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火を分けろ、家に入るな――昭和四十年代まで実在した「月経小屋」の掟と、そこを解放区と呼んだ女たちの証言

村の外れに、小屋がある。

道から少し外れて、藪をかき分けた先。海が見える崖の下だったり、田んぼの向こうの川べりだったり、山の中腹だったりする。屋根はトタンか茅。窓はほとんどない。中は土間か、板の間にムシロが敷いてあるだけ。真ん中に囲炉裏が切ってあって、鍋と茶碗が置いてある。その鍋と茶碗は、絶対に家から持ってきたものではない。小屋専用のものだ。家のものと混ぜてはいけない。

そこに、女が入る。月に一度、数日から十日ほど。

昭和四十年代まで、日本にはそういう小屋が実際にあった。明治でも大正でもなく、昭和四十年代だ。東京オリンピックが終わって、大阪万博の準備が始まっていた頃である。カラーテレビが茶の間に入り、新幹線が走り、月にはアポロが降りていた時代に、日本のいくつかの集落では、生理になった女性が家から出て、村外れの小屋で寝起きしていた。

呼び名は土地によって違う。タヤ、ヒマヤ、コヤ、他屋、他火、忌屋、不浄小屋、よごれや、火小屋、月小屋、タビゴヤ。どれもぱっとしない名前だ。喜んで入りたくなるような響きはひとつもない。

この記事は、その小屋の話をする。制度としての実態、火を分けるという掟の中身、なぜそんなものが千年も続いたのか、そしてなぜ昭和の高度成長のど真ん中まで生き延びたのか。ついでに、小屋を「地獄」とだけ呼ぶのが正しいのかどうかも考える。というのも、あの小屋には、当事者による正反対の証言が残っているからだ。

小屋の一日を、できるだけ細かく再現してみる

まず情景から入りたい。あちこちの調査記録を突き合わせて、昭和初期の島の漁村を想定した、ある一日を組み立ててみる。

朝、まだ暗いうちに気づく。腰が重い。下腹が引きつるように痛む。台所に降りると、姑が振り向かずに言う。「今日から行くんか」。それだけだ。返事はしない。うなずいて、押し入れから畳んだ夜具を引っ張り出す。それも小屋用のものだ。母屋の布団は使わない。

支度は決まっている。着替え。ボロ布の束。米。味噌。芋。それに漬物。桶。手拭い。これを風呂敷に包んで、頭に載せる。瀬戸内や志摩の女たちは荷物を頭に載せて運ぶのが普通だったから、この所作は日常の延長だ。ただし、行き先だけが日常ではない。

家を出る。ここで大事な作法がある。玄関から堂々と出ない集落が多かった。裏から出る。人通りの少ない道を選ぶ。土地によっては笠をかぶった。深く、顔が見えないように。この笠の話は後でもう一度する。

小屋に着く。先客がいることもある。同じ集落の、二つ三つ年上の嫁。あるいは十四になったばかりの娘。声をかける。「あんたも来とったんか」。それだけで空気がゆるむ。ここには男がいない。姑もいない。舅もいない。

まず火だ。火を熾す。ここが習俗の核心である。母屋の竈から火を持ってくることは絶対に許されない。小屋の中で、あるいは小屋の外で、新しく火を起こす。火打ち石を打つ。あるいは持ち込んだ種火を使う。とにかく、家の火と縁を切った火でなければならない。これが「別火」だ。

火が熾きたら、鍋をかける。粥を炊く。おかずは持ち込んだ漬物と、干した魚くらい。豪華ではない。だが、誰にも急かされない食事である。姑の茶碗に先に飯を盛らなくていい。舅が箸を置くまで待たなくていい。子どもの世話もない。ただ自分の分だけ炊いて、自分の速度で食う。

昼。することがない、わけではない。多くの土地では、小屋にいる間も縫い物や機織りをさせられた。八丈の島々では、小屋で黄八丈を織り、裁縫を覚え、礼儀作法を仕込まれたという記録がある。「休めた」という証言がある一方で、「裁縫などの労働を普段以上に強いられた」という証言も残っているのは、このためだ。小屋は休憩所であると同時に、女の技能を叩き込む教習所でもあった。

そして、話をする。これが小屋の最大の産物だったと、多くの聞き書きが口を揃える。年長の女が、年下の娘に、体のことを教える。月経の周期のこと。腹が痛いときの温め方。経血の始末の仕方。ボロ布の畳み方、洗い方、干し方。そのうち話は伸びて、嫁ぎ先の愚痴になり、夫の悪口になり、姑の物真似になる。男が絶対に入ってこない空間だから、遠慮がない。笑い声が漏れる。外の道を通る男は、その笑い声を聞かないふりをして早足で通り過ぎる。

夕方。水を汲みに行く。ただし、集落の共同井戸は使えない。使ってはいけない。専用の場所があるか、遠回りして谷まで降りる。パプアニューギニアの調査だが、月経中の女性が使う泉が急斜面の下に別に用意されていた事例が報告されている。日本でも構造は同じだ。水を穢すな、というのが徹底されていた。

夜。囲炉裏の火を落とさないようにしながら、ムシロの上に夜具を敷く。天井の低い小屋の中で、二人か三人が並んで寝る。屋根に雨が当たる。海鳴りが聞こえる。誰かが寝返りを打つ。誰かが小さく笑う。

そして、終わりの日。血が上がったら家に帰れる。ただし、そのまま帰ってはいけない。海がある土地なら海に入る。潮を浴びる。伊豆の利島では「シオアビ」といって、磯に出て体も着物も炊事道具も清めた。御蔵島では西を流れる川で沐浴した。若狭の産小屋では「小屋を出るときは体に湯をかける」という決まりがあった。備中の真鍋島では、山の上の月経小屋から下りてくるとき、穢れを人に移さないよう、大声を出して道の人払いをしたという。想像してほしい。山道を下りながら「今から通る」と叫ぶ女と、その声を聞いて道端に避ける村人たちを。

さらに真鍋島では、家に帰り着いてからも一晩ある。川の水で沐浴したあと、軒下か土間に筵を敷いて一夜を過ごし、仮の竈をこしらえて粥を煮て食べる。ようやくそこで、家の火に戻れる。

ここまでが、月一回。初潮から閉経まで。人生で何百回。

呼び名の地図を、ひとつずつほどく

この習俗の厄介なところは、名前がばらばらなことだ。同じ制度なのに、隣の郡に行くと呼び名が変わる。逆に言えば、名前をたどると制度の理屈が見えてくる。

最も広く使われたのが「タヤ」である。漢字を当てると「他屋」。文字通り、別の家。ただしこれは当て字で、語源としては「他火」だという説が強い。八丈島や青ヶ島の方言では、月経そのものを「タビ」と呼んだ。タビは他火である。つまり「別の火」だ。青ヶ島の女子が初潮を迎えることを「ハツタビ」、つまり初他火と呼んだのは、初めて火を分けられる日、という意味だった。名前の段階で、この制度が空間の隔離ではなく火の隔離を本体としていたことが分かる。

「ヒマヤ」も同系統である。伊豆の利島では月経のことをヒマヤ、コイエ、あるいはソトビ、つまり外火と呼んだ。志摩の御座村あたりでは、大正年間の衛生調査に「カリヤ」「ヒマヤ」「ヒマイ」といった俗称が並んで記録されている。ヒマヤは暇屋とも書かれるが、これも当て字で、火の屋である可能性が高い。

「ヒゴヤ」「火小屋」はもっと直球だ。三河の北設楽郡では、食事を通して穢れが移る「食い交じり」を防ぐため、月経中の女性を火小屋に隔離した。この土地では月経中の女性を「小屋分」と呼んだ。世帯から分けられた者、という意味である。そして、もし火を穢してしまった場合には、村じゅうの火打ち金を集めて鍛冶屋に清めてもらったという。火打ち金である。村全体の発火装置を一斉に浄化する。これがどれほど本気の観念だったかが分かる。

「コイエ」「コヤバ」「コヤ」は、小さい家、小屋場、小屋という素直な名前だ。出雲地方では小屋を「タヤ」「コイゴヤ」と呼び、月経になることを「コイになる」「タヤに居る」と言った。生理という現象そのものが、場所の名前で表現されていたわけである。「今日はタヤや」と言えば、それで通じた。

そして、身も蓋もない名前もある。「不浄小屋」「ヨゴレヤ」「ヨゴラヤ」。伊豆大島ではヨゴラヤ、新島ではヨゴレヤ、神津島でもヨゴラヤと呼ばれた。汚家、である。ここには一切の婉曲がない。柳田国男が集めた禁忌習俗の語彙にも、不浄小屋、よごれや、といった呼称が拾われている。青ヶ島のタビ小屋にも「不浄小屋」という別称があった。

岡山では「カンヤ」という呼び方の記録が残る。昭和八年の報告で、妊婦あるいは月経中の女性が、山の中腹に建てられたカンヤという小屋にいる間は、船具に触れさせない、という記述がある。理由は「海神の祟りがあるから」。呼び名と禁忌がセットで残っている、貴重な記録である。

産のほうにも別の名前が並ぶ。産小屋、産屋、ウブヤ、サンゴヤ、オビヤ、デーベヤ、コウミヤ、コーメエゴヤ、カドヤ。八丈島では出産用の小屋をコウミヤ、コーメエと呼び、月経用の他屋・タビ小屋とは別に用意していた。伊吹島ではデーベヤ、志摩の越賀ではオビヤ(帯家)だった。

一方で、同じ建物を両方に使う土地もある。福井県敦賀市の色浜に現存する小屋は、六畳二間に仕切られていて、出産前後に使う分娩の部屋(オクゴヤ)と、月経中の女性が過ごす部屋(クチゴヤ)に分かれていた。ひとつ屋根の下で用途を分けたわけだ。青ヶ島と御蔵島も、産と月経で同じ小屋を使った。だから民俗学ではこれらをまとめて「忌み小屋」と総称する。

呼称の地域差は、単なる方言の違いではない。火に注目する土地はヒマヤ・タヤ系、汚れに注目する土地はヨゴレヤ系、機能に注目する土地はコヤ系。名前がそのまま、その集落が何を恐れていたかの表明になっている。

別火――この制度の心臓部

なぜ場所を分けるだけでなく、火まで分けたのか。ここが分かると、この習俗の設計思想が一気に見通せる。

前近代の日本の家において、竈の火は単なる熱源ではない。荒神や竈神が宿る場所だ。家の中心であり、家の連続性そのものである。だから火を穢すことは、家全体を穢すことに等しい。

そして穢れは、伝染すると考えられていた。触穢という言葉がある。穢れに触れた者は穢れ、その者に触れた者もまた穢れる。感染症のモデルによく似た構造だ。伝染の経路として最重要視されたのが、火と食べ物と水だった。同じ竈で炊いた飯を食えば、穢れは家族全員に回る。三河の「食い交じり」はまさにこの発想である。

だから、火を切る。竈を分ける。鍋も茶碗も分ける。小屋には専用の鍋と食器が備え付けられ、青ヶ島では「決して関係者以外の人間には使用させなかった」と記録されている。逆から言えば、小屋の食器は関係者にとっては共用の、いわば公共財だった。

食事の受け渡しにも作法がある。青ヶ島では、産後の女に食事を渡すとき、穢れの伝染を避けるため、受け取る側の掌にアジサイやツワブキの葉を載せ、その上に食べ物を受けさせた。手を直接触れさせない。葉一枚を挟むだけで、穢れは越えてこないと考えられていた。この一枚の葉の距離感が、当時の観念の質感をよく伝えている。

別火をする小屋だから「別火屋」「他火小屋」と呼ぶ。日常の火と、忌みの火。この二重の火が、村の秩序を維持していた。

なお、別火は女性専用の制度ではない。物忌み中の男が籠もる「精進小屋」も別火を行った。祭の当番になった男は、家族と食事を分け、別の火で煮炊きをした。ここが重要で、別火という技術そのものは、聖と俗を切り分ける一般的な装置だった。それが女性の身体に恒常的に適用されたときに、制度は差別へと反転する。年に数日の物忌みと、月に数日の生涯にわたる隔離とでは、負荷がまるで違う。

「赤不浄」という分類と、それがいつ生まれたのか

民俗学では穢れを三つに分ける。死にまつわるものを「黒不浄」、出産にまつわるものを「白不浄」、月経にまつわるものを「赤不浄」。地域によっては出産も赤不浄に含める。赤不浄は「血忌」「血服」とも呼ばれ、奄美や沖縄では「しら不浄」と呼ぶ土地もあった。中国地方や四国では、月経期間そのものを「赤火」と呼んだ。

ここで押さえたいのは、この分類が太古から日本にあったわけではない、という点だ。

古代の日本において、血は必ずしも忌むべきものではなかった。血には霊力が宿り、豊穣をもたらすと考えられていた形跡がある。出血しても死なない月経は、神業のような不思議な出来事と受け止められ、その期間の女性はむしろ神に近いとみなされた。だから別火し、別屋に籠もった。籠もるのは排除ではなく、聖なる状態への配慮だった――という理解が、民俗学の一方の系譜にある。

それが変質する。血穢が制度として明文化されるのは平安時代だ。律令の補助法令である『弘仁式』(九世紀前半)で出産に関わる血穢が、『貞観式』(九世紀後半)で月経に関わる血穢が明文化された。さらに『延喜式』(十世紀前半)では、穢れに触れた場合の忌みの日数が具体的に定められる。死穢は三十日、産穢は七日、といった具合だ。手本になったのは古代中国の触穢観念だと考えられている。

ここで注目したいのは、『延喜式』段階の穢れが「期限つき」だったことである。七日たてば戻れる。三十日たてば戻れる。穢れは時間が洗い流すものであり、人格に貼り付く烙印ではなかった。祓えば消える一時的な状態だった。

つまり、平安の宮廷が制度化したのは「一時的な忌み」であって、「女は生涯穢れている」ではない。ここが決定的な分かれ目になる。

血盆経――穢れが「罪」に変わった日

制度を差別へと変換した最大の触媒は、仏教の側から来た。『仏説大蔵正教血盆経』、通称『血盆経』である。

四百二十字ほどの短い経典で、中国で作られた偽経だ。日本には室町時代に伝来したとされる。内容は身も蓋もない。目連尊者が地獄めぐりの途中で「血盆池地獄」を目にする。広さは八万四千由旬、鉄の梁、鉄の柱、鉄の枷、鉄の索など百三十の刑具が並び、多くの女性が髪を振り乱し、首枷をはめられて苦しんでいる。獄卒は一日三度、汚れた血を無理やり飲ませる。飲むまいとすれば鉄棒で打つ。

目連が問う。なぜ男はこの報いを受けず、女だけが苦しむのか。獄主が答える。女は毎月月経の血を漏らし、出産のときにも出血して、それが地神を穢すからだ。さらに、その穢れた衣を川で洗えば流れが汚染され、それと知らずに人がその水を汲んで茶を煎じ、仏や神に供えてしまう。だから女は堕ちるのだ、と。

理不尽の極みである。生理があるという、本人にはどうにもならない身体現象が、そのまま堕地獄の理由にされている。しかも救済の道は用意されている。『血盆経』を受持し、書写し、読誦し、血盆斎の精進を三年保ち、血盆法会を営めば、五色の蓮が現れて救われる、と説く。

この「罪と救い」のセット構造が強かった。恐怖を植えつけ、同じ口で解決策を売る。中世日本の唱導者たちは、この経典を女性信者の獲得に活用した。曹洞宗系の寺院が特に熱心で、正泉寺(旧称・法性寺)は血盆経信仰の一大拠点となり、江戸後期には木版の縁起本が広く流通した。浄土宗の側でも一七一三年に『血盆経和解』という長大な注釈書が出されている。宗派を越えて教材が使い回された痕跡まで確認されている。

さらに、熊野比丘尼と呼ばれる女性宗教者たちが、この教えを絵解きで全国に運んだ。「熊野観心十界曼荼羅」には血の池地獄が描かれ、不産女地獄や両婦地獄と並んで女性を脅した。江戸中期以降は「立山曼荼羅」にも血の池地獄が描かれる。立山では、閻魔堂から姥堂へ布橋を渡る布橋灌頂という儀式が、江戸期にはもっぱら女性のための救済儀礼へと変貌した。これを受ければ安産が約束され、産死しても血の池地獄に堕ちない、とされた。

そして注意すべきは、初期の『血盆経』では堕地獄の原因が主に出産の血だったのに対し、日本では江戸期を通じて月経の血のほうへ重心が移動していったことだ。母だけでなく、子を産まなかった女も、要するにすべての成人女性が対象に含まれていく。中山太郎はこの拡大の順序を「母から、不産女へ、そして女一般へ」と整理している。

ここで何が起きたか。期限つきの「忌み」が、期限のない「罪」になった。祓えば消えるはずのものが、女に生まれた時点で背負う原罪のような何かに書き換わった。全国の忌み小屋の分布が、血盆経信仰の盛んな地域と重なるという指摘があるのは、偶然ではない。

伊豆諸島――タビ小屋という完成形

地域ごとの実態を見ていく。まず、記録がとりわけ濃いのが伊豆諸島だ。

青ヶ島。人口二百人に満たない、日本最小の自治体である。ここには「タビ小屋」があった。大正期まで共同利用のタビ小屋が島内二カ所にあり、西郷杉ノ沢の「タビ山」と、休戸郷の「タビの角」と呼ばれた。地名になっているところが凄まじい。畳十畳ほどの板の間にムシロを敷き、中央に囲炉裏。鍋も食器も備え付け。

女子が初潮を迎えると「ハツタビ」または「ウイデ」と称して、初めてこの小屋に入る。このとき二人の付添人がついた。ひとりは「ボウトギ」、親戚の年長女性で、いわば親代わりの後見人。ハツタビから嫁入りまでを見守り、後にはお産の介助役まで引き受ける。もうひとりは「ソバトギ」、年下の少女で、常に付き添う相手役だ。ソバトギが家から食べ物を運んできて、小屋で料理して食べた。

小屋に入るときはホッカブリをした。頬被りである。角隠しに似た、花嫁のような出で立ちだったと記録されている。そして小屋を出て家に戻ると、家族と村人が盛大な祝宴を開いた。「ウイデ祝い」と呼ばれ、島の独身男性たちも招かれた。三日目には餅をついて村じゅうに配る。そのために家では二年も三年も前から粟や餅米を貯めておいた。

つまりこれは、成人儀礼だった。隔離であると同時に、共同体への公式なお披露目だった。娘が女になったことを村が承認する儀式である。

昭和二十八年に発行された文集『くろしおの子』には、当時の中学一年生の女子が古老から聞き取った文章が収められている。方言から訳すと、こうだ。「昔は十二、三歳になる女の子がいたら、その家は二、三年前から粟やもち米を集めておいて、その子が初タビに出るときには三日目に餅をついて村中に配ったものだった。今は世の中が進んで誰もそんなことをしなくなりました。また村人も初タビの女の子の家に祝いに行ったものだった。そこでタビに出る女の子は二人のトギの女性がついて、タビの女の子をだれにも見せないようにさせました」。

この「今は世の中が進んで誰もそんなことをしなくなりました」という一節が、なんとも言えない。中学生が昭和二十八年に、失われつつある習俗を惜しむような口ぶりで書いている。

八丈島には「他屋」「他火」があった。月経中の女性は五日から十五日間ここに入り、家族と同じ火を使わない。出産は別に「コウミヤ」を使った。江戸時代の記録も豊富で、タビ小屋の最古の記録は永正十一年(一五一四年)の『八丈島年代記』にさかのぼる。天明二年(一七八二年)の『伊豆海島風土記』にも記載がある。近藤富蔵が六十年余りをかけて島で書き継いだ『八丈実記』にも、他屋の項がある。江戸期の八丈島の屋敷見取図には、はっきり「他火」と書き込まれた区画が描かれている。

八丈には、この習俗を茶化した民謡すら残っている。ショメ節の一節に「他火はお廃止、恋路の話 どこでするかと苦労する」というのがある。男子禁制の他屋を、逆手に取って逢引きの場に使う者が出てきたのだ。だから伊豆代官はすでに江戸期に他屋の使用を禁じている。禁止の理由が「風紀」だったところが実に人間くさい。それでも八丈から他屋が実際に消えたのは明治二十年頃だった。

御蔵島では、女子は十三歳で初めて腰巻をつけ、成女式の祝いをした。月経中は各戸に付設された「コヤ」で別居別火し、約七日間過ごす。終われば集落の西を流れる西川で沐浴してから帰宅した。出産は初回は必ず母親の実家で産み、産後は身の回りの品を持ってコヤに入り、赤子とともに三十日間を自炊で過ごす。最初の七日間だけ実母か姑が炊事を手伝った。男衆は禁制で、夫が訪ねてきても努めて避けたという。

利島では、食料、夜具、たらい、釜を持参して共同のヒマヤへ行った。ヒマヤがなくなってからは各家の別棟であるコイエで生活する。ここが面白いのだが、利島のやり方は完全隔離ではない。朝、家から農具を持ってきて、昼間は普通に畑仕事をして、夕食だけコイエで食べる。二、三日滞在して、終われば磯でシオアビをして帰る。要するに「寝食を分ける」だけで、労働からは解放されていない。

同じ伊豆諸島でも、島ごとにこれだけ違う。厳格さのグラデーションが、島の数だけある。

志摩と鳥羽――海女の村の「カリヤ」

三重県の志摩地方は、この習俗を考えるうえで外せない土地だ。理由は単純で、女が海に潜って稼ぐ土地だからである。血穢の禁忌と、女性の生業としての海女漁が、正面から衝突する。

大正九年度に、志摩郡御座村で実地衛生調査が行われた。沿岸六村(長岡、波切、船越、布施田、和具、越賀)の海女についても実査が入り、その結果が『保健衛生調査』としてまとめられている。この報告の中に、月経習俗の記述がある。

そこでは月経のことを「カリヤ」「ヒマヤ」「ヒマイ」と俗称すると記されている。昔は月経のときは別居、すなわち別火をした。共同の一軒があった。そして、その慣行は調査時点から約三十年前、つまり明治三十年代までは存続していて、以後「廃止」された、とある。

ただし、廃止と書かれた後の記述が重要だ。カリヤは廃止されたが、廃止後も月経中の女性は自宅の納屋で過ごし、仏事や神事には参加しなかった、という。制度としての小屋は消えても、実質は残った。建物がなくなっただけで、隔離の観念は納屋に引っ越しただけである。

対照的に、産のほうの小屋であるウブヤ・オビヤは同じ調査時点で存続していた。六十戸あまりが利用しており、七村のうち二村では廃止、御座村では廃止、船越村と越賀村では存続、と細かく記録されている。月経小屋のほうが先に消え、産小屋のほうが長く残る。この時間差は全国的な傾向でもある。

志摩の越賀のオビヤは、その後さらに興味深い展開を見せる。大正十三年、村役場がオビヤを「産婦保養所」という近代的施設に作り替えたのだ。初産婦は約二カ月、経産婦は四十二日間をここで過ごす。滞在日数には産後の肥立ちという生理的な根拠が置かれ、明確に「休養」に力点が移された。チサイと呼ばれる贈答の慣行もあり、共同体の相互扶助として機能した。穢れからの隔離施設が、行政のてこ入れで保養所に転生したわけである。この転換は、後で述べる「解放区」論を考えるうえでの、実に厄介な材料になる。

鳥羽の漁村には、いまも「海女小屋」がある。地元では「かまど」と呼ぶ。これは月経小屋ではない。海女が漁の前後に着替え、火に当たって体を温め、弁当を食う小屋だ。だが、名前が「かまど」であること、そこが女だけの空間であること、火場を囲んで雑談し、方言と漁のコツと集落の歴史が伝承される場であること――構造が忌み小屋とよく似ている。石鏡町では海女小屋のグループを「かまど」と呼び、その成員は「家族以上の絆がある」と言われる。所属を許されて初めて出漁できる。

似ているが、決定的に違うのは、かまどが「排除される場所」ではなく「加入する場所」だという点だ。同じ女だけの小屋でも、入場の意味が反転している。ここに、この記事の後半で扱う論点が凝縮されている。

なお石鏡は、パールロードが開通する一九七三年まで、鳥羽からは船でしか行けない土地だった。陸の孤島と呼ばれ、平家の落人伝説がある。海女は一九七二年に二百五十四名いたが、二〇一七年には四十二名にまで減っている。答志島には寝屋子制度という、長男たちが中学卒業後に寝屋親の家に泊まり込む擬似家族の慣行が今も残る。かつて伊勢志摩の各地にあった若者宿・娘宿の系譜だ。若者宿と産小屋には相関があるという指摘もある。男の共同宿泊制度と、女の共同籠もり制度は、同じ村落構造の裏表だったのかもしれない。

能登、瀬戸内、出雲、そして山の中

能登に目を移す。輪島市海士町の海女たちは、輪島港から北へ約五十キロ、日本海の真ん中に浮かぶ舳倉島を漁場としてきた。昭和三十年代までは「シマワタリ」といって、六月から十月頃まで全戸が一斉に季節移住した。家財一切を船に積み込み、僧侶も助産師もまとめて島に移る。町ごと引っ越すのだ。

この土地の記録で興味深いのは、全国で見られるような常設の海女小屋が海士町には存在しない、と明言されていることだ。舳倉島では自宅からそのまま出漁するし、通い海女は船の後部をテント仕立てにして、移動時間を海女小屋のように過ごす。つまり、女だけの陸の小屋を必要としない生業構造になっている。血穢の禁忌がどう処理されていたかを考えるとき、この地域差は示唆的だ。船に女を乗せるなという禁忌と、船で女が漁に出る生業は、両立しないからである。禁忌は現実の必要の前で、いつも例外規定を作ってきた。

瀬戸内は、月経小屋の分布が濃い地域のひとつだ。事典の記述にも、かつて日本でも瀬戸内海の島々や伊豆諸島などでこの習俗がみられた、とある。備中の真鍋島の事例は先に触れた。山の上に月経小屋があり、下りてくるときは大声で人払いをする。家に戻れば川水で沐浴し、軒下か土間に筵を敷いて一夜を過ごし、仮の竈で粥を煮る。この二段階の復帰儀礼は、穢れが段階的にしか落ちないと考えられていたことを示している。

香川県の伊吹島には「デーベヤ」があった。もともとは敦賀半島のサンゴヤに似た形態だったと推測されているが、一九三〇年に「伊吹産院」という近代的施設へと生まれ変わる。戦後は助産婦の開業により、デーベヤでの出産が普及した。ここでも、忌みの小屋が近代医療施設へと変身している。

出雲では、小屋を「タヤ」「コイゴヤ」と呼び、明治の終わり頃まで利用された地域があった。月経になることを「コイになる」「タヤに居る」と言った。小屋そのものは早くに廃れたが、食事を家族と別に取る風習は戦後まで続いた土地があるという。

静岡県富士市大渕には、明治以前まで月経の別火があった。自宅から離れた場所にタヤが建てられ、女性は月経が終わるまでそこで生活した。大正の頃まで「タヤノイエ」という屋号の家があったという。タヤが建っていた場所に住んでいるから、そう呼ばれた。地名や屋号に残るというのは、その習俗が景観の一部だったことの証拠である。

山形県小国町大宮には「コヤバ」があった。明治二十二年以前は出産のたびに小屋を建てていたが、警察署長の意見で常設のコヤバになったと伝えられる。ここには重要な逆説がある。近代の行政が介入した結果、仮設だった小屋が常設化した。衛生指導が習俗を消すのではなく、固定してしまうことがあるのだ。しかも常設のコヤバができた当初、女性たちの強い穢れ意識のせいで、なかなか利用されなかったという。行政が用意した清潔な施設より、自分たちの穢れ観のほうが強かった。

そして、山の民俗も外せない。奥三河の北設楽郡では、各戸ごとに設置された産屋「コイエ」が近年の調査で発見されている。火小屋、小屋分、火打ち金の話も同じ地域だ。海だけの習俗ではない。

漁村の禁忌は、なぜあれほど強かったか

月経禁忌が最も苛烈に働いたのは、漁村である。理由ははっきりしている。海が危険だからだ。

漁は毎日死と隣り合わせだった。「板子一枚下は地獄」という言葉のとおりである。天候、風向き、潮の流れ、どれひとつ人間の意のままにならない。にもかかわらず、その日の漁獲が生活を決める。制御できない不確実性を、人はどうにかして説明したがる。そこで禁忌が肥大する。

船には「船霊様」が祀られる。ご神体は多くの場合サイコロ二個と銭十二枚、それに女の人形。この船霊様が女神である、という伝承が各地にある。だから女を乗せると神が嫉妬して不漁になる、あるいは嵐を呼ぶ、と言われた。広島では「女がひとりで乗船することを嫌う。ひとりで乗るときにはデコ、つまり人形を持って乗るとよい」と伝えられている。愛媛では「漁船に若夫婦を乗せると、船霊様が嫉妬して嵐になる」という。

そこに血穢が重なると、規制はさらに強くなる。岡山の昭和八年の記録では、妊婦や月経中の女性が山の中腹のカンヤにいる間は、船具に触れさせなかった。海神の祟りを恐れたからだ。船に乗せないだけでなく、道具にすら触らせない。網、櫓、浮子。ここまで来ると、女性の身体が半径数メートルの汚染源として扱われている。

沖縄や粟国島には、漁に行くときに女に会うと不漁、という言い伝えが残る。ただし、妊婦に会うと豊漁だという。同じ女の身体でも、妊娠は豊穣の側に振れる。禁忌の論理はしばしば一貫していない。

福井県敦賀市での聞き取りでは、月経中の慣習として、神棚への供物の禁止、神社への接近の禁止、乗船の禁止、そして自宅内での食事の禁止が挙げられている。乗船禁止が並んでいるのが漁村らしい。

そしてもうひとつ、酒蔵と味噌蔵の禁忌がある。月経中の女性は酒蔵に入るな、というのは全国的に見られた。田中ひかるは、この手の禁忌に完全な迷信とは言い切れない部分があると指摘している。膣内の乳酸菌が発酵食品に混入すると、仕込みが狂うことがあり得たからだ。ただし衛生観念と医学が発達した現在では、そうした事態は起きない。にもかかわらず穢れ意識だけが受け継がれている、というのが彼女の整理である。合理的だったかもしれない起源と、非合理な残存とは、きちんと分けて考える必要がある。

証言一――板笠をかぶって歩いた

ここからは、当事者の声を三つ、それぞれ厚めに置いておきたい。

ひとつめ。月経小屋を経験した女性たちの記録に、罪人が被るような「板笠」を身につけて月経小屋へ向かった、という証言がある。しかもその姿を、道ですれ違った小学生からもばかにされた、という。

この情景を少し想像してみてほしい。笠をかぶるのは、顔を隠すためだ。誰にも見られたくないから。だが、その笠こそが「この女は今そういう状態だ」という記号として機能してしまう。隠すための道具が、逆にいちばん目立つ標識になる。歩いている姿を見た瞬間に、村じゅうの人間が事情を了解する。子どもですら理解する。だから囃す。

しかも、笠の形が「罪人が被るような」ものだった、という点が重い。近世の刑罰には、罪人に編笠をかぶせて市中を引き回す作法があった。その視覚的記憶と重なる格好で、村の女が月に一度、村外れまで歩かされる。何も悪いことをしていない身体機能のために。

この証言を紹介した田中ひかるは、続けてこう述べている。女性自身も「自分は穢れだ」という考え方を内面化しているから、「すごくみじめだった」という記憶が残っているのだ、と。

ここが本当に厳しいところである。外から与えられた規則なら、まだ抵抗の対象になり得る。だが、当人が「自分は今、穢れている」と信じてしまうと、抵抗の足場そのものが消える。笠をかぶって歩く自分を、自分でも恥じるようになる。制度は暴力を使わずに人を歩かせる。掟を守らせるいちばん安上がりな方法は、守るべきだと本人に思わせることだ。

そして、この内面化は世代を越える。母が娘に教える。年長の女が年下の娘に教える。小屋の中で伝承されたのは知恵だけではない。「自分は穢れている」という自己認識も、同じ火のそばで受け渡されていた。

証言二――「家事から解放されて、女同士で楽しく過ごせた」

ふたつめ。産小屋の利用者から採られた声に、こういうものがある。「小屋にいた期間は、全ての家事から解放されて、女同士で楽しく過ごせたことが嬉しかった」。

そのまま読めば、明るい証言だ。だが、この一文が置かれている文脈を見ると、単純ではなくなる。

まず、そもそも家事とは何だったか。昭和前半の農漁村の嫁にとって、家事とは炊事洗濯だけではない。夜明け前に起きて竈に火を入れ、家族全員の飯を炊き、舅姑に給仕し、田畑に出て、帰って洗濯をし、繕い物をし、子の世話をし、最後に寝る。その労働から数日だけ完全に外れられる。それが「嬉しかった」と表現されるほどの重さだったということだ。

つまりこの証言は、小屋が良かったという話であると同時に、家がどれほどきつかったかという話でもある。隔離が休息として体験されるためには、日常のほうがもっと過酷でなければならない。この比較の構造を飛ばして「昔の女は小屋で癒やされていた」と要約すると、話が根本からねじれる。

そして同じ聞き書きの中に、まったく別のトーンの声も並んでいる。「産小屋は、切なかった」。

たった一言だ。理由の説明はない。だが、しみじみと残る。楽しかったと切なかったが、同じ習俗について、同じ調査の中で並存している。地域が違えば決まりも違う。姑との関係が違えば体験も違う。初潮の娘と、三人目を産んだ嫁とでは、同じ小屋の意味がまるで違う。

伊豆諸島の聞き取りには、さらに具体的な肯定の言葉が残っている。「日々の重労働から解放され、体を休めることができた」「人目に触れない事で煩わしい思いをせずに済んだ」「女性だけが集まる場所で性についての知識を継承することができた」。そして、結婚後には夫からの暴力などから逃れるためのシェルター的機能も果たしていたと言われている、という記述まである。男が絶対に入れない場所というのは、状況によっては、避難所になる。

一方で、青ヶ島の記録には冷徹な後日談もある。共同のタビ小屋がなくなり、各戸別の小さな小屋になって以降、それまでの教育・支援体制は次第に薄れ、妊婦が人知れず難産で亡くなるという事例もあった。さらに自宅出産になってからは、別火の食事もしなくなり、家族と一緒だから早く起きるようになって、体はまったく休まらなかったという。

隔離をやめたら休めなくなった。この逆説は、あまりに苦い。

証言三――「一定期間離れて暮らすのも、まんざらじゃなかった」

みっつめ。これは現代の証言だ。

伊豆諸島では今、島内で出産できるのは伊豆大島と八丈島だけである。他の島の妊婦は、一定の週数になると島を離れ、本土や大きな島で出産する。産前産後の数カ月を、生活の場を離れて過ごすことになる。

その、島外出産を終えて帰ってきた母親が、乳児健診のときに医師にこう言ったという。「一定期間離れて暮らすのもまんざらじゃなかったです」。

この一言を採録した医師は、青ヶ島の記録が島外出産を「新しい型のタビと言えなくはない」と締めくくっていることに触れている。つまり、タビ小屋は形を変えて生きている、という見立てだ。

さらに言えば、この構造は島に限らない。里帰り出産がそうだ。日常の家を離れ、身近な女性の助けを受けながら、数週間から数カ月を過ごす。産後ケア施設もそうだ。宮参りが産後三十日前後に行われるのも、産穢の忌み明けの日数と重なっている。制度としての産屋は消えたが、機能としての「離れて休む場所」への需要は消えていない。

もっとも、ここでも注意が要る。かつての小屋は、本人が選べなかった。今の里帰りや産後ケアは、原則として選べる。「離れる」という行為が同じでも、強制されるのと選ぶのとでは、まったく別のものだ。まんざらじゃなかった、と後から言えるのは、それが選択だったからでもある。

「解放区だった」という語りを、どこまで信じるか

ここ十年ほど、月経小屋を肯定的に語る言説がじわじわ増えている。休息の場だった、女性の連帯の場だった、知恵の伝承の場だった、産後ケア施設の原型だった、現代人こそ月小屋が必要だ――といった具合だ。実際、オンライン上に「現代版の月小屋」を掲げるコミュニティまで存在する。

この語りには根拠がある。ここまで見てきたとおり、当事者の肯定的な証言は確かに存在する。研究の側からも、隔離一辺倒の理解に対する再検討が進んでいる。

代表的なのが、産屋研究を長年続けてきた板橋春夫の仕事だ。彼は、産屋を「血の穢れのために家族と隔離され食事も別にする施設」と定義するステレオタイプを疑い、終焉期の利用者からの聞き書きを大量に集めた。そして、産屋が集落の中心部に建っている事例があること、京都大原の産屋では最後の利用者が穢れについてまったく言及しなかったこと、大原神社の方角を向いて出産したこと、入口に魔除けの鎌を掛けたことなどを挙げ、高取正男の「産屋は神の加護を得るために籠もる神聖空間」という説を妥当と判断している。大原の産屋の最後の利用者は、暖房設備のまったくない小屋へ、わざわざ雪の中を出かけていったという。追い出されたのではなく、自分から行っているのだ。

魔除けの鎌の話も面白い。若狭のサンゴヤでは、入口にコモを吊るし、そのコモの所に草刈り鎌を掛けた。香川の伊吹島では、産婦の行列の先頭が刃物、果物ナイフや包丁や鎌を片手に持って歩いた。理由を尋ねると、経験者たちは一様に「魔除け」だと答えている。閉鎖的な空間は、外から見れば閉じ込めだが、内から見れば守りの構えでもある。

板橋の結論は、こうまとめられる。産屋は本来、神聖な空間に忌み籠もる施設であった可能性が高い。しかし時代が下って穢れ観が強まり、その穢れ観が別火習俗を生み、家族や集落からの隔離を要求した。そして近代に入って終焉を迎える際には、共助と休養の機能に特化した地域もあった、と。

籠もりから始まり、隔離へ変質し、最後に休養へ着地する。三段階のドラマである。志摩の越賀のオビヤが産婦保養所になった話は、この第三段階の典型だ。

では、「解放区だった」で話を終えていいのか。よくない、と思う。理由を三つ挙げる。

第一に、産屋と月経小屋を混ぜてはいけない。産屋は年に一度もない出来事だ。命がけの出産という、明確な非日常である。籠もりや祈りの説明が成立しやすい。だが月経は毎月来る。四十年近く、毎月だ。そこに「神の加護を得るための籠もり」という説明を全面適用するのは無理がある。実際、月経小屋のほうが産小屋より先に、しかも各地で一斉に廃れている。当事者が真っ先に手放したのは月経のほうだった。この選択を軽く見てはいけない。

第二に、肯定的な証言を採れたのは、原理的に「生き延びて、語れるようになった人」だけだ、という点だ。小屋に入るのが嫌で嫁ぎ先を出た人、初潮を隠して小屋に入らずに済ませようとして責められた人、小屋で体調を崩した人。そうした声は、そもそも聞き書きの網にかかりにくい。ネパールでのように、小屋の中で命を落とした人は、当然何も語らない。証言の分布が、体験の分布と同じだとは限らない。

第三に、良い面があったことと、制度が正当だったこととは、まったく別の話だ。ここは徹底しておきたい。刑務所にも図書室があり、そこで人生が変わった受刑者がいる。だからといって収監が良い制度だという話にはならない。島根県古代文化センターの石山祥子の言い方が、この点でいちばんバランスがいい。この風習の根底にある思想自体は支持できないが、裏を返せば、女性が労働や家事から解放され安静に過ごす期間を、家や地域社会が保証していたとも言える――という整理だ。まず思想を否定し、そのうえで機能を評価する。順序が逆になってはいけない。

そして最後に、いちばん厄介な事実を置いておく。休息が休息として成立していたのは、女性たちが日常であまりに休めなかったからである。だとすれば、称賛すべきなのは小屋ではなく、休息の必要そのものだ。小屋を懐かしむより、なぜ日常のほうを変えなかったのかを問うほうが筋がいい。

なぜ昭和四十年代まで生き延びたのか

制度は明治五年に否定されている。一八七二年、明治政府は太政官布告によって、出産にまつわる穢れを公式には忌まないと定めた。きっかけは有名な逸話として伝わっている。大蔵省を訪ねたお雇い外国人が、妻の出産の穢れを理由に欠勤している役人がいると聞いて呆れ、抗議したから、というものだ。同じ年、神社仏閣の女人結界を廃し登山参詣を随意とする布告も出ている。近代国家の体裁を整えるうえで、血穢は邪魔だった。

だが、法令は習俗を殺せなかった。明治政府は前後してタビ小屋に関する禁圧令を複数回出し、東京府も明治十六年に廃止の府令を出している。八丈島から他屋が消えたのは明治二十年頃。それでも青ヶ島には、地理的条件から政府の命令がほとんど伝わらなかった。黒潮に阻まれ、船便は年に数便。冬場は数カ月間、外界と切れる。法令が届かない場所では、法令はないのと同じだ。

では、何が実際に習俗を終わらせたのか。要因は複数ある。

ひとつめは、経血処置の技術革新である。一九六一年、坂井泰子という二十七歳の主婦が立ち上げたアンネ社から、日本初の本格的な使い捨てナプキン「アンネナプキン」が発売された。キャッチコピーは「四十年間お待たせしました」。アメリカに四十年遅れたという意味だ。発売直後の一九六一年十二月時点で使用経験のある女性は全体の二パーセントだったが、一九七二年には八十パーセントに達している。経血が漏れる、着物が汚れる、という物理的問題が解決した瞬間、「人目につかない場所に隔離する」という運用の実務的な口実が消える。これは大きい。

ふたつめは、施設分娩の一般化だ。日本で病院等での出産が過半数を超えるのは一九六〇年代である。産屋の存在意義が制度的に消滅する。福井の色浜の産小屋が使われなくなったのも、まさにこの時期だった。

みっつめは、集落そのものの構造変化である。道路がついた。志摩の石鏡にパールロードが通ったのが一九七三年だ。それまでは船でしか行けなかった。婚姻圏が広がり、外から嫁が来るようになれば、村の掟は説明を要求される。敦賀半島では、原子力発電所や関連施設の建設に伴う社会変化が、サンゴヤ習俗の終焉の背景として指摘されている。輪島の海士町では、昭和三十年代に藩政期以来のシマワタリの慣習が終わった。高度成長は、若者を都市に吸い出しただけでなく、村に外部の目を持ち込んだ。

よっつめ、誰かのひと言。京都大原の産屋では、明治末に出産の場としての利用が終わったきっかけが大原神社の宮司の発言であり、戦後に籠もり習俗が終わったのも宮司の終了宣言によっている。滞在期間は七日から三日、そして一夜へと縮み、昭和二十三年を最後に使われなくなった。時代の流れで自然消滅したのではない。特定の人物の発言が転換点になっている。山形の小国町では警察署長の意見が仮設から常設への転機になり、他の地域では警察による産屋の破壊、新興宗教者による廃止の徹底が終焉要因として挙げられている。

そして、五つめ。恥ずかしくなったから。これはかなり効いている。青ヶ島の古老が語ったとおりだ。「こないだまではみんなタビに出たのだが、今は恥ずかしがって隠れて余り出なくなった。困ったことだ」。学校教育が普及し、外の世界の常識が入ってくると、小屋に入ること自体が「遅れている」ことになる。廃止は、上からの命令ではなく、若い世代の羞恥心によって進んだ側面がある。

こうして、大半の地域では戦前から戦後すぐにかけて消えた。だが、いくつかの土地では長く残った。福井県敦賀市では一九七〇年代まで月経小屋が機能していたと報告されている。青ヶ島でタビ小屋が姿を消したのは一九六八年。敦賀市白木のサンゴヤは昭和五十年代まで使われており、全国で最も遅くまで利用されていた産屋とされる。

つまり、昭和四十年代まで――というのは誇張ではない。ごく一部ではあるが、事実として残っていた。

いま、小屋はどこにあるか

現物が残っている。福井県敦賀市の色浜集落に、産小屋が現存する。もともと海岸沿いにあったものを、一九七四年に保存目的で移築したものだ。六畳二間、床面積およそ十九平方メートル。分娩用のオクゴヤと、月経中に過ごすクチゴヤに分かれている。備品も残っている。集落の人々が維持管理している。案内看板はなく、探すのに時間がかかるらしい。

現地の説明板には、こう書かれているという。「前近代的な遺習と見られがちであるが、存外の合理性を秘めた過去の出産風俗の遺構である」。この一文の座りの悪さは、そのままこの習俗をめぐる議論の座りの悪さでもある。

若狭地方の産小屋習俗は、昭和五十一年に国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択されている。平成元年には『若狭の産小屋習俗』として記録集が刊行された。文化財として保存されているというのは、この習俗が「終わったもの」として公式に扱われていることを意味する。

京都の大原にも産屋が残る。茅葺きの天地根元造りで、大原神社から御旅所までの区域に住む十数軒の女性だけが利用してきた。川向こうの水田の一角に建ち、集落のどの家からも見下ろせる位置にある。戦前の記録には「産屋と知らない者には堆肥小屋ぐらいにしか見えない」と書かれているが、同時に「川の向こうの産屋から煙が上がっていると赤子が生まれたことが分かる」立地でもあった。隔離であると同時に、見守られてもいる。この両義性が建物の位置に刻まれている。

そして、記録のほうも残っている。文化庁の『日本民俗地図』の出産・育児編には産屋の事例が拾われており、板橋春夫はそれを精査して分布図に落とし込み、最終的に八十九件の産屋を確定した。分布は西日本に偏り、東海から北陸、瀬戸内に濃い。太平洋岸では千葉、神奈川、伊豆諸島から東海道、瀬戸内、四国、九州へ。日本海側は新潟、福井、京都、島根。北は北海道網走市、南は大分県の姫島まで。

民俗学の記録という点では、瀬川清子の名を挙げないわけにいかない。一八九五年に秋田に生まれ、柳田国男のもとで学び、生涯で三百カ所近い調査地を歩いた女性民俗学者だ。戦前の海村調査では、軍事施設の多い海浜地帯でスパイ嫌疑をかけられる困難のなか、十五の海村を回った。一九三九年段階で海村調査を実行したのは、メンバーのうち彼女ひとりだったという。『海女』『村の女たち』『若者と娘をめぐる民俗』などを著し、一九八〇年に刊行した『女の民俗誌 そのけがれと神秘』で翌年の柳田国男賞を受けた。副題に「けがれ」と「神秘」を並べているところが、この主題の難しさを最初から言い当てている。産屋研究の先行研究整理では、瀬川と大藤ゆきが「穢れを前提とする」系譜に、牧田茂、高取正男、谷川健一が「神の加護のもとに籠もる」系譜に位置づけられる。同じ小屋を見て、正反対の解釈が出る。それだけの厚みがこの対象にはある。

世界の月経小屋――チャウパディという現在形

日本の話として済ませられないのが、この主題の重い部分だ。

ネパール西部には「チャウパディ」という慣行が今も残る。ヒンドゥー教に根ざした習俗で、月経中の女性や産後の女性を不浄とみなし、家から追い出して「チャウ・ゴット」と呼ばれる屋外の小屋に寝泊まりさせる。人や牛に触れてはいけない、食べ物に触れてはいけない、神像に触れてはいけない。台所や祈祷部屋に入れない。学校を休む子も出る。地域によっては、家庭の九十五パーセントまでがこの慣行を実践していたという調査もある。

死者が出ている。二〇一六年十二月には、暖を取ろうと小屋の中で火を焚いた十五歳の少女が煙で窒息死した。同じ時期にもうひとり、原因不明の死。二〇一七年七月には、西部のダイレク郡で十八歳の少女が毒蛇に二度咬まれ、七時間苦しんだ末に死亡した。治療が遅れたのは、家族が病院ではなく村のシャーマンのところへ連れて行ったためだと報じられている。二〇一九年十二月には、二十一歳の女性が小屋の中で煙にまかれて死亡し、義兄が拘束された。この慣行での逮捕者は、それが初めてだった。

法的には、二〇〇五年にネパール最高裁が違法と判断している。だがガイドラインが示されただけで、罰則がなかった。二〇一七年八月九日、議会が全会一致でチャウパディを刑事罰の対象とする法律を可決した。女性にチャウパディを強制した者に、禁錮三カ月または罰金三千ルピー、あるいはその両方。施行は一年後の二〇一八年夏とされた。警察が小屋を取り壊し、再建させないという方針も示された。

それでも慣行は終わっていない。実効性の問題がある。告発するには、女性自身か誰かが警察に届け出なければならない。相手は家族だ。自分の姑や夫や兄を告発することになる。現地の活動家は、これは文化の問題ではなく人権と法律の問題だと繰り返しているが、同時に「月経のタブーやチャウパディは、今も家庭内の私的な問題と見なされている」とも語っている。

日本の忌み小屋を語るとき、この現在形を並べておく必要があると思う。理由はふたつある。ひとつは、日本の習俗を「特殊で奇怪な過去」として消費するのを防ぐため。もうひとつは逆に、現在進行形の人権侵害を「異文化の伝統」として距離を置くのを防ぐためだ。

比較の材料はいくらでもある。『旧約聖書』レビ記十五章には、女性の生理が始まったら七日間は穢れた状態であり、この期間に彼女に触れた者はすべて夕方まで穢れ、彼女が使った寝床や腰掛けも穢れる、と書かれている。エチオピア北部のユダヤ人の村には、実際に月経中の女性のための小屋があった。『コーラン』の雌牛章にも、月経は不浄であるから、その期間は妻から遠ざかり、清まるまで近づいてはならない、という記述がある。エスキモー、アメリカ先住民、ミクロネシア、メラネシア、ニューギニア、ヒマラヤ、オーストラリア、南アフリカ。月経小屋の分布はほとんど世界大である。

そもそも「タブー」という語自体が、ポリネシア語で月経を意味する言葉に由来する、という説がある。禁忌という概念の語源に月経がある。ここまで来ると、これは日本の民俗の話ではなく、人類がずっと引きずってきた何かの話になる。

ただし、一律ではない。パプアニューギニアのアベラム社会の詳細な調査では、月経小屋に籠もった世代の女性たちが、自分の身体にマイナスの価値づけだけをしていたわけではないことが報告されている。彼女たちは、男性の生産の場に入らないことによって、むしろ男性の生産に協力しているという意識を持っていた。月経小屋での会話は楽しかったと語り、期間が重なった二、三人で一緒に過ごし、森へ薪や食料を集めに行き、専用の泉で水浴びをした。「経血が下ってきて恥ずかしくないのか」という調査者の問いに、「月経期間の女だけだから恥ずかしくなかった」と答えている。

つまり、恥は他者の視線とセットでしか発生しない。同じ状態の者だけが集まる空間では、恥は消える。小屋の内側と外側で、身体の意味が変わるのだ。日本の月経小屋の「楽しかった」という証言も、おそらく同じ構造をしている。

なぜ、これは怖いのか

ここまで来て、この話のどこがいちばん怖いのかを言葉にしておきたい。

亡霊は出てこない。呪いもかからない。小屋は暗くて狭くて寒いが、幽霊屋敷ではない。それでもこの話が背筋に来るのは、次の三点だと思う。

ひとつ。加害者が特定できない。誰かが悪意で女を追い出したわけではない。姑も、そのまた姑から同じことをされている。夫も、母がそうしているのを見て育っている。村の誰も、この制度の発明者ではない。全員が継承者だ。責任の所在が拡散していて、誰を責めればいいのか分からない。そして責める相手がいない仕組みは、批判の的をつくれないから、いつまでも続く。

ふたつ。被害者が納得している。これがいちばんきつい。「自分は今、穢れている」と当人が信じているとき、隔離は暴力ではなく手続きになる。誰も縛らないし、誰も殴らない。女は自分の足で歩いて小屋に行く。荷物を自分で運ぶ。火を自分で熾す。掟の執行を、対象者本人が代行している。これほど効率のいい支配の形はない。

みっつ。理屈が反証不能である。血を穢れとする理由に根拠はない。だが根拠がないぶん、反証もできない。「なぜですか」と問えば「昔からそうだから」と返る。守らないとどうなるかと問えば「不漁になる」「祟りがある」と返る。実際に不漁になれば禁忌のせいにされ、豊漁になれば禁忌を守ったおかげにされる。どちらに転んでも制度が勝つ。この非対称性が千年を支えた。

そして最後に、いちばん怖いのはこれかもしれない。終わったのが、つい最近だということだ。昭和四十年代に月経小屋があったということは、そこに入った経験を持つ女性が、今もご存命であってまったく不思議ではないということだ。七十代、八十代。地続きなのである。遠い昔話ではない。

禁忌の強さを決めていたのは、思想ではなく懐具合だった

ここからは腰を据えて掘る。

まず、この習俗を「日本の後進性」の物語として読んではいけない、という話から始めたい。というのも、月経禁忌の強度と近代化の進度は、必ずしも相関しないからだ。日本は明治五年の時点で法令上は血穢を否定している。にもかかわらず、実態は百年近く残った。逆に、法令の整備が遅れた地域でも、生業の必要から禁忌が早々に骨抜きになった例はいくらでもある。能登の海女がその典型だ。女が船に乗らなければ暮らしが立たない土地で、女は船に乗るなという禁忌が原理どおり運用されるはずがない。

つまり、禁忌は思想の強さではなく、それを維持できる経済的余裕によって決まる。人手が足りていれば女を休ませられる。足りなければ休ませられない。志摩の記録が「カリヤは廃止されたが、廃止後も月経者は自宅納屋で過ごし、仏事・神事には不参」と伝えるのも、この経済の話として読める。小屋を維持する余裕がなくなれば小屋は畳む。だが、神事から外すのはコストがかからない。だから残る。制度が縮退するときは、金のかかる部分から先に落ちていく。

手続きは神道から、言い訳は仏教から

この習俗の「二重構造」も、もう一段はっきりさせておきたい。神道系の気枯れの論理と、仏教系の血の罪の論理。この二層が重なっているという指摘は、本編でも触れた。だが、両者の性質はまるで違う。

気枯れの論理は、回復可能性を前提にしている。ケという日常のエネルギーが枯れた状態がケガレであり、ハレの儀礼を通じて回復し、またケに戻る。ケからケガレへ、ケガレからハレへ、そしてケへ。円環である。だから期限がある。七日、三十日。祓えば消える。この枠組みでは、月経中の女性は「病人に近い扱いを受けている人」であって、「劣った存在」ではない。

対して血盆経の論理は、円環ではなく直線だ。生まれ落ちた時点で女は罪を背負い、死後に地獄が待っている。回復の道は、経を写し、読み、法会を営むことでしか開かれない。しかもその功徳は死後にしか効かない。生きている間ずっと、その人は罪人であり続ける。期限がないのだ。

この二つが合体すると、最悪の組み合わせが生まれる。実務としては気枯れの論理が「隔離せよ」という具体的な手続きを提供し、正当化としては血盆経の論理が「なぜならお前は罪深いからだ」という説明を提供する。手続きと説明が別々の宗教から供給されているので、どちらか一方を否定しても制度は倒れない。明治政府が神道側の穢れ規定を法令で否定しても習俗が消えなかったのは、仏教側の説明がまだ効いていたからだ、という読み方もできる。

連帯はあった。その連帯が何を再生産していたか

小屋の「教育機関としての機能」も、もう少し慎重に見ておきたい。青ヶ島のタビ小屋では、礼儀作法、座り方、茶の出し方、裁縫、機織り、調理、育児が教えられた。「名主殿の前に出る時の坐り方、普通の時の坐り方」まで仕込まれたという。これは確かに教育である。しかし、何を教育していたのかを見れば、それは「村の女として正しく振る舞う技術」だ。つまり、その村の性別役割を再生産するための訓練でもある。

女だけの空間で女が女に教える。そこには連帯もあれば、暖かさもあっただろう。同時に、その空間は掟の伝達装置でもあった。姑が嫁を叱る場所が母屋なら、年長の女が娘に女の身の処し方を仕込む場所が小屋だった。抑圧は必ずしも男から来るとは限らない。制度が長く続くとき、たいていは被抑圧者自身が運用の実務を担っている。この構図から目をそらすと、「女性同士の連帯の場だった」という美しい要約に着地してしまう。連帯はあった。だが、その連帯が何を再生産していたのかまで見ないと、半分しか見ていないことになる。

他火からアンネへ、アンネから生理へ

呼称の話も、もう一歩深めたい。八丈・青ヶ島方言で月経を「タビ」と呼ぶ。タビは他火である。出雲で月経になることを「コイになる」「タヤに居る」と言う。伊豆の利島で月経を「ヒマヤ」「ソトビ」と呼ぶ。

気づくのは、これらの言葉がすべて、身体の現象ではなく場所と火を指していることだ。「生理が来た」ではなく「他の火になった」「タヤにいる」と言う。身体で起きていることを、社会的な状態の名前で呼ぶ。これは言語による制度の内面化としては、かなり強力な部類に入る。自分の体の出来事を語る語彙が、村の掟の語彙しかないのだから。

現代の日本語で月経を「あれ」「お客さん」と呼んだ時代があるのも、地続きだ。そしてアンネナプキンの登場後、女性たちが月経を「アンネ」と呼ぶようになった。商品名が月経の呼称になった。「アンネ」を経由して、私たちはようやく「生理」と口に出せるようになった、と田中ひかるは書いている。婉曲の系譜が、他火からアンネへ、アンネから生理へと続いてきたわけだ。呼び名の変遷は、そのままタブーの変遷である。

語源が善良でも、運用まで善良とはかぎらない

「穢れは汚いという意味ではない」という説明の使い方についても書いておく。ケガレは気枯れであり、生命力が落ちている状態を指すのだから、差別ではない――という語り方が一定の支持を集めている。この解釈は、語源としては筋が通っている。実際、それゆえに月経中の女性がこれ以上消耗しないよう小屋で休ませていたのだ、という説明も出されている。

だが、語源が善良であることは、運用が善良であることをまったく保証しない。当事者は「板笠をかぶって歩き、小学生にばかにされた」と語り、「すごくみじめだった」と語っている。語源に「汚い」という意味がなかったとしても、実際に生きられた体験のほうが事実だ。言葉の由来を持ち出して体験の記憶を訂正しにかかるのは、順序が逆である。まず何が起きたかを聞き、そのうえで、なぜそんな仕組みが成立したのかを説明するために語源を使う。この順番を守らないと、語源論はすぐ弁護論に化ける。

土俵にまかれた塩が、可視化してしまったもの

女人禁制論との接続も見ておきたい。二〇一八年四月、京都府舞鶴市の大相撲春巡業で、挨拶中に倒れた市長を救命するため土俵に上がった女性たちに対して「女性は土俵から降りてください」という場内放送が繰り返された。この一件をきっかけに、女人禁制をめぐる議論が再燃した。日本相撲協会は同月末、緊急時・非常時は例外とする理事長談話を発表した。例外を明示することで、原則としての女人禁制は逆に強調された。

土俵の女人禁制と月経小屋は、直接つながる制度ではない。だが、根は共有している。落合恵美子が指摘したように、土俵に女性が上がれない理由として最終的に持ち出されるのは、産穢と血穢だ。死穢を黒不浄、産穢を白不浄、血穢を赤不浄と呼び、三つ合わせて三不浄という。このうち二つが女性に関わるから、女性の穢れは深刻だとされてきた。救命に上がった女性の後に土俵へ塩がまかれたことは、その論理を可視化してしまった。

一方で、鈴木正崇の仕事は、この問題を単純な「伝統対人権」の二項対立に落とし込むことへの警戒を促している。大峰山の山上ヶ岳では、女人結界の解禁を求める運動と、地域や熱心な信仰者の「このままにしておいてほしい」という声とが並存している。禁制を維持する側が人権論に応答せず「伝統」を盾に反対意見を封じ込める点も、彼は批判している。どちらの側にも問題があり、差異の多義性をすくい上げる必要がある、という立場だ。

この慎重さは大事だ。ただし、月経小屋については、事情がやや異なると考えている。土俵や霊山の女人禁制は、恒常的な空間規制であり、その空間に入らなくても日常生活が成り立つ。だが月経小屋は、生活そのものの中に食い込んだ一時的規制であり、月に一度、生活の場から出ていくことを強いる。負荷の質がまるで違う。だから、女人禁制一般を相対化する議論をそのまま忌み小屋に適用するのは、雑だと思う。

可視化されて隔離された時代と、不可視化されて放置される時代

現代への接続として、二〇二一年の「生理の貧困」の話をしておきたい。任意団体の調査では、過去一年で金銭的理由により生理用品の入手に苦労した学生の割合が二十パーセント、生理用品でないものを使ったことがある人が二十七パーセント、交換頻度を減らした人が三十七パーセントにのぼった。生理を理由に学校を欠席・早退・遅刻した割合は四十九パーセント近い。別の国際NGOの調査では、十五歳から二十四歳の女性二千人のうち、生理用品の購入をためらった、あるいは購入できなかったと答えた人が三十六パーセント。そのうち「恥ずかしいから」を理由に挙げた人が九パーセント近くいた。

さらに刺さるのが、二十七カ国を対象にした「生理についてオープンに話せるか」という調査で、日本が三十二パーセントと二十五位だったという結果だ。二十七カ国の平均が六十二パーセントである。三人に二人が、オープンには話せないと考えている。

内閣府の集計によれば、二〇二一年七月時点で「生理の貧困」に係る取り組みを実施または検討している地方公共団体は五百八十一団体にのぼった。五月時点では二百五十五団体だったから、二カ月で倍以上に増えている。防災備蓄からの調達が最も多く、次いで予算措置、企業や住民からの寄付。学校の保健室やトイレに置く、声に出さずに受け取れるよう意思表示カードを用意する、といった配慮も報告されている。声に出さずに受け取れるようにする、という工夫が必要とされること自体が、いま何が残っているかを教えてくれる。

島根の資料にある一文が、この対比を鋭く突いている。かつては月経中の女性が、家族や地域社会から可視化される存在だった。だから隔離もされたが、同時に「休ませてもらえる期間」を共同体が保証してもいた。それに比べて現代は、女性にとって天と地ほどの差があるはずだ。だが、その社会が「生理の貧困」に気づきにくい社会になっているのなら、皮肉というほかない――と。

可視化されすぎて隔離された時代と、不可視化されすぎて放置される時代。どちらも問題の形が違うだけで、月経を扱う社会の下手さという点では地続きだ。理想は、可視でも不可視でもなく、単に「あることになっている」状態だと思う。特別扱いも隠蔽もされない。困っていれば手当てされる。それだけのことが、千年かけてまだ実現していない。

断罪でも郷愁でもなく

最後に、この主題を書くときの姿勢について。

月経小屋を扱う文章は、二つの方向に転びやすい。ひとつは「野蛮な過去への断罪」。もうひとつは「失われた女性の聖域への郷愁」。前者は当事者を無知な犠牲者として描き、後者は当事者を癒やしの受益者として描く。どちらも、当事者を語りの素材として使っている点では同じだ。

実際に残っている言葉は、もっと素っ気ない。「切なかった」。「楽しかった」。「みじめだった」。「体を休めることができた」。「一定期間離れて暮らすのもまんざらじゃなかった」。矛盾している。当たり前だ。人生は矛盾する。同じ小屋に、地獄として入った人と、避難所として入った人と、儀式として入った人がいる。全部本当だ。

だから、この記事の結論を無理にひとつにまとめるつもりはない。制度としての血穢は、女性を根拠なく劣位に置く仕組みだった。これは断言していい。同時に、その仕組みの内側で、女たちは笑い、教え合い、休み、生き延びた。これも事実だ。制度を批判することと、そこを生きた人を尊重することは、両立する。というより、両立させないと何も見えない。

村の外れの小屋は、もうほとんど残っていない。残っているのは、敦賀の色浜と、丹波の大原と、いくつかの資料館の写真と、テープに録られた声だけだ。だが、火を分けるという発想は、案外しぶとく生き残る。誰かを「今は近づけない状態の人」として扱い、別のテーブルに座らせる。その手つきは、月経に限らず、いろいろな場面で今も使われている。感染症のときにも見た。

小屋の話は、だから終わった話ではない。あれは、共同体が「困った身体」をどう扱うかという問題の、いちばん古くて分かりやすい実例なのだ。私たちが今どんな小屋を建てているのか、たまには外から眺めてみたほうがいい。

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