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🐸 06|カエル殺しと雨――水田生態系・水神信仰・祟り説

1月1日の朝。諏訪大社の上社本宮では、御手洗川の氷を割って川底を掘り返す。出てくるのは冬眠中の蛙だ。凍える川の底から引きずり出された蛙は、拝殿の前で小さな弓に射られ、矢に刺さったまま神前に供えられる。蛙狩神事という。

蛙を殺す行為が、ここでは祈りの真ん中に座り、願うのは国の平安と五穀豊穣だ。同じ国には、蛙を殺すと雨が降るという脅し文句も転がっている。片方は供物で、片方は禁忌。この落差が妙に気になる。

三日三晩の雨と、殺した数だけの地蔵

脅し文句には、子どもが面白半分に蛙を石で打ち殺す、という筋立てが付いて回る。直後に来るのは、三日三晩の大雨。水に浸かる田んぼ。年寄りは蛙の祟りだと言い、殺した数だけ小さな地蔵を並べて、雨が上がるまで手を合わせる。

子どもは叱られて終わりじゃない。村中が水浸しになったのはお前のせいだ、という空気に押し潰され、二度と蛙へ石を投げなくなる。怖さが授業料になる仕組みで、残酷な遊びをやめさせる装置として読めば、筋は通る。

先に言っておく。雨を呼ぶという因果は、科学の側では確かめられていない。ここまで細かい筋立てを載せた文献や民俗報告は、探した範囲では見つからなかった。国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベースでは、蛙に関わる52件の見出しに、そんな項目は見当たらない。

このデータベースは、雑誌の民俗報告や県史、随筆から、怪異や俗信の記述をカードにして並べたものだ。蛙に関する記録は、ほかにいくつも出てくる。見つからなかったのは、殺すと雨になる話だけだった。

蛙が動き回る季節を考えてみてほしい。ニホンアマガエルの産卵は、4月から7月ごろまで続く。卵から孵った幼生は1ヶ月ほどで子ガエルになり、8月上旬までには田んぼのまわりが小さな蛙だらけになる。

梅雨のほうは、関東甲信で平年6月7日ごろに入り、7月19日ごろに明ける。東北南部は6月12日ごろから7月24日ごろ、東北北部は6月15日ごろから7月28日ごろまでだ。数字はどれも1991年から2020年の平年値になり、蛙の季節と雨の季節は、ほぼ丸ごと重なる。子どもが蛙で遊んだ数日後に雨が降っても、ちっとも珍しくない。祟りに見えたものの正体は、ただの季節かもしれない。

草の葉1枚で潰された蛙

『宇治拾遺物語』に、蛙を殺す場面が出てくる。鎌倉時代の前期にまとまった説話集で、仏教の説話から世間話まで、雑多な話を集めた本で、登場するのは、陰陽師の安倍晴明だ。題は『晴明、蛙を殺す事』。

舞台は広沢の僧正の御坊。若い僧たちが式神で人を殺せるのかと尋ねると、晴明は、簡単には殺せないが力を入れればできる、と答えた。虫の類はどう生きるかを知らないから、殺せば罪になる、とも言った。

そこへ蛙が出てくる。僧が1匹殺して見せてほしいと迫ると、晴明は「罪を作り給ふ御坊かな」と返し、草の葉を摘んで呪文を唱え、蛙へ投げる。草が覆いかぶさると、蛙は真っ平らにひしゃげて死んだ。

草の葉1枚。それだけで蛙は潰れ、僧たちは顔色を変えた。晴明はこの後も、人のいない家で式神を使い、格子戸を上げ下ろしし、門を開け閉めしたという。

どの場面にも雨や祟りは出てこず、出てくるのは罪という言葉だけだった。蛙を殺す話は古くからあるのに、蛙の死と雨は、この説話の中で結びついていない。そこが肝心だ。

氷の下から掘り出される2匹

冒頭の蛙狩神事に戻る。場所は長野県諏訪市、上社本宮の前を流れる御手洗川だ。神橋の上の一段高い所から氷を割って川底を掘ると、厳冬でも必ず2匹の蛙が捕れる、と案内する記事がある。捕らえるのは赤蛙で、氏子が川底を掘り返し、拝殿の前では神職が小さな矢で射抜く。矢に刺したまま神前へ供え、宮司が祝詞をあげて、国家の平安と五穀豊穣を祈る。

江戸後期の1806年に出た『諸国図会年中行事大成』にも載っているので、江戸時代にはもう行われていた。季語は新年。かわずとびの神事という別の呼び名もある。冬の川で掘り出す蛙が、俳句では新しい年の言葉になった。

蛙は食べ物でもあった。『日本書紀』には、吉野の国栖の民が蝦蟆を煮て上等の味とした、という記述がある。神に供え、人も食べるのだから、殺すこと自体は、いつも禁じられていたわけではない。

近年は動物保護団体が中止を求めており、2011年以降、複数の団体から抗議が寄せられている。2016年からは廃止を訴える団体もあり、2020年11月には正式な要望書も出た。神社は、古くから氏子や崇敬者と守ってきた大切な神事なので、従来どおり続ける方針だと答えている。場所を裏山へ移し、白い布で囲って人目に触れないようにしているという記述もある。

殺すと祟るはずの生き物が、ここでは新年いちばんの供物になる。殺してはいけないほど特別だから、殺して捧げる値打ちが生まれる。そんな読み方もできるし、禁忌と神事は、同じ布の裏表かもしれない。

餅を背負って山へ帰る使い

福島県の刈上げ祝いを扱った報告に、短い一文がある。1985年12月発行の『西郊民俗』113号に載った論文で、蛙は田の神様のお使い、と書かれている。2重ねの餅をわらぶたに載せておくと、その夜に蛙が背負っていくのだという。

栃木県那珂川町と茨城県筑西市の記録も、よく似ている。旧暦10月10日に餅をついて田の神様にあげると、神はその餅を持ち、蛙をお供にして、もとの社へ帰っていく。『日本民俗学』に載った異類求婚譚の論文が、この伝承を拾っていた。先ほどのデータベースで、田の神と蛙を並べた見出しは3件。福島、栃木、茨城の記録で、数は多くないが、土地は離れていない。

旧暦10月10日は十日夜だ。収穫が終わり、田の神が山へ帰るのを送る行事で、北関東を中心に甲信越から東北南部まで広く分布する。餅やぼた餅を供え、子どもが藁鉄砲で地面をたたいて歩くのは、モグラの害を除くためでもある。案山子を田から引き上げて祀る地方もあり、西日本の亥の子の祝と同じ趣旨の行事だ。

田の神は、春に山から里へ下りて田を守り、秋には山へ帰ると考えられてきた。山の神と同じ神だとする見方がある。春の祭りは、苗代の水口で行う水口祭。木の枝や花、小石を依代にして、常設の祠は建てないのが普通だった。

宮城県には、八重桜の枝や焼米を入れた幣束を立てる例がある。田植えが終われば、さなぶり。稲作の段取りごとに、神への挨拶が組み込まれていた。

田の神の使いは、蛙だけではない。代表格は狐。九州から秋田まで、狐塚という地名が全国に多いのは、狐が田の神の使いと考えられたことに由来する。蛙は、福島県などに例が見える小さな使いだった。

国立国会図書館のレファレンス事例にも、蛙を田の神の使者とする俗信が出ている。『日本古典博物事典(動物篇)』が挙げる例だ。同じ事例には、アマガエルが鳴くと雨が降るという俗信や、ヒキガエルを家の守り神として扱う例も並んでいた。

冬ごもりの深さで季節を占う俗信も、同じ事例に挙がる。蛙が浅いところで冬ごもりをすれば暖冬で、深くもぐれば大雪になるという。蛙は、天気の読み手としても頼られていた。

正直に書いておく。蛙を水神の使いと明記した古典や民俗資料は、探した範囲では見つからなかった。確かめられたのは、田の神の使いのほうだ。ただ、水と蛙を結ぶ社伝を持つ神社なら、ちゃんとある。

龍神は雨を喜ぶから、蛙を献じる

三重県の二見興玉神社には蛙の奉献があり、神社は興玉神石を伊勢の海の守護の神として崇めている。その龍神崇拝とひとつにして、龍神は雨を喜ぶという意味から、蛙が献じられてきたという。水と雨と蛙が、1本の線でつながる。

もうひとつの由来は、語呂合わせだ。社伝では、伊勢参りの人々が、旅の安全や航海の安穏を祈り、無事にかえる、という願いから蛙を献じたとされる。今も、無事にかえる、お金がかえる、物事がかえる、という御利益で崇敬を集める。

手水舎には神使の満願蛙が据えられ、水を吐く蛙に水をかけると願いが叶うという。京都市伏見区の末廣大神でも、子を背負った蛙が神使として水を吐く。蛙は水場の守り役になった。

ここに書かれているのは、雨を喜ぶ龍神へ捧げられる蛙だ。蛙を殺すと龍神が怒って雨を降らせる、という筋ではない。殺す側の話とは向きが逆で、雨は罰というより、歓迎される恵みのほうに置かれている。雨は歓迎された。

塚のヒキガエルと、モズに刺された青蛙

蛙の祟りらしい話なら、京都府亀岡市の記録がある。1938年の『旅と伝説』に載った民譚で、石塚には大きな塚が2つあった。東の塚には1尺ほどのヒキガエルが、西の塚には300年来の蛇が棲んでいるという。

5、6年前に塚へ登って草を刈り、掃除をした人がいた。その人は足腰が立たなくなったが、塚の前に祠を建てて祀ると、間もなく治ったという。祟りの引き金は、蛙を殺すことではなかった。棲み処に踏み込むことだった。

富山県の木こりの間には、1973年の『富山県史(民俗編)』の伐採の項に、蛙の怨みを語る記録がある。木を伐ったあとの株に残る尖った突起を、ツルと呼ぶ。そこへモズが、青蛙を生贄として刺すのだという。

蛙はふだんモズに小便をかけるから、というのが理由だった。刺された蛙は杣を怨み、杣は長患いにかかるので、箸ほどの突起でも切り落とす。蛙を刺して供える神事が諏訪にあり、蛙を突起に刺す鳥が山にいた。

データベースの見出しでは、蛙は蛇と並んで立つ例が目立ち、52件のうち15件ほどにヘビか大蛇の名がある。1999年の『下野民俗』には、宇都宮市で高校生から聞いた話が載っている。夢に青い蛙が出たら、17日以内に白い蛇の夢を見ないと、一生ものの病気になるという。

縞の丹前の男は、蛙だった

岩手県軽米町の記録は、もっと奇妙だ。1983年の『晴山の民俗』によると、縞の丹前を着た男が女のもとへ通った。正体は蛙。数人の女が蛙の卵を産んだという。困った村人が加茂神社を祀ると、蛙は現れなくなった。

佐渡には、蛙女房の昔話がある。1955年の『日本民俗学』に載った話で、山で蛇が蛙を呑んでいた。兄が蛇を殺して蛙を助けると、蛙は姉さんになって兄の嫁になった。殺されるのは蛇。蛙を助けた者に、福が来る。

鹿児島県の「蛙の子」は、子どものいない老夫婦が神に祈ると、老婆の膝から蛙の子が生まれる話だ。蛙の子は村一番の金持ちの娘を連れて帰り、祝言をあげた。花嫁の次に風呂へ入ったとたん立派な若者になり、夫婦は、神様が授けてくれた子だと喜んだ。

香川県では、大きな蛙をばんびきさんと呼ぶ。1993年の『香川の民俗』に、当時80歳ほどの拝み屋の語りがある。金毘羅参りの帰り、畳半枚ほどもあるばんびきさんが、先を行っていた。追い越すと追いかけてきて、ひと跳びで追い越し、1間ほど先に座ってじっと見ていたという。畳半枚の大蛙。

大阪市生野区には、蛙石と呼ばれた石の話が残る。『諸国里人談』によると、民家の裏にあり、虫や鳥が止まると上が割れて口のように開き、呑み込んでから元に戻る。蛙が物を呑む姿に似ているから蛙石で、殺生石とも呼んだ。『浪華百事談』も、同じ話を載せる。

蛙の群れそのものを、怪異として書き留めた古い記録もある。『続日本紀』は、神護景雲2年7月に肥後国八代郡でガマが陣を組み、南へ去っていったと記す。時は768年。蛙は人のそばまで入り込み、嫁にも男にも化けた。

雨蛙は親の墓を案じて鳴く

民話は、蛙と雨の結びつきを別の筋で説明した。岐阜県に伝わる「雨蛙の親不孝」では、子の蛙がいつも親の言うことの反対ばかりする。親は重い病にかかり、本当は山に埋めてほしいのに、逆をする子を見越して、川のそばに埋めてくれと頼んだ。

子はそこで初めて悔やみ、最後くらいは言葉どおりにしようと、親を川のそばに埋めた。墓は川のそば。だから雨蛙は、雨が降る前になると、墓が流されると案じて鳴くのだという。佐賀市大和町にも、よく似た「母恋雨蛙」が伝わる。

大和町史に載る話で、初夏にキャフ、キャフと悲しげに鳴く雨蛙が主人公だ。母は木の葉から落ちて石で頭を打ち、瀕死のまま、川岸に葬ってくれと頼む。子は初めて母に従い、雨のたびに、お母さんが流れはしないかと鳴くようになった。

鳥取県大山町の昔話にも、同じ型がある。1979年の『伝承文学研究』に載った記録で、母の言葉の反対ばかりする若者が、母を川端に葬る。近所の人から、本当は山に埋めてほしかったのではと聞かされ、若者は雨蛙になった。雨が降ると「お母さんの墓が流れる」と鳴くという。

岐阜、佐賀、鳥取。離れた土地で、同じ筋が語られていた。どの話でも、蛙は雨を呼ぶ側にはおらず、雨を心配する側にいる。

古池に飛びこんだ蛙は、鳴かなかった

平安の歌人は、蛙の声を歌と同じものとして聞いた。『古今和歌集』の仮名序は、花に鳴く鶯と、水にすむ蛙の声を聞けば、生きているものはどれも歌を詠まずにいられない、と書く。田んぼの合唱は、1000年以上前から、耳に馴染んだ季節の音だったらしい。

「古池や蛙飛びこむ水の音」に、蛙の声は出てこない。聞こえるのは水の音だけ。1686年に深川の芭蕉庵で成った句で、蛙合という句合に出され、最高の位置にあたる、1番の左に置かれた。それまでの和歌や連歌は、蛙といえば鳴き声に目を向けるのが常だった。解説書には、飛びこむ蛙と水の音に目を向けたのは芭蕉の発明だ、と書かれている。

鳴嚢をふくらませるのは雄だった

初夏の田んぼには、トノサマガエルやニホンアマガエル、ツチガエルが集まる。雄は喉やほおにある鳴嚢という皮膚の袋をふくらませ、いっせいに鳴きだす。雌は仲間の雄の声を聞き分けて居場所を探す。夜の合唱の正体は、求愛の声。

ニホンアマガエルだけは事情が少し違い、雨が降りそうになると、繁殖期でなくても昼間でも鳴く。この声は、繁殖期に雌を呼ぶ広告音と区別して、レインコールと呼ばれる。夕立が近づくときの声はシャワーコールと呼ばれ、雨蛙という名は、この習性にちなむ。

腹の皮膚には多数の孔があり、そこから水を吸って体を湿らせている。湿度の変化には敏感な体だ。気圧の変化を感じ取って雨を知るのだ、という説明が広く出回っている。

1952年の『出雲民俗』14号には、島根県邑智郡の予兆として、蛙が鳴くと雨、と短く書かれている。琵琶湖博物館は2004年度に、フィールドレポーターへのアンケートで、野生生物の予知能力を調べた。調査期間は、2005年1月から2月末まで。蛙が鳴くと雨になるという言い伝えは、聞いたことがある、経験したことがある、という回答が寄せられた項目に入っている。

学芸員は、降り始めにほぼ必ず鳴くと思う、気圧の変動か湿度を感じ取っている可能性がある、と書いていた。鳴くから雨が降るのではない。雨が近いから鳴く。順番はこちら。

大雨や洪水を起こすのは、気圧配置や前線の動きだ。1匹の蛙の生き死にが天気を動かす筋道は、どの資料にも見当たらない。祟りが天気を左右するという話は、気象の側からは何も出てこない。

田んぼの生きもの、6305種

全国の田んぼで確認された生きものは5668種、という集計がある。琵琶湖博物館が2020年11月に公開した全種データベースには、水田とその周辺で見られる6305種が載っている。蛙は、その真ん中あたりにいる。日本にいる蛙の種のうち、南西諸島の種を除くと、約68パーセントが田んぼで暮らす、という解説がある。

水を張った田んぼにはクモや昆虫が増え、それを蛙が食べ、その蛙をさらに大きな捕食者が食べる。農林水産省は、この連なりを水田の生物多様性の姿として紹介している。アマガエルは体長20から45ミリほどで、水田を繁殖の場にも、えさ場にもして、昆虫やクモを食べる。

ウンカなど稲の害虫を食べるので、田んぼでは歓迎される。ちなみに、動くものに反応して食べる習性があり、死んだものや動かないものは口にしない。生きた虫が走り回る田んぼは、働き場として申し分ない。蛙は働き者だ。

産卵は、20個から30個ずつを重ね、合わせて500個ほどになる。期間は1ヶ月から2ヶ月に及ぶ。卵は水温20度前後で2日半ほどで孵り、幼生の期間は約32日と短い。

その幼生が育つ盛りに、田んぼの水が抜かれる。中干し。稲の根を丈夫にするため、水を落として田を乾かす作業だ。農業誌は、カエルになる前に水が抜かれると死滅してしまうので、中干しは脅威だと書く。蛙の生き死にを大きく左右するのは、水の出し入れだ。

アマガエルは乾燥に強く、足に吸盤があって動き回れるため、圃場整備のあとも生き残っている。稲の出穂のころに水が抜かれると、林へ移る個体もいれば、500メートル以上も動く個体もいる。水田の近くで一生を送る個体も多い。

ところが、減っている仲間も多い。環境省のレッドリストで、トノサマガエルは準絶滅危惧に入る。理由には、水田の減少、耕作放棄地の増加、圃場整備による乾田化が挙がる。コンクリート水路が移動を妨げること、農薬などで餌が減ること、中干しで幼生の育つ場所が消えることも書かれている。

ニホンアカガエルも、乾田化で早春の水たまりという繁殖場を失った。守る側の手立てもある。コンクリート水路にはふたをかけ、落ちた蛙が這い上がれる脱出工を付ける。

中干しの時期をずらし、田の中に溝を掘って水の逃げ場を残す工夫も行われている。蛙を殺すな、という戒めは、こうして見ると生態学の理屈にきれいに重なる。ただ、蛙を殺せば必ず不作になると、1本の線で結ぶのは言い切りすぎだ。確かなのは、1匹ずつが田んぼの食物連鎖の一部だ、というところまでだ。

小さな神の名を知っていた蛙

神話の蛙にも触れておく。『古事記』の蛙は、国づくりの場面に顔を出す。大国主神が出雲の海辺にいると、波の向こうから小さな神がやって来る。天之羅摩船というガガイモの実の船に乗り、蛾の皮を丸ごと剥いだ衣をまとっていた。名を尋ねても、答えない。

居並ぶ神々に尋ねても、誰も知らない。口を開いたのが、谷蟆と書かれる多邇具久、ヒキガエルだ。久延毘古なら必ず知っているはずだ、と言う。

久延毘古は山田のそほど、かかしの神だ。歩けない。それでも田の中に立って、1日中世の中を見ている。だから天下のことは何でも知っていた。名は崩え彦と読まれ、雨風で朽ちていくかかしの姿を映したものだ。

その神が、神産巣日神の御子の少名毘古那神だと答えを出した。この小さな神は、このあと大国主と並んで国づくりに取りかかる。ヒキガエルのひと言が、国づくりの相棒を呼び込んだ形だ。

収穫が済むと、かかしを田から引き上げて祀る地方がある。十日夜の習わし。田の神が山へ帰る夜に、田を見張ったかかしも役目を終える。かかしは神の依代とされ、小正月にかかし上げという祭りをする地域もあった。蛙が田の神のお供をして帰る話と、かかしを祀る話は、同じ秋の夜の風景に収まる。

『万葉集』には、山上憶良がこの蛙を詠んだ長歌がある。巻5の800番では、谷蟆が多尓具久の字で書かれている。天の雲が地に伏す果てまで、谷蟆が這い渡る果てまで、と歌い、天皇が治める領域のすみずみを指した。地を這うヒキガエルは、国土の端まで知る者の名として使われたわけだ。

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