夏の田んぼを進む松明
稲が伸びる季節の、夜の田んぼ。あぜ道を松明の火が進んでいく。先頭で太鼓が鳴る。鉦がそのあとを追いかけ、火の列は水を張った田に映り込んで、倍の長さに揺れた。稲を荒らす虫を村の外へ送り出す農耕行事で、地域によって虫送りとも実盛送りとも呼ばれ、人形や行列を使う土地が多い。
虫を1匹ずつ捕まえて回る行事とは違い、虫害という災いをひとつの形に託して、人形や行列に仕立て、共同体の外へ送り出す。締めくくりに藁人形を燃やす土地がある。川へ流す土地もある。
農薬のない時代、天候と虫の発生は収穫を大きく左右し、出来が悪ければ年貢も食い扶持も苦しくなった。人の力では抑えにくい不安に、村ぐるみで形を与えたのが虫送りだ。切実な話だ。
いまも各地で行われ、行列の順番も唱え言葉も、使う人形も、土地ごとにまるで違う。答えはひとつじゃない。すべてを怨霊送りと決めつけるのは乱暴だ。豊作祈願、害虫除け、地域行事。夏の夜を進む火の列には、そのどれもが同居している。
名前も土地ごとに違う。神社の側は、固有の名で呼ぶ。蝗除祭、除蝗祭、除虫祭。農村では、虫送り、虫追い、いもち送りと呼んで親しんできた。
錦の直垂を着て一騎だけ残った男
虫送りの主役に据えられたのは、平安時代末期の武将・斎藤実盛だ。越前国の出身で、武蔵国の長井、いまの埼玉県熊谷市のあたりを本拠にして、斎藤別当実盛と呼ばれた。若い頃の実盛には、大きな仕事がある。1155年の大蔵合戦で源義賢が討たれたとき、幼い遺児の駒王丸を信濃の中原兼遠のもとへ送り届けたと伝わる。この子がのちの木曾義仲だ。
命を救った男と救われた子が、30年近く経って、敵味方に分かれた。1183年、実盛は平家方の北陸遠征軍に加わり、加賀国の篠原で義仲の軍とぶつかる。平家軍は総崩れになり、味方は次々に逃げ散って、戦場には老いた一騎だけが残った。踏みとどまったのは、実盛ひとりだ。
この場面が『平家物語』巻第七の「実盛最期」だ。実盛は赤地の錦の直垂に萌黄威の鎧を着て、鍬形を打った兜の緒を締めていた。腰には金作りの太刀。連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍。味方が落ちていくなか、たったひとりで引き返しては戦うその姿は、錦の色もあって遠目によく目立った。
木曾方から手塚太郎光盛が、よい敵と目をかけて進み出て、名乗るように声をかけた。実盛は名乗らない。光盛を侮るつもりはないが、「存ずるむねがあれば名のるまじいぞ」と言い放ち、そのまま組みにかかった。
そこへ光盛の郎等が割って入り、実盛にむずと組みついた。実盛は「あっぱれ、おのれは日本一の剛の者と組もうというのか」と叫び、その男を鞍の前輪に押しつけて、首をかき切って捨てる。主の危機に、光盛は実盛の左手へ回り込み、鎧の草摺を引き上げて刀を2度突き入れた。心は猛くても、戦いに疲れた体に老いが重なり、実盛はとうとう光盛の下になる。遅れて駆けつけた別の郎等が、その首を取る。
洗うと髪が白くなった首
光盛は首を持って義仲の前へ参り、こう報告した。侍かと思えば錦の直垂を着ており、大将かと思えば続く兵もいないうえに、名乗れと責めても名乗らず、声は坂東の訛りだった。
義仲には思い当たる節がある。幼い頃に見た実盛は、白髪まじりの老人だった。いまは70を過ぎて、髪は真っ白なはずなのに、この首は鬢も髭も黒い。
呼び出されたのは樋口次郎兼光だった。兼光は首をひと目見るなり、「あなむざんや、斎藤別当で候ひけり」と言って、はらはらと涙を流した。実盛が日頃から語っていたことがあったからだ。
60を過ぎて戦に出るときは、鬢と髭を黒く染めて若返りたい。若い連中と先陣を争うのは大人げないが、かといって、老武者と侮られるのも悔しいのだという。兼光は涙をこらえてその話を伝え、洗わせてご覧くださいと言った。
池で洗わせると、黒かった髪は白くなった。この池が、加賀市の手塚山公園にある首洗池だと伝わる。ほとりには、首を前に義仲が涙する場面の像が建ち、芭蕉の句碑も並ぶ。観光協会の案内は、首を洗って実盛と知った義仲が涙したと伝えている。
錦の直垂にも、わけがあった。出陣の前、実盛は平宗盛のもとへ別れの挨拶に上がっている。富士川の戦いで水鳥の羽音に驚き、矢ひとつ射ずに逃げ帰ったのが、老いの後の恥だという。次の北国では討ち死にするつもりだから、故郷へは錦を着て帰れの言葉どおり、錦の直垂を許してほしい。宗盛は殊勝な申し出だと感心して、錦の直垂の着用を特別に認めた。
物語はこの章を、悲しい言葉で閉じる。朽ちない名だけを北国の巷に残し、亡骸は越路の果ての塵になった。武士の物語としては、ここで完結している。
馬が稲株につまずいたという話
ここまでの話に、稲も虫も出てこない。広く読まれている『平家物語』の本文に、馬のつまずきは書かれていない。実盛を稲の害虫に変えたのは、馬の話も含めて、のちの世に生まれた伝承だ。
筋書きはこうだ。篠原の合戦のさなか、実盛の乗った馬が田の稲株につまずいて倒れた。そこを源氏方の敵に付け込まれ、あえなく討たれてしまう。その無念が晴れず、実盛は稲虫になって、自分を転ばせた稲を食い荒らすようになった。
稲虫の名は、実盛虫。西日本では、ウンカなどの稲虫をそう呼び、実盛の霊を鎮めて虫を退散させる虫送りを、実盛送りと呼ぶ。実盛祭と呼ぶ土地もある。愛知県が、実盛送りの東の端といわれる。
話の出来は、正直なところ粗い。実盛の死は寿永2年6月1日とされ、新暦なら6月22日にあたる。加賀の観光案内も、稲は青々と伸びていたはずで、切り株に足を取られたとは考えにくいと書く。実盛本人が稲を憎んだという記録も無い。
それでも話は、田んぼの側に根を下ろした。不幸な死に方をした人の怨霊が災いをなすと考えて恐れ、丁重に祀って鎮める。御霊信仰と呼ばれる古い型で、虫による害もこの型に当てはめて受け止められた。
実盛という名の由来を、田植えの行事「サノボリ」が転じたものと見る説もある。「早のぼり」と書くらしい。馬の話よりずっと地味で、田んぼには近い。
稲を食う虫の被害は、実盛の話よりずっと古くから記録に出てくる。『続日本紀』は、701年に三河国をはじめ17か国で蝗害があったと記す。812年には、薩摩国でウンカの害が出たと『日本後紀』が書く。記録に出てくる早い例は、実盛が生まれる400年以上前だ。
白髪の老人が現れた室町の夜
実盛は、稲虫になる前から亡霊の噂の主だった。1414年3月、加賀国の潮津道場。時宗の遊行14世・太空が、7日7夜の別時念仏を開いていた。
4日目、白髪の老人が現れた。老人は太空から十念を授かると、集まった大勢の人々のなかへ、すっと消えたという。源平合戦でこの地に討たれた斎藤別当実盛の亡霊だ、という噂が立った。太空は卒塔婆を立て、霊を慰めたという。
噂は京都にまで届いた。醍醐寺の座主だった満済は、その話を『満済准后日記』に書き留め、事実ならば世にも珍しいことだと記している。
この話が世阿弥のもとへ伝わり、謡曲『実盛』に仕立てられた。遊行上人による実盛の供養は、以来の慣例になった。小松市の多太神社では、上人の代替わりのたびに回向が営まれて、いまに続く。
多太神社には、実盛の兜が納められている。義仲が実盛の死を深く哀れんで、兜や鎧を奉納し、供養を頼んだと伝わる神社で、兜は国の重要文化財だ。江戸時代、ここを訪れた松尾芭蕉は、兜を見て「むざんやな甲の下のきりぎりす」と詠んだ。『おくのほそ道』に載る句で、「むざんや」は謡曲『実盛』の一節を踏まえている。句碑は境内にも、首洗池のほとりにも建つ。
江戸時代の1749年には、人形浄瑠璃『源平布引滝』が初演された。若き日の実盛が幼い手塚光盛と顔を合わせ、のちの対決を予言する場面は、「実盛物語」と呼ばれて特に有名だ。
加賀市の篠原には、亡骸を葬ったと伝わる実盛塚がある。老松が茂り、垣根をめぐらせた塚だ。髪を染めるときに使った鏡を納めたと伝わる鏡の池は、同じ加賀市の深田町にある。生まれ故郷の越前では、丸岡町長畝に実盛堂があり、実盛池の水は産湯に使われたと伝わる。
斎藤別当が転んだと唱えて歩く
では、実盛は虫送りにどんな顔で現れるのか。徳島県海陽町の樫ノ瀬地区に、行列の細かい記録がある。県立博物館の解説が、その様子を伝えている。
田植えが終わった初夏の虫送りの日、住民は高西寺の本堂に集まる。住職の読経が済むと、参加者は道具を手に、一列になって境内を右回りに進む。先頭は笹竹を持つ者で、続いて住職、鉦、太鼓。
行列が唱える言葉は「サイトコベットコ、ウッテントン、イネノムシャー、トサヘイケー」。斎藤別当が転んだ、だから稲の虫は土佐へ行け、という意味に読まれ、実盛の転倒がそのまま呪文の文句に化けている。末尾に「土佐の次は伊予へ行け」と足す例もあるらしい。
行列は寺を出て、集落の水田のあぜ道を歩きながら虫を集め、海部川の川原へ向かう。持ち物が細かい。槍、長刀、草履、弁当、短冊、依り代、御祈祷札。いずれも実盛の持ち物という決まりだ。
竹筒の虫入れには、オガと呼ぶカメムシなどを実際に入れ、サトイモの葉で蓋をする。川原に着くと、道具は全部川へ流し、実盛の弁当や草履まで流してしまうのだから、徹底している。
ちなみに、徳島県の事例には、人形のサネモリ様そのものが現存しない。それでも唱え言葉のなかに、実盛はいる。阿南市には「斎藤実盛様のお通りじゃ、飛べるムシャ飛んで来い、這えるムシャ這って来い」という文句が伝わる。半田町の『半田町誌』には「実盛虫はどこへ行った、西のはてまで後さらえ、ドーンドン」とある。
唱え言葉に実盛が出てこない土地もある。富山県氷見市の床鍋では「泥虫ほい、泥虫ほい」と囃しながら練り歩く。京都市左京区の山あいでは「泥虫出てけ、刺し虫出てけ」と唱えてあぜ道を行く。東の端といわれる愛知県よりさらに東の長野市篠ノ井にも、犬石の虫送りがあり、さねもりさんの別名で呼ばれる。麦藁で樽形の神輿を作って担ぐ、素朴な行事だ。
虫をみんな持って行ってやる
実盛が虫の親玉にならず、虫を引き受けてくれる人になる土地もある。鳥取県若桜町の舂米地区だ。
源氏方に追われた実盛が、因幡から氷ノ山を越えて但馬へ逃げのびる途中、この村に立ち寄った。害虫に苦しむ村人を見た実盛は、こう言って立ち去ったという。「わしが但馬に越すけえ、虫をみんな持って行ってやる」。以来、虫害は治まった。
篠原で討たれた実盛が因幡の山を越えるはずもなく、史実とは合わない。それでも土地には、こういう話が残る。一時は途絶えたが1996年に復活し、そのとき作られた藁人形は鳥取県立博物館に収蔵されている。
山口県長門市の北浦地方には、サバー送りがある。藁で作った騎馬武者の人形が2体。長さは約2メートル、高さは約1メートル。2体はそれぞれ「サバーサマ」「サネモリサマ」と呼ばれ、前者は稲虫の化身、後者は実盛の霊を指すという。
2体の人形は、20か所あまりの集落を何週間もかけて送り継がれ、最後はたいてい海へ流される。人形の旅は長い。燃やすこともある。2009年に県の無形民俗文化財に指定された。
愛媛県西予市城川町の田穂では、棚田のあぜ道を実盛人形が練り歩き、人形は隣の魚成へ送り継がれて、黒瀬川の河原に置かれる。大水に流された年は豊作になるという。300年以上の歴史がある行事だ。
島根県邑南町の鹿子原には、古い形を残す虫送りとして、全国でも数少ない虫送り踊が伝わる。実盛送りに、広島県北部の芸北地方から習い伝えられた太鼓踊が付く、ほとんど例のない形だ。太平洋戦争の最中も、中止せずに続けられた。保存会ができたのは1963年で、島根県の無形民俗文化財になったのは1967年だ。
川へ流す、燃やす、振り返らない
愛知県豊明市沓掛のオンカ送りは、いまは子どもたちの行事だ。昼のうちに、子どもたちは竹の棒に差した馬にまたがるサネモリの人形と、孔雀の人形を持ち出す。「奉送雲霞大神」と書いた幟を立て、太鼓を鳴らしながら集落を回る。
出発点は諏訪社。太鼓の音、人形、子どもたちの列。集落の北のはずれまで来ると、その場で人形と幟を焼き、害虫が追い払われたことを表す。子どもたちは、そこから諏訪社まで振り返らずに戻る決まりだ。かつては松明をかかげ、夜に行っていたという。
市の無形民俗文化財になったのは1987年だ。燃えている人形を背に、子どもたちが前だけを見て歩く光景は、考えてみれば相当に怖い。
愛知県常滑市の矢田では、実盛人形とフウフの鳥を奉じるおんか送りが田植え後まもない6月下旬に、松明を掲げる虫送りが7月初旬に行われる。ひとつの集落で、2つの行事が続く。
村境は、内と外を分ける場所だ。疫病や悪霊を外へ送る行事にも、よく似た形がある。目に見えない災いを人形へ移し、境を越えさせる。神社で紙の形代に穢れを移して流す風習とも、形がよく似ている。名古屋市博物館は、害虫駆除だけでなく疫神退散の願いも込めて行う地域があると説明する。
ここからが分かれ道になる。災いを隣村へ押し出すのか、自然の循環へ返すのか。同じ送るという所作でも、込められた意味がまるで違ってくる。現地の説明を聞かずに、ひとつの呪術の型へ当てはめるのは避けたい。
福島県の三島町は、もっと生々しい。実際に害虫を捕まえ、袋に詰めて送り出す。会津美里町の高橋では、人が乗れるほど大きな萱の虫籠を作り、行列で川まで送り継ぐ。川では東西の寺の住職が虫供養を営んでから、虫籠を流す。
時期も土地ごとにまちまちだ。豊明市は7月下旬、小豆島の肥土山は半夏生の日、高橋は害虫がいちばん増える土用入りの前日に行う。
水の色が変わった享保17年
虫送りが各地の農村で行われ始めたのは、16世紀の初め頃といわれる。江戸時代には、全国の農村で広く行われていた。切実さが跳ね上がった年がある。1732年、享保17年だ。
前年の暮れから天気が悪く、年が明けても5月、6月まで雨と低温が続いた。麦は不作で、閏5月には稲が実り始めて農民を喜ばせた。6月の半ばになって、害虫のウンカが大発生する。
のちに編まれた福岡の地誌『石城志』は、虫が田の水に浮いて川へ流れ出し、水の色が変わるほどだったと記す。久留米藩では、村々で大勢が毎日虫追いに出て、田1反から3斗、4斗もの虫をすくい取った。
稲は腐り、飢饉になった。享保の大飢饉は、稲虫が大きく関わった飢饉としては日本史上最大とされる。幕府がまとめた数字では、餓死者は1万2千人あまりだ。小倉藩の領内だけで4万人を超える餓死者が出たという記録もあり、史料によって数字は大きく食い違う。
吉宗は、蝗害を除くための祈祷も行わせた。福岡城下では7月4日、崇福寺と東長寺で、死者の追福と五穀豊穣を祈る祈祷が営まれた。福岡市内には、餓死者を弔う飢人地蔵がいまも残る。博多の川端の地蔵では、毎年8月23日と24日に施餓鬼法要が営まれる。
飢饉は世の中も揺らした。農村では1732年だけで百姓一揆が18件起き、米価の高騰した都市では打ちこわしがあった。救荒作物としてサツマイモが注目されたのも、この飢饉のあとだ。
鯨油をまく、祈祷もする
松明の行列とは別に、昼の田では実用の手立てが育っていた。田の水面に油をまき、油膜の上へウンカを払い落とすと、虫は飛び立てなくなり、油に塞がれて窒息して死ぬ。
この方法の出どころは、筑前国。いまの福岡県で、1670年に鯨油を使う駆除法が考案されたと伝わる。大蔵永常の『除蝗録』によれば、きっかけは菅原道真を祀る廟の灯明だった。灯明の油に虫が飛び込んで死ぬのを見て、水田に油を注ぐことを思いついたという。
高知では、藩の役人だった杉本庄兵衛が、享保17年にまとめた農書『冨貴宝蔵記』で、鯨油の注油を強く勧めた。ウンカ駆除に鯨油を使うよう説いたのは、調べてみると全国でも早い時期の例らしい。前年のうちに藩へ通知していたのに、周知が徹底されなかった。
大飢饉のあと、幕府は稲虫が大発生した地域の代官に、鯨油の注油を公式の駆除法として布達した。1826年刊の『除蝗録』で、大蔵永常は全面的に鯨油を推している。油はやがて、鯨油から石油へ替わった。
戦後に有機合成の殺虫剤が登場するまで、注油駆除の現役は約280年にも及ぶ。農薬や栽培技術が広がると、虫送りを害虫対策として行う必要は薄れた。時代が変わったわけだ。
句に詠まれた虫送り
俳句の世界では、虫送りは夏の季語だ。傍題に実盛送りや虫流しがあり、田で殺した虫を弔う虫供養も同じ仲間に入る。実盛虫は、秋の季語になっている。
江戸中期の横井也有は、「猶も田に蛍はのこせ虫おくり」と詠んだ。害虫は送っても、蛍は田に残してやれ、という意味の句。
1898年、正岡子規は「火や鉦や遠里小野の虫送」と詠んだ。火と鉦の音。松山市の千福寺には、この句の碑が建つ。明治の田んぼにも、松明の列はまだ歩いていた。
菜種殻の松明が消えた
虫送りが衰えた理由は、害虫への備えが変わったことだけではない。滋賀県竜王町の虫送りを調べた1978年の報告には、松明の話が出てくる。燃料にされていた菜種殻の需要が、昭和30年代にプロパンガスの普及で消えた。
松明の材料は、菜種殻。菜種の栽培が急に衰え、その調達が難しくなった。滋賀県下では、どこも同じ事情だったという。これを機に、行事そのものが一気に廃れた。竜王町では、絶えた集落のほうが多い。
担い手の減少も響いた。神奈川県横浜市の川和では、戦後は途絶え、何度か復活したものの、火事の危険を理由に行われなくなった。人口減、高齢化、米価の下落と、理由は重なっていく。
火が消えた村ばかりでもない。滋賀県近江八幡市のいもち送りは、1965年頃に途絶えたあと、1980年に神社の宮司の呼びかけで復活した。香川県小豆島の中山では、2005年から行われなくなり、2010年に映画『八日目の蝉』の撮影で再現された。翌2011年には、それを受けて再開している。
火が戻ってきた村
小豆島の肥土山には、1661年に始まったとする自治会の史料がある。中山の千枚田では、竹で作った火手という松明を持って、棚田のあぜ道を歩く。半夏生の頃の行事で、いまは7月の第1土曜日に行われる。
愛知県稲沢市の祖父江の虫送りは、1991年に国の選択無形民俗文化財になった。石川県白山市の横江の虫送りは、江戸時代から伝わり、1964年に市の無形民俗文化財の指定を受けた。早い例のひとつだ。
富山県氷見市の床鍋には、虫送りの大松明がある。竹と藁で作った直径約1メートル、長さ約8メートルの円筒形の松明に、村外れで火を点ける。山道やあぜ道を曳き回し、「泥虫ほい」の囃子とともに進んで、最後は立てて燃やす。一時途絶えたが、1990年に復活した。
横浜市都筑区の南山田では、空き缶に火を灯して松明にしていて、2015年に200本だった松明は、2016年に250本へ増えた。宅地になった町に、火の列が戻っている。
石川県川北町の手取の火まつりは、全町民が参加できる祭りをつくろうと、1986年に始まった。豊作を祈る虫送り太鼓が演じられ、2026年の第41回には、高さ約40メートルの大松明が立つ。
青森県五所川原市の相内には、約450年の歴史があるという虫送りが伝わり、津軽一帯の虫送りの原型といわれる。同じ市の奥津軽虫と火まつりは、1973年に地元の青年会議所が火祭りの要素を加えて生まれた。
火は、戻ってきた。形は変わっても、火を持って歩く行為は手放されていない。田んぼを守る人が一緒に歩いてその年の実りを願い、昔の合戦や土地の言葉を、子どもたちへ手渡す。夜の火の列は、地域の記憶を目に見える形にする。
鎧の老人は畦道に立つのか
虫送りの夜に幽霊を見た、という話を、記録で確かめることはできなかった。鎧姿の老人が畦道に立つ絵は、実盛の白髪の話を知る人ほどすぐ頭に浮かぶ。怖さは十分にある。出どころの分かる実例は、調べた範囲で見つからない。
田んぼを荒らす虫は、自然現象だ。武将の怨念が発生させるものとは違う。それでも村人は、説明しにくい災いに名前をつけ、火を掲げて外へ送った。
虫送りの面白さは、怨霊が本当にいたかどうかにはない。村が説明のつかない不安をひとりで抱え込まず、みんなで火を持ち、行列にして歩いたところにある。それが夜の火の正体だ。
豊明市の子どもたちは、人形と幟を焼いたあと、諏訪社まで一度も振り返らずに歩く。背中には、燃える人形の火。
