奇怪千万からのお願い

このサイトの記事が面白かった、役に立ったと思って頂けたら、一つお願いがございます。
Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入って頂いて買い物をしていただくと
サーバーの運営費と心霊スポットやパワースポットの取材費になります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。
貴方様の支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。
記事をもっとたくさん増やしたいので、ご協力をお願いします。

当サイトではアマゾンアソシエイト以外のアフィリエイトは使用しません
(記事が見づらくなるから・・・)

墓石が傾くと家が傾く――家族の不幸をぜんぶ墓のせいにできてしまう「墓相」という思想

その日、墓地に着いたのは午前十時ちょうどだったという。

先に来ていた男性は、紺のジャンパーに白い軍手、肩から布のかばんを下げていた。挨拶はごく普通だ。天気の話をして、遠くまでご苦労さまですと言って、それから墓所の入口の手前でぴたりと足を止めた。中には入らない。入らないまま、しばらく墓石を見ている。家族のほうが焦れて「どうぞ」と促すと、男性は「まだです」と短く言った。

かばんから出てきたのは、方位磁石と、金属の巻尺と、コンパクトカメラだった。占い師が水晶を出すのを想像していた家族は、ここで少し拍子抜けする。そして次の瞬間から、拍子抜けは別の感情に変わっていく。

男性はまず入口の敷石の幅を測った。次に外柵の高さを測った。数字を手帳に書きつける。書きつけながら、独り言のように「低いですね」と言う。それから墓所の中に入り、しゃがみ込んで、棹石――「〇〇家之墓」と彫ってある縦長の石だ――の正面と自分の顔の高さを合わせた。合わせて、首を横に振った。

「高すぎます。しゃがんで、目線が竿石の真ん中に来るのが本当なんです」

家族は顔を見合わせた。父が建てた墓だ。三十年前、父は「いい石を使った」と自慢していた。実際、近所の墓より一回り立派に見える。それが「高すぎる」と言われている。

男性は台石を指でなぞった。上の台石と下の台石のあいだの目地に、指を差し込むような仕草をする。「セメントで留めてありますね」。留めてありますねと言われても、留めないで石を積む家があるとは家族は思っていない。「本来ははめ込みです。接着してしまうと三段が一つの石になってしまう。三段には三段の役割があるんですよ」

役割、と男性は言った。一番上の竿石が寿。真ん中の上台石が禄。一番下の下台石が福。上から子孫、家業、資産。三つそろって一つの家を表す。だからこの三つは同じ山から採った同じ石でなければならない。違う石を混ぜると、家の中の意見が合わなくなる。

ここまで十五分ほどだ。誰も口を挟んでいない。

次に男性は方位磁石を墓石の正面に置いた。針が落ち着くのを待つ。待って、また手帳に書く。「北西です」。それだけ言って、しばらく黙った。沈黙が長い。長男が我慢できずに「北西だと、どうなんですか」と聞く。男性は聞かれてはじめて答えるという体で、静かに言った。

「火の相です。北西に入口を向けると、火難か、そうでなければ長のつく人に難が出ます」

母が「うちは、去年、台所を」と言いかけて、やめた。やめたのだが、やめたことのほうが場の空気を決めてしまった。

それから男性は水鉢を持ち上げようとして、動かないことを確認し、カロートの中を覗こうとして覗けないことを確認した。底はコンクリートですかと聞かれ、家族は答えられない。三十年前に石屋がどう作ったかなんて誰も覚えていない。「たぶん、コンクリートだと思います」と長男が言うと、男性ははじめて手帳を閉じた。

「お骨が土に還れないんです」

最後に写真を四方から撮って、外柵の外に出て、深く一礼した。所要時間、およそ四十五分。帰り際に男性は、こう言い残したという。

「直すか直さないかは、ご家族が決めることです。私は見ただけですから」

この「私は見ただけですから」が、いちばん効く。指示されたわけじゃない。脅されたわけでもない。ただ、事実として数字を測られ、事実として写真を撮られ、事実として名前をつけられた。あとは自分たちで考えてください、と置いていかれる。帰りの車の中で、家族は誰も墓の話をしなかった。しなかったのに、その夜、母が「お父さんの墓、どうする」と言い出した。

これが墓相だ。

石が三段であることに、なぜここまでの意味が乗ったのか

墓相というのは、墓石の形や向きや色や場所を見て、その家の吉凶を判断する考え方だ。人相があり、手相があり、家相があるように、墓にも相がある、という発想でできている。占いの一種と説明されることが多くて、実際そのとおりだと思う。仏教の教義から出てきたものではない、というのは、この分野の情報サイトでもたいてい最初に断ってある。

いちばん有名な規定が、さっきの三段石だ。上から竿石、上台石、下台石。竿石を寿石、上台石を禄石、下台石を福石と呼ぶ流派もある。福禄寿というめでたい並びをそのまま石に割り当てているわけで、なるほどよくできている。そして三つは必ず同じ石でなければならない。これを共石といって、互いに手をつないでいる相なのだと説明される。違う石が混ざると家族が割れる。石が仲良くしていないから人間も仲良くできない、という理屈だ。

理屈としては強引なんだけど、聞かされると妙に納得してしまうところがある。石は物言わぬまま何十年もそこに立っている。その沈黙に、家の運不運という物語を貼りつけると、途端に石がしゃべりだすように感じる。人間はそういう錯覚がわりと好きなんだよな。

台石の枚数にも規定がある。下の台石が二枚だと不動産が減る。上の台石が二枚だと金銭がだんだんなくなる家になる。台石が一枚しかないと不動産が増えない家になる。猫足――西洋家具のように脚が外に反った台座だ――は家庭不和、浪費、足の病気を招く。竿石が黒い石だと、大きな秘密を抱えるか、大問題を起こすか、後ろ指をさされる家になるか、火難や災害が起こる。自然石をそのまま竿石にすると養子か血統断絶か身体の障りが出る。細長い墓石は早世する者が出る。

読んでいて気づくと思うんだけど、どれも「起きうること」なんだ。家に病人が出ない家はない。金が減らない家もない。跡取りで揉めない家もそんなにない。あとから当てはめようと思えば、たいていの家に何かは当てはまる。ここがこの思想のいちばん怖いところで、いちばん商売になるところでもある。

水鉢、玉垣、そして「下台に土を入れろ」という話

墓相が語るのは石の形だけじゃない。付属品にも全部意味がつく。

水鉢というのは、墓石の正面手前にある、水をためるくぼみのついた石だ。仏さまの喉を潤すためのもの、と説明される。関西の墓ではこの水鉢がカロートの入口を兼ねていて、納骨のときにこれを手前にずらすと十五センチから二十センチほどの穴が現れる。つまり実務上の蓋なんだけど、墓相ではここに家紋を彫るのが定石とされることが多い。ちなみに家紋を彫る位置に業界共通のルールがあるかというと、実はない。石材店の解説を読むと「花立か水鉢が一般的だが決まりではない」「竿石には彫らないほうがいい」といった程度の話で、要は見た目のバランスの問題だと書いてある。それが墓相の文脈に入ると、途端に「向きが逆だと家が逆さまになる」といった話に化けたりする。

玉垣、あるいは外柵、あるいは枠石。墓所をぐるりと囲う石だ。墓相ではこれが相当に重視される。囲うことでご先祖の聖域ができ、拝む者は枠の外から拝むことになる。そして枠は所有の境界を表すから、家の財産が他から侵されずに守られる相なのだと説かれる。枠が低い、あるいは枠がない墓は、財産が漏れる墓ということになる。ある流派では境石の高さは約一尺、別の流派では約三寸五分と、数字そのものが違う。ここは後でまた触れる。

そして、いちばん現代とぶつかるのが「土中式」の話だ。

墓相の多くの流派は、遺骨は土に還すべきだと言う。だからカロートの底をコンクリートや石で固めるのはよくない。底は土のままにしておいて、骨壺から出した焼骨を土の上に撒くか埋めるかする。ある流派の解説では、法律が定める「埋葬」とは死体を土中に葬ることをいうのだから、骨壺のまま棚に並べておくのは埋葬の形ではない、とまで踏み込んでいる。骨壺の中の骨は「まだ人骨という外形が残っている」から霊が留まってしまう、形がなくなるように大地に還してこそ霊は石塔に宿る、という理屈だ。墓所に敷く土は赤土がいいとされ、赤土は災厄を防ぐ色だからだと説明される。小石を敷き詰めると異性の問題が起きる。コンクリートや板石で固めると財産を失う。

面白いのは、この「土に還す」が、実は関西では墓相と関係なく普通の慣習として存在することだ。関西のカロートは底が土になっていて、骨壺から出して撒く。ただし現実には、千度を超える火葬炉で焼かれた骨はセラミック化していて、そう簡単には土に還らない。数百年単位でも還らないと書いている石材店もある。土葬なら百年から百五十年ほどで土に還るが、焼骨は別物だ、と。つまり「土に還す」は、多くの場合、還っていない。誰のものかわからない骨がカロートの中で混ざっているだけ、という状態になる。

これを知ったうえで「還すのが吉相です」と言われると、どう受け取ればいいのか、正直よくわからなくなる。願いとしては美しい。事実としては還っていない。願いと事実がずれているものを、吉凶の根拠にしてしまっていいのかどうか。

東南を向けろ、北を向くなという命令はどこから来たのか

墓相でいちばん重視されるのは方角だ、とよく言われる。良いのは東南、次いで南、東。悪いのは北西、北東、南西。北東は鬼門、南西は裏鬼門。北西向きに入口を設けると火事や病気、南西向きは怪我、北東向きは夫婦別居や急死を招く、と紹介されている。ある流派の入門ページでも、吉方位は東・東南・南向きで、午前中の太陽が当たること、東と東南と南が低い地形であることが条件に挙がっている。

じゃあ北向きの墓に住む家は全部不幸なのか、というと、そんなわけがない。

これに対する反論はきわめて単純で、しかも決定的だ。霊園に行けばわかるが、墓というのは背中合わせに整然と並んでいる。片方が東を向いていれば、その裏側は西を向く。もし方角に絶対的な吉凶があるなら、日本中の霊園の半分は最初から呪われた区画を売っていることになる。山がちな土地では、北向きの斜面にしか墓地を造れない地域だってある。何百年も続いてきた寺の墓地では、参道や本堂との関係でどうしても北を向く区画が生まれる。北向きの墓の家だけが特別に不幸だという統計は、どこにも存在しない。

仏教の側からの答えはもっとあっさりしている。天台宗が公開している問答には、お墓は本来仏塔として建てられたもので、八方世界をあまねく照らすのだから東西南北どの方位も関係ない、方位を特に気にする必要はない、とはっきり書いてある。そして続けて、方位や墓相が悪いからといって建て直せばいいというものではありません、とまで書いてある。これは相当に踏み込んだ書き方だと思う。

浄土真宗はさらに直截だ。真宗大谷派のある寺院は「お墓の方角や形などが悪いと家に不幸が起こるなどというのは、仏教にとっては全くの迷信です」と言い切っている。別の真宗寺院では、親鸞の『一念多念文意』にある「占相・祭祀をこのむものは外道なり」を引いて、墓相を主張する人によって形も色も大きさも方角も言うことがまったく違い、因果関係もなければ統計さえもない、まったく信じる必要のないものだと書いている。因果関係もなければ統計さえもない、というのは、相手の土俵の上で切っている言い方で、なかなか鋭い。

北向きが嫌われた理由自体は、たどれば説明がつく。釈迦が入滅したとき頭を北に向けていたことから北枕が死のイメージと結びついた。中国の「王は南面する」という礼法から、南を向くのが上位とされた。参拝者が北側に立つと上座に立ってしまうから礼を欠く、という言い方もある。どれも文化の話であって、罰の話ではない。

赤い文字は生きている証、という説明の裏にあるもの

墓石の脇に彫られた名前が朱色に塗られているのを見たことがあると思う。あれは生前建墓の印だ。生きているうちに自分の墓を建てることを寿陵とか寿墓とか逆修墓とか呼び、その人の名前や戒名を朱で入れておいて、亡くなったら朱を落として黒にする。

石材店では「赤は血の色で、生きていることを表しているんですよ」と説明されることが多い。わかりやすくていい説明だ。ただ、由来をたどるともう少し込み入っている。もともとは中国の道教の煉丹術に行き着く。不老不死の薬をつくるのに丹砂、つまり硫化水銀を使った。秦の始皇帝陵の地下には水銀の川がめぐらされていたと『史記』にある。日本の古墳の石棺の内側が朱で塗られているのも、不老不死の願いか防腐の意味だと言われる。つまり朱は、生の色というより不死の色なんだよな。民俗学ではこれを擬死再生と呼ぶ。生きているうちに一度死んでおくことで生まれ変わる。生前に自分の墓を建てるという行為には、そういう発想が下敷きにある。

仏教の側では逆修という言葉がある。生きているうちに自分の死後のために仏事を修すること。『灌頂経』では死後に追善してもらっても功徳は七分の一しか届かないとされ、『地蔵菩薩本願経』では逆修なら七分すべてが得られるとされた。だったら生きているうちにやったほうが得だ、というので、平安中期以降、天皇や貴族から民間まで広まった。中世には禅宗でも浄土でも宗派を問わず「生前葬」が普通に行われていた。しかも面白いことに、生前に葬儀を済ませていても、実際に死ぬとまた普通に葬儀をやる。得は得として取っておいて、儀礼は儀礼としてやり直すわけだ。人間くさくていい。

ここで墓相の話に戻ると、ややこしいことが起きる。生前建墓を吉とする考え方は広く行き渡っているのに、墓相の流派によっては、これをはっきり凶とする。ある流派の入門ページには「自分で自分の墓を建てるのは子孫がいらない形と観て、子孫に良くない相です」と書いてある。生前に建てるべきなのは自分の墓ではなく先祖の供養塔であって、自分の墓は子が建てるものだ、と。親の墓を子が建て、子の墓を孫が建て、孫の墓を曾孫が建てる。その連鎖こそが吉相なのだという。

だから「赤い文字が入っているのは縁起がいい」と言う人と、「自分の墓を自分で建てているのは子孫がいらない形だ」と言う人が、同じ墓地で同じ墓を見て、正反対の判定を下す。どっちも墓相を名乗っている。

五輪塔を建てろ、無縫塔は建てるな、洋型は凶

墓相の流派の多くは、古い先祖をまとめて祀るために五輪塔を建てろと言う。下から方形、球形、屋根形、半球形、宝珠形。地水火風空の五大を表す塔だ。

五輪塔そのものは由緒正しい。ただ、インド発祥という説はあるものの、インドにも中国にも朝鮮にも現物が残っていない。経典の記述をもとに日本で考案されたというのが今の有力説で、造立が始まったのは平安時代後半あたりとされる。覚鑁が『五輪九字明秘密釈』で五輪を人の五体になぞらえ、座禅を組む姿として図示した。それが入定の姿と解されて墓塔になっていく。高野聖が十五センチほどの木製の五輪塔を持って全国を歩き、遺骨や遺髪を納めれば必ず極楽往生できると説いて配って歩いた。その代金が寺の建立の元手になった、という身も蓋もない話も伝わっている。鎌倉から室町にかけては墓の八割以上が五輪塔だったとも言われる。

一方で、浄土真宗は五輪塔を用いないのが基本だ。先祖供養という教義概念がそもそもないからだ。真宗の墓には「〇〇家之墓」ではなく「倶会一処」や「南無阿弥陀仏」と彫ってあることが多い。つまり「先祖を祀るなら五輪塔を建てろ」という墓相の指示は、特定の宗派にとっては前提から成立しない。

無縫塔のほうも見ておこう。卵形の塔身が台座に乗った、あの独特の形だ。継ぎ目がない一石でできているから無縫塔、卵に似ているから卵塔とも呼ぶ。もとは禅宗の僧侶の墓標で、江戸時代以降は大名など身分の高い人にも広がり、今は宗派を問わず僧侶の墓の形になっている。『碧巌録』の第十八則に「忠国師無縫塔」という有名な話がある。唐の南陽慧忠が晩年、皇帝から「あなたの死後に何をすればよいか」と問われて「わたしのために継ぎ目のない塔をつくってくれ」と答えた。継ぎ目のない塔なんて作れるはずがない。だから禅の公案になる。

その由来を知っていると、「一般人が無縫塔を建てるのは凶」という墓相の言い分は、半分は納得できる。僧侶の墓の形だからだ。ただ、それは吉凶の問題ではなく、身分と役割の問題だ。凶だから避けるのと、僧の形だから遠慮するのとは、まったく別の話だと思うんだよな。

そして洋型墓石。墓相では、変わったデザインの墓は子孫が途絶える、細長い墓は早死にする者が出る、といった具合に、ほぼ全面否定される。ところが現実はどうか。全国優良石材店の会が二〇二五年に発表した購入者調査では、伝統的な和型が28.5%、シンプルな洋型が51.6%、デザイン墓が15.2%。二〇一六年からの十年で和型は9.7ポイント減り、洋型は9.4ポイント増えた。今や新しく建てられる墓の半分以上が洋型だ。一都三県では洋型が68.7%、四国では和型が90.9%と、地域差もくっきり出ている。北海道ではデザイン墓が33.3%を占める。

もし墓相の言うとおりなら、日本人の半分以上が今まさに子孫断絶の墓を建てていることになる。

墓石が傾くと家が傾く、二基並べると共倒れになる

墓相の規定のなかで、いちばん直感に訴えるのが「傾き」だ。石塔が傾いているのは、子孫や金銭で大きな心配事が起きている形だとされる。ある流派の解説では、先祖の御身である石塔は、割れがなく、傾かず、直立して完全である必要があると書かれている。

これはよくできている。なぜなら、放置された墓は本当に傾くからだ。地盤が沈む。基礎が甘い。目地が切れる。地震が来る。手入れをする人がいなくなった墓は、物理的に傾く。そして手入れをする人がいなくなる家というのは、たいてい何かしら事情を抱えている。傾いた墓と困った家が同時に存在するのは、因果ではなく相関だ。ところが墓相は、そこに矢印を引く。墓が傾いたから家が傾いた、と。

矢印の向きが逆だ、と言うのは簡単だ。でも、墓の前に立っている人間にとって、その矢印の向きはあまり問題じゃない。目の前に傾いた石があり、自分の家には困りごとがある。二つが同時にそこにあるという事実だけで、人の心はもう十分に揺れる。

もうひとつ強烈なのが、二基以上を並べるなという規定だ。近代墓相の中心人物とされる松崎整道は、こう言っている。ひとつの墓地の中に本家と分家、あるいは他人でもいい、とにかく二軒の家の墓があると、その両家の盛衰がかわるがわるやってきて、片方が頭を挙げれば片方が衰える。それを繰り返してついには共倒れになる。三軒以上あれば争いが絶えず、親子でも兄弟でも口をきかなくなる、と。

この一文の何が怖いかというと、家族の不仲という、どの家にも必ず種のある現象を、墓の配置で完全に説明しきってしまうところだ。実際に兄弟仲が悪ければ「やっぱり墓のせいだ」となる。仲が良ければ「まだ出ていないだけだ」となる。反証のしようがない。

そこから、分家には分家の墓が必要だ、という結論が導かれる。死人が出る前に建てろ。家を買う前に墓を建てろ。資金が足りなければ木の枠と木の標識でいいから先に土地を確保しろ。分家の初代は運命的に弱く、夫か妻か長男のいずれかが欠けることが多いから、それを防ぐために墓が要る。ある流派のページにはそう書いてある。

言葉としては筋が通っている。「先に建てろ」というのは、供養を後回しにするなという教えとしても読める。ただ、読み手が不安を抱えているときにこの文章に出会うと、まったく違う圧として届く。夫か妻か長男のいずれかが欠けることが多い、と書かれた文を、家族に病人がいる人が読んだらどうなるか。そこは、書く側が引き受けるべき責任の話だと思う。

「墓相」という言葉が紙に載った日

じゃあ、この思想はいつからあるのか。

意外に新しい、というのが正直な答えだ。少なくとも「墓相」という言葉の記録に限れば、そんなに古くない。日本国語大辞典が挙げている初出は、天保二年、西暦一八三一年の随筆『しりうごと』に出てくる「先年、墓相の説を主張して」という一節だ。祐天大僧正と小山田与清をめぐる文脈で使われている。つまり十九世紀前半の江戸には、すでに「墓相の説を主張する者」がいて、それが随筆に書き留められる程度には話題になっていた。逆に言えば、そのころにようやく言葉として立ち上がったということでもある。

墓相の流派が自ら語る系譜も、だいたい同じ時代から始まる。文政年間、つまり一八〇四年から一八三〇年ごろの人物である高田松屋という国学者が起点とされる。書店主で、易学者で、家相学者だったと伝えられている。ここは重要で、墓相の祖とされる人物が、まず家相の人だったということだ。家に相があるなら墓にもあるだろう、という発想の延長で生まれている。

そもそも江戸後期は、家相が爆発的に流行した時代だった。方位ごとに吉凶を割り振り、門や竈や厠や井戸の位置で住み手の禍福が決まると説く本が、大量に出版された。中国から渡ってきた住宅経営の書物、なかでも『営造宅経』の構成が下敷きになっていることが、建築史の研究で指摘されている。家相見は職業として成立していて、大工の棟梁や茶道の師範や神主僧侶と縄張り争いにならないよう配慮していた形跡すらあるらしい。そういう土壌のうえに、墓相が芽を出した。

ちなみに家相は明治五年、教部省によって淫祠邪教の類として直接に禁止されている。国家が「これは迷信である」と名指しで潰しにかかった歴史があるわけだ。それでも消えなかった。禁じられたものは地下に潜って、形を変えて出てくる。

秘書だった男が、日本中の墓を測りはじめるまで

系譜は続く。高田松屋の弟子が西岡、その弟子が大浦。大浦は大峯山の信者で行者だった人物で、明治年間の京都の人とされる。その弟子が多田通幽、中山姓とも伝えられる人で、岡山に生まれ京都に出て、後に岡山の一宮で亡くなった。この多田通幽が、近代の墓相にとって最初の大きな結節点になる。彼は「陰徳積善こそが子孫の繁栄につながる」と説き、各地で無縁の霊を祀る活動をした。京都の化野念仏寺の無縁慰霊塔の建立は、その代表的な足跡とされている。

そして松崎整道が現れる。

この人の経歴が、なかなか味わい深い。もともとは汽船会社の社長である藤山要吉という人物の秘書だった。大正六年、その藤山が多田通幽の信者になる。秘書として何度も付き添って通幽のもとを訪ねるうち、松崎自身がその思想に共鳴していった。やがて東京で自ら墓相を説くようになり、無縁墓を募って浄め祀り、地蔵行や地蔵流しをし、千灯供養を行う会を起こす。これが徳風会だ。

徳風会という名前の決まり方が、また記録に残っていて面白い。昭和七年、大阪で墓掃除をする会が松崎の指導のもとにつくられた。二回目の墓掃除を寺で開いたとき、そろそろ名前をつけようという話になり、本堂で話し合って候補を五つほどつくり、子供に目隠しをさせて一つを引かせた。引いたのが「徳風会」だった。以後、松崎は全国の会にこの名前を勧めたという。日本中の墓の吉凶を決めていく組織の名前が、目隠しした子供のくじで決まっている。この落差が、なんというか、たまらない。

松崎の講演をまとめた『お墓と家運』は昭和初期に森江書店から出ている。墓石の祀り方と家運の関係を統計的に表した最初の書籍ではないか、と関係者は書いている。松崎は昭和二十三年に亡くなり、弟子である京都伏見の初代竹谷聰進が後を継ぐ。明治三十七年、京都嵐山の生まれ。幼名を春栄といい、若いころから易学に興味があったという。

この竹谷聰進が、墓相を決定的に「近代」の顔にした。彼は墓相には科学的な実証が必要だと考えて、二十七歳から三十年あまり、物差しと磁石とカメラを持って日本全国の墓を実地に調べて回った。そして「確率93%」という数字とともに集大成し、昭和二十三年に『家運長久の秘訣』、昭和二十四年に『先祖の祭祀と家庭運』を世に出す。この本によって空前の墓相ブームが到来した、と後継の資料は記している。

冒頭の鑑定の場面で、男性がかばんから出したのが方位磁石と巻尺とカメラだったのを覚えているだろうか。あれは偶然の三点セットじゃない。八十年前に一人の男が始めた作法が、そのまま形として受け継がれている。

93%という数字については、いくつか言っておかなければならないことがある。何を母集団にして、何を「当たり」と定義して、外れた7%はどう扱ったのか。その手続きが公開されていなければ、数字は数字の形をした説得の道具でしかない。ただ、昭和二十年代の日本で、占いに「確率」という言葉と実地調査という手続きを持ち込んだ発想そのものは、かなり早い。近代の作法を身にまとうことで、墓相は民間信仰から「学」へと衣替えしたわけだ。同時代の研究報告でも、墓相家たちの視点が「学」「調査」「研究」という、近代学術で価値の高い用語を下敷きにしてなされていたことが指摘されている。

同じ墓相なのに、師匠が違うと墓の形が変わる

ここからが、墓相という思想の最大の弱点であり、同時に最大の見どころだ。

墓相には流派がある。そして流派によって、正しい墓の形がまったく違う。しかも各流派の系図はきちんと残っていて、誰が誰の弟子で、その人の作法がどこで先代と分かれたかまで記録されている。占いの世界でここまで自分の変遷を細かく記録している例はあまりない。皮肉なことに、その律儀な記録こそが、規定の恣意性を証明してしまっている。

起点の高田松屋の型はこうだ。竿石の上に笠石が乗る。竿石の下には丸と方を組み合わせた蓮華の台石を置く。仏像の台座と同じ形だ。最下部の台石は角形。夫婦墓を基本として、代々左へ建てていく。子供の墓は建てないし、名前も記さない。

弟子の西岡の型は、そこから少しだけ動く。笠石は同じくある。ただし竿石の下の蓮華台石は角形になる。丸みが消えた。夫婦墓で左へ建てるのも、子供を建てず記さないのも同じだ。師匠の型を一箇所だけ動かした、という感じがよく出ている。

その弟子の大浦になると、笠石が消える。竿石に彫った夫婦の法名の下に、子供の法名を記すようになる。ここで子供が墓の上に現れる。台石は二段になる。三段が絶対だという話は、この時点ではまだ確立していない。

多田通幽の型は、配置がまるごと変わる。墓地の中央に先祖の供養塔を建て、祖父母を右側に、父母を左側に建てる。子供は左端の、父母側の手前。入口についての教えはない。この配置は中国の墓相に似ていると、後継の系譜資料自身が認めている。供養塔には五輪塔と宝篋印塔の両方がある。

松崎整道の型では、中央だった供養塔が右端に移る。およそ五十年より前の先祖の供養塔を右端に建て、それ以降は夫婦墓として左へ建てていく。逆縁で亡くなった者は代々の中に順よく建てるか、右手前に建てる。境石の高さは約一尺。竿石は細長い。ただし師の本には、逆死者の建立場所や入口の教えは明記されていない、と後継者が但し書きをしている。

そして竹谷聰進の型。一見すると松崎と同じに見えるが、中身が違う。石塔は人間が座禅を組んでいる姿だと定義される。逆縁で亡くなった者は必ず右手前で、しかも内側を向けて建てる。石塔の前の踏石は置かない。入口石は必ず付ける。境石の高さは約三寸五分。師の一尺から、いきなり三分の一近くに縮んでいる。竿石よりも台石のほうが大きくなる。三段はセメントで接着せず、はめ込み式にする。台石と竿石の凹凸に陰陽の秘儀がある、と説明される。

並べて見ると、笠石は途中で消え、供養塔は中央から右端へ移り、子供は書かれない存在から書かれる存在になり、境石の高さは一尺から三寸五分に縮んだ。同じ「墓相」を名乗り、同じ師弟の系譜でつながっていて、それでも百年ちょっとでこれだけ動いている。

つまり、もしある型が「正しい」なら、その前後の型はすべて凶相ということになる。師匠の建てた墓を弟子が凶と判定できてしまう。逆に、どの型でも家が栄えたり傾いたりするのなら、それは形が結果を決めていないということだ。どちらに転んでも、規定の絶対性は成り立たない。

真宗の寺院が「墓相を主張する人によって内容がまったく異なる」と書いていたのは、まさにここのことなんだよな。

一九三〇年前後、雑誌と単行本が墓相を全国に配った

墓相が全国区になったのは、昭和のはじめだ。宗教社会学の研究報告では、一九三〇年、つまり昭和五年前後に墓相ブームがあったことが指摘されている。しかも同じ時期に、柳田民俗学、霊園行政、掃苔道――著名人の墓を訪ね歩く趣味だ――が同時多発的に立ち上がっている。墓というものが、ある時期に一斉に「見るもの」「語るもの」になった。

その火付け役として名前が挙がるのが、多田通幽が一九二九年に発表した論考だ。当時の代表的な婦人雑誌に載った。ここが決定的で、墓相は寺の外側から、しかも家庭の主婦に向けたメディアを通じて広まっていった。

もっとも、ブームを牽引したのは雑誌記事より単行本だったらしい。研究報告が具体例として挙げているのが、村田天然の『墓相の吉凶と家運』、一九三八年の刊行だ。村田は一九二八年六月の時点で墓相研究の原稿を主婦向け雑誌の出版社に送り、同じ年の七月には墓相の手引書を発刊して全国の宗教家と一般希望者に配っている。自著の中で村田は、自分が盛んに墓相研究の必要を説いて世論を喚起した、それが理由かどうかは知らないが、その後に多田ほか諸氏の墓相研究が公刊されたのだ、と書いている。先陣争いの匂いが漂っていて、ちょっと生々しい。

村田は墓相学を「日本全国の墓地を行脚して得た資料と、古文書に現れている史料を総合研究した結果、創案されたもの」と説明している。行脚と博捜。竹谷聰進の物差しと磁石とカメラ。実地調査という近代の身振りが、この分野の標準装備になっていく。

同じ研究報告は、こうも指摘している。当時の墓相家や掃苔家の言葉のなかでは、墓の管理主体として仏教が所与の前提とされていて、それを担うべき僧侶の不甲斐なさこそが問題視されていた、と。仏教学も教団も、墓をめぐる実践についてほとんど何も言わなかった。その空白を縫うようにして、墓相家と掃苔家と柳田民俗学が声を発した。

これは重要な指摘だと思う。墓相は仏教の敵として現れたのではなく、仏教が沈黙していた場所に入り込んだのだ。

「お宅の墓は、逆さまです」と言われた家の話

以下は、相談として寄せられた話や、ネットの書き込みとして流れているものを、個人が特定できない形にならしたものだ。細部は変えてある。

ひとつめ。関東の四十代の男性の話として伝わっているものだ。

父が亡くなって、初盆の前に墓を掃除しに行った。隣の区画に、見慣れない老人が立っていた。挨拶をすると、老人はにこやかに「立派なお墓ですな」と言い、それから「でも、逆さまですね」と言った。

意味がわからず聞き返すと、老人は水鉢の家紋を指さした。家紋の上下が逆に彫られている、というのだ。男性は家紋の正しい向きなど知らない。というより、自分の家の家紋の名前すら知らなかった。老人は「紋が逆さまだと、家の中の上下が逆になります。お宅、お子さんが親を軽んじていませんか」と言った。男性には反抗期の中学生の息子がいた。

老人は名刺も渡さず、勧誘もせず、そのまま帰っていった。男性はその日から家紋のことが頭から離れなくなり、石材店に電話をした。石材店の担当者はあっさり「うちの記録では図案どおりに彫ってます」と答え、そのうえで「そもそも家紋を彫る位置も向きも、業界に決まりはないですよ」と言った。同じ名前の家紋でも家によって微妙に形が違うことがあり、そのつどバランスを調整して作っている、と。

男性は納得した。納得したのだが、その後も墓参りのたびに、まず家紋を見てしまう癖がついたという。「見なくていいと言われても、見ちゃうんですよ」というのが、この話のいちばん怖いところだと思う。呪いは、直すべき欠陥ではなく、消せない習慣として残る。

建て替えた家に、それでも起きたこと

ふたつめは、両論として並べたい。

ある地方の家では、法事の席で親戚のひとりが「この墓は相が悪い」と言い出した。その親戚は特定の会の熱心な会員で、以前から言いたそうにしていたらしい。北向きであること、台石が二段しかないこと、外柵が低いこと、区画いっぱいに石を置いていて未来地――将来子孫が墓を建てるための余白だ――がないこと。ひとつずつ数え上げられた。当主は最初、相手にしなかった。だが翌年、当主の妻が入院した。

家族は建て替えを決めた。土地を買い足し、五輪塔を先祖の供養塔として据え、三段の石塔を組み直し、外柵をきちんと巡らせた。数百万円かかった。ここまでは、よくある話だ。

問題はそのあとで、この家では二通りの語りが同時に残った。当主本人は「建て替えてから、家の中の空気が変わった」と言っている。実際に妻は退院し、疎遠だった兄弟が法事に顔を出すようになった。何より、当主が墓のことを人に話すようになった。ずっと「面倒なもの」でしかなかった墓が、話題になった。それは効いたと思う、と本人は言う。

一方、その家の娘は別のことを言っている。母の退院は治療が効いたからだし、兄弟が集まるようになったのは建て替えの費用を分担するために連絡を取り合ったからだ、と。そして数年後、当主の事業は結局うまくいかなくなった。娘は言う。「あれだけやって、こうなった。じゃあ何だったのか、って思うんです。でも父の前では言えない」

墓相を信じた側にも、信じなかった側にも、それぞれの理屈がある。どちらかを笑うつもりは全然ない。ただ、この家に起きたことは、建て替えが効いた証拠にも、効かなかった証拠にもなっていない。同じ出来事が両方の材料になってしまう。それがこの手の思想の性質だ。

ちなみに、石材店が書いている記事のなかに、こんな一節を見つけた。大変高額な吉相墓を建てたのに、それでも不幸が続いたので裁判にまでなったケースもある、と。詳細は書かれていない。ただ、そこまで行った家が実際にあった、ということは重い。

墓を測る音がする、という墓地の話

みっつめは、怪談として流れているもの。だから話半分でいい。

北関東のある古い共同墓地に、夕暮れどきになると金属の巻尺を巻き取る音がする、という話がある。シャッ、と一気に戻る、あの音だ。近所の人が言うには、二十年ほど前に墓相を見て回っていた人がいて、その人はこの墓地の墓をほとんど全部測ったらしい。手帳に書き込んで、写真を撮って、家々に「お宅の墓はこうです」と伝えて回った。何軒かは実際に建て替えた。何軒かは怒って追い返した。そのうちその人は来なくなった。亡くなったとも、遠くへ移ったとも言われている。

音が聞こえるようになったのは、そのあとからだという。日が落ちる直前、誰もいないはずの区画のほうから、シャッ、と一度だけ鳴る。近づくと何もない。

この話の面白いところは、幽霊が誰かを呪う話になっていないことだ。測っているだけなんだ。今も、まだ測り終わっていない墓を測っている。無縁になって誰も来なくなった区画を、ひとつずつ。

考えてみると、これはかなり切ない話でもある。墓を測って吉凶を言うという行為は、その家に子孫がいることが前提になっている。子孫がいるから、家運を語る意味がある。ところが今この国で増えているのは、語りかける相手がいなくなった墓のほうだ。総務省が二〇二三年に公表した調査では、公営墓地や納骨堂を持つ七百六十五の市町村のうち、無縁墳墓とみられるものが一区画以上あると答えたのは58.2%にのぼる。誰も来ない墓の前で、まだ巻尺を鳴らしている人がいる。怪談としては、悪くない出来だと思う。

寺は、はっきり「関係ない」と言っている

ここで整理しておきたい。墓相は仏教なのか。

答えは、ほぼ全会一致で「違う」だ。

天台宗の問答は、方位を気にする必要はない、建て直せばいいというものではない、良い墓とは有縁の人が気持ちよくお参りできる墓のことだ、と述べている。真宗大谷派の寺院は、仏教にとっては全くの迷信だと言い切っている。浄土真宗本願寺派の寺院や、真宗興正派の僧侶が書いた記事も同じ立場で、しかもかなり丁寧に理由を説明している。真宗では、亡くなった人は阿弥陀仏のはたらきによってすでに浄土に生まれているので、墓に霊が留まっているとは考えない。だから墓の形や向きによって霊がさまよったり祟ったりするという前提そのものが成り立たない。ある真宗の僧侶は、こう書いている。墓の建て方に悩んでいるその心のありようこそが問題なのだ、墓なんて粗末にならない程度に参って偲べれば何でもいいのだ、と。

真宗はさらに強く、「たたり」や「悪い因縁」を一切認めないと明言している。仏となった先祖が子孫に災いをもたらすことなど断じてない、もし祟りだ因縁だと言って不安をあおり金銭を要求する者があれば、それはまことの仏法とは無縁だから惑わされないでほしい、と。これは墓相そのものというより、墓相を装った勧誘に対する警告として書かれている。

墓の吉凶を説くいくつかの記事も、実は同じことを書いている。良い墓は家が栄え、悪い墓は災いが起こるという教えは仏教にはない、墓相では色でも吉凶を判断するが仏教ではどの色も大切だと考える、だから墓相は仏教とは一切関係がない、と。売る側の情報サイトですらそう書いているのだから、これは業界の共通認識と言っていい。

ただし、誤解のないように付け加えておくと、墓相の側も「これは仏教ではない」と否定されて困る立場にはいない。ある流派の解説には、各宗教宗派に合った祀り方をする、という項目がきちんと立っている。宗教と競合するのではなく、宗教の上に薄く重ねる。だからこそ、しぶとい。

石屋のなかにも「墓相なんて信じるな」と言う人がいる

もうひとつ意外なのが、石材店の側からの否定がけっこう激しいことだ。

ある石材店は、営業トークの手口を並べたページの中で、はっきり「墓相なんて信じないことです」と書いている。日本中で墓の形は違うし、地形の関係で北向きの斜面にしか墓地を造れない地域だってある、と。同じページには、何もないときに墓を建てると悪いことが起きるといったネガティブな迷信を利用したセールストークがある、不安を植えつけて、悲しみの最中で冷静な判断ができない時が販売のチャンスになるからだ、といったことまで書かれている。同業を告発するような書き方で、読んでいて背筋が寒くなる。

別の石材店は、うるう年に墓を建ててはいけないという言い伝えを取り上げて、その正体を説明している。旧暦の時代には数年に一度、一年が十三か月になる年があった。武士の給金は年額だったから、十三か月を十二か月分の給料で暮らさなければならない。だから藩主が家臣に「余計な出費は控えろ」と通達した。仏壇の購入を禁じる触れを出した藩もあったという。それが年月を経て意味を忘れられ、「うるう年に墓を建てると悪いことが起こる」という形だけが残った。九州が発祥だという説もあるし、沖縄では逆に、うるう月は神様の目が届かない期間だから墓の新築も墓じまいもやりやすい吉の時期とされている。同じ暦のずれから、正反対の結論が出ている。

石材店の記事は、なかなか手厳しい言い方で締めている。この風習が残る地域の人に「なぜうるう年に墓を建ててはいけないのか」と尋ねても、「そういうもの」という返事しか返ってこない、と。

墓を売って生きている人たちが、墓にまつわる迷信を否定して回っている。この構図はちょっと考えさせられる。売る側からすれば、迷信は短期的には需要を生むが、長期的には業界の信用を削る。それがわかっている人たちがいる、ということだ。

不安につけこむ商法と、それを止めるためにできた法律

ここは慎重に書く。特定の誰かがやっている、という話ではない。ただ、そういう相談が公的な窓口に寄せられているのは事実だ。

国民生活センターは、墓と葬儀サービスについて、価格やサービス内容の説明が十分でない、質素な葬儀を希望したのに高額な料金を請求された、といった相談が寄せられていると公表している。墓じまいに関しては、遠方の寺院に納骨している遺骨を近くの霊園へ移そうとしたら高額な離檀料を請求された、請求の根拠が不明な項目がある、といった事例が挙がっている。神奈川県が出した注意情報には、墓じまいのために離檀料として二百万円かかると告げられた、という相談例が紹介されている。離檀料はお布施の一種であって明確な相場はなく、納得できなければ話し合うしかない、というのが行政の説明だ。

より広い枠でいうと、消費者庁は霊感商法や開運商法に関する消費生活相談が例年およそ千二百件から千五百件で推移していると集計している。契約金額の平均は百十万円あまり、中央値は二十一万円ほどだ。平均と中央値が大きく離れているのは、ごく一部にとんでもない高額契約があることを意味している。事例のなかには、姓名判断で字画が悪いと言われ、先祖に供養されていない人がいると告げられて、三十万円ほどの印鑑を買わされた、というものもある。

こういう被害に対応するため、二〇二二年末に「法人等による寄附の不当な勧誘の防止等に関する法律」が成立し、翌年に全面施行された。同じ時期に消費者契約法も改正された。霊感その他の合理的に実証することが困難な特別な能力による知見だと称して、本人や親族の生命や身体や財産について「このままでは重大な不利益を回避できない」と不安をあおり、あるいはその不安に乗じて、契約や寄附が必要不可欠だと告げる。これが規制の対象になった。困惑して契約してしまった場合は取り消せる。取消権を行使できる期間も延ばされた。

条文の言葉を、さっきの墓地の場面に当てはめてみてほしい。「このままでは火の相が出ます」と告げること自体は、感想の表明でしかない。だがそれを言った同じ人が、続けて「うちで建て直しましょう」と言えば、話はまるで変わる。分かれ目はそこだ。診断と販売が同じ口から出てくるとき、それは占いではなく勧誘になる。

だから、もし墓の前で不安になることを言われたら、覚えておいてほしい数字がひとつだけある。消費者ホットラインの一八八だ。全国どこからでも最寄りの窓口につながる。契約書にサインする前でいい。というより、サインする前だからこそ意味がある。

そして、この記事は絶対に「だから墓を建て替えろ」とは言わない。墓を建て替えなくても、あなたの家族には何も起こらない。

家相と墓相と、中国の陰宅風水は別物だ

墓相は風水だ、とよく言われる。半分は正しくて、半分は雑だ。

風水はもともと、生きている人の住まいを見る陽宅と、死者の住まいを見る陰宅に分かれる。中国と韓国では圧倒的に陰宅が重視されてきた。四世紀の郭璞に帰される『葬書』には、気が感応して応じ、鬼の福が人に及ぶ、と書かれている。祖先の遺骸を良い土地に葬れば、遺骸を通じて大地の生気が子孫に伝わる、という理屈だ。だから陰宅風水の主役は、石の形ではなく土地選びになる。

その土地選びが、これまた壮大だ。山々の連なりを龍脈と呼び、気の流れが濃くなる一点を龍穴と呼ぶ。龍穴は三メートルから五メートル程度の小さな場所で、風水師はそれを探すのに何年も、時には何十年も山を歩く。龍穴を見つけたら、その気が散らないように左右から抱きかかえる山を砂と呼び、左を青龍砂、右を白虎砂とする。そして水がなければならない。龍と穴と砂と水がそろった土地を探し当てることを尋龍点穴という。中国歴代の皇帝陵は、この作業を経て場所が決められている。

韓国では、地形を読む形勢派の影響がとりわけ強く、風水といえば墓を指すイメージすらある、と地理学の論文は書いている。

では日本はどうか。同じ論文が、実にすっきりと書いている。日本では方位判断をする原理派の一端は見られるが、地形を読む形勢派はほとんど見られず、その対象も江戸時代に流行した家相のような陽宅風水が盛んだった、と。つまり日本人は、風水のうち「土地の地形を読む」部分をほとんど輸入せず、「方位で吉凶を決める」部分だけを持ち込んで、それを家に適用した。それが家相だ。

そして墓相は、その家相の作法を墓に転用したものだ。だから日本の墓相は、中国や韓国の陰宅風水とは似て非なるものになっている。中国の陰宅風水が「どの山のどの一点に葬るか」を延々と論じるのに対して、日本の墓相は「石を何段積むか」「境石を何寸にするか」「家紋をどこに彫るか」を論じる。土地ではなく石を見る。地形ではなく寸法を測る。

これは日本の墓事情を考えれば当然でもある。江戸期に檀家制度が固まって以降、庶民の墓は寺の境内に置かれた。土地を選ぶ自由なんてほとんどない。選べるのは、その狭い区画に何をどう置くかだけだ。選べないものについて語っても商売にならないから、語りは選べるところに集中する。思想は、その社会が持っている自由度の形に合わせて変形する。

墓じまいの時代に、墓相は何を言えばいいのか

いま、この思想は史上まれに見る逆風の中にいる。

現在の墓の制度の骨格は、昭和二十三年、一九四八年五月三十一日に公布された墓地埋葬法によってできている。それ以前は明治十七年の太政官布達などで規制されていたものを、戦後に一本の法律として整理し直した。この法律で「埋葬」とは死体を土中に葬ることと定義され、墓地や納骨堂や火葬場を経営するには都道府県知事の許可が要ることになった。ちなみに、戦後にこの法律ができて墓地の新設が簡単でなくなったことが、庶民の墓の形を変えたという指摘もある。もともと家の先祖を祀る石塔は五輪塔で、四角い角柱の墓は個人や夫婦のためのものだった。ところが墓地が不足するにつれ、角柱墓が「先祖代々の墓」を兼ねるようになった。今わたしたちが見慣れている三段の墓は、そういう歴史的な妥協の産物でもある。

その墓が、いま急速に畳まれている。

厚生労働省の衛生行政報告例では、改葬の件数は近年おおむね年間十数万件の規模で推移している。そのうち無縁墳墓等の改葬として計上されるものは年に三千件前後だ。ただしこの数字は氷山の一角で、総務省の調査によれば、そもそも無縁墳墓の発生実態は、墓地行政で唯一の経年データである衛生行政報告例では把握されていない。総務省が二〇二三年に厚生労働省へ通知した調査結果を見ると、全国の墓地は約八十七万区域、うち公営が約三万区域。公営墓地や納骨堂を持つ七百六十五市町村のうち58.2%で無縁墳墓等が発生している。にもかかわらず、過去五年間に無縁改葬や墓石撤去に着手した市町村は6.1%しかない。手続きが慎重を要するうえに、撤去した墓石をどう扱えばいいのか国の基準がなく、財産毀損で訴えられるおそれがあるから動けない、という自治体の声が載っている。

墓石をどこに置いておけばいいかわからないから撤去できない。これが現在の日本の墓地行政のリアルだ。

一方で、新しく選ばれる供養の形も変わった。ある大手の情報サイトが二〇二六年に公表した調査では、購入されたお墓の種類は樹木葬が47.4%、合祀墓や合葬墓が16.4%、納骨堂が15.5%、そして伝統的な一般墓は15.2%。合祀墓が一般墓を上回った。継承者を必要としない形が主流になったということだ。

墓相は、家が代々続くことを前提にした思想だ。親の墓を子が建て、子の墓を孫が建て、孫の墓を曾孫が建てる。区画いっぱいに石を置かず、未来地を空けておく。その未来地に建てる人がいなくなったとき、この思想は語る相手を失う。

だからいま、墓相の言葉のなかで生き延びているのは、吉凶の部分ではなく、供養の部分のように見える。ある流派の解説には、はっきりこう書いてある。墓相の本は家族が病気になるとか金に困るとか、子孫が受ける障りの話ばかりだから注意が必要だ、障りの話は後に置いて、まず先祖のことを第一に考え直したほうがいい、と。墓相を説いている当人が、墓相の売り方に釘を刺している。この一文は、正直、この取材のなかでいちばん印象に残った。

なぜ人は、不幸を墓のせいにしたがるのか

最後に、いちばん大事な問いに行く。なぜこれが効くのか。

心理学の側からの説明は、割とはっきりしている。ひとつはバーナム効果だ。一九四九年、心理学者のフォアが学生に性格テストを受けさせ、後日「あなただけの診断結果」と称する文章を配って、どれくらい当たっているかを五点満点で評価させた。平均は4.26点。ほとんどの学生が「これはまさに自分のことだ」と感じた。ところが配られた文章は、全員まったく同じものだった。星占いの本などから当たり障りのない記述を寄せ集めただけの文だ。種明かしをされるまで、誰ひとりそれが誰にでも当てはまる文だと気づかなかった。

もうひとつは確証バイアス。日本の研究では、運の良し悪しを日記に記録してもらい、別の人が同じ期間の雑誌の占いを判定したところ、一致率はほぼ三分の一、つまり偶然と変わらなかった。それでも人は「当たった」と感じる。当たった場合だけを思い出し、外れた場合は忘れるからだ。しかも悪い内容のほうが当たったと判断されやすい、という結果も出ている。

墓相は、この二つの上に完璧に乗っている。「家業の盛衰」「家庭内の不和」「金銭の心配」「相続人の不安定」。どれも、ある程度の年月を重ねた家なら必ずどこかに引っかかる。引っかかった一件だけが記憶に残り、引っかからなかった無数の年月は数えられない。しかも判定するのは、巻尺と方位磁石を持った、権威のある雰囲気の人だ。フォアの実験の後続研究では、評価者に権威があると信じているとき、その分析はより正確に感じられることが確かめられている。

でも、認知バイアスの話だけでは足りないと思う。もっと生々しい理由がある。

家に不幸が続いたとき、人は理由を探す。理由を探すとき、いちばん残酷なのは、身近な人間のせいにしてしまうことだ。あのとき病院に連れて行かなかった自分のせい。あのとき事業を止めなかった夫のせい。あのとき家を出た兄のせい。この矢印は、家族をばらばらにする。しかも一度向けた矢印は、なかなか引っ込まない。

墓は、その矢印の最高の受け皿になる。石だから傷つかない。反論しない。しかも「先祖のことだから」という大義名分がつくので、誰も責められていることにならない。母が悪いのでも、兄が悪いのでもない。北西を向いている石が悪い。この置き換えは、家族を守る。少なくとも短期的には、確実に守る。

さらに墓には、決定的な特徴がある。直せるのだ。

病気は治せないかもしれない。事業は戻らないかもしれない。子供との関係も、こじれたまま何年も動かないかもしれない。でも、墓は直せる。金さえ出せば、来月には形が変わる。何もできないという無力の中に、たったひとつ「できること」が差し出される。人間はこれに勝てない。不安の解消ではなく、行動できることそのものが救いになる。だからこそ、この構造は善意でも悪意でも同じように機能してしまうし、悪意が入り込んだときに歯止めが利かない。

そして、置き換えには代償がある。石のせいにすることで家族は救われるが、同時に、家族は自分たちの物語の主語を手放している。うまくいったのも石のおかげ、うまくいかなかったのも石のせい。自分たちが何をして何をしなかったかという、いちばん大事な部分が、静かに削られていく。

それでも人は、墓の前で何かを言いたくなる

ここまで散々書いておいてなんだけど、墓相を信じる人を馬鹿にする気にはどうしてもなれない。

墓の前に立つと、人はどうしても何かを読み取ろうとする。石は何も言わないのに、こちらは勝手に語りかけてしまう。苔が生えていれば申し訳なく思うし、花が枯れていれば胸が痛む。傾いていれば不吉に感じる。これは占いを信じているかどうかとは関係のない、もっと素朴な反応だ。墓相は、その素朴な反応に言葉と体系を与えた。だから広まった。仏教が墓について何も語らなかった時代に、語ってくれる人がいた、というだけの話でもある。

同時に、信じない人を「無情だ」と責めるのも違うと思う。方角を気にせず、洋型の石を選び、樹木葬を選ぶ人が、先祖を軽んじているわけではまったくない。今この国で墓じまいを選んでいる人の多くは、次の世代に負担をかけたくないという、きわめて具体的な思いやりから動いている。それを「家の根を切る行為だ」と言うのは、あまりに一方的だ。

結局のところ、どんな形の石を建てても、あるいは石を建てなくても、その家に起きることは変わらない。変わるのは、起きたことをどう語るかだ。墓相は、語り方の一種であって、起きることの原因ではない。

もしあなたが誰かに「お宅の墓は相が悪い」と言われて、それがずっと頭から離れないのだとしたら、覚えておいてほしい。天台宗も、真宗も、そして墓を売って生きている石材店の多くも、口をそろえて同じことを言っている。方角のせいでも、形のせいでもない、と。建て替えなくていい。今のままでいい。

そして、どうしても気になってしかたがないなら、建て替えるより先にやることがある。掃除だ。水をかけて、苔を落として、枯れた花を捨てて、線香を一本立てる。それで家運が変わるかどうかは知らない。ただ、あの日、巻尺を持った男が最後に一礼していった相手は、家族ではなく、石でもなく、その下に眠っている人たちだった。少なくともそこだけは、流派が違っても、宗派が違っても、信じる人も信じない人も、同じことをしている。

占いが「学」の顔を手に入れるまで

ここまで書いてきて、この題材の芯にあるものが何なのか、ようやく言葉になってきた気がする。墓相の本質は、吉凶判断ではない。責任の引き受け先を、生きている人間から石へ移し替える装置だ。そう考えると、この思想が近代に生まれ、近代の道具を身にまとって広まった理由も見えてくる。

思い返してほしい。江戸の墓相は、家相を書いていた易者たちの副業のようなところから始まっている。文政年間の高田松屋は書店主で易学者で家相学者だった。その系譜が明治の行者を経て、大正の会社秘書に受け継がれ、昭和の実地調査へと変わっていく。この流れを一言でいうと、宗教から学への衣替えだ。多田通幽は陰徳積善を説く行者的な人物で、松崎整道は無縁墓を祀り地蔵流しをする信仰者だった。ところが竹谷聰進の代になると、物差しと磁石とカメラが前面に出てきて、確率93%という数字が旗印になる。祈りの言葉が統計の言葉に置き換わっている。

なぜ置き換わる必要があったのか。それは、近代日本が「迷信」を国家的に排除しようとした社会だったからだ。明治五年、教部省は家相を淫祠邪教の類として直接に禁止している。大正から昭和初期にかけては、建築学会や新聞雑誌が家相排撃の運動を続けた。そういう空気のなかで生き延びるには、占いは占いの顔をしていてはいけない。行脚して資料を集め、統計を取り、確率を出す。近代学術の身振りを完璧に模倣することで、墓相は禁止を免れ、むしろ権威を得た。同時代の宗教社会学の報告が、墓相家や掃苔家の視点が「学」「調査」「研究」という近代学術で価値の高い用語を下敷きになされていたと指摘しているのは、まさにこの現象を捉えている。

そして、その隙間は本当に空いていた。同じ報告は、仏教学も教団も、墓をめぐる実践についてほとんど言及していなかったと書いている。檀家制度によって寺は事実上の墓の管理者になっていたのに、教義の側は墓について語る言葉を持っていなかった。人々は毎年墓に参り、盆と彼岸に手を合わせ、そのたびに「これでいいのだろうか」と思っていた。誰も答えなかった。そこに、答えを持った人が現れた。しかも数字を持って。広まらないほうがおかしい。

ここに、この題材のいちばん皮肉な構造がある。墓相は、仏教の敵ではなく、仏教の沈黙の産物なのだ。だからこそ、今になって各宗派がはっきり「迷信です」と言えるようになったこと自体が、大きな変化だと思う。天台宗が「建て直せばいいというものではない」と書き、真宗が「因果関係もなければ統計さえもない」と書く。これは八十年前にはなかった言葉だ。教団が墓について語りはじめた。空いていた隙間が、ようやく埋まりつつある。

もうひとつ深掘りしておきたいのは、流派差の意味だ。笠石は途中で消え、供養塔は中央から右端へ移り、境石は一尺から三寸五分に縮み、子供は記されない存在から記される存在になった。この変遷は、墓相を否定する材料としてよく使われるし、実際その通りだと思う。ただ、別の読み方もできる。これは、その時代その時代の墓地の現実に合わせた調整の跡でもある。境石が一尺から三寸五分に縮んだのは、区画が狭くなったからではないか。子供の墓が記されるようになったのは、乳幼児死亡率の高い時代に、書かない選択が耐えがたくなったからではないか。三段石が絶対視されるようになったのは、角柱の三段墓が全国標準になったあとの話ではないか。だとすれば墓相の規定は、天から降ってきた法則ではなく、その時代の人々が墓に対して抱いた感情の記録なのだ。そう読むと、規定のひとつひとつが急に人間くさく見えてくる。

そのうえで、現代における危険がどこにあるかを、もう一度はっきりさせておきたい。危険なのは、墓相を信じることそのものではない。石の形に意味を見出すのは、庭の木を大事にするのと同じ種類の心の動きで、それ自体は誰も傷つけない。危険なのは、診断と販売が同じ口から出てくるときだ。そして、その口が「あなたのご家族の病気は」と言い出したときだ。二〇二二年に不当寄附勧誘防止法ができ、消費者契約法が改正されたのは、まさにこの一線を法律の言葉で引き直すためだった。霊感その他の合理的に実証することが困難な特別な能力による知見だと称して、生命や身体や財産について不安をあおり、その回避のためには契約や寄附が必要不可欠だと告げる行為。これは規制されている。困惑して結んだ契約は取り消せる。

だから、この記事の結論はひとつしかない。あなたの家に何が起きていようと、それは墓の形のせいではない。建て替えなくていい。急がなくていい。誰かに墓の前で不安をかき立てられて、その場で契約の話になったら、いったん帰って、消費者ホットラインの一八八にかけてほしい。無料で、全国どこからでもつながる。相談したことが誰かに知られることもない。

最後に、信じる人と信じない人の両方に向けて書いておく。墓相を信じている人は、たいてい家族を心配している人だ。心配しているからこそ、何かできることを探している。その心配自体は、まったく正しい。ただ、探し当てた「できること」が高額な工事である必要は、どこにもない。そして墓相を一笑に付す人も、たぶん心のどこかでは、実家の墓が傾いていると知ったら少し落ち着かない気持ちになる。その落ち着かなさは、迷信ではなく、単に人としてまっとうな感情だ。

無縁墳墓が公営墓地を持つ市町村の六割で発生し、新しく選ばれる供養の半分近くが樹木葬になったこの国で、あと何十年か経てば、墓相という言葉自体が忘れられているかもしれない。でもたぶん、忘れられたあとも、人は誰かの墓の前に立つと何かを読み取ろうとする。石は相変わらず何も言わない。その沈黙にどんな物語を貼るかは、結局、こちらの自由なんだよな。せめて、自分の家族を追いつめない物語を選びたい。墓は、そのために立っている。

タイトルとURLをコピーしました