畜生腹という言葉を知ることと、その言葉を向けられた一人の暮らしを知ることは違う。辞書で確かめられるのは語義で、個々の家で誰が何を言い、母や子がどう受け止めたかは別の記録を要する。辞書の一語から、その人の人生まで再現することはできない。
畜生腹、ちくしょうばらという語を、旧稿は母や子をののしる言葉として紹介していた。犬や猫みたいに一度に何匹も産みやがって、という身も蓋もない言い方。言葉の侮辱が、産んだ母親にも生まれた子にも及ぶという点は重い。資料で初めて見たときの嫌悪感や、打ち込むたびに指が重いという旧稿の感想もあった。
だが、その感想を当時の人や現在の親子の心情に重ねることはできない。でも書く。書かないと、なかったことになるからだ。
「畜生腹」の語義と、地域ごとの記録
まず、言葉の意味から確かめたい。小学館『デジタル大辞泉』は、女性が一度に二人以上の子どもを産むことをののしった語と説明している。同じ項目には、双子や三つ子、男女の双子を指す使い方も載っている。辞書の記載は語義の手がかりにはなるが、それだけで全国の家庭に同じ習俗があったと証明することはできない。
『精選版日本国語大辞典』は、男女の双子を心中した者の生まれ変わりとして嫌った語義に、一九三二年の『現代語大辞典』を挙げている。これは辞書が示した文献上の手がかりで、今回その原本までは確認できていない。語の初出や、その年の全国的な実態を確定する記載としては扱わない。
現代の多胎妊娠は、英国の王立産婦人科医協会の患者向け資料では、同時に二人以上の子を妊娠している状態と説明される。胎児の数や胎盤などを確かめ、個々の状況に合わせてケアを考える話だ。昔の侮蔑や心中の俗信を、現在の妊娠の原因や親子の評価へ持ち込む理由にはならない。
旧稿では、宮城県の仙台、埼玉県の戸田、滋賀県の高島郡、高知県の高岡郡を、この語が採集された土地として挙げた。東北から関東、近畿、四国に散在し、語形が共通するという説明だ。中央で生まれた語が街道や本、芝居を通じて全国へ広がった、というのは旧稿の見立てだった。ただし、各地の原採集記録と伝播過程は今回未照合で、分布だけで起源や広がり方を確定することはできない。
同じ発想で別の語形になっている土地も、旧稿では挙げられていた。静岡県の引佐郡は「犬腹」、鹿児島県の大島郡は「ブタゴ」、豚の子という説明だ。多産の家畜を持ち出して人間の子を指す呼称を、全部「人間の産み方じゃない」とする見方も示していた。ただし、個々の採集記録は未照合で、地域の人々全体の評価として扱うことはできない。
男女の双子を石川県や大阪府あたりで「メオトゴ」「ミョウトゴ」と呼び、夫婦子の字を当てるという説明もある。犬腹と夫婦子という違う語形が、同じ島国の中で並んでいたと旧稿は紹介していた。音の響きは柔らかく感じられても、悪意がなかったとまで呼称だけで決められない。後述する俗信との関係と、個々の地域での使い方は分けて確かめる必要がある。
面白いのは、この語が向けられる相手が主に母親だという点だ。子を産んだ女性に非難の矢が向く。多胎の要因について当時の理解を未確認のまま、責任を女性に帰す見方を受け入れることはできない。ここに、この風習の一番いやらしい部分が最初から顔を出している。
産室で、その夜なにが起きていたのか
ここからは、旧稿が各地の採集記録を下敷きにしたとして描いた、双子の生まれた夜の再構成を読む。個別の家の実録として確認した場面ではない。異なる土地の要素を一本の時間に並べた読み物で、原採集記録との一対一の対応は未照合のままだ。
産室は家の奥の一間で、徳島では夫婦の寝間を使い、床に筵を敷いたと紹介されていた。桟俵の上で産むと安産になる、という言い伝えも示されている。桟俵は米俵の両端に当てる丸い藁の蓋で、この後にも出てくる道具だ。産湯を沸かし、藁を積んで生まれた子を置く光景から、衛生と信仰が混ざった空間を旧稿は描いていた。
そこに入る産婆は、地域によって取上婆とも呼ばれた。専門職の助産婦が一般化した時期を、徳島のある地区は昭和十年代、別の地区は昭和二十五、六年以降と旧稿は紹介している。それ以前は姑が介助することが多く、産室には身内の女性がいる、という説明だ。職業や制度の変化は地区の原記録を確認する必要があり、この場面だけで当時全体を説明することはできない。
一人目が生まれる。産声が上がる。ここまではめでたい。
問題は、そのあと腹がまだ張っていることに誰かが気づく瞬間だ。産婆の手が止まる。姑の顔色が変わる。二人目が出てくる。
この瞬間の空気を、民俗誌はあまり詳しく書いてくれない。書きようがないのだと思う。ただ、その後に何が起きたかは、驚くほど細かく採集されている。
まず、外への知らせ方が普通じゃない。岩手県の雫石のあたりでは、父親が屋根の棟によじ登り、妻が双子を産んだと三度叫ぶ。三度叫べば以後は双子を産まない、とされた。秋田県の能代では、窓から「俺のアバ、双子産ったー」と叫ぶ。三重県の船越では「見にござれ」と呼ばわる。
これ、初見だと「めでたくて叫んでるのかな」と思うのだが、たぶん違う。隠すと祟る、だから先に大声で言ってしまう、という構造の呪術だ。恥や忌みを内に抱え込むと家に溜まる。だから屋根に上って空に向かって放流する。三度で打ち止め、というカウントがついているのが、いかにも呪いの解き方らしい。
叫ぶときの格好にも決まりがあった。長野県の茅野や三重県の志島では、蓑と笠をつけるか、白い腰巻を身につける。岩手県の紫波郡では膳を持つ。埼玉県の比企郡では臼と杵。三重県の布施田では草刈鎌、鳥羽では鍋つかみ。
鍋つかみを持って双子の誕生を叫ぶ父親という姿に、旧稿は笑いと怖さが重なる感想を述べていた。蓑笠を神や鬼、まれびとの装束と結びつけ、異界からの訪れを読む見方がある。臼と杵は餅つきと生命の再生、膳は食い物を載せる台という説明だ。これらをあの世とこの世を行き来する道具立てと解釈したのであり、個々の道具の意味を確認し終えたということではない。
この所作は、双子の誕生を「人間の出来事」として報告していない。神事として、あるいは異界からの訪れとして届け出ている。そうでなければ扱えなかった出来事として、旧稿は解釈していた。そして翌日以降、子どもの処遇が始まる。
一度捨てて、拾い直す。この儀式の意味がわかると怖い
各地の記録でいちばん多いのが、生まれた子を「いったん捨てる」習俗だ。静岡県の志太郡では、赤ん坊を布団にくるんで家の門口や道の辻に置く。置いた子は知り合いに拾ってもらう。
栃木県の真岡では、あの桟俵――サンダラボッチ――に包んで門前や四辻に捨てる。埼玉県の児玉郡や山形県では、箕に入れて捨てる。秋田県の象潟では、堆肥場に捨てて、いったん笑ったうえで拾い返す。堆肥場は肥やしの山で、そこに新生児を置いて笑うという所作だ。
この「笑う」がわからなくて、しばらく考え込んだ。たぶん、忌みを笑いで打ち消す作法なんだと思う。深刻な顔をしたら忌みが本物になる。だから笑って、冗談ですよという体裁にして、拾い上げる。共同体で行う、一種の芝居。
この「捨てる」は、形式的な所作。ちゃんと拾い手が用意されている。埼玉県の鴻巣では、知り合いを拾い親に立てて、そのまま育てさせた記録がある。宮城県の岩出山では出産して間もない別の母親が育児を引き受け、栃木県の真岡では近所の裕福な家が後見人になったという。
この儀式を、子を生かすための仕組みとして読む見方もある。いったん切り離した子を、生まれ直した者として別の経路から社会に入れ直すという説明だ。拾われた子を「家の跡取り筋の外側」に置けば秩序を乱さず、忌みも祓えると考えた、という解釈になる。子が生きられる落としどころになった場合と、すべての子が救われたという保証は分けなければならない。
だから僕は、この習俗を単純に「残酷」とだけ言い切れない。むしろ、逃げ道を作るために発明された知恵に見える。問題は、その逃げ道を作らなければならないほど、双子の誕生が家にとって「困った事態」だったという前提のほうだ。
形式的に捨てる所作が、形式だけで済まなかった可能性を旧稿は考えていた。門口の子を誰も拾わなかったら、堆肥場の子を置いたまま戻らなかったら、という問いだ。民俗誌に記載がないことだけで、犯罪だから書けなかったと確定することはできない。この空白の暗さを考えるにも、記録の範囲と実際の出来事を分ける必要がある。
兄が弟になり、弟が兄になる。あの逆順ルールの正体
双子の話で必ず出てくるのが、先に生まれたほうを弟・妹とする慣習だ。ネットでもよく見かけるし、たいてい「昔の人は変なことを考えたね」で流されている。旧稿は、慣例調査との対応が手がかりになる話として取り上げていた。
旧稿では、慣例調査の記載を手がかりにしていた。明治十三年に編まれた『全国民事慣例類集』という、全国の民間慣習を集めた資料がある。ここに相模国の慣例として、先に生まれたほうを弟妹とし、後から生まれたほうを兄姉とする、という記載がある。国が正式に集めた慣習調査に載っているということは、当時の一部地域での運用を考える手がかりになるが、原本の該当箇所は未照合だ。
民俗学の事典類にも、双生児は先に生まれた者が弟妹、後の者が兄姉、という記述が採録されている。理屈はよく知られたやつだ。腹の中では先に宿ったほうが奥にいて、後から宿ったほうが手前にいる。
だから先に出てくるのは後から宿ったほう。つまり弟。奥に残っていたほうが本当の兄。
母胎を筒か袋のように考えて、先入れ後出しで並べるという説明だ。冷蔵庫の奥の牛乳と同じ理屈。これを現在の妊娠の説明へそのまま置き換えることはできない。旧稿は昭和十四年の医学書が空論と批判したと紹介していたが、書名と該当頁は今回未照合だ。その記述だけで、当時の俗信の広がりまで確定することはできない。
僕はこの「奥にいたほうが兄」理論を、後付けの説明として考えてみたい。もう一つの論点は家督で、もっと生々しい理由があったのではないか。ここからの説明は、記録で確かめた動機とは分けた見立てになる。
家督だ。家に長男が二人いると、相続や田畑が割れて家がもたない、と家制度を説明する見方がある。だから双子の「同格の二人」を避け、兄と弟の上下をはっきりさせたのではないか、という推論だ。それを当時のすべての家の判断理由として確定したわけではない。
そのときに、単純に生まれた順で兄弟を決めると、ちょっとまずいことになる。同時期に、ほぼ同じ瞬間に出てきた二人だ。数分差で兄になった、というのは誰の目にも「たまたま」に見えてしまう。たまたまで決まった序列は、揉めたときに崩れる。
そこに、生まれ順とは無関係の、宇宙的というか、腹の中の構造という別次元の根拠を持ち出す。すると「順番はたまたまじゃない、宿った順という動かせない事実で決まっている」という物語ができる。序列が補強される。序列が補強されれば、家は割れない。
この慣習を「兄弟にせず主従にするため」と説明する言い方があるが、この見方は、序列の問題を考える手がかりになると思う。対等な二人を作らない。どちらかを必ず上に、どちらかを必ず下に置く。そうしないと家という装置が壊れるからだ。
双生児の長男・二男の順序は、出生の前後で定めたと旧稿は説明していた。先に出たほうを兄とする戸籍の扱いと、家の中の逆順の呼び方を分けた話だ。昭和初期まで逆順の例があったともいうが、法令や地区の原資料は今回未照合のままになる。
役所の紙と家の座敷で順序が違ったという論点は、実際の記録を確かめて読む必要がある。現代の多胎支援の現場では、そもそも上下をつけない、双子はきょうだいの序列ではなく対等だ、という考え方が広がっている。数百年かけて、ようやく「二人を並べたままにしておく」ことが許されるようになった。
心中者の生まれ変わり――浄瑠璃との関係をどう読むか
ここからが個人的に一番ぐったりくるパートだ。男女の双子は、前世で心中した男女の生まれ変わりである。この俗信が、めちゃくちゃ広い。
妖怪伝承のデータベースを引くと、大阪府で大正五年、栃木県・秋田県・長野県・神奈川県で昭和八年、といった具合に、全国各地から同じ内容の報告が並ぶ。東京の町田あたりでも採られているし、茨城県の東海村では、男女の双子は心中の生まれ替わりだから、同性の双子よりもさらに嫌われた、という記録がある。構図はこうだ。
この世で一緒になれなかった男女が、死んで、二世の縁を誓って、同じ腹に宿った。だから一緒に生まれてきた。物語としては、正直よくできている。よくできすぎている。
近松門左衛門の『曽根崎心中』が元禄十六年に出て、心中物が流行したことを、旧稿は俗信の背景としていた。男女が「未来は一つ蓮の上に」と誓う場面や、二世の縁、来世で結ばれるという語彙が観客に浸透したという説明だ。幕府が心中物の上演を禁じ、語を「相対死」に改めさせたという記述もあった。ただし、芝居から俗信への伝播を直接確認した資料は未取得なので、影響が明らかだとまでは決められない。
そこまで浸透した物語装置があれば、目の前の異性の双子を説明するのに使わない手はない。前世で心中した二人だ、と言えば、なぜ二人一緒に生まれたのかが一発で説明できる。情緒たっぷりの物語。問題は、その物語が子どもに何をするか、だ。
心中というのは、当時の法と道徳では罪だった。生き残れば晒し者にされ、死ねば弔いも粗末にされた。その罪人の生まれ変わりだと言われた子は、生まれた瞬間からマイナスを背負わされる。しかも前世の罪だから、本人には反論のしようがない。
異性の双子を成長後に夫婦にする習俗があった、という記述も旧稿では紹介していた。前世で添えなかったのだから、今世で添わせようという説明だ。物語の辻褄のために血のつながった兄妹の人生を決める、という問題を指摘していた。地域の原記録が未照合のまま、それを実際の一組の出来事として書き足すことはできない。
逆方向の解釈も同じ列島に存在していた。腹の中で近親相姦をしていたから一緒に出てきた、という見方だ。同じ「異性の双子」という現象に、心中者の転生という同情的な物語と、胎内で不義を働いたという断罪的な物語の両方が貼りついている。似た発想は日本以外にもあって、サモアには男女の双子は子宮の中で交わったとみなす観念があったと紹介されている。人間、説明のつかないものを見ると、とりあえず性の話にしたがるらしい。
東北――叫び、隠し、そして雪の中で
ここからは土地ごとの顔を見ていきたい。同じ双子忌みでも、風土によって手触りがまるで違う。岩手の雫石の屋根の棟や、秋田の能代の窓辺で声を放つ習俗を、旧稿は東北の例として挙げていた。
家の内側から外側へ告げる形が共通する、という説明だ。雪国の家は冬に閉じ、その中に忌みを溜めることを恐れたのではないか、と解釈していた。ただし、気候と所作の因果や当時の人の心情を確認したものではない。
秋田の象潟の、堆肥場に捨てて笑って拾い返す、というやり方も東北らしい。堆肥は、腐らせて肥やしに変える場所だ。死んだものを養分に変える装置と言ってもいい。そこに一度置くというのは、いったん死なせて、生き返らせる、という所作に見える。冷たい言い方をすれば、擬似的な埋葬と復活。
宮城の岩出山で、産んで間もない別の母親が片方を育てたという説明を、旧稿は乳の確保と結びつけていた。粉ミルクのない時代に二人へ同時に飲ませる負担を考えたのであり、乳が必ず足りなかったと確認したわけではない。忌みの説明と栄養供給の事情が重なった可能性はあるが、歴史の所作から個人の母乳量を診断することはできない。
仙台のあたりにも、あの畜生腹という語がしっかり残っている。人と物と言葉が集まり、蔑称も集まる城下町。福島のいわきでは、双子の片方が死ぬともう片方も死ぬ、という言い伝えが採られている。この「連動する」という観念は、後で全国的な問題として出てくる。
関東――箕と桟俵、そして拾い親という職能
関東の記録は、道具立てがやたら具体的でいい。栃木の真岡のサンダラボッチ、埼玉の児玉郡の箕、比企郡の臼と杵が、農具や米にまつわる道具として並ぶ。子を穀物と同じ「実り」と扱った名残ではないかと、旧稿は考えていた。実りなら蒔き直しや捨て直しもできる、という解釈だが、所作の当事者がそう説明した原記録は未照合だ。
埼玉の鴻巣に記録された拾い親の慣行は、育ての家まで定めた仕組みとして紹介されている。知り合いに頼んで拾わせ、そのまま育ててもらう。養子縁組に似た受け渡しとして読めるが、法的な成立まで確かめた記載ではない。戸籍の外側に、共同体が独自に持っていた子どもの受け渡しの仕組みがある。
栃木の真岡で、近所の裕福な家が後見人になった、という記録も同じ系統だ。金のある家が、忌みごと引き受ける。引き受けた家に、なぜ余裕があったのかというと、労働力や恩義、社会的な体面など、得るものもあったのではないかと旧稿は考えていた。その動機は原資料で確認できていないので、推測の範囲にとどめる。東京の府中では双子を同じ服装で育て、町田では心中者の生まれ変わりとみた、という例が紹介されている。
忌みと、同じ服で対等に扱う所作が並ぶ点を、旧稿は取り上げていた。矛盾しているように見えるが、同じにすることで均衡を保つという読み方もできる。この「同じにする」所作は、次の中部の説明につながる。茨城の東海村の、男女の双子はより嫌われた、という記録は、心中俗信が実際の差別の強度に直結していた証拠として重い。
中部・東海――「片方が負ける」という、ぞっとする言い方
中部から東海の記録で目立つのが、双子を徹底的に同じにする習俗だ。福井の大野郡では、揃えないと片方が負けることがある、と言われた。長野の諏訪郡では、着物も食べ物も持ち物も揃えるという説明だ。岐阜の穂積町では、どちらかが厄負けをすると信じられていた。
負ける、という言い方に、僕はしばらく引っかかっていた。何に負けるのか。相手に負けるという意味ではないかと、旧稿は考えていた。双子を同じ日に同じ腹から出た存在とみなし、一方に多く与えると他方が削られると考えた、という見立てだ。一人分の運を二人で分けるゼロサムの感覚として説明したのであり、実際の運や医学的な関係を示すものではない。
だからバランスを崩してはいけない。着物の柄も、飯の量も、玩具も、寸分違わず。これは平等主義に見えるが、根っこは呪術的な均衡維持だ。愛情の量を決めつけず、事故防止という信仰上の理由を読み取る見方だ。
そう考えると、長野の茅野で蓑笠を着て双子誕生を告げる習俗も、同じ土地に並んでいるのが腑に落ちる。異界の存在として扱い、均衡を保ち、こぼれ落ちないように管理する。中部山間部の記録には、そういう精密な扱いが多い。
静岡は両極端だ。引佐郡の「犬腹」という直球の蔑称がある一方、志太郡には布団に包んで辻に置き、拾ってもらう救済的な習俗がある。同じ県の中に、罵る言葉と助ける仕組みが同居している。これは静岡に限らず、多胎児伝承の全体的な特徴でもある。忌みと救いは、いつもセットで出てくる。
三重の志島の蓑笠と白い腰巻、船越の「見にござれ」という呼び声、布施田の草刈鎌、鳥羽の鍋つかみが例として挙げられている。「見にござれ」は祝いの呼ばわりのようにも読めるが、所作が明るいというのは旧稿の受け止め方だ。伊勢志摩の海女文化と女性の労働力の評価を、多胎への態度に結びつけて考えていた。その関係は原資料で確かめたものではなく、海に面した土地全体の性格として一般化はできない。
岐阜の国府町では、双子が生まれると「間に合う」と言って喜ばれた記録がある。間に合う、というのは、役に立つ、働き手が二人いっぺんに来た、という意味だ。露骨に実利的で、逆に清々しい。
近畿・中国・四国――言葉の中心地と、藁人形の埋葬
近畿は、この俗信の言語的な震源地に近い。大阪では大正五年に、男女の双子を畜生腹と呼び、前世で心中した者の生まれ変わりとみなす、という報告が採られている。心中物の芝居が生まれ、心中が最も流行した土地だ。
俗信と芸能が同じ場所で回っていたことが、この一件でよくわかる。滋賀の高島郡にも畜生腹の語が残っている。京都大阪から近い地域に語が濃く分布しているのは、やはり中央発の言葉が周辺に染み出した構図だろう。
和歌山で男の双子を真珠の生まれ変わりと呼んだ、という説明もある。海の宝と畜生腹という呼称の落差を、旧稿は並べていた。真珠の産地で二つ並ぶ玉が身近にあったことを解釈の背景にしたが、地域の産業と呼称の由来を直接照合したわけではない。豊かさの像が双子の解釈に流れ込んだ、という見立てとして読む必要がある。
四国では、高知の高岡郡に畜生腹の語がある。愛媛の上浮穴郡では三つ子の誕生を喜び、無事な発育を祈願した記録がある。同じ四国で、双子は蔑まれ、三つ子は祝われる。この「三つ子だけ別枠」問題は、この後に考える論点になる。
香川の大川郡には、ちょっと忘れがたい記録がある。双子の片方が死んだとき、その棺に藁人形を入れて一緒に埋葬した。二人分にして埋める所作。生きているほうの身代わりを、死んだほうと一緒に土に入れる。
理屈はわかる。双子は二人で一組だから、片方だけ死んだ状態は不安定で、残されたほうが引っ張られる。だから偽物を添えて、あの世に行った側に「二人揃った」と思わせる。わかるのだが、生きている子の目の前で、自分そっくりの藁人形が棺に入れられて埋められる場面を想像すると、これはもう完全にホラーだ。そしてその子は、自分の死の予行演習を見せられたことを、たぶん一生忘れない。
鳥取でも、片方が死ぬともう片方も死ぬ、という言い伝えが記録されている。この観念は福島、鳥取、沖縄と、列島の端から端まで確認できる。距離が離れているのに同じことを言っている。双子を「二つで一つ」と見る感覚は、根の深い直感として考えたくなるが、人類共通の感覚とまではこの例だけで決められない。
九州・沖縄――ブタゴという語と、離れているのに同じ発想
九州で確認できる呼称の中でも、鹿児島の大島郡の「ブタゴ」はきつい。奄美の島嶼部だ。中央の畜生腹という漢語系の語彙が届く前に、独自に同じ発想の言葉が育ったのか、それとも変形して伝わったのか。どちらにしても、多産の家畜に喩えるという着想が独立に発生しうる、というのが人間のいやなところだ。
沖縄の那覇では、双子の片方が死ぬともう片方も死ぬ、という言い伝えが採られている。福島や鳥取と同じだ。琉球は本土と別の文化圏を長く保っていたのに、この一点では一致する。
沖縄の場合、もう一つ気になる補助線は兄妹始祖神話。洪水で人類が滅び、生き残った兄と妹が交わって人間の祖になる、という型の神話が、沖縄をはじめ東アジアから東南アジアにかけて広く分布している。この兄妹は、伝承によっては双子として語られる。
南島の始祖神話には、異性の一対から世界が始まるという物語が紹介されている。異性の双子を忌むという説明も並び、始祖として尊ぶことと、現実の出産を警戒することを旧稿は対比した。神話の時間と現実の時間を使い分けた、という読み方だ。それをどの文化にも見られる基本パターンや、日常が必ず例外を排除する証拠として扱うことはできない。
沖縄には妹が兄を霊的に守護するオナリ神の観念もある。異性のきょうだいのペアに特別な力を認める文化的土壌が確実にある。だからこそ、そのペアが同時に生まれてくるという事態が、より重く受け止められた可能性は高いと思う。
古代の多胎記録――褒賞と双子の扱いを分けて読む
さて、ずっと引っ張ってきた問題に入る。多胎児が全部嫌われたのか、というと、まったく違う。むしろ古代の日本では、三つ子はめでたいことの最上級だった。六国史――『日本書紀』から『日本三代実録』までの正史六本――の多胎記録について、旧稿は集計研究を紹介していた。
約二百年弱で三十七例、双子が一例で二パーセント、三つ子が三十三例で八十九パーセント、四つ子が三例で八パーセントという数値だ。これは記録の内訳として示された数字で、当時の実際の出生頻度をそのまま表すものではない。集計の原文と対象記録は今回未照合なので、偏りから社会全体の扱いを確定することはできない。見事に偏っている。
旧稿は、三つ子以上の出生を国へ報告し、その家に褒賞を出したという説明を紹介していた。奈良時代には稲や布、衣服、乳母の派遣があり、平安時代には稲三百束と乳母一人がほぼ定型だったという。正史の条文や研究の原文は今回未照合で、時代全体で固定された制度とは確定できない。褒賞の制度化。
旧稿では、三つ子は出生を役所に届けると米がもらえる瑞祥として説明されていた。双子の畜生腹という呼称と、三つ子への稲三百束を並べた対比。個別の記録や時代の違いは未照合で、この落差を全国共通の扱いとは決められない。
民俗学者の鎌田久子が提示したという数の観念も、旧稿は紹介していた。一と三は割り切れない奇数で、無限に続き永続するものと考えるという説明だ。二と四は割れる偶数で、割れば零になるとして、奇数を吉、偶数を凶とする。これは数への文化的な意味づけで、算術や出生に関する医学の説明として受け取るものではない。
数の哲学としてはよくできている。実際、日本の祝儀は奇数が基本だし、三々九度も七五三も奇数だ。二で割れる数を嫌う感覚は、今でも祝儀袋の金額を偶数にしないという形で生きている。
僕は、三つ子が珍しい出来事として記録されたという実務的な見方も考えていた。当時の医療環境では生存が難しく、相続や口減らしの負担に結びつきにくかったのではないかという推測だ。だから国が安心して褒美を出せた、という因果まで原記録で確認したわけではない。当時の子が必ずすぐ亡くなったかのような説明は避けなければならない。
双子は育つことで、家督や田、二人分の飯という負担につながったのではないか、と旧稿は考えていた。しかし、双子なら二人とも育ち、三つ子なら育たなかったと分けられる原資料は今回未取得だ。出生と生存の実態を、記録の偏りだけで説明することはできない。
これは冷たい見方だが、記録の偏りを考える仮説にはなる。祝われるのは「起きても実害のない奇跡」で、忌まれるのは「実害のある日常」だ。もう一つ、古代の記録には気になる偏りがある。褒賞を受けた記録に名を残す人物のうち、およそ三分の一が外国系の名を冠している。
新羅の女、漢人部、百済の名を持つ女性たち。渡来系の人々の出生が特に記録に残りやすかったのか、実際に多かったのか、それとも人口増加政策の宣伝として渡来系の家を持ち上げる意図があったのか。研究者の間では、政治的配慮と人口増加政策の関係が指摘されている。国が人を増やしたい時代には、たくさん産むことは国策上の善だったわけだ。
江戸時代になっても三つ子尊重は続く。滝沢馬琴が『兎園小説拾遺』で、男子の三つ子は天下の吉事だ、と書いている。江戸後期の知識人の記録にもそう残る。神谷養勇軒という江戸前期の人物も、三つ子の出生を喜ぶべきものとして書き残している。
千年以上にわたって、三つ子は吉。双子は、土地によっては犬腹。この一貫した不公平が、双子忌みの正体を考えるうえでいちばん重要な手がかりだと思う。
拾い親と里子――習俗の説明と個人の記憶を分ける
拾い親や里子の習俗として紹介された説明と、個人の記憶は分けて読む必要がある。各地の原採集は今回未照合で、ある一家で起きた出来事までは確かめられていない。名字が変わったか、きょうだいの関係が続いたかを知る手がかりは、個別の記録。
里子になった子が、育ての家と実の家の間でどんな思いを抱いたかは、本人の証言が要る。周囲の沈黙を、家への義理や共同体への恐れと決めつけるのは避けたい。語れなかった人が何十倍もいたという量も、記録の少なさだけで求められる数ではない。
産婆の役割をどこまで確かめられるか
産婆についても、役割の説明と特定の行動は別になる。旧稿は、乳の出る家や拾い親を探し、役場の帳面を相談する姿を描いていたが、その個別記録は未取得だ。帳簿の日付を変える助言や、名前を伏せる発言は、確認済みの証言ではなく再構成の要素。
産婆が敬われる一方で差別も受けたという説明も、地域や時代を確かめて読む必要がある。被差別的な立場と結びつけた研究の原文や、具体的な地区の記録は今回未取得だ。出産の忌みと、産婆自身への評価をまとめて説明するなら、その地域の根拠が要る。
産の忌み――そもそも出産自体が「まずいこと」だった
ここまで読んで、そもそもなんでこんなに厳重なんだと思った人がいるはずだ。答えは単純で、双子でなくても出産そのものが強烈な忌みだったからだ。徳島で採られた記録が具体的でわかりやすい。
まず火を分ける。産火といって、出産のあった家の火で煮炊きしたものは他人が口にしてはならない。この習慣は七日から一か月続く。産火だからと言って、来客に茶さえ出さない家もあった。
期間の内訳も細かい。家族は七日、厳しい家では一か月。生まれた子は宮参りの三十三日まで。産婦にいたっては七十日から七十五日。二か月半近く、忌みの中にいる。
そして出産直後の三日間は「血が若い」といって、穢れが最も強いとされた。産婦と生児は七日間、奥の部屋から出られない。便所に行くのも制限され、部屋の窓の下に桶を置いてそれで済ませる例もあった。
出産のケガレは死んだときよりもきつい、という言い方まで記録されている。死よりきつい。現代の感覚だと理解しづらいが、当時の「ケガレ」は道徳的な汚さよりも、エネルギーの過剰さに近いものと旧稿は捉えていた。生と死が動く現場は危険だから隔離する、という発想だ。
旧稿は、出産を母子ともに死ぬ確率がきわめて高い場面として説明していた。その対象や死亡率の原資料は今回未取得だ。危険な現場に近寄るなという実用的な指示が、宗教的な言語に残ったのではないか、と読む見方になる。旧稿は、この平常運転を「死よりきつい忌み」と捉えていた。そこに双子が来るという構成だ。
普通の出産でも七十日間隔離される世界に、想定外の出来事が乗る。忌みは加算される。だから屋根に上って三度叫ばなければならないし、蓑笠を着なければならないし、堆肥場に置いて笑わなければならない。過剰な儀礼は、過剰な忌みの裏返しだ。
二人目の飯が、本当に無かったという話
ここで、いちばん散文的で、いちばん重い理由に触れておく。金だ。というか、飯だ。
近世の農村では、家が養える人数に上限があった。田の広さが決まっていて、年貢が決まっていて、労働力と扶養人口の釣り合いが崩れると家が潰れる。子どもは労働力になるまで何年もかかる。その間はただの消費者だ。
間引きは子返しとも呼ばれ、神仏のところへ一度返して次の機会に来てもらう、という説明が紹介されている。返すという語の優しさが、行為の重さを和らげて見せる点が引っかかる。旧稿にもこの語感を苦手とする感想があったが、それを当時の個人の気持ちとして書き足すことはできない。
各地の寺には、間引きを戒める絵馬が残されている。群馬の太田にある青蓮寺の絵馬などは、その代表としてよく知られている。産室で子を押さえつける女と、その背後に浮かぶ鬼の影、といった構図で描かれる。わざわざ絵にして寺に掛けて戒めなければならないほど、日常的にあったということだ。
藩の側も手を打っている。陸奥の二本松藩などは、赤子養育仕法という制度を作って、生まれた子を育てる家に手当を出した。人口が減ると年貢が取れないからだ。人道と経済がきれいに一致した珍しい例かもしれない。
双子をこの文脈に置くと、二人分の乳や飯が必要なのに田は増えず、出産後の母体にも負担がある、という説明になる。だから家の外へ出したのではないか、と旧稿は経済事情に結びつけて考えていた。ただし、乳が足りたかどうかや母体の状態は個人の話であり、俗信から診断することはできない。
だから、家の外に出す。里子に出す、養子に出す、拾い親を立てる。これらは全部、経済的な圧力に対する現実的な処理だ。
そこに「忌み」という言葉が乗る。僕はここが、この風習の一番いやらしいポイントだと思っている。経済的に養えない、というのはただの現実で、誰の心も救わない。
だが、あれは畜生腹だから、心中者の生まれ変わりだから、忌みだから分けなければならない、と言い換えると、決断が儀式になる。良心の負担が軽くなる。差別の言葉は、しばしば経済的な決断の免罪符として発明される。畜生腹という四文字は、そのために存在していた側面が確実にある。
世界も似たようなことをやっていた、という救いのない事実
日本だけの話にしておければ楽なのだが、そうはいかない。西アフリカのナイジェリアには、双子の出生率が世界でも際立って高いとされる地域がある。ヨルバの人々が多く住む地域で、食生活のヤムイモに含まれる成分が二卵性双生児の発生率を押し上げているという説明がされてきた。そしてこの地域には、かつて双子の誕生を災いとみなし、生まれた時点で命を奪うことがあったという記録が残っている。
その同じヨルバ文化が、現在では双子を守り神として崇める。イベジと呼ばれる双子の像を彫り、片方が亡くなればその像を身につけて世話をする。忌避から崇拝へ、反転している。反転の経緯は複雑だが、「双子を特別視する」という土台の共通性を旧稿は指摘していた。評価の向きは文化の側の事情に左右されたのではないか、という見立てになる。
西アフリカのコンコンバの人々の間には、双子の誕生を悪霊や邪術師の仕業と解釈する見方があったと紹介されている。スーダンのディンカの人々には、双子は成長して親を殺す、という予言的な見方があったという記録がある。太平洋に目を向ければ、サモアには男女の双子は子宮の中で交わっていた、とみなす観念があった。日本の異性双子観と発想がほぼ同じだ。地理的にも文化的にも関係のない場所で、同じ結論に到達している。
ヨーロッパも他人事ではない。中世には通常と異なる出生を異端視する空気があり、王侯貴族の世界では相続争いを避けるために双子の片方を隠したり幽閉したりした話が繰り返し語られる。鉄仮面の伝説がその代表だ。フランス王の双子の兄弟が仮面をかぶせられて幽閉された、という筋書きが人々を惹きつけ続けたのは、そこに「双子は権力の敵だ」という共通了解があったからだろう。
双子を神聖視する例として、ローマのロムルスとレムスや、インド神話のアシュヴィン双神も挙げられていた。ロムルスがレムスを殺すという筋を、旧稿は二人の争いに注目して読んでいた。しかし、それだけで神話の基本が「二人はいずれ争う」であり、双子は争う運命だと一般化することはできない。
これが本質に近いのかもしれない。双子を忌む文化も、双子を崇める文化も、共通して「同格の二人が並存する状態は不安定だ」と考えている。崇めるほうは、その不安定さを神の力として扱う。
忌むほうは、その不安定さを災いとして扱う。処理の方向が逆なだけで、感じている居心地の悪さは同じだ。同じ列島の中に真珠の生まれ変わりと犬腹が同居していたのは、だから偶然ではない。同じ一つの違和感が、右にも左にも振れうるというだけの話だ。
「うちは祝った」と言う土地の記録
忌みの話ばかりだと片手落ちなので、はっきり祝っていた記録も並べておきたい。福井の坂井郡では、双子が生まれると一族全員が集まって祝った。集落単位の祝い。忌んで隠すどころか、集めている。
岐阜の国府町では「間に合う」と言って喜んだ。働き手が二人来た、と。和歌山では男の双子を真珠の生まれ変わりと呼んだ。
愛媛の上浮穴郡では三つ子の誕生を喜び、無事な発育を祈願した。石川の加能地方でも、三つ子は大変めでたいという記録が採られている。そして全体の傾向として、西日本のほうが多胎児の出生を喜ぶ事例がやや多い、という指摘がある。ただし、同じ地域の中に肯定的な事例と否定的な事例が混在する場合も珍しくない。
これが実際のところなのだと思う。日本全国が双子を忌んでいた、というのは端的に間違いだ。忌んだ土地があり、祝った土地があり、同じ土地の中でも家によって違い、時代によって変わった。
そして日本の多胎児伝承の事例を網羅的に集めた研究では、出生後の習俗だけで三百件を超え、出生前の伝承まで含めると六百件を超える事例が確認されている。六百件だ。それだけ多様なものを、一言で「日本では双子は忌まれた」と要約するのは、乱暴が過ぎる。僕がこの記事で書いているのも、その六百件のうちの、目を引く部分を拾ったものにすぎない。そこは正直に置いておきたい。
忌みが消えていくまでの、意外と長い道のり
さて、この風習はいつ、どうやって薄れたのか。近代国家による戸籍の成立も、旧稿が変化の手がかりにしていた。法律が先に動いたという順序は、原資料で確かめた結論ではなく見立てだ。
旧稿は、戸籍では生まれた順に長男・二男を決めると説明していた。腹の中の位置による逆順とは異なる扱いだが、根拠の法令や施行時期は今回未照合だ。ここで家内の慣習が公式に無効になった、という結論までは確定できない。
妊娠と出産の仕組みや、一卵性と二卵性の区別が、俗信の変化にどう関わったかという論点だ。腹の中で先に宿ったほうが奥にいるという説明を、医学の説明と比べる見方になる。昭和十四年の医学書が批判したという旧稿の記述は、該当原文が未取得で、衰退の証拠としては確定していない。
三つ目の変化として、出産の場が家から病院へ移り、産婆が助産婦、助産師へ変わったことを旧稿は挙げていた。産室が家の奥でなくなれば、火を分けたり七十日隔離したりする所作の足場も変わる。宿主が消えれば俗信も消えた、という比喩で説明していたが、生活の変化と忌みの衰退を一つの因果に確定したわけではない。
各種の記録を見る限り、双子への偏見が本当に力を失っていったのは昭和三十年代あたりからだ、という見方がある。戦後だ。案外遅い。
その変化の途中には嫌な時代も挟まっている。近代の日本には優生思想が入ってきた。国が「良い子孫」と「悪い子孫」を区別する発想だ。
この時期、出産にまつわる古い忌みは、迷信として否定される一方で、別の形の選別に置き換えられた面がある。迷信を捨てたはずの近代が、もっと組織的で、もっと効率的な差別の道具を持ってきた、という皮肉な構図だ。古い迷信が消えることと、差別が消えることは、まったく別の話だった。ここは太字にしたいくらい強調しておきたい。
一方で、近代のマスメディアには逆の作用もあった。三つ子や四つ子が生まれると新聞が報じ、写真が載り、祝いの品が届く。多胎児が「珍しくてめでたいニュース」として消費されるようになると、忌みの側面は相対的に押し出される。近代の三つ子祝いは、古代の稲三百束の系譜を、新聞という新しい媒体で継いだものと言えなくもない。
数字のほうから見ると、状況は完全にひっくり返っている
現代の数字を置いておく。旧稿では、日本の多胎分娩がおおむね全分娩の一パーセント程度で推移したと紹介していた。一九九六年から二〇〇〇年は〇・九七パーセント、二〇〇一年から二〇〇五年は一・一二パーセントでピークを打ったという。
二〇〇六年から二〇一〇年は一・〇七パーセント、二〇一一年から二〇一五年は〇・九九パーセントという数値だ。統計の対象や算出方法の原文は今回未照合で、現在の個人の出生確率を示す数字ではない。旧稿は、このピークを不妊治療と結びつけていた。排卵誘発剤や体外受精で複数の胚を戻す治療が広がった時期に、多胎の割合が明確に上がったという説明だ。
移植胚の数を制限するガイドラインへの変化で数字が落ち着いた、という説明だが、原統計との因果の照合は未完だ。現代の日本では多胎児がどれくらい生まれるかを、ある程度人間の側がコントロールできる、と旧稿は説明していた。この説明は、かつて「畜生腹」と罵られた現象が、いまや医療の設計変数になっているという、なかなかの落差を示している。
三つ子や四つ子以上の割合が理論上の予測より高いという説明を、旧稿は医学の進歩と結びつけていた。複雑な多胎妊娠の生存を考える論点ではあるが、統計の原文と原因を照合したわけではない。古代の三つ子はすぐ亡くなり、現在は全員育つという二分は、今回の資料では確定できない。稲三百束という昔の褒賞との落差も、現在の家庭の状態を診断する理由にはならない。
育てるほうは、いまだにめちゃくちゃ大変だという現実
ここが大事なところで、忌みが消えても、多胎育児の負荷そのものは消えていない。多胎家庭の調査で、育児中にネガティブな感情を持ったという回答が九割を超えた、と旧稿は紹介していた。授乳や同時の泣き声、外出、続く感染症などの負担を考える話だ。だが、調査対象や質問の原文は未照合で、その数字から特定の親の愛情や健康状態を評価することはできない。
二人が同時に泣き、片方をあやす間にもう片方が泣く場面は、負荷を説明する例として読む。旧稿は、多胎育児家庭の虐待死リスクが単胎家庭の数倍という別調査も紹介していたが、対象と原文は今回未照合だ。二〇一八年の出来事から注目が広がったという説明もあったが、原報道と社会の反響は未照合だ。
旧稿は、国の多胎妊産婦向け支援予算を二〇二〇年度の変化として紹介していた。原予算と過年度の制度は今回未照合で、初めての予算だったとまでは確かめられていない。産前・産後サポート事業の交流会や訪問支援に、国が費用の一部を補助するという説明。
当事者団体も動いている。多胎児の家庭同士をつなぐピアサポートの仕組みや、オンラインでの相談の場が全国規模で育ってきた。同じ経験をした親が話を聞く、という形は、この分野では特に効く。単胎の親には「大変だね」としか言いようがないことが、多胎の親同士なら一秒で通じるからだ。
ここで、僕はどうしても江戸の産婆のことを思い出す。乳の出る家を探して回り、拾い親を頼み込みに行った、あの人たちのことだ。やっていることを、旧稿は似た構造として捉えていた。二人同時に来た子を、一つの家だけで抱えるのは無理だ、だから外から手を入れる。その見立てを、江戸の村と現代の自治体が同じ制度や理由を持つ証明として受け取ることはできない。
違うのは、そのときに「畜生腹だから」と言うか、「支援が必要だから」と言うかだ。同じ現実に対して、どういう言葉を用意するか。それだけの差で、子どもの人生と親の尊厳がまるごと変わる。数百年かけて人間が獲得したのは、たぶんその言葉の作り替えだ。
ネットではこの話がどう扱われているか
この話題は、ネットで扱われている。知恵袋にも掲示板にも、双子は昔忌み子だったって本当ですか、という質問が定期的に立つ。歴史系のポッドキャストでも取り上げられているし、創作の題材としても人気がある。
忌み子、双子、里子、逆順の兄弟。物語に使いやすい素材が揃いすぎている。流通している主張には、いくつかの定番がある。
まず「日本では双子は全国的に忌まれていた」という総括。これは、さっき書いたとおり単純化しすぎだ。祝った土地が確実にある。同じ県内で正反対の記録が出てくる。全国一律の忌避があったという像は、資料の実態と合わない。
次に「先に生まれたほうを弟にした」という話。これは実在する。明治の慣例調査に載っている。ただし、これも全国普遍ではない。地域慣習として記録されているのであって、日本中がそうしていたわけではない。
「男女の双子は前世の心中者の生まれ変わり」という俗信は、今回の辞書にも説明がある。各地の採集例や江戸期の広がりは旧稿が紹介していたが、原採集記録は未照合だ。心中物の流行との関係も、因果を証明した研究を今回取得したわけではない。状況から考えた見立てと、原資料で確かめた時代や範囲を分けて読む必要がある。
四つ目に、武家や大名家では双子は片方を隠した、という説。よく語られるし、家督相続の理屈からしてありそうな話ではある。ただ、具体的な家名と史料をセットで示した記述には、なかなか行き当たらない。「そういう話がある」という形で流通しているのが実情だ。この手の、いかにもありそうで検証しにくい話は、扱いに注意したほうがいいと思っている。
五つ目に、皇室や有名人にまつわる双子の噂の類。これはもう、実証以前の問題として触れない。存命の家系や個人を巻き込む話を、面白がって拡散するのは単純に筋が悪い。
それから、反証というか、冷静な指摘として重要なのが「忌みの記録が多く残っているのは、忌みが珍しくて記録に値したからかもしれない」という視点だ。民俗調査は、変わった習俗を優先的に拾う。何もしなかった家、普通に二人育てた家は、記録されない。だから資料の中では忌みが過剰に見える可能性が常にある。
双子を普通に育てた家のほうが多かった可能性を考える見方もある。そうした家も、畜生腹という語が使われた社会にいたのではないかと旧稿は述べていた。言葉が圧力になることと、誰にどこで何が実行されたかは別の確認を要する。語の存在だけで個々の家を加害者と決めることは避けたい。
ネット上の考察でもう一つ面白いのが、この風習を現代の何かに重ねる読み方だ。同格の二人を並べておけない社会、という構造は、双子に限らずいろんな場面で見つかる。組織の中で二番手を作らない話とか、そういうところに引きつけて語られる。無理筋な連想も多いが、双子忌みの本質が「同格の二つを許せない不安」にあるという直感自体は、そんなに外していないと思う。
で、なぜこの話はこんなに怖いのか
理由を三つに絞って書く。一つ目。加害者がいない。
呪いをかけた誰かや妖怪よりも、飯や田の広さ、家督、共有された言葉を旧稿は問題にしていた。悪意がなくても人生が分かれる構造として考える見方だ。それを当時のすべての人に殺意がなかったという確認へ変えることはできない。怪談なら敵役を置けるが、この話では個人の動機と制度の説明を分ける必要がある。
二つ目。理屈が通っている。先に宿ったほうが奥にいるから後から出る、という説明は、当時の知識では合理的だ。二人揃えないと片方が負ける、という発想も、内在的には筋が通っている。前世で心中したから一緒に生まれた、という物語も、情緒として完成度が高い。
理屈が通っていると、人は従う。そして従った結果として、目の前の赤ん坊が辻に置かれる。理性が機能した結果としての残酷、というのが一番救いがない。
三つ目は、いつまで偏見が残ったかという問い。旧稿は、昭和十四年の医学書による批判を挙げ、昭和三十年代まで偏見が残ったとする見方も紹介していた。書名や地区の原記録は今回未照合だ。この時期を全国共通の終わりと扱うことはできない。
旧稿は、二〇二〇年度の多胎家庭向け支援予算を、昔の話と今の支援をつなぐ例にしていた。ただし、その事業の始まりや現在の実施状況を確定する資料は今回未照合だ。曽祖父母の代の偏見と現在の支援を、制度が同じだと結びつけるのは避けたい。なぜ忌避が生まれたのかという、次に考える問い。
社会が「一人分の場所」しか用意していなかったからだ。家の跡取りの席と名前を継ぐ人間は一人、乳の出る量は一人分、田を分けられる回数は限られる、という社会設計を旧稿は想定した。そこに同時に二人が来た、という見立てだ。ただし、乳の量は個人差のある医学の話で、家の制度と同じように一人分だと決めることはできない。
社会は設計を変えず、子どものほうを削ったのではないか、と旧稿は解釈していた。制度と子の扱いを結びつけて考える論点になる。ただし、これをすべての社会や家庭が選んだ行動と確定することはできない。
片方を弟にして序列をつけ、片方を外に出して家から抜き、片方に別の名字を与えて系図を分けた。あらゆる手段を使って、二人を一人分の枠に押し込めた。その作業の正当化に、畜生腹という言葉と心中者の生まれ変わりという物語が使われたのではないか、という見立てになる。
言葉が先にあって差別が生まれたのではない。枠が先にあって、はみ出したものを削るために、言葉が呼ばれた。だから僕は、この風習を昔の人の無知の話としては読めない。枠を変えずに人を削る、という判断は、形を変えて今でもそこら中にある。
全国一律なんかじゃなかった。びっくりするほど、まだらだった
ここからは腰を据えて書く。本体で書き切れなかったこと、ずっと喉に引っかかっていたこと、調べ終わってから考えが変わった部分をまとめて置いていく。まず、この取材で一番驚いたことから。双子忌みは、思っていたよりずっと「まだら」だった。
旧稿での出発点は、日本中が双子を不吉だと考えていて、片方を捨てたり殺したりしていた、というものだった。ただ、採集例の説明を並べると、その像が崩れるという見立てになる。同じ多胎児伝承の中に、犬腹という蔑称と、真珠の生まれ変わりという美称が、同じ列島の中で共存している。三つ子は千年以上ずっとめでたい。
西日本のほうが祝う事例がやや多いという傾向はあるが、同じ地域の中に肯定と否定が混在する例も普通にある。これは、僕たちが「昔の日本」を一枚岩で想像しすぎているということでもある。江戸の村と隣の村では、水の分け方も年貢の重さも婚姻の範囲も違った。子どもの扱いだけが全国一律であるはずがない。
そのうえで、それでも畜生腹という語が仙台にも戸田にも高島にも高岡にもあったという旧稿の説明は重い。地域慣習は割れていても、罵る語彙だけは共有されていた。これは何を意味するか。
たぶん、実際の対応は各地でバラバラだったが、「多胎は普通ではない」という感覚だけは全国で共有されていた、という見立てだった。感覚を共有しながら対処法が分かれた、と旧稿は考えていた。忌みの本体は感覚のほうにあって、屋根に上って叫ぶとか堆肥場に置くといった所作は、その感覚に対する各地の応答でしかない。
だとすると、本当に追跡すべきなのは所作に加えて、感覚のほうにも目を向けることになる。なぜ多胎を「普通ではない」と感じるのか。僕の考えでは、数だけで説明せず、同一性の問題も考えたい。
名前や責任、財産を一人ずつに結びつける仕組みを、旧稿は社会の記録装置として捉えていた。双子がその前提に穴を開け、外見で区別しにくい場合には扱いが難しくなったのではないかという見立てだ。一卵性なら必ず区別がつかないと決めたり、それを差別の原因として診断したりする説明ではない。
社会が差をつけようとして、兄と弟、名字、育つ家を分けたのではないかと旧稿は考えていた。同じ服を着せるのは、反対に差をつけず均衡を保つという別の読み方だ。完全に同一にするか差をつけるかへ振り切る、という論点であり、中途半端は必ず不安定だと確認したものではない。
福井の大野郡の「片方が負ける」という言い方は、この不安定さの直接的な表現だと思う。二人の間にわずかな差があると、その差が拡大して片方を食い尽くす。だから寸分違わず揃える。着物の柄まで揃える。
同じ服、習い事、クラスにするか分けるかという、現代の双子育児の悩みも旧稿は取り上げていた。個性の尊重と公平さのバランスを考える点を、昔の「同格の二人をどう扱うか」という問題に重ねた見立てだ。現代の親が呪術的な均衡を考えているという意味ではなく、悩みの形を比較したものだ。歴史上の呪いと今の育児を、同じ原因や経験として決めることはできない。
数百年前の呪いと、今日の育児書の悩みが同じ形をしている。これはちょっとすごいことだと思う。忌みという上着を脱がせると、下から出てくるのは普遍的な難問だった。
歯切れの悪かったところを、正直に書く
多胎児の習俗を扱う以上、避けられない嬰児殺しの話。だが資料の範囲を確かめるのが難しい。民俗誌に残っているのは、あくまで「形式的に捨てて拾う」までだ。
拾い親が用意され、育ての家が決まっている。子を生かす仕組みとして紹介された部分と、実際の結果は分けて確かめる必要がある。一方で、間引きが広く行われていたことは、寺に残る戒めの絵馬や、藩が作った赤子養育の制度が逆説的に証明している。わざわざ絵にして戒め、金を出して育てさせなければならないほど、日常的にあった。
では、多胎の場合に間引きの対象になりやすかったのか。これについて、確かな数字は今回未取得だ。数字が存在しない可能性もあるが、見つけられなかったことだけでは、その有無までは言い切れない。
戦後になっても双子に関係する事件が起きたという記述には行き当たるが、これも具体的な事件を特定できる形では確認できなかった。この手の「あったらしい」は、慎重に扱うべきだと思っている。実際にあった悲劇を軽く扱うのも、なかったことを事実として広めるのも、どちらも良くない。
多胎児が間引きの対象になりやすかったかは、確かな数字が未取得で、ここでは断定しない。記録が薄いことを、この問題の性質と結びつけて考える見方はある。ただし、誰も書かなかった、誰も書けなかった、共同体の全員が関与した、という説明を、記録の少なさだけで確定することはできない。告発が難しく記録に残りにくかった可能性と、実際にどこで何が起きたかは分けて確かめる必要がある。
そのうえで、はっきり書いておきたいことがある。この記事は、当時の判断を弁護するために書いていない。事情があった、という説明と、仕方がなかった、という肯定は、まったく別のものだ。
飯が足りなかったことは事実で、家が割れると全員が困ったのも事実で、それでもなお、選ばれなかった側の子どもの人生は取り返しがつかない。事情の説明は、その取り返しのつかなさを一ミリも埋めない。そこを混ぜないことだけは、この題材を扱ううえでの最低限の作法だと思っている。
「奥にいたほうが兄」は、じつは便利な建前だったのでは
逆順の兄弟について、もう少し掘る。明治十三年の慣例調査に相模国の例として載っている、という旧稿の紹介が手がかりになる。旧稿はここから逆算して、幕末から明治初期の関東の一部での運用を考えたが、該当原本は今回未照合だ。
面白いのは、この慣習が「奥にいるほうが先に宿った」という胎内の構造に根拠を求めている点だ。これは、当時の人々が妊娠を空間的に理解していたことを示している。腹の中に順番に物が入っていく容器のイメージ。
この理屈を採用すれば、「兄になるべき者」を人為的に選ぶ余地があったのではないか、と旧稿は考えていた。生まれた順のかわりに、腹の中で先に宿った順という検証しにくい基準を持ち出す説明だ。検証しにくい基準なら、決める側の裁量が効くと推測したのであり、実際の運用の動機を確認したわけではない。
うがった見方をすれば、家の側にとって都合のいい子を兄にできる仕組みだったのではないか。体格の良いほう、健康そうなほう、あるいは単に親が気に入ったほうを兄にする。そのための建前として、胎内の位置という便利な理屈が用意されていた。
これは僕の推測で、資料的な裏付けはない。ただ、家の存続が最優先だった社会で、跡取りを選ぶ裁量を確保したいと考えるのは自然だ。逆順の慣習は「先に生まれた者を必ず弟にする」というルールとして紹介されている。実際には例外や調整があった可能性も考えたいが、原記録の確認は未完だ。
旧稿は、出生の前後で順序を定める戸籍の扱いを、家の裁量が狭まる変化として捉えていた。根拠の法令と施行時期は今回未照合だ。家の裁量を国が取り上げたという部分は、制度についての見立てになる。近代化を細かな裁量の変化から読む、という論点。
悪口なら言い返せる。物語には言い返せない
心中俗信について、もう一段考えたことがある。この俗信は、よく考えると異常に優しい。前世で愛し合っていた二人が、この世で結ばれず、死んで、それでも離れたくなくて、同じ腹に宿った。これは物語として、ほとんどラブロマンス。
にもかかわらず、この物語を貼りつけられた子どもは差別された。ここに大きなねじれがある。なぜ美しい物語が差別に使われたのか。
一つには、心中が罪だったからだ。江戸の法では心中は処罰の対象で、生き残れば身分を剥奪されて晒された。死んだ二人の遺体も丁重には扱われなかった。だから「心中者の生まれ変わり」は、罪人の生まれ変わりを意味する。物語の中身がロマンチックでも、社会的な評価としては前科者だ。
もう一つ考えたいのは、この俗信が子どもを「前世の物語の続き」に閉じ込めるという点だ。生まれてきた子には、自分の人生の主導権がない。二人の関係は、生まれる前から決まっていることになっている。だから結婚させるという発想まで出てくる。
人に物語を与えることは、人から自由を奪うことでもある。それが美しい物語であっても、いや、美しい物語であればあるほど、逃げにくい。これは現代でも通じる話だと思う。
誰かに強い物語を貼りつけて、その物語のとおりに生きることを期待する。悪意はない。むしろ好意的な物語であることも多い。それでも、貼られたほうは息が詰まる。
心中俗信のいやらしさは、悪口ではなく物語だったところにある。悪口なら反論できる。物語には反論できない。
珍しすぎるものは畏れられ、そこそこ多いものが管理される
三つ子と双子の非対称について、本体で書いた仮説をもう少し詰めておく。古代の正史に載る多胎の記録が三つ子ばかりで、双子がほぼ載らないという偏りは、僕は記録の側の性質だと考えている。双子が珍しくなかったから正史に載りにくかったのではないか、と旧稿は考えていた。
当時も百人に一人ほどで、村に何組かいたはずだという数値は、原統計から確認した頻度ではない。今と昔で多胎の構成が同じと決めず、記録する側の選択と実際の出生を分けて確かめる必要がある。三つ子は桁違いに珍しい。だから記録され、褒賞の対象になり、瑞祥として扱われた。
珍しくないもののほうが管理や差別の対象になったのではないか、というのが旧稿の見立てだ。滅多にないものは、奇跡として処理できる。それなりに頻繁にあるものは、社会が制度として対処しなければならない。制度としての対処が必要になったとき、そこに序列と排除が発生する。
これは、差別一般に言えることかもしれない。本当に例外的なものは畏怖される。適度に多いものが、管理の対象になり、蔑称を与えられる。
稲三百束と乳母一人という褒賞の定型化を、旧稿は発生頻度と結びつけて考えていた。対象となる記録や時代の範囲は今回未照合だ。三つ子の出生例の多さを制度から逆算した、旧稿の見立て。
旧稿は、三つ子が年に何度も生まれるほどではなければ、褒美を出しても財政が傾かないと考えていた。その「ちょうどいい珍しさ」に対し、双子へも褒美を出すと財政が持たないという見立てだ。制度が作られず、各家庭の問題として放置され、そこに忌みの言葉が生えたとも解釈していた。発生頻度や財政、制度との因果を示す原資料は今回未照合のままだ。
双子忌みと制度の変化をどう考えるか
本体に入れるか迷って外した話がある。双子忌みと「家」の消滅の関係。この風習を支えていた最大の柱は、家督相続の一本化だった。家という装置が、二人の同格の子を許せなかった。
では、家が力を失ったら、どうなるか。戦後の民法改正で、家督相続は廃止された。均分相続になった。子どもは全員が平等に相続する。長男が家を継ぐという仕組みが法的には消えた。
このタイミングと、双子への偏見が力を失っていったとされる昭和三十年代が、近いと旧稿は指摘していた。医学の進歩も、出産の病院化も、確かに効いている。だが僕は、家督相続の廃止こそが決定打だったのではないかと思っている。二人が同格でいることが、法的にも実務的にも問題でなくなった。
問題でなくなれば、対処する必要もない。対処する必要がなければ、忌みも要らない。忌みは、困りごとの副産物だった。困りごとの原因が制度ごと撤去されたとき、忌みは支えを失って崩れた。
この見立てが正しいなら、双子忌みを消したのは啓蒙や科学のほか、制度改革の役割が大きかったと考えられる。人の心が進歩したから差別がなくなったのではない。差別する理由がなくなったから、心のほうが後から追いついた。
身も蓋もない話だが、たぶんこれが実際に起きたことだと思う。そして差別をなくしたい人間にとって、これはむしろ希望のある話でもある。心を変えるのは難しいが、制度は変えられるからだ。
改札を通れないベビーカーの話で終わる
最後に、現代の話に戻したい。現在は双子を肯定的に扱うテレビや動画、双子あるあるというコンテンツも紹介されている。それをもって、現在の双子への評価がすべて肯定的になったと確定することはできない。似た顔が二つ並んでいる映像は、単純に目を引く。かつて忌まれた「同一性」が、今はコンテンツとしての強みになっている。
これは反転だ。ナイジェリアのヨルバで、双子殺しの記憶を持つ文化が双子を守り神として崇めるようになったのと、構造的には同じ反転かもしれない。特別視という土台は変わらず、符号だけがひっくり返る。
だが、符号がプラスになったからといって、特別視されること自体が消えたわけではない。双子の当事者が、いつも二人セットで語られることや、区別されないことにうんざりする、という話は今でも普通にある。同じ服を着せられ、同じ扱いをされることへの違和感は、江戸の均衡の呪術とは別の文脈で、いまも生きている。旧稿では、育児中のネガティブな感情が九割を超え、虐待死のリスクが単胎の数倍だったという報告を紹介していた。
調査対象と原文は未照合で、個々の親の愛情や危険性を判断する数字ではない。改札を通れないベビーカー、抱っこ紐、保育園の一人ずつの申し込み、エレベーターの位置が、暮らしの負荷の例として挙げられていた。これらから「一人分の枠」しかないと旧稿は解釈したが、すべての設備や家族が同じ状態だと確認したわけではない。
二〇二〇年度に国が予算を付けたという説明も、旧稿の記述だ。原予算や開始時期は今回未照合で、「やっと」と言えるかも確かめられていない。この問題が終わったかどうかを、旧稿は問い続けていた。畜生腹や逆順の兄弟、拾い直す儀式が消えたという説明もあるが、現存しないことを全国で確認したわけではない。
でも「同時に二人来ると社会が対応しきれない」という一番根っこの部分は、まだそこにある。かつては言葉で削り、今は制度で追いつこうとしている。方法が変わっただけで、問題は同じ場所に立っている。
だから僕は、この風習を過去の暗い話としてだけ読むのが、どうしてもできない。屋根に上って三度叫んだ父親と、ワンオペで双子を抱えて泣いている今日の親は、同じ困難の両端にいる。片方は忌みという言葉しか持っていなかった。もう片方は、支援という言葉を持っている。
その差が、この数百年で人間が積み上げた全部だ。少なくて情けない気もするが、ゼロではない。畜生腹と呼ばれた側から見れば、この差は決定的に大きい。
次の数百年で、この差をもう少し広げられるかどうかは、単純に、今どれだけ枠のほうを作り替えるかにかかっている。子どもを削る方向へ進まず、枠を広げる。それだけの話。それだけの話を、この国は数百年かけて学んでいる途中にいる。
よくある質問
畜生腹とは?
「畜生腹」は、一度に二人以上の子を産むことをののしった言葉。小学館の「デジタル大辞泉」では、双子や三つ子、男女の双子を指す使い方も示されている。辞書の語義と、各地域の風習がいつまで続いたかは分けて考える。
畜生腹の歴史や広がりは?
旧稿は、宮城の仙台、埼玉の戸田、滋賀の高島郡、高知の高岡郡などを、この語が採集された地域として紹介していた。静岡の「犬腹」や鹿児島の「ブタゴ」も旧稿の記述。原採集記録は今回未照合で、語の分布から全国共通の風習や伝播経路までは確定できない。
双子は昔、忌み子とされていた?
旧稿には、双子を忌む話と祝う話の両方があった。ただし原採集記録は未照合で、特定の地域で何が行われていたかを確認済みとは言えない。「全国で一律に忌まれた」という結論は、この資料だけでは出せない。
双子を忌む俗信は昭和にも残っていた?
旧稿は、昭和十四年の医学書が俗信を批判したと紹介していた。書名と該当ページは今回未確認で、原典の引用や当時の俗信の広がりを示す確定資料としては使えない。原資料が未取得であることと、その俗信が存在しなかったことは別だ。
