声として紹介しておきたい話で、ある葬儀関係者が書いている。五年ほど前、八十代後半の女性が、用意された経帷子を見て、ずっと昔の父親の葬儀のことを思い出したという。
作法を覚えていた。鋏を使わず、糸留めをせず、引っ張り縫いをした、というそのときのことを、女性は滔々と話してくれたという。ひとつひとつ決まり事を守っていくことが父の供養になると、そう聞かされていたんだ。
そのときの心境も語った。きちんとやってあげんと成仏できんかったら大変やと思っていた、と。慌ただしさに紛れてしまって、気が付いたら葬式が終わっとった、ともその女性は付け加えて言っている。
全部がここにある。この短い言葉の中に、禁忌というものが人にとって何だったのかが、ほとんど全部入っているんだ。恐怖じゃない。そこにあるのは責任感と、間に合わなかったかもしれないという焦りのほうで、これはこれで重たい。
服は、誰が着ていたかを語らない
私なりの見立てを書く。死者の服をめぐる禁忌が生まれた最大の理由は、たぶん「情報がない」ことへの対処だと思う。服は誰が着ていたかを語らないし、匂いも体型の癖もしっかり残っているのに、肝心の来歴だけがすっぽり抜け落ちてしまう。
人間は空白に弱い。この空白に耐えるのが下手で、必ずそこに物語を入れてしまう。着物の来歴が分かる村社会なら、形見分けという制度で誰の何かをはっきりさせて、意味を確定させることができた。
古着には確定作業がない。古着屋やフリマの服は、空白のまま身につけることになる。怪談が古着から生まれやすいのは、まさにそこに誰にも埋められない空白がぽっかりと口を開けているからなんだよな。
次は遺族の負担だ。故人の服をどうするか、遺族は必ず決めなければならない。捨てるには重いし、着るには気が引けるし、取っておくと場所を食うという具合に、どれを選んでも何かが引っかかる。
禁忌は決断を楽にする。「死者の服は着ないものだ」という禁忌があれば、捨てるか供養に出すという判断に、社会が用意した正当な理由がつく。禁忌は罪悪感の免罪符として働く。
昔は逆向きだった。形見分けが強かった時代には、着るという判断のほうに正当な理由がついていた。同じ人間の同じ迷いに対して、それぞれの時代が別々の逃げ道を用意しているだけなのかもしれない。
三つ目は体系の崩壊。かつては葬式全体が日常の反転として組まれていて、左前も縦結びも逆さ水も北向き干しも、ひと続きの文法だった。今の葬儀では、経帷子は葬儀社が用意し、故人が気に入っていた服を着せることも珍しくない。
部品だけが残った。逆さ事の大半は消えたのに、体系が壊れても部品はいくつか残る。左前はいけないという感覚は今もかなり強く残っていて、死者の服という部品もそれと一緒にしぶとく生き残った。
文法を失った単語だ。意味だけが濃くなって、ふわふわと漂っている状態になっている。だから理由を聞かれても誰もまともに答えられず、ただなんとなく気持ち悪い、としか言えないんだと思う。
四つ目は産業の事情。遺品整理とリユースが年間五千億円規模の商売になり、故人の服が実際に流通している。これは都市伝説にとって最高の燃料で、出てくる数字が具体的であればあるほど、話は信じられやすくなっていく。
念のため書いておく。この産業で働く人たちを気味悪がるのは、筋違いだと私は思う。彼らがやっているのは、家族が引き受けきれない量の物と感情の後始末だ。買取と輸出のルートがあるおかげで処分費が下がり、遺族の負担が軽くなるという現実的な効果もある。
反対側にも立っておく
ここまで面白がって書いてきた。だから反対側の話も、きちんとしておきたい。まず、死者の衣が病気や不幸を引き起こすという因果は確認できないし、それはこのページの冒頭で整理したとおりだ。
体験談には偏りがある。強烈な選択バイアスがかかっていて、何も起きなかった古着はそもそも語られない。年間に何十万トンもの衣類がリユースに回り、その中に故人の服が大量に含まれているのに、怪異の報告は圧倒的に少ないんだ。
分母を見ないとこうなる。分子だけ数えれば、どんな禁忌でも成立してしまうわけだ。怪談の数を数えるなら、何も起きなかった大多数の古着のほうも、同じ帳面に書き込んでおかないと公平じゃない。
民俗学の説明も揺れている。糸尻を留めない理由について、井之口章次は霊魂が脱出できるようにするためだと言う。五来重は本来裁ったり縫ったりしないものだった名残だと言い、和裁の現場では執着を残さないためだと説明される。
三つは矛盾しない。ただ、同じ現象に対して別々のレイヤーの説明を与えているんだ。だから「昔からこういう意味だった」と言い切るような語りには、ちょっと警戒しておいたほうがいいと思う。
定説が疑われた例もある。柳田国男が広めた「七つ前は神の内」は、長いあいだ日本の伝統的な子ども観として扱われてきた。ところが歴史学の側から、これは近世以降に一部の地域で使われた言い回しにすぎないのでは、という批判が出ている。
経路の指摘が細かい。律令には、七歳未満の子に責任を問わない規定と、子の死に喪服を着けない規定があった。この二つが十世紀初頭の明法家によって、仏教的な解釈のもとで結びつけられた、という経路をたどったという指摘だ。
定説化にも道筋がある。柳田が1914年の『神に代りて来る』で言及し、1937年に青森県五戸地方と常陸多賀郡の事例が報告された。1945年の『先祖の話』でほぼ全国で行われていると強調されて、その流れで定説になっていったという。
近代製の枠組みかもしれない。長く信じられてきた民俗の説明が、近代に作られたものだった、という線はいつだって十分にありうる話だ。喪服の黒が戦後の貸衣装事情の産物だった話と、まったく同じ構造なんだよな。
形見分けそのものが反証だ。日本の主流は千年以上、死者の衣を分けて着る側だった。着るなという禁忌が前に出てくるのは、衣類が安くなって来歴が追えなくなってからだ。家族が地理的に散って、そして遺品を業者に頼むようになった、そういう時代になってからの話になる。
不安の名前に近い。「死者の服を着るな」は、伝統の継承というより、伝統が失われたあとに残った不安の名前なんだと思う。伝統そのものじゃない。
最後は実務の話。気にすべきなのは霊じゃなく、服の状態だ。長く箪笥にあった衣類にはカビや虫害が出ていることがあるし、防虫剤が強く残っている場合もある。
素人判断は禁物。体液で汚れた衣類や、感染症のリスクが疑われる衣類は、専門家に相談したほうがいい。素材表示に従って洗濯やクリーニングに出し、風を通して状態を確かめ、そこまでやってから着るか着ないかを決めればいい。
着たくないなら着なくていい。それは弱さでも不信心でもない。ヴィクトリア朝の黒い服は「今は普通の扱いを求めないでください」と表明する装置だった。それと同じように、着ないという選択もまた、自分の気持ちの状態を自分に許してやるための表明になりうる。
この禁忌が守っているもの
守っているのは距離だ。長々と書いてきて、この禁忌が守っているのは着る人の身体じゃなく、死者との距離なんだと考えるようになった。近すぎても遠すぎてもいけない、という感覚がある。
形見分けは距離を近づける。誰が何をもらうかを決めることで、故人との関係を確定させ、それぞれの取り分を目に見える形にした。御焚き上げやロマの焼却は、逆に距離をきっぱり切る制度だ。
どちらも宙ぶらりんを許さない。近づけるか切るかで向きは逆だ。でも関係をどっちつかずのまま放っておかないという一点では、まったく同じことをしているわけだ。
今は仕掛けがない。現代の私たちが困っているのは、その距離を決めてくれる仕掛けを、いつの間にかまるごと失ってしまったからだと思う。忌明けまで待つという時間の目盛りが薄れ、目上には分けないという序列の目盛りも消えた。
残ったのは服と迷い。箪笥いっぱいの服と、期限のない迷いだけが手元にある。そこへ「死者の服を着るな」という一言が浮かんできて、乱暴だけど、少なくとも決着はつけてくれる。
禁忌は決断の代行だ。これが今も生きているのは、恐怖だからじゃない。迷っている人の代わりに、決断をまるごと引き受けてくれるからなんじゃないか、というのが私の見立てになる。
落としどころは別にある。たぶん怖がることじゃなく、故人の服をどうするかは自分で決めていい、という当たり前のところに話は戻ってくるんだ。着てもいいし、仕立て直してもいいし、テディベアに変えても、寄付しても、供養に出してもいい。
決めた人が引き受ける。決めた人が納得していれば、それが一番いい距離の取り方になる。ただ、決めた本人がその結果をちゃんと引き受けるということだけは、どう転んでも動かないんだよな。
あの言葉がまだ残っている。かつて八十代の女性が言った、きちんとやってあげんと大変やと思っていた、という一言が、たぶんずっとそこにある。決める重さの話だ。
