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鳥葬――ハゲワシに食われて空へ還る。チベットの天葬台と、鳥が消えたムンバイ「沈黙の塔」でいま起きていること

  1. 夜明け前、標高四千メートルの丘で白い煙が上がる
  2. そもそも鳥葬とはなんなのか、まず雑に整理しておく
  3. 「ジャトル」――鳥に撒く、という身も蓋もない言葉
  4. 見た者たちが書き残した、夜明けの天葬台
  5. ロギャパ――誰もやりたがらない仕事を、誰かがやっている
  6. 木がない、土が凍っている、そして体は自分のものではない
  7. 天葬台は千カ所以上ある――場所ごとにぜんぜん違う
  8. 文献をたどる――いつ、誰が、何と書いたか
  9. 文化大革命で消され、八十年代にしれっと戻ってきた
  10. 見物人が押し寄せた結果、扉は閉まった
  11. 見た人の話・その一――縄を回す役をやらされた画家
  12. 見た人の話・その二――ラルンガルの丘で「これは見世物か」と思った日本人
  13. 見た人の話・その三――三時間遅れでやってきた八十代のおばあちゃん
  14. 舞台をインドに移す――丘の上の五十四エーカーの森
  15. ナスという名の蠅の女悪魔、そして犬に見せる儀式
  16. 一九九〇年代、空から鳥が消えた
  17. 鏡を並べて死者を焼く――太陽光集光器という苦肉の策
  18. 塔の中を撮った女性と、共同体の内戦
  19. カンディヤーたち――誰にも触れられない人々
  20. イランの塔はなぜ静かになったのか
  21. モンゴルの草原と、日本の洞窟
  22. ネットで語られる鳥葬と、実際の鳥葬のズレ
  23. なぜ日本人は、これをこんなに怖いと感じるのか
  24. 高いところから、もう一度あの丘を見下ろす

夜明け前、標高四千メートルの丘で白い煙が上がる

まだ暗い。空気は刃物みたいに冷たくて、吸い込むと肺の奥が痛む。標高は四千メートル前後。吐く息が白いというより、白い塊が口から転がり落ちていく感じだ。丘の上には石を平らに敷いた台がある。周りにはタルチョ、つまり五色の祈祷旗が縦横に張り巡らされていて、風が来るたびに乾いた音でばたばた鳴る。誰かがジュニパー、日本でいうネズの木の枝に火をつける。煙は思ったより甘い。

線香とも焚き火とも違う、樹脂が焦げるときのあの匂いだ。

その煙が立ちのぼると、空が動く。

最初は点だ。それが増える。増えて、旋回して、降りてくる。ヒマラヤハゲワシ。翼を広げれば二メートルを軽く超える。頭には羽がほとんどなくて、皮膚がむき出しになっている。降りてくるときの羽音を、実際に立ち会った人は「蒸気機関車みたいだった」と書いている。何十羽もが一斉に空気を叩くのだから、そりゃそうなる。地面に降りた鳥たちは、台の周りに輪を作って待つ。待つあいだ、しゃがれた声で威嚇しあう。

ときどき翼を広げて跳ねる。傍から見ると、踊っているように見えるらしい。

そこへ、布に包まれた人間が運ばれてくる。

これがチベットの鳥葬だ。現地の言葉では天葬とも呼ばれる。人が死ぬと、その体をハゲワシに食べさせる。日本人がこれを初めて知ったとき、たいていは同じ反応をする。えっ、と息を止めて、それから「かわいそう」か「野蛮」か「怖い」のどれかを口に出す。でもこの記事で追いかけたいのは、その先だ。なぜ彼らはそうするのか。誰がその手を動かしているのか。

そして、遠く離れたインドのムンバイで、同じ思想を持つ別の宗教の人たちが、今まさにその習慣を失いかけて内部分裂しているという、あまり知られていない話。

全部書く。長くなる。覚悟してくれ。

そもそも鳥葬とはなんなのか、まず雑に整理しておく

鳥葬は、遺体を鳥に食べさせる葬法の総称だ。学術的には風葬や曝葬の一種として扱われることが多い。土に埋めず、焼かず、水にも流さず、外気にさらす。そこに鳥が来る。それだけといえばそれだけの話なのだが、これを組織的に、儀礼として、何百年も続けている文化が世界に二つある。チベット仏教圏と、ゾロアスター教徒だ。

チベット圏の鳥葬は、チベット自治区だけの話ではない。青海省や四川省、甘粛省のチベット文化圏、それにブータン、ネパール北部、インド北部のラダックあたりにも及ぶ。モンゴルの一部地域でも行われてきた。中国の公的な統計としてよく引かれる数字だと、チベット自治区内だけで天葬台はおよそ千七十五カ所、専従の担い手はおよそ百人。これは二千年代半ばに国営通信が出した数だ。

同じ時期の推計では、チベット人の八割から九割が死後に鳥葬を選ぶとされていた。つまり例外的で猟奇的な習慣どころか、そこでは圧倒的多数派の「ふつうの葬式」なのだ。

一方のゾロアスター教。古代ペルシアで生まれた宗教で、日本では拝火教という呼び名のほうが通りがいい。彼らは遺体を塔の上に置いて、やはり鳥に委ねる。その塔がダフマ、英語圏でいうところの沈黙の塔だ。イランでは二十世紀に廃れて法的にも止まったが、インドに逃れた末裔であるパールシーの共同体では、ムンバイの丘の上で今も続いている。厳密にいえば「続いていた」と書くべきかもしれない。理由は後で書く。

ハゲワシがいなくなったからだ。

この二つは宗教も言語も歴史も違うのに、遺体を鳥に渡すという一点で重なっている。しかも重なりかたが偶然ではないかもしれない、という説まである。

ネパールのムスタン地方の洞窟遺跡から、鋭利な刃物で骨から肉を削いだ痕のある古い人骨が大量に見つかっていて、これを調査した考古学者は、古代ペルシア系の葬法が交易路を伝ってヒマラヤに入り、それが土地に合わせて変形したのが今のチベットの鳥葬ではないか、という筋書きを提示している。証明されたわけではない。だが、そう考えたくなる程度には似ている。

「ジャトル」――鳥に撒く、という身も蓋もない言葉

チベット語で鳥葬を指す言葉のひとつがジャトルだ。ジャが鳥、トルが撒く、散らす。直訳すると「鳥に撒く」。もうひとつ、山へ運ぶ、という意味の穏当な言い回しも使われる。死んだ人を悪く言わない工夫がそこに入っているのがわかる。この二つの語感の差が、そのままこの葬法の性格を表している気がする。やっていることは徹底して即物的で、そこに込められた意味は徹底して宗教的だ。

チベット仏教の死生観では、人が死んだあと、意識は四十九日をかけて中有、いわゆるバルドと呼ばれる状態を漂う。その間に僧が経を読み、意識が迷わず次へ進めるよう手助けをする。ポワと呼ばれる意識の移し替えの儀礼が行われることもある。ここが肝心なところで、その手続きが終わった時点で、残された肉体はもう本人ではない。抜け殻だ。宿を出たあとの空き家に、家主の未練を残す必要はない。

じゃあ空き家をどうするか。捨てるくらいなら、腹を空かせた者にやればいい。これが布施の発想だ。チベット仏教では、自分の持つものを他者に与える行為が功徳になる。持ち物どころか、最後に残った自分の体そのものを差し出すのは、その最上級ということになる。実際、チベット仏教にはチュー、施身法と呼ばれる修行がある。瞑想のなかで自分の体を切り分け、鬼神や飢えた者たちに供養として差し出すという、なかなか強烈な行だ。

鳥葬は、その観念が現実の死体の上で実行されたものだと考えるとしっくりくる。

そしてハゲワシの側にも意味づけがある。彼らはただの腐肉食の鳥ではない。ダーキニー、空を舞う女性の神格の化身とされる。つまり遺体を運び去っているのは掃除屋ではなく、天の使者ということになる。日本語で「鳥葬」と書くと鳥に食われる話に見えるが、現地の理解では、天に運ばれる話なのだ。この差はけっこう大きい。

見た者たちが書き残した、夜明けの天葬台

ここからは、実際にその場に居合わせた人たちの記録をもとに、何が起きるのかを時系列でたどっていく。手順書ではない。見た人の目に映ったものの再構成として読んでほしい。

人が息を引き取ると、遺体はまず家の中に安置される。三日から五日が多い。この間、家族は体に触れないようにする。僧が呼ばれて読経が続く。地方によっては、遺体を白い布で包み、膝を抱えた姿勢に整えて座らせる。ある記録では、包まれた体が壁際に上体を起こした姿勢で置かれ、顔だけが外に出ていた。前夜には僧院の中庭で法要が行われ、低い読経の唸りが夜通し続いていた、とある。

日取りは占いで決まる。吉日の、夜明け前。まだ星が見えているうちに、遺体は家を出る。家族が最後まで付き添うとは限らない。むしろ多くの地域では、遺族は天葬台に上がらない。付いていくと故人の未練になる、という理屈だ。運ぶのは近親者以外の男たちで、牛や馬の背に乗せることもある。

ある高僧の証言によれば、遺体を運んだヤクはその後解放して二度と使わないという習わしがあって、そのぶん鳥葬は火葬より高くつくのだそうだ。火葬なら六百八十元、ヤク一頭なら数千元、という具体的な数字まで残っている。神聖な話のなかに急に家計の話が混ざるのが、なんとも現実的でいい。

天葬台に着くと、まず火が焚かれる。ジュニパーの枝と、サンと呼ばれる香を燻す。この煙が合図になる。鳥は煙を覚えていて、遠くの尾根から集まってくる。ある観察記録では、煙が上がって十数分で百羽近くが斜面に降りていたという。別の記録には、担い手が人の皮を腕の形に切り取って保存したものを振って鳥を呼ぶ、という土地の話も出てくる。呼べば決まった数だけ来るのだ、と現地の人は真顔で語っていたらしい。

そこから先は速い。作業に立ち会った人たちの記述は、驚くほど共通している。まず、白い前掛けのようなものを着けた男たちが台に上がる。彼らは石で刃物を研ぐ。研ぐ音がする。儀礼を司る者が、体の胸から腹にかけて印を描く。マンダラだと説明されることが多い。それが終わると、男たちは黙々と手を動かしはじめる。表情はいたって普通で、途中で世間話をしたり、笑ったりする。

畑仕事の合間みたいな空気だと書いた日本人の旅行者もいる。

輪の外では、村の男たちが縄や棒を振り回して鳥を押しとどめている。鳥はもう我慢の限界という顔で、跳ねたり、羽を広げたり、隣の個体と小競り合いを始めたりする。そして合図が出る。押しとどめていた縄が下ろされた瞬間、斜面の全部が一斉に動く。ギャアギャアという金属質の悲鳴みたいな声と、羽が空気を叩く音と、砂埃。ある目撃者はその瞬間を「音が一段階うるさくなった」と表現している。

要した時間は、記録によってばらつくが十三分、十五分、二十分あたりが多い。ひとりの人間が跡形もなくなるのに、それだけしかかからない。立ち会った人たちが口を揃えて書くのはこの点だ。人間の体なんて一瞬で無くなるんだな、と。

最後に残った骨は、専用の石の槌で細かく砕かれ、麦焦がしであるツァンパやバターと練り合わされる。これは鳥が骨を残さず食べられるようにするためだ。ヒマラヤハゲワシは骨を丸ごとは処理できないので、この一手間がないと残ってしまう。頭蓋についても記述がある。ある記録では、儀礼を司る者が四インチほどの鋼の針で頭頂に穴を開けた。これは意識の出口を確保するためだと説明された。そのあと槌で一撃。

そして最後の一片まで消える。カラスやトビが残りをさらっていく。何も残らないのが、この葬式の理想形なのだ。

終わると、担い手たちは水で手を洗い、空気が一変する。さっきまで神妙だった男たちが急に冗談を言い出す。ある西洋人の記録では、担い手が血のついた手を彼のセーターで拭う真似をして、彼が飛び退いてチベット語で「やめろ、やめろ」と叫び、全員が爆笑したという。その場にいた誰もが、そこで生者の世界に戻ってくる。この切り替えの早さこそが、たぶんこの文化の本体だ。

ロギャパ――誰もやりたがらない仕事を、誰かがやっている

天葬台で手を動かす人たちのことを、チベット語でロギャパという。遺体を扱う者、という意味の言葉だ。地域によってはシャシンパなど別の呼び名もある。日本語の記事ではよく「解体職人」と訳されるが、この訳語はたぶん半分しか合っていない。彼らは職人であると同時に、儀礼を執行する宗教的な役目を負っている。僧が兼ねる場合もあれば、代々その役を継ぐ家系の場合もある。

彼らの地位は微妙だ。旧来のチベット社会には、公式なカーストはないものの、職業による序列は厳然としてあった。屠殺、鍛冶、遺体の処理といった、血や死に触れる仕事は下に置かれた。婚姻の際に相手方から敬遠されることもあった。ここは日本の中世以降の被差別の構造とも、インドのカーストとも似ていて、そして完全には同じではない。

似ているのは、共同体にとって絶対に必要な仕事を担う人ほど遠ざけられるという、あの理不尽な構図のほうだ。

一方で、彼らを聖職者として遇する見方も強くある。ある研究者の聞き取りによれば、あるラマは十五歳のときに体調を崩し、師がそれを「お前はこの役目を負うべきだ」というしるしと解釈したことで、この道に入った。つまり呼ばれてなる仕事なのだ。彼らは特有の道具を持つ。人骨の大腿骨で作った笛、頭蓋を加工した器、象牙の腕輪。それらは丁寧な作りの容れ物に収められ、師から弟子へ受け継がれる。

ちゃんとした継承のある専門職だ。

報酬はどうか。二十世紀末に中国東部の新聞社の記者が取材したケースでは、ある僧が週に十から十五体を扱い、一体あたりおよそ五ドル相当を受け取っていた。安いと思うか高いと思うかは、当時の物価の感覚次第だろう。ただ、日本語圏の解説でよく見かける「専門家への報酬が高いので、払えない貧しい家は水葬にする」という説明とも整合する。鳥葬はタダではないのだ。

無料で天に還れるわけではない、という妙に生々しい事実がここにある。

そしてもうひとつ。ロギャパの仕事ぶりを見た人がほぼ全員書き残すのが、彼らが笑うということだ。深刻ぶらない。手際よく、雑談しながら、ときには歌いながらやる。これを不謹慎だと感じるのは外から来た人間だけで、現地の理解ではむしろ逆になる。場が重く沈むと、死者の意識が引き戻される。明るくしておいたほうがいい。抜け殻に涙を落としても仕方がない、という徹底した割り切りが、あの笑いの正体だ。

木がない、土が凍っている、そして体は自分のものではない

ではなぜ、チベットでは土葬でも火葬でもないのか。理由は三つある。地面と、燃料と、教義だ。

まず地面。チベット高原の大部分は永久凍土か、それに近い状態の土地だ。冬季は数十センチから一メートル以上が凍る。ツルハシで掘れる代物ではない。しかも仮に掘って埋めても、低温と乾燥のせいで微生物による分解がほとんど進まない。埋めた遺体が何年も残る。土葬は物理的に向いていない。実際、チベットで土葬が選ばれるのは伝染病で死んだ場合や、処刑された者、殺人の被害者など、特殊なケースに限られてきた。

それも衛生上の理由からで、格の高い葬法とは見なされていない。ここを誤解している解説記事はけっこう多い。チベットでは土葬が最低ランクの扱いなのだ。日本の感覚とちょうど逆になる。

次に燃料。標高四千メートルの高地には、まともな樹木がない。使えるのは低木の枝と、乾かしたヤクの糞くらいだ。人間ひとりを完全に焼くには、乾いた薪が数百キロ要る。それを一回の葬式で消費するのは、その土地では現実的でない。だから火葬は、高僧や貴族といった、共同体が特別に燃料を融通する相手にだけ許される高級な葬法になった。

塔葬、つまり遺体を防腐処理して仏塔に納めるやり方はさらに上で、これはダライ・ラマのような最高位の人物のためのものだ。庶民が火葬にできないのは差別ではなく、単純に薪がないという話でもある。

最後に教義。ここが本丸だ。すでに書いたとおり、チベット仏教では意識が去った時点で体は空き家になる。日本人はここで「でも遺体は大事にするものでしょう」と反射的に思うが、その感覚自体が文化的なローカルルールだということに気づくと、話が一気に見えてくる。遺体を丁寧に保存し、清め、焼いて骨壺に入れて、墓に納めて何十年も参る、というのは日本のやり方であって、人類の標準ではない。

チベットの側から見れば、抜け殻を後生大事に囲い込むほうが、よほど執着に見えるだろう。無常という教えを、彼らは概念ではなく、実物の死体でやってみせている。

ちなみに水葬もある。川が近く、経済的に鳥葬の費用が出せない家は、遺体を水に流す。地域によっては水葬のほうが一般的な場所もある。乳児や幼児は樹に葬る樹葬という形をとる地域もあり、ニンティ一帯にその慣習が知られている。断崖の洞に木箱を納める崖葬の記録もある。ひとくちにチベットといっても、葬り方は一枚岩ではない。

天葬台は千カ所以上ある――場所ごとにぜんぜん違う

日本語で流通している鳥葬の情報は、たいてい「チベットではこうする」という一般論で書かれている。でも実態は場所ごとにかなり違う。ここは一つずつ見ていく価値がある。

もっとも名高いのが、ラサの東およそ百三十から百五十キロにあるドリクン・ティル寺の天葬台だ。急峻な尾根に張りつくように建つ僧院で、その上手にある台は、チベット圏で最も功徳が高い三大天葬台のひとつに数えられている。小さなチョルテン、つまり仏塔が点在する草地に、直径十二メートルほどの黒い石の円が描かれている。ここで葬られると来世がよい、という信仰があるため、遠方から遺体が運ばれてくる。

一九九〇年代には外国人研究者が遺族の許可を取ったうえで立ち会った記録が残っていて、この記事で引いてきた細部の多くはその種の記録に由来する。

次にラサ近郊。セラ寺やパボンカの裏手にも古い天葬台があり、かつては市内から歩いていける距離にあった。八十年代半ば、チベットへの観光が一気に開かれたとき、真っ先に見物人が押し寄せたのがこのあたりだ。今は市街地の拡大と、それに伴う鳥の減少で、ラサの至近では以前ほど行われなくなったとされる。都市が広がると鳥は来ない。当たり前のようでいて、この葬法の存続にとってはかなり致命的な問題だ。

四川省側、カム地方のセルタにあるラルンガル、仏教学院として世界最大級の規模を誇るあの赤い家々の谷にも、有名な天葬台がある。ここは二千年代後半に大がかりな整備が行われた。石の台を据えた舗装された広場が作られ、斜面には仏教の図像が彫り込まれ、閻魔の口を模した門をくぐって階段を降りる構造まで用意された。駐車場も整備された。

整備を主導したのは現地の高僧だったが、ネット上ではこれを「中国政府が観光地化した」と決めつける言説がさかんに流れた。実態と伝聞の落差の典型例だ。ここには連日多数の見物人が集まり、日本人の放浪者も少なからず足を運んでいる。

同じ四川省側でも、リタンのように標高四千メートルの町のはずれにひっそりと台があるだけの場所もある。ある日本人旅行者の記録では、朝七時に着いたのに誰もいない。雨が降り出す。西洋人や中国人の観光客が三々五々やってきてタルチョを吊るし、待つ。結局始まったのは予定より三時間遅れで、そのころには斜面がハゲワシで埋まっていた。

運ばれてきたのは八十代の女性で、透明な衣装ケースに、ウエディングドレスみたいなふわりとした布に包まれて横たわっていたという。この細部がいい。伝統の儀礼の現場に、量販店で買ってきたようなプラスチックのケースが平然と混ざっている。生きている文化というのはそういうものだ。

チベット自治区の外にも広がっている。青海省のアムド地方、甘粛省南部、ブータン、ネパール北部のムスタンやドルポ。ブータンでは仏教の枠組みの中で似た葬法が語られる一方、火葬の比重が高い。インドのラダックやシッキムにも文化的な連続がある。そしてモンゴル。ここは後で独立の章を立てる。

文献をたどる――いつ、誰が、何と書いたか

鳥葬がいつ始まったのかは、正直よくわからない。チベットの古い文書は王や高僧の葬儀ばかり記録していて、庶民がどう葬られたかを書き残していないからだ。研究者がよく引くところでは、外部からの最も古い言及のひとつは十四世紀のヨーロッパ人旅行者の記述で、しかもこれは伝聞交じりで正確ではない。要するに、始まりの時点は霧の中にある。

はっきりした記録は禁令のほうから出てくる。一七九三年、清朝が鳥葬を禁じる勅令を出している。参加した者も見物した者も処刑する、というかなり強硬な内容だったと伝えられる。だがチベットの人々はほぼ黙殺した。この一件は、後の二百年に何度も繰り返されるパターンの最初の例になった。外部の権力が禁じる、現地はやめない、という反復だ。

日本語の文献に目を移すと、まず外せないのが河口慧海の『チベット旅行記』だ。一九〇四年、新聞連載を経て刊行された。日本人として初めてチベットに入った僧の記録で、当時のラサの生活、僧院の内情、死者の扱い、衛生観念にいたるまで、驚くほど細かく観察している。

慧海の筆致は率直を通り越して辛辣で、現代の目で読むと引っかかる箇所もあるのだが、あの時代に現地語を習得して単身で潜り込んだ人間の一次記録という重みは動かない。以後、日本人がチベットの葬制を語るときの土台はここに置かれ続けている。

戦後だと、川喜田二郎の仕事が大きい。文化人類学者で、KJ法の考案者としても知られる人だ。一九五〇年代末から六十年代にかけてヒマラヤ一帯で調査を重ね、その成果は『鳥葬の国』や『チベット人・鳥葬の民』といった題で一九六〇年前後に世に出た。タイトルにいきなり鳥葬を掲げているところに、当時の日本の読者にとってこの語がどれだけ強い引力を持っていたかが出ている。

中身は葬制の本ではなく、ヒマラヤの人々の生活と社会の記録なのだが、看板として鳥葬が選ばれた。この時点で、日本における「鳥葬」という語のイメージはかなり固まったとみていい。

海外に目を向けると、二千年代半ばに出版された中国出身の作家シンランのノンフィクション『天葬』が広い読者を得た。一九五〇年代に軍医の夫を追ってチベットに入り、三十年をそこで過ごした中国人女性の話を、著者が一九九四年に本人から聞き取ってまとめたものだ。書名のとおり鳥葬が象徴的な位置を占める。ただし、この本については記述の真正性をめぐって批判もあり、そのまま資料として扱うのは危うい。

物語としての力と、事実の裏づけは別だ。

学術と報道の側では、一九九〇年代後半から二千年代にかけて記録が急に増える。一九九七年にドリクンで一部始終を観察したアメリカ人研究者の詳細な報告、一九九九年にアメリカの大手紙の記者が四川省側で取材した記事、二千年代の中国国営通信による統計、二千十年代のオーストラリアの公共放送記者による偶然の遭遇記。二千十三年には、遺族の同意を取ったうえで撮影されたドキュメンタリー作品も公開された。

この作品は、映像として記録することの倫理そのものを主題に据えていて、鳥葬の映像がどう消費されてきたかを問い直している。

文化大革命で消され、八十年代にしれっと戻ってきた

一九五〇年代以降、チベットの宗教慣行は繰り返し「封建的迷信」として攻撃対象になった。とりわけ一九六六年から七六年の文化大革命期には、鳥葬は遅れた野蛮な風習と名指しされ、事実上の禁止に置かれた。僧院そのものが破壊され、僧が還俗を強いられ、儀礼を執り行う人間がいなくなったのだから、禁令の条文以前に成立しなくなったというほうが正確かもしれない。

ただし、この時期の禁止がどこまで徹底されたかについては、記録が食い違う。完全に途絶えたという話もあれば、山奥では続いていたという証言もある。研究者は、実際には執行が不完全だっただろうと見ている。理由は単純で、代わりの手段がなかったからだ。凍った土と薪のない土地で、火葬場もないのに、遺体をどうしろというのか。禁止する側にも現実的な代案が出せなかった。イデオロギーは地面の凍結には勝てない。

八十年代に入って宗教政策が緩むと、鳥葬は表に戻ってきた。当局の姿勢も変わる。ある時期のチベット自治区の副主席は、火葬を奨励はするが鳥葬も認める、あれはチベットの習慣だから、という趣旨の発言を残している。禁止から容認へ、そして最終的には保護の対象へと、位置づけが移っていった。

面白いのは、その後に起きたことだ。行政は火葬場を建てた。青海省のチベット人地域に最初の火葬場ができたのが一九八四年。二千十年から十二年にかけては、チベット人が多数を占める地域に十一の火葬場が新設された。ところが、これがあまり使われない。ある県の二千十一年のデータでは、推定死亡者数およそ八百九十四人に対して火葬の実施は三百八十件。

差し引き五割以上が火葬以外の方法、つまりほとんどは鳥葬で葬られたと推定されている。設備を作れば習慣が変わるというものではない、ということだ。

二千十五年一月、チベット自治区の人民代表大会常務委員会が、鳥葬に関する条例を可決した。内容は天葬台の管理、環境保護、儀礼の担い手の資格要件など。担当官はこれを「千年の伝統に敬意を払い、保護するもの」と説明している。かつて処刑をちらつかせて禁じた側の後継者が、今度は法律で守ると言い出した。二百年の振れ幅としては、なかなかのものだ。

見物人が押し寄せた結果、扉は閉まった

外国人が鳥葬を見られなくなった経緯は、ひとことで言えば「行儀が悪かったから」だ。

八十年代半ば、チベットへの外国人旅行が本格的に解禁されると、ラサ近郊の天葬台に観光客が殺到した。一九八五年には中国政府が、招かれざる者の見物を禁じる措置を出している。名目は伝統の保護。実態は苦情処理だ。何が起きていたかは想像がつく。カメラを構える、囲む、近づく、笑う、写真を売る。遺族にしてみれば、母親の葬式を知らない外国人が望遠レンズで撮って回っているわけで、耐えられるはずがない。

二千五年には、チベット自治区当局が暫定的な規則を出し、天葬台での見物、写真撮影、動画撮影、そして写真や記事の公表を禁じた。日本語の資料では二千六年に条例が公布されたと記すものもあり、およそ千カ所の天葬台の周辺での撮影や見物、さらには石材の採取までが禁じられたと説明されている。ところが、この規則は長らく実効性を欠いていた。

旅行代理店が天葬見学ツアーを組み、僧院の一部が入場料めいたものを取って見物を許すケースまで現れた。五ドルでチケット、という報告もある。二千十五年の条例はこの状況への対応でもあった。

宗教側の言い分もはっきりしている。無関係の他人がその場にいると、死者の意識の旅立ちに悪い影響が及ぶ。だから見せない。この論理は外部の人間には検証できないが、検証できるかどうかは関係ない。彼らがそう考えているという事実だけで、立ち入るなという理由としては十分だ。

それでも見た人はいる。偶然通りかかった人、遺族に許可を取った研究者、地元の縁で招かれた旅行者。中国のSNSや動画サイトには今も現地の映像が上がり続けているし、規制と実態のあいだには常に隙間がある。ここから先の三つの話は、そういう隙間を通り抜けた人たちの記録だ。

見た人の話・その一――縄を回す役をやらされた画家

一九九〇年代、ドリクンの天葬台に立ち会ったあるアメリカ人の画家の記録は、外部の人間が書いたもののなかでも異質なほど距離が近い。彼は見物人として現場にいた。台の周りでは、ヒマラヤハゲワシが翼を広げて跳ね、しゃがれた声を上げていた。翼の幅は彼の目測で六フィート、およそ百八十センチ。押しとどめる係のチベット人が、長い縄を頭上で回して鳥を牽制していた。

そのチベット人が、なぜか彼に縄を差し出した。

意味がわからないまま受け取り、見よう見まねで振り回す。巨大なプロペラみたいに、と彼は書いている。円の外周を歩きながら縄を回し、近づいてくる鳥を押し返す。おそらく外国人がこの場で単なる見物人以上の役をやったのは、これが初めてだった。彼自身がそう記している。

作業が進むあいだ、彼はロギャパのすぐそばに立っていた。飛沫が跳ねて彼の服にかかった。ロギャパはそれを見て、半分笑ったような、満足げな顔をした。作業が終わったあと、そのロギャパは血のついた手を彼のセーターで拭う仕草をしてきた。彼はぎょっとして飛び退き、覚えたてのチベット語で「やめろ、やめろ」と叫んだ。周りが大笑いした。

彼が書いているのは、恐怖ではない。むしろ、その場にいることの妙な充足感だ。丘は高く、遠くまで見渡せて、次の生まれ変わりの世界まで見えそうだった、と彼は書く。ジュニパーの煙が甘く漂い、僧たちの低い読経が地面を這っていた。血みどろの光景と、なぜか穏やかな空気。彼はまったく嫌悪を感じなかったと明言している。作業が終わり、男たちが手を洗って冗談を言い始めた瞬間、全員がすとんと生者の世界に戻った。

彼にとって印象的だったのは、その切り替えの鮮やかさのほうだった。

見た人の話・その二――ラルンガルの丘で「これは見世物か」と思った日本人

二千十年代、世界を放浪していた日本人写真家が、四川省のラルンガルで天葬を見た。彼の記録はきわめて即物的で、それが逆に生々しい。

町の中心から北東の斜面。標高およそ三千メートル。木の柵で囲われた、土がむき出しになった場所がある。彼が着いたときには、すでに大勢の見物人が周囲を埋めていた。中国人の観光客もいれば、スマートフォンを構えている人もいる。彼が最初に感じたのは、匂いだった。生臭くて、少し甘い。これまで嗅いだことのない種類の匂いだったと書いている。

やがて五体ほどの包みが解かれた。中は、彼の見立てでは僧侶だった。手袋をした男が鉈のような刃物で作業を始める。彼の記述はここで簡潔になる。書きすぎないという判断が働いたのだろう。

そして鳥が降りた。大きな羽音と、甲高い鳴き声。けたたましく争い合いながら、群れが土の上を覆っていく。一羽が顔を上げた。頭が真っ赤に染まっていた。その鳥が、こちらを睨んだ。二羽が人の皮膚らしきものを両側から引っ張り合っているのが見えた。

彼が終始ひっかかっていたのは、遺体そのものよりも、周囲の空気だったという。まるでショーが始まるかのような雰囲気。彼はそれに強い違和感を覚えた。そして、その違和感が途中から別のものに変わっていく。人間ってこんなに簡単に無くなるのか、という感覚だ。恐怖ではなく、規模の小ささへの驚き。日本の火葬場では骨が残る。ここでは何も残らない。

残らないという事実の前で、彼は自分の存在の軽さのようなものを考え込んでいる。

見た人の話・その三――三時間遅れでやってきた八十代のおばあちゃん

同じく四川省側、リタン。標高四千メートルの町だ。ある日本人の女性旅行者は、前日の移動で高山病の初期症状を抱えたまま、朝七時に天葬台へ向かった。

誰もいない。

三十分待つ。まだ誰も来ない。雨が降り出す。そのうち西洋人のバックパッカーや中国人の観光客がぽつぽつ集まってきて、みんなでタルチョを吊るしながら待つ。待つ。待つ。結局、予定の時間から三時間ほど遅れて動きが始まった。そのころには、斜面がおびただしい数のハゲワシで埋まっていた。いつのまに集まったのか、彼女にはわからなかった。

運ばれてきたのは八十代の女性だった。透明な衣装ケースに納められ、ウエディングドレスのようなふわふわした白い布に包まれていた。この描写を読んだとき、私は少し胸をつかれた。孫かひ孫かが選んだのだろうか。よそ行きの、いちばんきれいな布。ケースは近所の店で買えるプラスチック製。伝統と日用品が同じ場面に並んでいる。

専門の担い手が斧のような道具を使い始めると、バキッ、バキッという音が響いた。彼女はその音を、そのまま擬音で書き残している。村人たちが円陣を組み、鳥を押しとどめる。そして合図。ギャギャギャ、という声とともに群れが飛びかかる。

人間の体なんて一瞬で無くなるんだな。彼女もまた、そう書いた。三人目だ。国籍も年齢も立場も違う三人が、まったく同じ感想にたどり着いている。これは偶然ではないと思う。鳥葬の現場が人に与える最大の衝撃は、残酷さではなく、速さなのだ。

ちなみに彼女の記録には、少し笑ってしまう後日談がついている。帰り際、彼女は巨大なハゲワシに執拗につきまとわれた。明らかに狙いを定められている、と感じたそうだ。腹を空かせた鳥からすれば、動いている人間もいずれ止まる肉である。その視線に気づいてしまった瞬間の落ち着かなさは、想像できる気がする。

舞台をインドに移す――丘の上の五十四エーカーの森

ここからは西へ飛ぶ。インド最大の商業都市ムンバイ。海に突き出したマラバー・ヒルという高級住宅地の東の縁に、都心とは思えない濃い緑の森がある。五十四エーカー、東京ドーム四つ半ほど。周りは一平方フィートあたり八百ドルを超える不動産で埋まっている。この森の地価だけで二十億ドルに達するという試算もある。それだけの土地が、木のまま残されている。

ここがドゥーングルワーディー。パールシー、つまりインドのゾロアスター教徒が死者を送る場所だ。森の奥に、円筒形の石の塔が点在している。屋根はない。高さはおよそ五十フィート、直径はおよそ百フィート。上から見ると、屋根のない円形劇場のようだと形容される。英語ではタワー・オブ・サイレンス、日本語では沈黙の塔。彼ら自身の言葉ではダフマという。

パールシーの由来はこうだ。七世紀、アラブによるペルシア征服のあと、信仰を守るためにイランを脱出したゾロアスター教徒の一団が、船で西インドにたどり着いた。上陸の際、地元の王が満杯のミルクの器を差し出し、この土地にはもう余地がないと示した。すると彼らの祭司が、砂糖を溶かして器から一滴もこぼさず、我々はこうして甘みを加えるだけだと答えた。有名な伝承だ。

事実かどうかは知らないが、彼らが実際にインド社会で果たした役割を思うと、よくできた話ではある。

十七世紀にはボンベイが彼らの中心地になった。最初のダフマが建てられたのは一六七〇年前後とされ、一六七二年に富裕なパールシーの手で築かれたという記録もある。以後、丘の上に五基の塔が並ぶ複合施設になった。現存する主要な塔のひとつは一九三一年の建造だ。塔の内部は同心円状に三重に分かれていて、外側から順に男性、女性、子どもの区画とされる。中央には深い井戸がある。

骨はそこへ落ち、石灰の助けを借りて崩れ、炭と砂の層で濾されてから外へ抜けていく。

パールシーはインド社会でずっと少数派だが、その影響力は人口とまったく釣り合わない。造船、綿業、鉄鋼、航空、慈善事業。インド近代化の重要な部分を彼らが担ってきた。それでいて人口は減り続けている。一九四一年の国勢調査で十一万四千人。二千年代には六万九千六百人ほどで横ばい、いや実質は減少。世界全体のゾロアスター教徒でも十三万八千人程度と推計される。女性一人あたりの出生数は〇・八。

結婚の四件に一件が共同体外との婚姻で、成人の半数以上が四十代以上。死亡数と出生数の比はおよそ三対一。数字だけ見ると、静かに消えていく共同体の姿がそこにある。

ナスという名の蠅の女悪魔、そして犬に見せる儀式

なぜ彼らは遺体を塔の上に置くのか。理由はチベットとまったく違う。

ゾロアスター教では、火、水、土、そして大気は聖なるものとされる。とりわけ火は神性の象徴で、拝火教という呼称はそこから来ている。一方、死体は宇宙で最も強い汚れの源だ。人が死んだ瞬間、ナスという名の女性の悪霊がその体に飛び込んでくる。彼らの経典の記述では、ナスは膝と尻を突き出した狂った蠅の姿で北から飛んでくる。名前の意味はそのまま「死体の物質」。

彼女はアフラ・マズダーが作った世界を汚す最大の存在とされる。

だから死体を土に埋めれば土が穢れる。焼けば火が穢れる。水に流せば水が穢れる。どれも許されない。埋めるという行為はとりわけ重い禁忌で、古い時代には埋葬された遺体を掘り返すことがむしろ功徳とされたほどだ。残された選択肢が、大気にさらして鳥に委ねること――ドフメナシニと呼ばれる送り方になる。

死の直後にはサグディードという儀式が行われる。「犬に見せる」という意味だ。特定の毛色や斑紋を持つ犬を遺体のそばへ連れてきて、目を合わせさせる。犬には遺体に潜む悪の度合いを見抜く力があり、その視線が汚れを封じ込めるとされる。葬列が通った道にもナスの穢れは残るとされ、犬を三度、場合によっては九度まで往復させて祓う。犬が嫌がる場合の回数まで細かく定められているところに、この宗教の几帳面さが出ている。

遺体を扱う専門職も定められている。ナセサラール、あるいはカンディヤーと呼ばれる人々だ。語源はアヴェスター語で汚れを意味する語と、世話をする者を意味する語の合成だとされる。彼らだけが塔の内部に入ることを許される。遺体を運ぶ者と塔内へ納める者は本来別の役だったが、現在では境界が曖昧になっている。

そして、規則は徹底している。遺体をひとりで運んではならない。ひとりで運ぶと、ナスが死者の鼻から、目から、舌から、あらゆる穴から吹き出して運び手に取り憑く。そうなった者はもう二度と清められない。経典にはその後の措置まで書かれていて、読むとかなり慄然とする。理屈が一本通りすぎているのだ。汚れを扱う仕組みを突き詰めていくと、汚れを引き受けた人間そのものを社会から切り離す方向へ必ず行き着く。

この構造は洋の東西を問わない。

一九九〇年代、空から鳥が消えた

そして事故が起きる。誰も意図しなかった、たったひとつの薬による事故だ。

ジクロフェナク。日本でも湿布や鎮痛剤の成分としておなじみの、ありふれた非ステロイド性抗炎症薬だ。インドでは一九九〇年代初頭、これが家畜用として認可され、爆発的に普及した。牛が足を痛めれば打つ。乳の出が悪ければ打つ。安くて、よく効いた。

問題は、その先だ。インドでは宗教的理由から牛は屠殺されず、寿命が尽きれば野に置かれる。そこにハゲワシが集まって食べる。ジクロフェナクが残った肉を食べたハゲワシは、腎不全を起こして死ぬ。ごく微量で死ぬ。しかも一頭の牛の死骸に何十羽も群がるので、一頭で一群が壊滅する。

一九九六年ごろから異変が報告されはじめた。インドを代表するハゲワシ研究者は、当時の状況をこう語っている。死んだハゲワシを探しはじめたら、藪の中にも、木の上にも、どこにでも死骸があった、と。二千三年、原因が腎不全であること、その引き金がジクロフェナクであることが科学的に確定した。

被害の規模が桁違いだった。かつてインド亜大陸には数千万羽のハゲワシがいたと推定される。四千万羽、あるいは五千万羽という数字が引かれる。それが十年ほどで、九十五パーセント以上、種によっては九十九パーセント以上が消えた。ベンガルハゲワシ、インドハゲワシ、ハシボソハゲワシ。いずれも当時はどこにでもいる普通の鳥で、今はすべて近絶滅種だ。

リョコウバトの絶滅以来、鳥類で記録された最も急速かつ大規模な個体数の崩壊、と評されている。

インド政府は二千六年に家畜用ジクロフェナクを禁止した。だが違法な使用は続き、二千十年代後半になっても検出されている。しかも同種の毒性を持つ他の薬剤が複数、合法のまま流通していた。そのうち二剤が禁止されたのはようやく二千二十年代に入ってからだ。

そして、この事故には想像もされていなかった続きがあった。死骸を掃除する鳥がいなくなった土地では、代わりに野犬が繁殖する。野犬が増えれば狂犬病が増える。二千二十年代に発表された経済学の研究は、ハゲワシが消えた地域で人間の死亡率が四・二パーセント上昇し、二千年から二千五年のあいだにおよそ五十万人の超過死亡が生じたと推計した。経済的損失は年間六百九十億ドル規模とされる。

ひとつの鳥がいなくなるだけで、人間の社会がここまで揺らぐ。生態系のなかで掃除役を担っていた種を、鎮痛剤ひとつで消してしまった。これは冗談みたいに巨大な失敗だ。

パールシーの共同体にとって、これは信仰の根幹を直撃する出来事だった。ムンバイの塔からハゲワシが姿を消した時期については、二千年代初頭という証言が多い。ある古参の遺体運搬人は、最後にハゲワシを見たのは二千二年だと語っている。マハーラーシュトラ州にはもう一羽もいない。塔の上に残っているのはカラスとトビだけだ。彼らは腐肉を食べはするが、ハゲワシのような処理能力はない。

三十分で済んでいたものが、何日、何週間とかかるようになった。

鏡を並べて死者を焼く――太陽光集光器という苦肉の策

鳥がいなくなった塔の上で何が起きるか。想像するのはたやすい。そして実際、想像どおりのことが起きた。

パールシーの共同体を運営するボンベイ・パールシー・パンチャーヤトは、次々に対策を試した。最初はケウラという香りの強い花を使って臭気を抑えようとしたが、まるで歯が立たない。次に分解を促進する化学薬品を投入した。これが最悪だった。遺体が液状に近い状態になり、塔の上で足を滑らせて中央の井戸に落ちかける事故が起きて、運搬人たちが作業を拒否した。

結局、二千一年ごろから採用されたのが太陽光集光器だった。大きな鏡を並べて日光を塔の上に集め、遺体を高温で乾燥させる。摂氏百十度まで上げられるとされ、理屈のうえでは分解を早められる。ある運搬人はこの仕組みを、フライパンにバターを落として溶かすようなものだ、と表現している。パオバジという地元の料理をたとえに出しながら。この比喩を淡々と口にできるところまで、彼らはこの状況に慣らされてしまった。

だが太陽光集光器には決定的な弱点がある。日が沈めば効かない。モンスーンの季節、ムンバイは何週間も分厚い雲に覆われる。運営側の当事者自身が、日が落ちれば無用の長物だ、と認めている。それでもこれしかない、とも。

しかも、話はもっとややこしくなる。塔を囲むマラバー・ヒルの再開発だ。九十年代の終わり、森を見下ろす高層住宅はまだ二棟しかなかった。ところが今では十件前後の開発計画が丘を取り巻き、あと十年もすれば三百六十度が高層ビルに囲まれると予測されている。上から丸見えなのだ。カラスがついばんだ体の一部を、隣のマンションのベランダに落としていくという苦情まで出た。

対策として、ある生態学者が背の高い竹を植えて視線を遮ろうとした。ところがこれが新しい矛盾を生む。木を高くすれば森は日陰になる。日陰になれば太陽光集光器が働かない。彼女自身が問うている。森全部が影に沈んだら、それは何のためなのか、と。信仰を守るための木が、信仰を支える装置を殺す。ここまで来ると、もはや呪いに近い。

塔の中を撮った女性と、共同体の内戦

二千五年、この問題は最悪の形で表面化した。

ダン・バリアという女性が、一年前に塔に納めた母親のことを尋ねた。まだ残っていた。分解しきらないまま、母の体は塔の上にあった。彼女がそれを問い質したとき、遺体を扱う男たちは嘲るような態度をとったと伝えられる。

彼女は写真家を雇い、塔の内部をひそかに撮影させた。そして出来上がった写真を、チラシにして共同体に配り、動画としてネットに流した。写っていたのは、分解の途中で止まった遺体が並ぶ光景だった。

共同体は割れた。彼女は「怖くない、戦う覚悟がある」と公言した。一方、伝統を守る側の代表格である宗教学者は、写真は加工されたものだと切り捨てた。パンチャーヤトの高位祭司たちは、土葬や火葬を選んだ者のために祈祷を行うことを禁じる決定を出した。二千九年、その決定に反した祭司二人をめぐる争いは最高裁まで持ち込まれる。信仰の内側の問題が、国家の司法の場に出た瞬間だ。

伝統派には伝統派の対案があった。ハゲワシの飼育舎を森の中に作るという計画だ。イギリスの猛禽類の専門家が設計に加わり、二千十年には模型まで作られた。張力ケーブルと防鳥ネットで覆われた、意外なほど美しい構造物だった。給餌用のヤギ、水浴び場、掃除の動線まで詰められた。ハゲワシは驚くと吐き戻す習性があるので、その処理まで含めて設計しなければならない。

計画は潰れた。止めを刺したのは、共同体内部の医師たちだった。十九人のパールシーの医師が指摘したのは、単純だが致命的な事実だ。ジクロフェナクは人間用の医薬品としても膨大な数の製剤に入っている。誰かが足の裏のイボの痛み止めにそれを飲んで、その直後に心臓発作で亡くなったら。その体は塔に上がり、ハゲワシが食べる。人間の遺体が安全だと保証する方法はどこにもない。ある記者はそのことをこう言い表している。

確かめようがないのだ、と。

飼育舎計画は自然消滅した。ただし、この案は数年おきに蒸し返される。二千二十年代に入ってからも再提案されている。共同体が諦めきれていないということだ。二千十五年には、森の外に火葬設備が設けられた。伝統派は今もこれに反対している。誰も相手を説得できないまま、日々、遺体だけが運ばれてくる。

カンディヤーたち――誰にも触れられない人々

この状況で、いちばん重い荷を背負わされているのは誰か。答えははっきりしている。カンディヤー、遺体を運び、塔の上で世話をする人たちだ。

彼らの一日は、遺体を清めることから始まる。塔まで運び、規定の場所に置く。ハゲワシがいた時代なら、そこで役目はほぼ終わった。今は違う。太陽光集光器の効きをよくするために、一体の遺体を何度も位置を変えて動かす。一体が片づくまで少なくとも十日。モンスーンの時期には体が膨れ上がり、六人がかりでも持ち上がらないという。運ぶ途中で手足が外れることもある。ある古参は、その状態をパンを水に浸したようだと語った。

年に二度、中央の井戸を清掃する作業がある。分解しきらない残りを包んで別の場所に埋める。この作業の手当は九千ルピー。日本円にすれば一万数千円だ。

彼らの真の苦痛は、たぶん労働そのものではない。孤立のほうだ。

パールシー共同体の内部で、カンディヤーは徹底して遠ざけられる。心づけを渡すときも、直接触れないように、差し出された手の下に袋を開いて受け取る。彼らの家に上がる人はまずいない。台所で食事を共にする人もいない。娘を嫁がせる家もない。だから多くの人が、共同体の住宅ではなく森の中に住むことを選ぶ。拒まれ続けるより、隔てられて暮らすほうが楽だからだ。

証言は具体的で、そのぶん痛い。ある五十五歳の男は、家計が苦しくなってこの仕事に就いた。妻は十五年連れ添った後、彼の職業を知って息子を連れて出ていった。ある四十一歳の男は、就いてから十九年になるが、義理の家族には長く隠していた。彼が最初に抱いた恐怖は、ハゲワシが自分を襲うのではないかというものだったという。ある六十二歳の最古参は、待遇改善を求めてストライキをちらつかせた。彼の言葉が強烈だ。

だったら他の連中が塔に入って掃除してみればいい、そうすれば分かる、と。

彼らは二千三年に労働組合を作った。三年間、昇給がないという状態も報告されている。三千年続いてきた信仰の最後の実務を担っているのが、共同体の内側でいちばん低く見られている人たちだという構図。これはチベットのロギャパの位置ともきれいに重なる。人は、自分の代わりに穢れに触れてくれる人間を必要とし、そして必ずその人を遠ざける。

イランの塔はなぜ静かになったのか

本家であるイランの側は、先に折れている。

ヤズドやケルマーンといった中部の乾燥地帯には、丘の上に円形の塔が今も残っている。ヤズドの塔は市街の南東十五キロほどの荒れ地に立ち、二つの塔と、麓の付属建物群からなる。中は同心の三重で、外側に男性、中に女性、内側に子ども。中央にオストダーンと呼ばれる骨の穴がある。使われなくなってから半世紀以上経つが、構造がそのまま残っているので、上まで登ればかつての配置が読み取れる。

今は国の文化遺産に指定され、観光客が登っている。

塔の使用が禁じられた時期については、一九六六年から六七年という記述と、一九七〇年代という記述の両方が流通している。ヤズドの共同体が最終的に塔を閉じたのは一九七四年とされる。理由は複合的だ。都市が広がって塔が住宅地に近づいた。近隣に医学校ができて、遺体が持ち去られる事案が起きた。そもそも衛生行政が近代化した。そして、イラン国内の信徒自身が、二十世紀初頭からすでに塔を離れはじめていた。

代わりに採用されたのがアーラームガーと呼ばれる墓地だ。土に直接触れさせないよう、遺体をコンクリートや石の槨に納めて埋める。教義上の禁忌を、工学的な隔離で回避する方式といっていい。厳格な伝統派から見れば妥協だが、現実的ではある。インドのパールシーが今もめているのは、この妥協をどこまで許すかという一点をめぐってなのだ。

ちなみに、この塔がいつからあるのかについては議論がある。古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは紀元前五世紀の半ばに、ペルシア人が遺体を鳥や犬に食わせてから埋めるという話を書き残している。ただし塔そのものには触れていない。骨を納める容器は紀元前四世紀から五世紀の遺物が出ている。儀礼としての体系が整うのはササーン朝の時代、三世紀から七世紀にかけて。

塔という建築形式の確実な記録が現れるのは、ずっと下って十六世紀という説が有力だ。つまり「三千年前から続く塔」という言い方は、厳密にはやや盛っている。思想は古い。建物は比較的新しい。

「沈黙の塔」という詩的な英語名も、彼ら自身の言葉ではない。十九世紀のイギリス領インドで、通訳として働いた英国人が使いはじめた呼称だとされる。現地の呼び名は単にダフマ、あるいは丘の名を取ったドゥーングルワーディーだ。あの独特の静けさを帯びた名前は、外から来た人間が付けた名前なのだ。そう考えると、この名前自体が、外部の人間がこの習慣に何を見たがったかの記録になっている。

モンゴルの草原と、日本の洞窟

鳥葬に似た葬法は、他の地域にもある。ひとつずつ見ておきたい。

モンゴルには、遺体を草原に置いてくる葬法が長く存在した。内モンゴルと外モンゴルで呼び方は違うが、どちらも「野に置く」という意味を含んでいる。荷車や馬で氏族ゆかりの土地へ運び、頭を北に向け、獅子が伏せるような姿勢で左を下にして横たえる。左腕を頭の下に入れる。そのまま置いて帰る。あとは鳥や犬や狼が来る。それを最後の功徳と考える。近隣の家の犬は、その時が来るまで繋いでおかねばならなかった。

南モンゴルでは、遺体を馬の背に乗せて走らせ、落ちた場所をそのまま葬地とするやり方も記録されている。

日取りは僧が決めた。月曜、水曜、金曜が選ばれることが多かったという。葬列が向かう方角も僧が指定した。遺族は三日後、七日後、十四日後、二十一日後、四十九日後に現地を確かめに行く。骨が残っていなければ、魂は無事に次の世界へ行ったということになる。四十九という数字がここにも出てくるのが興味深い。チベット仏教の中有の観念が、草原まで届いている。

この慣習は、一九二一年の革命後、とくに一九三〇年代の反宗教キャンペーンで禁じられた。以後は田舎の老人がひそかに続けるだけになり、一九六〇年代の終わりごろまでにほぼ絶えた。ヨーロッパ式の埋葬とソ連の影響が入り、定住化が進んだ。ここでもまた、政治と生活様式の変化が、教義よりも先に習慣を終わらせている。

そして日本。実は日本にも、遺体を外気にさらす葬法が広くあった。風葬という。

沖縄と奄美では近世まで一般的だった。遺体を洞窟や岩陰、あるいは石造りの墓室に安置しておく。そして三年、五年、七年といった年数を置いてから、遺族が骨を取り出して洗う。洗骨だ。海水や酒で洗い、拭き清め、改めて骨壺に納める。これを担うのは主に女性の親族だった。母の骨を、娘や嫁が素手で洗う。それが愛情の表現であり、義務でもあった。

明治期に行政が禁止に動いた後も、実際にはかなり後まで残った。久高島では一九六〇年代まで屋外での風葬が行われ、宮古島では一九七〇年代まで洞穴葬の記録がある。沖縄本島でも石室内での風葬が一九六〇年代まで主流だったとされる。つまり、日本の一部では、私たちの親の世代が生きている時代まで、遺体を土にも火にも渡さない葬法が現役だったのだ。

本土でも痕跡は多い。弥生時代や古墳時代の洞窟遺跡、岩陰遺跡には風葬の事例がある。長野県上田市の鳥羽山洞窟がよく知られる。平安期以降の京都では、化野、鳥辺野、蓮台野、帷子ノ辻といった地名が、遺体を運んで捨て置いた場所として記憶されている。六四六年の薄葬令によって庶民の風葬の慣習が変わっていったという整理もある。中世の記録には、遺体を樹上や台上に置く伝承も残る。

ある神社の起源譚には、天皇の棺を椎の木に掛けたという話が伝わる。棺掛桜、人掛松といった名を持つ木が各地にある。

東南アジアにも類例は多い。スラウェシ島のトラジャの人々は、岩壁を掘った横穴に死者を納める。ボルネオのイバンの人々は、台の上に棺を置く葬法を持っていた。遺体を高いところに置く、外に置く、そして時間に委ねる。これは決してヒマラヤだけの発想ではない。むしろ、地面に穴を掘って一人ずつ埋めて標識を立てるという私たちのやり方のほうが、人類史のなかではやや特殊な部類に入る。

ネットで語られる鳥葬と、実際の鳥葬のズレ

日本語のインターネットで鳥葬が話題になるとき、出てくる型はだいたい決まっている。閲覧注意のスレッド。世界の奇習まとめ。葬儀社のコラムに載った「日本でも鳥葬はできますか」という記事。そして海外の衝撃映像として貼られる、出所不明の画像。ここでいくつか、頻出する誤解を潰しておきたい。

まず「鳥葬は残酷な刑罰めいたものだ」という受け取り方。これは完全に外れている。チベット圏で鳥葬は最も一般的で、最も望ましいとされる葬法だ。むしろ土葬こそが、伝染病死や刑死といった不名誉な事情に結びついた低い扱いを受ける。日本の常識で「埋葬されるのが普通で、埋葬されないのは可哀想」と読むと、価値の上下が丸ごと反転する。

次に「遺族が泣きながら見守るなか、目の前で解体される」という絵。これも違う。多くの地域で遺族は天葬台に上がらない。付き添うと故人の未練になるからだ。台にいるのは僧と担い手と、鳥を制する男たち。家族はふもとで待つか、家にいる。この点、日本の火葬場で最後まで立ち会って骨を拾う習慣のほうが、外から見れば異様に映る可能性すらある。

「ハゲワシが食べ残すと不吉」という話は、半分正しくて半分伝言ゲームだ。完全に食べ尽くされることが吉とされるのは事実で、残ってしまった場合は焼いて処理し、僧が経を唱えるという地域がある。ただしこれを「食べ残された者は罪人」と単純化する語りは、現地の説明よりだいぶ乱暴だ。実際には、鳥が来ない理由には現実的な事情が多い。

病院で亡くなり薬剤が体内に残っていると鳥が寄りつかないという報告もあるし、都市化で個体数が減った地域では単純に鳥が足りない。信仰の話と生態の話が混線している。

「今も観光ツアーで見学できる」という情報も要注意だ。二千五年の規則、二千十五年の条例で、見物と撮影は禁止されている。にもかかわらず現地では規制が緩む時期があり、地域によっては事実上黙認されている場所もある。だから体験記が存在するし、動画も出回る。ただ、それは「見てもよい」という意味ではまったくない。仮に立ち入れたとしても、あなたはその日、誰かの母親の葬式に無断で入り込んだ他人だ。

この一点は、どんな法規制よりも重い。

「ゾロアスター教の鳥葬とチベットの鳥葬は同じもの」という混同もよく見る。形は似ているが、動機が正反対に近い。チベットは、いらなくなった体を他者に施す。ゾロアスターは、汚れた体で聖なる元素を穢さないために隔離する。前者は与える行為、後者は防ぐ行為だ。結果として鳥が食べるという同じ絵になるだけで、そこに込められた意味はまるで違う。

そして最後に、日本でできますか、という質問。できない。刑法百九十条の死体損壊等罪に触れる可能性が高いうえ、墓地埋葬法の枠組みからも外れる。加えて、そもそも国内に人間を短時間で処理できる規模の腐肉食の猛禽がいない。制度の問題以前に、生態系の問題としてできない。散骨についてはガイドラインの範囲で行われているが、あれは焼骨を粉状にしたものを撒く行為であって、鳥葬とは別物だ。

なぜ日本人は、これをこんなに怖いと感じるのか

ここまで書いてきて、最後に残るのはこの問いだ。なぜ私たちはこれを怖いと思うのか。

まず、私たちは遺体を見ない社会に住んでいる。日本の火葬率は九十九・九パーセントを超える。世界で断トツの一位だ。人はほぼ全員が病院で死に、葬儀社が引き取り、整えられて棺に納まり、顔だけ見せて、二時間ほどで骨になって出てくる。私たちが実際に目にする死体は、化粧を施されて布団に寝かされた状態のものだけだ。それ以外の姿を見る機会が、生涯を通じてほぼない。見慣れていないものが怖いのは、当たり前の話でもある。

次に、日本には死穢という感覚が根深く残っている。死は穢れであり、触れた者は一定期間、社会から距離を取る。喪中、忌中、清めの塩。私たちはこれを迷信とみなしながら、実際には毎回きっちり従っている。この感覚のもとでは、遺体をむき出しのまま外に置くという発想そのものが、二重三重に禁忌を破っている。しかも、それを人が手ずから扱う。ここで反応するのは理屈ではなく、身体のほうだ。

三つ目。私たちの死生観は、体をとっておく方向に組み立てられている。骨を拾い、骨壺に納め、墓に入れ、盆に帰ってくると考える。遺骨は故人の分身であり、置き場所を間違えれば祟る。この体系のもとでは、体が跡形もなく消えることは救いではなく、喪失に見える。何も残らないというのは、私たちにとって最も不安な結末なのだ。逆にチベットの側からすれば、何も残らないことこそが完成形になる。

この一点で、価値の向きが百八十度違う。

四つ目に、食べられるという形式そのもの。人間は食物連鎖の頂点にいるという前提で、私たちは日常を組み立てている。牛や豚を食べ、鶏を食べ、魚を食べる。その関係が逆転する光景を見せられると、前提そのものが揺らぐ。ある写真家が書いた「人間の体なんて一瞬で無くなる」という感想は、たぶんこの揺らぎのことだ。私たちは自分が肉であることを、ふだん一切意識せずに生きている。

鳥葬の映像は、それを十五分で証明してみせる。

そして五つ目、これがいちばん厄介だと思うのだが、私たちはこの怖さをどこかで楽しんでいる。閲覧注意のタグをつけて共有し、まとめサイトで消費し、奇習として並べる。怖いと言いながら見る。見たうえで、遠い国の理解しがたい風習として棚に戻す。これは安全な怖がり方だ。棚に戻せるかぎり、自分の死は問題にならないで済む。

だが、この記事を書きながら思ったのは、その棚がだんだん軋んできているということだ。日本でも墓が余り、継ぐ人がいなくなり、散骨や樹木葬が増え、遺骨をどうするかという問題が普通の家庭の悩みになっている。海外では遺体を堆肥にする方法が合法化された州もある。何を残し、何を残さないか。私たちも今まさに、その線を引き直している最中だ。丘の上でハゲワシを待っている人たちのことを、笑って見ていられる立場ではない。

高いところから、もう一度あの丘を見下ろす

ここまで書いてきたものを、いったん高いところから見下ろしてみたい。取材した資料を並べ直していて、いくつか気づいたことがある。書き残しておきたい。

まず、鳥葬という葬法の本質は「鳥」ではない、ということ。本質は「何も残さない」ことのほうにある。チベットの担い手が骨を砕いて麦焦がしと練るのも、ゾロアスターの塔が骨を中央の井戸に落として石灰と炭と砂で処理するのも、目的は同じだ。完全に消すこと。鳥はそのための最も効率のよい装置であって、目的ではない。だからこそ、鳥が消えたときにパールシーがまず試したのは化学薬品であり、次が鏡だった。

彼らは代替の鳥を探したのではなく、代替の消去装置を探した。この順番に、教義の芯が出ている。

そしてここに、この記事全体を貫く皮肉がある。パールシーの塔で今起きているのは、消えるはずの体が消えなくなってしまった、という事態だ。教義は変わっていない。信仰も揺らいでいない。ただ、その教義を成立させていた生態系の一部が、鎮痛剤ひとつで抜け落ちた。宗教は千年単位で持ちこたえるが、その宗教を支えていた鳥は十年で消える。信仰の耐久性と、それを実行するインフラの脆さの落差。これは他人事ではない。

日本の葬送だって、火葬場と燃料と、それを回す自治体の財政という、まったく世俗的なインフラの上に乗っかっている。どれかが抜ければ、あっという間に同じ立場になる。

二つ目。この記事で扱った二つの伝統は、担い手を必ず遠ざけるという同じ構造を持っていた。チベットのロギャパも、ムンバイのカンディヤーも、共同体にとって不可欠でありながら、共同体の内側で最も低く置かれる。心づけを渡すときに手を触れない、という描写を読んだとき、私は日本の歴史の中の似た構造を思い出さずにいられなかった。人は、自分では触れたくないものに触れてくれる誰かを必要とする。

そして、その誰かに触れたくないと思う。この矛盾を解決できた社会は、たぶんまだない。少なくとも私は聞いたことがない。奇習として消費される風習の内側に、こういう普遍的で、まったく奇習ではない構造が埋まっている。ここを見落とすと、この話はただの怖い話で終わってしまう。

三つ目に、当事者たちの態度の話をしたい。目撃記録を読んでいて一貫していたのは、彼らがまったく深刻ぶらないということだった。刃物を研ぎながら世間話をし、途中で笑い、終われば手を洗って冗談を言う。外から来た人間はそこで必ず戸惑う。不謹慎に見えるからだ。だが、あの明るさは無神経さではなく、明確な技術だと思う。場を重くしないことが死者のためになる、という信念に基づいた振る舞い。

日本の葬儀で私たちが声を落とし、笑いを慎み、決められた表情を作るのも、まったく同じ種類の技術だ。方向が逆なだけで、どちらも死者のためにやっている。どちらが正しいという話ではない。

四つ目。禁じられる、というテーマが繰り返し出てきたことに触れておきたい。一七九三年の清朝の勅令、文化大革命の禁止、一九三〇年代のモンゴルでの弾圧、イランでの一九六〇年代から七十年代にかけての終了、明治の日本での風葬禁止。権力は繰り返し、この種の葬法を止めようとしてきた。理由づけは衛生だったり、近代化だったり、迷信の排除だったりする。そして興味深いことに、止まったところと止まらなかったところがある。

止まったのは、代替手段が用意できた場所だ。イランには土地と資材があり、コンクリートの槨に納めるという妥協ができた。モンゴルは定住化とともにヨーロッパ式の墓地に移った。日本は明治から昭和にかけて火葬インフラを整えた。一方、チベットでは代案が成立しなかった。凍った土と、薪のない高地。だから禁令が何度出ようが、続いた。文化の頑固さの正体は、多くの場合、思想ではなく地形だ。

この身も蓋もない結論に、私はけっこう説得力を感じている。

五つ目。私たちが何を「見てよい」と考えているかについて。この記事を書くにあたって、私は相当な数の目撃記録に目を通した。そのなかには、遺族の許可を取って書かれたものもあれば、明らかに無断で撮られた映像もあった。二千十年代に公開されたあるドキュメンタリーは、この差そのものを主題にしていた。作り手は遺族の同意を得たうえで撮影し、同時に、鳥葬の映像が外部でどう消費されてきたかを問い直した。

撮る側の倫理を作品の内側に折り込んだわけだ。この姿勢は正しいと思う。そして、その正しさは、こういう記事を書く人間にも当然かかってくる。生々しさは商品になる。だが、生々しさの元になっているのは誰かの家族の最後の日だ。この二つを同時に手に持っていることを忘れると、書き手はすぐに、望遠レンズを構えて丘に登った八十年代の観光客と同じ位置に立つことになる。

六つ目に、数字の話をもう一度しておきたい。インドで消えたハゲワシはおよそ数千万羽。その結果として推計された人間の超過死亡はおよそ五十万人。ムンバイのパールシーはおよそ四万人で、共同体全体では六万九千人前後、世界でも十四万人に届かない。ドゥーングルワーディーの森は五十四エーカーで、その地価はおよそ二十億ドル。塔に運ばれてくる遺体は一日およそ三体。井戸の掃除の手当は九千ルピー。

数字を並べていくと、この話の性格が変わって見えてくる。これは奇習の話ではなく、絶滅と、都市開発と、少数者の権利と、労働条件の話だ。オカルトの棚から出して、社会面に置き直すと、まったく別の記事になる。両方が同じ事実の別の顔だというところが、この題材のいちばん面白いところだと思う。

最後に。私はこの取材のあいだ、ずっと同じことを考えていた。もし自分の体をどうするか本当に自分で選べるとして、何を選ぶだろうか、と。骨を残して墓に入れてほしいのか。粉にして海に撒いてほしいのか。それとも、跡形もなく消えたいのか。

チベットの人々にとって、鳥に渡すことは最後の布施であり、体を使い切ることだった。パールシーにとって、塔に置くことは世界を汚さないための最後の礼儀だった。どちらも、自分が消えることを損失だとは考えていない。むしろ、きれいに終わることを設計している。日本人の私にはその感覚がまだよくわからない。わからないまま、少しうらやましいとも思う。

丘の上では今日も、夜明け前にジュニパーの煙が上がる。空の一点から鳥が降りてくる。誰かがそこで、きれいに終わる。怖い話としてこれを読んできた人が、最後に少しだけ違う後味を持って帰ってくれたら、この長い記事を書いた甲斐がある。

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