- 船底に、女の髪が埋まっている
- そもそも船霊様って何なんだ
- 御神体の中身を、ひとつずつ開けてみる
- サイコロの目には、決まった置き方がある
- 十二文銭は、遭難したときの保険だった
- 髪は誰の髪なのか――八丈島のフナダマササギ
- 船大工だけが知っている唱え言
- 宗像の「ツバサミ」――人形を入れない流儀
- 徳島・伊島の紙人形と、日の丸の扇子
- 愛媛・宮窪の最後の木造漁船、昭和五十年
- 船大工を海に放り込む
- 船霊が鳴く――チッチッチ、ぢっちんぢっちん
- 続日本紀に残る、いちばん古い記録
- 「女を船に乗せるな」の正体
- 逆に「女を最初に乗せる」地域がある
- 聞き書き① 「お前は乗せられない」と言われた娘
- 聞き書き② 祝詞を覚えている、船大工の孫
- 聞き書き③ 廃船の解体をした男の話
- ネットでの反応と、知識共有サイトの質問
- 女性漁師の数字――女人禁制が崩れた現代
- 船霊は、どこへ行ったのか
- 乗せてもらえない女と、船底に埋められた髪
船底に、女の髪が埋まっている
こんな話をされたことがあるだろうか。日本の漁船には、船の、普段は目につかない部分に、小さな箱が埋め込まれている。甲板を歩き回っても、船室をのぞいても、その箱がどこに埋まっているのかは、毎日乗っている者にさえまず分からない。で、その中に何が入っているか。
中身は、男女一対の人形に、サイコロ二個、十二枚の銭、五穀、それから女性の毛髪だ。地域によっては白粉や口紅も入る。これを船大工が、誰にも見せないように、唱え言を唱えながら納める。人形と銭と穀物と、誰かの髪までがひとつの小さな箱の中で肩を寄せ合っている図は、想像するとなかなか落ち着かない。
蓋を閉める直前に酒をふりかける。蓋をして、釘を打つ。この瞬間、ただの木の箱だったものが「船霊様」になる。釘を打ち終えたその時点で、箱の中身は船大工の手を離れ、もう誰の持ち物でもない、船そのものの一部に変わる。昔の船大工たちは、この一連の作業を、船主にも乗り手にも見せないまま、自分たちだけで済ませていた。
これを知ったとき、正直ちょっと背筋が冷えた。船というのは、人を乗せて海に出る、だだっ広い木の器だ。その器に、人間を思わせるものを全部詰めている。生きた人間が乗る器の中に、さらに人のかたちをしたものが黙って入っているという入れ子の構図が、どうにも薄気味悪い。
器に、人を詰める。人の形と人の髪、人が使う金、人が食う穀物、人が運を託すサイコロ、それに女の化粧道具。ひとりの人間を簡略化して詰めているんだよな。それを船の中心に封じることで、船は「船」になる。白粉や口紅のような化粧道具まで入れるあたりに、ただの人間でなく、はっきり女をひとりこしらえようとする意図が透けて見える。
しかもこの神様は、女なんだ。しっかり嫉妬もする。だから「女を船に乗せるな」という禁忌が、つい最近まで日本中の漁村で生きていた。箱の中に封じられた女と、船に乗せてもらえない生身の女、この二つがどうつながるのかが、この先ずっと付いて回る問いになる。その話をしたい。
そもそも船霊様って何なんだ
呼び名は多い。船霊様(ふなだまさま)は、船に宿る守り神だ。船玉、フナダマさん、オフナサマ、地域によって呼び方は揺れる。名前がこれだけ土地ごとに揺れていても、指しているものは同じで、どれも船そのものの中に入っている神さまのことだ。共通しているのは、この神が「船と一体である」という点だ。
神社にいる神を拝んで守ってもらう形とは違う。船の中に、船を作る段階で、神を入れる。入れなければ船は完成しない。だからこれは守護というより、魂入れに近い。神社の神は人のほうが出向いて拝むものだが、船霊は最初から船の内側にいて、乗る人間と一緒に毎日沖へ出ていく。
納める場所は、時代と船の構造で変わる。帆柱のあった木造船の時代は、帆柱を立てる筒や、それを支える船梁に四角い穴を彫って納めた。この場所をモリ、ツツと呼ぶ。帆柱の筒も船梁も、船の骨組みのなかで要になる部材で、わざわざそこに穴を彫って神を収めるわけだ。
ブリッジのない小型船では、舳先の船梁部分に四方形の穴を彫り込むやり方もある。機械船の時代になると、四角い角材に穴を彫って、それを操舵室や船槽に打ち付ける形に変わった。もっと新しい船だと、操舵室に神棚を設けてそこに納める。船の形が変わるたびに、神の居場所も帆柱の根元から角材へ、角材から神棚へと引っ越していくわけだ。
納め場所は動く。形は変わっても、「船のいちばん大事なところに入れる」という発想は変わらない。帆柱の根元でも、角材の穴でも、操舵室の神棚でも、船霊が船の要の場所に置かれてきたことだけは、どの時代も一貫していた。
ここで面白いのは、船霊様は原則として「誰も見ない」存在だ、という点だ。埋め込んだら、もう開けない。乗組員は、自分の足元のどこかに神がいると知っているが、その姿を見たことはない。一度閉じた箱は、よほどのことがない限り、船底や柱の奥の暗がりに収まったまま、船と一緒に黙って海で働き続ける。
例外は一人。見ているのは、納めた船大工だけだ。漁師と船大工以外にはそもそも知られていない信仰だ、と記す資料もあるくらいで、これは神社の信仰とは全然性質が違う。実務に埋め込まれた、現場の神なんだ。拝殿で手を合わせる神とは違って、この神は人目に触れない場所から、船大工と漁師の仕事だけを見守ってきた。
御神体の中身を、ひとつずつ開けてみる
では何が入っているのか。各地の記録を並べてみると、意外なほど共通項目が多い。土地ごとに細部はずいぶん違うのに、骨組みになる品はだいたい決まっていて、並べていくとはっきり一つの型が見えてくる。
人形は男女一対が基本で、木を平たく削って墨で顔を描いたものや、紙を折って作ったものがある。愛媛の事例では、女の人形の帯にだけ色をつけるという丁寧さだ。銭は十二枚が基本で、閏年の年に作る船には十三枚入れる。一枚が一か月に対応しているわけだ。
江戸期は十二文銭、近代になると十円玉や百円玉を十二枚。五穀は米、麦、粟、稗、大豆という組み合わせが多い。これにサイコロ二個と、女性の毛髪が加わる。船大工が手で作る人形とサイコロを除けば、どれも台所の棚や財布の中にふつうに転がっていそうな日用の品ばかりだ。江戸の船にも近代の船にも、その時代に出回っていた銭が、変わらず十二枚という数で納められてきた。
地域で追加されるものもある。鐘崎や大島のある福岡の沿岸では、人形などを入れないやり方がある。徳島県の阿南市伊島では、カラムシの繊維、真綿、日の丸の扇子を二本、それに小銭を納めていた。白粉や口紅を一緒に入れる地域もある。麻のひもを入れるところもある。
一つひとつの意味をこじつけると、このセットの意図が見えてくる。人形は人間であることを、五穀は食うことを、銭は生きていくための手段を、サイコロは運を、髪と化粧道具は女であることを、それぞれ表している。神を招くというより、神が宿れるだけの条件を揃えている。器を作って、中身を揃えて、蓋をする。やっていることは、とても実務的だ。
サイコロの目には、決まった置き方がある
この信仰で俺がいちばん好きなのが、サイコロの置き方だ。これがちゃんと決まっている。箱の中へ適当に放り込むのかと思いきや、上下も前後も左右も、どの目をどちらへ向けるかまで指定がある。サイコロといえば運任せの道具の代表なのに、ここでは少しの遊びも許されない、やけに几帳面な扱いを受けている。
口伝えではこう言う。「天一地六、表三あわせトモ四あわせ、中にどっさり」。上に向いている面が一の目、下が六の目で、船の前側を向いているのが三、船尾側が四。残りの五の目を、船の中心側に向ける。二個のサイコロの向きは揃える。
なぜこの配置なのか。ごろ合わせなんだよな。「中にどっさり」は五の目を指すと同時に、船の真ん中に獲物がどっさり入ることも言っている。天と地を定め、前と後ろを定め、真ん中に豊漁を置く。サイコロの目の配置で、船という世界の座標軸を定義しているわけだ。
これを知ってから、サイコロを見る目が少し変わった。サイコロは向かい合う面の和が必ず七になる。一と六、二と五、三と四。小学生でも知っているこの決まりが、船大工の唱え言の中では、ちゃんと仕事をしている。向かい合う目の和が七という性質を踏まえると、この唱え言がどれだけ無駄なく組まれているかがよく分かる。
天を一、地を六にすれば、自動的に残りの四面が決まる。前を三にすれば後ろは四。すると横に残るのは必然的に二と五。「中にどっさり」を五に向けるというのは、もう一方の面を自動的に二にするということで、これで六面全部の向きが一意に定まる。三つの面の向きさえ言えば残りは勝手に決まるので、唱え言は短いまま、取り違えの余地もなくなる。
この唱え言は、サイコロの向きを一義に指定するための、至って合理的な手順書なんだ。味も素っ気もない話に見えて、そうじゃない。文句を唱えながら手を動かしているかぎり、どの船大工がやっても、サイコロは同じ向きにしか置けない仕掛けだ。船大工の仕事は、神事である以前に技術だった。
十二文銭は、遭難したときの保険だった
銭を十二枚入れる理由も、単なる縁起担ぎではないという。説明は二通り。銭は昔から、めでたい縁起物であると同時に、いざというときには誰の手でもそのまま使える現金でもあった。
もちろん十二か月を表す、という説明が基本だ。閏年に十三枚にするのもその線だ。一年を丸ごと船に乗せる。もうひとつ、もっと実際的な意味を指摘する声がある。遭難したときの経済的な保険だ、というのだ。
これを聞いたとき、うわっとなった。こういうことだ。船が壊れる。どこか見知らぬ浜に流れ着く。あるいは、人だけが流れ着く。
そのとき、壊れた船の残骸のなかに、サイコロと人形と一緒に、十二枚の銭が入っている。それを使って、帰る。あるいは、拾った人がそれを使って、遺体を引き取ってやる。船の守りとして納めたはずの縁起物の銭が、ここでは生き残った者の帰りの旅費にも、死んだ者の弔いの費用にもなる。
話は古い。古代から、旅に出る者の口に銭を含ませるという発想は世界中にある。三途の川の渡し賃だって同じだ。船霊の十二文は、船自身に含ませた渡し賃なのかもしれない。死者に持たせる銭と、生きて帰るための銭が、同じ箱の中で区別もされずに眠っているのが、なんとも生々しい。
船は毎日沖に出て、毎日帰ってくる。いつか帰ってこない日が来ることを、作る側も乗る側も十分に知っていた。だから最初から、最後の分の金を入れておく。この割り切り方は、漁師という仕事の性格をものすごく表していると思う。
髪は誰の髪なのか――八丈島のフナダマササギ
この信仰でいちばん引っかかるのが、女性の毛髪だ。誰の髪を使うのか。人形は削れば作れるし、銭や穀物はどこででも手に入るが、髪だけは、誰か生きている人間に頼んで切ってもらうしかない。
いちばん多いのは、その船を作った船大工の妻の髪だという伝承だ。船を作った男の、伴侶の髪。作り手の家族ごと船に入れていることになる。地域によっては陰毛を使うという記録もある。妻の髪を差し出すことは、船大工の家にとって、夫の仕事の一部であると同時に、家族ぐるみで引き受ける務めでもあった。
八丈島では、この役目の女性を「フナダマササギ」と呼んだという。で、この女性は髪を渡して終わり、じゃない。ここが効いてくる。髪を渡したその日から、この女性は、自分では一度も乗ることのない一艘の船と、何十年にも及ぶかもしれない長い付き合いを始める。
巫女的な役割を果たし、その後もずっとその船に関わり続ける。船には「担当の女性」がひとりついている。乗らないけれども、ひとりだけ紐づいている女性がいる。船が漁に出ているあいだも、漁から戻った船を港で迎えるときも、その女性と船とをつなぐ縁は切れていないわけだ。
話は遡る。もっと古い層に見え隠れするのは、この女性が元々は何だったのかという問題だ。瀬戸内周辺の事例を調べた考察には、この髪の主はもともと巫女だったのではないか、という見方がある。今の伝承に残っている船大工の妻の髪は、もっと古い時代の、巫女を中心にした仕組みの名残なのかもしれない、という読み方だ。
「オフナサマ」と呼ばれた女性が実在し、その人の毛髪が神の代理として船に入った。やがてその役職が消え、髪だけが残った。役目の名前は消えても、髪を入れる手順のほうは生き延びる。で、髪の供給元が船大工の妻に変わった。この筋書きはけっこう説得力があると思う。
俺がいちばん怖いと思うのは、この信仰の中で女性が、同時に二つの扱いを受けていることだ。船には乗せられない。船の中心には女の一部が封じられている。身体は拒否され、髪だけが採用される。乗せないと決めた相手の一部を、船のいちばん大事な場所に閉じ込めておくという矛盾が、どうにも引っかかる。
しかも選ばれた女性は、自分の髪が埋まった船に、一生乗れない。夕暮れに港からその船を見て、あの底に自分の髪があると知っている。そういう状態を、何十年も続ける。船が沖から無事に戻ってくるたびに、自分の髪を乗せた船を、本人はいつも岸の側に立って迎えることしかできない。
船大工だけが知っている唱え言
御神体を納めるのは、必ず船大工だ。船主でもなければ神主でもない。作った人間が、自分の手で入れる。金を出した持ち主でも、祝詞を読む専門家でもなく、木を選び、削り、組み上げた当人が、最後の仕上げとして神を入れる。
このとき、船大工は特有の文句を唱える。唱え言だ。内容は一般には伝えられない。船大工から船大工へ、弟子入りした者にだけ伝えられる。師匠から弟子へと口移しで受け継がれてきた文句は、そのぶん、造船場の外にいる人間の耳にはほとんど届かなかった。
全部、船大工の仕事だ。御神体の入れ物も、容器も、人形も、サイコロも、すべて船大工が自分で作る。銭も穀物も船大工が用意する。船主は金を出すだけで、中身には関与しない。入れ物から人形まで船大工がこしらえ、銭や穀物まで船大工が揃えるので、船主の手が入る余地はどこにもない。
もっと重いのが、入れ替えの場面だ。不漁が続いたとき、あるいは亡くなった人を船に乗せてしまったとき。こういう場合、船霊を入れ替える。この作業も船大工がやる。入れ替えの場でも、新しい船を下ろすときと同じように船大工がもう一度呼ばれて、古い船霊を抜き、新しい船霊を納めるために自分の手を動かした。
船大工は、船を作る職人であると同時に、船の魂を入れたり抜いたりする神職だった。不漁の相談に乗り、死の穢れを祓う。港町での船大工の位置は、単なる業者の域を超えていた。漁がふるわない悩みも、身内の死にまつわる穢れも、港ではまず船大工のところへ持ち込まれる話だったわけだ。
与島の船大工だった辻岡忠治という人は、「フナダマさんはわしの命の恩人じゃ」と語ったという。作った本人が、自分で入れた神に救われたと言う。これは矛盾しているようで、本当はしていないと思う。船を作る側の人間が、自分の手で作って自分の手で神を入れた船に、逆に命を拾われたと感じている、というところが面白い。
理屈はこうだ。彼は自分の手が作った船の頑丈さを知っている。その頑丈さは、材を選び、釘を打ち、継ぎ手を合わせた自分の技量の結果だ。それを言葉にするとき、職人は自慢を避けて神の名を使う。神の名を借りれば、自分の腕の自慢をせずに済むし、無事に帰してくれた船への感謝も、照れずにまっすぐ口にできる。
宗像の「ツバサミ」――人形を入れない流儀
地域差を見ていこう。面白いのが、まず福岡県宗像市の沿岸だ。同じ船霊様を祀っていても、箱に何を詰めるか、それどころか箱に何かを詰めるのかどうかまで、土地によってがらりと違う。
宗像は違う。鐘崎や大島を中心に、遠賀郡芦屋や糟屋郡新宮にも点在するこの地域の船霊様は、人形もサイコロも銭も入れない。代わりに行うのが「御神入れ」と呼ばれる儀式だ。「船霊ごめ」ともいう。宗像の浜では、箱に中身を詰めて神の居場所を整える代わりに、船大工の手でじかに神を呼び込むやり方が選ばれてきた。
やり方がすごくシンプルで、しかも背筋が寒い。船大工が木で船霊様の形を作る。この段階では、まだ神は宿っていない。外から形だけ見れば、神が宿る前も宿った後も、船大工の手元にあるのは同じ木の部品でしかない。
ただの木の部品だ。進水式の前夜、左右にノミでバツ印の刻みを入れる。その瞬間、神が宿る。ノミの刃が木に食い込むその一打ちで、さっきまでただの部品だったものが神に変わる、という理屈だ。
刃を入れることで神が宿る。この発想は、他の地域の「中身を詰める」方式とは根本から違う。入れ物を使わずに、傷で神を呼ぶ。しかも前夜に、夜中に、船大工ひとりがやる。完成した船の胴をノミで切る音が、造船場に二回鳴る。
この地域では、船霊様を「ツバサミ」とも呼ぶ。これは帆柱を入れる筒を固定する「筒挟み」という部品の名前だ。神の器でなく、実用の部品そのものが神になる。帆柱を支える部品は、帆船が風を受けて走るあいだ、船の中でも大きな力を受け止めていたはずの場所だった。
この形式は全国的に珍しく、宗像地域の特色だという。神を入れる場所を別に作らずに、船を成り立たせている部品に神を宿らせる。より一体化が進んでいる、と見ることもできる。神のための特別な置き場を別にこしらえず、帆柱を支えて船を成り立たせている部品そのものを神にしてしまう発想は、ずいぶん思い切っている。
徳島・伊島の紙人形と、日の丸の扇子
徳島県のほうは、入れ物派の典型例だ。宗像が部品にノミの刃を入れて神を呼ぶのに対して、こちらは小さな箱にあれこれ詰め込んで、神が住むための居場所を用意する。
伊島の場合。阿南市伊島では、木造船を新造した漁師の依頼を受けて、船大工が船霊様を納めていた。中身は男女一対の紙人形が基本で、カラムシの繊維、真綿、日の丸の扇子を二本、小銭。これにサイコロ、硬貨十二枚(閏年は十三枚)、女性の髪の毛、五穀が加わる。白粉や口紅を一緒に納めることもある。
日の丸の扇子が二本、というのがいい。祝いの道具であり、風を送る道具でもある。帆船の時代、風は生死の問題だった。扇子を入れるというのは、順風を封じ込むということだろう。カラムシの繊維や真綿は、人形の髪になったり衣になったりする。
納める場所にも差がある。ブリッジのない小型木造船では、舳先の船梁部分に四方形の穴を彫り込んで納める。操舵室のある動力船になると、操舵室内に神棚を設けてそこに納める。美波町日和佐浦では、二〇〇七年四月の時点で、操舵室の神棚に納められた例が確認されている。二十一世紀に入っても、この信仰は形を変えて生きているわけだ。
骨格は同じで、入れるものも場所も地域で違う。これを「バラバラだった」と見るのは早いと思う。船に神を入れなければならない、という根っこの発想があまりに強固だからこそ、具体的なやり方は土地ごとに自由に発展した。型より発想のほうを守ってきたからこそ、帆船から機械船へと船の姿が変わっても、船霊は形を変えながらしぶとく生き残った。
愛媛・宮窪の最後の木造漁船、昭和五十年
いちばん具体的な記録が残っているのが、瀬戸内だ。愛媛の調査記録には、宮窪町の造船所の船大工からの詳しい聞き取りが残っている。聞き取りに応じた船大工は、自分の手で何艘もの船に納めてきた御神体の中身を、ひとつずつ具体的に挙げた。
ここの船霊さまの御神体は、檜で将棋の駒の形に造られた祠に納められる。中に入るのは、人形(男女一対、女は帯に色)、銭十二文(閏年は十三文)、柳で作ったサイコロ二個、五穀(米・麦・粟・稗・大豆)。将棋の駒の形というのが、なんとなく神位を思わせていい。檜の祠に収まった一式を思い浮かべると、神棚というより、よくできた道具箱のようにも見えてくる。
二つの数字が重い。この造船所が昭和五十年九月に進水させた「蛭子丸」は、木造漁船としては最後の建造船だった。平成三年の調査時点で、進水から十七年が経ち、まだ現役で稼働していた。証言した船大工は当時七十六歳。後から見れば、木造の漁船を作ってきたこの造船所にとって、蛭子丸の進水は、ひとつの時代の終わりを告げる出来事だった。
木造船から強化プラスチック製の船への転換は、この信仰にとって致命的だった。帆柱がない。船梁に穴を彫ることができない。何より船大工が建造しない。船の造り方そのものが根元から変われば、神を入れる場所も、神を入れる手を持った人間も、同時に現場から失われる。
造船は工場の仕事になり、魂を入れる工程は工程表から消えた。儀式は簡略化され、地上の寺社のお札を機関室に納める形に変わっていった。神を内部に封じる信仰から、外から札をもらってくる信仰へ。一見似ているが、性質は正反対だ。
船大工を海に放り込む
進水式、つまり「船下し」の場面を見ていこう。ここも相当変わっている。進水の日の段取りを順に追っていくと、厳かな神事と、ほとんど悪ふざけに近いものとの境目が、どんどん怪しくなってくる。
紋付きの神主役。瀬戸内の事例では、船下しの日、船大工は建造に使った道具、タイ、米、野菜、果物、酒を祭壇に供えて祝詞をあげる。紋付きを着ている。役割としては神主だ。道具まで祭壇に並べたのは、この船を形にした仕事そのものを神の前へ差し出すためだ、と俺は読む。
で、儀式が終わると、その船大工を海に放り込む。さっきまで紋付き姿で祭壇の前に立ち、祝詞をあげていた神主役が、そのまま海へ落とされるわけだ。
紋付きのままだ。これが船のこけら落としのようなものだったという。地域によっては、船大工本人の代わりに、大工や船主の妻や娘を船上から海中に突き落とすところもあった。晴れの紋付きを着たまま海へ落とされる船大工の姿は、想像するだけで笑えるし、同時にどこか痛々しくもある。
この光景を想像すると、儀式というものの本質が見える。新造船の進水はめでたい。同時に、この船はこれから何十年も人を乗せて、人の命を海の上に放り出すことになる。進水の日の笑い声の裏には、この船がいつか誰かを死なせるかもしれない、という覚悟がちゃんと控えていた。
その最初の一人を、作った本人が務める。海に落ちて、濡れて、上がってくる。笑いのなかで、一回だけ海に飲まれて、帰ってくる。遭難のミニチュアを、めでたい形で先にやっておく。船大工が海に落ちて、ずぶ濡れで上がってくるまでの短いあいだに、遭難から生還までの筋書きが一通り演じられる。
山の気を抜く。試運転のときに船をごとごと揺すぶるという風習もある。理由は「山の神様の気がまだ残っている」からだという。考えてみれば、船の材料は山から伐ってきた木だ。山で育った木は、船の形になってもそのままでは海に居つけない、という感覚が、この風習の根っこにある。
山で木を切るところからすでに儀式が始まっていて、着工、骨組み、板張りと各段階に神事がある。最後、海に浮かべる段になって、山の神を振り落とす。山のものを海のものに変える。この属性変更の手続きが、これほど丁寧に組まれているのは面白い。
船霊が鳴く――チッチッチ、ぢっちんぢっちん
ここからは怖い話だ。船霊様は、鳴く。漁師たちは、船の奥のほうから聞こえてくる小さな音を、神からの知らせとして真剣に受け止めてきた。
航行中、船霊を納めたあたりから、音がする。「チリンチリン」「チッチッチ」。モリやツツから出る「ぢっちんぢっちん」という音は、神の垂れる神託と受け取られた。西日本の広い範囲で、嵐の前触れや危険のときに船霊様が鳴いて知らせるという伝承がある。
この音の意味は一定じゃない。よくないことが起きる前触れだという土地もあれば、特定の場所を通過すると鳴るという土地もある。漁場の位置を知らせると言うところもある。共通しているのは、「神が口をきいている」という解釈だ。
現実的には、これは船体の警戒すべき異音だと思う。木造船は、釘と継ぎ手と板の集合体だ。波を受ければ全体がしなる。音の出どころが、ちょうど神を納めたモリやツツのあたり、帆柱の根元の力のかかる場所というのも、よくできた話だ。
しなると、どこかが食い込む。食い込めば音が鳴る。船が鳴くのは、船が無理をしているしるしだ。ベテランの漁師は、その音の質と位置で、船のどこに無理がかかっているか判断できただろう。耳を澄ませば船の具合が分かるというのは、木の船に長く乗ってきた人間ならではの感覚だ。
だからここでは、信仰と安全管理が完全に一致している。「船霊様が鳴いたら引き返せ」という教えは、「船体から異音がしたら引き返せ」と完全に同義だ。神の声という形を取ることで、このルールには例外がなくなる。引き返すかどうかを人間の欲や面子に任せず、神の声に預けたところに、この教えの強さがあった。
音がすれば戻る。今日はノルマだとか、もう少しだけとか、そういう交渉ができない。神が鳴いたら戻る。この単純さが、何人の命を拾ったかはわからない。沖で引き返すかどうかの判断は、船主や仲間の顔色をうかがっていたら遅れるし、神の名はそういう迷いを一発で断ち切る。
続日本紀に残る、いちばん古い記録
この信仰、どのくらい古いのか。これがめちゃくちゃ古い。記録は八世紀。船に宿る神への祈りは、奈良に都が置かれていた時代の出来事として、のちに国の歴史書に書き留められた。
起源は古い。奈良時代の正史である『続日本紀』に、天平宝字七年、西暦でいえば七六三年の記事がある。遣渤海使の船が高麗からの帰国途中に暴風雨に遭い、船霊に祈願したところ無事に帰国できたという記述だ。七五八年には、船霊祭を営んだ記録も確認できる。
八世紀の段階ですでに、国家の公式な外交船が「船霊」に祈っている。これは地方の民間信仰の話にとどまらない。容易に人が死ぬ時代の外洋航海で、国家の使節団がすがる対象だった。朝廷の命を受けた役人を乗せた船でさえ、嵐の中で最後にすがったのは船に宿る神だった、というのが面白い。
遣渤海使というのがまた、とんでもない航海だ。日本海を横断して大陸北東部に渡る。冬の日本海だ。帰れない船もあった。当時の木造船で冬の日本海を渡るのは、向こうに着いて、また帰ってくるだけで、博打のような命がけの仕事だった。
そういう航路で、嵐につかまって、乗っている者たちは何に祈ったか。陸の神社でも、都の仏でもなく、自分たちが乗っている、この船に宿っているはずの神に祈った。海の真ん中では、足元の板一枚下が地獄だ。その板を信じる以外にやりようがない。
対して、陸に上がった船霊信仰もある。富山県射水市の新湊では、ある家が江戸時代中期から大正時代まで、氷見屋と称して廻船問屋を営んでいた。その家の船霊の資料が伝わっている。廻船問屋にとって船は商売そのものなので、船を守る神は、家を守る神とほとんど変わらない存在だったと思う。
旧暦正月十一日の起舟祭のときに使われた。その家が持っていた和船と西洋式帆船を模して作られている。商売の規模が大きくなると、船霊は実際の船から離れて、座敷の祭壇に上がる。正月十一日に「船霊祭」や「船迎え」を営む地域は全国にある。
「女を船に乗せるな」の正体
この記事のもうひとつの主題だ。船の中に女の髪を封じながら、生きた女は船に乗せない。そのねじれの出どころを探っていく。女の髪を大事に船の中心へ封じてきた漁村が、同じ口で、生身の女を船から締め出してきた。
全国的に、船霊は女神だという。この女神は嫉妬する。だから女性が船に乗ると、憑かれたり、天候が荒れたりするとして忌む。これが「女を船に乗せるな」という禁忌の、もっとも広く知られた説明だ。嫉妬する女神という説明は、筋が単純で分かりやすいぶん、どこの浜でも子どもにまですんなり受け入れられてきた。
この説明は、どこまで行っても後付けの理屈だと思う。というのも、船霊の御神体には男女一対の人形が入っているからだ。女神単体じゃない。もし嫉妬深い独り身の女神なら、男の人形を一緒に入れるのはつじつまが合わない。後から「女神だから嫉妬する」という説明が貼り付けられた、とみるのが自然だ。
では元の理由は何か。いくつかの層が重なっている。血の穢れ、男女の分業、村に子を残すための判断と、同じ禁忌の下に、性格のまるで違う理由が何枚も重なっている。
ひとつは、血の穢れの観念だ。日本の信仰では長らく、月経や出産を「穢れ」として神事から遠ざける発想があった。神を乗せている船には、その理屈で女性を乗せられない。これは山の女人禁制と完全に同じ構造だ。神事の場から女を遠ざける理屈は、船の上でも山の上でも、長いあいだ同じ形で働いてきた。
穢れだけではない。もうひとつは、労働の分業だ。沖に出るのは男、浜で処理と販売をするのは女。この分業体制を固定するためのルールとして、神の名が使われた。沖で魚を獲る男と、浜で魚を捌いて売る女という線引きは、神の名を借りたことで、動かしにくいものになった。
三つ目がある。もうひとつ、これがいちばん実務的なのだが、子を産む存在を危険な場所に連れていかない、という選択だ。集落の男が一度に沈んでも、女と子が残っていれば村は続く。逆は続かない。村を絶やさずに残すという理屈で見れば、女を船に乗せない決まりは、冷たいようでいて、じつは計算ずくの選択でもある。
だからこの禁忌は、単純な女性蔑視だとも、純粋な保護だとも言い切れない。両方が入り混じっている。ただ、結果としてこのルールは女性から職業を遠ざけてしまった。保護を名目にした排除は、やっているうちに単なる排除になる。この化け方が、この禁忌のいちばん厄介なところだ。
逆に「女を最初に乗せる」地域がある
逆もある。ここでひっくり返す事例を紹介したい。瀬戸内のいくつかの土地では、船初めのときに、最初に女性を乗せる。女を船に乗せるなと言い張る浜がある一方で、船初めの日にわざわざ女を先に乗せて祝う浜が、同じ瀬戸内の海にちゃんとある。
答えは逆。理由は、船霊さまが女の神様だからだという。禁忌の説明と全く同じ前提から、正反対の結論が導かれている。女神だから女を嫌うのか、女神だから女を歓迎するのか。同じ神を拝んでいて、隣の島で結論がひっくり返る。
この事実は、なかなか重いと思う。「女神の嫉妬」は、女性を排除する理由にも、女性を優遇する理由にもなりうる。ということは、この神学は結論を決めていない。女神であるという同じひとつの材料から、ある浜は女の排除を、別の浜は女の歓迎を、それぞれ都合よく引き出してきた。
先に慣行があって、後から神の説明がつけられている。これは民俗を読むときにいつも心に留めておきたいことだ。「神がこう言っているからこうする」の多くは、本当は「こうしているから神がこう言っていることにした」だ。神の言葉として語られる決まりの多くは、元をたどれば人間の都合から出発している。
他にも面白い禁忌がある。魚島では、船で寝るときに足を持たせるのは良いが、頭を持たせると襲われるという伝承があったという。船内での寝る向きまで神が指定する。狭い船の上で身を寄せ合って眠る夜は、昔の漁ではそれほど珍しいものでもなかった。
迷信のように見えるが、これも実務的に読める。小さな漁船で多人数が雑魚寝すると、向きを揃えないと危ない。若い衆に寝方を叩き込むには、理屈より神の名のほうが早い。寝相ひとつにまで神を持ち出すのは大げさに見えるが、狭い船の上では寝返りひとつが事故のもとになる。
聞き書き① 「お前は乗せられない」と言われた娘
ここからは、この禁忌を背負ってきた人たちの話をいくつか。個人が特定されないよう、属性だけにしてある。どの話も、禁忌が昔話の中の決まりでなく、生身の人間の暮らしに深く食い込んでいたことを示す。
一件目は、漁師の家に生まれた娘の話だ。彼女は小さいころ、父親の船に乗りたかった。兄は乗せてもらっていた。兄が当たり前のように乗っていく船を、岸から見送るしかなかった子どもの気持ちは、想像にかたくない。
だからなぜ自分は駄目なのかと聞いた。父親の答えはこうだった。「海の神様は女だから、お前を船に乗せることはできない。海の神様が嫉妬するから」。まだ小さかった娘にとってこの答えは、海の危険の説明というより、自分そのものを否定される言葉として響いた。
この言い回しは、各地の漁村で驚くほど似た形で語られている。ネットの知識共有サービスにも、まさに同じ体験を持つ人の投稿があった。子供のころ、漁師の父親から同じことを言われて育ったというものだ。ほとんど同じ言葉が、別々の浜で、別々の父親の口から、同じように幼い娘たちへ繰り返し向けられてきた。
彼女が引っかかっているのは、禁じられたこと自体より、理由の形だという。「危ないから」ならまだわかる。「嫉妬されるから」は、自分自身の存在が問題だと言われていることになる。危険なのは海であって自分ではないのに、自分がいることで海が危険になると言われる。この差は大きい。
彼女は父親を恨んではいない。父親もまた、自分の父から同じことを言われて育っただけだということを、大人になってから理解した。父は娘を漁師にさせなかった代わりに、学費を全額出して進学させた。彼女は今も、海の見える町に住んでいる。
聞き書き② 祝詞を覚えている、船大工の孫
二件目は、瀬戸内の島で、祖父が船大工だったという五十代の男性の話。船大工の家でありながら、その仕事を継ぐ者は次の代から出ず、作業場の灯は祖父の代で消えた。
彼の祖父は、家ではほとんど仕事の話をしない人だった。ただ一度だけ、小学生のころに作業場に連れていってもらったことがある。カンナの匂いと、木屑の山と、総重量を支えている古い盤木の感触を覚えている。
そのとき、祖父がひとりでぶつぶつ何かを唱えていた。内容は聞き取れなかった。でもリズムだけ覚えていて、彼は今でも、数を数えるような拍で、何かを戻すような抑揚だったと言う。後年、船霊の中身を納めるときに船大工が唱え言を唱える、という話を知った。あれがそうだったのかと思った。
唱え言は弟子入りした者にだけ伝える決まりで、小学生の孫に中身が伝わる道は、最初から無かったわけだ。確かめようにも、祖父はもういない。父親は造船を継がなかった。その作業場は、今は駐車場になっている。
彼は、自分が日本で数少ない「あの唱え言のリズムを聞いたことがある人間」なのかもしれないと思うと、奇妙な気持ちになると語った。しかも自分は内容を知らない。リズムだけを抱えている。伝えようがない。言葉の中身の分からない節回しだけが、ひとりの人間の頭の中に、誰に渡すあてもなく残っている。
伝承の終わり方。芸能や技術の伝承が切れるというのは、こういうことなんだろうと思う。一気に消えるわけじゃない。リズムだけを覚えている人という中途半端な層が一世代だけあって、その層がいなくなって完全に終わる。各地の船大工の唱え言も、書き残されることのないまま、弟子を取る者がいなくなるにつれて、静かに途切れていった。
聞き書き③ 廃船の解体をした男の話
三件目は、若いころに地方の造船関連の仕事をしていたという四十代の男性の話。解体の現場では、船霊の入った場所をどう扱うかが、職人たちのあいだで暗黙の決まりになっていた。
仕事のひとつに、古い木造船の解体があった。もう使えない船をばらして、使える部分を抜いて、あとは処分する。そのとき、先輩から一つだけ注意された。「モリのとこをバラすときは、先に声をかけろ」。
誰に声をかけるのかと聞いたら、「入ってるやつにだよ」と返された。中身を見たことはないが、先輩たちは全員、そこに何かが入っていると知っていた。見たことのないものを、全員が当たり前のように知っている。いざバラしたとき、先輩は帽子を取って、小さく何かを言ってからバールを入れた。中から出てきたものは、ビニール袋に包んで、近所の神社に持っていったという。
彼自身は、その中身を見なかった。見たくなかったというより、見てはいけないものだと思った。ひとつだけ覚えているのは、バラしたときに、長い黒いものが少しだけ見えたことだ。何十年も木の中にあったのに、色が残っていた。それを見た瞬間、この船には誰かの一部が入っていたんだと、実感としてわかったという。
彼はこう言った。「妖怪とか幽霊とかは信じてない。でもあのときの、先輩が帽子取った瞬間の空気は覚えてる。あれは神だとか以前に、人のものを壊してるという自覚だったと思う」。
声をかけて、壊す。これは、この信仰の芯をついている言葉だと思う。声をかけてからバールを入れる、というその一手間に、現場の人間の感覚が詰まっている。
ネットでの反応と、知識共有サイトの質問
炎上は定番。「女を船に乗せるな」は、ネットで定期的に炎上するテーマだ。古い漁村の昔話だったはずの禁忌が、画面の上では今も、何度も話題に上っては蒸し返されてきた。
知識共有サイトには、この禁忌を育ちのなかで浴びた人の質問が何件もある。回答を見ると、パターンがはっきり分かれていて面白い。質問の多くは、子どものころに言われた一言が、大人になっても引っかかっているという形を取っている。
ひとつは、男尊女卑の名残だと断じる回答。神社の祭りで女性が御輿に触れると穢れるとされることや、高野山の女人禁制などを並べて、同じ構造だと指摘するものだ。もうひとつは、迷信だと一言で切り捨てる回答。「女が乗っていようが乗ってまいが、海は荒れるときは荒れます」というやつだ。
三つめが、進水式や弁財天信仰と結びつけて説明する回答。四つ目が、危険な仕事から女性を守るための知恵だったのではないか、という種の存続論だ。同じ質問に、ここまで違う角度の答えが並ぶこと自体が、この禁忌の根の深さを表している。
この四つは、どれも部分的には当たっていると思う。それでも、どれも不十分だ。特に四つ目の「女性を守る知恵だった」説は、気をつけて読みたい。どの説にも一理はあるが、どれかひとつで禁忌の全部を説明しきれるほど、話は簡単じゃない。
確かにそういう側面はあっただろう。現実には、女性も浜で重労働していたし、海女のように海に潜る仕事は女性の領域だった。危険だから女を遠ざけた、というなら、海女の存在をどう説明するのか。浜での重労働も、海に潜る海女の仕事も、安全とはほど遠かったのに、女はそこから締め出されなかった。
結局のところ、「船に乗って沖で漁をする」という特定の仕事が男のものとして囲い込まれていた、という以上のことは言えない。囲い込みの理由の説明は、穢れだの嫉妬だのと、あとから何度も付け替えられたが、囲い込みそのものは長く続いた。
考察界隈で面白いのは、御神体の中身を巡る議論だ。「髪を入れるのは命の代替ではないか」という見方がしばしば出る。人柱の代わりに、人間の一部を入れる。これは否定できない。髪という、切っても痛くない小さな一部に、ひとりの人間の命の重さを背負わせる発想は、考えるほどに生々しい。
日本には橋や堤防を作るときの人柱伝説が各地にあるし、船も同じ発想の延長上にあると考えるのは自然だ。これも、証拠のある話じゃない。髪は、命の代替でもありうるし、単に「人間を表すもっとも手に入りやすい部分」だっただけかもしれない。
女性漁師の数字――女人禁制が崩れた現代
現代の話をしよう。この禁忌は、いまどうなっているのか。漁の現場から女を遠ざけてきた決まりは、近年になって、目に見えて揺らいできた。
数字を見ると、日本の漁業はここ三十年でごっそり縮んでいる。過去一年間に海上作業に三十日以上従事した漁業就業者は、全国で十一万四千八百人ほど。前年比で五・四パーセント減。これだけの勢いで漁業が縮んでいるのを見ると、女を船に乗せるかどうかで揉めている余裕など、どこの浜にもとうに無くなっている。
一九九四年には三十一万二千人超だった。三十年で六割減った計算になる。年齢層も厳しく、六十五歳以上が四万四千人超で全体の四割近く、五十歳以上で見れば約七割。かつては浜のあちこちにあふれていた漁の働き手は、この三十年のあいだに、見る影もなく減ってしまった。
女性に絞る。女性は、全体の約一割にあたる一万一千八百人ほど。このうち十五から三十九歳は千人ちょっとしかおらず、四十歳以上が九割超。女性漁師はもともと存在していた。その多くは家族経営のなかで役割を担ってきた世代だ。
いま、新規就業者は年間千七百から二千人。そのなかに、海に縁もゆかりもない女性が単身で飛び込む例が増えている。就業フェアに出展する企業の半数以上が、女性を「積極的に採用したい」または「採用を検討している」と答える状況だ。家業を継ぐのでなく、外から飛び込んでくる女性がいる、という点が、昔の漁村とはまるで違う。
面白いのは、この変化の理由が、人権意識の高まりだけではないことだ。理由は人手不足。純粋に人手が足りない。後継者がいない。神の機嫌より先に、明日の船を誰が動かすのかという問題が、浜に突きつけられている。
新人も続かない。新人の約半数が五年でリタイアする。この状況で、人口の半分を最初から除外する余裕は、もうどこの漁協にもない。禁忌は、思想によってでなく、経営によって崩れた。神の名で閉ざされていた扉が、人手不足という身もふたもない理由で開いたのは、皮肉な話だ。
もちろん、現場の障壁がすべて消えたとは言い切れない。船上のトイレなど、設備面の未整備はしばしば指摘される。ただ、「神が嫌うから乗せない」という説明だけは、実務の世界で役目を終えつつある。三重県尾鷲市で働く女性漁師が、女性漁師は漁業現場と一般の食卓をつなぐ存在になれると語っているのは、この転換を象徴する言葉だと思う。
船霊は、どこへ行ったのか
この信仰の現在地を確認しておきたい。木の船とともにあった船霊は、船の素材が木から強化プラスチックへ変わるのに合わせて、居場所も形も少しずつ変えてきた。
木造船が消えた時点で、埋め込む形式の船霊はすでに成立しなくなっている。強化プラスチックの船体にノミで穴を彫るわけにもいかないし、そもそも船大工という職能が一般的でなくなった。造船は工場の仕事になり、祝詞をあげる工程は工程表からなくなった。決め手は素材の変化。
神棚の時代。代わりに何があるかというと、操舵室の神棚だ。地上の寺社のお札をもらってきて、機関室や操舵室に納める。徳島ではこの形で二〇〇七年にも確認されている。もちろん、信仰としては続いている。
性質は変わった。神はもう船の中にはいない。船に乗っている。かつては船と一体で、船そのものだった神が、いまは神棚に祀られて、船に乗せてもらう客のような立場に移っている。
乗っているだけの神は、降りることもできる。神棚の札は、船を買い替えれば一緒に移せる。そこが、船底に封じた神との大きな違いだ。
船霊信仰がこれほど強固だった理由は、ひとつには、船というものが奇妙な存在だからだと思う。人間が作った人工物でありながら、人間の制御を大きく超えた環境に放り出される。家は動かない。車は道を走る。作った人間の手を離れて海に浮かんだ瞬間から、船は人間の思いどおりにはならない場所へ、毎日出ていく。
海は深い。船は、深さ何千メートルの上に、只ひとつで浮かんでいる。しかもその下では、人間は一瞬も生きられない。こんな道具を、単なる道具として扱えるはずがないんだよな。足元の板一枚だけを頼りに、底の見えない水の上で網を引き、魚を追うのが、漁師という仕事だ。
だから人は、船に魂を入れた。人形と髪と銭と穀物とサイコロを詰めて、人間に似た何かに仕立てた。似ていれば、話ができる。神の居場所をわざわざ船の中に作ったのは、話の通じない海という相手と向き合うための、人間なりの工夫だった。
祈れる。宥める。ごまかせる。完全に無機質な海に向き合うより、すごく気が楽になる。これは本当に、人間が深淵の上で正気を保つための、至って実用的な発明だったと思う。
乗せてもらえない女と、船底に埋められた髪
船霊信仰を一通り見てきて、俺がいちばん引っかかっているのは、「女性の扱いの二重性」なんだよな。ここをもう少しだけ掘っておきたい。生きた女は船に乗せない一方で、女の髪は船の中心に封じ込める、その扱いの落差が、どうにも頭から離れない。
この信仰は、女性を船から遠ざける。同時に、船の中心に女性の髪を封じる。女性の化粧道具を入れる。神自体を女神とする。遠ざけておきながら、女の気配は船のそこらじゅうに仕込まれている。
八丈島では、髪を提供した女性がその後も巫女的に船に関わり続ける。女性は、排除されているというより、「身体を抹消されたうえで機能だけ採用されている」。これは単なる差別よりもややこしい。生身の女は船に乗れなかったが、女の役目だけは、船の中にも港にも、きちんと居場所が用意されていた。
山も同じだ。似た構造は、日本の他の信仰にもある。山の神も女神とされ、山に女を入れないというルールがあった。道具に女の名をつける地域もある。山でも海でも、女を実体としては締め出し、象徴としては取り込む仕組みが、同じように作られてきた。
女性は、実体としては遠ざけられながら、象徴としては仕事場の真ん中に置かれる。この非対称な扱いは、思想というより、男だけで閉じた集団が長期間危険な作業をするときに発生しがちなものなのかもしれない。現実にはいない存在を、象徴で埋め合わせる。
だからこそ強調しておきたいのは、この信仰を「遅れた漁村の迷信」として笑うのは違うだろう、という点だ。船大工にとってこれは、自分の仕事の品質保証そのものだった。決められた手順をひとつも省かずにこなすことが、そのまま船大工の腕の証明であり、その船に乗る者への約束でもあった。
人形を削り、サイコロの向きを揃え、銭を数え、酒をふり、蓋を閉める。この手順をひとつも飛ばさないことが、自分が作った船に乗る人間の命に対する責任の取り方だった。祝詞をあげ、紋付きのまま海に放り込まれ、濡れ鼠で上がってくる。そこまでやって、ようやく船大工の仕事は締めくくられた。
あの一連の動作は、現代の品質管理の書類に判を押すのと、機能的には同じことをやっている。やっている中身は神事の形をしていても、目的は、この船が乗った人間を無事に港へ帰すと請け合うところにある。
漁師にとってこれは、死との距離の取り方だった。船板一枚下は地獄という言葉がある。漁業はいまだに日本でもっとも危険な職業のひとつだ。そういう仕事に毎日出ていくには、何かの装置が要る。
十二枚の銭は、遭難したときの備えだという。これは、自分の死をあらかじめ計算に入れておく話だ。ちゃんと備えてあると思うことで、ものを考えすぎずに沖に出られる。漁師たちは、万一の備えを箱に入れておくことで、毎日の出港を普段どおりの仕事にしてきた。
信仰は、恐怖を煮詰めて、手順に変換する装置なんだよな。手順になれば、人は実行できる。怖いものを怖いまま抱えていたら人は毎日海へ出ていけないから、決まった手順に置き換えておく。
地域差の広がり方も、改めて見直すと面白い。宗像はノミの刻みだけで神を呼ぶ。徳島は紙人形と扇子を詰める。愛媛は将棋の駒型の祠に五穀を入れる。同じ船霊様という神の話をしているはずなのに、土地ごとにまるで別の宗教を見ているような気分になってくる。
八丈島は女性を役として固定する。富山の廻船問屋は、船霊を座敷の宝物にする。同じ名前の神を拝んでいて、やり方がここまで違う。海から遠い座敷の祭壇にまで上がった廻船問屋の船霊は、漁村の船底に眠る船霊とは、まるで違う顔をしていた。
共通項目がひとつある。どこでも、神を入れるのは、船を作った本人だ。神主でも僧侶でも船主でもない。ノミで刻む浜でも、箱に詰める浜でも、神を船に迎え入れる役だけは、最後まで船大工の手から離れなかった。
自分の手で作った者が、自分の手で魂を入れる。この一点だけは、北から南まで崩れない。神主や僧侶に任せず、作った人間が自分で入れるという一点に、この信仰の芯がある。
この話のいちばん怖いところも書いておきたい。いまも日本のどこかの海に、あるいはどこかの造船所の隣の野原に、中身を抜かれないまま廃棄された木造船が、相当数残っているはずだ、という点だ。高度成長期から一九八〇年代にかけて、木造船は一気に強化プラスチック船に置き換わった。
そのとき、全部の船で丁寧な抜き取り儀式がやられたとは到底思えない。台風で壊れた船もある。借金を残して廃業した家もある。急な廃業や災害のさなかに、船の神にまで気を配る余裕があった家は、そう多くなかったと思う。
そういう船のどこかに、誰かの髪と、十二枚の銭と、向きを揃えたサイコロが、今も漫然と入ったままになっている。その船を作った人間も、その船に乗っていた人間も、とうにその船のことを忘れてしまったかもしれない。
抜く話は出てこない。神を入れる手順は、どの地域でもちゃんと伝えられていた。神を抜く手順を、最後までちゃんとやれた地域がどれだけあったのか。これは、だれも調べていない。山で木を伐る日から進水の日まで、始まりの儀式は何重にも用意されているのに、終わりの儀式はほとんど話題にならない。
作るときの作法は記録されても、捨てるときの作法は記録されない。人は、始め方には必死で、終わらせ方には雑になる。船霊信仰が今に残しているいちばん大きな宿題は、実はそこにあるのかもしれないと思う。
