合格祈願の絵馬じゃない。山形県天童市の若松寺の本坊には、白木の壁を埋めるようにして婚礼を描いた絵馬がびっしり掛かっている。紋付袴の花婿と白無垢の花嫁が、金屏風の前で並んで祝言を挙げている。花嫁の顔は幼い。絵の隅に「愛子享年八歳」のような文字が添えられた一枚もある。
これがムカサリ絵馬だ。「むかさり」は最上地方の言葉で結婚式を指すらしい。未婚や幼くして死んだ子のために、親やきょうだいが「あの世で伴侶を得て幸せに」と願って絵師に描かせ、寺へ納める。相手はほとんどの場合、実在しない架空の人物になる。
お参りの仕方も独特だ。家族は絵の前で手を合わせ、「今年もお参りに来たよ」「お前の代わりに孫ができたよ」と語りかけるように拝んでいくという。若松寺はいま千三百体以上を所蔵していると案内している。堂に足を踏み入れた人の多くは、その数と花嫁花婿の顔の若さに息を呑むそうだ。
- 県の資料と寺の案内に書かれた「あの世の結婚式」
- 絵馬が掛かるのは若松寺だけじゃない
- 「江戸時代から」と「明治31年」のあいだ
- 民法と同じ年に始まった絵
- 昭和50年代、絵馬は増えて絵柄も変わった
- 相手にしてはいけない人がいる
- 一組7万円、予約は一年半先まで
- 壁も天井も、婚礼の絵
- ニューギニアで死んだ兄弟の祝言
- 津軽では、人形が嫁いでいく
- 「結婚したかった」という託宣
- 地蔵に着せる褞袍、供える車椅子
- 沖縄は、あった縁を結び直す
- 遠野の供養絵額には、ご馳走が並ぶ
- 赤い封筒は拾うな
- 台湾の娶神主、行き場のない娘の位牌
- 韓国では、藁人形が祝言を挙げる
- 中国では、冥婚に犯罪が寄生した
- フランスでは、死者との結婚を法律が認める
- 南スーダンの亡霊婚は、本物の結婚
- 「日本の冥婚」はひとつの制度じゃない
- 家の恥を隠すため、という説明
- 死者に祝言を挙げさせる理由
- 怪談に化けたのは2000年代
- ネットに流れる体験談
- 年号付きの話ほど裏付けがない
- 「呪いの絵馬」と呼ばれて
- 絵馬は、今も増え続けている
県の資料と寺の案内に書かれた「あの世の結婚式」
足場を固めておこう。山形県の郷土学習資料の説明はこうだ。若くして結婚しないまま亡くなった子のために、親や兄弟、親戚が婚礼の絵を作り、寺社へ奉納して供養する。相手は架空の人物だ。
願いの中身は具体的だ。資料には「来世で幸福に」「健康で長寿を全うして生まれ変わってほしい」という言葉が並ぶ。書きぶりから伝わってくるのは、死者への怖さよりも、家族が子の幸せを本気で祈っている手触りのほうだ。
寺の側の説明も見てみよう。天童市の若松寺は公式サイトで、ムカサリ絵馬を江戸時代から最上川沿いに伝わる、あの世の結婚式の絵馬だと案内している。供養される人の死因は交通事故、戦争、病気、水子とばらばらだ。今の所蔵は約1,300体以上。
絵馬が掛かるのは若松寺だけじゃない
若松寺ばかりが有名だけど、絵馬を受けている堂はほかにもある。最上三十三観音札所別当会の佐竹義弘会長は、この習俗が最上三十三観音の札所と地理的にきれいに重なると証言している。上山市から鮭川村まで。観音信仰の帯の上にだけ絵馬が乗っている格好だ。
中心は村山地方だ。とくに多いのは天童市の若松寺、村山市の小松沢観音、東根市の黒鳥観音の三つ。黒鳥観音の正式な名前は曹洞宗東根山秀重院で、最上三十三観音の札所としては第十九番の寺にあたる。
上山市牧野の馬野山久昌寺には三十三体が納まっていて、こちらは檀家の奉納がほとんどだ。立石寺にも伝わる。村山市、東根市、天童市、山形市、上山市という山形県の東部一帯に、面で広がった供養習俗なんだよな。ここを外すと、若松寺だけを心霊スポット扱いする雑な語りに落ちる。
「江戸時代から」と「明治31年」のあいだ
寺伝は「江戸時代から」と言う。2008年に出た文化人類学の報告は、そこへ冷静な線を引いた。村山地方の絵馬を現物や記録からたどると、はっきり確かめられる奉納は明治期より後になるという。昭和50年代以降に数が急増し、奉納する人の出身地も全国規模へ広がった、というのが報告の見立てだ。
寺の言い伝えと研究の実証は、分けて覚えておくといい。若松寺に残る絵馬を一枚ずつ数えた悉皆調査では、現存最古の奉納は明治31年、1898年だった。数えた結果がこれ。
県の調査も似た答えを出した。山形県立博物館は昭和59年度に県内の絵馬2083点を調べ、そのうちムカサリ絵馬は18点しか見つけられなかった。最古は明治28年、1895年に山形市の甲箭神社へ納められた一枚だ。
同じ調査で、ムカサリ以外の絵馬なら江戸期のものがごろごろ出てきた。ムカサリだけが届かない。寺伝への反証として、これはよく効くんだよ。久昌寺で確かめられる最古の一体は明治35年、1902年の奉納で、供養された人は陸軍歩兵軍曹だった。
寺伝を笑う話じゃない。寺が代々伝えてきた由来と、現物を数えて確かめられる年代は、そもそも層が違うものとして並べておけばいい。江戸説と明治説、どちらも記録としては残しておく。
民法と同じ年に始まった絵
ちょっと面白い符合がある。明治31年は、民法が施行された年なんだ。戸主の同意が要る、男が女を娶って自分の家へ入れる、という「家」の決まりが法として整えられた。習俗の現存例はそこから始まる。死者の結婚の絵に、生きた人間の結婚制度がそっくり流し込まれたように読める。
昭和50年代、絵馬は増えて絵柄も変わった
奉納がはっきり跳ね上がるのは昭和50年代からだ。増えた分の多くは、もともとの担い手だった村山地方の外から来た遺族で、テレビやネットで知ってわざわざ納めに来る。住所には広島も北海道もある。
遠いのは国内だけじゃない。若松寺への取材によれば、沖縄からの奉納もあったし、韓国や台湾から納められた例も過去にあったという。村山の身内の供養が、海の向こうまで届いていたことになる。
絵柄も同じ頃に変わった。古い絵馬には仲人が座り、酌をする稚児がいて、金屏風や床の間、掛け軸まで細かく描き込まれていた。屋外の嫁迎えの行列が描かれた絵もある。
ところが昭和後期からは、背景をいっさい省いて新郎新婦だけが並ぶ、記念写真そのままの構図が主流になった。結婚式が「家の行事」から「二人の幸せ」へ変わった、生きている側の変化がそのまま映っている。教会式が急増した1980年代は、若松寺の奉納が広域化した時期とほぼ重なる。死者の絵も一緒に動いた。
供養される人の顔ぶれも動いた。若松寺の絵馬では、位号から夭死とわかる人が二割強を占め、水子のための絵馬も百点あまり、全体の一割ほど確かめられる。子どもの供養としての顔がそれだけ濃いわけだ。
平成に入ると幅が広がる。享年40歳を超えた死者のための奉納が出てきた。「先祖代々之霊」「有縁之霊」「土地之霊」のように、もはや個人ですらない相手のために納めた絵馬まで出てきた。未婚の死者を祖霊にする枠は、もう越えている。死者を「幸せの状態」に置いておくための汎用の道具になった、と見たほうが実態に近いかもしれない。
相手にしてはいけない人がいる
この習俗には、いちばん有名な決まりがある。生きている人は使うな。新郎新婦の片方に実在の人の顔や名前を使うと、故人がその人を本当の伴侶だと思い込み、あの世へ連れて行ってしまうからだ。だから相手はかならず架空の人物になる。
これは怪談が盛った話じゃない。黒鳥観音で絵師をしている高橋知佳子さんは、実在の人を描いて連れて行かれた人がいたと聞いている、と話す。彼女が描く相手も必ず架空だ。若松寺の教務も、同じ注意を来訪者に伝えている。
取材した書き手の中には、別の読み方をした人もいた。ここまで固く禁忌として言葉になっているのは、一人や二人じゃない事例が過去にあったからじゃないか。それで規則にまで昇格した、という見立てだ。あくまで書き手の推測だ。
ちなみにこの禁忌には、研究の上でのねじれもある。1994年の調査結果とは食い違う部分があると指摘されていて、地域や時代によって運用に幅があったらしい。それでも現場は揺るがない。今の現場では、実在の人物を描かない一点だけは徹底している。
一組7万円、予約は一年半先まで
昔は親兄弟が自分で描いた。今は専門の絵師に頼む人が多く、若松寺も絵の苦手な遺族には絵馬師を紹介している。寺の本音は変わらない。取材に応じた教務は、絵の上手い下手は関係ない、気持ちを込めて描いて持って来てほしい、それが本来のやり方だと言い切った。
塗り絵形式の絵馬まで用意されている。少しでも遺族自身の手を絵に入れてもらおうとする寺の姿勢が、そこからはっきり透けて見えるんだよね。それでも依頼は減らない。
黒鳥観音の別当、槙寿広さんの話は少し変わっている。自分は霊能者じゃないけれど、描かされて描いている、と槙さんは言う。奉納者には会わない。亡くなった子の写真も見ない。描こうという気持ちになってから筆を取るだけなのに、遺族から不思議なほど似ていると言われるのだという。
もう一人、キャリア20年の高橋知佳子さんの仕事は驚くほど具体的だ。料金は一組7万円で、額が付く。近くに住む遺族とは直接会って話し、遠方に住む遺族とは通話やリモートをつないで、じっくり話を聞く。
聞く中身は重い。故人がどんな人生を送り、どんな亡くなり方をして、遺族はその人にどんな幸せを手にしてほしいのか。写真があればコピーを預かって似顔絵風に仕上げ、写真がなければ想像で描く。
衣装も幅広い。和装でも洋装でもいいし、外国の方ならその国の衣装で描くし、近年は同性同士の組み合わせも受けている。画材はケント紙にボールペン、それにアクリル絵の具だ。
一日に集中して描けるのは二、三時間が限度らしい。無念な死ほど疲れが重い。だから引き受けられるのは月に五件から七件が精一杯で、予約は一年半から二年先まですでに埋まっている。
値段にも経緯がある。始めた頃はほとんどボランティア感覚で値を付けていたのが、依頼が増えるにつれて7万円に見直された。そんな経緯まで、本人が包み隠さず明かしている。
奉納する側にもお金はかかる。若松寺の永代供養料は、布施を含めて三万円。遠方で来られない遺族のために、絵師が三万円を預かって絵馬と一緒に持参し、寺が奉納の様子を写真で送る運用まで整っている。絵馬代とは別の奉納料のために貯金をしてから頼んでくる遺族もいるそうだ。
絵師の証言が胸に残る。依頼主には、優しくて繊細で、人の感情の機微に敏感な人が多いという。ムカサリ絵馬は必ずやらねばならない供養じゃないのに、そこへ少なくない金と時間を割く人たちだからだ。
壁も天井も、婚礼の絵
絵馬堂にも歴史がある。若松寺の絵馬堂が建ったのは昭和63年、1988年。観音堂に重ねて掛けられていた絵馬を、観音堂が重要文化財に指定されたのに合わせて移したのが始まりだった。今は元三大師堂の下の一階部分が絵馬堂として使われている。
引き戸を開けてみてほしい。壁も天井も、年月で色の沈んだ婚礼の絵で埋まっていて、訪れた人が一大ムカサリ絵馬博物館と書いたほどだ。絵馬堂という名前では足りない。一枚一枚に、名前と享年が書き込まれている。
新しい絵馬は本坊に掛かる。和室の欄間の高さから天井へ向かって何段にも並び、取材者がざっと数えただけで一間に八十から百以上あったという。先週奉納されたばかりの一枚も混じっていた。その一枚は絵師の作じゃなかった。家族が心を込めて描いた似顔絵のような絵で、見ているこっちまで妙に多幸感に包まれる仕上がりだったそうだ。
黒鳥観音はもっと生々しい。さして広くない堂内の壁という壁が納札とムカサリ絵馬で埋め尽くされ、千羽鶴や遺影で壁面が完全に隠れている。天井にも明治や大正の絵馬がびっしり貼りめぐらされ、破れかけた一枚もあった。婚礼人形まで納められている。人形は青森のもの、という通説が現場ではあっさり崩れるわけだ。
戒名を一つずつ追っていくと、一枚の絵馬の中にも、時間がいくつも折り重なっているのが見えてくる。昭和18年に亡くなった女の子のために、平成4年に奉納された絵馬がある。六十を過ぎてからの結婚式だ。納める理由も一つじゃない。自分の息子が結婚するので、幼い頃に死んだ兄弟もあの世で可哀想だから一緒に、という納め方がある。
オナカマの話もしておきたい。かつてはオナカマと呼ばれる地元の巫女が奉納を勧め、相手の名前まで決めていた。家に不幸が続くとオナカマに伺いを立て、何代前の誰があの世で独り身で寂しがっているとの託宣を受けて納めた例もあったという。死者のための供養であると同時に、生きている側の切実な現世利益でもあったんだ。
ニューギニアで死んだ兄弟の祝言
若松寺の絵馬を古い順に見ていくと、戦時中のものが目に飛び込んでくる。昭和18年に奉納された一枚。兄弟が合同で祝言を挙げている絵馬もあって、描かれた二人はどちらも遠いニューギニアで戦死している。享年は20歳と24歳だった。
戦後は、出征して帰らなかった未婚の息子を悼んで納める親が続いた。久昌寺の最古の一体が陸軍歩兵軍曹のためのものだったことも、この習俗が近代の戦争と一緒に太くなった流れを映している。時代がそのまま絵に出る。
近年は事故や病気に加えて、東日本大震災で亡くなった人を供養したいという遺族が全国から訪れる。絵馬に刻まれた死因の層が、そのまま日本の近現代の不幸の層になっているわけだ。描かれているのは全部祝言。
津軽では、人形が嫁いでいく
青森の型は絵じゃなく人形だ。青森県立郷土館の研究紀要は、亡くなった男性に花嫁人形を奉納し、寺の僧が読経する習俗が今も行われていると報告した。寺の読経付きの、れっきとした供養なんだ。
東北大学の博士論文要旨は、もう少し広く整理している。未婚のまま死んだ人の伴侶として、男性には花嫁人形を、女性には花婿人形を供える習俗だと位置づけた。男女どちらにも相手がいる。
奉納地も挙がっている。下北なら恐山と優婆寺、津軽なら弘法寺や川倉賽の河原地蔵尊だ。恐山だけの話じゃなく、津軽各地の複数の寺社にまたがる慣行だという点は、押さえておいたほうがいい。恐山は青森県むつ市の霊場で、死者供養や口寄せで全国に知られている。
始まりの時期は資料によってずれる。博士論文要旨は、本格化したのはわりと最近で、弘法寺の記録では1985年頃から、昭和の末からだとしている。津軽の郷土史ブログには、昭和三十年頃に始まったと書くものもある。話がそろわない。
それでも、どの資料も一点では一致している。太古から続く秘祭というより、近代化と過疎化、家族のかたちの変化の中で広まっていった、わりと新しい民俗慣行だという点だ。秘祭じゃない。
つがる市木造の弘法寺は通称「西の高野山」で、人形堂には約900体の花嫁・花婿人形が納まっている。寺はこれを「ブライダル供養」「花嫁人形供養」「黄泉の祝言」と呼ぶ。幼くして、あるいは未婚で亡くなった人の、彼岸での幸福を願う津軽独自の供養だという。今も続く現役の供養の場。
五所川原市金木の川倉賽の河原地蔵尊にも、同じ人形堂がある。中はガラスケースの列。白無垢の人形もいれば燕尾服やタキシード姿の人形もいて、傍らには家族が添えた故人の写真が置かれていたりする。
「結婚したかった」という託宣
弘法寺の白戸裕智住職が語る始まりは、絵馬とはまったく別の筋から来ている。終戦から十年ほど経った頃だ。戦争で息子を失った親が、津軽で「カミサマ」と呼ばれる巫女に、息子の心残りは何かと尋ねたのだという。返ってきた言葉は「結婚したかった」。
母親は伴侶代わりの人形を手作りし、寺へ持参して供養を頼んだ。それが最初だという。当時は、結婚して一人前という空気が今よりずっと強かった。若い息子を亡くした悲しさの上に、一人前にしてやれなかった親としてのふがいなさと罪悪感が重なる。
それでも何かしてやりたい。その思いの先に人形があった。作法としては、花嫁姿の人形に故人の写真と名前を添えて、ガラスケースに入れて寺へ納める形が多い。あの世で家庭を持ってほしいと、小さな子どもの人形を後から供える例も珍しくない。
川倉の堂では、夫婦の人形に娘の人形が加わって、ガラスケースの中が三体、四体と増えている例がある。キューピー人形も混じる。数年経ってあの世で子が生まれた、という時間が、ケースの中で実際に進んでいるんだ。
ケースには、故人とあの世の配偶者の名前を書いた札が添えられる。書き方にも決まりがある。故人の名前の下には、没や享年という文字を書く代わりに、「寂」の一字を使うのがこの供養の習わしなんだ。
弘法寺の住職の言葉がいい。位牌も墓も別にあるのに、このお堂は子どもに会いに来る場所だと話す親が多いのだという。ここは死んだ人のためだけじゃなく、この世に残された人たちのための場所でもあるんだ、と住職は続ける。
兵隊姿の男性の写真が納められた花嫁人形が、今も残されている。理由がある。戦死した親類がこの寺で供養されていると聞きつけた縁者が、その人形を探しにやって来ることがあるからだ。
地蔵に着せる褞袍、供える車椅子
川倉賽の河原地蔵尊は、人形堂だけの場所じゃない。地蔵堂には遺族が奉納した地蔵が二千体以上あって、どれも褞袍などを着せられ、高いところから参拝者を見下ろしている。色とりどりの着物に帽子、マフラーまで着けた地蔵もいる。供物もすごい。
花や菓子じゃ済まない。草履や靴、衣服、ランドセル、車椅子、買い物カートまで並んでいる。あの世でも裸足じゃ困るだろう、年に一度は新しい履物を、という遺族の想像力がそのまま形になったものだ。
津軽では、地蔵は死者を導く存在というより、死者の魂そのものが宿る依代として扱われる。死者の魂は成仏するまでこの賽の河原にとどまり、生きていた頃と同じように年を重ねていくと信じられてきた。服を着せるのはそのためだ。
川倉の地蔵尊は、例大祭に大勢の参拝者が集まる地域の信仰の拠点でもある。かつてはその大祭に、三十人から四十人ものイタコがずらりと集まって、参拝者を相手に口寄せをしていた。高齢化と後継難で今は一人だけ。
沖縄は、あった縁を結び直す
沖縄では話の向きが変わる。死後婚は「グソー・ヌ・ニービチ」、漢字を当てれば後生結婚だ。根っこにあるのは位牌の原則で、本島の中南部では、それを破ってはいけないという禁忌が強く働いている。
禁忌の例を挙げてみる。異なる一族の祖先を一緒に祀らない。生家の女祖を生家で祀らないこと、そして兄弟の位牌を一緒に祀らないこと、このあたりが代表的なところだ。
報告された事例がある。後妻として嫁いだ女性の位牌が、生家に置かれたままになっていた。女性の位牌をぽつんと一つだけで置いてはいけないというので、ユタの指示で位牌は生家から婚家へ移された。夫や先妻の位牌と並べて納められた、今の戸主から六代前の女祖の話だ。
もう一つの型は墓の側から来る。沖縄には「ミートゥンダー、カーミーヌ、チビティーチ」、夫婦は後生でも一緒、という言い回しがある。夫婦の遺骨を一つの骨壺に入れたり、骨壺を隣同士に並べたりする合葬合骨も、グソー・ヌ・ニービチと呼ぶ。
納骨では本来、最後に亡くなった人をシルヒラシに置いて、門番役のウジョウバンにする。ところがユタから、早くに夫を亡くして長く生きた妻を、その代わりに夫と一緒にしなさいという判断が出る場合がある。泣き出す親族も出る。離婚後に亡くなった女性の骨甕を、元の婚家の墓へ戻す例もある。
生前に婚約や恋愛の関係にあって、若くして亡くなった人の位牌を娶らせる型もあるにはある。こちらは少数派だ。元の婚家へ骨甕を戻すのは、すでにあった婚姻を死後にやり直すか、正式なものとして扱い直す発想に近い。
山形の絵馬や青森の人形は、相手のいない死者のために、架空の相手を描いたり供えたりして用意する型だ。沖縄は、あったはずの関係を死後に正しく結び直す。論理がまるで違う。骨甕を婚家へ移す事例は、冥婚の研究者の説明としても紹介されている。
遠野の供養絵額には、ご馳走が並ぶ
東北にはもう一つ、あまり知られていない型がある。岩手県の中央部、遠野と花巻のあたりを中心に、幕末から昭和の初めにかけて盛んに納められた供養絵額だ。描かれるのは婚礼じゃない。
資料は弘化2年、1845年から昭和5年、1930年までのものが確認されている。死者が出ると、遺族や友人が菩提寺に扁額の形をした絵を納めた。絵の中身は宴。立派な座敷でご馳走を前に酒を酌み交わす一家や、綺麗な着物の女性が幼子と遊んでいる場面などが描かれた。
狙いは一つじゃない。あの世でも平穏に暮らしていてほしい、という願いがまずある。同時に、豪華な調度や襖絵まで細かく描き込んで家の富を誇る側面もあったのだから、なかなか正直だよな。
面白いのは、同じ一枚の画面の中に、今生きている親族と、すでに死んだ親族が並んで描かれていることだ。この世で会えなかった者同士が、絵の中では一緒に食卓を囲む。子ども、女性、そして軍人。どれも普通に生を全うできなかった人たちだ。
この習俗が消えた理由ははっきりしている。原因は写真。明治二十年代に乾板法が広まって写真が安くなり、軍人の遺像を写真館で撮る流れがすっかり定着した。絵額は擦筆画や肖像油絵に押され、祭壇に遺影写真が掲げられる時代になって役目を終えた。
今は寺の改修や住職の代替わりをきっかけに、たいした理由もなく処分されて、どんどん姿を消しつつある。一部の寺ではアクリルケースで覆って保存する試みも始まった。全体の傷みは激しい。死者供養の絵という文化財が、記録される前に消えていく現場だ。
ムカサリ絵馬が結婚式という一場面を切り取るのに対して、供養絵額が描いたのは、あの世での暮らしそのものだった。幸せの形は、結婚だけじゃない。東北の死者供養の絵には、そういう幅があったんだ。
赤い封筒は拾うな
赤い封筒の噂がある。台湾や中国圏でささやかれる話で、道端に落ちている赤い封筒を開けると、髪の毛や爪、小銭、故人の写真が入っている。未婚のまま死んだ女性の遺族が、娘の結婚相手を探すために、わざと落としたものだという。
拾ったが最後だ。拾ってしまった通行人は死者の家族に取り囲まれ、否応なく死者と結婚させられるか、結婚の費用一式を負わされる。台湾では子どもの頃から、道の赤い封筒は絶対に拾うなと言い聞かされて育つ人が多いらしい。SNSでもたびたびバズる話題だ。
日本の冥婚とは、そもそも性格が違う。実際の儀礼というより、通行人が知らないうちに死者の家へ取り込まれる、という恐怖を核にした都市伝説なんだ。性格を分けて考えたい。
研究者の反応はそっけない。北海道大学大学院の櫻井義秀教授は、長く冥婚を研究してきた人だ。その櫻井教授でさえ、三十年以上の研究歴の中でこの噂を初めて知ったのは近年になってからだと話す。桜井と表記する資料もある。著書『死者の結婚』などで台湾の冥婚を長く追い、報道でもたびたび専門家として取材を受けてきた。
実際に赤い封筒を拾って無理やり結婚させられた、という確認できる例は聞いたことがない、とも明言している。典型的な都市伝説、という評価。本来の冥婚は、血縁のある者や、すでに故人と縁のあった相手同士で結ぶ儀礼だ。遺産相続や家同士の事情も絡むのに、見ず知らずの通行人を拾う筋書きは目的と矛盾する、という指摘だ。
噂と実態は分けて見たい。台湾には冥婚の仲介を仕事にする人が実際にいて、家族同士の合意のもとで行う正式な冥婚の記録もちゃんとある。赤い封筒の話は、その実態の上に乗った噂なんだ。
元になった紹介記事は、沖縄の死後婚に赤い封筒を結びつけて書いていた。1992年に那覇市の30代の女性が、赤い封筒に供物を入れたという具体例まで載っているが、出典はわからない。裏付けは取れていない。台湾の噂をそのまま沖縄の儀式へ移し替えることはできない。
台湾の娶神主、行き場のない娘の位牌
赤い封筒ばかりが有名になった台湾だけど、その下には制度としての冥婚がある。呼び名は娶神主、あるいは娶香。未婚のまま死んだ女性は生家の祖先の牌位に入れてもらえず、未婚の女性の位牌は祖先の卓に上げない、という決まり文句が伝わる。
娘にとって永遠の家は嫁ぎ先のほうだという観念が強く、そこへ行けずに行き場を失った女性の霊は「孤娘」と呼ばれた。だから婚礼を徹底して模す。宜蘭の例を見ると、その本気度がよくわかる。
迎えたい男性の生年月日を女性の遺灰の前に持ち出して、占い具を投げ、この人でいいかと可否を問う。承諾の目が出たら、今度は男方の祖先の前で同じことを繰り返す。日取りはその後で決める。
費用はおおむね女方持ち。嫁入り道具まで付ける。当日、新郎は米斗に位牌や香炉を入れて抱えて帰り、橋を渡るときや車を降りるとき、門をまたぐときに声をかける。鬼新娘の名を三度呼び、今から橋を渡るから足元に気をつけて、と話しかけるんだ。
家に着けば祖先の卓に据え、合炉して正式な家族にする。すでに妻がいたらどうなるか。生きた妻は椅子に足をかけて、妹が姉に拝むのだと唱えながら礼をし、冥婚の相手が正室、自分が後という順になる。
子がいれば過房書を書いて鬼新娘の子とし、香火を継がせる。正月二日になると、今度は生きている妻が鬼妻の代理を務めて、鬼妻の実家である娘家へ里帰りまでする。徹底している。
近年の報道記録を数えた研究がある。2001年から2017年までの十数年で、四大紙に載った冥婚の記事は226件。減っていない。ただ中身は変わっていて、見知らぬ女霊が寄る辺を求めてくるという昔ながらの型は、表に出にくくなった。
代わりに増えたのが、生前から恋人だった二人の片方が死に、家族が冥婚で心残りを埋める型だ。恋の続きの冥婚。男性の霊と女性、男性の霊と女性の霊という組み合わせも、以前は少なかったのに今は大量に出てくる。
逆向きの観測もある。娘の位牌を家で祀る例が増え、財産分与でも娘が外されなくなって、娶神主の習俗そのものが薄れていくという見方だ。家族の形が変われば、冥婚の形も変わる。
ある書き手の話が印象に残る。交通事故で亡くなった姪に、冥婚の話が持ち上がった。書き手は、四十五歳まで結婚しなかった本人の意思を無視することになると考えて、はっきり反対したと書き残した。伝統の側にも、止める理屈は育っている。
韓国では、藁人形が祝言を挙げる
韓国では死後結婚のことを死婚と呼び、魂魄婚姻とも冥婚とも言うし、「死後結婚(사후결혼)」という言い方もある。祀り手のない魂が無籍鬼神だ。さまよって生者に害をなすと考えられ、中でも恐れられたのが未婚のまま死んだ男女の霊だった。
相手探しも本気だ。婚前に死んだ子を持つ親が、生きた人間の縁談とまったく同じように、相手の年齢と相性を見て配偶者を探す。両家が合意すると、巫堂の指示で人形を作るか紙を折って新郎新婦に仕立て、衣装を着せる。
式次第も婚礼そのもの。新婦が新郎に二度拝み、新郎が一度返す交拝の礼を繰り返したあと、新郎新婦が盃を交わす。終われば人形を墓に埋めるか、焼いてしまう。地域によっては、花嫁になった娘の遺体をわざわざ掘り出して、新郎の墓に合葬するところまでやった。
儀礼は、オグクッやシッキムクッと呼ばれる死者の天度儀礼の一部として差し込まれた。藁人形を使えばヒョジェビクッ。盛んだったのは嶺南と湖南の地方で、船の事故で命を落とした未婚の人を対象にすることが多かった。
決め手は目的。韓国の霊魂結婚の狙いは結婚そのものじゃなく、居場所のない死者を正式な祖先神へ昇格させる通過儀礼のほうにある。だから結ばれた両家は、生きた人間の縁組と同じく親家として付き合う。婚礼や葬儀があれば行き来して祝い、弔う。
日本の絵馬が死者一人の幸せを願う供養なら、韓国の霊魂結婚は、両家を親戚として結びつける本物の縁組に近い。家同士の付き合いが残る。そこが大きな違いだ。
近年まで確認された土地は、慶尚北道の星州、釜山の東莱、光州の光山など。済州島では今も盛ん。済州では死亡届を出すと婚姻届が出せなくなるので、死亡届を後回しにして先に死後婚と婚姻届を済ませる。養子を決めて入籍させてから、ようやく戸籍を整理する。祭祀の継承が懸かっている。
中国では、冥婚に犯罪が寄生した
中国語圏では、死者の結婚を冥婚とも陰婚とも呼ぶ。相手は行きずりの誰かとは限らず、親族や仲介者を頼って家系を選び、正式な婚礼の作法どおりに進める。赤い封筒とは正反対だ。
山西、陝西、河南あたりの中国北部と中央部では、冥婚の需要が今も残る。そこに犯罪がはっきり寄生した。土葬が残る一部の農村では、未婚で死んだ息子の花嫁にするため、墓から女性の遺体を盗み出す事件が相次いだと報じられた。ここから先は、風習じゃなく事件の話になる。
報道と司法記録から拾える数字は重い。山西省で現地調査をした研究者によれば、2008年から2010年の時点で、若い女性の遺骨にはすでに高値がついていた。その後も上がったと見ている。遺体の売買は2006年に禁止されたが、墓の盗掘は止まっていない。
裁判文書を集計すると、2009年から2015年の間に冥婚がらみの事件が二十三件あった。場所は陝西、山西、甘粛、河北、江蘇、山東、河南、黒竜江の八省に及ぶ。うち二十件が遺体窃盗。2022年には山西省長子県で、女性の遺骨を繰り返し盗んで仲介し、売買していた十一人が起訴されている。
適用されたのは、死体窃盗と死体侮辱にあたる罪だった。さらに悪質な段階もある。2016年の陝西省では、結婚相手の紹介を口実に近づいた女性二人を殺し、遺体を売ろうとした男の逮捕が報じられた。内モンゴル自治区でも、同様の供述をした男が捕まっている。山西省では、遺体を売れば金になると聞いて中学生の少女を殺害した事件が摘発され、犯人は死刑判決を受けた。
ここで線を引いておく。これは冥婚という習俗そのものじゃなく、需要につけ込んだ殺人と窃盗だ。中国の報道や識者も、これを陋習と犯罪の結合として厳しく批判し、土葬の見直しや公共墓地の整備を提言している。
地域や民族をまるごと野蛮と見るのは筋違いだ。日本では、遺体の窃盗や売買を伴う冥婚がらみの事件は確認されておらず、山形も青森も沖縄も、家族の供養の範囲にとどまる。同じなのは漢語だけ。中身は別物だ。冥婚という言葉の振れ幅は、それくらい大きい。
フランスでは、死者との結婚を法律が認める
ヨーロッパには、死後の婚姻を法律で認めた国がある。フランスだ。宗教でも民俗でもなく民法の話で、きっかけは1959年12月2日、南仏フレジュスにあったマルパッセダムの決壊だった。死者は四百人超。
婚約者を失った女性の訴えが、世論を動かした。紹介のされ方は資料で少し違う。ある紹介では、婚約者を亡くしたイレーヌ・ジョダールの訴えを受けて、シャルル・ド・ゴール大統領が特例で認めたという。それをきっかけに死後婚、mariage posthume を認める法律ができた、という流れだ。
別の紹介はもっと具体的だ。婚約者を失い、妊娠していた女性の訴えが、被災者補償の法案に修正条項として押し込まれた。同年12月31日の法律で民法171条が生まれ、彼女自身の婚姻が成立したのは翌1960年8月、フレジュス市役所だった。
条文の要件は厳しい。大統領が重大な理由を認め、死んだ側の同意が疑いなく確かめられること。当初は、婚姻公示や婚前診断書のような公式の手続きをきちんと踏んでいることまで求められていた。婚約指輪を買った、結婚を約束する手紙をくれた、その程度では通らなかった。
宝石商に婚約指輪と結婚指輪を買うつもりだと伝えていた、という証言だけでは公式書類がないとして退けられた例がある。破棄院まで争って、それでも負けた。門は狭かったんだ。2011年の改正で要件が緩み、今は十分な事実の積み重ねが疑いなく同意を示していれば足りる。
証拠として認められる幅も広がった。ケータリングの見積書、招待状、会場の予約、衣装や指輪の購入、宗教婚の準備会合の証明、家族や職場の証言まで使える。準備の跡が物を言う。
効果も独特だ。婚姻の効力は死亡日の前日に遡る。姓を名乗れるし、遺族年金を受け取る資格も生まれる。それでも夫婦財産制のほうは最初から存在しなかったものとされ、無遺言相続の権利はいっさい生まれない。
財産目当ては通らない。件数は、年間五十件前後という紹介が多い。2017年には、パリの襲撃事件で殉職した警察官が、生前に共同生活の登録をしていた同性の相手と死後に婚姻した。大統領やパリ市長が参列する式が開かれ、広く報じられた。
家族に相談する義務がない点は、今も議論の的だ。国民議会では、遺族が事後に知る場合があるのはどうなのか、という質問が出た。法務省側の答えはこうだ。婚姻の公示があるから親族は知ることができるし、異議も申し立てられるうえ、家族は同意の証人としてよく聴取される。
死者を結婚させる制度が、生きている家族の感情とぶつかる場面は、法治国家のど真ん中でもちゃんと起きるわけだ。制度があっても揉める。死後婚は、宗教儀礼だけじゃなく近代国家の法律の中にも形を変えて生きている。生前の意思と関係を、法があとから追認する制度だ。
日本の絵馬は、家族が死者のために架空の相手を用意する。フランスの死後婚は、相手が実在していて、本人が生前に結婚の意思をはっきり示していたことが前提になる。向きは正反対。
南スーダンの亡霊婚は、本物の結婚
ヌエルの話をしたい。南スーダンのヌエルには、亡霊婚と訳される制度がある。婚資として牛を払った男が、女の産む子すべての父になる仕組みで、生物学的な父と社会的な父がはっきり分かれている。
牛を払う前に男が死んだら?親族が代わりに牛を払い、兄弟が死者の名で未亡人と結婚する。生まれた子は死者の子として登録され、牛さえ払えば、父になるのは男でも女でも、死者でもかまわない。
日本や中国や韓国の死後婚は、あくまで葬送と供養の儀礼だ。ヌエルの亡霊婚は、現に子孫を作って家系を継がせる、実際にちゃんと機能している婚姻の一つの形なんだ。位置がまるで違う。死者の結婚をひとまとめに未開の風習と呼ぶと、ここが見えなくなる。
「日本の冥婚」はひとつの制度じゃない
日本に死者の結婚という供養があるのは確かだ。山形のムカサリ絵馬と、青森の津軽や下北の花嫁・花婿人形は、公的資料にも寺の案内にも研究にも出てくる。沖縄の型も研究者が紹介した。ただ、三つの土地の儀礼は同じものじゃない。
全国共通の一つの制度があるわけじゃない。山形は婚礼の場面を描いた絵馬、青森は死者の伴侶になる立体の人形、沖縄は墓と夫婦関係の死後の修復。地域ごとに中身が違う。
元になった紹介記事は、この三つを一括りにして「日本の冥婚」と紹介していた。死者の慰霊だけでなく「家族の名誉」「未婚は家の恥」を主な動機に据え、年号付きの実例や体験談をいくつも載せていた。中身を確かめておく。
家の恥を隠すため、という説明
未婚の死は、一人前になる前の死だと考えられてきた。遺族が、果たせなかった通過儀礼を死後に補ってやるのだ、という民俗学の説明ならちゃんと筋が通っている。問題はその先。
紹介記事が強調していたのは、家系図の空白を埋める、未婚の娘は家の恥、近所の陰口を避ける、という三つの説明だった。どれも典拠がない。個々の説明に、出どころが一つも付いていなかった。
公的資料や寺の説明が前に出しているのは、別のものだ。死者の来世の幸福と生まれ変わりを願う家族の愛情、そして追悼と供養。恥や名誉だけに話を還元してしまうと、遺族の悲しみも、土地ごとの信仰の実践も、まとめて取りこぼす。そこは譲れない。
紹介記事の書き方だと、冥婚は世間体のための儀式に見えてしまう。世間体の話じゃない。遠方から予約を入れて絵馬に会いに来る親の姿は、どう見ても近所の目を気にしている人のそれじゃない。
研究側の説明もある。櫻井教授は、冥婚の根底にあるのは祖先崇拝だと見る。未婚のまま死んだ者は一人前の祖先として認められず、家に祟りをなす存在になりかねない、という不安が遺族を動かすという。架空でも現実でも、伴侶を用意させる動機はそこにある。
死者に祝言を挙げさせる理由
若松寺の氏家榮脩住職の説明はこうだ。仏教では、結婚を前世からの因縁で先祖の慈悲によるものと見る。欠ければ人生は全うできない。だから死後の世界で結婚させて人生を全うさせてやり、それが輪廻転生にもつながっていく、という理屈だ。
同じ住職は、中国由来の考えにも触れている。生まれること、死ぬこと、結婚することが人生の三大行事で、どれか一つでも欠けるとあの世に行けないという。中国の考え方だ。それが文化の伝播と一緒に日本へ来たのでは、という見立てだった。
仕組みの側からも見てみる。家を継いで子を残せなかった未婚の死者、とくに長男は、次の世代の親になれていないから、厳密には先祖の列に入れない。位置がない、宙吊りの状態。死後に結婚させれば、家の側がその死者を先祖の一人として祀れるようになる。
冥婚は、系譜の欠員を埋める操作でもあったわけだ。台湾の孤娘も、韓国の無籍鬼神も、根っこはここにつながっている。それだけじゃ足りない。奉納者の大半は、絵に描かれた人物の親だという点を忘れると、話が制度の説明だけで終わってしまう。
研究者の中には、そこにあるのはもっと制度以前の、死者の孤独に対する親の素朴な感情だと見る立場もある。結婚式という幸せな瞬間を、固定して置いておきたいという欲求だ。思い当たる節はある。近年の絵馬が、水子にも先祖代々之霊にも、四十を過ぎて死んだ人にも納められているからだ。
もう一つ、遺族の時間の話がある。子どもを亡くした親にとって、その子はもう年を取らない。永遠に八歳のまま。ムカサリ絵馬や花嫁人形は、その止まった時計を無理にでも少しずつ進めるための装置として働いてきた。
成人の姿で描き、適齢期に結婚式を挙げさせ、数年後に子の人形を足す。あの世で家族が増えていくのを想像し続けることが、親の心を慰めてきた、と弘法寺の住職は指摘する。喪の仕事という言葉がある。これは、その仕事を目に見える形にしたものだ。
絵師の証言も、この線に乗る。二十代で病死した姉のために、絵馬を頼んだ妹がいた。姉は生前、結婚したいと口にしていて、そのひと言が妹の頭の片隅に、長いあいだずっと引っかかっていた。
絵馬が仕上がってから数か月後のことだ。妹は職場で思いがけない抜擢を受けて驚いていた、と絵師は話す。絵に力があるとは思っていない。故人の結婚という節目を形にすることで、依頼主がもともと持っていた温かさが戻り、前へ進むきっかけにはなるのかもしれない。供養は死者だけのものじゃない。
怪談に化けたのは2000年代
ムカサリ絵馬が全国区の怖い話になった時期は、実ははっきりしている。2000年代にテレビの特別番組が繰り返し取り上げ、そこから怪談や都市伝説として一気に若い層に広がった。意外と最近の話。
研究の側はこの変質をきちんと分析している。卒業研究でこの転換を扱った論者は、怪談になった主な原因を二つ挙げた。一つは性質が理解されていないこと、もう一つは、その空白を埋めようとして勝手に働いた想像力だという。使われた道具は同じ。
あの禁忌だ。名前や姿を書き込むだけで死者に連れて行かれる、という決まりは、行為が簡単なぶん自分の身にも起きそうに感じやすい。だから怪談に転用しやすかった。読む側の想像が、勝手に怖さを足していくんだよな。
対照的な作品として挙げられているのが、藤子・F・不二雄が1979年に発表した短編「山寺グラフィティ」だ。怪談の型に嵌まらず、遺族の心境に近いところで描かれた作品という位置づけだ。テレビより二十年以上早い。
現場から出てくる不思議な話は、怪談ほど尖っていない。黒鳥観音で奉納に立ち会った取材者は、居合わせた絵師から、絵のモデルになった人物が夢枕に現れることがあると聞いた。描く側の話だ。絵師自身は、頭の中で亡くなった子の魂に語りかけながら描くという。
写真も見ずに描いたのに驚くほど似ていると言われる、という別の絵師の証言もある。連れて行かれるとか、絵の顔が変わるとか、そういう分かりやすい恐怖の物語とは手触りがまるで違う。死者と向き合う話なんだ。
創作と史実が混ざる例もある。テレビ東京系のオカルト系読み物企画では、屍となった花嫁が夜ごと婚礼の夢を見せる、という話が冥婚の題材として紹介された。中身は実話怪談というより、冥婚という言葉のイメージを借りた創作読み物だ。史実の儀礼とは分けて読みたい。
ネットに流れる体験談
ネットのnote投稿には、こんな体験談が載っている。投稿者の男性は三年前、当時付き合っていた彼女から理由も告げられずに別れさせられ、失意の底にいた。妙なことが続いた。
同僚の名字「むらかみ」を「ムサカリ」と聞き間違え、上司の「昼はラーメン」を「ムカサリ」と聞き取ってしまう。奇妙な聞き間違いの連続。仕事のミスも重なり、医師にかかっても異常は見つからなかった。
ある晩、YouTubeの動画で偶然「ムカサリ絵馬」というテロップを見て、それが若松寺に伝わる死者婚礼の風習だと知る。抑えがたい衝動に突き動かされ、彼は若松寺を訪ねた。そこで絵を見つける。本坊の絵馬の中に、白無垢姿で描かれた元恋人そっくりの少女がいた。
ここから話が動く。絵馬には「愛子享年八歳」の文字があった。絵馬の少女は、彼女の亡き大叔母にあたる人だと後でわかる。おかっぱ頭の少女の絵に導かれるように元恋人の元へ急ぐと、彼女は別れの直前に重い病を患っていた。
毎日見舞いに通ううちに彼女は奇跡的に快復し、今では二人は夫婦で、亡き大叔母によく似た娘もいるという。結末は幸せだ。怪談として流れる話の中では、珍しく温かい一本だ。
怖い話専門サイトに投稿された話は、もっと暗い。語り手はデザイン事務所に勤める男性で、学生時代に冠婚葬祭会社でアルバイトをしていた頃の体験だという。発端は一件の依頼。
未婚のまま病気で亡くなった若い息子を持つ両親から、あの世で結婚式を挙げた記念写真を作ってほしいと頼まれた。先輩スタッフは、むかさりという東北の風習を説明しながら、一つの禁忌を口にした。生きた人は使うな。生きている人間の顔や名前を花嫁や花婿に使うと、その人に冥界からお迎えが来るという。
ところが依頼の都合で、故人の元婚約者だった女性の写真を新婦役に使うことになった。女性は故人だった。写真が仕上がった数日後、その女性と同姓同名の別人が、病院の前で救急車に撥ねられて即死した、という結末で話は終わる。
真偽は確かめようがない。名前を使うこと自体が死者の縁を呼び込む、という恐怖の型として、この手の怪談は繰り返し語られてきた。禁忌が物語の燃料になっているわけだ。
Yahoo!知恵袋には、こんな趣旨の質問が投稿された。結婚する予定だった息子が亡くなったので、親が他の女性の写真と一緒に絵馬を奉納した、という内容だ。回答はシンプルだ。一般の利用者が、それはムカサリ絵馬という風習だと答えていた。
X、旧Twitterには、ムカサリ絵馬師を名乗るアカウントもある。制作の様子も流れてくる。依頼にまつわる話まで発信していて、都市伝説と実務としての絵馬制作が、同じSNSの上で隣り合っている。
年号付きの話ほど裏付けがない
元になった紹介記事には、年号付きの話がいくつも出てくる。1898年の若松寺の絵馬、1975年に事故死した男性と家族の発言、1986年に亡くなった津軽の20代女性。どれも出典がない。
津軽の20代女性の例には、オガミヤサンの指導があったという話も付いていたが、提示された資料では確かめられなかった。那覇の例も同じだ。年号が付いていると本当らしく見えるけど、年号は裏付けの代わりにならない。
体験談のほうも並べておく。奉納した絵馬から「ありがとう」と声がした、赤い封筒が揺れた夜に墓地で足音を聞いた、という話がある。冥婚をしないと未婚で死んだ人の魂がさまよう、絵馬を見てから気配を感じる、という声も載っていた。
これらは紹介記事由来の伝承や体験談として残しておくけれど、今の段階では一つも個別の裏付けがない。扱いは未確認の話。史料や寺の公式情報、個人ブログ、怪談とは、層を分けて置いておく。
「呪いの絵馬」と呼ばれて
テレビのバラエティ番組がムカサリ絵馬を「呪いの絵馬」「怖い風習」として紹介したときは、反発が大きかった。まとめブログにはSNSの反応が大量に集まった。批判の声が目立つ。遺族が故人を悼む優しい気持ちから生まれた風習を、怖がらせる方向に演出するのは失礼だ、という声だ。
山形県出身の人からは、小さい頃から地元で知っている伝承で、特に怖いと思ったことはない、という声も出た。現代的な疑問もある。結婚したくなかったかもしれない故人の意思を無視して、勝手に嫁を宛てがうのはお節介じゃないか。性的少数者だった故人に、この風習はどう働くのか。伝統の供養と、個人の意思や多様性をめぐる議論にまで発展する場面もある。
青森の花嫁人形供養は、もっとはっきりした結果を招いた。首都圏のメディアに「青森の奇習」「心霊スポット」として扱われたことが直接の引き金になって、奉納者以外は入れなくなった。見物客のせいだ。興味本位の見物が、供養の場を一つ閉じた。
絵馬は、今も増え続けている
普通に考えれば、この習俗は先細りそうなものだ。少子化が進み、婚姻の数が減り、葬儀も簡略化されていく時代に、死者の結婚式を描かせて寺に納める人が増えるとは思えない。現場の答えは逆だった。
取材に応じた若松寺の教務は、この風習はこれからも残っていくと答えた。江戸期と違って、今はネットで情報が一瞬で広がるから、風習を知った人が遠方から来る機会はむしろ増えている。追い風はネット。
保存と公開の側も動き出す。2010年には東北大学の企画で、史上初の「ムカサリ絵馬」展が開かれた。村山地方にある六つの寺院と二つの観音堂、それに山形県立博物館が協力して、約八十点が一堂に集められた。誤解されがちな習俗を、正面から見せようという企画。
絵馬の大きさは、多くが縦横五十から七十センチほど。一メートル超えも稀にある。絵じゃなく、写真を合成したタイプもある。絵馬の大きさや作り方のような基礎的なデータがきちんと揃ってきたのも、つい近年になってからの話だ。
若松寺は今も、公式サイトでムカサリ絵馬の奉納を受け付けている。観光と信仰の緊張は、年々きつくなっている。本坊の中は撮影禁止。絵馬の奉納には電話での予約が要り、以前に納めた絵馬に会いに行くときでさえ、前もって予約を入れなきゃいけない。
弘法寺の人形堂は原則として非公開だ。秋の例大祭で特別に堂内が使われる年もあるけれど、ふだんは奉納者以外は入れない。川倉の地蔵尊は参拝できる。ただ、あそこはあくまで遺族の祈りの場であって、見世物小屋なんかじゃないことは覚えておいてほしい。
行くなら、堂内の撮影ができるかどうかを事前に確かめること。私有地や堂の中に、断りなく入らないこと。目の前の一枚一枚の向こうに、名前と享年を書き込んだ家族がいることも、しっかり頭に置いておいてほしい。その喪は、まだ終わっていない。
