夏の田んぼを進む松明
稲が育つ時期の夜、松明を持った人々があぜ道を歩く。太鼓や鉦を鳴らし、稲を荒らす虫を村の外へ送る。地域によって「虫送り」「実盛送り」などと呼ばれる農耕行事だ。
害虫を実際に捕まえるというより、虫害をひとつの災いとして人形や行列へ託し、共同体の外へ送り出す。最後に藁人形を燃やしたり、川へ流したりする地域もある。農薬のない時代、天候や虫の発生は収穫を大きく左右した。人の力で制御しにくい不安へ、村全体で形を与える儀礼だった。
現在も各地に残るが、行列の順番や唱え言葉、使う人形は同じではない。すべてを「怨霊送り」と決めつけるより、豊作祈願、害虫除け、地域の祭りといった意味が重なった行事として見るのが自然だ。
斎藤実盛が虫になった話
虫送りには、平安時代末期の武将・斎藤実盛の伝説が結びついている。実盛は1183年、加賀国の篠原で木曾義仲の軍と戦い、討たれた。老齢を隠すため白髪を黒く染めて出陣し、首を洗うと白髪へ戻ったという話が『平家物語』にある。
後世の伝承では、実盛の馬が稲株へ足を取られたため討たれたことになり、その恨みから虫となって稲を食べるとされた。ウンカなどの害虫を「実盛虫」と呼び、実盛の人形を村の外へ送れば被害を免れる、という話へ育っていった。
史実として確認できる合戦の話と、稲株への恨みや虫への変化は分けておきたい。実盛本人が稲を憎んだ記録があるわけではない。非業の死を遂げた人物の霊を鎮めるという考えが、農村の虫害へ結びついた伝承だ。
村境まで災いを送る
行事では、藁で実盛の人形を作り、松明の列とともに田んぼを回る。唱え言葉を繰り返しながら、橋や川、村境まで進む。そこで人形を燃やす、川へ流すなどして虫を送り出す。
村境は、内と外を分ける場所だ。疫病や悪霊を外へ送る行事にも、よく似た形がある。目に見えない災いを人形へ移し、境を越えさせる。虫送りも、農作業だけでなく、各地の「送り」の儀礼とつながっている。
ただし、隣村へ災いを押しつけるというより、自分たちの生活圏から遠ざけ、自然の循環へ返す意味で受け継がれた地域もある。現地の説明を聞かず、ひとつの呪術の型へ当てはめるのは避けたい。
害虫駆除を超えて残ったもの
農薬や栽培技術が広がると、虫送りを害虫対策として行う必要は薄れた。人口減少で担い手が減り、途絶えた地域もある。一方、文化財や地域行事として復活し、子どもが人形や松明づくりを学ぶ例もある。
行事が残る理由は、虫を追う効果だけではない。田んぼを守る人が一緒に歩き、その年の実りを願う。昔の合戦や土地の言葉を、次の世代へ伝える。夜の火の列は、地域の記憶を目に見える形にしている。
虫送りに幽霊を見たという体験談も語られるが、出どころを確かめられない話が多い。鎧姿の老人が行列と逆に歩いた、松明より影が一つ多かった、といった話は、実盛伝説をもとに後から作られた怪談として読むのがよい。
田んぼを荒らす虫は自然現象であり、武将の怨念が発生させるわけではない。それでも、人々は説明しにくい災いへ名前を付け、火を掲げて外へ送った。虫送りの面白さは、怨霊が本当にいたかではなく、農村が不安を一人で抱えず、行列にして歩いたところにある。
