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畜生腹と呼ばれた子どもたち――日本の「双子忌み」をめぐる、まだら模様の民俗史

双子が生まれた。ただそれだけのことで、家がざわつく。産婆が黙る。父親が土間で頭を抱える。祖母が「これは人には言えん」と口をふさぐ。そういう時代が、この国にはわりと最近まであった。

しかもその「ざわつき」には名前がついていた。畜生腹。ちくしょうばら。犬や猫みたいに一度に何匹も産みやがって、という意味の、身も蓋もない罵り言葉だ。産んだ母親に向けられる。生まれた子にもついて回る。この四文字を初めて資料で見たとき、正直ちょっと気分が悪くなった。今でも打ち込むたびに指が重い。

でも書く。書かないと、なかったことになるからだ。

「畜生腹」という四文字が、どれだけ広い範囲で使われていたか

まず語そのものの話をしよう。畜生腹は、多胎児を産んだ母親の腹を畜生――つまり獣に喩えた蔑称だ。国語辞典の類にもちゃんと載っている。載っているということは、方言でも隠語でもなく、全国的に通じる語彙として流通していたということでもある。そこがまず、じわっと怖い。

民俗学の採集記録を追っていくと、この語が確認されている土地は本当にバラバラだ。宮城県の仙台あたり、埼玉県の戸田のあたり、滋賀県の高島郡、高知県の高岡郡。東北から関東、近畿、四国まで、点々と飛んでいる。飛び地みたいに散らばっているのに全部同じ語形というのが不気味で、これは中央で生まれた語が街道や本や芝居に乗って全国に散ったパターンだろう、と考えるのが自然だと思う。

同じ発想で別の語形になっている土地もある。静岡県の引佐郡では「犬腹」。犬だ。もう直球すぎて言い訳のしようがない。鹿児島県の大島郡には「ブタゴ」という言い方が採集されている。豚の子。多産の家畜を持ち出して人間の子を指す、という発想は共通していて、要するに全部「人間の産み方じゃない」と言っているわけだ。

逆に、まったく悪意のない呼び名もあった。男女の双子を石川県や大阪府あたりで「メオトゴ」「ミョウトゴ」と呼んだ記録がある。夫婦子、という字を当てる。これはこれで、後述するとんでもない俗信と直結しているので手放しでは喜べないのだが、少なくとも音の響きだけは柔らかい。同じ島国の中で、片方では犬腹と呼ばれ、片方では夫婦子と呼ばれていた。民俗というのはそういう継ぎはぎだ。

面白いのは、この語が向けられる相手が主に母親だという点だ。子どもではなく、産んだ女に矢が向く。多胎の要因なんて当時は誰にもわからないのに、責任だけはきっちり女の側に振られる。ここに、この風習の一番いやらしい部分が最初から顔を出している。

産室で、その夜なにが起きていたのか

ここからは、各地に残る採集記録を下敷きにして、双子が生まれた夜の流れを一本の線につないでみたい。個別の家の話ではなく、いろんな土地の記録に共通して出てくる要素を並べたら、こういう時間が浮かび上がる、という再構成だと思って読んでほしい。

産室は、たいてい家の奥の一間だった。徳島で採られた記録によれば、夫婦の寝間をそのまま産室に転用し、床には筵を敷く。古い時代には桟俵の上で産むと安産になるとも言われた。桟俵というのは米俵の両端に当てる丸い藁の蓋のことで、この後の話にもう一度出てくるので覚えておいてほしい。産湯の湯を沸かし、藁を積んで、そこに生まれた子を置く。衛生と信仰がぐちゃっと混ざった空間だ。

そこに、産婆が入る。地域によっては取上婆と呼ばれた。ただし専門職としての助産婦が一般化するのはずっと後の話で、徳島のある地区の記録では昭和十年代、別の地区では昭和二十五、六年以降だという。それ以前は姑が介助することが多かった。つまり、産室にいるのは基本的に身内の女たちだ。これが後で効いてくる。

一人目が生まれる。産声が上がる。ここまではめでたい。

問題は、そのあと腹がまだ張っていることに誰かが気づく瞬間だ。産婆の手が止まる。姑の顔色が変わる。二人目が出てくる。

この瞬間の空気を、民俗誌はあまり詳しく書いてくれない。書きようがないのだと思う。ただ、その後に何が起きたかは、驚くほど細かく採集されている。

まず、外への知らせ方が普通じゃない。岩手県の雫石のあたりでは、父親が屋根の棟によじ登り、妻が双子を産んだと三度叫ぶ。三度叫べば以後は双子を産まない、とされた。秋田県の能代では、窓から「俺のアバ、双子産ったー」と叫ぶ。三重県の船越では「見にござれ」と呼ばわる。

これ、初見だと「めでたくて叫んでるのかな」と思うのだが、たぶん違う。隠すと祟る、だから先に大声で言ってしまう、という構造の呪術だ。恥や忌みを内に抱え込むと家に溜まる。だから屋根に上って空に向かって放流する。三度で打ち止め、というカウントがついているのが、いかにも呪いの解き方らしい。

叫ぶときの格好にも決まりがあった。長野県の茅野や三重県の志島では、蓑と笠をつけるか、白い腰巻を身につける。岩手県の紫波郡では膳を持つ。埼玉県の比企郡では臼と杵。三重県の布施田では草刈鎌、鳥羽では鍋つかみ。

正直、この一覧を最初に見たときは笑ってしまった。鍋つかみを持って双子の誕生を叫ぶ父親を想像してほしい。でも笑ったあとで、背筋が寒くなる。蓑笠というのは、日本の民俗では異界の者の装束だ。神も、鬼も、まれびとも蓑笠を着てやってくる。臼と杵は、餅つき、つまり生命の再生の道具。膳は食い物を載せる台。全部、あの世とこの世を行き来する道具立てなんだ。

つまり彼らは、双子の誕生を「人間の出来事」として報告していない。神事として、あるいは異界からの訪れとして届け出ている。そうしないと処理できない出来事だったということだ。

そして翌日以降、子どもの処遇が始まる。

一度捨てて、拾い直す。この儀式の意味がわかると怖い

各地の記録でいちばん多いのが、生まれた子を「いったん捨てる」習俗だ。

静岡県の志太郡では、赤ん坊を布団にくるんで家の門口や道の辻に置く。そして知り合いに拾ってもらう。栃木県の真岡では、あの桟俵――サンダラボッチ――に包んで門前や四辻に捨てる。埼玉県の児玉郡や山形県では、箕に入れて捨てる。秋田県の象潟では、堆肥場に捨てて、いったん笑ったうえで拾い返す。

堆肥場。肥やしの山だ。そこに新生児を置く。そして笑う。

この「笑う」がわからなくて、しばらく考え込んだ。たぶん、忌みを笑いで打ち消す作法なんだと思う。深刻な顔をしたら忌みが本物になる。だから笑って、冗談ですよという体裁にして、拾い上げる。共同体で行う一種の芝居だ。

そして重要なのが、この捨てるのが「形式的」だという点。ちゃんと拾い手が用意されている。埼玉県の鴻巣では、知り合いを拾い親に立てて、そのまま育てさせた記録がある。宮城県の岩出山では、出産して間もない別の母親が育児を引き受けた。栃木県の真岡では、近所の裕福な家が後見人になった。

つまりこれは、殺すためのシステムではなく、生かすためのシステムでもあった。生まれ直させる。いったんこの世から切り離して、別ルートで社会に入れ直す。捨て子として拾われた子は「家の跡取り筋の外側」に置かれるから、家の秩序を乱さない。忌みも祓える。子どもも死なない。全員が納得できる落としどころとして、この儀式は機能した。

だから僕は、この習俗を単純に「残酷」とだけ言い切れない。むしろ、逃げ道を作るために発明された知恵に見える。問題は、その逃げ道を作らなければならないほど、双子の誕生が家にとって「困った事態」だったという前提のほうだ。

そして当然ながら、形式が形式で済まなかった例もあったはずだ。門口に置いた子を、誰も拾いに来なかったら。堆肥場に置いたまま、笑って戻ってこなかったら。近代の民俗誌はそこを書かない。書けない。書けば犯罪の記録になるからだ。この空白が、この風習の一番暗い部分をそのまま抱え込んでいる。

兄が弟になり、弟が兄になる。あの逆順ルールの正体

双子の話で必ず出てくるのが、先に生まれたほうを弟・妹とする慣習だ。ネットでもよく見かけるし、たいてい「昔の人は変なことを考えたね」で流されている。でも、これは調べるとかなり手応えのある話だった。

まず、実在する。明治十三年に編まれた『全国民事慣例類集』という、全国の民間慣習を集めた資料がある。ここに相模国の慣例として、先に生まれたほうを弟妹とし、後から生まれたほうを兄姉とする、という記載がある。国が正式に集めた慣習調査に載っているということは、少なくとも当時の一部地域では通用していた実務だったということだ。民俗学の事典類にも、双生児は先に生まれた者が弟妹、後の者が兄姉、という記述が採録されている。

理屈はよく知られたやつだ。腹の中では先に宿ったほうが奥にいて、後から宿ったほうが手前にいる。だから先に出てくるのは後から宿ったほう。つまり弟。奥に残っていたほうが本当の兄。

母胎を筒か袋のように考えて、先入れ後出しで並べている。冷蔵庫の奥の牛乳の理屈だ。近代医学からすればもちろん間違いだが、当時の知識水準では十分に筋が通っている。実際、昭和十四年に出た医学書がこの俗信を取り上げて、これは妊娠の実際を知らない空論だ、とはっきり批判している。裏を返せば、昭和十四年の時点でまだ批判する必要があるくらい生きていた、ということでもある。

ただ、僕はこの「奥にいたほうが兄」理論は、後付けの説明だと思っている。もっと生々しい理由があったはずだ。

家督だ。

家に長男が二人いる状態は、家制度にとって最悪だ。相続が割れる。田畑が割れる。家がもたない。だから双子が生まれたら、まず「同格の二人」を作らないことが最優先になる。兄と弟という上下を、はっきり打たなければならない。

そのときに、単純に生まれた順で兄弟を決めると、ちょっとまずいことになる。同時期に、ほぼ同じ瞬間に出てきた二人だ。数分差で兄になった、というのは誰の目にも「たまたま」に見えてしまう。たまたまで決まった序列は、揉めたときに崩れる。

そこに、生まれ順とは無関係の、宇宙的というか、腹の中の構造という別次元の根拠を持ち出す。すると「順番はたまたまじゃない、宿った順という動かせない事実で決まっている」という物語ができる。序列が補強される。序列が補強されれば、家は割れない。

この慣習を「兄弟にせず主従にするため」と説明する言い方があるが、これはかなり本質を突いていると思う。対等な二人を作らない。どちらかを必ず上に、どちらかを必ず下に置く。そうしないと家という装置が壊れるからだ。

なお、法的にはずっと早い段階で決着している。戸籍の運用として、双生児は出生の前後をもって長男・二男の順序を定める、と決められた。先に出たほうが兄。以上。近代国家は民俗を待ってくれない。ただ、法が決めた後も家の中では逆順で呼ばれていた例が昭和初期まで確認できるというのが、また味わい深い。役所の紙と、家の座敷とで、兄と弟が入れ替わっているわけだ。

現代の多胎支援の現場では、そもそも上下をつけない、双子はきょうだいの序列ではなく対等だ、という考え方が広がっている。数百年かけて、ようやく「二人を並べたままにしておく」ことが許されるようになった。

心中者の生まれ変わり――浄瑠璃が生んだ、いちばん厄介な俗信

ここからが個人的に一番ぐったりくるパートだ。

男女の双子は、前世で心中した男女の生まれ変わりである。

この俗信が、めちゃくちゃ広い。妖怪伝承のデータベースを引くと、大阪府で大正五年、栃木県・秋田県・長野県・神奈川県で昭和八年、といった具合に、全国各地から同じ内容の報告が並ぶ。東京の町田あたりでも採られているし、茨城県の東海村では、男女の双子は心中の生まれ替わりだから、同性の双子よりもさらに嫌われた、という記録がある。

構図はこうだ。この世で一緒になれなかった男女が、死んで、二世の縁を誓って、同じ腹に宿った。だから一緒に生まれてきた。

物語としては、正直よくできている。よくできすぎている。

そしてこれ、明らかに芝居の影響がある。近松門左衛門の『曽根崎心中』が元禄十六年に出て、心中物が大流行した。心中する男女が「未来は一つ蓮の上に」と誓い合う場面が、当時の観客の頭に焼き付いた。二世の縁、来世で結ばれる、という語彙が民衆の共有財産になった。あんまり流行りすぎて、幕府が心中物の上演を禁じ、心中という語すら使わせず「相対死」と呼ばせたくらいだ。

そこまで浸透した物語装置があれば、目の前の異性の双子を説明するのに使わない手はない。前世で心中した二人だ、と言えば、なぜ二人一緒に生まれたのかが一発で説明できる。しかも情緒たっぷりだ。

問題は、その物語が子どもに何をするか、だ。

心中というのは、当時の法と道徳では罪だった。生き残れば晒し者にされ、死ねば弔いも粗末にされた。その罪人の生まれ変わりだと言われた子は、生まれた瞬間からマイナスを背負わされる。しかも前世の罪だから、本人には反論のしようがない。

さらに悪いことに、この俗信には続きがあった。異性の双子を成長後に実際に夫婦にする習俗が、地域によっては存在したという記録がある。前世で添えなかったのだから、今世で添わせてやろう、という理屈だ。理屈としては筋が通っている。通っているのが恐ろしい。血のつながった兄妹を、俗信の辻褄を合わせるために結婚させる。当人たちの人生は、物語の完結のために使われる。

一方で、まったく逆の解釈も同じ列島に存在していた。腹の中で近親相姦をしていたから一緒に出てきた、という見方だ。同じ「異性の双子」という現象に、心中者の転生という同情的な物語と、胎内で不義を働いたという断罪的な物語の両方が貼りついている。似た発想は日本以外にもあって、サモアには男女の双子は子宮の中で交わったとみなす観念があったと紹介されている。人間、説明のつかないものを見ると、とりあえず性の話にしたがるらしい。

東北――叫び、隠し、そして雪の中で

ここからは土地ごとの顔を見ていきたい。同じ双子忌みでも、風土によって手触りがまるで違う。

東北で目を引くのは、圧倒的に「叫ぶ」系の習俗が多いことだ。岩手の雫石の屋根の棟、秋田の能代の窓辺。どちらも、家の内側から外側に向けて声を放つ形をとっている。雪国の家は閉じている。冬は特に閉じている。その閉じた箱の中に忌みを溜め込むのが怖かったのだろう、という読み方は、たぶんそんなに外していない。

秋田の象潟の、堆肥場に捨てて笑って拾い返す、というやり方も東北らしい。堆肥は、腐らせて肥やしに変える場所だ。死んだものを養分に変える装置と言ってもいい。そこに一度置くというのは、いったん死なせて、生き返らせる、という所作に見える。冷たい言い方をすれば、擬似的な埋葬と復活だ。

宮城の岩出山では、産んで間もない別の母親が片方を引き取って育てた。これは乳の問題が大きかったはずだ。多胎の母親が二人分の乳を出せるとは限らない。粉ミルクなんてない時代に、二人同時に飲ませ続けるのは物理的に無理があった。だから乳の出ている女に預ける。忌みの話と、単純な栄養供給の話が、同じ習俗の中で混ざっている。

そして仙台のあたりに、あの畜生腹という語がしっかり残っている。城下町だ。人と物と言葉が集まる場所に、蔑称も集まる。

福島のいわきでは、双子の片方が死ぬともう片方も死ぬ、という言い伝えが採られている。この「連動する」という観念は、後で全国的な問題として出てくる。

関東――箕と桟俵、そして拾い親という職能

関東の記録は、道具立てがやたら具体的でいい。

栃木の真岡のサンダラボッチ。埼玉の児玉郡の箕。埼玉の比企郡の臼と杵。どれも農具か、米にまつわる道具だ。米の生産に使う道具で赤ん坊を扱う、というのは、子どもを穀物と同じ「実り」として扱う発想の名残なんだと思う。実りなら、蒔き直しもできる。捨て直しもできる。

埼玉の鴻巣に記録された拾い親の慣行は、制度としてかなり成熟している。知り合いに頼んで拾わせ、そのまま育ててもらう。これは要するに、公式ルートではない養子縁組だ。戸籍の外側に、共同体が独自に持っていた子どもの受け渡しの仕組みがある。

栃木の真岡で、近所の裕福な家が後見人になった、という記録も同じ系統だ。金のある家が、忌みごと引き受ける。引き受けた家に、なぜ余裕があったのかというと、当然ながらそれによって得るもの――労働力とか、恩義とか、社会的な体面とか――があったはずだ。ここは民俗誌があまり書かないが、想像はつく。

東京の府中では、双子を同じ服装で育てた記録がある。町田では心中者の生まれ変わりという俗信が採られている。江戸から続く地域で、この二つが並んでいるのが面白い。忌みつつ、同じ服を着せて対等に扱う。矛盾しているようだが、たぶん矛盾していない。この「同じにする」については、次の中部の節でまとめて書く。

茨城の東海村の、男女の双子はより嫌われた、という記録は、心中俗信が実際の差別の強度に直結していた証拠として重い。

中部・東海――「片方が負ける」という、ぞっとする言い方

中部から東海の記録で目立つのが、双子を徹底的に同じにする習俗だ。

長野の諏訪郡では、着物も食べ物も持ち物も、完全に揃える。福井の大野郡では、揃えないと片方が負けることがある、と言われた。岐阜の穂積町では、どちらかが厄負けをする、と信じられていた。

負ける、という言い方に、僕はしばらく引っかかっていた。何に負けるのか。

たぶん、相手にだ。双子は同じ日に同じ腹から出てきた、ほぼ同一の存在として見られている。同一の存在が二つある状態は、この世界観では不安定だ。片方が多く与えられれば、その分もう片方が削られる。ゼロサムなのだ。一人分の運を二人で分けている、という感覚が土台にある。

だからバランスを崩してはいけない。着物の柄も、飯の量も、玩具も、寸分違わず。これは平等主義に見えるが、根っこは呪術的な均衡維持だ。愛情ではなく、事故防止のために揃えている。

そう考えると、長野の茅野で蓑笠を着て双子誕生を告げる習俗も、同じ土地に並んでいるのが腑に落ちる。異界の存在として扱い、均衡を保ち、こぼれ落ちないように管理する。中部山間部の記録には、そういう精密な扱いが多い。

静岡は両極端だ。引佐郡の「犬腹」という直球の蔑称がある一方、志太郡には布団に包んで辻に置き、拾ってもらう救済的な習俗がある。同じ県の中に、罵る言葉と助ける仕組みが同居している。これは静岡に限らず、多胎児伝承の全体的な特徴でもある。忌みと救いは、いつもセットで出てくる。

三重は道具の宝庫だ。志島の蓑笠と白い腰巻、船越の「見にござれ」という呼び声、布施田の草刈鎌、鳥羽の鍋つかみ。海に面した土地ならではなのか、どうも所作が明るい。「見にござれ」なんて、ほとんど祝いの呼ばわりだ。伊勢志摩のあたりは海女の文化が強く、女の労働力が高く評価されていた土地でもある。そのことと、多胎への態度が関係している可能性は考えてみる価値があると思う。

岐阜の国府町では、双子が生まれると「間に合う」と言って喜ばれた記録がある。間に合う、というのは、役に立つ、働き手が二人いっぺんに来た、という意味だ。露骨に実利的で、逆に清々しい。

近畿・中国・四国――言葉の中心地と、藁人形の埋葬

近畿は、この俗信の言語的な震源地に近い。大阪では大正五年に、男女の双子を畜生腹と呼び、前世で心中した者の生まれ変わりとみなす、という報告が採られている。心中物の芝居が生まれ、心中が最も流行した土地だ。俗信と芸能が同じ場所で回っていたことが、この一件でよくわかる。

滋賀の高島郡にも畜生腹の語が残っている。京都大阪から近い地域に語が濃く分布しているのは、やはり中央発の言葉が周辺に染み出した構図だろう。

和歌山では、男の双子を真珠の生まれ変わりと呼んだ記録がある。真珠。海の宝だ。同じ列島で、片方は畜生腹、片方は真珠。この落差を並べて置いておきたい。ちなみに和歌山は真珠の産地であり、二つ並んだ玉が価値あるものとして日常にあった土地だ。目の前にある豊かさのイメージが、双子の解釈にそのまま流れ込んでいる。

四国では、高知の高岡郡に畜生腹の語がある。一方、愛媛の上浮穴郡では三つ子の誕生を喜び、無事な発育を祈願した記録がある。同じ四国で、双子は蔑まれ、三つ子は祝われる。この「三つ子だけ別枠」問題は、この記事の中核なので後でたっぷり書く。

香川の大川郡には、ちょっと忘れがたい記録がある。双子の片方が死んだとき、その棺に藁人形を入れて一緒に埋葬した。

つまり、二人分にして埋める。生きているほうの身代わりを、死んだほうと一緒に土に入れる。理屈はわかる。双子は二人で一組だから、片方だけ死んだ状態は不安定で、残されたほうが引っ張られる。だから偽物を添えて、あの世に行った側に「二人揃った」と思わせる。

わかるのだが、生きている子の目の前で、自分そっくりの藁人形が棺に入れられて埋められる場面を想像すると、これはもう完全にホラーだ。そしてその子は、自分の死の予行演習を見せられたことを、たぶん一生忘れない。

鳥取でも、片方が死ぬともう片方も死ぬ、という言い伝えが記録されている。この観念は福島、鳥取、沖縄と、列島の端から端まで確認できる。距離が離れているのに同じことを言っている。双子を「二つで一つ」と見る感覚は、かなり根の深い、人類共通に近い直感なのかもしれない。

九州・沖縄――ブタゴという語と、離れているのに同じ発想

九州で確認できる呼称の中でも、鹿児島の大島郡の「ブタゴ」はきつい。奄美の島嶼部だ。中央の畜生腹という漢語系の語彙が届く前に、独自に同じ発想の言葉が育ったのか、それとも変形して伝わったのか。どちらにしても、多産の家畜に喩えるという着想が独立に発生しうる、というのが人間のいやなところだ。

沖縄の那覇では、双子の片方が死ぬともう片方も死ぬ、という言い伝えが採られている。福島や鳥取と同じだ。琉球は本土と別の文化圏を長く保っていたのに、この一点では一致する。

沖縄の場合、もう一つ気になる補助線がある。兄妹始祖神話だ。洪水で人類が滅び、生き残った兄と妹が交わって人間の祖になる、という型の神話が、沖縄をはじめ東アジアから東南アジアにかけて広く分布している。この兄妹は、伝承によっては双子として語られる。

つまり南島の世界観には、異性の一対から世界が始まる、というプラスの物語がある。同時に、異性の双子は忌む、という土着の警戒感もある。始祖としては尊いが、今生まれてきたら困る。神話の時間ではよくて、現実の時間ではだめ。この使い分けは、実はどの文化にも見られる基本パターンだ。神話は例外を扱う場所で、日常は例外を排除する場所だから。

沖縄には妹が兄を霊的に守護するオナリ神の観念もある。異性のきょうだいのペアに特別な力を認める文化的土壌が確実にある。だからこそ、そのペアが同時に生まれてくるという事態が、より重く受け止められた可能性は高いと思う。

三つ子は国から褒美が出た。双子だけが割を食っていた

さて、ずっと引っ張ってきた問題に入る。

多胎児が全部嫌われたのか、というと、まったく違う。むしろ古代の日本では、三つ子はめでたいことの最上級だった。

六国史――『日本書紀』から『日本三代実録』までの正史六本――に載っている多胎児の記録を集計した研究がある。それによると、約二百年弱の間に記録されているのは三十七例。そのうち双子はたった一例、二パーセント。三つ子が三十三例で八十九パーセント、四つ子が三例で八パーセント。

見事に偏っている。

そして三つ子以上が生まれると、国に報告することになっていた。国は、その家に褒賞を出した。奈良時代のうちは稲や布や衣服、乳母の派遣など内容がバラついていたが、平安時代には稲三百束と乳母一人、という形にほぼ固定される。制度化されているのだ。

つまり三つ子は、生まれたら役所に届けると米がもらえる、瑞祥だった。同じ多胎なのに、双子は畜生腹で三つ子は稲三百束。この落差は何なのか。

一つの説明として、民俗学者の鎌田久子が提示した数の観念がある。一と三は奇数で、割り切れない。割り切れないから無限に続く、永続する。二と四は偶数で、割れる。割れば零になる。だから奇数は吉、偶数は凶。

数の哲学としてはよくできている。実際、日本の祝儀は奇数が基本だし、三々九度も七五三も奇数だ。二で割れる数を嫌う感覚は、今でも祝儀袋の金額を偶数にしないという形で生きている。

ただ、僕はもう少し実務的な理由もあると思っている。三つ子は、当時の医療環境でまず生き延びない。生まれてもすぐ死ぬ。だから相続争いにも口減らしにも発展しない。純粋に「珍しい出来事」として消費できる。国も安心して褒美を出せる。

双子は違う。二人とも育つ。育ってしまう。育つから家督が割れ、田が割れ、飯が二人分要る。現実の負荷がかかるのは双子のほうなのだ。

これは冷たい見方だが、記録の偏りをかなりうまく説明する。祝われるのは「起きても実害のない奇跡」で、忌まれるのは「実害のある日常」だ。

もう一つ、古代の記録には気になる偏りがある。褒賞を受けた記録に名を残す人物のうち、およそ三分の一が外国系の名を冠している。新羅の女、漢人部、百済の名を持つ女性たち。渡来系の人々の出生が特に記録に残りやすかったのか、実際に多かったのか、それとも人口増加政策の宣伝として渡来系の家を持ち上げる意図があったのか。研究者の間では、政治的配慮と人口増加政策の関係が指摘されている。国が人を増やしたい時代には、たくさん産むことは国策上の善だったわけだ。

江戸時代になっても三つ子尊重は続く。滝沢馬琴が『兎園小説拾遺』で、男子の三つ子は天下の吉事だ、と書いている。江戸後期の知識人の記録にもそう残る。神谷養勇軒という江戸前期の人物も、三つ子の出生を非常に喜ぶべきものとして書き残している。

千年以上にわたって、三つ子は吉。双子は、土地によっては犬腹。この一貫した不公平が、双子忌みの正体を考えるうえでいちばん重要な手がかりだと思う。

語り一――「あの人には、もう一人いたんだよ」

ここから三つ、読み物として立ててみたい。いずれも各地の採集記録に繰り返し出てくるモチーフを組み合わせて再構成したものだ。特定の家や個人の話ではない。ただ、こういう形の記憶が各地の民俗調査で何度も拾われている、ということだけは確かだ。

戦前の農村。調査に来た若い民俗学徒が、縁側で老婆から話を聞いている。話題は産の忌みのことだったのだが、途中で老婆がふっと黙る。

そして、あの家にはもう一人いたんだよ、と言う。

若いころ、隣の家に双子が生まれた。産婆が来て、二人目が出てきたとき、家の中の空気が止まったという。父親は何も言わずに外に出て、しばらく帰ってこなかった。その晩のうちに、片方が布団にくるまれて、道の辻に置かれた。

置かれた、と老婆は言う。捨てられた、とは言わない。

翌朝、決めてあった家の者が通りかかって、拾い上げた。段取りは済んでいた。拾った家の名前も、老婆は覚えている。ただ、調査者には言わなかった。

その子は、拾った家の子として育った。名字が違う。学校では同じ教室にいたこともあった。顔がそっくりだから、村の者はみんな知っていた。知っていて、誰も言わなかった。

大人になってから、二人が親しくしていたかどうかは、老婆にもわからない。ただ、片方の葬式のときに、もう片方が来て、いちばん後ろに立っていた、と。喪主の親族の列には入らずに、後ろに立っていた。

老婆はそこまで話して、あれはかわいそうなことだった、と言った。かわいそうなことだったが、あのころはそうするしかなかった、とも言った。

この「そうするしかなかった」という言い方が、民俗の聞き書きには本当によく出てくる。個人を責めれば済む話ではない、という自覚と、それでも間違っていたという痛みが、同じ一言に詰まっている。僕はこの手の証言を読むたびに、怒る先を見失う。

語り二――名字の違う、同じ顔

こちらは、里子に出された側の記憶として繰り返し語られてきたパターンだ。

その人は、自分に双子のきょうだいがいることを、十歳を過ぎるまで知らなかった。育ての家は優しかった。特に苦労もなかった。ただ、村の年寄りが自分の顔を見て一瞬止まる、その一瞬の意味がわからないまま育った。

知ったのは、法事の席だったという。誰かが酔って口を滑らせた。あんたとあの子は同じ日に生まれたんだよな、と。

家に帰って育ての親に聞いたら、黙って頷かれた。それだけだった。詳しい説明はなかった。説明する言葉を、たぶん誰も持っていなかったのだと思う。

その後、実の家に行ったかというと、行かなかった。行けなかった、という言い方もしている。育ててくれた家への義理があった。実の家にも、いまさら来られても困るという空気があった。誰も悪くないのに、誰も動けない。

一番きつかったのは、恨む相手がいないことだったという。親は生活が苦しかった。周りは当時の常識に従っただけだった。忌みという理由自体は、本人が生まれるずっと前から村にあった。

自分の人生の形を決めた原因が、誰の意志でもなく、ただの空気だった。

こういう証言が民俗調査に残るのは、実はそんなに多くない。というのは、当事者はたいてい黙るからだ。話せば育ての家が傷つき、実の家も傷つく。共同体全体が加害者になってしまう。だから飲み込む。飲み込まれた話の量は、記録に残った量の何十倍もあるはずだ。

そのことを考えると、資料の薄さそのものが、この風習の重さの証拠に見えてくる。

語り三――産婆が最後まで言わなかったこと

三つ目は、産婆の側の話だ。取上婆と呼ばれた女たちは、村の生死の結節点にいた。

昭和の初め頃まで、農村の産婆は資格を持った助産婦とは限らなかった。経験を積んだ年配の女が、代々その役を担っていた。彼女は、家の中でいちばん最初に「二人目がいる」と気づく人間だ。

そして、いちばん最初に判断を求められる人間でもある。

聞き書きに残る産婆の語りは、たいてい途中で止まる。よその家のことだから、と言って止める。昔はいろいろあった、とだけ言って止める。名前は絶対に出さない。

ただ、ある種の言い回しは共通して出てくる。手を貸したことはない、という言い方だ。手を貸した、とは何を指すのか。調査者はそれ以上聞かない。聞けない。

そのかわりに、彼女たちは別のことをよく話す。どうやって生かしたか、だ。乳の出る家を探して回った話。拾い親を頼み込みに行った話。役場の帳面をどう書くかで相談した話。同じ日に生まれたことにしないほうがいい、と入れ知恵した話。

つまり彼女たちは、忌みという壁と、目の前の赤ん坊のあいだで、可能な限りの抜け道を探す役をやっていた。共同体の掟の執行者でありながら、同時に掟を骨抜きにする実務者でもあった。

産婆という存在の位置は、民俗学でも独特の扱われ方をする。産の穢れという最も強い忌みに触れる仕事であるがゆえに、共同体の中で敬われつつ差別もされる、両義的な立場に置かれた。血に触れる者は、聖でもあり穢でもある。近世の産育儀礼を扱った研究では、取上婆が被差別的な文脈と結びついていた例も指摘されている。

その両義的な女たちが、双子の生死の分かれ目に立っていた。この構図は、覚えておく価値があると思う。

産の忌み――そもそも出産自体が「まずいこと」だった

ここまで読んで、そもそもなんでこんなに厳重なんだと思った人がいるはずだ。答えは単純で、双子でなくても出産そのものが強烈な忌みだったからだ。

徳島で採られた記録が具体的でわかりやすい。まず火を分ける。産火といって、出産のあった家の火で煮炊きしたものは他人が口にしてはならない。この習慣は七日から一か月続く。産火だからと言って、来客に茶さえ出さない家もあった。

期間の内訳も細かい。家族は七日、厳しい家では一か月。生まれた子は宮参りの三十三日まで。産婦にいたっては七十日から七十五日。二か月半近く、忌みの中にいる。

そして出産直後の三日間は「血が若い」といって、穢れが最も強いとされた。産婦と生児は七日間、奥の部屋から出られない。便所に行くのも制限され、部屋の窓の下に桶を置いてそれで済ませる例もあった。

出産のケガレは死んだときよりもきつい、という言い方まで記録されている。死よりきつい。

現代の感覚だと理解しづらいが、当時の「ケガレ」は道徳的な汚さではなく、エネルギーの過剰さに近い。生と死が動く現場は危険だから隔離する、という発想だ。実際、出産は母子ともに死ぬ確率がめちゃくちゃ高い場面だった。危険な現場に近寄るな、という実用的な指示が、宗教的な言語で保存されている面はあると思う。

さて、この平常運転が「死よりきつい忌み」なのだ。そこに双子が来る。

普通の出産でも七十日間隔離される世界に、想定外の出来事が乗る。忌みは加算される。だから屋根に上って三度叫ばなければならないし、蓑笠を着なければならないし、堆肥場に置いて笑わなければならない。過剰な儀礼は、過剰な忌みの裏返しだ。

二人目の飯が、本当に無かったという話

ここで、いちばん散文的で、いちばん重い理由に触れておく。

金だ。というか、飯だ。

近世の農村では、家が養える人数に上限があった。田の広さが決まっていて、年貢が決まっていて、労働力と扶養人口の釣り合いが崩れると家が潰れる。子どもは労働力になるまで何年もかかる。その間はただの消費者だ。

だから間引きがあった。子返し、とも呼ばれた。返す、という言い方をする。神仏のところに一度返して、次の機会にまた来てもらう、という理屈だ。この語感が、僕はずっと苦手だ。優しく聞こえるのが苦手なのだと思う。

各地の寺には、間引きを戒める絵馬が残されている。群馬の太田にある青蓮寺の絵馬などは、その代表としてよく知られている。産室で子を押さえつける女と、その背後に浮かぶ鬼の影、といった構図で描かれる。わざわざ絵にして寺に掛けて戒めなければならないほど、日常的にあったということだ。

藩の側も手を打っている。陸奥の二本松藩などは、赤子養育仕法という制度を作って、生まれた子を育てる家に手当を出した。人口が減ると年貢が取れないからだ。人道と経済がきれいに一致した珍しい例かもしれない。

この文脈に双子を置くと、事情は残酷なくらいはっきりする。二人同時に来る。乳が足りない。飯が足りない。田は増えない。しかも母体は消耗している。

だから、家の外に出す。里子に出す、養子に出す、拾い親を立てる。これらは全部、経済的な圧力に対する現実的な処理だ。

そして、そこに「忌み」という言葉が乗る。

僕はここが、この風習の一番いやらしいポイントだと思っている。経済的に養えない、というのはただの現実で、誰の心も救わない。だが、あれは畜生腹だから、心中者の生まれ変わりだから、忌みだから分けなければならない、と言い換えると、決断が儀式になる。良心の負担が軽くなる。

差別の言葉は、しばしば経済的な決断の免罪符として発明される。畜生腹という四文字は、そのために存在していた側面が確実にある。

世界も似たようなことをやっていた、という救いのない事実

日本だけの話にしておければ楽なのだが、そうはいかない。

西アフリカのナイジェリアには、双子の出生率が世界でも際立って高いとされる地域がある。ヨルバの人々が多く住む地域で、食生活のヤムイモに含まれる成分が二卵性双生児の発生率を押し上げているという説明がされてきた。そしてこの地域には、かつて双子の誕生を災いとみなし、生まれた時点で命を奪うことがあったという記録が残っている。

その同じヨルバ文化が、現在では双子を守り神として崇める。イベジと呼ばれる双子の像を彫り、片方が亡くなればその像を身につけて世話をする。忌避から崇拝へ、反転している。この反転が起きた経緯は複雑だが、少なくとも「双子を特別視する」という土台は同じで、プラスに振れるかマイナスに振れるかは文化の側の都合次第だということがよくわかる。

西アフリカのコンコンバの人々の間には、双子の誕生を悪霊や邪術師の仕業と解釈する見方があったと紹介されている。スーダンのディンカの人々には、双子は成長して親を殺す、という予言的な見方があったという記録がある。

太平洋に目を向ければ、サモアには男女の双子は子宮の中で交わっていた、とみなす観念があった。日本の異性双子観と発想がほぼ同じだ。地理的にも文化的にも関係のない場所で、同じ結論に到達している。

ヨーロッパも他人事ではない。中世には通常と異なる出生を異端視する空気があり、王侯貴族の世界では相続争いを避けるために双子の片方を隠したり幽閉したりした話が繰り返し語られる。鉄仮面の伝説がその代表だ。フランス王の双子の兄弟が仮面をかぶせられて幽閉された、という筋書きが人々を惹きつけ続けたのは、そこに「双子は権力の敵だ」という共通了解があったからだろう。

一方で、双子を積極的に神聖視する文化も山ほどある。ローマ建国のロムルスとレムス。インド神話のアシュヴィン双神。世界の神話には双子神が溢れている。ただし、その物語の多くで双子は最終的に争う。ロムルスはレムスを殺す。神話が双子に与える基本の筋書きは「二人はいずれ争う」なのだ。

これが本質に近いのかもしれない。双子を忌む文化も、双子を崇める文化も、共通して「同格の二人が並存する状態は不安定だ」と考えている。崇めるほうは、その不安定さを神の力として扱う。忌むほうは、その不安定さを災いとして扱う。処理の方向が逆なだけで、感じている居心地の悪さは同じだ。

同じ列島の中に真珠の生まれ変わりと犬腹が同居していたのは、だから偶然ではない。同じ一つの違和感が、右にも左にも振れうるというだけの話だ。

「うちは祝った」と言う土地の記録

忌みの話ばかりだと片手落ちなので、はっきり祝っていた記録も並べておきたい。

福井の坂井郡では、双子が生まれると一族全員が集まって祝った。集落単位の祝いだ。忌んで隠すどころか、集めている。

岐阜の国府町では「間に合う」と言って喜んだ。働き手が二人来た、と。

和歌山では男の双子を真珠の生まれ変わりと呼んだ。

愛媛の上浮穴郡では三つ子の誕生を喜び、無事な発育を祈願した。石川の加能地方でも、三つ子は大変めでたいという記録が採られている。

そして全体の傾向として、西日本のほうが多胎児の出生を喜ぶ事例がやや多い、という指摘がある。ただし、同じ地域の中に肯定的な事例と否定的な事例が混在する場合も珍しくない。

これが実際のところなのだと思う。日本全国が双子を忌んでいた、というのは端的に間違いだ。忌んだ土地があり、祝った土地があり、同じ土地の中でも家によって違い、時代によって変わった。

そして日本の多胎児伝承の事例を網羅的に集めた研究では、出生後の習俗だけで三百件を超え、出生前の伝承まで含めると六百件を超える事例が確認されている。六百件だ。それだけ多様なものを、一言で「日本では双子は忌まれた」と要約するのは、乱暴が過ぎる。

僕がこの記事で書いているのも、その六百件のうちの、目を引く部分を拾ったものにすぎない。そこは正直に置いておきたい。

忌みが消えていくまでの、意外と長い道のり

さて、この風習はいつ、どうやって薄れたのか。

まず法律が先に動いた。近代国家は戸籍を作った。戸籍は、生まれた順に長男・二男と機械的に決める。腹の中の位置がどうだったかなど関知しない。ここで、逆順の慣習は公式には無効になった。

次に医学が動く。妊娠と出産のメカニズムが説明されるようになる。一卵性と二卵性の区別がつくようになる。腹の中で先に宿ったほうが奥にいるという理論が、単純に間違いだと言えるようになった。昭和十四年の医学書が、あれは妊娠の実際を知らぬ空論だと切って捨てているのがその証拠だ。

そして三つ目に、生活が動いた。出産の場が家から病院に移った。産婆が助産婦になり、助産師になった。産室が家の奥の一間ではなくなった時点で、産の忌みという体系そのものが足場を失う。火を分ける必要も、七十日隔離する必要もなくなる。宿主が消えれば寄生していた俗信も消える。

各種の記録を見る限り、双子への偏見が本当に力を失っていったのは昭和三十年代あたりからだ、という見方がある。戦後だ。案外遅い。

そして、その途中には嫌な時代も挟まっている。近代の日本には優生思想が入ってきた。国が「良い子孫」と「悪い子孫」を区別する発想だ。この時期、出産にまつわる古い忌みは、迷信として否定される一方で、別の形の選別に置き換えられた面がある。迷信を捨てたはずの近代が、もっと組織的で、もっと効率的な差別の道具を持ってきた、という皮肉な構図だ。

古い迷信が消えることと、差別が消えることは、まったく別の話だった。ここは太字にしたいくらい強調しておきたい。

一方で、近代のマスメディアには逆の作用もあった。三つ子や四つ子が生まれると新聞が報じ、写真が載り、祝いの品が届く。多胎児が「珍しくてめでたいニュース」として消費されるようになると、忌みの側面は相対的に押し出される。近代の三つ子祝いは、古代の稲三百束の系譜を、新聞という新しい媒体で継いだものと言えなくもない。

数字のほうから見ると、状況は完全にひっくり返っている

現代の数字を置いておく。

日本の多胎分娩の頻度は、おおむね全分娩の一パーセント程度で推移している。一九九六年から二〇〇〇年で〇・九七パーセント、二〇〇一年から二〇〇五年で一・一二パーセントとピークを打ち、二〇〇六年から二〇一〇年で一・〇七パーセント、二〇一一年から二〇一五年で〇・九九パーセント。

このピークの山が何かというと、不妊治療だ。排卵誘発剤や体外受精で複数の胚を戻す治療が広がった時期に、多胎の割合が明確に上がっている。その後、移植胚の数を制限する方向に医療のガイドラインが動いたことで、数字は落ち着いた。

つまり現代の日本では、多胎児がどれくらい生まれるかを、ある程度人間の側がコントロールできてしまう。この事実は、かつて「畜生腹」と罵られた現象が、いまや医療の設計変数になっているという、なかなかの落差を示している。

さらに、三つ子や四つ子以上の割合が、統計理論から予測される値より高い。これは医学の進歩で、複雑な多胎妊娠でも母子が生きて出てこられるようになったからだ。古代なら「生まれてすぐ死ぬから安心して祝えた」三つ子が、今は普通に全員育つ。稲三百束では全然足りない。

育てるほうは、いまだにめちゃくちゃ大変だという現実

ここが大事なところで、忌みが消えても、多胎育児の負荷そのものは消えていない。

多胎家庭に関する調査では、育児中にネガティブな感情を持ったと答えた割合が九割を超えるという結果が出ている。九割だ。愛情の問題ではなく、物理の問題だと思う。授乳の回数が単純に倍。二人が同時に泣く。片方をあやせば片方が泣く。外出しようにも、大人が二人いないと公園にすら連れて行けない。感染症が流行れば二人続けて倒れる。

そして重い数字がある。多胎育児家庭における虐待死のリスクが、単胎家庭の数倍にのぼるという報告がされている。二〇一八年に起きた痛ましい事件をきっかけに、この問題が社会的に注目されるようになった。

国が多胎妊産婦への支援に予算を計上したのは、二〇二〇年度が初めてだ。二〇二〇年度。ついこの間だ。産前・産後サポート事業の枠組みの中に多胎家庭向けの項目が入り、自治体が実施する交流会や訪問支援に国が費用の一部を補助する形になった。

当事者団体も動いている。多胎児の家庭同士をつなぐピアサポートの仕組みや、オンラインでの相談の場が全国規模で育ってきた。同じ経験をした親が話を聞く、という形は、この分野では特に効く。単胎の親には「大変だね」としか言いようがないことが、多胎の親同士なら一秒で通じるからだ。

ここで、僕はどうしても江戸の産婆のことを思い出す。乳の出る家を探して回り、拾い親を頼み込みに行った、あの人たちのことだ。

やっていることは、実はそんなに違わない。二人同時に来た子を、一つの家だけで抱えるのは無理だ、だから外から手を入れる。この認識自体は、江戸の村も現代の自治体も同じだ。

違うのは、そのときに「畜生腹だから」と言うか、「支援が必要だから」と言うかだ。

同じ現実に対して、どういう言葉を用意するか。それだけの差で、子どもの人生と親の尊厳がまるごと変わる。数百年かけて人間が獲得したのは、たぶんその言葉の作り替えだ。

ネットではこの話がどう扱われているか

この話題、ネット上ではかなり流通している。知恵袋にも掲示板にも、双子は昔忌み子だったって本当ですか、という質問が定期的に立つ。歴史系のポッドキャストでも取り上げられているし、創作の題材としても人気がある。忌み子、双子、里子、逆順の兄弟。物語に使いやすい素材が揃いすぎている。

流通している主張には、いくつかの定番がある。

まず「日本では双子は全国的に忌まれていた」という総括。これは、さっき書いたとおり単純化しすぎだ。祝った土地が確実にある。同じ県内で正反対の記録が出てくる。全国一律の忌避があったという像は、資料の実態と合わない。

次に「先に生まれたほうを弟にした」という話。これは実在する。明治の慣例調査に載っている。ただし、これも全国普遍ではない。地域慣習として記録されているのであって、日本中がそうしていたわけではない。

三つ目に「男女の双子は前世の心中者の生まれ変わり」。これも実在する。しかも各地で採集されている。ただし、江戸のいつから広まったのかを正確に押さえた資料は見つけにくい。心中物の流行との関係は状況証拠としてかなり強いが、因果関係を証明した研究を僕は確認できていない。ここは「たぶんそう」の域だ。

四つ目に、武家や大名家では双子は片方を隠した、という説。よく語られるし、家督相続の理屈からしてありそうな話ではある。ただ、具体的な家名と史料をセットで示した記述には、なかなか行き当たらない。「そういう話がある」という形で流通しているのが実情だ。この手の、いかにもありそうで検証しにくい話は、扱いに注意したほうがいいと思っている。

五つ目に、皇室や有名人にまつわる双子の噂の類。これはもう、実証以前の問題として触れない。存命の家系や個人を巻き込む話を、面白がって拡散するのは単純に筋が悪い。

それから、反証というか、冷静な指摘として重要なのが「忌みの記録が多く残っているのは、忌みが珍しくて記録に値したからかもしれない」という視点だ。民俗調査は、変わった習俗を優先的に拾う。何もしなかった家、普通に二人育てた家は、記録されない。だから資料の中では忌みが過剰に見える可能性が常にある。

この見方は、けっこう強いと思う。実際、双子を普通に育てた家のほうが数としては多かった可能性は十分ある。ただ、その「普通に育てた家」も、畜生腹という語が存在する社会の中にいた。悪意ある言葉が流通しているというだけで、当事者にとっては十分な圧力だ。実行されたかどうかとは別に、言葉が存在すること自体が加害になる。ここは切り分けて考えたい。

ネット上の考察でもう一つ面白いのが、この風習を現代の何かに重ねる読み方だ。同格の二人を並べておけない社会、という構造は、双子に限らずいろんな場面で見つかる。組織の中で二番手を作らない話とか、そういうところに引きつけて語られる。無理筋な連想も多いが、双子忌みの本質が「同格の二つを許せない不安」にあるという直感自体は、そんなに外していないと思う。

で、なぜこの話はこんなに怖いのか

理由を三つに絞って書く。

一つ目。加害者がいない。

呪いをかけた悪い誰かがいない。祟る妖怪もいない。あるのは、飯の量と、田の広さと、家督の一本化と、みんながなんとなく信じていた言葉だ。誰も殺意を持っていないのに、子どもの人生が二つに割れる。この、悪意なしで人が損なわれていく構造が、怪談よりずっと怖い。怪談には少なくとも敵役がいる。

二つ目。理屈が通っている。

先に宿ったほうが奥にいるから後から出る、という説明は、当時の知識では合理的だ。二人揃えないと片方が負ける、という発想も、内在的には筋が通っている。前世で心中したから一緒に生まれた、という物語も、情緒として完成度が高い。

理屈が通っていると、人は従う。そして従った結果として、目の前の赤ん坊が辻に置かれる。理性が機能した結果としての残酷、というのが一番救いがない。

三つ目。これが遠い昔の話ではない。

昭和十四年の医学書がまだ俗信を批判していた。昭和三十年代まで偏見が残っていたという見方がある。国が多胎家庭の支援に予算を付けたのは二〇二〇年度だ。地続きなのだ。曽祖父母の代の話であり、支援の枠組みに関しては現在進行形の話ですらある。

そして、なぜこの忌避が生まれたのか、という問いへの僕なりの答えを書いておく。

社会が「一人分の場所」しか用意していなかったからだ。

家の跡取りの席は一つ。乳の出る量は一人分。田を分けられる回数は限られている。名前を継げる人間は一人。この社会設計の中に、同時に二人が来た。

社会は、設計を変えなかった。子どものほうを削った。

片方を弟にして序列をつけ、片方を外に出して家から抜き、片方に別の名字を与えて系図を分けた。あらゆる手段を使って、二人を一人分の枠に押し込めた。その作業を正当化するために、畜生腹という言葉と、心中者の生まれ変わりという物語が動員された。

言葉が先にあって差別が生まれたのではない。枠が先にあって、はみ出したものを削るために、言葉が呼ばれた。

だから僕は、この風習を昔の人の無知の話としては読めない。枠を変えずに人を削る、という判断は、形を変えて今でもそこら中にある。

全国一律なんかじゃなかった。びっくりするほど、まだらだった

ここからは腰を据えて書く。本体で書き切れなかったこと、ずっと喉に引っかかっていたこと、調べ終わってから考えが変わった部分をまとめて置いていく。

まず、この取材で一番驚いたことから。双子忌みは、思っていたよりずっと「まだら」だった。

取材前の僕のイメージは、たぶん多くの人と同じで、日本中が双子を不吉だと考えていて、片方を捨てたり殺したりしていた、というものだった。だが実際に採集記録を並べていくと、その像はかなり崩れる。同じ多胎児伝承の中に、犬腹という蔑称と、真珠の生まれ変わりという美称が、同じ列島の中で共存している。三つ子は千年以上ずっとめでたい。西日本のほうが祝う事例がやや多いという傾向はあるが、同じ地域の中に肯定と否定が混在する例も普通にある。

これは、僕たちが「昔の日本」を一枚岩で想像しすぎているということでもある。江戸の村と隣の村では、水の分け方も年貢の重さも婚姻の範囲も違った。子どもの扱いだけが全国一律であるはずがない。

そのうえで、それでも畜生腹という語が仙台にも戸田にも高島にも高岡にもあった、という事実は重い。地域慣習は割れていても、罵る語彙だけは共有されていた。これは何を意味するか。

たぶん、実際の対応は各地でバラバラだったが、「多胎は普通ではない」という感覚だけは全国で共有されていた、ということだ。感覚は共有され、対処法はローカルに分岐した。忌みの本体は感覚のほうにあって、屋根に上って叫ぶとか堆肥場に置くといった所作は、その感覚に対する各地の応答でしかない。

だとすると、本当に追跡すべきなのは所作ではなく感覚のほうになる。なぜ多胎を「普通ではない」と感じるのか。

僕の考えでは、これは数の問題ではなく、同一性の問題だ。

人間は、個体を区別することで世界を扱っている。名前がつくのは一人ずつだ。責任も一人ずつだ。財産も一人ずつだ。ところが双子は、その一人ずつという前提に穴を開ける。特に一卵性の場合、外見で区別がつかない。区別がつかないものが二つある状態は、社会の記録装置にとって取り扱いが難しい。

だから、社会は必死で差をつけようとする。兄と弟にする。名字を分ける。片方を外に出す。同じ服を着せるという逆方向の対処もあるが、あれは「差をつけないことで均衡を保つ」というやり方で、要は同じ問題に対する別解だ。差をつけるか、完全に同一にするか。中途半端が一番不安定だから、どちらかに振り切る。

福井の大野郡の「片方が負ける」という言い方は、この不安定さの直接的な表現だと思う。二人の間にわずかな差があると、その差が拡大して片方を食い尽くす。だから寸分違わず揃える。着物の柄まで揃える。

これ、現代の双子育児でも、実はよく議論になる話だ。同じ服を着せるべきか、違う服にすべきか。同じ習い事をさせるか、分けるか。同じクラスにするか、別のクラスにするか。悩みの形が、驚くほど江戸の農村と同じなのだ。もちろん今の親が悩んでいるのは呪術的な均衡ではなく、個性の尊重と公平さのバランスなのだが、問題の構造は「同格の二人をどう扱うか」でぴたりと重なる。

数百年前の呪いと、今日の育児書の悩みが同じ形をしている。これはちょっとすごいことだと思う。忌みという上着を脱がせると、下から出てくるのは普遍的な難問だった。

歯切れの悪かったところを、正直に書く

嬰児殺しの話だ。

多胎児をめぐる習俗を扱う以上、この話題は避けられない。だが資料の状況は非常に難しい。民俗誌に残っているのは、あくまで「形式的に捨てて拾う」までだ。拾い親が用意され、育ての家が決まっている。これは殺すシステムではなく、生かすシステムとして記録されている。

一方で、間引きが広く行われていたことは、寺に残る戒めの絵馬や、藩が作った赤子養育の制度が逆説的に証明している。わざわざ絵にして戒め、金を出して育てさせなければならないほど、日常的にあった。

では、多胎の場合に間引きの対象になりやすかったのか。これについて、僕は確実な数字を見つけられなかった。たぶん存在しない。記録されないことは、記録されないからだ。

戦後になっても双子をめぐって事件が起きたという記述には行き当たるが、これも具体的な事件を特定できる形では確認できなかった。この手の「あったらしい」は、慎重に扱うべきだと思っている。実際にあった悲劇を軽く扱うのも、なかったことを事実として広めるのも、どちらも良くない。

だから僕はこの記事で、そこを断定していない。断定できるだけの材料がないからだ。ただ、断定できないという事実そのものが、この問題の性質を語っているとは思う。誰も書かなかった。誰も書けなかった。共同体の全員が関与していたことは、告発の主体が存在しないから記録に残らない。

そのうえで、はっきり書いておきたいことがある。この記事は、当時の判断を弁護するために書いていない。事情があった、という説明と、仕方がなかった、という肯定は、まったく別のものだ。飯が足りなかったことは事実で、家が割れると全員が困ったのも事実で、それでもなお、選ばれなかった側の子どもの人生は取り返しがつかない。事情の説明は、その取り返しのつかなさを一ミリも埋めない。

そこを混ぜないことだけは、この題材を扱ううえでの最低限の作法だと思っている。

「奥にいたほうが兄」は、じつは便利な建前だったのでは

逆順の兄弟について、もう少し掘る。

明治十三年の慣例調査に相模国の例として載っている、というのが確実な足場だ。ここから逆算すると、少なくとも幕末から明治初期の関東の一部で、この慣習が実務として通用していた。

面白いのは、この慣習が「奥にいるほうが先に宿った」という胎内の構造に根拠を求めている点だ。これは、当時の人々が妊娠を空間的に理解していたことを示している。腹の中に順番に物が入っていく容器のイメージだ。

そしてこの理屈には、実は使い道があった。というのも、この理屈を採用すると「兄になるべき者」を人為的に選べる余地が生まれるからだ。生まれた順という誰の目にも明らかな事実ではなく、腹の中で先に宿ったのはどちらか、という誰にも検証できない基準を採用する。検証できないということは、決める側の裁量が効くということだ。

うがった見方をすれば、家の側にとって都合のいい子を兄にできる仕組みだったのではないか。体格の良いほう、健康そうなほう、あるいは単に親が気に入ったほうを兄にする。そのための建前として、胎内の位置という便利な理屈が用意されていた。

これは僕の推測で、資料的な裏付けはない。ただ、家の存続が最優先だった社会で、跡取りを選ぶ裁量を確保したいと考えるのは自然だ。逆順の慣習が「先に生まれた者を必ず弟にする」という機械的なルールとして記録されている一方で、実際の運用では例外や調整があった可能性は、頭の隅に置いておきたい。

そして近代国家は、この裁量を潰した。戸籍は先に出たほうを兄とする。これは、家の裁量を国が取り上げる作業でもあった。近代化とは、こういう細かい裁量の剥奪の積み重ねだ。

悪口なら言い返せる。物語には言い返せない

心中俗信について、もう一段考えたことがある。

この俗信は、よく考えると異常に優しい。

前世で愛し合っていた二人が、この世で結ばれず、死んで、それでも離れたくなくて、同じ腹に宿った。これは物語として、ほとんどラブロマンスだ。

にもかかわらず、この物語を貼りつけられた子どもは差別された。ここに大きなねじれがある。

なぜ美しい物語が差別に使われたのか。

一つには、心中が罪だったからだ。江戸の法では心中は処罰の対象で、生き残れば身分を剥奪されて晒された。死んだ二人の遺体も丁重には扱われなかった。だから「心中者の生まれ変わり」は、罪人の生まれ変わりを意味する。物語の中身がロマンチックでも、社会的な評価としては前科者だ。

もう一つ、これがたぶん本質なのだが、この俗信は子どもを「前世の物語の続き」に閉じ込める。生まれてきた子には、自分の人生の主導権がない。二人の関係は、生まれる前から決まっていることになっている。だから結婚させるという発想まで出てくる。

人に物語を与えることは、人から自由を奪うことでもある。それが美しい物語であっても、いや、美しい物語であればあるほど、逃げにくい。

これは現代でも通じる話だと思う。誰かに強い物語を貼りつけて、その物語のとおりに生きることを期待する。悪意はない。むしろ好意的な物語であることも多い。それでも、貼られたほうは息が詰まる。

心中俗信のいやらしさは、悪口ではなく物語だったところにある。悪口なら反論できる。物語には反論できない。

珍しすぎるものは畏れられ、そこそこ多いものが管理される

三つ子と双子の非対称について、本体で書いた仮説をもう少し詰めておく。

古代の正史に載る多胎の記録が三つ子ばかりで、双子がほぼ載らないという偏りは、僕は記録の側の性質だと考えている。

つまり、双子は珍しくなかったのだ。多胎の中で双子が圧倒的多数なのは今も昔も同じで、当時も百人に一人くらいの割合で生まれていたはずだ。百人に一人なら、村に何組かいる。珍しくないものは、正史に載らない。

三つ子は桁違いに珍しい。だから記録され、褒賞の対象になり、瑞祥として扱われた。

そして、珍しくないもののほうが差別の対象になる、というのがこの構図の重要な点だ。滅多にないものは、奇跡として処理できる。それなりに頻繁にあるものは、社会が制度として対処しなければならない。制度としての対処が必要になったとき、そこに序列と排除が発生する。

これは、差別一般に言えることかもしれない。本当に例外的なものは畏怖される。適度に多いものが、管理の対象になり、蔑称を与えられる。

稲三百束と乳母一人という、平安時代の固定された褒賞の内容も、この線で読むと納得がいく。制度として定型化しているということは、それなりの頻度で発生していたということだ。三つ子でさえ制度化されるくらいには起きていた。だが年に何度も起きるほどではないから、褒美を出しても財政が傾かない。ちょうどいい珍しさなのだ。

双子は、褒美を出していたら財政が持たない。だから制度は作られず、各家庭の問題として放置され、放置されたところに忌みの言葉が生えた。

忌みを殺したのは、啓蒙でも科学でもなかった

本体に入れるか迷って外した話がある。双子忌みと「家」の消滅の関係だ。

この風習を支えていた最大の柱は、家督相続の一本化だった。家という装置が、二人の同格の子を許せなかった。

では、家が力を失ったら、どうなるか。

戦後の民法改正で、家督相続は廃止された。均分相続になった。子どもは全員が平等に相続する。長男が家を継ぐという仕組みが法的には消えた。

このタイミングと、双子への偏見が力を失っていったとされる昭和三十年代が、かなり近い。

医学の進歩も、出産の病院化も、確かに効いている。だが僕は、家督相続の廃止こそが決定打だったのではないかと思っている。二人が同格でいることが、法的にも実務的にも問題でなくなった。問題でなくなれば、対処する必要もない。対処する必要がなければ、忌みも要らない。

忌みは、困りごとの副産物だった。困りごとの原因が制度ごと撤去されたとき、忌みは支えを失って崩れた。

この見立てが正しいなら、双子忌みを消したのは啓蒙でも科学でもなく、制度改革だったことになる。人の心が進歩したから差別がなくなったのではない。差別する理由がなくなったから、心のほうが後から追いついた。

身も蓋もない話だが、たぶんこれが実際に起きたことだと思う。そして差別をなくしたい人間にとって、これはむしろ希望のある話でもある。心を変えるのは難しいが、制度は変えられるからだ。

改札を通れないベビーカーの話で終わる

最後に、現代の話に戻したい。

いま、双子は完全に肯定的な存在だ。テレビにも出るし、動画配信でも人気だし、双子あるあるという定番のコンテンツジャンルまである。似た顔が二つ並んでいる映像は、単純に目を引く。かつて忌まれた「同一性」が、今はコンテンツとしての強みになっている。

これは反転だ。ナイジェリアのヨルバで、双子殺しの記憶を持つ文化が双子を守り神として崇めるようになったのと、構造的には同じ反転かもしれない。特別視という土台は変わらず、符号だけがひっくり返る。

だが、符号がプラスになったからといって、特別視されること自体が消えたわけではない。双子の当事者が、いつも二人セットで語られることや、区別されないことにうんざりする、という話は今でも普通にある。同じ服を着せられ、同じ扱いをされることへの違和感は、江戸の均衡の呪術とは別の文脈で、いまも生きている。

そして育児の負荷は、なにも軽くなっていない。ネガティブな感情を持ったことがあると答える多胎の親が九割を超えるという数字と、虐待死のリスクが単胎の数倍という報告は、この社会がまだ「一人分の枠」しか用意していないことの現れだ。ベビーカーが通れない改札。抱っこ紐は一つしか売っていない。保育園の申し込みは一人ずつ。エレベーターの位置。全部、一人ずつ生まれてくる前提で設計されている。

二〇二〇年度に、国がやっと予算をつけた。ついこの間だ。

つまり、この話は終わっていない。畜生腹という言葉は死んだ。逆順の兄弟も消えた。辻に置いて拾ってもらう儀式も、もう誰もやらない。

でも「同時に二人来ると社会が対応しきれない」という一番根っこの部分は、まだそこにある。かつては言葉で削り、今は制度で追いつこうとしている。方法が変わっただけで、問題は同じ場所に立っている。

だから僕は、この風習を過去の暗い話としてだけ読むのが、どうしてもできない。屋根に上って三度叫んだ父親と、ワンオペで双子を抱えて泣いている今日の親は、同じ困難の両端にいる。片方は忌みという言葉しか持っていなかった。もう片方は、支援という言葉を持っている。

その差が、この数百年で人間が積み上げた全部だ。少なくて情けない気もするが、ゼロではない。畜生腹と呼ばれた側から見れば、この差は決定的に大きい。

そして次の数百年で、この差をもう少し広げられるかどうかは、単純に、今どれだけ枠のほうを作り替えるかにかかっている。子どもを削るのではなく、枠を広げる。それだけの話なのだ。それだけの話を、この国は数百年かけて学んでいる途中にいる。

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