雪の峠を、目の見えない女たちが一列になって越えていく
まず一枚の絵を頭に浮かべてほしい。
三月の越後。まだ根雪の残る田んぼのあぜ道を、褄折れ笠をかぶった三人の女が縦一列で歩いている。先頭の一人だけがうっすら目が見える。後ろの二人は全盲で、前をゆく者の背負った荷物に指先をそっと当てて進む。背中の荷は十五キロほど。三味線、着替え、薬箱、借りた布団の上に敷くための黒い布。杖は五尺二寸と決まっている。行き先は今夜泊めてもらう家、その村での門付け、そして夜の唄。
これが瞽女(ごぜ)だ。盲目の女性だけで組を作り、村から村へ三味線を担いで渡り歩いた旅の芸人である。室町時代の記録にすでにその姿が見え、江戸期に組織を固め、明治に最盛期を迎え、昭和四十年代に消えた。三百年どころか、もっと長い。
で、この記事で書きたいのはその「掟」の話だ。
瞽女の世界には、外からは見えない厳格な戒律があった。親方への絶対服従。姉弟子への絶対服従。男との関係の全面禁止。稼ぎの分け方から荷物を置く順番、風呂に入る順番、飯の箸を取る順番まで、すべてが入門年数で決まっている。
破ればどうなるか。最も重い罰は所払い、つまり追放だ。三味線を取り上げられ、下着と腰巻に縄の帯を巻かれ、青竹の杖を持たされて、四十キロから八十キロの外へ放り出される。仲間の親方衆にも、各地の瞽女宿にも「あれは外した」と連絡が回る。宿にも泊まれない。組にも戻れない。
そうやって組から切り離された者が「はなれ瞽女」と呼ばれた。地方によっては「外れ瞽女」「はずれ」「ハズレ」「瞽女くずれ」。名前からしてもう救いがない。
ただし、この話を「昔の日本は残酷でした」で終わらせるとまるっきり読み違える。あの掟は、目の見えない女が自分の足で飯を食うために、彼女たち自身が作って自分たちにかけた鎖だった。ここが一番おもしろくて、一番こわいところだ。順番に見ていこう。
そもそも瞽女とは何者だったのか
「瞽」という字は目が見えないことを指す。「瞽女」で盲目の女性。語源は諸説あって、貴人に仕える女性への敬称「御前」がなまったという説、「盲御前(めくらごぜん)」の略という説がある。中世の文献では「盲女」「女盲」といった表記も使われた。越後の人々は敬意をこめて「瞽女さま」「瞽女さん」と呼んだ。
文献に姿が確認できる最初は、室町時代に成立した『七十一番職人歌合』とされる。職人づくしの絵巻のなかに、鼓を打ちながら歌う盲目の女が描かれている。近くには草履と杖。すでにこの時代、各地を歩いて芸を見せていたことがうかがえる。
江戸中期に三味線が普及すると、瞽女の芸はがらりと変わった。鼓から三味線へ。短い祝言芸から、長大な物語を語る「段物」へ。
瞽女は全国にいた。九州から福島・山形まで、関東、中部、北陸に厚く分布した。加賀・越中の高岡瞽女、美濃の大寺瞽女、駿府の瞽女、信州飯田の瞽女。ところが明治の近代化のなかでほとんどの集団が消え、二十世紀後半まで実際に旅を続けていたのは新潟県、それも高田と長岡の二系統だけになる。だから今日「瞽女」と言えばほぼ「越後瞽女」を指す。
なぜ越後だったのか。理由はいくつも重なる。豪雪地帯で冬は農作業ができず出稼ぎが当たり前だったこと。貧しい小作農が多く、娯楽が極端に少なかったこと。栄養状態や衛生環境が悪く、麻疹や白内障で幼くして失明する子が多かったこと。そして何より、他県からやや孤立した地理が古い生業を長く温存したこと。
研究者の鈴木昭英は、雪国であること、貧困な小作農民が多いことと出稼ぎの風、そこに「ねばりけのある越後人特有の気質」が加わったと書いている。
高田は「座元制」、長岡は「家元制」――双璧の中身がこれだけ違う
越後瞽女の双璧が高田瞽女と長岡瞽女だ。同じ「越後瞽女」でありながら、組織のつくりが根本から違う。ここを押さえないと掟の話が理解できない。
高田瞽女は「座元制」。親方が高田の町なかに自分の家を構える。この家持ちの親方を「ヤモチ(屋持)」と呼んだ。ヤモチは周辺の農山村から目の見えない少女を弟子にもらい受け、養女として自分の家で育てながら芸を仕込む。稽古代も口米も要らない。自分が習っていない段物を弟子に習わせたければ、他の親方のところへ無料で通わせることもできた。
親方の家が数軒寄って「組」を作り、その組がいくつか寄って「座」になる。親方衆のなかで瞽女歴が最も長い者が「座元」となり、高田瞽女全体を取り仕切った。座元は掟を書いた「式目」と、それを納める「ジョウバコ」を保管する役目も負った。組頭という中間ポストは存在せず、組は相性のいい親方同士が自然に寄り集まって作る。ゆるやかな連合体だ。
親方の家は東本町(旧・本誓寺町)の雁木通りに軒を連ねていた。文化十一年(一八一四年)に五十七人、明治三十四年(一九〇一年)には十九軒の親方に八十九人。大正十一年(一九二二年)には十四軒四十四人、昭和八年(一九三三年)には二十三人、昭和十九年(一九四四年)に残った家は野口・上石・杉本の三軒。戦後はついに杉本家一軒きりになる。数字だけでこの職業の斜陽ぶりが分かる。
いっぽう長岡瞽女は「家元制」。長岡の大工町に「瞽女屋」と呼ばれる大きな屋敷があり、そこに代々「山本ゴイ」を襲名する大親方が住んで、中越一円に散らばる長岡瞽女を統べた。
山本ゴイの元祖は長岡藩主牧野家に縁のある人物で、生まれつき目が見えなかったため家臣の山本家へ養女に出され、元禄の末に分家したと伝わる。享保十年(一七二五年)から古志・三島・刈羽・魚沼・頸城の五郡の瞽女頭となり、牧野家から二百八十五坪の土地と扶持米を与えられていたともいう。享保十三年の長岡大火では火元となって町払いを命じられ、大工町の地続きの赤川村に屋敷を建て直したという逸話まで残っている。
長岡の弟子は師匠の家に住み込む者もいれば、稽古の期間だけ滞在する者、通いの者、逆に師匠のほうが弟子の家へ泊まり込んで教える出稽古もあった。修業を終えて独立すれば生家に戻って自分の弟子を取れる。師匠が組頭となり、組頭が山本ゴイと直接つながる。組頭が死ねばその組は自動的に解散し、弟子たちが新しい組を編成してまた山本ゴイにつながる。入門者は全員が長岡の瞽女屋に登録される仕組みで、管理の徹底ぶりは高田の座元制をしのぐ実権を持っていたとみられる。
最盛期の明治中頃、長岡瞽女の総数は四百数十人に達したという。膨れ上がった集団を統率するため、明治三十一年(一八九八年)には「中越瞽女矯風会」が組織された。大工町の瞽女屋を本会事務所とし、会頭に山本ゴイ、副会頭、助役、事務員を置き、中越八郡に支会事務所を設ける。師弟集団の枠を超えた郡単位の統治体制だ。ほとんど近代的な業界団体である。
芸風にも違いが出た。長岡瞽女の唄い方はりんりんとして野性的、高田瞽女は抑揚がなだらかで都会的なおしとやかさがある、と言われる。同じ「山椒太夫」でも節回しがまるで違う。
ほかにも刈羽組、三条組、新飯田組、土底組、糸魚川組、田麦組、西野島組といった集団があった。刈羽組は八つの組に七十五人、三条組は四つの師弟集団に十六人、新飯田組は六つの師弟集団に三十九人が確認されている。刈羽組は瞽女屋も瞽女頭も持たず、親方衆と年寄り衆の合議で運営した。新飯田組は妙音講の当番を毎年輪番で回す「頭屋制」に近い。
「瞽女式目」――毎年五月十三日に読み上げられた掟
瞽女の掟は口約束ではなかった。文書になっていた。
高田組・土底組・三条組では「式目」、長岡組と御講組では「御条目」、刈羽組では「御縁起」と呼ばれる由来書があり、これらは遠く離れた駿府瞽女の由来書と同系統である。刈羽組以外は末尾に「武州忍領より河越播磨派江伝之者」と記されている。構成は「縁起」「院宣」「式目」の三部。
縁起の中身がまた壮大だ。
瞽女の始祖は嵯峨天皇の姫君・相模宮で、生まれつき盲目だった。下加茂明神が末世の盲人を憂いて姫君に宿ったのだという。姫君が七歳のとき、夢枕に紀伊国那智山の如意輪観音が現れ「諸芸をもって世を渡り、盲人の司となるべし」と告げた。姫君は各国から盲目の女性を召し寄せ、「ミヤウクワン」「カシワ」「クニケハリマ」「ゴゼン」「ヲミノ」という五派の弟子を養成した。庄屋の家に泊まること、金銭や穀物を稼ぎとして受け取ることは、嵯峨天皇の勅定によるものである――と、そう書いてある。
歴史学的にはこれは史実ではない。当道座の由来伝承を下敷きにして後世に作られたものだ。
それでもこの縁起は決定的に重要だった。なぜなら、これがあることで瞽女は「勅許を得た由緒ある職能者」を名乗れたからだ。ただの物乞いではない。天皇のお墨付きの職業なのだ、と。実際、地方によっては瞽女は位の高い存在とされ、芸者には許されない足袋や羽織の着用が認められた。社会的地位の低い彼女たちにとって、この巻物は精神的支柱であり、同時に営業許可証でもあった。
そして式目の部分に、あの掟が書かれている。
高田では毎年五月十三日、寺町の天林寺で行われる妙音講の席で、和尚が全員の前でこれを読み上げた。天林寺は曹洞宗の寺だが本尊は琵琶を持つ弁財天で、通称「瞽女寺」。妙音講の日だけ弁天様がご開帳される。高田じゅうの瞽女がこの日に集まるため、旅先の瞽女たちは牡丹の花の匂いを嗅いで「そろそろ妙音講だ」と帰り時を知ったという。目が見えない者にとって、季節を知らせるのは匂いだった。
式目に書かれた罰則の文言はこうだ。作法に背く者があれば髪を切り、竹の杖を預け、科の品により所を追い、あるいは十里、二十里の外へ流罪にする。不行跡あれば、その罪名を裁いて五年・七年・十年と年を落とす。
高田瞽女は巡業に出るとき、この式目の写しを荷物に忍ばせて持ち歩いていたという。掟は家に置いてくるものではない。旅の道連れだった。
長岡の妙音講は旧暦三月七日、新暦になって四月十七日。大工町の瞽女屋で開かれた。住職が山本ゴイを祀る仏壇に経をあげ、山本ゴイとオモダチ(重立)の師匠四、五人が紋付を着て三味線を揃え、弁天様に「桜づくし」と「行く春」の二曲を奉納する。昼のお斎のあと、若い瞽女たちが自慢の唄を競った。
その長岡の妙音講は、昭和二十年四月の開催を最後に途絶える。同年八月一日の長岡空襲で市街地の約八割が焼け、瞽女屋敷が全焼したからだ。巻物も焼けた。帰るべき本部を失って、長岡瞽女の組織は事実上崩壊する。
掟その一――親方に絶対服従、姉弟子にも絶対服従
瞽女社会の骨格は徹底した年功序列である。それも年齢ではない。入門してからの修業年数で上下が決まる。
長岡瞽女は弟子を「子供」と呼んだ。師匠と弟子は疑似的な親子であり、弟子同士は姉妹だ。呼び名も細かく決まっていて、長岡では大親方を「オゴイサマ」「オッカサマ」、師匠から独立した姉弟子を「アネサ」、自分の師匠を「お師匠様」、年老いた姉弟子を「オバサ」「オカカ」、若い姉弟子を「ネエサン」と呼び分けた。名前が二文字の妹弟子には「オ」を付けて呼ぶが、三文字には付けない。そこまで決まっている。
姉弟子には絶対服従が鉄則。服装、髪形、入浴の順番、座る順番、荷物の置き場、食事で箸を取る順番。ぜんぶ入門順だ。
服装の規定も細かい。長岡瞽女は入門すると縞柄の着物と帯、木綿縞の前掛け。人並みに唄えるようになってようやく絣の着物が許される。昼は縞帯と加茂縞の前掛け、夜の座敷や宿唄の場では化学繊維や更紗の着物に加茂縞の半幅帯、染め絣の前掛け。半襟や模様入りの衣服は禁止。独立して初めて銘仙、繻子、唐縮緬、紬などの絹物や毛織物が許される。ただし巡業中は親方であっても縞の着物と帯と前掛けで歩かねばならない。修業中の弟子が着るのは、たいてい姉弟子のお下がりを仕立て直したものだった。年季中は上等の絹を着てはならぬ、化粧をしてはならぬ、という制約もついて回る。
髪形も段階制だ。弟子のうち、十二歳ごろまでは桃割れか銀杏返し、髪飾りは木の櫛、髪を結わえるのは麻糸。三味線と唄が形になる十五、十六歳で「びんとり髷」や銀杏返し。独立して弟子を取るようになると丸髷か島田髷を結い、お歯黒を染めた。丸髷は本来既婚者の印だから、瞽女はしばしば人妻と間違えられたという。
生涯結婚しない者が既婚者の髪を結う。この一点だけでも、瞽女という身分の奇妙な位置がにじみ出ている。
杖にも規格がある。長さは五尺二寸、およそ百五十八センチ。材はズミかカシ。ズミ製は細くても折れない上物だが、弟子はカシ、唄えるようになって初めてズミが許される。入りたての頃は竹製を使うこともあったが、青竹は忌み嫌われて禁止。石突きのような金具を付けることも禁じられた。新調するときは妙音講で弁天様に供えてから使う。そうすれば怪我をしない、山中で蛇に襲われない、疫病の流行る村を知らずに通っても発病しない、と信じられた。
三味線は三つ折りの中棹。胴皮は外回りの多い年には年二回張り替える。犬皮が一般的だが紙張りもあり、その場合は湿気止めに焼いた唐辛子を入れた。独立すれば鼈甲や象牙の撥を使えるが、冬の群馬旅では鼈甲は凍るので使わない。一番太い「一の糸」が切れると「それだけ稼いだ証」として弁天様に御神酒を供え、それを飲んで祝った。祝う余裕がないときは、その村の子どもたちに菓子を配って祝意に代えたという。
集団の内部には符牒もあった。長岡の四郎丸組では金を「コネ」、米を「サメ」、飯を「モク」、冷や飯を「ヒヤモク」、赤飯を「ワラカモク」、酒を「ザラ」、食べるを「ホル」、泊まるを「マツル」と言った。いい家は「サイサライホヤ」、悪い家は「ヒライホヤ」。「腹が減った」は「ラッパスウジタ」。加茂市の樋口フミ組では金は「タロ」、米は「シャリ」、水は「ズルミ」。越路町の岩田組には「トンボハネガミジカイ(弁当が少ない)」「オタミサンルスダ(畳がない)」といった秀逸な符牒がある。高田は高田で独自で、金は「ネコ」、村は「ラム」、町は「チイマ」、米は「サベリ」。
宿の主人の目の前で今夜の待遇を評価し合うための言葉だ。可笑しくて、そして少し切ない。
掟その二――男を近づけてはならない
瞽女組織が最も神経を尖らせたのが男女関係だった。座頭の妻になること、男性と性的関係を持つこと、結婚すること。発覚すれば問答無用で追放である。運営が行き詰まって他の規則が緩んだ末期でも、この一点だけは最後まで厳しいままだったという。
弟子身分の瞽女は単独で酒席に出られない。許可が出た場合でも男に酌をしてはならず、返盃を受けてもならず、帰ったら宴席の様子を親方に逐一報告する義務があった。
なぜここまで厳しかったのか。理由は複数ある。
第一に、経済のロジック。もし瞽女が恋人を持ったり結婚したりすれば、外部から生活の支えを得ることになる。そうなれば村人からの喜捨を受け取る根拠が薄れる。瞽女という職能は「自活できない者への施し」ではなく「自活のための商売」であり、同時に「施しを受けてよい正当性」の上に成り立っていた。その正当性が崩れる。
第二に、集団の看板を守るため。旅回りの女芸人は、放っておけば売春組織と見なされる。
実際、加賀・越中の高岡瞽女は、時代が下ると弦や唄で生計を立てる盲目の女がいなくなり、「手引女」と称する遊女を抱えるようになって、横川原町はまるごと花柳町として栄え、幕末には「瞽女町」という蔑称で呼ばれるようになった。瞽女の看板が売春の隠れ蓑になった実例が、すぐ隣の国にあったのだ。
越後の瞽女組織にとってこれは他人事ではない。組の信用が落ちれば宿を貸してもらえなくなる。宿を貸してもらえなければ旅ができない。旅ができなければ飯が食えない。だから禁令は生存の条件だった。
第三に、宗教的な理由。研究者の鈴木昭英は、瞽女の年明けの披露が花嫁姿で行われ「瞽女の祝言」と呼ばれたことに注目し、これはおそらくシャーマンの神婚儀礼の名残であり、禁男の掟も「男を近づけぬ神の妻」という思想から出発していると推測している。盲目は霊界に通じる大事な要件だった、とも。村人が瞽女に霊力を認めた民間信仰と、この禁令は表裏一体だったわけだ。
もっとも、禁令が厳しいというのは裏を返せば、それが日常的に起きていたということでもある。実際、献金(あやまり金)を払えば男性関係を続けられる組もあったし、末期には年落としや献金で処理して修業を続けた瞽女も出てきた。結婚後にこっそり商売を続ける者は「バズレ」と呼ばれて蔑まれた。人間はそう簡単に管理できない。
掟その三――稼ぎの分け方、縄張り、旅の編成
金の分配は、驚くほど平等だった。
原則は師匠と弟子の均等割り。唄をまだ覚えていない六、七歳の弟子でも、旅に同行すれば同じ額の分け前をもらえた。五十二歳以上の家持ち師匠は、近距離の旅に参加しなくても分配を受け取れる。ただし越後の瞽女が信州まで出るような長距離になると、不参加者への分配はない。だから稼ぎの細った高齢の瞽女が、弟子のいない他家に養子に入るということも起きた。実際には芸の習熟度や稽古代の多寡で細かく差がつき、旅に出ない師匠が弟子にノルマを課すこともあったという。
内弟子には二通りあった。師匠が生活費を全額負担する場合、弟子には小遣い程度しか渡らない代わりに、独立後に稼ぎの上納をしなくていい。逆に扶持米や稽古代を弟子側が負担する場合、修業中でも一人前として組の分配を平等に受けられ、一割を師匠に納めれば残りは自分のものになる。ただし独立後も生涯、稼ぎの一割を師匠に納め続けなければならない。何十年もかけて回収するローンのような制度だ。
縄張りも厳格に決まっていた。組ごと、師匠ごとに、先祖代々開拓してきた稼ぎ場がある。泊まる宿も、何代も前の師匠の代から数十年の縁故がある家が多い。師匠は老いると自分の縄張りを弟子に譲る。無形の営業権の相続である。
県内では、上越の瞽女は上越地方を、中越・下越の瞽女は中越・下越を回り、互いに相手の領域には入らない。米山山系が交流を遮断していたためだ。ただし東頸城の松代・松之山方面だけは上越と中越の瞽女の共同の稼ぎ場だった。
県外に出れば長岡瞽女の行動範囲が圧倒的に広く、甲信の一部から関東一円、東北は福島・山形・秋田・宮城まで及ぶ。刈羽瞽女は北関東から福島・山形・宮城へ、新飯田瞽女は山形へ、高田瞽女は信州と上州へ、糸魚川瞽女は信州へ。近代にこれだけ足を伸ばした瞽女集団は他県に例がない。
とりわけ歓迎されたのが群馬・埼玉・栃木の北関東農村部だ。ここは夏冬二度の旅ができて実入りがいい。語り物を好む土地柄であることに加え、養蚕が盛んで、瞽女の唄が繭の増産をもたらすという信仰が深かったからである。
旅の編成にもルールがあった。長岡組では正月から妙音講までは各組の自由な巡業が許され、総会で各組の代表が協議して巡業先と編成(クミタテ)を決める。編成は組内の全員が稼げるようにランダムに行われ、結果を拒むことは許されない。高田組では家持ちの師匠と弟子だけで内々に組むことが禁じられ、必ず違う組同士が組む決まりだった。だから高田の行動圏は限定的になる。刈羽組では瞽女頭に断りなく他国へ巡業したり、設定された帰国期限を一日でも過ぎたりすると、修業年数の据え置きや国外追放のペナルティが課された。
寄合の運営も細かい。長岡組は規約で四月に妙音講と併せて通常総会、八月と十一月に臨時総会。十月二十日から二、三日かけて親方衆の定例会「身上分け(シンショウワケ)」が開かれ、会計、妙音講と巡業の日程調整、そして登録された瞽女たちへの賞罰の裁定が議題に上った。身上分けは代理出席が認められない。出席する師匠の弟子たちは、その日に巡業先から瞽女屋へ組ごと戻って稼ぎを師匠に渡し、また旅へ出ていったという。
高田組は一月・五月・八月が定例会で、一月と八月は「大寄合い」と呼ばれ座元の家で開かれた。明治の規約改正では、無断欠席に違約金五十銭という条項まで加わっている。
新入りの修行――寒声、口移し、年季二十一年
弟子入りは早いほどいいとされた。初潮を迎えてからでは技能を満足に習得できない、というのが目安だった。健常者は集中力に欠けて上達しないという通念もあった。
年季の長さは組によって違う。高田組と土底組はおよそ十年。刈羽組(一年の礼奉公を含む)、長岡組、三条組は二十一年。新飯田組や阿賀北の瞽女は十八年。一般の職人修業よりはるかに長い。障害があることに加え、覚えるべき音曲の数が桁違いだったからだ。のちに三条組は十年、新発田は十年から十二年と短縮されていく。
稽古の中身がすさまじい。楽譜はない。録音機もない。すべて口移しだ。七五調の文句が延々と続く段物を、親方が一節ずつ区切って唱え、弟子が復唱する。それを一日じゅう繰り返す。道を歩くときも、風呂に入っているときも、経を唱えるように暗唱させられる。
三味線はもっと厄介だ。教えるほうも習うほうも目が見えない。親方は弟子の背後に回り込み、棹を持つ弟子の左手の指に自分の指を添えて糸の押さえ方を示し、右手に撥を持たせて弾き方を教える。冬は火の気のない部屋で窓を開け放って寒稽古をした。かじかんだ手を撥で打たれながら覚えていく。
「寒声」という訓練もあった。冬の最も寒い時期に発声練習をして、瞽女独特の声を作る。喉から血が出るまで痛めつけ、声が出ない状態でなお発声を続けると「ほんとうの声」「長い語りに耐える変わらぬ声」が身につくとされた。厚着をしたり足袋を履いたりすれば体は温かくても声は出ない、という理屈で、真冬に薄着、素足に草鞋で川の土手に立たされる。
段物は一段でおよそ二十五分から三十分。一人前になるには最低五十段は覚えねばならない。祭文松坂だけで五十段。そこに口説き、万歳、民謡、義太夫、長唄、端唄、常磐津、清元、新内、各種の流行り唄、門付け唄が加わる。客に所望されて唄えなければ恥だから、とにかく覚えるしかない。
高田では入門から七年目に「名替え」があり、本格的な芸名――出世名をもらう。このとき親方と三々九度の盃を交わす。年季が明けるのはその三年後、弟子を取れるようになるのはさらに三年後だ。
年季が明けると「年明き振る舞い」が本人の生家で行われる。師匠、姉妹弟子、仲間の瞽女、親類を招いて盛大にもてなし、芸の上達を披露する。本人は島田を結い、振袖を着て、花嫁姿で列席する。これを「瞽女の祝言」と呼んだ。終われば髪を丸髷にし、お歯黒をつけ、上等の着物を着て、親方として独立できる。
長岡では入門時に芸名を与える「名づけ」をした。弁財天に御神酒を捧げて参拝し、御下がりを皆に振る舞う。肴は豆腐汁や油揚げ汁など質素なもの。師匠の家でやるなら米や赤飯一櫃と酒を持参し、弟子の実家でやるなら師匠に金一封を包む。親のない子や貰い子の場合は菓子を買って弁財天に一度供え、御下がりを近所の子どもに分けてやった。
途中でやめることもできた。ただし必ず金がかかる。高田では師匠から離れる際に「テマガネ(養育料)」として米一升とヒマ金二十銭を納める決まりだった。米一升が三、四銭の時代の話だ。明治十七年には一円プラス営業用具の没収、明治二十四年には二十円以上プラス除名処分にまで跳ね上がっている。長岡では「退会願差入約定証」を受け取ることが規約で定められ、師匠への恩金、三味線の納付、会に損害を与えた場合の弁済金、三味線を今後使わないという誓約が求められた。新飯田では師匠に三味線と縁切り金を差し出す。
「縁切り金」は瞽女をやめるときに必ず請求された。これがどれほど重い言葉だったかは、後で小林ハルの話で分かる。
手引きの少女――列の先頭を歩く目
瞽女の組には必ず「手引き」がいた。目が見えるか、あるいは弱視の者が先頭を歩いて道案内をする役だ。
高田の杉本家では難波コトミがこの役を務めた。昭和四年(一九二九年)十二月、十六歳で杉本家に迎えられている。弱視だった。親方の杉本キクイと養女の杉本シズは全盲で、コトミが先頭に立ち、その背に手を当ててキクイとシズが続いた。伊東喜雄の記録映画『瞽女さんの唄が聞こえる』には、この三人がきちんと家を掃除し、炊事をし、食卓を囲む様子が映っている。ご飯粒は一粒も残さなかったという。
長岡瞽女に同行した写真家の橋本照嵩は、手引きの関谷ハナについてこう語っている。人柄が良く、文字も読めなければ自分の年も分からない人。門付けのときは彼女が玄関を開けて「ごめんなんしょ」と明るく声をかける。夏の農繁期は家に人がいなくて空振りが続いたが、橋本が裏へ回って畑仕事の人に「瞽女さんが来ているから」と声をかけると百発百中で玄関まで出てきてくれた。
手引きは組の生命線でありながら、微妙な立場でもあった。長岡では明治三十一年の中越瞽女矯風会への再編以降、原則として盲目の者しか入門を認めない規約に変わっている。しかし実際には、盲目の瞽女を介助する晴眼の瞽女がいなければ旅は成り立たず、その数は多かった。
高田では晴眼者の入門が認められていたが、多くは修業中に嫁に行ったり、芸者や娼妓や女中に転職したりしてしまう。だから盲目の弟子より三年ほど入門祝いを遅らせる傾向があったという。晴眼者は逃げる。それが前提だった。
旅の一年――三百日を歩き、四千キロを踏む
高田瞽女は一年に三百日を旅に費やしたと言われる。
季節ごとに訪ねる村が決まっていた。三月に行く旅は「彼岸瞽女」。高田に近い新井近郊は冬に回るので「雪降り瞽女」。信州の旅は必ず夏。涼を求める意味もあった。毎年おなじ季節におなじ村を訪ねる。そうすることで馴染みの家が生まれ、売上に直結する。
斎藤真一の記録によれば、杉本キクイが記憶していた一年の旅程は、雪のまだ深い二月に始まって十二月二十七日まで続き、五百余か所の村、三百余軒の瞽女宿をめぐり、年間の歩行距離は四千キロに及んだという。
長岡瞽女は毎年三月十日ごろに初旅を出て、十二月末に根雪が来るまで毎月のように旅に出た。アスファルトの道を避け、あぜ道を通り、小さな山を越えて村へ入る。歩き慣れた土地には昼に休ませてもらう「昼宿」と、泊まる「瞽女宿」があった。村の入口の商店で門付けでもらった米を売り、瞽女宿への礼に渡す麦粉を買う。
村に着くと、まず瞽女宿に荷を下ろす。空身になって三味線一挺と米を入れる袋だけを持ち、一軒ずつ門口に立って短い門付け唄を唄う。これは喜捨を乞う行為であると同時に、今夜あの宿で唄いますよという宣伝でもあった。門付けを長岡では「さわぐ」と言った。家から人が出てきて茶碗一杯の米か、二十円三十円の銭を差し出す。このとき互いの息災を確認する。「今年も来なさったか」「おかげさんで」。
門付けが済むと瞽女宿に戻ってひと休み。夕方に風呂をもらう。その家の当主が入った後の二番風呂だ。夕食は床の間のある部屋で、それも上座でいただく。
ここが面白いところで、村に来る旅人は瞽女だけではない。富山の薬売りも来る。越後獅子も来る。しかし風呂と上座での食事を許されるのは瞽女だけだった。地方によっては瞽女を賤しい者として扱う土地もあったのに、なぜ高田の瞽女だけが下にも置かない扱いを受けたのか、その理由ははっきりしていない。
瞽女宿とは村にとって何だったのか
瞽女宿になるのは、庄屋や地主といった村の旧家である。瞽女を泊めることはその家の格を示す行為で、宿の主人はそれを誇りとした。
夜になると村人が集まってくる。晴れ着に着替えた瞽女が三味線を構え、若い瞽女が前座の唄をやり、年長の瞽女が長編の祭文松坂か口説きの一段を語る。ここで客の涙を誘う。その後は雑唄を並べて笑わせる。村人は酒を飲みながら聴き、盆に載せたおひねりを渡す。夜更けまで賑わって、満足した客が帰っていく。翌朝、瞽女は宿の主人の好きな唄を「たち唄」として一曲置き、弁当をもらってまた次の村へ発つ。
娯楽が皆無に近い農村で、これがどれほどの事件だったか。門付けの三味線の音を聞きつけた子どもたちは、祭りが来たかのように走り回って触れて歩いた。年に一、二度の瞽女の来訪は季節そのものの合図だった。
そして瞽女は単なる芸人ではなかった。村人は彼女たちに霊力を認めていた。
安産信仰では、妊婦が瞽女の使い古した三味線の糸を煎じて飲み、あるいは腰に結んで守りとした。子育て信仰では、瞽女が使った三味線袋を子どもの着物に仕立て直して着せた。治病信仰では、長患いや風邪に瞽女の唄がよいとされ、瞽女がもらい集めた米を煮て食べ、瞽女の着物をもらって着た。内臓の病には三味線の糸を薬として飲み、手足の痛いところは糸で縛る。杖の先で足や腰、腹の痛むところを突いたり撫でたりしてもらう。
商売の増産にまつわる信仰では、養蚕が突出していた。冬旅で関東へ行くと、養蚕農家が蚕の種紙を差し出して「これに唄ってくれ」と頼む。瞽女はめでたい「お棚口説」を唄う。夏の養蚕期に訪ねると蚕室へ通されて蚕棚の下で唄わされる。蚕は三味線の音が好きで、聞くと桑をよく食べ、丈夫に育ち、いい糸を出す、と信じられていた。三味線の糸を蚕棚や蚕籠に縛りつけ、撥を棚に結ぶまじないもあった。
長岡の妙音講に集まった瞽女たちは瞽女小路の露店で白木の箸を買い、弁天様に供え、経と唄をかけてから旅に持って出て養蚕農家に配った。この箸で蚕を扱えば丈夫に育つとされて珍重された。
米どころでは、秋の稲刈りや春の種まきの頃に、種籾を箕や箱に入れて差し出し「これに唄ってくれ」という農民がいた。瞽女は「宝臼」というめでたい一言文句の唄を唄った。綿の産地では綿の種に、関東の麦産地では麦の種に唄ってくれと言われた。
門付けで集めた米は「瞽女の百人米」と呼ばれ、多数の人から集まった米には霊力が宿るとされて高く売れた。瞽女宿がそれを買い取り、村人がまた買い戻す。食べれば健康になる、子どもの頭がよくなる。
要するに瞽女は、芸人であると同時に、村に春を運ぶ聖なる来訪者だったのだ。三味線の音、唄声、糸、撥、袋、着物、履物、杖、集めた米、守り本尊。そのすべてに呪力が認められていた。そういう土地では、瞽女を賤しむ意識は極めて希薄だった。
瞽女唄という商売道具――葛の葉、山椒太夫、口説き
瞽女の芸の中核は「祭文松坂(段物)」と「口説き」の二つだ。
祭文松坂は長編の物語を段に区切って語る。七五調の十二音を一コトとし、五コトで一小節。三味線の間奏が入る。およそ百コトで一段。調子は三下がり。単調な節の繰り返しなのに、聴いているうちに物語に引き込まれていく。中世の説経節を受け継いだものと考えられていて、五説経に数えられる「葛の葉」「小栗判官」「山椒太夫」「俊徳丸」「石童丸」といった説経系の演目と、「平井権八」「佐倉宗五郎」のような祭文系の演目がある。
口説きは七七調で、二句ごとに三味線が入る。調子は二上がりで、音に勢いが出る。心中物、情事物、滑稽物、風刺物、宗教物、天災事件物。「鈴木主水口説」「松前口説」「清三口説」「三人心中口説」「お馬口説」。短いものでは「ねずみ口説き」「とっくり口説き」「へそあなくどき」といった笑い物もある。
ねずみ口説きは、同じ家に住んでいるのに猫は頭つきの飯をもらい、自分たちねずみは箒で叩かれる、という嘆きを歌う。へそあなくどきは、生まれてくるのに不可欠だった「へそ」が、目・鼻・耳・口といった他の穴どもの騒ぎに気を揉んで嘆く、という痛烈なユーモアの傑作だ。
なかでも瞽女唄の代表が「葛の葉子別れ」である。
和泉国信太の森の白狐が安倍保名と契って夫婦になり、生まれた子が陰陽師の安倍晴明になったという伝説を脚色したもの。享保十九年(一七三四年)に竹田出雲が浄瑠璃『芦屋道満大内鑑』にまとめ、瞽女唄はこれに基づいている。保名は信太の森で白狐を助けた。狐は恩に感じ、保名の許婚である葛の葉に化けて訪ね、夫婦になって一子をもうける。ところが本物の葛の葉が現れてしまい、狐は「恋しくば訪ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」の歌を残して去っていく。
去る前に、母狐は眠っている我が子にもう一度だけ乳を含ませる。「母は信太へ帰るぞえ」と繰り返すこの一段が、農村の女たちの心をつかんだ。他の段物にある継子いじめのような残酷さとは違って、ただ切ない。
戦時中、瞽女が農村を回ると「葛の葉子別れ」のリクエストが必ずあったという。夫や子を戦争に取られて、悲しいと口に出せなかった女たちが、「左手と右手に夫と子を抱いて寝るよな睦言も、夕べの添い寝はこれ限り」という文句で思いきり泣いた。橋本照嵩は栃尾又温泉の宿で、湯治客のかあちゃんが「瞽女さん、二百円奮発するんだが葛の葉子別れをやってくれぇかのう」と頼み、聴きながら涙を流していた光景を記録している。
瞽女唄は娯楽であると同時に、村の女たちにとっての泣くための装置だった。
「山椒太夫」も外せない。永保元年(一〇八一年)、陸奥の領主・岩城判官正氏が部下の陰謀で筑紫に流される。内儀は姉の安寿姫と弟の厨子王丸、下女の姥たけを連れて夫を探す旅に出る。その途中、越後の直江津で人買いの山岡太夫に騙され、母と下女は佐渡へ、姉弟は丹後の由良の長者・山椒太夫のもとへ売られる。
高田瞽女はこの直江津の湊で二艘の船が漕ぎ出して離れていく場面を「船別れの段」として語り継いだ。下女の姥たけが大蛇となって海に飛び込み、直江津へ帰る山岡太夫を成敗するくだりがすさまじく、ここが窮極の山場になる。
直江津は高田のすぐ隣だ。安寿と厨子王の供養塔もある。つまりこれは高田瞽女にとって完全な「ご当地もの」だった。長岡瞽女のレパートリーにはこの演目がない。同じ越後でも語る話が違う。
「八百屋お七」もよく語られた。天和三年(一六八三年)に放火の罪で火あぶりになった江戸本郷の八百屋の娘の話で、井原西鶴が『好色五人女』で小説化したものが下敷きになっている。「忍びの段」と「火あぶりの段」が山場だ。
ほかに「瞽女万歳」がある。太夫と才蔵が掛け合いで正月を寿ぐ芸で、江戸で流行った三河万歳の系統。「経文」と「柱建て」がよく演じられた。今の漫才の原形である。
小林ハルの持ち唄は七百曲を超えたとも言われる。弟子の萱森直子が数えたところ、記録に残るもので少なくとも百五十近く、自分が稽古したものだけでも百二十ほどあったという。ハルは同じ唄を三通りの節で唄い分けられた。師匠を三度替えたからだ。「新津組の節回し」「長岡瞽女屋の節回し」「地蔵堂の節回し」。そこに杉本シズから受け継いだ「高田の節回し」が加われば四種類になる。
掟を破ったら何が起きたか――年落としと所払い
掟破りが発覚すると、組は寄合を開いて吟味し、仕置きを決める。
最も重い刑罰が「所払い」、つまり追放だ。秘密裏に男と関係を持つなど重大な造反の場合、三味線を没収され、下着と腰巻に縄の帯を巻かれ、青竹の杖を持たされる。青竹は忌み物として本来は使うことを禁じられている杖だ。その姿で、半径十里から二十里――およそ四十キロから八十キロの外へ追放される。同時に仲間の親方衆にも瞽女宿にも連絡が回り、除け者にされる。ひとり瞽女が組の縄張りで巡業しているのが見つかれば、問答無用で三味線と荷物を取り上げられた。
高田では、無断で逃げ出した者に断髪の措置が取られた。江戸時代には片腕切断のような重い処罰が下されたという記録もある。長岡では、弟子の身分で異性交際が発覚すると多額の縁切り金を請求され、青竹を持たせて「伊勢参り」と称して追放した。伊勢参りという名目が付いているのが、いっそう救いがない。
追放に至らない場合は「年落とし」だ。これまで積み上げた修業年数を減らす。罪状によって一年、三年、五年、七年、十年と決まっている。年数を減らされるだけでなく、芸名の変更や謝り金の支払いが加わることもある。
年落としの残酷さは、年功序列の社会でしか成立しない種類のものだ。
もし年落としされた者が誰かの姉弟子だった場合、翌日から自分の妹弟子を目上として扱わなければならない。呼び名も、座る順番も、風呂の順番も、箸を取る順番も、全部ひっくり返る。旅に出ればまた同じ列を歩くのに、立ち位置だけが逆になる。屈辱としてこれ以上のものはなかった。だから修業半ばで縁切り金を払ってやめる者も出た。
処罰の厳しさは組によって違い、鈴木昭英によれば長岡組が最も厳しかった。明治期の長岡組では、巡業中に男と密通したことが発覚すると、妙音講の席でその罪状が全員に披露され、年落としにされる。それも名前を替えて入門初年度まで振り戻された。二十年の修業が一日でゼロになる。しかも旅に同行していた姉妹弟子も連座して何年か削られる。瞽女屋・山本ゴイの名を汚したという理屈だ。当時、三年に一度くらいはこうした処罰があったという。高田組や刈羽組でも年落としはあったが、まるまる初年度に戻すことはなかったらしい。
明治になると所払いのような体罰は法律上禁止され、謝り金と年落としが処罰の基本になった。それでも規約違反者は三味線と付属の道具類を没収された。楽器を取り上げるということは、この職業では文字どおり生計を断つということである。
「はなれ瞽女」――奪われたのは芸ではなく、宿と縁起だった
組を外れた者を「はなれ瞽女」と呼ぶ。「外れ瞽女」「はずれ」「落とし」「瞽女くずれ」とも。
なぜ組を外れることがそこまで致命的なのか。理由は宿である。
瞽女の旅は、何十年もの縁故で結ばれた瞽女宿の網の上に成り立っている。組から追われれば、その網から丸ごと締め出される。泊まるところがない。破れた阿弥陀堂の床、廃寺の縁の下、地蔵堂。そういうところで夜を明かすしかない。しかも門付けの縄張りにも入れない。組の瞽女が回っている村へ勝手に入れば荷物を取り上げられる。
芸だけは体に残っている。だから唄って歩くことはできる。だがその唄は、組の後ろ盾を失った瞬間に、まったく別の意味を帯びる。「由緒ある職能者の来訪」ではなく「素性の知れない女が一人で流れてきた」になる。
江戸期以来、旅する女、芸をする女、目の見えない者に対する差別は幾重にも重なっていた。組に属しているという事実こそが、それらの疑いを一枚ずつ剥がしてくれる資格証だったのだ。それを失えば、無防備なまま道に立つことになる。
すべての者が転落したわけではない。長岡組から外れた四郎丸組のように、外れた師匠がその後多くの弟子瞽女を取り、目の見える子まで受け入れて芸者の踊りを習わせ、唄に踊りを交えて興行した特殊なグループもあった。外れた先で独自の商売を立てた例だ。
また、掟を破っても親方全員に詫びを入れて許しを請う道はあった。高田では規約違反者が組に留まる場合、十七軒の家を師匠同伴で回って謝罪する決まりだった。十七軒。一軒ずつ頭を下げていく。それでも組に残るほうがましだと考えるだけの理由があったということだ。
だが多くは、鈴木昭英や研究者たちが記すとおり、「おおかたははなれ瞽女となって、ひとりで生きていくより仕方がありませんでした」というところに落ち着いた。芸達者で美しい者が流れていった先で「津軽じょんから節」が生まれた、といった伝説めいた話も残っているが、その多くは検証しようがない。
はなれ瞽女という言葉を全国区にしたのは水上勉の小説『はなれ瞽女おりん』(一九七五年)と、それを篠田正浩が映画化した一九七七年の作品だ。
おりんは若狭の貧しい村に生まれ、三歳で全盲となり、六歳で越後の高田組に引き取られて芸を仕込まれる。ある村の祭りの夜、若い衆に手込めにされたことで座の掟破りとされ、追い出されてはなれ瞽女になる。時は大正中期、シベリア出兵と米騒動の余燼がくすぶる頃。おりんは阿弥陀堂で脱走兵の平太郎と出会い、二人の旅が始まる。
この作品には印象的な台詞がある。瞽女屋敷の親方が言うのだ。瞽女は耳も目も鼻も阿弥陀様にお預けしている。毎朝毎日お経をあげてその作法の道を踏み外さないようにお願いしている。踏み外せば地獄、恐ろしい地獄に堕ちる、と。掟が宗教的な恐怖として内面化されている様子が、よく出ている。
ただし念を押しておくと、これはフィクションだ。おりんは実在しない。水上勉の描いたはなれ瞽女には、彼自身の文学的関心――性と漂泊と救済――が濃く投影されている。実際の瞽女たちの暮らしは、この物語よりずっと即物的で、ずっと組織的だった。ここを混同すると、瞽女という職業そのものを「悲劇の女」の物語に回収してしまう。それは彼女たちが積み上げたものへの敬意を欠く。
証言その一――小林ハル、一〇五年の生涯
はなれ瞽女にはならなかったが、掟の世界を最も長く生き抜いた人がいる。
小林ハル。明治三十三年(一九〇〇年)一月二十四日、新潟県南蒲原郡井栗村(現在の三条市)の農家に生まれ、生後百日ほどで白内障により失明した。二〇〇五年四月二十五日に一〇五歳で亡くなるまで、二十世紀をまるごと生きた人である。
生まれてからの扱いが壮絶だ。
家族は盲目の子が生まれたことを村人に知られるのを恐れ、ハルを屋敷の一番奥の寝間に置いた。「呼ばれなかったら声を出すのではないぞ」と言い聞かせ、食事はすべて寝間で食べさせ、手洗いが近くなるからという理由で水分まで制限した。「お前は人の世話になっているのだから、満足なご飯なんて食べさせていられない。だが、そのために病になってしまったら、近所の手前が悪い」。そう言われて育った。
盲目と分かってから、家族は彼女を名前で呼ばなくなった。大叔母は「盲っ子」「トチ」と呼んだ。十六歳上の兄はよく暴力をふるったが、家族は兄を咎めなかった。「お前がいるせいで、兄は年頃なのに嫁のなり手が見つからない」。誕生日も祝われなかった。「お前には誕生日はないんだ」。老人ホームに入るまで、ハルは自分の正確な誕生日を知らずにいた。春に生まれたらしい、と名前から推測していただけだ。
五歳で樋口フジに弟子入りする。稽古が始まったのは明治四十年(一九〇七年)の夏。最初の課題は「岡崎女郎衆はいい女」を三味線を弾きながら唄うこと。ハルは四、五歳児に見えないほど小柄で大人用の三味線が持てず、子ども用のものを膝に置いた枕に載せてようやく弾いた。すぐに左手の人差し指、中指、薬指の皮が破れて血が出た。
痛みに耐えかねて母に泣きつくと、母はこう言った。「指が痛くて三味線を習うのができぬようでは、唄だってうたうことはできない。そんな指の痛さを我慢できないような奴は、川に投げてくる」。実際に信濃川へ連れて行こうとしたり、食事を与えなかったりした。ハルは「痛くても、痛くないふり」をして稽古を続けた。
寒声の稽古は真冬に信濃川の土手で、朝と晩。薄着に素足に草鞋。足の指が腫れ上がるほどのしもやけができた。母と死別した年を除いて十四年間、毎年一か月続けた。「本当にいやだった」と後年語っている。
明治四十一年(一九〇八年)十一月、初めての巡業に出る。大叔父は「縁切り金をとられるようなことがあったら、お前は家の恥さらしだ。帰ってきても家には入れないからそう思え」と言い渡した。
出発の前夜、母がこう言い聞かせた。「ハル、いいか、旅に出ることは、瞽女としての仕事に出ることだぞ、これから師匠を『お母さん』と呼んで一生懸命務めるのだ、手が冷たくていやだとか、どんなことがあっても家に帰りたいなんて、言ってはならんぞ。そんなことを言ったりしたら『縁切り金』をとられてしまうのだ。つらいときはじっと我慢して、神さま仏さまのお力を待つのだ」。
師匠の樋口フジは、ハルに徹底して辛く当たった。
小柄なハルがフジの分と合わせて二人分の荷を担ぐ姿に誰かが同情すると「重そうに担ぐからだ。おらのせいだと思わせたいのか」と怒る。ハルの唄が褒められると「そんなに褒められたいのなら、あの家の子になれ」と嫌味を言う。食事の際、フジや姉弟子がおかずを食べても、ハルには飯と味噌汁と漬物しか許されない。谷にかかった一本橋を渡るときには「落ちて死んでもいいぞ、死ねば、家の者が喜んで迎えに来るだろう」と言い放つ。祝儀を多くもらえば「これはどこからか盗んできたろう」と難癖をつけて杖で打ち据えた。八十里越という難所を越えて会津へ向かったときには、自分と姉弟子の荷物は人に運ばせ、ハルにだけ荷を担がせて「おまえはろくに唄もうたえないし、目だって見えない。そういう者は馬のかわりだ」と罵った。
決定的な事件が明治四十四年(一九一一年)の夏に起きる。
会津地方を巡業中、ハルは泊まった農家でフジが教えていない唄を唄った。フジはそれが気に入らず、翌日、次の村へ向かう途中でハルを山中に置き去りにした。十歳か十一歳の全盲の少女が、山の中で一晩を過ごすことになった。一睡もできず、大叔父から教わった真言をずっと唱え続けたという。翌朝、山に入ってきた村人に見つけられ、理由も分からないままフジのところへ連れて行かれた。村人とフジの会話からようやく理由を悟り、土下座して謝り、教わっていない唄は二度と唄わないと誓ってやっと許された。
ハルは後年、この件をこう振り返っている。自分がいい気になって唄ったのがいけなかったのだろう、と言う一方で、「まだ旅の仕事をするようになって二年ぐらいしか経っていない十か十一の小娘だもの、ものの道理がわかるはずがないのに、何の理由も告げずに山の中に置き去りにするのは、あまりにもひどすぎるお仕置だ」とも言った。そして「自分が弟子を持つようになったときには、弟子には優しくしてやろう」と思うようになった。この一件以来、彼女は山に入ると置き去りにされるのではないかと怯えるようになったという。
十五歳のとき、ようやくフジのもとを離れる。占い師に見てもらった結果が「そこでは因縁がないし、そこに置いても苦労するばっかりだから引きとった方がいい」で、たまたま姉弟子の一人が瞽女をやめることになった計らいもあって、フジのほうから暇を出す形にして縁切り金を払わずに済んだ。
このときハルの脛にはフジに杖で打たれた傷が残っており、調べてみると骨に無数のひびが入っていた。「あんな怪我なんかしないで、一度でも、望みの叶う体だったら、私の人生はどんなに幸せだったかもしれない。だけどそんなことは、これまで、誰にも、一言だって言わなかった。言ってみたところでどうにもならないのだから」。
その後、長岡系のハツジサワに年季二十一年で弟子入りする。長岡の瞽女組織を取り仕切る山本ゴイから直接許可を得ての移籍だった。山本ゴイの前で唄を披露したハルは腕前を褒められ、一人前の瞽女だけが着られる赤い半衿の襦袢を与えられている。瞽女名は「チヨノ」。
フジは「家にいるからという約束で帰したんだ。他に出るなら縁切り金をもらいたい」と言い出したが、交渉の末、十二歳の春に買った紙張りの三味線を張り替えて渡すことで話がついた。サワはフジと違ってハルを尊重した。ハルによれば、サワのもとで自由に飲み食いできるようになってから、それまでが嘘のように声が出て上手く唄えるようになったという。
戦後の暮らしも平坦ではなかった。ある按摩師の男に七年にわたって搾取された時期がある。男が連れてきたキミという晴眼の少女に懐かれ、その子を弟子にする条件として過酷な取引をのまされた。三味線の皮が破れても直せないほど困窮した。周囲には按摩師の妾だという噂まで立った。手引きを務めたことのある山田シズ子は「ほんになんでも、人が西むけと言えば西、東むけと言えば東」と歯がゆく思ったという。ハル自身は「私さえ苦しんでいればキミも働いていられると思って勤めてきた」と言った。
そのキミを後に養女にし、婿を取らせるが、生まれた孫の一人から食事中に「父ちゃん自分の茶碗に肉入れておばあちゃんはつゆばっかり」「目がみえなくて火もいじれない人は、働けるだけ働かして、養老院に入れればいい……って父ちゃんたちが言ってたよ」と告げられる。ハルは孫から父親を奪うのは可哀想だと考え、自分が家を出ることを決めた。
昭和四十八年(一九七三年)に瞽女を廃業して施設に入る。芸は捨てたつもりだった。ところが温泉旅館で國學院大學の民俗学者に唄を披露したことがきっかけで、専門家や文化人の注目を集めていく。昭和五十三年(一九七八年)三月二十五日、記録作成等の措置を講ずべき無形文化財「瞽女唄」の保持者に認定される。いわゆる人間国宝である。
このときの本人のコメントがふるっている。「おらは声が出ねえで、唄も下手。生き残っているからもらっただけ。文化財づらあろば」。翌年、黄綬褒章。
下重暁子によれば、この時期のハルは複雑な怒りを抱えていた。かつて「瞽女さ」「ゴゼンボ」と呼ばれて宿もなかった日々があり、辛い目に遭わされたのに、無形文化財になった途端に「ハルさん、ハルさん」と寄ってくる人々への怒りである。
そのハルが、生涯くり返した言葉がある。「いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行」。
身に降りかかるいかなる出来事も、この一言で受け止めた。旅の芸人らしい、あまりにも旅の芸人らしい人生観だ。同時に、これは列を組んで歩く職業でなければ出てこない言葉でもある。誰と組むかは自分で選べない。長岡組の巡業編成はランダムで、拒否できない。前を歩く背中がいい人か悪い人かは、旅に出るまで分からない。そういう仕事の中から出てきた言葉なのだ。
ハルはまた、こうも言っている。「私が今、明るい目をもらってこれなかったのは前の世で悪いことをしてきたからなんだ。だから今、どんなに苦しい勤めをしても、次の世では虫になってもいい。明るい目さえもらってこれればそれでいいから、そう思ってつとめ通してきた」。桐生清次が編んだ口伝の書名『次の世は虫になっても』は、この言葉から取られている。
弟子の萱森直子によれば、ハルは樋口フジの話になるときまってこう口にしたという。「おれは人から悪いことされたことは絶対忘れない。死ぬまで忘れられねんだ。死んだたって忘れねぇ。だからおれは人に悪いことしないんだ」。
許してはいない。忘れてもいない。それでも自分は同じことをしない。恨みを美談に変換しない、この率直さがすさまじい。
証言その二――杉本キクイ、高田最後の親方
もう一人の柱が杉本キクイだ。明治三十一年(一八九八年)三月五日、中頸城郡諏訪村大字東中島(現在の上越市東中島)の生まれ。六歳のとき麻疹がもとで失明した。
このとき母が幼いキクイに尋ねている。「按摩になるか、瞽女になるか」。キクイは「三味線弾いて唄をうたう瞽女さんの方がいい」と答えた。
福祉という概念がない時代、目の見えない女が生きる道はほぼこの二択だった。子どもがその二択を自分で選ばされる。答えた本人は六歳である。
七歳で高田市本誓寺町の杉本マセに弟子入りする。父の背に負ぶさって高田まで来て、赤い鼻緒の足駄を買ってもらった。迎える杉本家では、マセがキクイの好物のみかんと飴玉を用意して待っていた。その日から父が一晩、母が二晩泊まった。帰り際、「一緒に行く」と言うキクイに、母は「十寝たら迎えに来るから」と言った。十日もたたないうちに母は心配して訪ねてきたが、また「十寝れば」と繰り返して帰った。三月に家に入り、四月にはもう初旅に出ている。
マセは深い愛情でキクイを育てたが、芸の修業は厳しかった。キクイは高田瞽女のなかでも一、二を争う立派な瞽女になる。大正八年(一九一九年)三月十三日、姉弟子で二代目親方の杉本カツが巡業先である中頸城郡矢代村岡沢の瞽女宿で急死した。マセも旅に出られなくなり、昭和七年(一九三二年)二月二十一日に亡くなる。同年三月十七日、キクイが杉本家の家督を継いだ。
戦争と戦後の農地改革で瞽女宿を提供していた地主階級が没落し、ラジオとテレビが村に入り、高田瞽女は杉本家一軒だけになった。それでもキクイは、養女のシズ、手引きのコトミと三人で旅を続けた。三人が最後の旅に出たのは昭和三十九年(一九六四年)十月の秋旅。東京オリンピックで日本中が沸いたその年だ。行き先は東中島、キクイ自身の生まれた村だった。
昭和四十五年(一九七〇年)、文化庁が瞽女唄と杉本キクイを記録保存すべき無形文化財の保持者に選択する。昭和四十八年(一九七三年)、黄綬褒章。昭和五十八年(一九八三年)三月三十日、脳梗塞で死去。八十五歳。
その最期の言葉が伝わっている。「唄の文句を忘れてしまった。生きていても仕方がない」。
七歳から八十五歳まで、頭のなかだけに数万行の文句を保管し続けた人の言葉である。目が見えないから書き留められない。書き留められないから忘れることが死に等しい。芸が体から抜けていく感覚を、この一言ほど鋭く言い当てたものはない。
証言その三――写真家が同行した長岡瞽女の一年
もう少し「普通の瞽女」の声を聴きたい。写真家の橋本照嵩が残した記録がいい。
橋本は一九七〇年、新聞で杉本キクイが無形文化財に選ばれたことを知り、瞽女を撮ろうと思い立った。『アサヒグラフ』に掛け合うとすぐ許可が下りた。高田の杉本キクイを訪ねると、養女のシズが風邪で寝込んでいるから家には上げられないと言われる。もう旅には出ていないとも。ただし取材のなかでキクイは、門付けをしながらまだ村を回っている長岡瞽女がいることを教えてくれた。
橋本は一九七二年三月から一九七三年五月まで、長岡瞽女の岩田組に属する金子セキ、中静ミサオ、手引きの関谷ハナと一緒に歩いた。
最初はまったく相手にされない。四月の旅の終わりに「一年間撮りたいから来月の初めはどこにいますか」と聞くと、中静から「写真のう、撮ってもろうても、おらたち目が見えねすけえ、おら知らねえのう」と返され、金子には「もう来んでもいいんだんが」と突き放された。
風向きが変わったのは八月の終わりだ。夏の農繁期、家に人がおらず門付けが空振りを続けていたとき、橋本が裏へ回ってみると畑仕事をしていた。「瞽女さんが来ているから、銭こか米こをもらわれねえかの」と声をかけると「おう、瞽女さんが来ているのか」と玄関まで出てくる。百発百中だった。九月に瞽女宿へ行くと、金子が「この人、おらの男手引きだからよろしくお願いします」と紹介してくれた。ここから受け入れられた。
以後は瞽女宿にも泊めてもらえるようになる。金子が「あしたのおにぎりにしてください」と橋本の分の米まで出してくれた。瞽女のもらい風呂の後で橋本も入る。電気がついていないのに驚くと、中静が「目あきは不便だのし」と言って、みんなで大笑いした。宿の人も「写真を撮って写真集にしてもらえるというのは豪儀なこったな」と協力してくれるようになり、寝姿まで撮らせてもらえた。
橋本はこうも聞いている。「テレビが家に入り、娯楽がいっぱいあるのに苦労して歩かなくていいじゃないかとよく言われたけれど、家に居て、ナスができたの、トマトが育ったのと聞いても、何もできなくて面白くない」と金子は話したという。旅をして門付けをすることが、彼女にとっては日常だった。同情されるべき苦役ではなく、仕事だった。
そして北魚沼郡のある瞽女宿では、その家のかあちゃんの母親がかつて瞽女だったそうで、金子と中静が来ると二泊でも三泊でもしてもらいたい、「母のように懐かしい、姉のように思っている」と言って泣いたという。小国町の郵便局長は「子どもの頃に瞽女さんが来ると、三味線を床の間に置くのが自分の役目だった。今もそうしている。おらんところの瞽女さんさ。頼りにしてくれるのがうれしい」と語った。
「おらんところの瞽女さん」。この所有格が、瞽女と村の関係のすべてを言い表している。
証言その四――『雪国』の女按摩は、たぶん元・座敷瞽女だった
門付け瞽女とは別の道を歩いた人もいる。星野ミサは明治二十八年(一八九五年)五月二十日、中魚沼郡中深見村の生まれ。秋山郷の入口にあたる寒村だ。五歳で失明し、十歳で三味線を習い、隣村の師匠から義太夫を習った。
ミサは「自分は門づけ瞽女でなく座敷瞽女であった」と語っている。戸口ごとに「ごめんなんしょう」と言って歩くことはせず、宴会の席に呼ばれて語る盲芸者だった。義太夫を語る瞽女は珍しい。十五歳のとき、師匠が三十年使った三味線を四円五十銭で買い受けた。瞽女の三味線でも義太夫の駒を使えば義太夫に合わせられる。撥は太いものを使う。
十七歳、明治四十四年のこと。島田を結った娘の身で、姉弟子とおば弟子の三人でひと冬、上州へ義太夫語りに出た。姉弟子は目が見えるのに瞽女になった人で、松前などをいい声で歌った。おば弟子は目が見えて手引きに頼んだ人だから芸はうまいとはいえなかった。上州は義太夫がもてると聞いて、親を騙して出かけたのだという。
十一月十七、八日ごろに出発し、翌年四月十七、八日ごろに帰った。上州では一晩に三段ほど語る。一段に一時間かかり、一段で五十銭。義太夫は力を入れるから疲れる。卵を食べさせてもらって語った。そのかわり「太夫さん、太夫さん」ともてはやされた。三味線の皮が傷んで前橋で張り替えた。この冬の稼ぎは二十円で、そのうち四円五十銭を家に持ち帰った。上州行きはそれきり、二度と行かなかった。
ミサは大正三年、二十歳で結婚する。旦那は昭和五年に三十六歳で亡くなった。それから大割野でマッサージを習い、昭和六年の上越線開通と同時に湯沢へ行き、湯元の中屋旅館に住み込みの按摩師となる。まもなく星野松吉と再婚し、昭和十一年に湯元に家を建てた。
その年の秋、彼女は一人の作家の体を揉んでいる。川端康成である。
昭和十一年九月一日から十一月半ばまで、一日おきに高半旅館へ通って揉んだ。玄関の入口で川端に「君、按摩かい」と言われ、「白い杖をついているので、按摩とは思わなかったよ」と続けられた。「僕はこれから町へ行ってくるよ」と言って銀皮の時計を出して見ながら出て行ったという。ミサは当時、川端が小説家だとは知らなかった。
『雪国』には、島村が坂道で女按摩に出会い、揉んでもらいながら駒子の身の上を語らせる場面がある。その女按摩は、九つのときから二十歳まで三味線を習ったが、亭主を持ってから十五年も鳴らしていないと言う。星野ミサの経歴とほぼ重なる。
つまり日本近代文学を代表する作品のなかに、元・座敷瞽女の一人が、名前を伏せられたまま生きている。瞽女という職業がどれほど生活の地層に食い込んでいたか、こういう細部から分かる。
当道座と瞽女――同じ盲人でも制度がまるで違った
ここで制度の話をしないと、掟の厳しさの本当の理由が見えない。
日本には中世から近世にかけて「当道座」という盲人の組織があった。琵琶法師たちが自らの芸道を「当道」と称したのが始まりで、明石覚一が組織化したと伝わる。江戸時代には京都の佛光寺近くに「職屋敷」という本部を構え、惣検校が全体を統括した。一時は江戸にも関東惣検校が置かれ、その本部を「惣禄屋敷」と呼んで関八州を統括した。
座中の官位は上から検校、別当、勾当、座頭の四官。それがさらに十六階七十三刻に細分されている。徳川家康は当道座の式目を承認し、寛永十一年(一六三四年)に当道式目が制定され、元禄五年(一六九二年)には惣検校の杉山和一が改訂して当道新式目を幕府に提出した。幕府は当道座に自治の権限と一定の裁判権まで認めている。
官位を得るには「官金」という多額の金を納める必要があり、初心から検校晴まで昇進するには七百十九両を要したという。金さえ積めば一気に何刻も昇進できた。事実上の売官である。それでも当道座は幕府公認の自治組織であり、平曲、箏曲、三味線、鍼灸、按摩、導引といった職能を独占的に握り、高利貸まで営んだ。
ここで決定的なのは、当道座は男性のみが属することのできる組織だったという点だ。
盲目の女性のためには「瞽女座」があった、と説明されることがある。だがその実態は、当道座のような全国組織ではない。地方ごとの「瞽女仲間」の緩やかな寄せ集めだ。中央の職屋敷もなければ、幕府が認めた裁判権もない。官位もない。もちろん官金の分配もない。
各藩は瞽女に瞽女屋敷を与えて保護することがあった。駿府、越後の高田、長岡がそうだ。だがそれは藩ごとの裁量であって、全国一律の制度ではない。しかも、藩の保護には支配という裏面が常にセットで付いてくる。研究者が指摘するとおり、瞽女に与えられた取り分ははじめからわずかで、そうした特権も後にさまざまな理由で規制されていった。
この非対称は、そのまま掟の厳しさに直結する。
当道座には官金の分配という所得再分配の仕組みがあった。低い官位の者は吉凶に際して施し物を受け、その配当をもらうことが慣行として公に認められていた。つまり幕府公認の相互扶助のセーフティネットがあった。瞽女にはそれがない。だから自分たちで作るしかなかった。稼ぎの均等割り、縄張りの継承、宿の網、そして掟。
そしてもう一つ皮肉な符合がある。長岡の妙音講は、もともと当道座の行事だった。京の公家・西園寺家で音曲の集会として開かれていた妙音講が、地方では室町から江戸幕府が公認した当道座の行事となる。当道座は明治四年(一八七一年)に廃止され、男性の妙音講は廃れた。ところが、権力に公認されたことのなかった瞽女の側では、妙音講が受け継がれた。公認されなかったからこそ、制度が消えても慣習が生き残ったのだ。
一九九六年、瞽女唄ネットワークと葛の葉会が長岡の唯敬寺で妙音講を五十年ぶりに復活させたとき、住職が読み上げたのは復元された「瞽女御条目」だった。原本は長岡空襲で焼けている。研究者の鈴木昭英が資料をもとに復元したものだ。掟は焼けて、写しとなって戻ってきた。
明治から昭和へ――何が瞽女を消したのか
瞽女を滅ぼしたのは一つの原因ではない。順番に効いていった。
まず明治四年の盲官廃止。当道座が解体され、盲人は特権的保護を失った。晴眼者が盲人の伝統的職業に進出し始める。明治七年(一八七四年)の「医制」発布は漢方から西洋医学への転換を進め、盲人の数少ない職業だった按摩・鍼・灸を脅かした。明治期を通じて盲人団体は按摩専業運動を展開し、明治四十四年(一九一一年)の「按摩術営業取締規則」「鍼術灸術営業取締規則」で一定の成果を得るが、これらは晴眼者の参入を禁じるものではなかった。
芸人への取り締まりも強まる。江戸時代からすでに、諸藩の倹約令が農民から芸能の楽しみを引き離し、自由な旅を阻む御法度が巡業を規制していた。明治になるとそれが近代的な形で継続される。
そして数の問題だ。医療と衛生の向上により、麻疹や白内障で失明する子どもが減った。これは端的に善いことである。だが同時に、瞽女という職業の供給源が細ることでもあった。長岡瞽女の例では、戦前は伝染病や栄養不良による後天性の失明が多かったが、戦後の医療向上と公衆衛生の普及で失明は先天性に限られるまで大幅に減った。
決定打が三つ重なる。一つ目は戦争。昭和二十年八月一日の長岡空襲で瞽女屋敷が全焼し、長岡瞽女は本部と巻物を同時に失った。二つ目は農地改革。瞽女宿を提供してきた地主階級が没落し、瞽女を無償で泊めて村人を集める余力を失った。三つ目はラジオとテレビ。娯楽が家の中に入ってきた。年に一度の瞽女の来訪が唯一の娯楽だった時代が終わった。
高田では昭和三十九年(一九六四年)に杉本家の三人が最後の旅を終える。長岡では昭和三十九年に最後の山本ゴイが亡くなり、瞽女支配所としての地位が失われた。それでも岩田組の中静ミサオと金子セキは旅を続け、昭和五十二年(一九七七年)初夏、二人が盲老人ホーム「胎内やすらぎの家」に入所したことで、旅稼業の瞽女は姿を消したとされる。
小林ハルは昭和四十八年(一九七三年)に廃業。旅する瞽女がいた最後の年は、こうして一九七七年ということになる。
消えかけたその時期に、関心が爆発した
奇妙なのは、瞽女が消えかけたまさにその時期に、瞽女への関心が爆発的に高まったことだ。
その道を最初に開いたのは、高田生まれの市川信次である。柳田国男の弟子で、渋沢敬三の支援も受けながら、一九三二年から高田瞽女の記録を生涯の仕事とした。多くの芸術家が瞽女に関心を持つきっかけを作ったのがこの人だ。
一九五三年、日本音楽研究者の町田佳声が柏崎出身の瞽女・伊平タケを録音する。一九五四年には杉本キクイの祭文松坂が録音され、同年に新潟大学で録音された瞽女唄が日本で初めてラジオ放送された。一九五五年に高田を訪れたウィーン国立音楽大学の教授でハープシコード奏者のエータ・ハインリッヒ・シュナイダーは、雅楽の演奏者は現代人だが、古い生活を守っている高田の瞽女からは古典音楽の精神が伝わってくる、と語ったという。
決定的だったのが画家・斎藤真一だ。一九二二年、岡山県味野町(現在の倉敷市)の生まれ。東京美術学校を卒業し、岡山と静岡で中学・高校の教諭をしながら制作を続けた。一九五九年に渡仏し、パリで藤田嗣治と親交を得る。藤田から東北を訪れるよう勧められ、帰国後に津軽で瞽女の存在を知った。
一九六四年十二月、斎藤は高田の杉本キクイを訪ねる。ちょうどキクイが最後の旅を終えた年だ。斎藤は本人の言葉で「打ちのめされてしまった」と書いている。もともと民俗学者でも研究者でもない自分が、一人の人間として、瞽女と瞽女宿の深い人情話をカンバスの上に、記録の上にとどめておきたいという使命感にさいなまれた、と。
翌年から約十年、夏休みと冬休みのほとんどを費やして越後に通った。瞽女と同じ重さの荷を背負い、キクイの驚くべき記憶力から聞き出した一年の旅程をそのまま辿って、瞽女宿を一軒ずつ巡った。その成果が絵日記〈越後瞽女日記〉で、五百枚を超える素描と文章になった。一九七〇年に東京で開かれた「越後瞽女日記展」が評判を呼び、そこから瞽女を主題とする映画や演劇が次々に生まれていく。
写真では橋本照嵩と濱谷浩。映画では伊東喜雄の記録映画『瞽女さんの唄が聞こえる』。伊東は一九四一年生まれで、早稲田大学文学部を六年で中退してTBSラジオでアルバイトをしていた。越後高田にまだ瞽女がいると聞き、録音機材のデンスケと十五分テープ二十本を携えて国鉄に乗ったのが一九六九年の冬、二十八歳のとき。学園紛争の真っ只中だ。「当時は新幹線開通や万博など日本中が豊かさに向けて走っていました。そんなとき、瞽女さんたちは昔ながらの生活をひっそり行っていました」。一九七〇年一月にTBSラジオの「ドキュメント日本」で放送し、続編を含めて計四本を世に出す。映画版は撮影から四十年近くを経てDVD化された。「構想四十年、三十四分の作品です」と、上映会で本人が舞台挨拶をしている。
そして水上勉の『はなれ瞽女おりん』(一九七五年)と、篠田正浩監督による映画化(一九七七年、岩下志麻主演)。この二作が「はなれ瞽女」という言葉を一般語にした。
小林ハルを二十年にわたって描き続けた画家もいる。木下晋だ。一九八二年から胎内やすらぎの家に通い、ハルの顔を描き続けた。木下によれば、ハルの顔は「会うたびみるごとちがう。その都度いろいろな表情をつめこんでいたり、空虚だったり、皺一つ一つ追っていっても言葉になる」。彼はイギリスで買い求めた9Bの黒鉛筆を使った。ハルが経験した「心の闇」は、9Bがなければ描けなかったのだという。
一九九六年には元NHKディレクターの川野楠己が「最高の機械できれいに録音したものをCDにしたい」とハルに依頼し、九十六歳のハルが自ら三味線を弾いて録音に応じた。これが『最後の瞽女・小林ハル・九十六歳の絶唱』になる。ハルの葬儀の遺影には、このとき三味線を抱えて唄う姿を撮った写真が使われた。
いまも続いているもの
瞽女はいない。だが瞽女唄は残っている。
高田系では小竹勇生山、小竹栄子、月岡祐紀子ら。長岡系では竹下玲子、萱森直子ら。ほかに広沢玲子、室橋光枝、小方理恵、横川恵子、金川真美子といった演者が伝承と公演を続けている。
竹下玲子は一九七七年に東京の公演で小林ハルの唄に触れ、衝撃を受けて紆余曲折を経て弟子入りした。一九九一年に竹下の活動を後援し瞽女唄の普及を目的とする「瞽女唄ネットワーク」が設立され、一九九五年に竹下を師とする瞽女唄教室が始まり、これを原点として「越後瞽女唄・葛の葉会」が生まれた。一九九六年、葛の葉会と瞽女唄ネットワークは長岡の唯敬寺で妙音講を五十年ぶりに復活させた。
萱森直子はハルの最後の弟子である。弟子入りしたとき師匠は九十四歳だった。ハルから言われた言葉をいくつも書き留めている。「お前はめぐりにあれこれされないでおれのいうことをきいていろ」。「おれの唄を立派に唄うてくれるのはおまえだけだ。大事に唄うてくれ」。「お前みたいなのを唄バカというんだ。おまえの唄は、さずきもんだの」。「おれがもうちっと若かったらおまえと旅したかったもんだのよかったろうの」。新潟の方言では女も自分を「おれ」と言う。
萱森は高田の唄も習っている。胎内やすらぎの家には、高田瞽女最後の一人である杉本シズも入所していた。シズははじめ「もう教えるのなんていやだ。唄うのはいいけれど、録音なんかしないでね」と渋っていたが、ハルが「おまえはこれだけ歌えるようになったんだからシズのうたも覚えておけ。おまえがやらんでいるとシズの唄はなくなってしまうぞ」「シズには俺が言うてやる」と後押しした。
長岡の瞽女が高田の瞽女に頭を下げて、弟子に高田の唄を継がせた。回を重ねるうちにシズは「そこはもっとこういうふうに」「次はあの唄覚えるといいよいい唄なんだよ」と言うようになり、「あんたの唄きいてるとおかあさんのこと思い出す」と涙ぐんだこともあったという。おかあさんとは、シズの師匠である杉本キクイのことだ。シズは二〇〇〇年七月十八日、八十四歳で亡くなった。「高田の唄、唄ってちょうだいねえ、私はもういかれないから、高田へ行ってちょうだいねえ」というのが、遺した言葉である。
上越市では二〇〇八年にNPO法人「高田瞽女の文化を保存・発信する会」が発足した。事務局長の小川善司らは頸城地方一円から長野県北部にかけての瞽女宿を一軒ずつ訪ね歩き、記録を冊子にまとめた。突然の訪問にもかかわらず、瞽女のことを聞くと高齢の家人はぱっと表情を明るくして懐かしそうに語ってくれたという。
二〇一五年、この会の募金活動が実って「瞽女ミュージアム高田」が開館した。日本で唯一、瞽女の歴史と文化に特化した博物館である。町家を活用した建物で、記録映像、写真、斎藤真一の絵画、道具類、そして式目を展示している。年に二、三回の瞽女唄演奏会、六月中旬の瞽女ゆかりの地を巡るバスツアー、二月上旬の門付け再現。雁木通りを三人の瞽女役が連なって歩く「高田瞽女ふたたび」には、県内外から見学者が集まる。
五月十三日の妙音講も、天林寺で続いている。弁財天がご開帳され、瞽女唄が奉納される。
杉本キクイが暮らした東本町四丁目の町家は、築約百五十年の木造二階建てだった。台所の手押しポンプ、褄折笠や杖を掛ける陶器のフック、目の見えない瞽女が手をついた部分がすり減って退色した階段。二〇二四年四月二十二日から、老朽化のため解体が始まった。向かいに住む親族の男性は「入り口の格子戸に来客用に豆電球が一つ灯っていて、目が見えないけれど何がどこにしまってあるか分かっていた」と語っている。
目の見えない人たちが暮らす家に、来客のためだけに一つだけ灯っていた豆電球。この一点だけで、あの家がどういう場所だったかが分かる気がする。
なぜこの話はこわいのか――加害者不在で完結しているからだ
さて、ここからは総括と、いくつかの追加考察をやりたい。
瞽女の掟がこわいのは、残酷だからではない。残酷な罰なら歴史にいくらでもある。この話がじわじわ効いてくるのは、掟が加害者不在で完結しているからだ。
誰か悪い権力者が女たちを縛りつけたわけではない。当道座のように幕府が式目を承認して裁判権まで与えたわけでもない。むしろ逆で、公認されなかったからこそ、彼女たちは自分で自分に縄をかけた。組の外に安全がないから、組の中の秩序を極限まで硬くするしかなかった。
「男と関係を持ったら追放」という規則を、外から押しつけられたものだと思うと、単なる封建的抑圧の話になる。だがそうではない。あれは、村々の三百軒の瞽女宿から「あの人たちは真面目だ」と思われ続けるための、営業上の生命線だった。宿を貸してもらえなくなった瞬間、目の見えない女が十五キロの荷を背負って冬の峠を越える職業は成立しなくなる。掟は倫理ではなく、インフラだったのだ。
だからこの構造には出口がない。掟を緩めれば宿の信用が落ち、宿の信用が落ちれば全員が飢える。誰か一人が「もういいじゃないか」と言い出すことが、集団全体への攻撃になる。
年落としで初年度に戻された瞽女がいて、その罪状が妙音講の席で全員に読み上げられ、同行していた姉妹弟子まで連座して年を削られる。これは見せしめであると同時に、「あなたの逸脱は仲間全員のコストになる」という契約の確認でもある。
こういう構造は、実は現代のどこにでもある。同調圧力とか自主規制とかいう言葉で呼ばれているものの核心はここだ。外部からの承認が不安定なコミュニティほど、内部の規律が硬くなる。差別されている集団ほど、内部の逸脱者に厳しくなる。瞽女の掟は、その最も純度の高い標本のひとつなのだと思う。
芸能とは技術ではなく、関係のことだ
次に、「はなれ瞽女」という言葉の重さについて。
はなれ瞽女は、芸を奪われたわけではない。三味線は没収されるが、唄そのものは頭のなかにある。買い直せばまた弾ける。奪われたのは、宿と縄張りと縁起だ。つまり「あなたは正当な職能者です」という証明である。
ここが決定的だと思う。瞽女という職業を成り立たせていたのは、技術だけではなかった。嵯峨天皇の姫君に始まるという由来書、勅定によって庄屋に泊まり米銭を受け取ってよいという物語、毎年読み上げられる式目、弁財天の加護、三味線の糸が薬になり撥が蚕を育てるという民間信仰。この一式が揃って初めて、目の見えない女が見知らぬ村の門口に立って、殴られも追われもせず米一杯をもらえた。
はなれ瞽女は、この一式から切り離される。同じ声で同じ唄をうたっているのに、意味だけが変わる。芸能とは技術ではなく関係のことだ、と言い切ってしまいたくなる。
三つ目に、村の側の視点をもう一段掘っておきたい。
瞽女を歓迎した村人の心情には、少なくとも三つの層があった。一つは純粋な娯楽としての需要。年に一、二度しか外部の芸能が来ない村で、三十分の物語を五段十段と語れる語り手はとんでもない資源だった。二つ目は情報としての需要。瞽女はときに地方のニュースまで携えて歩いた。三つ目が信仰だ。三味線の糸を煎じて飲み、蚕棚の下で唄わせる。これは瞽女を人間としてではなく、季節を運んでくる来訪神の一種として扱う態度である。
この三つ目には両義性がある。神として扱われることは、人間として扱われないことと紙一重だ。風呂と上座を許される。薬売りにも越後獅子にも許されない待遇を与えられる。しかし同時に、その待遇は「盲目は霊界に通じるものだ」という前提の上に乗っている。この前提は、裏返せば「盲目は前世の罪の報い」という考え方と同じ根から出ている。
事実、小林ハルは生涯「私が今、明るい目をもらってこれなかったのは前の世で悪いことをしてきたからなんだ」と言い続けた。村人が瞽女を敬った理由と、ハルが自分の失明を前世の罪だと思っていた理由は、同じ思想の表と裏なのだ。ここを見落として「村人は瞽女を大切にしていた、いい話だ」で終わらせると、本当のところを取り逃がす。
組織の設計思想が、そのまま音になっている
四つ目。高田と長岡の組織の違いが、そのまま芸と人生の違いになった点について。
高田の座元制は、親方が家を構え、弟子を養女にして、一生同じ家で暮らす方式だ。血縁のない女たちが、擬制の親子として一つ屋根の下で老いていく。杉本家は三代にわたってこれを続け、最後はキクイ、シズ、コトミの三人で家を守った。伊東喜雄の映画には、三人が箒とはたきで家を掃除する場面が冒頭にある。頭のなかに家の間取りが完璧に入っているから、動きに迷いがない。飯粒は一粒も残さない。この閉じた生活が、抑揚のなだらかな、おしとやかと評される高田の芸風を作った。
長岡の家元制は違う。年季が明ければ独立して生家に戻り、自分の弟子を取る。組頭が死ねば組は解散し、また新しい組が編成される。人が流動する。だから小林ハルのように師匠を三度替えることも起きるし、三つの節回しを併せ持つ演者が生まれる。りんりんとして野性的と評される長岡の芸風は、この流動性の産物だろう。
つまり、組織の設計思想が音になっている。これは面白い。芸能史を研究する意味がここにある。
五つ目に、記録という営みそのものについて。
瞽女唄は完全な口伝だった。楽譜がない。ハルは弟子入り志望者にこう言った。「あんた方は、唄の文句を字に書いておくすけ、瞽女唄を覚えられん。後でそれを読めばいいから雑作もないことだと思っているだろう。だから、なかなか覚えられないんだ。一度聞いたら一度で覚えろ。私どもは、これを字に書かないでおいて文句から節まで一緒に覚えていったもんだ。それは容易なことではなかった。自分でも、寝ても起きてもそのことだけを考えて、余計なことを思わないようにしてきたものだった。あんた方は、目が見えるすけ、なおさら覚えられないんだ」。
書けることが、覚えられないことの原因になっている。これは記憶の技術についての、かなり深い指摘だ。
そして杉本キクイの最期の言葉。「唄の文句を忘れてしまった。生きていても仕方がない」。彼女にとって、自分という存在と、頭のなかの数万行は同じものだった。ハードディスクではなく、本人が記録媒体そのものだった。だから消えかけたとき、自分が消えると感じた。
音楽学者のジェラルド・グローマーは、ハルが唄った「阿波徳島十郎兵衛」と「葛の葉子別れ」について、一九七三年から七四年に収録されたものと一九九六年に収録されたものを聴き比べ、二十年余りを経て「新旧の演奏の間に相違点は意外に少ない」と評価している。九十六歳のハルが弾き語ったものと、七十代の彼女のものが、ほとんど同じだった。これは驚異的なことだ。厳しい修業とは、要するに人間を録音装置にする技術だったのかもしれない。
フィクションとの距離を、きちんと取っておく
六つ目。『はなれ瞽女おりん』は名作だ。岩下志麻の演技も、宮川一夫の撮影も素晴らしい。だがあの作品を通して瞽女を理解しようとすると、二つの誤解が生じる。
一つは、瞽女の物語を性の物語に還元してしまうこと。実際の瞽女の一年は、旅程の管理、宿の維持、縄張りの調整、稼ぎの分配、寄合への出席、そして膨大な演目の記憶で埋まっている。恋愛や性は、その日常のごく一部を占める例外事象であり、だからこそ規則になった。物語は例外を拡大して描く。それは物語の仕事だから責められないが、読者の側が距離を意識する必要はある。
もう一つは、瞽女を一方的な被害者として描いてしまうこと。金子セキは橋本照嵩に「家に居て、ナスができたの、トマトが育ったのと聞いても、何もできなくて面白くない」と言った。彼女にとって旅は苦役ではなく、自分の仕事だった。
グローマーが英語の研究書で強調しているのも同じ点で、瞽女は「障害の無力な犠牲者」ではなく「熟達した職人」として公衆に認識されていた、瞽女の成功は支配層からの保護よりもむしろ庶民、とりわけ農村の下層に直接訴える能力に依っていた、という理解である。瞽女が社会的・経済的な自律を求める気持ちと、農村の人々が文化的な欠乏を埋めたいという願いが、うまく噛み合ったから瞽女は栄えたのだ、と。
これはとても大切な視点だと思う。同情ではなく、需要と供給の話として見る。そのほうがずっと敬意がある。
七つ目、書き手として気をつけていることを一つ書いておく。
瞽女について書くとき、どうしても「盲目」「差別」「悲惨」というキーワードに引っ張られる。だが実際に残されている当事者の言葉を並べていくと、そこに出てくるのはむしろ具体的で即物的な話ばかりだ。指の皮が破れた。脛の骨にひびが入っていた。米一杯か二十円三十円。三味線の一の糸が切れたら御神酒で祝った。冬の群馬では鼈甲の撥が凍る。宿の風呂は二番風呂。飯粒は一粒も残さない。トマトが育ったと聞いても面白くない。
こういう細部の集積が、抽象的な同情よりもずっと強く、その職業の質感を伝える。悲惨だと言わなくても、指の皮が破れて血が出た話を書けば伝わる。誇り高いと言わなくても、上座で飯を食う話を書けば伝わる。当事者の尊厳というのは、たぶん、そういう細部をきちんと書くことのなかにしかない。
掟が残したもの
八つ目。最後に、この掟が残したものについて。
瞽女の組織は消えた。掟も、それを執行する主体がいないのだから、もはや誰も縛らない。だが掟が作ったものは残った。
第一に、芸が残った。あれだけ厳格な年季と年功序列と口伝の反復がなければ、七百曲だの百五十曲だのという記憶量は成立しない。掟が芸を保存したのだ。今日われわれが「葛の葉子別れ」を聴けるのは、十歳の子どもを真冬の川岸に立たせた稽古のおかげでもある。この事実は素直に喜べないが、事実は事実として引き受けるしかない。
第二に、自立の実績が残った。福祉という言葉すらなかった時代に、目の見えない女たちが集団を作り、規則を作り、金を分け、縄張りを守り、三百軒の取引先を維持し、年に四千キロを歩いて自分で稼いだ。誰かに養われたのではない。杉本キクイが六歳で「按摩か瞽女か」と聞かれたとき、彼女が選んだのは職業だった。上越市の資料が瞽女について「共同生活をして自立していました」と書き、大阪の人権啓発団体が「障がいのある女性の自立のかたち」という副題で連載を組むのは、この一点を評価しているからだ。
第三に、村との関係が残った。小国町の郵便局長が言った「おらんところの瞽女さんさ。頼りにしてくれるのがうれしい」という言葉。北魚沼の瞽女宿のかあちゃんが「母のように懐かしい、姉のように思っている」と言って泣いた話。瞽女宿を一軒ずつ訪ね歩いたNPOのメンバーに、高齢の家人がぱっと表情を明るくして語り出したという話。これは施しの記憶ではなく、付き合いの記憶だ。
そして、いま雁木の下では二月になると三人の瞽女役が連なって歩き、五月十三日には天林寺で弁財天がご開帳され、四月には長岡の唯敬寺で焼けた巻物の写しが読み上げられる。掟を読み上げる声だけが、掟が縛る相手を失ったまま、律儀に毎年続いている。
これはこわい話だろうか。それとも、そうでもないのだろうか。
小林ハルの言葉をもう一度置いて、終わりにしたい。いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行。誰と歩くかは選べない。前を歩く背中に指先を当てて、峠を越えていくしかない。掟のなかで生きるというのは、たぶんそういうことだ。そしてわれわれの多くも、名前の違う何かの掟のなかで、誰かの背中に指先を当てて歩いている。
